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『僕の言葉と、君の声と』

夏目漱石が遺した“声”は、100年の時を超え、二人の恋を解き明かす鍵になる。


あらすじ

内省的な小説家志望の青年・月岡冬真と、情熱的な新人声優・天野夏帆。 正反対の二人が東京・千駄木にある夏目漱石ゆかりのシェアハウス『漱石堂』で出会ったのは、偶然か、必然か。壁一枚を隔てた隣人として、互いの創作の音だけを感じながら、もどかしい日々が過ぎていく。

ある日、二人は建物の奥から、漱石が遺したとされる一本の蝋管レコードを発見する。記録されていたのは、謎めいた英国詩を朗読する、文豪自身の声。 「なぜ、この詩を、声で遺したのか?」

小説家である冬真の「言葉」を分析する知性と、声優である夏帆の「声」から感情を読み解く感性。二つの才能が重なる時、その音声が、漱石の奇妙な短編『夢十夜』に隠された、百年越しの秘密の扉を開けてしまう。

文豪の秘められた「友情の誓い」を辿る謎解きは、いつしか、正反対の二人の心を繋ぐ恋の物語へと変わっていく。

登場人物紹介

  • 月岡 冬真(つきおか とうま): 主人公(月)。24歳。小説家志望。静かに言葉を紡ぎ、論理的に物事を分析する。夏目漱石の文体や構成の巧みさは尊敬しているが、その作品に描かれる人間の激しい感情や心の暗部に対しては、意識的に距離を置いている。自身の感情を表に出すのが苦手で、創作においても心の奥底を描くことに恐怖心を抱えている。
  • 天野 夏帆(あまの かほ): ヒロイン(太陽)。22歳。新人声優。直感的で情熱的。漱石の物語が持つ人間臭いドラマ性を敬愛している。声でキャラクターの魂を表現することを目指すが、時に感情が先行し、技術的な壁にぶつかっている。
  • 佐伯 治(さえき おさむ): 『漱石堂』の大家。70代。漱石と交流のあった初代大家の孫。『漱石堂』の歴史と、そこに眠るかもしれない秘密の、穏やかな語り部となる。

第一章 声と沈黙

月岡冬真(つきおか とうま)の部屋では、沈黙さえも形を持ってそこに存在しているかのようだった。 整然と積まれた文庫本。モニタの横に、きっちりと角度を揃えて置かれた赤鉛筆。ラップトップの画面に映る原稿用紙の、白い余白だけが、彼の世界のすべてだった。 カーソルが、一行の終わりで無機質に点滅している。

『――どうして、そんな顔をするんだ』

書いたばかりの台詞を、冬真は声に出さずに読み返した。違う。この言葉では、主人公の胸を引き裂くような焦燥感に、指一本触れることさえできない。彼は無表情のまま、その一行をバックスペースキーで静かに抹殺した。感情を書こうとするたび、言葉は乾いた砂のように指の間からこぼれ落ちていく。それが、ここ数ヶ月の彼の日常だった。

その、時だった。

「――っ、だーっ! もうっ!」

壁の向こうから、くぐもった、しかし確かな熱量を持った声が響いた。驚いて顔を上げた冬真の耳に、今度は立て続けに、堰を切ったような台詞が飛び込んでくる。

「なんで分かってくれないの!? 好きだから! あなたが好きだから、言ってるんじゃん!」

びくり、と冬真の肩が震えた。それは、彼が先ほどまで書こうとしていた主人公が、喉から血を吐くようにして叫ぶはずだった台詞と、あまりにも似ていたからだ。だが、壁の向こうの声は、冬真の書いたどの文字よりも、切実で、不器用で、そしてどうしようもなく心を揺さぶる響きを持っていた。 『漱石堂』の二百二号室。一ヶ月前に入居してきた、天野夏帆(あまの かほ)という新人声優の声。 冬真は小さく舌打ちをすると、ヘッドホンを手に取った。ノイズキャンセリング機能のスイッチを入れると、彼女の激情は電子的な静寂の向こうに遠ざかっていく。そうだ。これでいい。感情は、創作の邪魔になるだけだ。彼は再び、白い砂漠のような原稿用紙に向き直った。


夏帆は「はあーっ」と大きなため息をつき、手にした台本をばさりと畳の上に置いた。安いオーディオドラマの、その他大勢の役。それでも、感情がうまく乗らない。 「もっと、こう…リアルに…」 ぶつぶつと呟きながら、立ち上がって部屋の中を歩き回る。この『漱石堂』は、古いけれど、クリエイター向けに改装されているおかげで、多少の声出しは許されているのがありがたかった。隣の二百一号室に住んでいる月岡冬真さんという小説家の人は、一日中部屋にいるらしいけれど、今のところ苦情が来たことはない。会えば静かに会釈を返してくれる、影の薄い、けれど瞳の奥に何かを湛えているような人。

「よし、もう一回!」

夏帆は気合を入れ直し、再び台本を拾い上げた。


その日の夕暮れ、共有リビングの縁側で、冬真は読みかけの本を開いていた。夏の終わりの生ぬるい風が、古い木の匂いを運んでくる。集中しようとすればするほど、昼間の彼女の声が、耳の奥で残響のように繰り返された。

「あ、月岡さん。こんばんは」

声の方を向くと、夏帆が湯気の立つマグカップを手に、そこに立っていた。ラフなTシャツに、髪を無造作に束ねた姿。舞台の上やマイクの前とは違う、無防備な彼女がそこにいた。 「…こんばんは」 冬真は短く答え、視線を本に戻した。隣に座る気配がして、緊張で指先がこわばる。

「あの…昼間、うるさかったですよね? すみません…」 「いえ」 「どうしても、感情移入できなくって。月岡さんは、小説書くとき、どうやって登場人物の気持ち、考えるんですか?」

