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『偏差値からの亡命』

高い偏差値。それは、自由へのパスポート。ただし、偽造。


あらすじ

偏差値という絶対的な身分制度が支配する国、日本。 名門・青葉崎学園で、天才的な頭脳を持つ佐伯美月と、経済的に困窮する野々村司は、この息苦しい国家からの**「亡命」を企てた。亡命に必要なのは、特権階級への扉を開く身分証明書(パスポート)**――すなわち、圧倒的に高い偏差値。

正規の手段ではそのパスポートを得られない二人は、禁じられた手段に手を染める。美月の知能を駆使してシステムのアルゴリズムを解析し、カンニングという**不正行為(クライム)によって、完璧な「偽造パスポート(=不正に得た高得点)」**を手に入れたのだ。

すべては完璧なはずだった。だが、偽造パスポートは、国家の監視を逃れられない。

二人の犯行は、学園の若きカウンセラー・桐山が管理する、生徒の異常値を監視する秘密のシステムによって完璧に把握されていた。しかし桐山は、そのパスポートを破り捨てず、こう告げた。「君たちの身分は預かった。これからは、私の指示に従って生きてもらう」。

自由になるために手に入れたはずの偽造パスポートは、彼らをシステムにより深く隷属させるための「首輪」へと変わってしまった。一方で、正義を信じる水島翔平の調査の刃が、知らず知らずのうちに彼らの喉元へと迫る。

監視者(システム)に支配される駒となるか、追跡者(正義)に暴かれる罪人となるか。追い詰められた美月は、全てを欺き、全てを破壊する、最後の禁じ手を選択する。

登場人物紹介

  • 水島 翔平(みずしま しょうい) – “正義”を追う探偵 努力と公正さを信じる秀才。美月たちのカンニングという「不正行為」に気づき、その真相を追い始める。しかし、調査を進めるうちに、個人の罪よりも大きな、学園とシステムそのものが抱える歪みに直面し、自らの「正義」の意味を問われることになる。
  • 佐伯 美月(さえき みつき) – “偽造”の首謀者 天才的な頭脳を持つ、計画の立案者。親や社会から「数字」でしか評価されない人生からの「亡命」を求め、カンニングによって「偽造パスポート」を作り出す。しかし、桐山に支配されたことで、より危険な状況に陥る。極限状況でさらに思考を鋭らせ、システムへの逆襲を企てる。
  • 野々村 司(ののむら つかさ) – “偽造”の実行犯 貧困から抜け出すため、美月の計画に乗り、カンニングを実行する。初めて手にした「高い偏差値」というパスポートに希望を見出すが、それが「首輪」に変わった時、最も精神的に追い詰められていく。プレッシャーから、時に美月の計画を揺るがす行動に出る。
  • 桐山 巧(きりやま たくみ) – “国家”の監視者 穏やかな物腰のスクールカウンセラー。その正体は、生徒をデータとして管理し、学園の利益(=平均偏差値の維持)を至上命題とするシステムの番人。美月の才能にいち早く気づき、彼女の罪を利用して自らの駒として支配しようとする、冷徹なインテリジェンスを持つ本作の 敵対者。

第一章:国家と国民

偏差値。 それは、我々の住む国の憲法であり、唯一神だった。

青葉崎学園の二学期中間試験の結果が張り出される東棟二階の廊下は、判決を待つ被告人でごった返していた。夏の湿気を吸った空気と、声には出されない祈りや呪詛が混ざり合い、ねっとりとした膜となって肌にまとわりつく。誰もが掲示板という名の祭壇に向け、自らの価値が更新されるその瞬間を、固唾を飲んで待っていた。

その人垣から少し離れた場所で、水島翔平は壁に背を預けていた。群衆に混じる必要はなかった。自分の名がどこにあるかは、分かりきっている。やがて歓声とため息がひとしきり廊下を満たし、人波が引き始めた頃、彼はゆっくりと歩き出した。

白い掲示用紙の一番上。印刷されたてのインクの匂いがするそこに、彼の名はあった。

一位、水島翔平。

特別な高揚はない。正しい手順で組まれたプログラムが、寸分違わず正しい答えを出力した。ただそれだけの、静かな確認作業。この国は、正しい努力をすれば正しく報われる、フェアな国家だ。少なくとも、そう信じられる場所にいる人間にとっては。

彼の名のすぐ下には、いつもの名前があった。

二位、佐伯美月。

翔平が努力の天才なら、彼女は天賦の才そのものだった。翔平が千の努力で手に入れたものを、彼女は生まれながらに持っていた。違う世界の人間。そう思うことで、翔平は自分のプライドを保っていた。彼は、人垣の向こうで窓の外を眺めている美月の横顔を視界の隅に捉えた。彼女は結果に興味すらないようだった。まるで、自分は採点される側の人間ではないとでも言うように。

それで終わりのはずだった。一位と二位。それがこの国の、この学園の揺るぎない秩序だった。 だがその日、翔平の信じる秩序は、音もなくひび割れた。

彼の視線が、三位の名前に落ちた、その瞬間。

三位、野々村司。

──誰だ?

クラスメイトたちの囁き声が、翔平の思考を代弁していた。野々村司。名前には見覚えがある。同じクラスの、教室の風景に溶け込む背景のような生徒。顔を思い出そうとしても、霧がかかったように像を結ばない。成績は常に中盤を漂い、良くも悪くも誰の記憶にも残らない、幽霊のような男。

その男が、三位? 美月とわずか数点差で? ありえない。プログラムのバグか、採点ミスか。誰もがそう思った。翔平を除いては。

翔平は本能的に、当事者たちの顔を探した。人垣の端、壁際に立つ野々村の姿を見つける。彼の表情は、喜びではなかった。安堵でもない。それは、追跡者からギリギリ逃げ切った亡命者のそれだった。血の気の引いた顔で、誰にも見つからないように、小さく息を吐いている。

その野々村の怯えた視線が、そろりと動いた。まるで磁石に引かれる砂鉄のように、廊下の反対側に立つ、ある一点へと吸い寄せられる。

佐伯美月。

窓の外を見ていたはずの美月が、その瞬間、野々村の方を向いていた。二人の視線が、ほんの一瞬だけ交錯する。時間にして一秒にも満たない。だが、翔平は見逃さなかった。

美月が、ほんのわずかに、頷いたのを。

それは挨拶ではない。祝福でもない。もっと冷徹で、もっと事務的な、共犯者だけが理解できる合図。 ──『計画通り』。 まるで、そう言っているようだった。

次の瞬間、美月は再び興味を失ったように窓の外に視線を戻し、野々村は幽霊のように群衆の中へと紛れて消えた。後に残されたのは、彼らがいた空間の歪みと、翔平の胸に突き刺さった、冷たい疑念の棘だけだった。

