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『狩野派レクイエム』

近代日本画の父、橋本雅邦。彼が歴史から抹消した、”もう一人”の天才がいた。


あらすじ

若き古美術修復家・神崎亮は、ニューヨークのオークションで一枚の作者不詳の絵画に遭遇する。そこに宿っていたのは、近代日本画の父・橋本雅邦の系譜に連なりながらも、歴史上の誰の作とも異なる、異様なまでの才能の輝きだった。

絵に隠された「月影」というサインを手がかりに調査を開始した神崎。だが、彼の行く手には日本の古美術界を牛耳る巨大財団が立ちはだかり、真相を闇に葬り去ろうと動き出す。彼らは何を隠しているのか。

やがて神崎は、雅邦の盟友であった天才画家・狩野芳崖の早すぎた死と、「月影」と呼ばれる抹消された画家たちの存在に辿り着く。すべての答えは、140年間、固く封印されてきた一枚の屏風絵に眠っていた。

歴史の闇に葬られた天才たちの魂の叫びが、科学の光によって今、解き明かされる。美と謎に満ちた、本格アートミステリーの傑作。

登場人物紹介

  • 神崎 亮(かんざき りょう) 本作の主人公。若き古美術修復家。祖父が遺した謎を追い、日本美術史最大のタブーに挑むことになる。
  • 橋本 雅邦(はしもと がほう) “近代日本画の父”と称される巨匠。日本画の未来のため、非情な決断を下したとされるが、その真意は謎に包まれている。
  • “月影”(つきかげ) 歴史の記録から完全にその名を抹消された、謎の画家(たち)。彼らはなぜ、そしてどのようにして消えなければならなかったのか。
  • 狩野 芳崖(かのう ほうがい) 橋本雅邦の盟友であった天才画家。彼の早すぎる死が、140年にわたる巨大な謎の始まりだった。
  • 久我 重明(くが しげあき) 日本の古美術界に君臨する「九曜財団」の理事長。神崎の前に立ちはだかる、謎多き老人。

序章 邂逅

マンハッタンの空気を切り裂くサイレンの音も、この部屋の分厚い壁と静寂には届かない。

ニューヨーク、クリスティーズ。ロックフェラー・センターの競売室(セールルーム)は、選ばれた者だけが呼吸を許される、水圧のかかった深海のような場所に思えた。

磨き上げられたマホガニーの演台。整然と並び、世界の富豪たちと繋がる電話席(テレフォン・ブース)。

そして、世界中から集まったコレクターたちの、獲物を品定めするような視線と、欲望と知性が入り混じった静かな熱気。

その一角で、神崎亮(かんざき りょう)は腕を組み、ひとり息を潜めていた。周囲の誰もが目の前の芸術品に価値という札を貼り付けていく中で、彼の眼差しだけが違う層を見ていた。

今日の彼は買い手(バイヤー)ではなかった。たった一つの真実を探し求める、巡礼者にも似ていた。

祖父が死んで一年。あの温かく、墨の匂いがした書斎はもうない。

残されたのは、膨大な美術史の資料と、万年筆で殴り書きされた一枚のメモだけだった。

『月影を追え。奴らは歴史を歪めた』

何を探し、誰に追いつめられていたのか。贋作事件という濡れ衣を着せられ、愛した美術界から追放された祖父の無念だけが、今も亮の胸に生々しい手触りを残していた。

「――Next Lot. Number one-seventy-eight.」

涼やかな女性の声のアナウンスが、亮を思考の海から引き揚げる。正面の巨大なディスプレイに、次の出品物が鮮やかに映し出された。

Lot No. 178. Anonymous Masterpiece, Fan painting, Meiji era, Japan.

作者不詳、扇面画。明治時代。

ぞくり、と背筋を悪寒が駆け抜けた。これだ。このために、自分は太平洋を越えてきた。

そこに映っていたのは、何の変哲もないはずの日本の風景画だった。しかし、その小さな画面が放つ異様なまでの気韻は、会場のざわめきを一瞬にして飲み込んだ。

描かれているのは、月下の渓流。ごつごつとした岩肌の質感、その間を縫うように流れる水の表現は、紛れもなく江戸幕府の御用絵師として君臨した狩野派の、それも最高峰の描き手の筆致だった。

