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『獅子の翼』

英雄か、国賊か。 その真相すら、彼が仕掛けた最後の罠だった。


あらすじ

歴史研究家・日下部蓮は、ある歴史の「空白」に導かれ、観測史上最大級の台風が迫る旧前田家本邸を訪れる。かつて「東洋一」と謳われた壮麗な洋館に閉じ込められたのは、莫大な遺産を巡り、嘘と秘密を隠し持つ一族の末裔たち。

嵐が館を陸の孤島へと変えた夜、第一の殺人が起きる。それは、館に仕掛けられた巧妙な建築トリックを利用した、不可解な連続殺人の幕開けだった。生存者たちが疑心暗鬼に陥る中、蓮は、この現代の惨劇の根が、70年以上前に起きた当主・前田利為侯爵の謎の死にあると確信する。

唯一の手がかりは、侯爵が遺した「獅子が流す瑠璃の涙だけが、我が真実の墓標を示す」という暗号。館を守る有翼ライオン像に隠された、七十年を経て初めて作動する精緻な光学的トリック『獅子の涙』を解き明かしたとき、蓮は侯爵の「遺書」を発見する。そこに記されていたのは、彼が和平工作の果てに暗殺されたという、衝撃の歴史の真相だった。 しかし、その悲劇の物語すらも、侯爵自身が後世に仕掛けた、より深く、より救いのない絶望を隠すための、完璧に創作された「偽りの神話」であることに気づいたとき、蓮は本当の戦慄を知る。

謎を解くことは、犯人を暴くだけではない。歴史の迷宮の最深部で、一人の男が仕掛けた最後の知的トラップに挑み、歴史家としての「真実」を審判されることを意味していた。

登場人物紹介

  • 日下部 蓮(くさかべ れん) 【歴史家】 祖父が遺した謎のメモを手に、侯爵の死の真相を追う。館の閉鎖空間で、現代の殺人事件と過去の歴史という二つの謎に挑むことになる、本作の探偵役。
  • 前田 隆(まえだ たかし) 【守護者】 邸の管理人を務める、侯爵家の最後の末裔。祖父・利為を「悲劇の殉教者」として神格化しており、その美しき神話を守るためなら、いかなる罪も厭わない。
  • 小宮山 悟(こみやま さとる) 【鑑定士】 傲岸不遜な美術鑑定士。侯爵の遺した会計記録から、一族が隠蔽してきた「歴史の空白」に気づき、それをネタに一族を脅迫したことで、第一の犠牲者となる。
  • 森崎 梓(もりさき あずさ) 【弁護士】 遺産整理のために一族を招集した、冷静沈着な弁護士。中立な立場を装いながら、その胸の内には、華族制度に翻弄された自らの家の歴史と、前田家への複雑な感情を秘めている。
  • 前田 利為(まえだ としなり) 【不在の主】 物語の中心にいる、故人。16代当主。英国留学経験を持つ陸軍大将。戦争の狂気と自らの運命に絶望し、後世に「悲劇の殉教者」という気高い物語を自ら構築・演出し、死んでいった最後の戦略家。

序幕:嵐の檻

歴史とは、気配だ。

日下部蓮(くさかべ れん)は、タクシーの後部座席で窓の外を流れる景色を見ながら、祖父が遺した手帳の一節を反芻していた。

記録に残された文字や数字だけが歴史ではない。語られなかった言葉、選ばれなかった選択肢、そして場所に染み付いた人々の情念。それらが凝縮された「気配」こそが、歴史の本体なのだ、と。

ラジオが、観測史上最大級の台風が刻一刻と首都圏に迫っていると告げていた。気象庁は、昭和三十三年の「狩野川台風」を引き合いに出し、最大級の警戒を呼びかけている。生暖かく湿った風が、街路樹を不気味に揺らしていた。

彼が向かっているのは、東京・駒場の旧前田家本邸。公式の依頼は、遺産整理に伴う書庫の資料調査。だが、蓮の本当の目的は、祖父の手帳に唯一残された、あの謎めいた言葉の真意を突き止めることだった。

『駒場の邸にて、獅子は飛び立てぬまま翼を畳む。真実は、その涙にあり』

公園の西門で車を降りると、空気が変わった。都会の喧騒が、まるで別の時代に置き去りにされたかのように途絶える。一歩踏み出すごとに、昭和の歴史の澱が靴底に絡みつくような錯覚。