水島翔平の信じてきた、公正でクリアな世界が、終わりを告げようとしていた。 完璧だったはずの方程式に、観測不能な変数が紛れ込んでしまった。

そして水島翔平は、解けない問題がそこにあることを、何よりも嫌う性質だった。

第二章:消された共犯のサイン

疑念という毒は、一度血流に乗れば、またたく間に全身を巡る。 あの日以来、水島翔平の世界は、今まで見えていなかったはずのディテールで満たされていた。休み時間に言葉を交わすわけでもない佐伯美月と野々村司が、教室の対角線上で一瞬だけ視線を合わせる瞬間。美月がペンを回す癖と、野々村が指を鳴らすタイミングが、まるでモールス信号のように同期する瞬間。

気のせいだ、と翔平は何度も頭を振った。考えすぎだ。自分はトップの座を脅かされようとしている焦りから、ありもしない陰謀論を脳内で組み立てているだけではないのか。

だが、彼の論理的な思考が、その自己欺瞞を許さなかった。野々村の答案を分析すれば、客観的な事実が分かるはずだ。学年上位者の答案は、見せしめのように進路指導室前の廊下に数日間張り出されるのが、この学園の悪趣味な伝統だった。しかし、野々村の答案だけは、なぜか早々に撤去されていた。「本人の希望」というのが、担当教諭の説明だった。

その不自然さが、逆に翔平の確信を強めた。何かがある。あの答案用紙には、彼らが隠したい何かが。

チャンスは、三日後の放課後に訪れた。 進路指導室で担当教諭に呼び出され、模試の志望校判定について話していた時のことだ。教諭が別の生徒の対応で席を外した、わずか数分の空白。机の上に無造作に置かれたファイルから、一枚の答案用紙がはらりと床に落ちた。

答案の右上に見慣れない名前を見つけ、翔平の心臓が跳ねた。

『数学IIB 野々村司』

ためらいは一瞬。彼は誰かが戻ってくる気配がないことを確認し、素早くそれを拾い上げた。答案は、几帳面な字でびっしりと数式が埋められており、ほとんどが正解を示す赤い丸で囲まれている。一見して、不正の痕跡などどこにもない、完璧な解答用紙だった。

(やはり、考えすぎだったのか……?)

諦めと安堵の混じったため息をつき、答案を机に戻そうとした、その時。 翔平の視線が、最後の設問の計算スペースの隅に釘付けになった。そこには、シャープペンシルで書かれては、不自然なほど強く消しゴムで擦られた跡が残っていた。光の角度を変えなければ見えないほど、微かな痕跡。

翔平は答案を窓の光にかざした。紙の繊維に刻み込まれた、圧力の跡。そこに浮かび上がったのは、アルファベットでも、数字でもない、見慣れた一つの記号だった。

『 α 』

ただのアルファであり、数学で使われても何ら不思議はない。 だが、翔平はそのαを知っていた。美月が、思考をまとめる時に無意識に紙の隅に書きなぐる、彼女特有の筆跡癖。少し丸みを帯び、右側のカーブが左側よりわずかに膨らむ、まるで美術品のようなアルファ。翔平は模試の会場で、前の席に座っていた彼女が問題用紙の隅にそれを書き込むのを、何度も見てきた。

なぜ、それがある? 野々村司の答案に。美月だけのサインが。 その問いが脳を焼くのと、廊下から教諭の足音が聞こえてくるのは、ほぼ同時だった。翔平は弾かれたように答案をファイルに戻し、何事もなかったかのように自らの席に着いた。

戻ってきた教諭の言葉は、もう彼の耳には届いていなかった。

全身の血が、急速に冷えていくのを感じる。 間違いない。繋がった。 佐伯美月と野々村司は、共犯者だ。

あれは、まぐれでも、努力の成果でもない。あれは巧妙に計画され、実行された**「犯罪」**だ。 そして自分は、この国でただ一人、その証拠を見つけてしまった。

翔平は、窓の外で夕陽に染まるグラウンドを眺めた。生徒たちの楽しげな声が、まるで異国の言葉のように遠く聞こえる。 もう、以前と同じ世界には戻れない。

彼は、この国の憲法を揺るがす、静かな反逆者たちの尻尾を掴んでしまったのだから。 そして、水島翔平は、目の前にある謎を、決して放置できない人間だった。

彼の孤独な捜査が、静かに幕を開けた。

第三章:二つの世界

証拠は掴んだ。だが、動機が分からない。 あの佐伯美月が、なぜ危険を冒してまで野々村のような生徒に手を貸す必要がある? 特待生の座を争うライバルである翔平を蹴落とすためか? だが、彼女のやり方にしては、あまりに手が込みすぎているし、リスクが高すぎる。

翔平は、パズルの最も重要なピースが欠けているのを感じていた。そのピースは、彼らが息をする世界そのものにあるはずだ。彼は、まるで存在を消した探偵のように、二人を観察し始めた。学校という箱庭の中だけでなく、その外の世界まで。

最初の追跡対象は、佐伯美月。 放課後、美月は誰とも群れず、一人で昇降口を抜けていく。翔平は数メートル、時に数十メートルの距離を保ちながら、彼女の背中を追った。私鉄の特急で三駅。降り立ったのは、都心からほど近い、静かで洗練された高級住宅街だった。

高い塀と生垣に囲まれた、要塞のような家々。美月はそのうちの一軒、ひときや大きな邸宅の重い鉄の門にカードキーをかざした。翔平が身を隠した電信柱の向こうからでは、その全貌は窺えない。ただ、夕陽を反射する二階の大きな窓だけが、こちらを冷たく見下ろしているようだった。

翔平が立ち去ろうとした、その時。 カーテンの開いた窓に、人影が映った。リビングだろうか。美月と、彼女の両親と思われる男女の姿が見える。音声は聞こえない。だが、その光景は、翔 平の胸に奇妙な冷たさを刻み付けた。