二百五十年以上も日本の美の頂点に立ち続けた、伝統の様式美。それを完璧に踏襲した、揺るぎない技術。

だが――亮は眉をひそめた。違う。何かが、ありえないほどに違う。

水面に映る月光の、そのぎらりとした反射。岩に当たって砕ける飛沫(しぶき)が放つ、光の粒子。そして、画面全体を包む、触れられそうなほどにしっとりとした大気の湿度。

まるで、西洋の光と日本の闇が、一枚の紙の上で禁じられた恋に落ちたかのようだった。

それは、油彩画(オイルペインティング)でしか表現しえないはずの、光と空気の表現だった。

伝統的な日本の絵画には存在しないはずのリアリズムが、狩野派の様式美と完璧な形で、しかしどこか悲しげに融合している。

橋本雅邦か? いや、”近代日本画の父”の筆致はもっと硬質で、厳格だ。

では、盟友の狩野芳崖か。違う。あの悲劇の天才のそれは、さらに荒々しく、魂を燃やすように情熱的だ。

では、誰だ。この絵を描いたのは。 近代日本画の夜明け、その光と影が交錯する歴史のどこにも存在するはずのない、異形の天才。

競りが始まった。価格は瞬く間に吊り上っていく。百万、二百万ドル……。亮には、その声も雑音にしか聞こえなかった。

彼の目は、熱狂する競りの様子を捉えてはいなかった。ディスプレイに映る絵の、その一点だけを、網膜に焼き付けるように見つめていた。

岩陰。松の根が絡みつく、最も暗い部分。絵師が本来、印章を捺すはずもない場所。

「……あった」

思わず、声が漏れた。周囲の何人かが訝しげに彼を見たが、気づかなかった。

そこに、隠されるようにして描かれた、極小の印。それは文字ですらない。

三日月の形に、寄り添うように引かれた一本の影。

祖父の研究資料にあった、ただ一つのスケッチ。歴史から抹消された幻の画家(たち)が使ったとされる、禁じられた印。

――月影。

神崎亮の、本当の人生が始まる音がした。

落札を告げるハンマーの乾いた響きは、彼にとって復讐の始まりを告げる号砲のように聞こえていた。

第一章 抹消されたアトリエ

ニューヨークの喧騒から戻り、数日が過ぎていた。

神田神保町の古書店の森、その裏通りにひっそりと佇むビルの二階が、神崎亮の仕事場兼住居である「神崎古美術修復工房」だった。

薬品と古い墨、そして膠(にかわ)の匂いが混じり合った静かな空間で、亮は巨大な作業台の上に、あのオークションの図録(カタログ)を広げていた。

何度見ても、あの扇面画の写真は異彩を放っていた。亮は、もはやその絵が、ただの美術品ではないことを知っていた。

落札者は、公益財団法人「九曜(くよう)財団」。日本の古美術界を裏で牛耳ると噂される、巨大な組織だ。

祖父の研究資料にも、その名は幾度となく現れる。だが、そのすべてに、祖父の苛立ちを示すかのような、赤いクエスチョンマークが殴り書きされていた。

亮は、作業台の半分を占領する祖父の遺品――整理されていない資料の山に手を伸ばした。

体系化を拒むかのように乱雑なメモ、日付のないスケッチ、何かの論文の切れ端。まるで、巨大な嵐に巻き込まれた思考の残骸のようだった。

一枚の和紙に書かれた、祖父の震えるような筆跡が目に留まる。

『”月影”は個人名にあらず? 同一の印、されど筆致に差異あり。雅邦の影、芳崖の影、そして未知の光……。これは一体、何だ?』

亮は息をのんだ。個人名ではない?

では、”月影”とは何だ。複数の画家が使った共同名義(アトリエ)だとでも言うのか。

そんなことがあり得るのか。まるで、歴史の記録から意図的に消された、秘密結社ではないか。

九曜財団。月影。狩野芳崖の死。そして、橋本雅邦。

バラバラのピースが、一つの巨大な絵を形作ろうとしている。だが、その絵柄はまだ、深い霧の向こうにあった。

亮はコーヒーを一口啜り、思考を巡らせた。すべての始まりは、どこだったのか。何が、この歪んだ歴史を生み出す最初の亀裂だったのか。

窓の外は、すでに茜色に染まり始めていた。亮の意識は、目の前の資料から離れ、百四十年の時を超えた過去へと沈んでいく。

明治十年、横浜。 文明開化という熱病に浮かされた港町は、西洋の匂いをまき散らし、喧騒と活気に満ちていた。

だが、その熱に背を向けるようにして、橋本雅邦(はしもと がほう)は、輸出用の安物陶器に絵付けをしていた。

(――これが、勝川院(しょうせんいん)様より受け継いだ、我が筆の成れの果てか)