やがて、木々の切れ間にその姿が見えた。旧前田家本邸・洋館。蓮は、その異様な存在感に足を止めた。英国チューダー様式。

それは、大正デモクラシーの楽観主義と、来るべき軍靴の足音との間で揺れ動いていた一九二〇年代末の日本が、必死に手を伸ばした西欧への憧れの残骸だ。主であった前田利為は、この石と煉瓦の「完璧な嘘」の中に、何を封じ込めようとしたのか。

重厚な玄関ホールで彼を出迎えたのは、依頼主である弁護士の森崎梓と、この邸の管理人である前田隆だった。

「お待ちしておりました、日下部先生」

森崎の怜悧な挨拶の後ろで、隆は影のように静かに頭を下げた。

「ようこそ。この家は、静けさに慣れておりまして。これほど多くの客人が集うのは……占領の時代以来かもしれませんな」

その言葉には、GHQに接収されていた十二年間の記憶が、消えない染みのようにこびりついていた。

相続人たちが集うサロンは、侯爵家の栄華を今に伝える、壮麗な空間だった。大叔母の松子が「侯爵様ご在世の頃は、このサロンで夜会が開かれ、皇族方もお見えになったものよ。それに引き換え、今のこの殺風景なこと…」と過去の栄光に浸る横で、借金漬けの甥・昭雄が「その栄光のせいで、俺たちは天文学的な固定資産税に苦しめられているんだ」と忌々しげに呟く。

過去の亡霊たちと、その遺産に群がる者たち。館は、歴史の檻だった。

その時、最後の男が現れた。美術鑑定士の小宮山悟。彼は、値踏みするような視線を一同に向けた。

「皆様、お揃いで。さて、私が呼ばれた理由は、単なる美術品の鑑定ではないと伺っております」

彼は、前田隆に挑戦的な視線を向けた。

「侯爵閣下の書斎に残された、一九四二年の書簡と会計記録を拝見しました。実に興味深い。公式に記録されている、閣下がボルネオへ発たれる直前の資産状況と、実際の金の流れには、大きな『空白』がある。まるで、国家を揺るがすような、ある壮大な計画に、私財を投じておられたかのように」

小宮山は、勝利を確信したように続けた。

「この『空白』が意味するもの――すなわち、侯爵閣下の本当の『遺産』が何であったのか。その答えは、この邸のどこかにまだ眠っているはずです。明日の朝、皆様に私の最終的な見解をご報告いたします」

その言葉が引き金となったかのように、邸を揺るがすほどの激しい雷鳴が轟いた。窓の外で何かが砕け散る音が響き、サロンのシャンデリアが一斉に消える。予備電源が作動し、非常灯の青白い光が、集まった人々の顔を能面のように照らし出した。

ラジオの雑音が途絶え、携帯電話の電波表示が消える。

嵐が、この館を陸の孤島へと変えた。

日下部蓮は、サロンの大きな窓に目をやった。ガラスを叩きつける豪雨の向こう、闇に沈むテラスで、二体の有翼ライオン像が、まるで七十年以上も前の主の秘密を、今も守り続けているかのように、静かに佇んでいた。


第一章:最初の沈黙

夜の間に、嵐の性質は変わっていた。世界を終わらせるかのような暴力的な咆哮は過ぎ去り、今はただ、冷たく重い雨が執拗に屋根と窓を打ち続けている。

旧前田邸は、深海に沈んだ船のように静まり返っている。だが、それは安らぎの静寂ではない。耳を澄ませば、この巨大な館そのものが、緊張にきしんでいるのがわかる。予備電源の発電機が、地下から心臓の鼓動のように、低く、単調なリズムを刻んでいた。

朝食の席に、小宮山悟は現れなかった。

午前九時。森崎梓の提案で、前田隆が侯爵の書斎の扉を叩くが、応答はない。内側から、古い形式の閂(かんぬき)が下りていた。やむなく扉を破って中へ入った彼らが見たのは、完璧な静寂の中にあった、死だった。

書斎の主であった侯爵の椅子に、小宮山は深く身を沈めるようにして死んでいた。争った形跡はない。その死顔は穏やかですらあった。

「……心臓発作、でしょうか」

誰かが囁いた。警察も呼べないこの状況で、誰もがそうであってほしいと願っていた。

だが、日下部蓮だけは違った。彼は、歴史家として、場違いな細部にこそ真実が宿ることを知っていた。彼はまず、部屋の密閉性を確認した。窓は全て内側から重いかんぬきが下ろされ、嵐のために窓格子まで嵌められている。