父親らしき男が、一枚の書類を美月に突きつけている。おそらく、今回の試験の結果だろう。美月は無表情でそれを受け取る。母親らしき女が、娘の肩に手を置く。それは労いや愛情とは程遠い、まるで高級な美術品の出来栄えを確かめるような、無機質な手つきだった。誰も、笑っていなかった。祝福も、喜びもない。すべてが、当たり前の業務のように進んでいく。

翔平にはわかった。あれは、家族団欒の風景ではない。株主と、その期待に応えたCEOの報告会だ。美月の才能は、あの家では愛でるべき個性ではなく、管理・運用されるべき「資産」なのだ。 冷たいガラス一枚を隔てた向こう側で、美月はたった一人、巨大な期待という名の敵と戦っている。翔平は、彼女の完璧な横顔の下に隠された、深い孤独の影を垣間見た気がした。

翌日、翔平は野々村司を追った。 彼は美月とは反対方向の、各駅停車しか停まらない電車に乗った。都心を離れるにつれ、車窓の風景は色褪せていく。降り立ったのは、雑然とした商店街と古いアパートが混在する、生活の匂いが染みついた街だった。

野々村は、駅前のコンビニでレジ袋を一つだけぶら下げ、アパートが密集する細い路地へと消えていく。翔平が後を追うと、彼は築四十年は経っていそうな、小さな木造アパートの二階の一室に入っていった。錆びた鉄の階段が、彼の体重できしむ音が聞こえる。

翔平は、しばらくその場から動けなかった。同じ学園の制服を着て、同じ教室で授業を受けている人間が、こんなにも違う世界に住んでいる。その事実が、現実として胸に突き刺さった。

夜の帳が下り、アパートの窓に明かりが灯る。翔平が帰ろうとした、その時。野々村が再び部屋から出てきた。制服から、色褪せたTシャツに着替えている。彼は、翔平が今しがた通り過ぎてきたコンビニの中へと入っていく。そして、当たり前のようにレジカウンターの内側に立ち、エプロンを締め始めた。深夜バイトだ。

翔平は、コンビニのガラス越しに彼の姿を眺めた。客に頭を下げ、商品をスキャンし、レジを打つ。その一つ一つの動きが、まるで機械のように正確で、感情が抜け落ちていた。あの答案用紙に書き込まれていた、几帳面な文字とどこか重なる。

数時間後、バイトを終えた野々村がアパートに戻っていく。翔平は、彼の部屋の窓から漏れる光を、もう一度だけ見上げた。カーテンの隙間から、部屋の中の様子が断片的に見えた。小さなテーブルを囲む、三つの人影。野々村と、疲れた顔で微笑む母親。そして、彼の買ってきたコンビニのデザートを、嬉しそうに頬張る幼い妹の姿。

そこには、美月の家にはなかった、ささやかだが確かな「家族」の風景があった。そして、その風景を守るために、野々村が自分の時間を、魂を削りながら戦っていることも、痛いほどに伝わってきた。

翔平は、その場から動けなかった。 美月の世界。野々村の世界。そして、その中間にいる自分。 自分がいかに、「公正な競争」などという綺麗事が通用する、恵まれた場所にいたかを思い知らされた。

彼らの犯した「罪」は、決して単純な悪ではない。 それは、それぞれの世界で生き延びるための、あまりにも切実なサバイバル術だったのではないか。

そうだとしたら、自分は一体、何を裁こうとしていたのだろう。 翔平の信じてきた正義の輪郭が、ゆっくりと、しかし確実に滲み始めていた。

第四章:亡命への勧誘

二つの世界の存在を知ってしまった翔平の頭の中で、ジグソーパズルのピースが少しずつ組み上がっていく。だが、どうしても埋まらない最後の空白があった。 きっかけだ。美月と野々村、住む世界も、教室でのカーストも全く違う二人が、いつ、どこで、どのようにして繋がったのか。

翔平がその光景を幻視したのは、奇しくも同じ場所、夕暮れの図書室だった。西日が長い影を落とす書架の間で、彼は二ヶ月前のあの日、二人の間に交わされたであろう会話を、まるでその場にいたかのように鮮明に思い描いていた。

それは、夏休みを間近に控えた、ある日の放課後だった。 名門校の図書室とは名ばかりの、古びたその場所を訪れる生徒は少ない。野々村司は、参考書を広げるふりをしながら、窓の外で歓声を上げる運動部の生徒たちを眺めていた。勉強に身が入らないわけではない。家に帰っても、狭い部屋には幼い妹がいて、集中できる環境ではなかった。ここが、彼に許された唯一の静寂だった。

「野々村司くん、だよね」

不意に、背後から澄んだ声が降ってきた。振り返ると、そこに佐伯美月が立っていた。月の光を編み込んだような、非現実的なほど整った顔立ち。野々村にとっては、テレビの中の女優と大差ない存在だった。なぜ彼女が、自分の名を?

「君の数学パズル、いつも見てる」 美月はそう言って、彼が毎週、図書室の掲示板に張り出される数学クイズの解答を、誰よりも早く、そして誰よりもエレガントに解いていることを指摘した。それは野々村だけの密やかな楽しみであり、誰にも気づかれていないと思っていた。 「君の思考速度は、異常よ。システムが正しく評価できていないだけ」 「……何が言いたいんだ」 野々村は警戒心を露わにした。この女は何かが違う。彼女の目は、自分をクラスメイトとしてではなく、まるで希少な鉱石か何かを鑑定するように見ていた。

美月は、彼の向かいの席に静かに腰を下ろした。そして、まるで天気の話でもするように、こう切り出したのだ。

「この国から、亡命しない?」

あまりに突拍子のない言葉に、野々村は思考が停止した。亡命? 国? 何の話だ。 美月は、構わずに続けた。 「私たちが住んでいるのは、偏差値っていう憲法だけで統治された、冷たい国家。国民は生まれながらに格付けされて、数字でしか評価されない。どんなに才能があっても、初期装備(リソース)がなければ、上の階級には上がれないように設計されてる。君みたいにね」

彼女の言葉は、野々村が心の奥底で感じていた不満や諦めを、的確に言語化していた。彼は、この国の不平等なシステムの中で、もがくことさえ諦めていた一国民だった。

美月は、自分のノートパソコンを開き、画面を彼の方に向けた。そこに表示されていたのは、複雑なグラフと数式、そして青葉崎学園の教師陣全員の顔写真が並んだ、データベースのような画面だった。