不意の質問だった。冬真は言葉に詰まる。感情を描けないことが、今の自分の病だとは、言えるはずもなかった。 「…ただ、観察して、書くだけです。その人物が、そう動くべくして動くように」 「そっかあ…。私、考えすぎちゃうんですよね。理屈じゃなくて、こう、心でドーン!みたいな感じでやりたいんですけど」 そう言って夏帆は、胸を拳で軽く叩いた。その仕草の、あまりの太陽のような明るさに、冬真は目を細める。

その時だった。リビングの古時計が、重々しく時を告げた。大家の佐伯(さえき)さんが、にこにこと二人を見ていた。 「お二人さん、仲良くやってるようで何よりだ。そうだ、月岡くん、天野さん。ちょっと面白いものが出てきたんだが、見ていかないかね?」

佐伯さんに手招きされるまま、二人は書庫として使われている部屋の奥へと導かれた。そこには、先日、彼らが整理を手伝った時に見つかった、古い木箱が鎮座していた。

「例の蓄音機と、一緒に出てきたもんだよ」

佐伯さんが恭しく開けた箱の中には、黒い蝋でできた円筒――蝋管レコードが、一本だけ、静かに収まっていた。 ラベルはない。誰が、何を、いつ記録したものなのか。 ただ、そこに百年近い時間が堆積していることだけは、誰の目にも明らかだった。

「もしかしたら…」と夏帆が息をのむ。

「漱石先生の、声、だったりして」

その言葉に、冬真の心の、ヘッドホンでは消せない部分が、微かに、しかし確かに、震えた。 物語が、静かに動き出す予感がした。

第二章 共鳴するパズル

蝋管レコードの発見と再生から数日が過ぎても、『漱石堂』の空気はどこか浮き足立っていた。住人たちはリビングに集まるたびに、あの夜に聴いた声について語り合った。百年の時を超えて響いた文豪のため息。それは住人にとって、歴史的なロマンであり、格好の酒の肴だった。

だが、月岡冬真と天野夏帆にとって、あの声はもっと切実な何かを孕んでいた。

冬真は、自室で書見台に広げた英国詩集のページを、神経質そうに指でなぞっていた。あの後、彼は驚異的な集中力で、漱石が朗読した詩の出典を突き止めていた。クリスティーナ・ロセッティの、あまり有名とは言えない一編。テーマは「追憶」と「別れ」。彼は詩の構造を分解し、漱石の生涯における執筆時期を照らし合わせ、考えられる限りの解釈をノートに書き連ねていた。だが、どれも仮説の域を出ない。パズルのピースは揃っているのに、それを繋ぎ合わせるための「感情」という名の接着剤が、彼には欠けていた。

一方、夏帆はリビングの片隅で、イヤホンを耳に、スマートフォンの画面をじっと見つめていた。デジタル化された漱石の音声ファイルを、彼女はもう何十回となく繰り返し聴いていた。

「……remember me……when I am gone away……」

漱石の声を真似て、囁くように呟く。違う。この響きじゃない。あんなにも悲しいのに、どこか決然とした響き。単なる別れの詩ではない。その声には、もっと複雑な感情の地層が隠されている。彼女は目を閉じ、耳の奥に残る文豪の息遣いに、自分の心をシンクロさせようと試みる。だが、声の正体は霧の向こうで、その輪郭をはっきりと掴むことができなかった。

夕食の時間が過ぎ、リビングにいるのが二人だけになった頃だった。沈黙を破ったのは、夏帆だった。 「……行き詰まっちゃいました」 ぽつり、と彼女が言うと、冬真は本から顔を上げた。 「月岡さんは、何か分かりました?」 「詩の出典と、執筆された年代、当時の漱石の周辺状況。事実関係は、ある程度」 「すごい! やっぱり小説家さんは違いますね! で、なんで漱石は、この詩を読んだんだと思いますか?」 夏帆が身を乗り出す。その純粋な好奇心に、冬真は少しだけ気圧された。 「…確証はない。ただ…」 彼は言葉を選びながら、自分のノートに書いた一説に目を落とした。「この詩が書かれた時期、漱石はロンドン留学中の友人の訃報に接している。だが、その友人との関係は、決して良好とは言えない-かったらしい」 「友人…」 「詩の中の一節、『きみが僕を忘れても、悲しまないでほしい』。これは、漱石から、その亡くなった友人への、複雑なメッセージだった可能性がある」

その時、夏帆の瞳が、僅かに輝きを増したのを冬真は見た。 「…そっか。そうだったんだ……」 夏帆はもう一度イヤホンを耳にあてると、目を閉じた。そして、今度は全く違う声色で、詩の一節を呟いた。

「Gone far away into the silent land……」

その声は、もう漱石のモノマネではなかった。それは、友への愛情、後悔、そして才能への嫉妬、それら全てがない交ぜになった、一人の人間の、どうしようもなく引き裂かれた心の声だった。 冬真は息をのんだ。 彼が何時間もかけて文字で分析しただけの「事実」に、彼女が、たった一瞬で「魂」を与えてしまった。

「すごい…」思わず声が漏れた。 夏帆は目を開け、少しだけはにかんだ。「月岡さんの解説があったからです。私、声の悲しさの理由が、ずっと分からなかったから」

そして、二人は同時に理解した。 彼は、言葉の海の中から、真実のかけらを見つけることができる。 彼女は、その冷たいかけらに、血の通った体温を与えることができる。 一人では、この謎の核心にはたどり着けない。

「ねえ、月岡さん」 夏帆が、いたずらっぽく笑った。 「私たち、探偵になれるかも」

その言葉に、冬真は返す言葉が見つからなかった。ただ、いつもは創作の邪魔でしかなかった彼女の声が、今は、解けなかった問いの答えを照らし出す、唯一の光のように思えた。 彼は、小さく、だが確かに、頷いた。