破られた扉には、内側からしか掛けられない古い形式の閂(かんぬき)が、無残に転がっていた。完璧な密室。

蓮は、他の者たちが遺体に気を取られている隙に、ゆっくりと室内に視線を巡らせた。そして、床の一点に目が留まった。机のすぐ脇、分厚いペルシャ絨毯の毛足の間に、何か銀色のものが、非常灯の光を鈍く反射している。

蓮はハンカチを取り出すと、慎重にそれを拾い上げた。

それは、精巧な細工が施された、一個のカフスボタンだった。中央には、前田家の家紋である「加賀梅鉢」が刻まれている。写真で見たことがある。これは、侯爵・前田利為が愛用していたものだ。

昨夜の小宮山が、こんな古風なものを身につけていた記憶はない。そして何より、このカフスボタンは、七十年以上前のものとは思えぬほど、磨き上げられていた。まるで、ついさっきまで、誰かの袖口を飾っていたかのように。

蓮は、静かに立ち上がると、振り返った。

「これは、事故や病死などではない」

彼は、ハンカチに載せた、侯爵の亡霊のようなカフスボタンを皆の前にかざした。

「小宮山先生は、殺されたんです。この館の中にいる、誰かに」


第二章:残された栞

日下部蓮の告発は、書斎の空気を凍りつかせた。

「……馬鹿な!」最初に沈黙を破ったのは、甥の昭雄だった。「俺たちを疑うのか! 外部の人間のお前が!」

「では、このカフスボタンはどこから来たのですか」蓮は冷静に問い返す。「昨夜、嵐が本格化してからは、誰もこの邸に出入りしていない。ならば答えは一つです」

弁護士の森崎梓が、かろうじて冷静さを保ちながら場を収めた。

「……今は、互いを疑っても仕方ありません。事実だけを確認しましょう。昨夜、小宮山先生が書斎に入られてから今朝までの、全員の行動を確認しましょう」

その言葉を皮切りに、嘘と自己弁護に満ちた、醜いアリバイ証言が始まった。大叔母の松子は「自室で、家の行く末を案じておりました」と曖昧に語り、別の相続人は「怖くて部屋から一歩も出ていない」と繰り返す。

昭雄は「自分の部屋で金の計算をしていた」と口走り、すぐに「いや、読書を…」と言い直して、かえって疑惑を深めた。そして、当主である前田隆は、ただ「発電機の様子を見て、館を見回っていました」とだけ述べ、それ以上は唇を閉ざした。

誰もが犯人である可能性があり、誰もが被害者であるかのような顔をしていた。信頼という、人間社会を繋ぎ止める最後の糸は、この館の中では完全に断ち切られていた。

その夜、生存者たちは恐怖からサロンの一室に集まり、互いを監視するように一夜を明かすことにした。だが、最も激しく動揺していた昭雄が、その緊張に耐えられなくなった。彼は、小宮山が殺されたことで遺産整理が滞り、自らの首が回らなくなることを誰よりも恐れていた。

「小宮山の奴は言っていた、『書簡と会計記録』に秘密があると。俺がそれを見つけ出して、犯人を突き止めてやる。そうすれば、俺への疑いも晴れるはずだ」

松子が「一人で行くなど、正気か」と止めるのも聞かず、昭雄は懐中電灯を手に、書斎へと続く暗い廊下へと消えていった。

十分、二十分……。昭雄が戻ってこないことに、前田隆が静かに立ち上がった。

「……見てきましょう」

蓮と森崎も、懐中電灯を手に彼の後に続いた。

書斎の扉は、開いていた。だが、中に昭雄の姿はなかった。荒らされた様子もない。

「どこへ行ったんだ……?」

その時、森崎が隣接する書庫の入り口で、小さく息を呑んだ。

書庫の床に、昭雄は倒れていた。胸には、壁に飾られていた古い儀礼用の短剣が、深々と突き刺さっている。

蓮は、その遺体に近づき、一つの異常性に気づいた。昭雄の右手は、何かを固く、必死に握りしめている。そっとその指を開かせると、中から現れたのは、精巧な銀細-工の施された一本の栞(しおり)だった。

先端には、前田家の家紋である「加賀梅鉢」が象られている。

それは、書斎の机に置かれていた、侯爵が愛用したとされる遺品の一つだった。

昭雄は、殺される直前、書斎で侯爵の遺品を調べていた。そして、犯人に見つかり、殺害された。だが、なぜ彼は、この栞だけを、命に代えても握りしめたのか。

蓮は、栞をハンカチで慎重に包みながら、確信した。

これは、ダイイング・メッセージだ。昭雄は、犯人の顔を伝える代わりに、**「秘密のありか」を伝えようとしたのだ。そのありかとは、侯爵が遺した「書物」**の中に他ならない、と。


