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『そして夫は、森に消えた』

夫が遺した、一枚の写真とSOS。仕組まれた嘘が、彼の命を奪おうとしていた。 愛だけを武器に、妻は“夫の魂が見た景色”を探し出す。


あらすじ

2025年9月26日、金曜の夜。大手ゼネコンの管理職・高橋健一が、妻・美咲の誕生日に「今までありがとう」というLINEを遺し、姿を消した。数千億規模のプロジェクト失敗の責任を、上司・島田に全て負わされた日だった。

翌朝、美咲からの電話で健一の失踪を知った島田は、自らの保身のため冷徹な情報操作を開始する。健一のカードを盗み、彼の挫折の地である「箱根」で利用。警察の捜査を意図的に誤誘導する。

警察が「箱根への計画的逃避行」という偽りの物語に翻弄される中、美咲は娘・沙耶と夫の部下・木村の助けを得て、独自の捜査を開始する。沙耶は父が遺したフォトブログから、遭難現場が奥多摩「七代の滝」の、道なき東岸であることを示すGPSデータと一枚の写真を、木村は島田の不正を証明するUSBメモリを発見する。

全ての証拠は「奥多摩」を指し示している。しかし、山岳救助隊の前に「箱根の物的証証」という論理の壁が立ちはだかる。タイムリミットが迫り、豪雨が山を閉ざそうとする絶望的な状況下で、美咲は夫が遺した一枚の写真と、彼が過去に一度だけ漏らした告白の記憶を繋ぎ合わせる。

それは、追い詰められた夫が唯一、心の平穏を得られた「原体験」の証明だった。論理の壁を打ち破る、魂の謎解きが今、始まる。

登場人物紹介

  • 高橋 健一(たかはし けんいち) – 48歳・失踪者 大手ゼネコンの有能なプロジェクトマネージャー。完璧主義で責任感が強い。数年前、仕事の重圧から逃れるように訪れた御岳山の沢で、滝の轟音が思考を消し去り、「岩のように、ただ在るだけ」の感覚に救われた原体験を持つ。社会的評価の全てを失った今、その最後の聖域へと向かう。
  • 高橋 美咲(たかはし みさき) – 44歳・探偵役 健一の妻。平凡な主婦だったが、夫の失踪を機に、その深い愛情と理解力を武器に謎に挑む。夫が過去に一度だけ語った「岩になった気がした」という言葉の真意を理解する唯一の人物であり、警察のロジックや敵の策略の裏にある真実を見抜く。
  • 高橋 沙耶(たかはし さや) – 20歳・デジタル担当 健一と美咲の娘。父のPCからフォトブログ「静寂の在り処」を発見し、GPSデータと写真という決定的なデジタル証拠を見つけ出す。
  • 島田 努(しまだ つとむ) – 52歳・敵対者 健一の上司。自らの保身のためなら手段を選ばない冷徹な野心家。美咲からの電話で事態を把握し、健一の過去のトラウマ(箱根ミーティング)を悪用した偽の証拠を捏造。捜査を積極的に妨害する。
  • 木村 雄太(きむら ゆうた) – 28歳・内部協力者 健一の部下。健一から託された、島田の不正を証明するUSBメモリを、危険を冒して美咲に渡す。
  • 戸樫 誠(とがし まこと) – 55歳・捜査責任者 警視庁青梅警察署・山岳救助隊隊長。物証とロジックを重んじるプロフェッショナル。美咲の訴えを一度は退けるが、その推理の的確さに心を動かされる。

プロローグ:最後のメッセージ

一ヶ月前の、よく晴れた休日だった。 リビングでテレビを観ている夫の健一に、美咲は「ねえ、あなた」と話しかけた。返事がない。もう一度呼びかけると、彼はゆっくりと彼女の方を向いた。しかし、その瞳には何の感情も映っていなかった。まるで、精巧に作られたガラス玉のようだった。 「ああ、すまない。聞いていなかった」 力なく笑う夫の顔に、美咲は言い知れぬ不安を感じた。それは、後に来る長い嵐の、最初の予兆だったのかもしれない。

あれから一ヶ月。そして、今日。 二〇二五年九月二十六日、金曜日。

高橋家のダイニングには、夕食の香りが満ちていた。ことことと穏やかな音を立てる鍋の中では、美咲の得意料理である筑前煮がゆっくりと味を染み込ませている。テーブルの中央には、まだ火の灯されていないホールケーキ。チョコレートのプレートには、少し照れくさい文字で「お誕生日おめでとう」と書かれていた。