テーブルの上には、冬真の開いた本と、夏帆のスマートフォンが並んでいた。 言葉と声が、百年越しの謎を解き明かすために、ようやく手を取り合った瞬間だった。

第三章 百年の夢を辿って

共同での謎解きが始まってから、二人の時間は急速に密度を増していった。 その日の午前中、彼らは国会図書館の閲覧室にいた。そこは冬真の世界だった。張り詰めた静寂、古い紙の匂い、真実だけが価値を持つ空間。彼は迷いなく書庫のデータベースを操作し、明治時代の文芸誌や、漱石の弟子たちが遺した随筆を次々と閲覧請求していく。

夏帆は、そんな冬真の横顔を盗み見ていた。アトリエ荘での彼は、どこか世の中から隔絶された、影の薄い青年だった。だが、ここでは違う。彼は、百年という時間の迷宮を恐れることなく進む、優れた案内人の顔をしていた。

「あった…」

冬真が、マイクロフィルムの画像を拡大しながら、ほとんど吐息のような声で呟いた。夏帆が身を乗り出して覗き込むと、そこには漱石の友人が書いたエッセイが映し出されていた。

『近頃の先生は、ロセッティの詩を口ずさむ癖がある。曰く、あれは単なる詩ではない、背負うて歩かねばならぬ夢なのだ、と』

ロセッティ。蝋管に遺された、あの英国詩人の名だ。そして「背負う夢」という言葉。夏帆の脳裏に、ある物語が稲妻のように閃いた。 「『夢十夜』の…」 「ええ」と冬真が頷く。「第三夜です。我が子を背負い、それが百年前の自分の子だと気づく、あの不気味な夢。繋がった…」 彼の瞳が、これまで見たこともないような熱を帯びていた。夏帆は、自分の心臓が少しだけ速く打つのを感じた。

その日の午後、二人は冬真の提案で、文京区から雑司ヶ谷へと歩いていた。目指すは、夏目漱石が眠る雑司ヶ谷霊園。図書館の静謐な空気とは打って変わって、午後の柔らかな日差しが木々の間からこぼれ、空はどこまでも高く澄み渡っていた。

漱石の墓は、想像していたよりもずっと簡素で、静かな場所にひっそりと佇んでいた。夏帆は、道端に咲いていた小さな野の花を摘むと、そっと墓石の前に供えた。冬真は、そんな彼女の姿を、何も言わずにただ見ていた。

「ねえ、読んでみてもいい?」

夏帆は、持参した文庫本を開いた。漱石の『夢十夜』。彼女がページを繰ったのは、まさに「第三夜」だった。

「…六つになる自分の子を負うている。和尚さん、今時分なら、もう日が暮れたろうか……」

夏帆の声が、墓地の静寂に溶けていく。それは、いつもの発声練習の声ではなかった。百年の時を超えて、漱石という一人の人間が感じていたであろう孤独と、夢の重みに、そっと寄り添うような声だった。冬真は目を閉じる。図書館で文字として理解したはずの物語が、今、全く違う意味を持って彼の心に流れ込んでくる。背負われた子供の重さ、盲目の我が子が囁く不気味な言葉、そして夜明けを待つ男の、途方もない絶望。

言葉に命が宿る瞬間を、彼は目の当たりにしていた。

「…日が昇る時、小僧の言葉通り、石の下になっていた大きな石塔の頂きに、ちょこんと乗っていた」

朗読が終わっても、二人はしばらく動けなかった。 やがて、冬真が口を開いた。

「…すごいな」 それは、何の計算も、何の照れもない、心からの言葉だった。 「あなたの声で聴くと、漱石が、すぐそこにいるみたいだ」 「…月岡さんの解説があったからだよ」 夏帆は、夕暮れに染まり始めた空を見上げながら言った。「私一人じゃ、ただの怖い夢だった。でも、今は違う。漱石が誰かのために、何かを背負おうとしていたことだけは、分かる気がする」

帰り道、二人の間に言葉は少なかった。だが、その沈黙は心地よかった。 『漱石堂』の玄関で、それぞれの部屋に戻るために別れる。

「じゃあ、また」 そう言って自室の扉に手をかけた夏帆に、冬真は、自分でも驚くほど自然に、言葉をかけていた。 「天野さん」 「ん?」 「…ありがとう。今日は」

夏帆は一瞬きょとんとした後、花が咲くように、笑った。 「どういたしまして!」

二百一号室の扉を閉め、冬真は壁に背を預けて立ち尽くした。隣の部屋から、彼女が鼻歌を歌う気配がする。 彼は、いつの間にか自分がヘッドホンをしていないことに、初めて気がついた。 彼女の声は、もう、邪魔なノイズなどではなかった。 それは、彼の静かすぎる世界に、温かな色を与え始めた、紛れもない音楽だった。

第四章 不協和音

漱石の謎は、磁石のように二人を引き寄せていた。彼らは時間を見つけては神保町の古書店街を彷徨い、漱石が愛したという洋食屋で昼食をとり、夜は『漱石堂』のリビングで、まるで共犯者のように膝を突き合わせては、見つけてきた資料を広げた。

その夜も、二人はリビングの古い卓袱台を占領していた。壁の時計の針が、もうすぐ十時を指そうとしている。冬真が、古書店の店主から特別に見せてもらったという、学会誌のコピーをテーブルに広げた。