徳川幕府御用絵師、狩野派の宗家の一つ、木挽町狩野家の画塾頭まで務めたプライドは、日々の糧を得るための単調な作業の中で、すり減っていくのを止められなかった。

西洋帰りの者たちがもてはやされ、日本の伝統は古いものとして打ち捨てられる。時代の奔流は、あまりに無慈悲だった。

その日も、黙々と龍の絵を皿に描きつけていた雅邦の動きが、ふと止まった。

工房の片隅。他の職工たちが手を動かす中、一人の痩せた少年が、ただ一点を凝視していた。

その視線の先にあるのは、壁に止まった一匹の蝿。誰も気にも留めない、小さな命。

少年は、陶器の破片を紙代わりに、燃えさしを筆代わりに、その蝿を写し取っていた。

(猿真似め) 雅邦は、心の中で吐き捨てた。その筆致は、あまりに未熟で荒削りだった。

見たものをそのまま写すなど、西洋画かぶれのやることだ。絵とは、物の形ではなく、その奥にある「気韻」を描き出すもの。狩野派の真髄を知らぬ、浅薄な写生。

だが、雅邦は次の瞬間、己の目が信じられなくなった。

少年の描いた蝿の絵。それは、ただの蝿ではなかった。

極小の羽の震え、光を反射して鈍く輝く複眼、そして、今にも飛び立とうとする、生命そのものの気配。

形を写し取った先にあるはずの魂――狩野派が「気韻生動」と呼び、生涯をかけて追い求めるものが、その燃えさしの線の中に、確かに宿っていた。

雅邦は、我知らず立ち上がっていた。工房の誰もが、鬼の形相で知られる雅邦の異様な様子に息をのむ。

彼は、少年の前に仁王立ちになると、低い声で問うた。

「小僧。その絵、誰に習った」

少年は、怯えたように顔を上げた。その瞳は、飢えと、そして、絵を描くことへの純粋な渇望だけを宿していた。

「……誰にも。ただ、見ていただけだ」

「名は何という」

少年は、一瞬ためらってから、か細い声で答えた。

「……静馬」

その出会いが、橋本雅邦の凍てついていた絵師としての魂に、小さな火を灯した。

静馬という少年は、飢えた獣のように雅邦の技術を吸収した。文字通り、盗み見て、写し取り、己のものとしていく。

雅邦は、狩野派の伝統的な指導法とは全く違うやり方で、少年の才能と向き合った。

手本をただ模写させるのではなく、まず徹底的に「観る」ことを教えた。雨粒の落ちる様、風に揺れる竹林のざわめき、闇に溶ける墨の滲み。

雅邦は静馬の中に、かつての自分にはなかったものを見ていた。それは、伝統という名の鎧をまとわない、剥き出しの眼(まなこ)だった。

そして同時に、自分たちが失いかけている、絵を描くことへの根源的な喜びでもあった。

やがて、時代は雅邦を再び表舞台へと引き戻す。

岡倉天心、アーネスト・フェノロサとの出会い。失われかけた日本の美の復興という、国家規模の壮大な計画。そして、東京美術学校の設立。

不遇の時代を耐え忍んだ狩野派最後の巨匠は、今や近代日本画を創造する指導者として、画壇の中心に返り咲いていた。

だが、雅邦は知っていた。美術学校という公の教育の場だけでは、本当の革新は成し遂げられないことを。

規則、旧守派との軋轢、政治的な思惑。そうしたものから切り離された場所でなければ、本当の実験はできない。

美術学校の校舎裏、物置として使われていた古いアトリエ。そこに、雅邦は数人の若者たちを極秘に集めていた。

正規の教育を受ける機会のなかった者、身分の低い者、そして、その才能が既存の枠からはみ出しすぎていた者。

その中心に、鋭い眼差しでキャンバスを睨む月影静馬の姿があった。

「――ここでの名は、お前たち一人のものではない。我ら全員の名だ」

雅邦は、集った若者たちを見渡して言った。その声には、未来への希望と、同時に漠然とした不安が宿っていた。

「お前たちは、まだ光の当たらぬ月の裏側。だが、いずれその影の中から、この国の絵画の未来を照らす、新しい光が生まれる。その志の証として、お前たち全員で一つの名を名乗れ」

