十七年前、僕たちは見て見ぬふりをした。それが、最初の殺人だった。
あらすじ
IT企業のCEOとして成功を収めた影山が、人里離れた湖畔に立つ自らのスマート・ヴィラに、かつてのクラスメイトたちを招待した。招待客の中には、誰もが憧れたマドンナ・明日香の姿もあった。
豪華な館での懐かしい再会。しかし、記録的な嵐が彼らを外界から完全に孤立させ、その夜は悪夢へと変わる。翌朝、クラスの王様だった高橋が、自室で死体となって発見されたのだ。
これは事故か、殺人か。疑心暗鬼が渦巻く中、通信手段は絶たれ、助けを呼ぶこともできない。追い詰められた彼らの脳裏に、17年前にクラスから忽然と姿を消した「ある生徒」の忌まわしい記憶が甦る。
あの日の沈黙が、今、死の断罪となって彼らに牙を剥く。 閉ざされた館で、罪の告白と新たな殺人が連鎖する。最後に生き残るのは、そして真実を暴くのは、誰か。
登場人物紹介
- 佐伯 樹(さえき いつき) 図書館司書。学生時代は物静かな読書家だった。クラスの中心から常に一歩引いていた冷静な観察眼で、この閉ざされた館の謎に挑むことになる主人公。
- 斉藤 明日香(さいとう あすか) クラスの元マドンナ。現在は著名なフラワーデザイナー。その変わらぬ美貌と優しさが、惨劇の中で唯一の希望となるが…。
- 影山 陸(かげやま りく) 今回の同窓会の主催者。学生時代は目立たない存在だったが、IT事業で大成功を収めた。惨劇が起きても、不自然なほど冷静さを保っている謎めいた人物。
- 高橋 健吾(たかはし けんご) 最初の犠牲者。学生時代のクラスの王様。大手商社に勤め、成功した現在もその傲慢な態度は変わらない。
- 佐藤 陽介(さとう ようすけ) 物語の鍵を握る「亡霊」。17年前に、クラスから忽然と姿を消した生徒。彼の存在が今回の事件の核心に深く関わっているようだが、その詳細は誰もが口を閉ざす。
プロローグ
そのニュース記事を見つけたのは、九月も半ばを過ぎた、雨のそぼ降る金曜の夜だった。 斉藤明日香は、フローラルデザインの国際コンペで審査員特別賞を受賞した祝いにと、一人で高価なワインを開けていた。リビングの大きな窓には、都心のきらびやかな夜景が滲んでいる。成功。名声。誰もが羨む人生。そのどれもが、心の奥底にぽっかりと空いた穴を埋めてはくれなかった。
スマホの画面を漫然とスワイプしていた指が、不意に止まる。
『新時代を牽引するリーダー100人【ビジネス編】』
その見出しの下に並んだ顔写真の中に、見知った男がいた。高橋健吾。歳を重ねて多少肉付きは良くなったが、人を食ったような自信に満ちた笑顔は、十七年前と少しも変わっていなかった。
記事をタップする。輝かしい経歴が並べられ、彼のリーダーシップの源泉を辿るという名目で、学生時代の思い出が美化されて語られていた。
『――学生時代から、クラスのまとめ役でしたね。周囲をぐいぐい引っ張っていく太陽のような存在で、自然と人が集まってくるんです。あの頃から、彼の周りにはいつも笑い声が絶えませんでした』
明日香は、グラスを持つ手を止め、画面を睨みつけた。 笑い声。 そうだ、あの日の教室にも、甲高い笑い声が響いていた。机にうつ伏せになった彼の背中を蹴りながら、高橋は笑っていた。取り巻きたちも、腹を抱えて笑っていた。
明日香は、窓の外の夜景に目をやった。ガラスに映る自分の顔が、能面のように無表情に見える。 違う。あの教室にいたのは、笑っていた者だけじゃない。俯いていた者。目を逸らしていた者。そして――何も言えず、ただ立ち尽くすことしかできなかった、私。
十七年前の九月二十日。 佐藤陽介が、自らの部屋で命を絶った日。
その十七回目の命日が、あと数日で訪れようとしていた。