「漱石が、支援者の一人に宛てた書簡です。これまであまり注目されてこなかったものらしい」

冬真の指差す先を、夏帆は真剣な眼差しで追った。流麗だが、どこか神経質そうな漱石の筆跡。その中に、彼女は一つの言葉を見つけた。

「…ロンドンの憂鬱、ですか?」 「ええ。そして、その続きです」

『…彼の地にて心を砕きし折、ある貴婦人の記憶が慰めとなり、また傷ともなれり』

「貴婦人…!」 夏帆の声が、弾んだ。 「やっぱり! 恋愛だよ、きっと! ロンドンでの、誰にも言えない恋! 蝋管の詩も、夢十夜も、全部その人のことだったんだよ!」 夏帆は、まるで自分の恋であるかのように、頬を紅潮させている。彼女の直感が、物語の核心を掴んだと叫んでいた。だが、冬真の反応は、冷ややかだった。

「早合点しすぎです」 彼の声は、夏帆の熱に冷水を浴びせるような、静かな温度だった。 「『ある貴婦人』というのは、当時の文学では常套句だ。特定の個人を指すとは限らない。僕たちがこれまで集めてきた資料は、すべて亡くなった友人との関係を示唆している。それを無視して、いきなり恋愛に結びつけるのは、論理的じゃない」 「論理、論理って…! じゃあ、この『慰めとなり、また傷ともなれり』っていう言葉はなんなの!? こんなに感情がこもってるのに! 月岡さんには、この言葉の切なさが分からないの!?」 「感情論だけでは、真実にはたどり着けないと言っているんです」 冬真の声に、わずかに苛立ちが滲んだ。「あなたは、すぐに物語を作りたがる。それは声優の長所かもしれないが、事実を歪めることにもなる。これは感傷的な恋愛小説じゃない、歴史の謎解きです」

その瞬間、夏帆の顔から、血の気が引いていくのが分かった。 「…感傷的な、恋愛小説…」 彼女の唇が、小さく震えている。 「そうやって、いつも見下してるんだ。私の仕事も、私の感じ方も、全部。論理的じゃなくて、根拠がなくて、安っぽいって…!」 「そんなことは言っていない!」 「言ってるよ!」

夏帆は勢いよく立ち上がった。椅子が、大きな音を立てて後ろに倒れる。 「もう、いい。月岡さんの、その立派で、正しくて、冷たい『事実』とやらで、一人で謎を解けばいいじゃない!」

彼女の瞳から、一粒の涙がこぼれ落ちた。だが、彼女はそれを乱暴に拭うと、冬-真に背を向け、リビングから出て行ってしまった。 ばたん、と二百二号室の扉が閉まる音が、静まり返った『漱石堂』に響き渡る。

冬真は、一人、その場に立ち尽くしていた。 テーブルの上には、広げられたままの資料と、冷めてしまったお茶。 論理では、彼が正しかったのかもしれない。だが、今、彼の胸を支配しているのは、勝利感などではなかった。 がらんとした空間に響く、古時計の秒針の音。それは、彼の心臓の音よりも、ずっと大きく聞こえた。

翌日から、二人の間にあった心地よい空気は、嘘のように消え失せた。 共有スペースで顔を合わせても、ぎこちない挨拶を交わすだけ。 壁の向こうから聞こえてくる夏帆の練習の声は、どこか精彩を欠いて聞こえた。 そして冬真のキーボードを叩く音もまた、ただの無機質なタイプ音として、虚しく響くだけだった。 共鳴を失った言葉と声は、行き場をなくして、それぞれの部屋の静寂の中に沈んでいった。

第五章 優しい真実

あれから三日が過ぎた。 『漱石堂』の時間は、まるで澱んだ水のように重く、緩慢に流れていた。夏帆は仕事と称して外出することが増え、冬真は食事も自室で済ませるようになった。共有リビングの大きな卓袱台に、二人の資料が広げられることはもうない。

冬真は、一人で調査を進めていた。漱石と、例の「貴婦人」との接点を洗い出そうと、ロンドン留学時代の日記や書簡を片っ端から読み解いていく。だが、一人での作業は、まるで乾いたパンを無理やり飲み込むような、味気ないものだった。文字はただの文字として彼の目と脳を通過していくだけで、その奥にあるはずの感情の体温が、全く伝わってこない。

夏帆もまた、自室で同じ壁にぶつかっていた。彼女は、あの夜に冬真が否定した「恋愛説」を証明しようと、漱石の恋愛小説を読み漁っていた。だが、冬真の指摘した「事実」という名の土台を失った彼女の感性は、確かな根拠のない空想の海を漂うばかりで、どこにも着岸することができなかった。

互いに、パズルの片方だけを握りしめたまま、途方に暮れていた。

その夜、珍しくリビングで考え込んでいた冬真に、大家の佐伯さんが、温かいほうじ茶を淹れてくれた。 「…どうも、この家の空気が、近頃は冬のようじゃな」 穏やかな声だった。佐伯さんは、すべてお見通しのようだった。 「漱石先生のことで、喧嘩でもしたかね」 冬真は何も答えられなかった。図星だった。

「わしが子供の頃、祖父がよく話してくれたよ」 佐伯さんは、茶をすすりながら、遠い目をする。 「漱石先生は、ロンドンの友人の話をする時、いつも遠くを見ておられた、と。まるで、そこにいない誰かに、許しを乞うように…」

その言葉に、冬真は顔を上げた。 「…月岡くん。君は小説家で、天野さんは声優さんじゃ。文字を信じる君と、声を信じる彼女が、同じものを見ていても、違う結論に至るのは、当たり前じゃないかね」

佐伯さんは静かに立ち上がると、書庫の奥から、埃をかぶった桐の箱を持ってきた。中に入っていたのは、数冊の古びた和綴じの冊子。彼が以前話していた、祖父の日記そのものだった。

「天野さんも、呼んできておくれなさい。君たち二人で、読むべきものじゃろう」


呼び出された夏帆は、警戒心を隠さないまま、冬真から距離を置いて座った。気まずい沈黙の中、佐伯さんが、日記のあるページを開いて、二人の間に置いた。変色した和紙の上を、達筆だが、温かみのある文字が走っている。