「これは、私が作った『亡命(アサイラム)プログラム』。この国のシステム――つまり、教師たちの出題傾向、思考パターン、採点基準の癖、その全てを解析して、次の『国政選挙』、すなわち定期試験で現れる問題を予測するの」 彼女は、プログラムが弾き出した次回の化学の試験範囲と、担当教諭の性格分析に基づく「出題確率92%」とされる問題を、こともなげに指し示した。

野々村は息を呑んだ。これは、ただのヤマ勘ではない。人間の思考をアルゴリズムに落とし込み、未来を予測する、神の領域にも等しい所業だった。 「どうして、僕なんだ」 「私一人では、亡命はできないからよ」と美月は言った。「私はこの国の『貴族』として、常に監視されている。でも、君は違う。システムがノーマークの『平民』。君が実行役になってくれるなら、私たちは二人で、この国を出し抜ける」

それは、悪魔の囁きだった。断るのが正しい。そう頭では分かっていた。 だが、彼の脳裏に、薬の袋を数える母親の疲れた背中と、「お兄ちゃん、いつ遊んでくれるの?」と尋ねる妹の無邪気な顔が浮かんだ。正規のルートで戦っても、彼らに未来はない。この国では、貧乏人は貧乏人として、静かに死んでいくだけだ。

もし、この悪魔の手を取れば。 この禁じられた果実を口にすれば。

野々村は、ごくりと唾を飲み込んだ。目の前の女は、悪魔か、それとも神が遣わした天使か。 いや、どちらでもいい。彼女が提示しているのは、紛れもなく「希望」という名のパスポートだった。たとえそれが、偽造されたものだとしても。

「……何をすればいい?」

そのかすれた声を聞いて、佐伯美月は、初めてかすかに微笑んだ。 それは、共犯者を見つけた、孤独な革命家の笑みだった。

夕暮れの図書室で、翔平は大きく息を吐いた。もちろん、すべては彼の想像だ。だが、きっとこうだったに違いない。二人の間には、脅迫も、取引もない。あるのは、この不公平なシステムを憎む者同士の、静かで強固な盟約だけだ。

美月は、支配からの自由を。 野々村は、貧困からの脱出を。

それぞれの「亡命」をかけて、二人は共犯者になった。 その事実が、翔平の心を重く締め付けていた。彼らを裁くことは、彼らの切実な願いを、人生を、否定することに等しい。自分に、そんな資格があるのだろうか。

翔平は、答えの出ない問いを抱えながら、ゆっくりと図書室を後にした。 彼の知らないところで、物語はすでに、次の残酷な章へと進み始めていた。

第五章:知的な共犯者

真実の輪郭を知ってしまった今、翔平には確かめなければならないことがあった。それは、佐伯美月自身の口から語られる、動機の核心だ。彼はもはや、単なる傍観者ではいられない。この物語の当事者として、彼女と対峙する必要があった。

放課後、翔平は一人で教室を出ていく美月を呼び止めた。 「話がある。屋上で待ってる」 美月は何も言わず、ただ静かに頷いた。まるで、この瞬間が来ることを予期していたかのように。

立ち入りが禁じられた屋上のフェンスは、錆びた南京錠がぶら下がっているだけだった。翔平が手慣れた様子で針金を使ってそれを開けると、美月は少しだけ驚いたように目を見開いた。 「優等生も、鍵くらい開けるさ」 翔平の言葉に、美月はかすかに笑った。

夕暮れの風が二人の間を吹き抜けていく。眼下には、ミニチュアのような街並みが広がっていた。しばらくの沈黙の後、翔平が切り出した。 「野々村の答案にあった、消されたアルファ。あれは、君の字だ」

彼は、問い詰めているのではなかった。ただ、事実を確認するように、静かに告げた。 美月は、驚きも、動揺も見せなかった。彼女はフェンスに寄りかかり、遠くの空を眺めながら、穏やかに答えた。 「……よく気づいたわね。さすが、水島くん」

あっさりと認めたその態度に、翔平の方がむしろ戸惑った。罪悪感も、恐怖もない。その声には、自分の作品の価値を正しく鑑定された芸術家のような、知的な満足感さえ含まれているようだった。

「どうして、あんなことを」 「あんなこと?」と美月は首を傾げた。「ああ、カンニングのこと。でも、あれはカンニングじゃないわ」 「じゃあ、何なんだ」 「ハッキングよ」 美月は、こともなげに言った。「この学園、いえ、この国を支配している偏差値っていうシステムは、欠陥だらけのプログラムなの。だから、そのバグを少し突いて、デバッグしてあげただけ」

その不遜な物言いに、翔平は思わず声を荒らげた。 「ふざけるな!あれは、真面目に努力している人間を馬鹿にする、ただの不正行為だ!」

その言葉を聞いた瞬間、美月は初めて、その冷たい表情を揺らがせた。憐れみと、ほんの少しの軽蔑が入り混じった、複雑な色が彼女の瞳に浮かぶ。

「……そうね。あなたのように恵まれた人間には、分からないでしょうね」

その一言が、翔平の胸に深く突き刺さった。 「君は、努力している人間を侮辱しているのよ。野々村くんみたいに、自分の力で道を切り拓こうとしている人間の尊厳を、踏みにじっている」 「尊厳?」美月は、空虚に響くその言葉を繰り返した。「一日中バイトをして、妹の学費を稼いで、疲れ果てた体で明け方に机に向かう。そんな彼に、どんな尊厳があるっていうの? あなたが信じている『公正な競争』なんて、同じ高さのスタートラインに立てる人間にしか許されない、贅沢なゲームなのよ」

彼女の言葉が、翔平が信じてきた正義の土台を、根こそぎ破壊していく。 「私は、彼に選択肢を与えただけ。この国から亡命するか、それともここで数字の奴隷として緩やかに死んでいくか。彼は、自分の意志で亡命を選んだ。それだけよ」 「君だって……君は、野々村とは違うだろう。何不自由ない生活で、誰もが羨む才能を持って……」

「才能?」 美月は、自嘲するように笑った。「私の才能は、私のものじゃない。あれは、佐伯家の『資産』よ。良い偏差値、良い学歴、良い将来……全ては、投資に対するリターンでしかない。あの家で、私は一度だって、佐伯美月として見られたことはないわ。常に、『最高評価額の金融商品』としてしか扱われない。私の亡命は、その評価額(プライスタグ)を、自分の手で引きちぎるための闘いなの」