明日香は、スマホのアドレス帳を開く。アルファベットの「K」の項目に、ここ数年、一度も開いたことのない名前があった。 影山陸。 彼もまた、あの教室で息を潜めていた一人だ。佐藤の、唯一の友人だった男。
コールボタンを押す。数回の呼び出し音の後、懐かしい、けれどどこか乾いた声が聞こえた。
「……久しぶり。明日香だけど、分かる?」
静寂が流れる。やがて、影山が呟いた。 『……ああ。忘れるわけない』
「お願いがあるの」明日香の声は、自分でも驚くほど冷たく、澄んでいた。「私たちの“贖罪”を始めましょう」
第一章:偽りの再会
「それにしても、驚いたよ。あの影山が、こんな大豪邸の主とはな」
シャンパングラスを片手に、高橋健吾がわざとらしく大きな声で言った。彼の周りには、学生時代と同じように数人の男女が集まり、愛想笑いを浮かべている。ここは、彼らのためのステージではないというのに、高橋はほんの数分で空気を支配し、自らが中心であるかのように振る舞っていた。
招待状が届いたのは、一ヶ月前のことだった。 差出人は、影山陸。高校二年の時、クラスにいたはずだが、どんな顔だったか、どんな声だったか、記憶はひどく曖昧だった。それが今や、飛ぶ鳥を落とす勢いのIT企業のCEOだという。 『高校卒業から十七年が経ち、皆様も各方面でご活躍のことと存じます。つきましては、旧交を温めるべく、下記の通り同窓会を企画いたしました』 その文面に記された会場は、人里離れた湖畔に立つ、彼のプライベート・ヴィラだった。
司書として公立図書館に勤める僕、佐伯樹にとって、その招待は少しばかり場違いに思えた。学生時代、クラスの中心から常に距離を置いていた。本の世界に没頭することで、教室に渦巻く残酷なまでの序列から目を逸らしていたのだ。それでも招待に応じたのは、ほんの少しの好奇心と、そして――あの頃から何も変わらない自分から、何か変われるかもしれないという、淡い期待があったからかもしれない。
ヴィラは、噂に違わぬ壮麗な建物だった。ガラスと木材を多用したモダンなデザインで、湖の景色を一枚の絵画のように切り取っている。館内は完全なスマートホーム化がされており、照明から空調、音楽まで、AIアシスタントに話しかけるだけですべてが制御されるらしかった。
集まったのは、僕を含めて男女合わせて十人。元のクラスが三十人ほどだったことを考えると、ずいぶんと少ない。顔ぶれを見渡して、僕は微かな違和感を覚えた。ここにいるのは、高橋のようにクラスのトップにいた者たちと、その取り巻きだったグループ。そして、僕のように、彼らの機嫌を損ねないよう、常に息を潜めていた者たち。妙に、両極端な人間だけが集められているような気がした。
「わあ、明日香! 全然変わらないね!」
歓声が上がり、皆の視線が一人の女性に注がれる。 斉藤明日香。 僕たちのクラスの、永遠のマドンナ。艶やかな黒髪を揺らし、優雅に微笑む姿は、十七年という歳月を全く感じさせなかった。彼女が現れた瞬間、ヴィラの空気がぱっと華やぐ。誰もが彼女に声をかけ、その隣に立とうとする。彼女は、あの頃と同じように、誰にでも分け隔てなく、優しい笑みを返していた。
「みんな、集まってくれてありがとう」
主催者である影山が、ラウンジの中央に立った。学生時代の面影はほとんどない。高価なデザイナーズウェアに身を包み、自信に満ちた静かな声で語りかける姿は、成功者そのものだった。だが、その目に宿る光はどこか冷ややかに見えた。
パーティは、和やかに始まった。近況報告や昔の笑い話に花が咲き、高価なシャンパンが次々と空いていく。窓の外では、いつの間にか雨脚が強まっていた。天気予報では、今夜から明日にかけて、この地域は記録的な豪雨に見舞われると言っていた。