『…先生、今宵も来訪。例の亡友のこと、頻りに悔いておられたり。曰く、彼の才は日の本に収まる器にあらず、されどその心は硝子細工よりも脆し、と。それを支えきれなんだは、己が未熟の故なり、と。かの友への誓いを果たすためだけに、今は筆を執ると仰せであった。婦女子の影など、そこには一片も無かった…』

「婦女子の影など、そこには…」 夏帆が、か細い声で呟いた。

冬真の集めた「事実」と、夏帆が感じ取った「感情」。その両方を肯定し、そして超越する、決定的な「真実」が、そこには記されていた。 漱石の苦悩の源は、恋愛のもつれなどではなかった。それは、友の才能を誰よりも信じながら、その心を救うことができなかったという、あまりにも人間的な、そして深い悔恨。

「…僕の、間違いだった」 先に口を開いたのは、冬真だった。 「君の言う通り、あの声には、とてつもない感情がこもっていた。僕はそれを、ただの感傷だと切り捨てた。…すまない」 それは、彼が生まれて初めて、自分自身の論理よりも、他者の感情を優先した瞬間だった。

「ううん」夏帆は、ふるふると首を横に振った。「私も、ごめんなさい。事実を無視して、自分の好きな物語を押し付けようとしてた。…ひどいこと、たくさん言った」

倒れた椅子を、元に戻すように。 こぼれたお茶を、そっと拭うように。 二人の言葉は、ぎこちなく、だが確かに、壊れてしまった関係を修復していく。

佐伯さんは、いつの間にか席を外していた。 リビングには、また二人きり。だが、数日前とは全く違う空気が、そこには流れていた。

「もう一度、始めから、だね」 夏帆が、少しだけ潤んだ瞳で笑った。 「うん」 冬真は、まっすぐに彼女の目を見て、頷いた。

テーブルの上に、日記と、漱石の書簡と、文庫本が並べられる。 バラバラだったパズルのピースが、今、一つの完成図に向かって、確かな意味を持ち始めた。 言葉と声は、一度ぶつかり合うことで、より深く、強く、共鳴を始めていた。

第六章 蝋管に込められた心

あの日を境に、『漱石堂』のリビングは、再び二人の研究室となった。だが、そこに以前のような張り詰めた空気はもうない。冬真と夏帆は、まるで長年連れ添ったパートナーのように、自然な呼吸で謎の断片に向き合っていた。

「ねえ、冬真くん」 いつの間にか、夏帆は彼を下の名前で呼ぶようになっていた。冬真も、それに何の違和感も覚えなかった。 「漱石の日記、もう一回読んでもらってもいい? ロンドン時代のところ」 「ああ」

冬真は、図書館で借りてきた分厚い全集を開いた。以前の彼なら、ただ黙々と文字を追うだけだっただろう。だが、今は違う。彼は、これから自分が読む言葉を、たった一人の聴衆が、どんな感情で受け止めるかを意識していた。

「…『我が友、平岡 蒼は、天才である。されど、その心は春先の薄氷の如し。些細なことで砕け散ってしまわぬか、常に心許なし』…」

冬真の静かな声が、リビングに響く。夏帆は、目を閉じてその言葉を聴いていた。彼女の耳には、冬真の声の向こうに、百年前の漱石の声が重なって聴こえる気がした。友の才能を誇らしく思いながらも、その危うさに心を痛める、若き文豪の不安と焦燥。

「…ありがとう。もう一度、蝋管の声を聴いてみる」

夏帆はイヤホンを装着した。今や彼女の耳は、単なる悲しみだけでなく、その声に潜む複雑な感情のニュアンスを聴き分けることができた。誇り、不安、後悔、そして、何かを守ろうとする、悲しいほどの決意。

彼らは、ジグソーパズルの最後のピースをはめるように、事実を一つ一つ、あるべき場所へと戻していった。 佐伯さんの祖父の日記にあった「友への誓い」。 冬真が見つけた「背負う夢」という言葉。 そして、夏帆が聴き取った「決意の声」。

すべてが繋がったのは、深夜、古時計の針が一時を回った頃だった。

テーブルの上には、広げられた資料が、一つの壮大な物語を形作っていた。 若き漱石は、ロンドンで心を病んだ自分を支えてくれた、天才的な友の存在を誰よりも信じていた。だが、その友は、漱石が日本に帰国した後、失意のうちに自ら命を絶ってしまう。友を救えなかった。その才能を守れなかった。その悔恨が、漱石のその後の人生に、深く暗い影を落としていた。

「だから、書いたんだ…」冬真が、呟いた。「『夢十夜』の第三夜は、彼が友のために背負った、重すぎる約束の比喩だったんだ」 「うん」夏帆が頷く。「そして、あの詩の朗読は…」 「彼岸にいる友に捧げた、個人的な鎮魂歌(レクイエム)だったんだ。誰にも理解されなくてもいい。ただ、友にだけ届けばいいと願った、たった一度の儀式…」

謎は、解けた。 だが、そこにあったのは、ミステリー小説のような鮮やかな結末ではなかった。ただ、一人の人間が、その生涯をかけて抱え続けた、どうしようもないほどの孤独と、誠実さだけが、静かに横たわっていた。 百年という時間を超えて、文豪の秘められた心に触れてしまった二人は、言葉を失っていた。

「…ずっと、一人で、背負ってたんだね」 夏帆の瞳から、涙が静かにこぼれ落ちた。それは、謎が解けた喜びの涙ではなかった。時を超えて伝わってきた、一人の人間の痛みに共感する、あまりにも純粋な涙だった。

冬真は、泣いている夏帆に、何も声をかけることができなかった。 ただ、静かに彼女の隣に座り、窓の外で揺れる月を見ていた。 彼は今、はっきりと理解していた。自分がこれまで書けなかったもの。恐れていたもの。それは、まさに今、目の前で夏帆が流しているような、誰かの痛みを自分のことのように感じてしまう、その不器用で、どうしようもなく人間的な感情だったのだと。