翔平は、言葉を失った。 目の前にいるのは、ただの不正を犯した少女ではなかった。それぞれの地獄で、それぞれの正義をかけて戦う、孤独な革命家だった。彼女の瞳の奥には、天才ゆえの深い絶望と、世界そのものに向けられた、静かで激しい怒りの炎が燃えていた。

彼が信じてきた正義は、あまりにも単純で、あまりにも無垢だった。この世界の複雑な歪みの前では、それは何の力も持たない。

「……どうして、僕に話すんだ」 「あなただからよ」と美月は言った。「あなただけが、このシステムの熱心な信者で、そして、このシステムのバグに気づける唯一のデバッガーだったから。私の計画を見破れる人間がいるとしたら、それはあなたしかいないと思ってた」

美月はフェンスから体を離し、屋上の出口へと向かった。 「これで、あなたは全てを知った。その真実をどう使うかは、あなた次第よ、学年一位の優等生さん」

その背中は、ひどく小さく、そして寂しそうに見えた。 一人残された屋上で、翔平は動けなかった。手の中には、この国の憲法を揺るがすほどの、重大な「真実」が握らされている。 それを告発すれば、自分は「正義」を守れるのかもしれない。 だが、その正義の剣は、目の前で見た、二人の切実な魂を引き裂いてしまうだろう。

風が、彼の迷いを見透かすように、強く吹き抜けていった。

第六章:制御不能な駒

屋上での対決以来、奇妙な均衡が続いていた。 水島翔平は告発という剣を鞘に収めたまま、沈黙を守っていた。それは正義を放棄したわけではなく、あまりに複雑な方程式を前に、解を導き出せずにいる数学者の苦悩に近かった。彼はただ、観察を続けた。共犯者たちの行き着く先を、そして自らが下すべき最後の答えを、見定めるために。

その間にも、佐伯美月の「プログラム」は完璧に作動し続けていた。 期末試験が終わり、学期末の総合順位が発表された時、野々村司の名は再び学年三位の座に刻まれていた。一度目は驚愕を、二度目は疑念を生んだその結果は、三度目にして「新しい日常」として周囲に受け入れられつつあった。人間は、理解不能な事象に慣れることで、それを日常の風景の一部として取り込んでしまう生き物だ。

だが、本当に恐ろしい変化は、周囲の認識ではなく、野々村司自身の内側で起きていた。

かつて教室の隅で幽霊のように息を潜めていた少年は、もうどこにもいなかった。背筋は伸び、俯きがちだった視線はまっすぐに教壇に向けられる。教師の問いかけに、的確な答えを返してクラスを驚かせることも一度や二度ではなかった。不正によって得た知識と、それによって生まれた自信が、彼の眠っていた知性を本当に覚醒させていたのだ。

周囲の生徒たちの見る目も変わった。劣等感と憐憫の対象だった野々村は、今や「苦学生の天才」という、一種の尊敬と嫉妬の対象へと変化していた。彼は生まれて初めて、他者から認められるという快感を知った。偏差値という名の麻薬が、彼の心に深く、そして確実に行き渡っていた。

その変化を、計画の立案者である佐伯美月だけが、冷たい目で見つめていた。 彼女の計画は、あくまで「亡命」のための緻密な計算の上に成り立っている。野々村には、システムの監視網に引っかからない、絶妙なスコアを与えていたはずだった。目立ちすぎず、だが着実に未来への切符を手にできる、完璧なポジション。

だが、彼はそのポジションに満足できなくなっていた。

次の模試を控えた放課後、いつもの図書室で、野々村は美月が差し出した計画書を、初めて突き返した。 「この目標点じゃ低すぎる」 その声には、以前の彼にはなかった、棘のある響きが含まれていた。 「次の数学だけは、水島を抜きたい。俺が学年一位になる」

美月は表情を変えずに答えた。 「無意味よ。数学だけ突出したスコアを出せば、異常値としてシステムに検知されるリスクが上がるだけ。私たちの目的は、勝つことじゃない。亡命することよ」 「いつまで隠れていなければならないんだ」野々村は、声を潜めながらも、その語気を強めた。「俺はもう、幽霊じゃない。俺はここにいるんだって、みんなに証明したいんだ。あんたみたいに、最初から全部持ってる人間には分からないだろうがな!」

その言葉は、美月の最も触れられたくない部分を抉った。彼女の瞳に、冷たい光が宿る。 「あなたは、プログラムの性能に酔ってるだけよ。勘違いしないで。あなたは天才になったわけじゃない。私の作ったツールを使っているに過ぎない」 「ツールだと?」野々村は、侮辱されたように顔を歪めた。「ツールがなければ、あんただってただの金持ちのお嬢さんだ。俺がいなければ、あんたの計画は実行すらできなかった。これは、もうあんただけの計画じゃない。俺の人生でもあるんだ!」

美月は悟った。彼女が生み出した共犯者は、もはや彼女の制御下にはいなかった。貧困から脱出するという純粋な目的は、承認欲求という名の、より根源的で厄介な欲望に塗り替えられていた。彼は、美月が最も軽蔑する、偏差値システムの熱心な信者へと変貌しつつあったのだ。

「……分かったわ」 美月は、議論の無意味さを悟り、静かに頷いた。「あなたの望むスコアを予測する。ただし、どんな結果になっても、私は知らない」 それは、共犯関係の終わりの始まりだった。完璧だったはずのプログラムに、人間の「欲望」という、予測不能なバグが生まれようとしていた。

美月は一人、ノートパソコンの画面を見つめた。そこには、寸分の狂いもなく未来を予測するはずの、美しい数式が並んでいる。 だが、その数式は、人間の心を計算に入れるようには設計されていなかった。

彼女の孤独な革命は、今や、内部からの崩壊という、新たな脅威に晒され始めていた。

第七章:密告者の影

野々村が数学で水島翔平を上回り、学年一位の座を奪取した模試の結果は、予想通りの波紋を広げた。もはや、それは「快挙」や「奇跡」ではなかった。生徒たちの間では「ありえない」という囁きが公然と交わされ、それは嫉妬と不信感が入り混じった、粘度の高い悪意へと変わりつつあった。

だが、本当に危険な兆候は、生徒たちの噂話ではなかった。 水島翔平は、システムそのものが「免疫反応」を起こし始めているのを、肌で感じていた。

その免疫システムの中心にいるのは、一人の教師だった。 生徒指導担当、伊藤。 彼は、ルールこそが学園の秩序を守る唯一絶対の法であると信じる、規律の番人のような男だった。白髪交じりの髪を七三に分け、度の強い眼鏡の奥で、常に生徒たちの違反行為を探している。彼にとって、生徒は保護対象ではなく、管理対象だった。