壁の時計の針が、午後九時を回る。 夫・健一のために用意した夕食は、もうすっかり冷めていた。 美咲は、意味もなくスマートフォンの画面を点灯させては、すぐに消すという動作を繰り返していた。健一の帰りが遅くなるのはいつものことだ。彼が責任者を務める巨大プロジェクトが正念場を迎えていることは、妻である自分が一番よく知っている。それでも、自分の誕生日の夜に、何の連絡もないというのは初めてのことだった。胸騒ぎが、さざ波のように心を侵食してくる。

ポロン、と軽やかな電子音が静寂を破った。 健一からのLINEだった。安堵に胸をなでおろし、美咲はメッセージを開く。そこに並んでいたのは、彼女が待ち望んでいた言葉ではなかった。

『今までありがとう。本当に愛している。今日は、君の誕生日を祝えそうにない。ごめん。』

メッセージはそれだけだった。 まるで、人生の最後に記すような、静かで、取り返しのえない響きを持っていた。 スマートフオンが、震える手から滑り落ちそうになる。心臓が氷の塊に握りつぶされたように、一度だけ大きく軋んだ。

美咲は、慌てて健一の番号をタップする。 呼び出し音は、鳴らなかった。

『お客様のおかけになった電話は、電波の届かない場所におられるか、電源が入っていないため…』

無機質なアナウンスが、彼女の最後の希望を断ち切った。美咲は、何も映らないスマートフオンの黒い画面を、ただ見つめていた。画面に映る自分の顔が、見たこともないほどに青ざめていた。

第一章:金曜日、崩れた男

その九時間前。 健一は、敗北の味がする空気を吸い込んでいた。

東邦建設本社ビル、三十階役員会議室。磨き上げられた長大なテーブルを囲む男たちの顔には、疲労と、あからさまな失望が浮かんでいた。 「…以上が、『多摩川新水道橋建設事業』、総合評価落札方式による入札結果の概要です」 部下の報告を、健一は他人事のように聞いていた。数年にわたり心血を注いできたプロジェクト。それが、終わった。それも、最悪の形で。

会議後、健一は上司である島田部長に呼び出された。 「高橋くん」 島田は、温度のない目で健一を見た。 「この件の責任は、プロジェクトマネージャーである君が全てを負うのが『筋』というものだ。役員会も、そう判断している」 それは、紛れもない責任転嫁だった。入札価格の最終決定段階で、リスクを無視して無理な積算を強いたのは、島田自身だった。しかし、その声に反論するだけのエネルギーは、もはや健一の中には残っていなかった。ただ、わかりました、とだけ答えた。

自分のデスクに戻っても、PCの電源を入れる気になれなかった。周囲の社員たちの、好奇と憐憫が入り混じった視線が、皮膚に突き刺さる。健一は、机の引き出しから小さなUSBメモリを取り出すと、おもむろに立ち上がり、部下の木村の元へ向かった。 「木村くん、これ」 健一は、誰にも聞こえないような声で呟いた。 「…保険だ」 何が起きたのか理解できずにいる木村の手にそれを握らせると、健一は自分のデスクに戻り、財布とスマートフォンだけを掴んで、再び立ち上がった。椅子に掛けっぱなしのジャケットに、彼は気づかなかった。

午後三時半過ぎ、新宿駅。 オレンジ色の帯を巻いたJR中央線快速が、ホームに滑り込んでくる。人間という名の川の流れに逆らうように、彼は電車に乗り込んだ。立川駅で、黄色い帯のJR青梅線に乗り換える。車窓の景色が、灰色から、緑色へとゆっくりと変わっていく。高層ビルが消え、住宅が疎らになり、やがて、幾重にも重なる山の稜線が、彼の視界を支配した。

午後五時半、御岳登山鉄道のケーブルカー。 麓の滝本駅から、急勾配を登っていく車体。下りの便とは何人もすれ違ったが、この時間に山を登る客は、健一一人だけだった。窓の外では、夕暮れが世界を茜色と藍色のグラデーションに染め上げていく。美しい、と彼は思った。まるで、自分とは無関係な世界の出来事のように。