彼は、墨を含んだ筆で、和紙にさらさらと二文字を書いた。

月影

「狩野派でもなく、西洋画でもない。誰の真ね似でもない、お前たちだけの絵を探せ。ここで行うことは、一切、他言無用。いいな」

若者たちの目に、緊張と、抑えきれないほどの情熱の光が宿った。彼らは雅邦の言葉に、未来の自分たちの姿を見た。

橋本雅邦が組織した、歴史には存在しない秘密のアトリエ。

彼らはまだ知らなかった。自分たちの純粋な探求が、やがて日本画壇を揺るがす巨大な陰謀と、悲劇の引き金になるということを。

「……アトリエ、ですって?」

神崎亮は、電話の受話器を強く握りしめていた。相手は、祖父の数少ない友人の一人で、今は引退した美術史の研究者だった。

「あくまで仮説じゃがな」と、老いた研究者は咳き込みながら続けた。その声は、過去の重みに喘いでいるかのようだった。

「君の祖父は、”月影”の印を持つ作品を複数確認しておった。だが、その筆致はまるで別人のようじゃったらしい。まるで、同じテーマを、違う人間が描いているかのように。そこから彼は、”月影”とは個人ではなく、ある種の集団……実験的な工房(アトリエ)だったのではないかと考えるようになった」

亮の脳裏で、バラバラだったピースが、一つの形に収束していく。まるで、見えない糸で繋がれていくかのように。

作者不詳の扇面画。祖父のメモ。複数の筆致。そして、九曜財団の執拗なまでの隠蔽。

彼らが隠したかったのは、一人の天才画家ではない。

橋本雅邦の指導のもと、歴史の裏側で活動し、そして、何らかの理由で歴史から完全に抹消されなければならなかった、名もなき天才たちの集団。 その存在そのものを、隠蔽しようとしているのだ。