翔平は、伊藤の視線が、執拗に野々村司へと向けられていることに気づいていた。

最初は、職員室での光景だった。伊藤が、キャビネットの奥から野々村の過去数年分の成績データと答案をすべて引っ張り出し、一枚一枚、虫眼鏡でも使うかのように丹念に比較しているのを、翔平は目撃した。彼は、何かを探していた。統計データの中に紛れ込んだ、ありえない「ノイズ」の正体を。

次に、伊藤は野々村の周辺から情報を集め始めた。野々村と数少ない言葉を交わすクラスメイトに、彼の家庭環境や、放課後の過ごし方を、それとなく、しかし執拗に尋ねて回っていた。「特別な家庭教師でもつけているのかね」という彼の質問は、善意の興味ではなく、尋問者のそれだった。

そしてある日の授業中、翔平は教室のドアの小さなガラス窓の向こうに、伊藤の姿を見た。彼は授業を覗いているのではない。その視線は、一点に固定されていた。野々村司の、その手元だけを。まるで、マジシャンのタネを見破ろうとするかのように、冷徹な観察者の目で。

システムが、異常値を検出し、その原因究明に動き出したのだ。 翔平は知っていた。数年前、伊藤が些細な万引きを犯した生徒を徹底的に追及し、退学処分に追い込んだことを。彼の正義は、情状酌量という言葉を知らない。ルールを破った者には、ただ冷徹な罰が下されるだけだ。

翔平が抱える葛藤は、もはや彼一人の道徳的な問題ではなくなっていた。これは、時限爆弾だ。伊藤という名の点火装置が、今まさに作動しようとしている。彼が真実にたどり着くのは、時間の問題だろう。

そして、その時下される「判決」は、翔平が悩むような複雑なものではない。退学。その二文字で、すべてが終わりだ。佐伯美月の未来も、野々村司がようやく手に入れた希望も、木っ端微塵に吹き飛ぶ。

自分の沈黙は、彼らを守っていることにはならない。ただ、破滅の瞬間を先延ばしにしているだけだ。いや、むしろ、より最悪の結末を招くための準備期間を与えているに過ぎないのではないか。

焦燥感が、翔平の胸を焼く。 伊藤の調査が進むにつれて、美月はより用心深くなり、野々村との接触を完全に断った。一方の野々村は、監視されていることに気づいているのかいないのか、増長した態度を崩そうとはしなかった。完璧だった共犯関係は、外部からの圧力によって、もはや崩壊寸前だった。

金曜の夜。翔平は、進路指導室からの帰り道で、校門を出ていく伊藤の姿を見かけた。彼の脇には、分厚いファイルが抱えられている。その背表紙に書かれた名前を、翔平は見逃さなかった。

『野々村 司 – 生活態度調査記録』

時限爆弾のタイマーが、カチリと音を立てて進んだ気がした。 もう時間がない。

観察者の時間は終わった。伊藤が全てを白日の下に晒す前に、自分が動かなければならない。 彼らをシステムに裁かせるか。それとも、自らがこの歪んだゲームに介入し、結末を書き換えるか。 水島翔平は、人生で最も重い選択を迫られていた。夜の闇が、彼の迷いを飲み込むように、静かに学園を包んでいった。

第八章:最後の夜

時は満ちた。 理事長特待生を決定する、学年の最終試験が、翌日に迫っていた。これが、すべての結末を決める最後の審判の日となる。伊藤教諭の調査ファイルが、いつ理事会に提出されてもおかしくない状況だった。翔平に残された時間は、もうない。

彼は、最後のピースを埋める必要があった。これまで集めてきた状況証拠だけでは、伊藤や学園を納得させるには足りないかもしれない。必要なのは、言い逃れのできない、絶対的な物証。

放課後、翔平は誰もいないコンピューター室にいた。狙いは、佐伯美月が「プログラム」の基盤として使っているであろう、クラウドサーバーへのアクセスだった。パスワードは? 天才である彼女が、凡庸な文字列を設定するはずがない。それは、彼女の美学に反する。きっと、彼女自身に関わる、数学的で、エレガントな数字のはずだ。

翔平は、いくつかの仮説を試した。彼女の誕生日と円周率を組み合わせた数列。学籍番号を素数で割ったもの。そして、ふと、ある数字を打ち込んだ。

それは、彼女が愛してやまない数学者、オイラーの等式に関連する、虚数を含む美しい定数だった。以前、数学の雑談で彼女がその数式の完璧さについて、珍しく熱っぽく語っていたのを、翔平は覚えていた。

エンターキーを押す。 一瞬の間を置いて、画面が切り替わった。ログイン成功。 表示されたのは、美月と野々村の間で交わされた、膨大な量のチャットログだった。そこには、AIを用いた出題予測のアルゴリズム、教師たちの行動分析、そして、野々村の成績を操作するための詳細な指示が、冷徹なほどの精度で記録されていた。

翔平は、必要な部分だけを自分のスマートフォンに転送し、すべての履歴を消去して部屋を出た。 これで、ゲームの駒はすべて揃った。あとは、王手をかけるだけだ。

その夜、翔平は美月を呼び出した。 『証拠は揃った。最後に、話がしたい』 短いメッセージに、彼女からはすぐに返信があった。場所は、街を見下ろす高台にある、夜間は誰も使わない公園の展望台が指定された。

冷たい風が吹く展望台で、美月は先に来て待っていた。その横顔は、いつもと変わらず静かで、まるでこれから起きることのすべてを悟っているかのようだった。

「君たちのチャットログを見た」翔平は、単刀直入に切り出した。「AIのことも、予測プログラムのことも、全て知った」 「そう」 美月は短く答えた。その声に、動揺の色はない。 翔平は、ポケットの中で証拠の入ったスマートフォンを強く握りしめた。彼は、この最後の夜に、彼女を断罪するために来たのではなかった。ただ、どうしても聞かなければならないことがあった。

「なぜなんだ」

絞り出した声は、自分でも驚くほど、かすれていた。 どうして、こんなやり方を選んだ。どうして、自分一人で全てを背負おうとした。どうして、僕に相談してくれなかった。その声には、探偵の問いではなく、友人のそれに近い響きが混じっていた。