やがて、終点の御岳山駅に到着する。 扉が開いた瞬間、ひやりとした山の空気が、彼の肺を満たした。土と、湿った落ち葉と、木々の匂い。都会の喧騒が完全に消え去り、風の音と、遠くで鳴く鳥の声だけが世界を支配していた。 健一は、まるで何かに導かれるように、山道の暗がりへと、一歩、足を踏み出した。

第二章:箱根という名の霧

夜が明けたのかどうかも、よく分からなかった。 美咲は、ダイニングの椅子に座ったまま、一睡もせずに朝を迎えていた。テーブルの上では、手つかずの筑前煮が静かに冷え、誕生日ケーキのチョコレートは、溶けもせずにただそこに在る。まるで、昨夜という時間が存在しなかったかのように。

午前八時。 このままではいけない。思考が麻痺していくのを感じながら、美咲は震える手で健一の書斎に入り、名刺ホルダーから一枚のカードを探し出した。 『東邦建設 執行役員 事業本部長 島田 努』 夫が全ての責任を負わされたという、あのプロジェクトの最高責任者。深呼吸を一つして、美咲はそこに書かれた携帯番号に電話をかけた。

数回のコールの後、低く、眠りを妨げられたことを隠そうともしない声が応えた。 「…はい、島田です」 「突然申し訳ありません、高橋健一の妻です」 名乗った瞬間、電話の向こうの空気がわずかに緊張したのを、美咲は感じ取った。彼女は、言葉を選びながら、しかし必死に訴えた。 「主人が、昨夜から帰宅しておりません。最後に…まるで遺書のようなLINEが届いて、それきり連絡が…」 「…そうですか」 島田の声には、驚きよりも、何かを値踏みするような冷たさがあった。 「昨日、会社で何かあったのでしょうか。主人は、ひどく思い詰めている様子でした。昔から、追い詰められると奥多摩の山へ行くことがあって…」 「奥多摩、ですか」 島田は、その地名を鸚鵡返しにすると、あからさまに事務的な口調で言った。 「いや、プロジェクトの最終報告があっただけで、特に変わったことはありませんでしたよ。少し疲れていたのかもしれませんね。ご心配でしょうが、まずは警察にご相談されては? 何か分かれば、こちらからも連絡します」 一方的に、電話は切られた。 美咲は、通話の終わったスマートフオンを握りしめた。夫の身を案じる言葉は、どこにもなかった。ただ、事実を隠蔽しようとする分厚い壁の感触だけが、そこにはあった。

その頃、都内のタワーマンションの一室で、島田努は電話を切り、ソファに深く身を沈めた。額には、冷や汗が滲んでいた。 (…まずい。高橋が自殺でもして、遺書に俺の名前を書いたら…) 内部調査。聴取。そして、高橋が最後に木村に何かを渡していたという、部下からの報告。物証でも出てくれば、自分のキャリアは終わる。 (高橋の失踪を、会社の責任問題にしてはならない…) 思考が高速で回転する。美咲が言った「奥多摩」という言葉。家族はそこを探すだろう。ならば、警察と家族の目を、そこから引き離す必要がある。もっともらしい、別の物語を創り上げなくては。 脳裏に、数ヶ月前の記憶が蘇る。箱根のホテルで行われた、あの重要なプレゼンテーション。健一が初めて、クライアントの前で崩れ落ちた、あの日の記憶。 (…使える) 島田は立ち上がり、クローゼットからコートを羽織った。彼の頭の中では、すでに冷徹な計画が完成していた。

午前十時過ぎ、警視庁青梅警察署。 生活安全課の窓口で、美咲は昨夜からの出来事を、途切れ途切れに説明していた。担当の警察官は、慣れた様子で調書を取りながら、事務的な質問を繰り返す。夫の写真、身長、体重、昨日の服装。その一つ一つが、健一が本当に「いなくなった」人間なのだという現実を、美咲に突きつけていた。

相談室に通され、さらに詳細な聞き取りが始まろうとした、その時だった。 部屋の内線電話が鳴り、担当の警察官が受話器を取った。 「はい、生活安全課…え、本当ですか?…時刻は?」 警察官の目の色が変わった。彼は受話器を置くと、険しい顔で美咲に向き直った。

「奥さん。ご主人のクレジットカードが、たった今、使われました」 「え…?」 「午前10時10分。神奈川県の、箱根湯本駅前にあるコンビニです。缶コーヒーを一本、購入しています」