「そろそろお開きに……」 誰かがそう言いかけた瞬間、ヴィラ全体が大きく揺れ、停電した。 悲鳴が上がる。数秒後、非常用電源に切り替わり、薄暗いオレンジ色の光が室内を照らし出した。
「大丈夫、落ち着いてください」影山の冷静な声が響く。「おそらく、近くで落雷があったのでしょう」
だが、彼のAIアシスタントが、無機質な声で絶望的な事実を告げた。 『外部との通信回線がすべて断絶。原因不明。また、監視カメラの映像によりますと、ヴィラに通じる唯一の道路が、土砂崩れにより完全に寸断されています』
ラウンジが、水を打ったように静まり返る。 ガラス張りの壁の向こうでは、嵐が猛り狂っていた。 僕たちは、この陸の孤島に閉じ込められたのだ。
第二章:最初の断罪
孤立したヴィラでの一夜は、悪夢そのものだった。 誰もが、一睡もできなかった。風が窓ガラスを叩き、木々が不気味に呻く音を聞きながら、それぞれの部屋で息を潜めて朝を待った。昨夜までの和やかな雰囲気は跡形もなく消え去り、そこには剥き出しの恐怖と猜疑心だけが渦巻いていた。犯人は、この中にいる。その事実が、嵐の音よりも大きく、僕たちの心を苛んでいた。
夜が明け、嵐が嘘のように静まると、絶望的な現実がより一層際立った。窓の外では、なぎ倒された木々が道を塞ぎ、湖は濁流となって荒れ狂っている。スマホの電波は依然として圏外のままだ。
「……まずは、皆の無事を確認しましょう」
ラウンジに集まった僕たちを前に、影山が静かに言った。その落ち着き払った態度が、今はかえって不気味に見えた。皆、寝不足と恐怖で顔は青ざめ、互いの顔色を窺うように視線を交わしている。
「高橋さんが、まだ部屋から出てきていません」 一人の女性が、震える声で言った。
「あいつのことだ。昨夜の酒が残って、まだ寝てるだけだろう」 誰かが軽口を叩いたが、その声には明らかに緊張が滲んでいた。
「念のため、声をかけてきます」 影山が言い、数人がそれに続いた。僕も、壁際に立ったまま、息を詰めてその様子を見守っていた。
高橋の部屋は、二階の最も見晴らしの良い角部屋だった。 ノックをしても、返事はない。ドアノブはロックされていた。影山が管理用のマスターキーでドアを開けると、むっとするようなアルコールの匂いと共に、静まり返った室内が姿を現した。
「高橋……?」
部屋に入った一人が、息を呑む。 キングサイズのベッドの上で、高橋健吾は眠るように仰向けになっていた。しかし、その顔色は土気色で、半開きになった唇からは何の生命感も感じられない。枕元には、飲み干されたワイングラスが転がっていた。
「おい、起きろよ!」 一人が肩を揺するが、その体は氷のように冷たかった。 次の瞬間、女性の甲高い悲鳴が、ヴィラの静寂を切り裂いた。
高橋健吾は、死んでいた。
ラウンジは、完全なパニックに陥った。泣き叫ぶ者、壁に突っ伏して嘔吐く者、そして、「誰がやったんだ」と怒鳴り散らす者。昨日まで社会的な仮面を被っていた大人たちの姿は、そこにはなかった。
「皆さん、落ち着いてください! 警察が来るまで、誰も部屋に触れないで!」 影山の冷静な声が、かろうじて場の秩序を保っていた。
僕は、その混乱の中心から少し離れ、壁に背を預けていた。心臓が嫌な音を立てて脈打っている。事故だろうか? いや、違う。このタイミングは、あまりに出来過ぎている。
ふと、斉藤明日香に目が向いた。彼女は、顔を両手で覆い、か細い肩を震わせていた。誰もが彼女を心配し、慰めの言葉をかけている。悲劇のヒロイン。その姿は、あまりに完璧に見えた。
僕は、昨夜の記憶を必死で手繰り寄せていた。そうだ、高橋はパーティの最中、自慢げに話していた。「この間の健康診断、オールAだったよ。医者も驚くほどの健康体だそうだ」。そんな男が、ワインの一本や二本で急性アルコール中毒になるだろうか?