その言葉を聞いた瞬間、それまで完璧なポーカーフェイスを保っていた美月の表情が、初めて、そして大きく歪んだ。美しい顔が、苦痛に満ちた子供のそれへと変わっていく。

「……あなたに、何がわかるっていうのよ」 その声は震えていた。 「偏差値70の世界も、50以下の世界も、同じ地獄なのよ。毎日、数字で自分の価値を測られて、期待という名前の鎖に繋がれて……。あの家で、私が良い点を取っても、誰も喜んでなんてくれない!『当然だ』って言われるだけ! まるで、高性能な機械が、仕様書通りの性能を発揮したみたいに! 私の人生なんて、最初から、全部決められてる!」

堰を切ったように、彼女の魂の叫びが溢れ出す。

「数字に支配される人生なんて、もううんざりなのよ! 私は……ただ、私自身の価値を、この手で証明したかっただけ……。たとえそれが、犯罪と呼ばれるものでも、他の誰でもない、私が設計した、私だけの計画で……!」

翔平は、何も言えなかった。 彼が追いかけていたのは、知的な犯罪計画の首謀者ではなかった。システムという名の巨大な牢獄の中で、もがき苦しむ、たった一人の少女の悲痛な叫びだった。 彼女が欲しかったのは、高い偏差値でも、特待生の椅子でもない。 ただ、「お前は、お前のままでいい」と、誰かに言ってほしかっただけなのかもしれない。

美月は、涙を隠すように顔を背けた。 「……もう、いいでしょ。やりたいようにすればいい。それが、あなたの『正義』なんでしょう?」

その言葉は、翔平の胸に深く突き刺さった。 正義。そうだ、自分は、この国のフェアなルールを守るという正義のために、彼女を追ってきたはずだった。 だが、今、手の中にあるこの証拠は、本当に正義の剣なのだろうか。それとも、ただ、傷ついた少女にとどめを刺すためだけの、冷たい凶器ではないのか。

美月は、何も言わずにその場を去っていった。 一人残された翔平は、眼下に広がる街の光を見下ろした。無数の光の点滅が、まるで巨大なサーバーの活動状況を示すインジケーターのように見える。

この巨大なシステムの中で、自分たちが生きる意味は、どこにあるのだろう。 審判の朝は、もう数時間後にはやってくる。 水島翔平は、その時、自分がどちらの側に立っているのか、まだ分からずにいた。

第九章:面接室という法廷

最終試験の日は、奇妙な静けさの中で過ぎていった。 答案用紙に書き込まれた文字だけが、生徒たちの運命を決定づけていく。翔平は、ただ無心にペンを走らせた。もはや、彼にとって試験の結果は重要ではなかった。本当の戦いは、この後にある。

結果発表を待たずして、特待生候補者三名への最終面接が行われることが通達された。候補者は、水島翔平、佐伯美月、そして野々村司。システムの異常値(バグ)は、最後まで訂正されることはなかった。

翔平が最初に、理事長室の扉の前に立った。重厚なマホガニーの扉は、まるで法廷への入り口のように、彼を威圧していた。一つ深呼吸をし、彼はノックした。

室内には、三人の男が座っていた。学園長、理事、そして最奥の革張りの椅子に深く腰掛けているのが、この学園という国家の最高権力者、理事長だった。彼らの前にだけ置かれたペットボトルの水が、両者の間の絶対的な権力勾配を物語っている。

「水島翔平くん。まずは、ここまでの君の優秀な成績を称えたい」 理事長が、作り物めいた笑みで口火を切った。 「さて、早速だが、君がこの学園の特待生に最もふさわしいと考える理由を聞かせてくれたまえ。君ほどの頭脳なら、我々を納得させる素晴らしいプレゼンテーションを準備してきてくれたのだろう?」

その言葉は、翔平が用意してきた模範解答を完璧に予測していた。努力の尊さ、学園への貢献、そして将来の夢。彼は、その台本を諳んじるだけで、約束された未来を手にすることができる。

だが、彼はその台本を、昨夜、破り捨てた。

「お答えする前に、まず、皆様に聞いていただきたい話があります」 翔平は、静かに、しかしはっきりとそう言った。理事たちの訝しげな視線が突き刺さる。

「それは、今回の試験で驚異的な成績を収めた、ある二人の生徒の物語です」

翔平は、誰かを告発する検察官の口調ではなかった。むしろ、歴史の語り部のように、淡々と事実を紡ぎ始めた。野々村司という生徒が、いかにして成績を上げたのか。その裏に、佐伯美月という天才が設計した、あまりにも知的なプログラムが存在したこと。AIによる出題予測、教師陣の心理分析、そして、彼らがそれを「亡命計画」と呼んでいたこと。

彼は、自分が集めた証拠を並べ立てた。消されたアルファの痕跡。二つの家庭のあまりにも違う世界。そして、昨夜、自らの手で掴んだ、動かぬ証拠であるチャットログの存在。

理事たちの顔から、余裕の笑みが消えていた。学園長は顔面を蒼白にし、何かを言いかけたが、理事長がそれを手で制した。彼は、値踏みするような目で、翔平を黙って見つめている。

「……つまり、佐伯くんと野々村くんが、悪質なカンニング行為を働いていたと。そして君は、それを告発するために、この場を選んだと。そういうことかね?」 理事長の声には、温度がなかった。

「いいえ」 翔平は、はっきりと首を振った。そして、三人の大人たちを、一人ずつ、まっすぐに見つめた。

「僕がお聞きしたいのは、そこではありません。僕がお聞きしたいのは、ただ一つです」

彼は、息を吸った。

「彼らを裁ける者は、この中にいるのでしょうか」

その言葉は、静かだったが、部屋の空気を震わせた。 「野々村くんは、貧困という名の壁を、正規のルートでは決して越えられませんでした。佐伯さんは、才能という名の資産価値でしか見られない世界に、絶望していました。彼らを生み出したのは誰ですか。彼らをそこまで追い詰めたのは、一体何だったのでしょうか」

翔平の言葉は、もはや二人の生徒の弁護ではなかった。それは、告発だった。

「生徒を偏差値という数字で格付けし、才能を投資と呼び、スタートラインの不平等を無視して、ただ『公正な競争』という名の幻想を強要し続ける。そんな国(システム)そのものに、彼らを断罪する資格があるのですか」

「君は……!」理事の一人が、激昂して立ち上がった。「君は、犯罪者を擁護するのか!」

「擁護しているのではありません。理解しようとしているのです」 翔平は、静かに立ち上がった。「そして、理解してしまった以上、僕はもう、この国のルールに従うことはできません」