箱根…? 美咲の頭は、真っ白になった。奥多摩とは全く逆の方向だ。そんなはずはない。何かの間違いだ。 しかし、警察官の口調は、もはや彼女の混乱に構うものではなかった。 「ご主人は、何か箱根に用事が? もしかしたら、少し頭を冷やすために、一人で旅行にでも行かれたのかもしれませんね。一度、そちらの線で捜査を進めてみます」 その言葉は、美咲の訴えが、ただの「夫婦間の問題」として処理されてしまったことを意味していた。 彼女は、何かを言おうとして、乾いた唇をわずかに開閉させることしかできなかった。

建物の外に出ると、九月の空は、まるで美咲の心を映したかのように、重く、厚い雲に覆われていた。 箱根という名の、濃い霧が、夫の真実を覆い隠そうとしていた。そして、その霧の中で、自分はたった一人なのだと、美咲は痛感した。

第三章:ふたつの手がかり

その頃、川崎の自宅では、娘の沙耶が父の書斎の椅子に座っていた。 警察からの連絡はまだない。母が出て行ってから数時間、ただ無為に時間が過ぎていくことに、彼女は苛立ちと、じりじりと胸を焼くような無力感を覚えていた。箱根、という地名が、まるでリアリティのない冗談のように頭の中で反響する。父が、母の誕生日に、何も言わずに一人で温泉旅行に行くような人間でないことくらい、娘である自分が一番よく知っている。

(警察がダメなら、私がやるしかない)

沙耶は、父のデスクトップパソコンの電源を入れた。パスワードを要求するロック画面が、彼女の前に立ちはだかる。自分の誕生日、母の誕生日、ありふれた文字列を試すが、無情にも弾かれる。諦めかけたその時、パスワードのヒントとして設定された、小さな文字列が目に入った。『いつか、もう一度行くと約束した場所』。 沙耶の脳裏に、幼い頃の家族旅行の記憶が蘇る。屋久杉の森で、父が「大人になったら、また一緒に来よう」と笑っていた、遠い日の記憶。 彼女は、指が震えるのを抑えながら、キーボードを叩いた。 yakushima ロックは、静かに解除された。

書斎の主の不在をいいことに、娘はそのプライベートな領域へと侵入していく。ブックマークに並ぶのは、建設業界のニュースサイトや、専門的な技術資料のリンクばかり。その中で一つだけ、異質なタイトルのブログがブックマークされていた。 『静寂の在り処』。 クリックすると、黒を基調とした、趣味の良いデザインのページが現れた。そこに並んでいたのは、言葉ではなく、写真だった。苔むした岩の拡大写真。木々の隙間から差し込む、光の筋。沢の水の、きらめく飛沫。美しく、しかしどこかひどく孤独な写真たちが、静かに並んでいた。父の、誰にも見せたことのない内面を覗き見てしまったような気がして、沙耶の胸が痛んだ。

投稿を遡っていくと、数週間前の日付で、一枚の写真が目に留まった。勢いよく流れ落ちる、荘厳な滝の写真。 タイトルはない。ただ、一言だけ、こう添えられていた。 『音が、思考を洗い流していく』 その言葉の意味は、沙耶にはまだ理解できなかった。しかし、何か重要なものだと直感した彼女は、大学の写真サークルで覚えた知識を思い出し、画像の上で右クリックして「プロパティ」を開く。詳細タブに並ぶ、無機質な文字列。その中に、探し物はあった。

GPS情報 緯度: 35.7861° N 経度: 139.1513° E

沙耶は、その数字の羅列をコピーし、すぐに地図アプリにペーストした。画面が拡大され、表示されたピンの位置に、彼女は息を呑んだ。 東京都西多多摩郡奥多摩町。御岳山。 ピンは、七代の滝と呼ばれる場所の、遊歩道から外れた沢の東岸を、正確に指し示していた。 「…お母さん!」 沙耶は、震える声で母の番号に電話をかけた。

青梅警察署近くの喫茶店で、美咲はただ茫然と、窓の外を眺めていた。そこに、沙耶からの電話が入る。GPSデータ、フォトブログ、滝の名前。矢継ぎ早に告げられる情報に、美咲の混乱した頭が、少しずつ覚醒していく。夫は、やはり奥多摩にいる。 「…わかった。ありがとう、沙耶」 電話を切った、まさにその時だった。別の番号から、メッセージの通知が届く。知らない番号だった。 『突然のご連絡失礼いたします。東邦建設の高橋部長の部下、木村と申します。部長の件で、至急お渡ししたいものがございます』