そして、もう一つ。 明日香は、皆のためにと、手製のハーブティーをポットに入れて持ってきていた。「リラックスできる特別なブレンドなの」と微笑みながら、一人ひとりに手渡していた。高橋も、ワインのチェイサー代わりにそれを飲んでいたはずだ。
まさか。 ありえない。彼女が、あの斉藤明日香が、人殺しなどするはずがない。
僕は頭を振って、馬鹿げた妄想を打ち消そうとした。だが、心の片隅で、冷たい疑念の芽が静かに顔を出していた。それはあまりに微かで、あまりに不確かで、信じがたいものだったが、一度芽生えてしまったそれは、この館の濃密な空気の中で、ゆっくりと根を張り始めているのを感じた。
僕たちの長い、長い一日が始まった。
第三章:連鎖する恐怖と心理戦
高橋の死は、僕たちの間にあった薄氷のような信頼関係を完全に打ち砕いた。誰もが、隣にいる人間の顔を盗み見ては、その微笑みの裏に隠された殺意を想像してしまう。影山は主催者として最も疑われ、皆から詰問されていたが、彼は動じることなく「警察の到着を待つのが最善の策だ」と繰り返すだけだった。
その夜、二つ目の事件は、さらに不気味な形で僕たちを襲った。
「きゃあああああっ!」
甲高い悲鳴は、二階のバスルームからだった。駆けつけると、高橋の取り巻きグループの中心だった女性、美咲がバスタブの中で倒れていた。シャワーヘッドが床に転がり、彼女の濡れた髪が白い肌に張り付いている。一見すると、入浴中の不慮の事故のようだった。
「感電…? まさか、このヴィラのシステムが故障したのか?」 誰かが怯えた声で呟く。この最新鋭の館そのものが、僕たちを殺害しようとする巨大な罠のように思えてきた。
だが、僕はその異常さに気づいていた。スマートバスルームの制御パネルは、水濡れや漏電対策が完璧なはずだ。それが、なぜ? 僕は皆の目を盗んで、パネルの隅に付着していた、半透明のジェル状の微かな痕跡を見逃さなかった。
恐怖は、物理的な死だけではなかった。 それは、じわじわと僕たちの精神を蝕んでいった。
その日の午後、僕のタブレットに、未知のアドレスから一通のメッセージが届いた。それは、他の全員にも同時に送られていたようだった。
『僕のせいじゃない。誰も助けてくれなかった。暗くて、寒くて、一人ぼっちだった』
短い文章。しかし、その一文が持つ意味に気づいた時、ラウンジは凍りついた。 佐藤陽介。 十七年間、僕たちが意図的に記憶の底に沈めてきた亡霊の名が、生々しい輪郭を持って蘇った瞬間だった。
「誰の仕業だ…!」 影山が怒鳴り、皆が互いの顔を見合わせる。
そして、その夜。 ラウンジのAIスピーカーが、静寂を破って突然音楽を再生し始めた。それは、十七年前に流行った、どこか物悲しいメロディのポップソングだった。誰もが知っているはずなのに、タイトルが思い出せない。
「…この曲…」明日香が、震える声で呟いた。「陽介が、いつも屋上で一人で聴いていた曲…」
彼女の言葉に、全員が息を呑む。 まるで、佐藤の亡霊がこの館を彷徨い、僕たちに語りかけているかのようだった。
「やめてくれ…もうやめてくれ…!」 一人の男が頭を抱えて叫び、その場に崩れ落ちた。 恐怖は臨界点に達していた。それは、次に殺されるのは自分かもしれないという恐怖だけではない。自分たちが必死で忘れてきたはずの罪が、暴かれようとしていることへの、根源的な恐怖だった。