「先生。そのアトリエが、狩野芳崖の死と何か関係が?」

亮が核心を突くと、電話の向こうで老人が息をのむ気配がした。長い沈黙の後、絞り出すような声が聞こえてきた。

「……神崎君。君は、あまり深入りしない方がいい。君の祖父は、その先に足を踏み入れて、すべてを失ったんだ」

その忠告は、亮の心に火をつけただけだった。祖父の無念を晴らすためにも、引き下がるわけにはいかない。

電話を切り、彼は再び祖父の資料の山に向き直る。もはや疑いの余地はなかった。

祖父が追い求めた謎の核心は、この「抹消されたアトリエ」にある。

いったい彼らは、何を描き、何を見てしまったのか。

そして、なぜ、雅邦は自らが生み出したはずの才能たちを、歴史の闇に葬り去らねばならなかったのか。 答えは、九曜財団が固く封印する、一枚の絵の中にあるはずだった。

第二章 友を喰らいし影

文献調査だけでは、見えない壁に突き当たっていた。書物の中の言葉は、まるで霧のように、核心を覆い隠している。

神崎亮は、百四十年前の画家たちが遺した「物」ではなく、その記憶を受け継ぐ「人」に会う必要があると感じていた。

数少ない縁(えにし)を辿り、亮は橋本雅邦の曾孫にあたる老婦人、橋本冬美の自宅の前に立っていた。

都心とは思えぬほど静かな、古い木造の家。生い茂った庭の木々が、外界の喧騒からこの一角を守っているようだった。

「――月影、ですか」

通された客間で、冬美は上品な仕草で茶をすすり、静かに首を振った。その老いた眼差しには、優しさと、何か深い憂いが宿っていた。

「初めて聞くお名前ですわ。曾祖父の弟子であれば、横山大観先生や菱田春草先生といった方々のお名前しか、私どもには伝わっておりません」

その答えは、亮の想定内だった。公の記録から抹消された存在が、家族の記憶に残っていると考える方が不自然だ。

亮は、もう一つの切り札を切った。祖父の資料で、雅邦の娘の日記と重ねて記されていた名。

「では、狩野芳崖という画家について、何かご存知のことはありませんか」

その名を出した瞬間、冬美の穏やかだった表情が、わずかに曇ったのを亮は見逃さなかった。まるで、触れてはいけない傷口に触れてしまったかのように。

「……芳崖先生。曾祖父にとっては、無二の盟友であったと聞いております」

「彼の死について、何かご家族で言い伝えられているようなことは?」

冬美はしばらくの間、視線を畳の上に落としていた。その沈黙は、雄弁に何かを語っていた。

やがて、何かを決心したように顔を上げ、客間の奥にある書斎へと亮を導いた。

古びた桐の箪笥から、彼女が取り出してきたのは、一冊の古い日記帳だった。紙は黄ばみ、インクは薄れている。

「これは、私の祖母……雅邦の娘が遺したものです」

冬美の細い指が示した一節を、亮は息をのんで読んだ。心臓の音が、耳元で大きく鳴り響く。

『父上、友の死に、いたく心を痛めておられる。ただの病ではない、と。あの方の正義が、あまりに深き闇を照らしすぎた故だと。父上は恐れておられる。友を喰らいし影が、いずれ我らのもとにも来たることを』