数分後、喫茶店の彼女の向かいの席に、木村と名乗る若い男性が、緊張した面持ちで座っていた。彼は、周囲を気にするように声を潜めながら、金曜日の出来事を語り始めた。島田部長の裏切り、そして、健一が最後に彼に託したという、一つの言葉。 「『保険だ』とだけ言って、これを…。高橋さんは、島田部長に嵌められたんです!絶対に、ご自分の意思でいなくなるような方じゃありません!」 そう言って、木村はテーブルの上を滑らせるように、小さな銀色のUSBメモリを美咲の方へ差し出した。

ひんやりとした金属の感触が、美咲の指先に伝わる。 これが、夫の誇り。夫の無実。夫が、最後に守ろうとした真実。 美咲は、しっかりとそれを握りしめた。 彼女の左手には、娘が見つけた、夫の魂の在り処を示すスマートフオン。 右手には、部下が届けた、夫の無実を証明する最後の武器。

箱根という名の濃い霧が、少しずつ晴れていくのが分かった。 美咲は立ち上がり、まっすぐに、先ほど一度は絶望した、青梅警察署の建物を見据えた。 まだ、終わっていない。 ここからが、始まりだ。

第四章:ロジックの壁、迫る雨雲

午後二時半過ぎ、美咲と沙耶は、再び御岳山の麓に設置された捜索隊本部に戻っていた。先ほどまでの絶望的な無力感は、彼女の全身から消え去っていた。その瞳には、不安の色を塗り潰すような、強い意志の光が宿っていた。

彼女たちは、地図が広げられた長机で険しい顔つきで話し込む、戸樫隊長の元へまっすぐに向かった。 「戸樫隊長」 その声に、戸樫は訝しげな顔を上げた。美咲の豹変ぶりに、彼の経験が何かを嗅ぎ取っていた。 「新しい情報が入りました」 美咲は、まず木村から預かったUSBメモリをテーブルに置いた。 「これは、夫の部下の方が命懸けで届けてくれたものです。夫が今回のプロジェクトで、上司である島田部長の不正の責任を全て負わされたことを証明する物証です。夫は逃げたのではありません。追い詰められたんです」 戸樫の眉が、わずかに動く。 続いて、沙耶が自分のスマートフォンを差し出した。画面には、例のフォトブログと、地図上にピンが立てられた航空写真が表示されている。 「そして、これが夫が向かった場所です。彼のブログに残されていました。GPSデータによると、場所は七代の滝の東岸です」

戸樫は、険しい顔のまま、沙耶のスマートフォンとUSBメモリを交互に見比べた。彼は部下の一人に目配せし、USBの中身をノートパソコンで確認させるよう指示する。数分後、部下は戸樫の耳元で「…間違いありません。改竄の形跡のない、正規のデータです」と囁いた。

室内の空気が、張り詰める。 戸樫は、腕を組んで、しばらく目を閉じていた。やがて、彼は重々しく口を開いた。 「奥さん。おっしゃることは、分かりました。ご主人が、会社で理不尽な状況に置かれていたことは、ほぼ間違いないのでしょう。失踪の動機としては、十分に考えられる」 美咲の顔に、希望の色が差した。しかし、戸樫の言葉は、その希望を打ち砕くものだった。 「ですが、それはそれ。我々の捜索活動は、また別の話です」 彼は、広げられた地図を指さした。 「このGPSが示す東岸には、道がない。危険な沢と崖があるだけです。一方、箱根でカードが使われたのは、時刻まで記録された厳然たる事実。もし、我々が誤差の可能性のあるGPS情報を優先し、その間にご主人が箱根で何か行動を起こしていたら、我々の判断ミスが命取りになる。お分かりいただけますか」 それは、経験に裏打ちされた、冷静で、揺るぎないプロのロジックだった。 「あなたの感情と、我々の捜査は、別なんです」

【現在時刻】2025年9月27日(土)午後3時57分

壁のデジタル時計が、無機質に時刻を刻んでいた。 15時57分。 戸樫の言葉は、分厚いコンクリートの壁となって、美咲の前に立ちはだかっていた。証拠を揃え、論理を組み立て、最後の望みを賭けて乗り込んできたというのに、さらに強固な論理によって、全てが叩き返されてしまった。 外では、雨脚がさらに強まっている。プレハブの屋根を叩く雨音が、まるでカウントダウンのタイマーのように、美咲の鼓膜を焦らせた。 (時間が、ない…) 彼女は、冷たい指先を、もう一方の手で強く握りしめた。