犯人は、僕たちの心を知り尽くしている。 そして、ただ殺すのではなく、僕たちの罪を一つ一つ抉り出し、精神的に追い詰めていくことを楽しんでいるかのようだった。
僕は、混乱する皆から離れ、窓の外の闇を見つめていた。 これは、佐藤の呪いなどではない。 もっと計画的で、もっと冷徹な、人間の意志による犯行だ。 そして、犯人は僕たちの罪の重さを、正確に測っている。
僕は、自室に戻ると、タブレットでこのヴィラの設計図を検索した。影山が成功者としてメディアに取り上げられた際、特集記事で公開されていたものだ。配電盤、通信システム、そして…換気システム。
第二の犯行現場となったバスルームの換気口は、ある部屋と繋がっていた。 斉藤明日香の部屋と。
まさか。そんなはずはない。 それでも、僕の指は、彼女の名前と「植物」「毒」というキーワードを、無意識のうちに検索窓に打ち込んでいた。
第四章:沈黙の告白
「これは、佐藤陽介の復讐だ」
翌朝、ラウンジに集まった憔悴しきった顔ぶれを前に、僕は静かに切り出した。僕の言葉に、数人がびくりと肩を震わせる。十七年間、誰もが口にすることを避けてきた名前。その名前が持つ重みに、部屋の空気が軋むのが分かった。
「呪いだなんて、非科学的なことを言うつもりはない。犯人は、僕たちの中にいる。そしてその人物は、僕たちが佐藤陽介にしてきたことのすべてを知っている」
僕は、図書館司書として培った調査能力と記憶力を総動員して、昨夜のうちにすべての情報を整理していた。高橋のアレルギー、バスルームのジェル状の痕跡、そして決定的な証拠。
「僕は、昨夜、このヴィラの過去の設計資料を調べた。そして、学生時代の文集も思い出したんだ。佐藤が、文芸部の片隅に載せていた、自作の詩を」
僕はタブレットを取り出し、画面に古い文集のデジタルデータを表示させる。それは、僕が司書という立場を利用して、図書館のデータベースから探し出したものだった。
「詩のタイトルは、『見えない鎖』」
僕は、震える声でその詩を読み上げ始めた。
『王様は木の実で死ぬ 水浴びの姫は雷に打たれる 道化師は笑いながら溺れる そして僕は、沈黙の中で消えていく』
ラウンジが、死んだように静まり返る。 王様は木の実で死ぬ――ナッツアレルギーだった高橋。 水浴びの姫は雷に打たれる――バスルームで感電死した美咲。 詩は、このヴィラで起きた殺人を、十七年も前に予言していたのだ。
「誰かが、この詩を設計図にして、犯行に及んでいるんだ」僕の声は、自分でも驚くほど冷静だった。「僕たち全員が、この詩に登場する『罪人』なのかもしれない」
その言葉が、引き金だった。 ダムが、決壊した。
「…俺は、見ていただけなんだ…!」 最初に口を開いたのは、高橋の取り巻きの一人だった。「高橋たちが佐藤を体育倉庫に閉じ込めた時も、俺は、ただそこにいただけなんだ…!」
それを皮切りに、堰を切ったように、皆が十七年間、心の奥底に封印してきた罪の告白を始めた。 教科書を隠したこと。上履きをゴミ箱に捨てたこと。机に悪趣味な落書きをしたこと。そして、それらを見て見ぬふりをしたこと。笑っていたこと。関わらないように、目を逸らしていたこと。
小さな悪意と、無数の沈黙。 それらが積み重なり、一人の人間の尊厳を、未来を、命を奪ったのだという事実が、今更ながらに僕たちに突きつけられた。
誰もが泣き、許しを乞い、自らの罪を懺悔していた。 僕もまた、その一人だった。図書室の窓から、佐藤が一人で殴られているのを見たことがある。僕は、カーテンを引き、本の世界に逃げ込んだ。見ていないふりをした。僕の沈黙もまた、彼を殺した鋭い刃の一つだったのだ。