漱石の謎は、解き明かされた。 そして、その謎は、冬真自身の心の謎を解き明かすための、最後の鍵でもあった。 彼は、隣で静かに涙を拭う少女の横顔を、ただ、じっと見つめていた。

第七章 最初の読者

漱石の謎が解けた夜、月岡冬真は自室に戻っても、眠ることができなかった。 頭の中を、百年前の文豪が抱えた孤独と、隣の部屋で眠る少女が流した涙が、静かに巡っていた。 彼はラップトップを開くと、数ヶ月をかけて書き進めてきた、そして行き詰まっていた自らの小説のファイルを開いた。冷たい観察眼で、論理的に構築された、完璧なプロット。だが、そこに登場する人物たちは、誰一人として、本当の意味で泣いても、笑ってもいなかった。

感情のない、ガラスケースの中の人形だ。

冬真は、静かに、ファイルを選択した。そして、迷うことなく、ゴミ箱のアイコンへとドラッグする。クリック音と共に、彼がこれまで築き上げてきたすべてが、あっけなく画面上から消え去った。 恐怖はなかった。むしろ、心地よいほどの解放感があった。

彼は、新規ドキュメントを開いた。 白い画面に、カーソルが点滅している。以前の彼にとっては、責め立てるような無機質な光だった。だが、今は違う。それは、物語の始まりを待つ、穏やかな灯火に見えた。 冬真は、目を閉じた。 耳を澄ます。隣の部屋の、夏帆の穏やかな寝息が、壁を越えて微かに伝わってくる気がした。彼女の声がくれた温もり。漱石の人生が教えてくれた痛み。そのすべてを、指先に込める。

彼は、一行目を書き始めた。


それからの一週間、冬真はまるで何かに憑かれたように、書き続けた。 食事も、睡眠も、必要最低限。彼の世界のすべては、モニタの画面と、キーボードを叩く指先だけに収斂していた。 だが、以前の彼とは何かが決定的に違っていた。彼はもう、登場人物の感情から逃げなかった。書くことが、怖くなかった。主人公が泣くとき、彼は共に涙を流した。登場人物が愛を告白するとき、彼の心臓は激しく高鳴った。 それは、彼自身の心を、物語に映し出す作業だった。彼がずっと目を背けてきた、弱くて、不器用で、どうしようもなく人間的な、月岡冬真という人間の心を。

不思議なことに、彼の執筆が熱を帯びるほど、隣の部屋から聞こえてくる夏帆の声もまた、輝きを増していった。彼女の台詞には、以前よりもずっと深い感情の奥行きが生まれていた。まるで、彼の紡ぐ沈黙の物語に、彼女が声でエールを送ってくれているかのように。 ある夜、冬真が執筆に没頭していると、部屋の扉の下から、そっと一枚の皿が差し入れられた。ラップに包まれた、少し不格好な塩むすびが二つ。メモも、言葉もなかった。だが、その不器用な優しさが、彼の乾いた心に、じんわりと染み渡っていった。


初雪が降った日の朝、冬真は、最後の一行を打ち終えた。 エンターキーを押すと、物語は静かに完結した。 彼は、椅子にもたれかかり、天井を仰いだ。空っぽになった頭の中に、達成感と、それ以上の途方もない感謝の気持ちが、静かに満ちていく。 漱石が、彼に書かせてくれた。 そして、夏帆が、彼に書く勇気をくれた。

冬真は、完成した原稿の、最初の章だけをプリントアウトした。 そして、小さなメモ用紙に、たった一行だけ、言葉を書き添える。 彼は、その紙束を手に、静かに自室の扉を開けた。

隣の二百二号室の扉の前で、彼は少しだけ立ち尽くす。 壁の向こうからは、今日も、彼女が台本を読み込む声が、生き生きと響いていた。 彼は、その声にそっと背中を押されるように、原稿を扉の下の郵便受けに、静かに差し入れた。

彼が書いたメモには、こうあった。

『最初の読者になってください』

それは、彼が人生で初めて差し出した、素直な、ありのままの心だった。 返事はない。彼は何も期待せず、自室へと戻っていく。 ただ、扉の向こうの彼女が、自分の言葉を、どんな声で読むのだろう、と。 そのことだけを、冬真は考えていた。

第八章 壁越しのアンサーソング

その夜、天野夏帆は、へとへとに疲れて『漱石堂』に帰ってきた。オーディションに落ちた。自分の未熟さを、これでもかというほど突きつけられた一日だった。 重い足取りで自室の扉を開けようとして、郵便受けに差し込まれた厚い紙束に気づく。彼女は、いぶかしげにそれを手に取った。A4用紙に印刷された、小説の原稿。そして、表紙に添えられた小さなメモ。

『最初の読者になってください』

月岡冬真、と署名があった。 夏帆は、息をのんだ。一日の疲れが、どこかへ吹き飛んでいく。彼が、自分の殻を破って、その内側を、一番に見せてくれようとしている。その事実が、じわりと胸を熱くした。 彼女は丁寧に手を洗い、急須でお茶を淹れると、正座して机に向かった。まるで、大切な儀式に臨むかのように。

一行目を、読んだ瞬間から、夏帆は物語の世界に引きずり込まれていた。 そこにあったのは、もはや以前の冬真が書いていた、ガラスケースの中の物語ではなかった。登場人物たちは、血の通った人間として、不器用に愛し、傷つき、それでも誰かを求めずにはいられないでいた。 行間から、冬真の痛みが、彼の優しさが、そして彼が隠してきた切ないほどの願いが、溢れ出してくるようだった。主人公の孤独は、冬真自身の孤独。ヒロインの不器用な明るさは、彼が見つめてきた夏帆の姿そのもの。 物語を読み進めるうち、夏帆の頬を、いつの間にか涙が伝っていた。 すごい。すごい小説だ。でも、それ以上に、彼女は嬉しかった。 彼が、ようやく自分の心を言葉にできたことが。そして、その最初の受信者に、自分を選んでくれたことが。