第三章:獅子の涙

第二の犠牲者、前田昭雄の亡骸が運び出された後の書庫は、墓場のような静寂に包まれていた。残された生存者は、もはやお互いの顔を見ることすら避けていた。視線が合えば、そこに映る殺意と恐怖に、自らの正気が耐えられないことを知っていたからだ。

日下部蓮は、昭雄が命と引き換えに遺した銀の栞を、ハンカチの上で静かに見つめていた。

「……ダイイング・メッセージは、明確です」

蓮は、生存者たちが集うサロンで口火を切った。「昭雄さんは、犯人の顔を伝える代わりに、この家の秘密のありかを指し示そうとした。それは、侯爵が遺した『書物』の中にあります」

その言葉に、大叔母の松子が「では、あの膨大な書庫を全て調べるというのかね」と、弱々しく反論した。

「いえ、その必要はありません」蓮は続けた。「犯人は、昭雄さんが書斎で侯爵の遺品を調べていたからこそ、彼を殺害した。ならば、秘密が隠されているのは、侯爵の最もプライベートな書物――彼の日記です」

蓮の論理的な指摘に、誰も異を唱えることはできなかった。だが、彼はそこであえて、犯人を油断させるための罠を仕掛けた。

「しかし、犯人がどうやって昭雄さんを殺害し、私たちのアリバイを掻い潜ったのか。その経路が問題だ。私は、やはり電動エレベーターが怪しいと見ています。犯人はあれを使い、我々の知らないトリックで……」

蓮は、わざとらしくエレベーターの構造について議論を始め、生存者たちの意識をそちらへ誘導した。前田隆の表情は、相変わらず静かだった。だが、その瞳の奥に、蓮の推理が本質から逸れていることへの、僅かな安堵の色が浮かんでいる。蓮は、それを見逃さなかった。

「エレベーターの図面を確認してきます」という口実のもと、蓮は一人、再び侯爵の書斎に籠った。

彼は、昭雄が遺した栞を手に、書棚に並ぶ数十年分の中から、最後の数年分を抜き出した。そして、一九四二年、侯爵が死を迎える年の、最後の日記を手に取った。

そのほとんどは、戦況を憂う記述と、退屈な日常の記録だ。だが、最後の数ページに、彼の筆跡は乱れ、まるで暗号のような、詩的な一節が書き殴られていた。

『……日は没し、我が栄光の獅子は翼を畳む。もはや飛ぶべき空はない。されど、その瑠璃(るり)の瞳に天の光を受け、年に一度だけ流す涙だけが、我が真実の墓標を示すだろう……』

――獅子が流す、瑠璃の涙。

その言葉が、雷のように蓮の脳を撃った。彼は窓の外、嵐が過ぎ去った後の、静かなテラスに佇む有翼ライオン像を睨みつけた。祖父が遺したメモの言葉が、今、侯爵自身の言葉と重なった。

あれは、ただの石像ではない。何かの仕掛けだ。そして、「年に一度だけ」ということは、特定の天文学的な条件が必要だということだ。

蓮は、書斎に残された古い天文暦と、侯爵の日記の日付を狂ったように照合し始めた。そして、ついに発見する。侯爵の公式な命日とされる日の、日没時刻。その瞬間にだけ、西の空から太陽が、ある特別な角度でテラスを照らすことを。

そして、その日は、今日だった。

夕刻。嵐が過ぎ去った空は、まるで嘘のように晴れ渡っていた。

蓮は、残された生存者たちをテラスへと導いた。

「全ての謎が、もうすぐ解けます」

彼は、困惑する彼らを前に、片方の有翼ライオン像を指差した。

「侯爵が遺した、最後のメッセージ。それを、皆さんにお見せします」

やがて、太陽が西の稜線へと傾き、最後の光が世界を茜色に染め上げる。その光が、ある特定の角度から獅子像の顔を照らした、その瞬間だった。


終章:獅子の真実

その瞬間、日下部蓮は息を呑んだ。

西の稜線に太陽が触れ、最後の光がテラスを茜色に染め上げる。その一筋の光が、ある特定の角度から獅子像の顔を照らした。

刹那、獅子の片目――そこに嵌め込まれたラピスラズリの雫が、まるで生命を得たかのように、深淵の青い光を宿した。それは、侯爵が仕掛けた精密なレンズ。宝石は、受けた太陽光を一点に収束させ、細く、鋭い光線として射出する。