日付は、狩野芳崖が公式に「胃病で急逝した」とされる日の、わずか数日後のものだった。

友を喰らいし影――。それは一体、何なのか。

亮は、芳崖の死が、やはり単なる病死などではないことを確信した。そして、その影は、秘密のアトリエ”月影”とも無関係ではないはずだった。

「神崎さん」と、冬美が静かに言った。その声には、亮への警告と、過去への深い畏れが滲んでいた。

「あなたは、歴史の傷口に触れようとしておられるのかもしれません。どうか、お気をつけになって」

その言葉は、亮の背筋をぞっとさせると同時に、彼の探求心にさらなる燃料を投下した。傷口に触れなければ、治すことはできない。

明治二十年代初頭、東京美術学校。 文明開化の最先端をいくこの学舎は、赤煉瓦の校舎が青空に映え、日本の美術の未来を担うという希望と熱気に満ちていた。

だがその水面下では、旧態依然とした伝統を守ろうとする勢力と、新しい表現を模索する革新派との激しい対立が渦巻いていた。

その嵐の中心にいたのが、教授である橋本雅邦と、彼の秘密のアトリエ”月影”の若者たちだった。彼らの存在は、旧守派にとって目の上の瘤となりつつあった。

ある日の合評会。並み居る教授陣と学生たちの前で、月影静馬の描いた一枚の絵がイーゼルに立てかけられた。

お題は「瀑布」。多くの学生が、狩野派の伝統的な様式に則って、定型化された滝の絵を描く中、静馬の絵は異彩を放っていた。

岩に叩きつけられ、陽光を浴びて虹色に輝く水飛沫。滝壺から立ち上る、冷たい湿気を含んだ霧。

そして、それらすべてを包み込む、森の空気の匂いまでが感じられるような、圧倒的なまでの写実と臨場感。まるで、絵の中から音が聞こえてきそうなほどだった。

「見事だ!」と、校長の岡倉天心は声を上げた。「これぞ、我らが目指す新しい日本画の姿だ!」

だが、保守派の教授の一人が、吐き捨てるように言った。その言葉には、明らかに妬みと侮蔑が込められていた。

「これは、絵ではない。ただの写し絵じゃ。西洋かぶれの猿真似にすぎん」

その一言を皮切りに、会場は賛否両論の渦に叩き込まれる。学内での対立が、公の場で噴出した瞬間だった。

静馬は、その中で黙って唇を噛み締めていた。称賛も、罵声も、彼の耳には届いていなかった。

ただ、師である雅邦が、じっと自分を見つめていることだけを感じていた。雅邦のその目は、お前の進む道はそれで良い、と語っているように思えた。

その夜だった。静馬が一人、アトリエで筆を洗っていると、背後から声をかけられた。

振り返ると、そこに立っていたのは、橋本雅邦の無二の盟友、狩野芳崖だった。その顔には、いつもの豪放な笑みはなく、深い憂いが刻まれていた。

「小僧、面白い絵を描くのう」

豪放磊落な笑みを浮かべた芳崖は、しかし、すぐに真顔になって静馬に顔を寄せた。その声は、ひそやかだった。

「お前のその眼は、あまりに物が見えすぎる。それは得難い才だが、同時に、厄介事を引き寄せる」

「……と、おっしゃいますと?」

静馬は、芳崖の言葉の真意を探ろうと、じっと彼の目を見つめた。

「この美術界は、お前が思うほど綺麗な場所ではないわい。特に、古いものには魑魅魍魎が巣食うておる。

大名家伝来の掛け軸、寺に眠る国宝……その裏では、本物と偽物がすり替えられ、莫大な金が動いておる。わしは今、その根を断ち切ろうとしておる」

芳崖の目が、鋭く光った。その眼差しは、静馬の魂の奥底まで見通すかのようだった。

「雅邦も、お前たちを守ろうと必死だ。だが、お前たち”月影”の才能は、あまりに目立ちすぎる。

敵を作るな、静馬。見えすぎたものは、時に、見なかったことにする賢さも必要だぞ」

それは、忠告であり、そして、不吉な予言でもあった。

静馬は、自分の描く一枚の絵が、ただの芸術ではなく、得体の知れない巨大な陰謀と隣り合わせにあることを、この時初めて悟ったのだった。胸騒ぎが、彼の心臓を締め付けた。

第三章 美術学校騒動

橋本冬美の家を辞した神崎亮は、確信を強めていた。『友を喰らいし影』。それは、単なる比喩ではない。

狩野芳崖は、殺されたのだ。その背後には、彼の告発を恐れた何者かの手が伸びていたに違いない。

亮は工房に戻ると、再び祖父が遺した資料の海に飛び込んだ。以前は意味をなさなかった走り書きの数々が、芳崖の死という光を当てることで、輪郭を現し始める。

そして、ついにそれを見つけた。亮は息を詰めた。

古い美術雑誌の切り抜きの裏に、鉛筆で走り書きされた祖父のメモ。文字は薄れているが、その内容は鮮烈だった。

『芳崖、死の直前に会っていた男の名、久我源八(くが げんぱち)。当代随一の古美術商。その財、いかにして成せしか。彼の初期のコレクションが、後の九曜財団の礎となる』

久我源八。 現在の九曜財団理事長、久我重明の曾祖父にあたる人物だった。点と点が、一本の線で繋がった。

繋がった。芳崖が追っていた贋作スキャンダルの黒幕。芳崖を死に追いやった『影』の正体。

そして、その罪を隠し、不正に得た富と美術品で築かれたのが、九曜財団そのものだったのだ。

彼らが”月影”の存在を抹消しようとする理由も、これで明白になった。

“月影”の誰かが、久我源八の犯罪の決定的瞬間を目撃したのだ。その事実こそが、彼らの存在を歴史から消し去る動機となった。

だが、証拠がない。百四十年前の闇に葬られた真実を、今、法廷で暴くことなど不可能だ。

証拠はただ一つ。”月影”が遺したとされる、最高傑作。久我一族がその存在を隠し続けている、呪われた絵画。

亮は受話器を取り、ある人物に電話をかけた。相手は、文化財の修復を管轄する文化庁の役人だった。

「……ええ、先日お話しした件です。九曜財団が秘蔵している、作者不詳の屏風絵。保存状態が劣悪である可能性が濃厚です。文化財保護法に基づき、至急、立ち入り調査と修復の勧告を……」