その時だった。 ブ、ブ、ブ、ブ───。 けたたましいアラート音が、室内にいる全員のスマートフォンから一斉に鳴り響いた。緊急速報。誰もが自分の端末に目を落とす。

【気象庁発表】 土砂災害警戒情報 奥摩町に大雨・雷に関する注意報が発令されました。 土砂災害の危険性が高まっています。崖の近くなど危険な場所には絶対に近づかないでください。

その文字を見た瞬間、捜索本部の空気が一変した。隊員たちの顔から、それまでの僅かな弛緩が消え、プロとしての厳しい緊張が走る。 戸樫は、ノートパソコンの気象レーダーを見つめた。関東の西の山塊に、危険な赤と黄色の雨雲が、猛烈な勢いで広がっている。 彼は、決断を下した。 「奥さん」 戸樫の声は、先ほどよりもさらに低く、厳しくなっていた。 「山が、人を拒み始めた。我々には、もう時間が残されていません」

その言葉は、事実上の、捜索打ち切り宣告だった。 美咲の膝が、崩れ落ちそうになる。ロジックの壁の向こう側で、夫の命の灯火が、今、まさに暴風雨に消されようとしていた。

第五章:石になりたかった男

「我々には、もう時間が残されていません」

戸樫隊長のその言葉は、死刑宣告のように、捜索本部の冷たい空気に響き渡った。 美咲の足元から、床が崩れ落ちていくような感覚。膝が笑い、立っていることさえ困難になる。隣で、沙耶が息を呑む気配がした。 終わってしまう。 夫の命も、私の時間も、ここで。 雨音が一層強まり、プレハブの屋根を激しく叩く。それは、夫の命の砂時計が、最後の砂を落としきろうとしている音に聞こえた。

絶望が、美咲の思考を黒く塗りつぶそうとした、その瞬間。 彼女の視線が、沙耶が握りしめているスマートフォンに吸い寄せられた。画面に表示されているのは、夫が撮った、あの七代の滝の写真。 そうだ。 まだ、終わっていない。 警察が知らない、私と、沙耶と、そして夫だけが知っている真実が、まだここに。

「待ってください!」 声が、自分でも驚くほど、喉の奥から絞り出された。 崩れ落ちそうになる体を叱咤し、美咲は戸樫の前に進み出る。 「隊長。箱根は、嘘です。夫を陥れた誰かが仕組んだ、罠です!」 戸樫は、同情とも苛立ちともつかない、複雑な表情で美咲を見つめている。 「だから、このGPSデータだけが真実なんです!」 美咲は、沙耶の手からスマートフォンをひったくるように取ると、その画面を戸樫の目の前に突きつけた。 「そして、この写真を見てください!」 彼女は、震える指で画像を拡大する。 「西岸の遊歩道が、滝の向こうに、あんなに小さく写り込んでる…! この写真を撮るには、私たちがいるこの安全な場所からでは物理的に不可能です! GPSが指し示す、あの道なき東岸の岩場に立つしかないんです!

それは、感情論ではなかった。写真という、動かぬ証拠に基づいた、完璧な論理だった。戸樫の目の色が変わる。だが、彼が何かを言う前に、美咲の魂の叫びが続いた。 彼女の脳裏には、数年前の、あの日の夫の顔が焼き付いていた。

「夫は昔、あの場所で言いました。『自分が岩になった気がした。初めて、頭の中が静かになった』って…!」 「彼は、人間に戻れなくなったから、人じゃないものに…石や水になろうとしてるんです! 評価もされない、責められもしない、ただの自然の一部に!」

美咲の声が、捜索本部に響き渡る。それは、妻の悲痛な訴えであり、夫の心の代弁だった。

「お願いです、彼が本当に、ただの景色の一部になってしまう前に…!」 「探すべきは、あの対岸です!」

沈黙が、落ちた。 雨音だけが、時を刻んでいる。 戸樫は、スマートフォンの画面に写る、芸術的なまでに美しい滝の写真と、その前に立つ、魂を燃やし尽くすかのような形相の美咲とを、交互に見比べた。 彼の脳裏で、二十年以上の救助隊員としての経験と、一人の人間としての直感が、激しくせめぎ合っていた。 やがて、彼は決断した。 規則や論理よりも、信じるべきものが、今、目の前にある。