原稿を読み終えた時、窓の外は白み始めていた。 夏帆は、しばらく呆然と天井を見上げていたが、やがて、静かに決意を固めた。 返事を、書く? 違う。手紙は、彼の領域だ。 ならば、彼女ができる、たった一つの返答は。

夏帆は、原稿の第一章を手に取ると、部屋の隅に置かれた、自宅練習用のコンデンサーマイクの前に座った。


隣の部屋で、冬真は一睡もできずに、朝を迎えていた。 原稿を彼女の部屋に差し入れてから、後悔と羞恥で、気が狂いそうだった。あんな、裸の心のようなものを、見せてしまってよかったのだろうか。軽蔑されただろうか。呆れられただろうか。 壁の向こうは、水を打ったように静かだ。 その沈黙が、まるで拒絶の言葉のように、彼の胸に突き刺さる。

その、時だった。 壁の向こうから、声が聴こえた。 それは、夏帆の声だった。 彼女は、冬真の書いた小説を、読んでいた。 登場人物の、最初の台詞。彼が、何度も書き直した、あの不器用な告白の言葉。

彼女の声は、震えていた。だが、その震えは、恐怖や悲しみのものではなかった。それは、生まれたばかりの命が、初めて空気を吸い込む時のような、尊い生命力の震えだった。 冬真は、ベッドの上で、身じろぎもせず、その声に聴き入っていた。 自分の書いた、冷たいはずの言葉が、彼女の声を通して、温かい血潮となって自分の心に還ってくる。 ああ、そうか。 これが、僕の書きたかった物語だ。 これが、僕の伝えたかった感情だ。 冬真は、そっと目を閉じた。頬を、彼自身も気づかないうちに、一筋の涙が伝っていった。


それから、季節は二つ、巡った。

月岡冬真のデビュー作となったあの小説は、その年の新人賞を、選考委員の満場一致で受賞した。特に、登場人物の生々しい感情描写は、多くの読者の心を掴み、新人としては異例のベストセラーとなった。

天野夏帆もまた、ある人気アニメのヒロイン役を射止め、一躍、若手実力派声優としての地位を確立した。彼女の、魂を揺さぶるような感情表現は、多くのファンを魅了した。

成功は、二人を『漱石堂』から引き離した。 冬真は都心のマンションに仕事場を移し、夏帆もまた、多忙なスケジュールに合わせて事務所の近くへと引っ越した。互いの活躍を、雑誌のインタビューや、テレビの向こう側で知る。誇らしく思うと同時に、胸のどこかが、ちくりと痛んだ。壁越しに互いの気配を感じていた、あの愛おしい日々は、もう戻らない。

ある秋の日の午後。 冬真は、出版社の会議室で、一人のプロデューサーと向かい合っていた。 「月岡先生。受賞作の、劇場アニメ化が、正式に決定しました」 「ありがとうございます」 「つきましては、監督からの強い要望がありまして。ヒロイン役は、今、最も輝いている、彼女にぜひお願いしたい、と」

プロデューサーが差し出したキャスティング資料。 その一番上にあった名前に、冬真は、息をのんだ。

『天野 夏帆』

百年の時を超えた漱石の想いが二人を巡り合わせたように、今また、彼らが共に生み出した物語が、二人を再び引き合わせようとしていた。

第九章 僕の言葉と、君の声と

『漱石堂』を出てから、一年半が過ぎていた。

アニメ映画のアフレコスタジオは、プロフェッショナルな緊張感に満ちていた。ガラスの向こう側、コントロールルームの暗がりに、月岡冬真は座っている。原作者として、収録の最終日に立ち会うことになっていた。

マイクの前に、天野夏帆が立つ。 この一年半、冬真がその声を聴かなかった日はない。テレビから、ラジオから、街中の広告から、彼女の声は世界に溢れていた。だが、ヘッドホンを通して聴こえてくる、マイクが拾った微かな息遣いや、唇の湿った音は、彼だけが知っている、壁の向こう側から聴こえてきた彼女の音と同じだった。

「―――あなたの言葉が、私の光だった」

それは、物語のクライマックス、ヒロインの最後の台詞。 夏帆の声は、震えていた。それは、冬真が原稿に書き記した、あらゆる感情のすべてを内包した、完璧な震えだった。

カット、と監督の声が響く。すべての収録が終わり、スタジオが拍手に包まれる。 冬真は、逃げるようにその場を立ち去ろうとした。彼女に、何と声をかければいいのか、分からなかった。

「月岡、先生」

背後から、かけられた声。振り向くと、そこに夏帆がいた。 「…お久しぶりです、天野さん。素晴らしい、演技でした」 冬真が絞り出したのは、ありきたりな、よそよそしい言葉だった。 「…ありがとうございます。先生の、原作が、素晴らしいので」 彼女もまた、他人行儀な敬語で答える。 二人の間を、成功と、過ぎ去った時間が、川のように流れていた。もう、あの頃のように、軽口を叩き合える距離にはいない。 「じゃあ、僕はこれで」 冬真が踵を返そうとした、その時。 「試写会、来ますよね?」 夏帆の声に、引き止められる。 「…ええ」 「待ってます」 その一言だけを残し、彼女はスタッフの輪の中へと戻っていった。