青い光の点が、テラスの濡れた石畳の上を滑る。そして、太陽が完全に没する直前の数秒間、光は幻のように、一つの形を結んだ。

前田家の家紋――「加賀梅鉢」。

光が指し示した一枚の石畳の上に、それは寸分違わぬ姿で描き出され、そして、太陽の最後の光と共に、静かに消えた。

残された者たちは、まるで奇跡か魔法でも見たかのように、呆然と立ち尽くしていた。

「……ここだ」

蓮の呟きに、彼らは我に返った。蓮が指し示した石畳を、力を合わせてこじ開ける。その下には、コンクリートで固められた小さな空洞があった。中には、蝋で固められ、七十年以上も主を待ち続けた、一本の金属製の円筒が鎮座していた。

蓮が、その円筒を手に取った、その時だった。

「……そこまでだ」

静かだが、有無を言わせぬ響きを持った声。前田隆だった。

「それを開ける前に、話しておくことがある」

蓮は、ゆっくりと彼に向き直った。

「あなたが、犯人ですね」

「そうだ」隆は、あっさりと認めた。「私が殺した。だが、それは罪ではない。この家の神話を守るための、儀式だった」

蓮は、ただ静かに彼の言葉を待った。

「その筒の中には、祖父・前田利為の真実が記されている。彼が、国を憂い、和平工作を進めたがために、軍部の同胞に裏切られ、暗殺されたという、一族が命を懸けて隠し続けてきた真実だ。小宮山と昭雄は、その聖域に土足で踏み込み、祖父の無念を金儲けの道具にしようとした。私は、家の神話を守る最後の番人として、彼らを処刑した」

隆の表情には、後悔の色はなかった。あるのは、自らの信じる正義を全うした、悲劇的なまでの殉教者の輝きだった。

蓮は、隆の告白を黙って聞くと、おもむ-ろに円筒の蝋を剥がし、中から固く巻かれた古い和紙を取り出した。彼は、そこに侯爵自身の筆跡で書かれた「遺書」を、その場にいる全員に聞こえるように、静かに読み上げ始めた。

遺書は、隆が語った通りの壮絶な物語を綴っていた。英国ルートを使った和平工作の具体的な内容。それを察知した軍部強硬派の妨害。そして、自らの死が事故ではなく、国家の未来を憂う者を抹殺する、同胞による暗殺であったという、痛切な告発。

読み進めるほどに、隆の表情には「見ろ、これが真実だ」という誇りが満ちていく。

だが、蓮は、遺書の最後の一節を読み上げると、一度、目を閉じた。そして、再び目を開けた時、その瞳には、深い哀しみの色が宿っていた。

「……隆さん。あなたが守ろうとしたものもまた、神話、つまり……嘘だったとしたら?」

「……何……だと……?」

「この遺書の最後に、一見、無関係に見える和歌が添えられている。これは、彼が愛読した古典から引用した、ただの詩ではない。文字の順番を入れ替える、アナグラムです」

蓮は、ゆっくりと、そのアナグラムが示す、本当のメッセージを告げた。

「そこに書かれていたのは、こうです。『これ、全て我が創作なり。栄光ある死を望む、臆病者の最後の嘘なり』と」

侯爵は、暗殺などされていなかった。

彼は、戦争の狂気と、愛した国家が崩壊していく様に絶望し、ボルネオの空にその身を投じた。事故に見せかけた、静かな自決。それは、軍人として、侯爵として、最も不名誉な死だった。

そして彼は、その虚しい死を、意味のある物語へと昇華させるため、最後の知力と財産を振り絞った。自らが「悲劇の殉教者」として歴史に残るように、この「遺書」をはじめとする、完璧な「偽りの証拠」を、この邸の至る所に仕掛けたのだ。

隆の足が、崩れ落ちた。彼が殺人を犯してまで守ろうとしたものは、真実ではなく、愛する祖父が作り出した、最も巧妙で、最も哀しい嘘だったのである。

嵐は、完全に過ぎ去っていた。

遠くから、サイレンの音が近づいてくる。

日下部蓮は、侯爵の二つの「真相」が記された遺書を手に、静かに佇んでいた。これから到着する警察に、そして後世の歴史に、彼はどの「真実」を語るべきなのか。

その答えのない問いを抱えたまま、彼は、涙を流し続ける獅子のように、ただ、夕闇が迫る空を見上げていた。

(了)

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