彼は、面接官たちに向かって、深く、そして丁寧に頭を下げた。

「理事長特待生への立候補を、ここに辞退させていただきます」

その言葉を最後に、彼は振り返らなかった。驚愕と怒りに満ちた大人たちの視線を背中に受けながら、法廷と化した理事長室を、静かに後にした。

重い扉が、彼の背後でゆっくりと閉まる。 翔平は、すべてを失ったのかもしれない。特待生の地位も、約束された未来も。 だが、彼の心は、不思議なほど晴れやかだった。

彼は、初めて自分の意志で、自分の人生の答えを選んだのだ。 その答えが、どんな判決を招くのか。それを知るのは、まだ少し先の話だ。

第十章:亡命

水島翔平が投下した爆弾は、静かに、しかし確実に、青葉崎学園という国家の中枢を蝕んでいった。 特待生の発表は無期限に延期され、学内には箝口令が敷かれた。だが、隠しきれない不穏な空気は、噂となって生徒たちの間を瞬く間に駆け巡った。誰も真実は知らない。だが、誰もが、自分たちの信じてきた秩序が、根底から覆されようとしていることを感じていた。

一週間後。三人は、理事長室ではない、事務的な空気が漂う小さな応接室に、別々に呼び出された。 翔平に告げられた「判決」は、意外なものだった。

「自主的な特待生候補の辞退、および、学内の秩序を著しく乱す発言を鑑み、君への推薦資格は全て取り消すこととする。ただし、退学処分にはしない。卒業までの残り期間、謹慎処分とする」

それは、罰ではなかった。システムが、自らの体面を保つために、厄介なバグを隔離するための「処理」に過ぎなかった。学園は、スキャンダルが外部に漏れることを何よりも恐れていたのだ。 美月と野々村にも、ほぼ同様の処分が下された。「カンニング」という言葉が使われることは、最後まで一度もなかった。彼らはただ、「秩序を乱した問題児」として、静かに歴史から抹消されることになった。

最後の登校日。荷物をまとめるために学園を訪れた翔平は、昇降口で美月と野々村の二人と顔を合わせた。まるで、示し合わせたかのように。 三人の間に、気まずい沈黙が流れる。 最初に口を開いたのは、野々村だった。

「……悪かった」 彼は、翔平に、そして美月に、深く頭を下げた。「俺が、調子に乗ったせいで……」 「やめてよ」 その言葉を遮ったのは、美月だった。彼女の表情は、翔平が今まで見た中で、最も穏やかだった。 「誰も、悪くない。違う。……全員、悪かったのよ。あなたも、私も。そして、水島くんも」 彼女は、翔平をまっすぐに見つめた。 「あなたは、最後まで正しかった。あなたの信じる正義を、貫いただけ。ありがとう」

その言葉に、翔平は何も答えられなかった。 正義とは、何だったのだろう。最後まで、彼にはその答えが分からなかった。

三人は、誰ともなく歩き出した。思い出が染みついた廊下を抜け、校門へと向かう。もう二度と、この場所に戻ることはないだろう。 校門を出た瞬間、初冬の冷たい空気が、三人の頬を撫でた。学園の外の空気は、中のそれよりも、少しだけ澄んでいる気がした。

彼らは、すべてを失った。学歴も、未来への推薦状も、信じてきた正義も。 だが、その表情に、絶望の色はなかった。

「これから、どうする?」 翔平が、誰にともなく尋ねた。 「さあな」美月が、空を見上げながら答えた。「偏差値のない国を探しに行くだけよ」 その横顔には、初めて見る、屈託のない笑みが浮かんでいた。

彼らはもう、ライバルでも、共犯者でも、探偵でもない。 同じ国から追放された、名もなき亡命者だった。 三人は一度だけ互いの顔を見合わせ、小さく頷くと、それぞれの方向へと、ゆっくりと歩き出した。

彼らの亡命は、今、始まったばかりだった。


終章:新しい座標

それから、半年後。 共通大学入学試験、当日。 数万人の若者の夢と不安を飲み込んだ、巨大な試験会場。翔平は、その圧倒的な人の波の中で、ただの記号になっていた。制服を脱いだ彼は、もはや学園トップの秀才でも、システムへの反逆者でもない。名もなき一人の受験生だった。

一限目の試験を終え、昼食のパンをかじりながら次の科目に備えていた、その時。 雑踏の中で、ふと見知った顔が目に入った。

「佐伯さん……」 そこにいたのは、ラフなコートを着て、髪を短くした佐伯美月だった。彼女もまた、この国のルールに従って、この場所に立っていた。彼女の隣には、少しだけ大人びた顔つきになった、野々村司がいた。

「水島くん。やっぱり、来てたんだ」 美月は、悪戯っぽく笑った。その表情は、翔平の知らない、ごく普通の十八歳の少女のそれだった。 「お前もな。海外にでも行ってるかと思った」 「その前に、この国のやり方で、一度くらいは勝っておこうと思ってね。自分のために」

翔平の視線が、野々村に向けられた。 「元気そうで、よかった」 「ああ」野々村は、少し照れくさそうに頭を掻いた。「今は、ちゃんと働いてる。妹の学費くらいは、俺が稼ぐ。その上で、どこまでやれるか、試しに来ただけだ」 彼の目には、もう怯えも、焦りもなかった。地に足の着いた、静かな覚悟が宿っていた。

予鈴が、彼らの短い再会に終わりを告げる。 「じゃあ、また」 美月が手を振る。 「ああ」と翔平が応える。 「健闘を祈る」と野々村が言った。

彼らはもう、同じ道を歩むことはないだろう。 三人は人混みの中へと散っていく。美月は文系の、野々村は理系の、そして翔平は、自分が本当に学びたいと思った、全く別の学部の試験会場へ。

彼らは、偏差値という名の絶対座標が支配する世界で、自分だけの「新しい座標」を見つけようとしていた。 その座標が、世間的な成功に繋がるのか、それとも失敗に終わるのかは、誰にも分からない。

だが、それでいいのだ。 彼らはもう、誰かが決めた「正解」を探してはいない。 自分だけの答えを、自分の足で探しに行く。その自由が、彼らが犯した罪の代償として手に入れた、唯一にして最大の戦利品だった。

翔平は、深く息を吸い込んだ。 そして、無数の受験生たちと共に、自分の戦場へと、確かな足取りで歩き出した。

(了)

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