戸樫は、無線機のマイクを掴んだ。 「全隊員に告ぐ! これより捜索目標を再設定する!」 その声は、命令を下す者の、揺るぎない覚悟に満ちていた。 「目標、七代の滝、東岸! 繰り返す、東岸の岩場周辺を集中捜索! 急げ!もう時間がない!」

その頃。 健一の意識は、深く、冷たい水底へと沈んでいった。 雨が頬を打つ感覚も、折れた足首の痛みも、もう感じない。ただ、遠い昔に聞いた、祖父の声が聞こえる。 『人間もなあ、時々は石みてえに…』 ああ、そうだ。 俺は、石に…。

意識が、途切れる。

「こちら第三班、目標を発見!」 戸樫の命令から、わずか数分後。 本部の無線機が、若い隊員の、切迫した声を受信した。 「沢の東岸、岩陰! 要救助者一名、意識レベル低下! バイタル微弱! 急ぎ、医療ヘリを要請します!」

その言葉を聞いた瞬間、美咲の膝から、最後の力が抜けていった。 崩れ落ちる体を、沙耶が泣きながら抱きしめる。 ありがとう、と美咲は声にならない声で呟いた。 ありがとう。 耳を苛んでいた激しい雨音は、いつの間にか遠のいていた。代わりに、無線機から聞こえる、ノイズ混じりの隊員たちの声が、世界で最も美しい音楽のように、彼女の耳に響いていた。

エピローグ:そして朝日は昇る

あれから、三週間が過ぎた。

高橋健一は、病院のベッドの上で、窓の外を流れていく雲を静かに眺めていた。左足はまだ、白いギプスに固められている。あれ以来、彼を苛んでいた熱と悪夢は去ったが、体重は十キロ近く落ち、頬はこけていた。

娘の沙耶が、ノートパソコンをベッドの脇に置いた。 「お父さん、ここの計算、分からなくて…」 大学の課題だという画面には、複雑な数式が並んでいる。健一は、少し戸惑いながらも、その数式に目を通した。やがて、彼の口から、かつてのプロジェクトマネージャーの顔で、静かな、しかし的確な言葉が紡がれる。 「…ここは、この関数を使った方がシンプルだ。そうすれば、全体の構造が…」 「そっか、なるほど」 沙耶は、心の底から嬉しそうに微笑んだ。 健一は、そんな娘の顔を見て、ぽつりと言った。 「…心配、かけたな」 「当たり前でしょ」 沙耶は、少しだけ涙声で、でも強く、そう答えた。

サイドテーブルには、一枚の封筒が置かれている。差出人は、東邦建設。中身は、就業規則の特定条項を引用した、極めて事務的な懲戒解雇の通知書だった。

美咲は、健一のベッドの脇に座ると、静かに言った。 「木村さん、あのUSBを会社のコンプライアンス室に提出したそうよ。島田さんのこと、近いうちに正式な内部調査委員会が開かれるって」 健一は、何も言わなかった。ただ、こわばっていた肩の力が、ほんの少しだけ抜けたように見えた。

「すまなかった」 健一が、ようやく絞り出した。それは、妻と娘、双方に向けられた言葉だった。 「俺は、弱かった。ずっと、強い人間のふりをしていただけだった」 「……」 「君が見つけてくれなければ、俺は、本当にただの石になっていたと思う。ありがとう」

美咲は、何も言わなかった。 ただ、夫の、骨張った手を、両手でそっと包み込んだ。「おかえりなさい」。その一言だけを、心の中で呟いた。 彼女は持ってきた紙袋から、小さな箱を取り出す。病院の地下にあるコンビニで買ってきた、ささやかなショートケーキだった。 「誕生日、やり直そう」 彼女は、そう言って微笑んだ。

プラスチックのフォークが三つ。ろうそくも、歌もない。三人は、窓から差し込む午後の光の中で、ただ黙って、甘いケーキを分け合った。

失われたものは、あまりにも大きい。 健一は会社を失い、築き上げてきた地位も、プライドも、全てを失った。 しかし、全てを失った廃墟の上で、彼は、生まれて初めて、本当の弱さを家族の前にさらけ出すことができた。

高橋家の新しい、本当の意味での対話が、今、静かに始まろうとしていた。 窓の外では、あの日の森と同じように、柔らかな朝日が、三人を照らしていた。

【了】

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