懺悔の嵐の中、ただ一人、斉藤明日香だけが、静かに俯いていた。 その美しい顔には、涙一つ浮かんでいなかった。
僕は、皆の告白を聞きながら、最後のピースをはめ込んでいた。 詩の存在を知り、それを再現できる人物。 高橋のアレルギーを正確に把握し、特殊な植物の知識でそれを誘発できる人物。 最新鋭のヴィラのシステムに精通し、事故に見せかけることができる人物。 そして何より、僕たち全員の罪を知り、それを断罪する権利が自分にあると信じている人物。
そのすべての条件を満たすのは、たった一人しかいなかった。 僕は、ゆっくりと立ち上がると、すすり泣く人々の中を歩き、彼女の前に立った。
「君だったんだね、明日香」
第五章:マドンナの仮面
僕の言葉に、ラウンジの嗚咽がぴたりと止んだ。 罪を告白し、許しを乞うていたすべての視線が、中心に立つ一人の女性に注がれる。斉藤明日香。僕たちの永遠のマドンナ。
彼女は、ゆっくりと顔を上げた。 その表情から、悲しみも、怯えも、戸惑いも、すべてが抜け落ちていた。まるで、精巧な仮面を一枚ずつ剥がしていくように。最後に現れたのは、氷のように冷たく、そしてどこまでも静謐な微笑みだった。 その微笑みは、どんな激しい言葉よりも雄弁に、僕の推理が真実であることを物語っていた。
「そこまでだ、佐伯君」
明日香が口を開くより先に、影山が僕の前に立ちはだかった。彼の目は、これまでの冷静さが嘘のように、狂信的な光を宿していた。
「君に、彼女を裁く権利はない」
影山は、すべてを語り始めた。彼が佐藤の唯一の友人であったこと。いじめが激化する中で、恐怖から佐藤を裏切り、傍観者になったこと。その罪悪感に十七年間苛まれ続けてきたこと。そんな彼の元に現れた明日香が、唯一の救いであり、女神であったこと。
「僕は、この舞台を用意しただけだ。佐藤の無念を晴らし、皆に罪を認めさせるための舞台を。彼女は、僕の犯した罪をも清算してくれる、聖女なんだ」
影山の告白は、悲痛な祈りのようだった。彼は、明日香の計画が殺人であると知りながら、彼女への歪んだ愛情と自らの罪悪感から、共犯者となることを選んだのだ。
「聖女なんかじゃないわ」
明日香の声が、ラウンジに静かに響いた。彼女は立ち上がり、僕たち一人ひとりの顔を、まるで魂を鑑定するかのように見つめた。
「私は、あなたたちと同じ。いいえ、あなたたち以上の罪人よ」
彼女の独白が始まった。それは、復讐者の咆哮ではなく、十七年間、たった一人で死者の声を聞き続けた巫女の、厳かな神託のようだった。
「あの日から、陽介がいない日は一日もなかった。あなたたちが過去を忘れて、仕事や家庭を築いて、幸せになっていく間も、私の時間はあの教室で止まったままだった」
彼女の視線が、高橋が座っていたソファに向けられる。 「高橋君を殺したのは、彼がいじめたからじゃない。彼が、自分のしたことの醜さを忘れ、その残酷さを『リーダーシップ』などという言葉にすり替え、成功の糧にしていたから。その無神経さが、陽介を二度殺すことだと思った」
次に、美咲が座っていた椅子に目を移す。 「美咲を殺したのは、彼女が笑っていたから。数年前の小さな集まりで、彼女が『佐藤って、今思うとウケるよね』と笑ったのを、私は聞いてしまった。陽介の絶望は、あなたたちにとって、時が経てばただの笑い話に変わる。そのことが、どうしても許せなかった」