数週間後、関係者向けのプライベート試写会が、神保町の小さなミニシアターで開かれた。そこは、かつて二人が、漱石の謎を追って何度も通った、思い出の場所だった。

映画は、完璧だった。 冬真の紡いだ言葉が、美しい映像となり、音楽となり、そして、夏帆の声という魂を得て、スクリーンの中で確かに生きていた。 エンドロールに、「原作 月岡冬真」「ヒロイン 天野夏帆」の文字が並んで流れる。客席から、温かい拍手が沸き起こった。

ざわめきが遠ざかり、人々が去っていく。気がつけば、広大な宇宙のように静まり返ったシアターの中、ポツンと二人だけが残されていた。 スクリーンは暗くなり、映写機の回る音だけが、子守唄のように静かに響いている。

長い沈黙の後、先に口を開いたのは、冬真だった。彼はスクリーンを見つめたまま、独り言のようにつぶやいた。

「ずっと、自分の言葉が嫌いだった。感情がなくて、冷たいから。…でも、きみの声で聴くと、ちゃんと温かいんだな」

それは、彼が初めて見せた、創作における最大の弱さであり、夏帆への最大の信頼の言葉だった。夏帆はスクリーンを見つめたまま、優しい声で答える。

「違うよ。冬真の言葉が、もともと温かいんだよ。私が、やっと見つけただけ」

その言葉に、冬真は息をのむ。夏帆はゆっくりと彼の方を向き、涙を浮かべた笑顔で言う。

「だから、もう一人で書かないで。これからは、私が最初の読者でいさせて」

冬真は、静かに頷いた。 そして、ためらいがちに、しかし確かに、彼は彼女の手に自分の手を重ねた。 冷たい彼の指先に、温かい彼女の指が、そっと絡みつく。

百年前、漱石が遺した声にならない想い。 その謎を解き明かす旅の終わりに、二人は、自分たちの物語の、本当の始まりを見つけた。

僕の言葉と、君の声と。 そうして、世界は、ようやく色づき始める。

エピローグ

あれから、三年が過ぎた。

秋晴れの穏やかな光が差し込む、文京区のマンションの一室。月岡冬真は、書斎のデスクでノートパソコンの画面をじっと見つめていた。彼の二作目となる、新しい小説の執筆は、最終盤に差し掛かっている。 かつて彼を苛んだ、感情を描くことへの恐怖はもうない。だが、産みの苦しみは、また別の形で常にそこにあった。

「…この台詞、かな」

冬真は、画面に表示された一行を、指でそっとなぞった。 『きみがいるだけで、世界の音は、すべて音楽になる』 言葉としては、悪くない。だが、何かが足りなかった。彼が本当に伝えたい、心の奥底にある響きが、うまく定着しない。

彼は、すっと椅子から立ち上がると、書斎を出てリビングへと向かった。 ソファでは、天野夏帆が、来週から始まる新しいアニメの台本を読み込んでいる。今や、彼女は誰もがその声を知る、トップクラスの人気声優だ。

「夏帆さん」 「んー?」 夏帆が、台本から顔を上げる。その瞳は、三年前と変わらない、太陽のような輝きをしていた。 冬真は、何も言わずに、パソコンの画面を彼女に見せた。夏帆は、黙ってその一行に目を通すと、ふっと息を吸い込み――そして、全く違う二つの声で、その台詞を紡いだ。

一度目は、慈しみに満ちた、囁くような声で。 二度目は、照れ臭そうに、少しだけ拗ねたような響きを混ぜて。

冬真は、目を見開いた。 そうだ。この主人公は、ただ感謝を伝えたかっただけじゃない。感謝の中に、ほんの少しの照れと、独占欲が混じっていたんだ。夏帆の声が、彼自身も気づいていなかった、登場人物の心の輪郭を、くっきりと浮かび上がらせてくれた。

「…ありがとう。分かった」 「どういたしまして」

夏帆は悪戯っぽく笑うと、すぐに台本へと視線を戻した。 冬真は書斎に戻り、迷いなくキーボードを叩く。 言葉に詰まれば、彼女が声を探してくれる。声に行き詰まれば、彼が言葉を与えてくれる。 共鳴する周波数。それが、二人の穏やかな日常になっていた。


その週末、二人は久しぶりに『漱石堂』を訪れた。 大家の佐伯さんは、少し腰が曲がったようだったが、満面の笑みで二人を迎えてくれた。 「やあ、大先生と大女優さん。よく来てくれた」 縁側に座り、佐伯さんの淹れてくれたほうじ茶をすする。リビングからは、若い住人たちの賑やかな声が聞こえてきた。

「今の住人たちにとって、君たちの話は、この家の新しい伝説だよ」と佐伯さんは言った。 「漱石先生の謎を解いた、小説家と声優がいた、ってね。みんな、あやかりたいのさ。君たちの才能と、あと、まあ…」 佐伯さんは、茶目っ気たっぷりに続けた。 「…君たちの、幸運にも、ね」

『漱石堂』を後にし、二人は夕暮れの千駄木の街を、ゆっくりと歩いていた。 かつて、漱石の謎を追って何度も歩いた道。今はもう、答えを探して焦る必要はない。ただ、隣にいる互いの体温を感じながら、思い出をなぞるように歩くだけだ。

二人は、あの頃と同じように、思い出のミニシアターの前で足を止めた。 「…漱石の想いは、百年かかって、私たちに届いたね」 夏帆が、夕日に染まる看板を見上げながら言った。 「ああ」 「私たちの物語は、どのくらい、もつかな」 その問いに、冬真は、穏やかに、そして確信を持って答えた。 「百年じゃ、きっと足りない」

夏帆が、くすりと笑う。 冬真は、ごく自然に、彼女の手に自分の手を重ねた。三年前、あの暗いシアターで初めて繋いだ時よりも、ずっと確かな温もりがあった。

僕の言葉と、君の声と。 そうして紡がれる物語に、終わりが来ることはない。 二人は、夕暮れの優しい光の中を、どこまでも歩いていく。

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