明日香は、ゆっくりと僕たちを見回した。 「でもね、本当の罪は、暴力そのものじゃない。それを許した、この場の空気よ。見て見ぬふりをした、あなたたちの沈黙。友達を裏切った影山の沈黙。そして……好きだった人を助けることもできず、自分の立場を守ることだけを考えた、私の沈黙。私たち全員が、陽介を殺したの」
彼女は、そう言うと、ドレスのポケットから小さなガラス瓶を取り出した。中には、一輪の美しい紫色の花が液体に浸されている。トリカブト。フラワーデザイナーとしての彼女の知識が、最も効率的な死の方法を選び出していた。
「これが、最後の儀式。あなたたちに罪を告白させ、そして最も罪深い私自身を、私が断罪する。これでやっと、陽介に謝りに行ける」
明日香が瓶の蓋に手をかけた。その瞬間だった。
エピローグ:消えない罪、続く贖罪
「だめだ!」
僕が叫ぶのと、床に膝をついていた一人が「ごめんなさい…本当に、ごめんなさい…!」と泣き崩れるのは、ほぼ同時だった。その声は伝染し、ラウンジは再び、しかし今度は本物の謝罪と後悔の声に満たされた。それは、明日香の心を一瞬、確かに揺るがせた。
その、ほんの僅かな躊躇。 その隙間を縫うように、遠くから、重いプロペラ音が響いてきた。 嵐は過ぎ去り、静寂を取り戻した湖畔に、救助隊のヘリコプターが近づいてきていた。影山がセットしていた、タイムロック式の救難信号が作動したのだ。
明日香の手から、小さな瓶が滑り落ちた。彼女の儀式は、完遂されることなく終わった。彼女は抵抗せず、影山と共に駆けつけた警察官に身柄を拘束された。僕たちは、救助隊のライトに照らされながら、悪夢の館を後にした。
一年後。 事件は『湖畔のヴィラ連続殺人事件』として、世間を大きく騒がせた。僕たち生き残った者は、マスコミによって面白おかしくプライバシーを暴かれ、「いじめの傍観者」というデジタルタトゥーを刻まれた。それが、社会から僕たちに下された罰だった。
秋晴れの空の下、僕は佐藤陽介の墓の前に立っていた。そこへ、一人、また一人と、あのヴィラで生き残った者たちがやってくる。皆、一年前よりずっと歳を取り、疲れた顔をしていた。
「僕たちで、基金を設立したんだ」 誰かが言った。「いじめ問題に取り組むNPO法人を支援するための、小さな基金だ。僕たちにできるのは、これくらいしかない」
罪が消えることはない。僕たちは、生涯この重荷を背負って生きていくのだ。だが、ただ縮こまって生きるのではなく、その罪と向き合い、未来のために何かを為す。それが、僕たちが見つけ出した、唯一の贖罪の形だった。
全員で手を合わせ、墓を後にしようとした時、僕は墓石の根元に、一輪だけ、僕たちが供えたものとは違う花が置かれているのに気づいた。 それは、紫色の、気品のあるアネモネだった。 花言葉は、「あなたを信じて待つ」。 そして、もう一つの意味は――「見捨てられた」。
フラワーデザイナーだった明日香が、最も好きだと言っていた花だ。 誰が供えたのかは分からない。だが、その一輪の花は、終わったはずのあの事件が、まだ誰かの心の中で、静かに、そして永遠に続いていることを示しているようだった。僕たちの、長い長い贖罪の道もまた、始まったばかりなのだと、静かに告げながら。



































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