これは、危険な賭けだった。一歩間違えば、亮自身が祖父と同じ道を辿る可能性もある。

だが、あの鉄壁の要塞に踏み込むには、国家権力という名の鍵を使うしかなかった。亮は、静かに受話器を置いた。

不吉な予言は、あまりにも早く現実となった。

狩野芳崖が死んだ。公式には、持病の胃病の悪化による急逝と発表された。世間は、日本の美術界の巨星の死を悼んだ。

だが、”月影”の仲間たち、そして橋本雅邦だけは、その発表を決して信じなかった。彼らは真実を知っていた。

あの日、静馬は芳崖に呼び出されていた。隅田川沿いの料亭で、贋作スキャンダルの証拠となる書類を渡すと。

約束の時間、料亭の近くに身を潜めていた静馬の目に、信じがたい光景が飛び込んできた。

芳崖が、数人の男たちに囲まれて歩いてくる。その中心にいたのは、美術界の重鎮として知られる大物美術商、久我源八だった。

穏やかではない口論の末、男たちが芳崖を無理やり料亭の中へ引きずり込んでいく。静馬の心臓は、警鐘のように打ち鳴らされていた。

静馬は物音を聞いた。くぐもった悲鳴と、何かが倒れる鈍い音。胃病を患っていた男が、倒れる音ではない。

しばらくして出てきた男たちは、ぐったりとした芳崖を抱えていた。まるで、急病人を介抱しているかのように。

その中に、久我源八の冷たい目が、闇の中でぎらりと光るのを、静馬は確かに見た。その目は、人間の感情を一切宿していなかった。

すべてを察した静馬は、その場から逃げ出した。恐怖で全身が凍りついていた。彼の背後で、歴史の大きな歯車が、歪んだ音を立てて回り始めた。

時を同じくして、東京美術学校は創立以来、最大の危機を迎えていた。

急進的な改革を進める校長・岡倉天心が、彼のやり方を快く思わない文部省の官僚や保守派の教授たちの陰謀によって、職を追われることになったのだ。世に言う「美術学校騒動」。

天心を信奉する雅邦や、横山大観をはじめとする多くの若き画家たちも、学校を去ることを決意する。革新を志す者たちへの、容赦ない弾圧だった。

校内が、辞職と裏切りと政治的策謀の嵐に揺れる、その夜。

雅邦は、月影のアトリエに静馬を呼び出した。恐怖に震える静馬からすべてを聞いた雅邦の顔からは、血の気が失せていた。その目は、深い絶望と苦悩に満ちていた。

「……静馬。もはや、ここはお前のいる場所ではない」

雅邦の声は、絞り出すようにかすれていた。その一言一言が、雅邦の心臓を抉るような痛みを含んでいた。

「芳崖殿の件、そして天心校長の追放。すべては根で繋がっておる。久我の力は、我らが思うていたよりも、はるかに深いところまで及んでいる。

奴らは、お前の存在にいずれ気づく。そうなれば、お前の命はない」

この騒動は、久我にとって好都合だったのだ。混乱に乗じて、自分たちの悪事の目撃者である”月影”を、その師である雅邦もろとも葬り去ることができる。

「先生……」

静馬は、師の目の奥に、自分を死なせまいとする必死なまでの決意を見た。

「聞け、静馬」と、雅邦は静馬の肩を掴んだ。その手は、かすかに震えていた。もはや師の威厳などなかった。ただ、愛弟子を案じる一人の男の感情だけがあった。

「この混乱の中であれば、記録の改竄も抹消も可能だ。私が、お前の存在を、”月影”のすべてを、この美術学校の歴史から完全に消し去る。

お前は、新しい名を得て、北へ行け。蝦夷の地へ。二度と、筆は取るな。ただ、生きろ」

それは、師が弟子に下すには、あまりに過酷な宣告だった。

絵を描くことだけが生きる術だった少年に、絵を捨てろと言う。それは、死ねと言うのと同じだった。

だが、静馬は、雅邦の目に浮かぶ涙を見て、その言葉が、師の断腸の思いから出た、唯一の救済策であることを悟った。

「……御意」

静馬は、床に両手をつき、深く頭を下げた。涙が、彼の頬を伝い落ちる。

歴史から消えることを、受け入れた。ただ、生きるために。そして、師の未来を守るために。

東京を去る前夜、彼は雅邦から譲り受けた最後の画材で、一枚の絵を描き上げた。

それは、友への鎮魂であり、師への決別であり、そして、己が生きていた証を未来の誰かに託す、たった一つの声だった。

最終章 狩野派鎮魂歌

東京を去る前夜。

もはや誰の物でもなくなった秘密のアトリエで、月影静馬は一人、巨大な六曲一双の屏風に向かっていた。

これが、師から与えられた最後の画材。そして、己が「月影静馬」として描く、最後の絵だった。彼の筆に迷いはなかった。

彼はまず、怒りと悲しみのすべてを叩きつけるように、木炭で下絵を描いた。

料亭の座敷、引き倒される狩野芳崖、そして、その傍らで冷ややかに佇む久我源八と男たちの姿。それは、告発そのものであった。彼の描く線は、事件の生々しい記憶を刻んでいた。

次に、懐から小さな紙包みを取り出した。芳崖の葬儀の際、師を慕う一人の若い僧が、密かに彼に渡してくれた、一片の遺骨を焼いた灰だった。

静馬は、その灰を乳鉢に入れ、白い絵の具である胡粉(ごふん)と、祈るようにして混ぜ合わせた。その指先には、友への深い哀悼と、未来への仄かな希望が込められていた。

これは、友への鎮魂。そして、己の魂を込める儀式だった。

そして、静馬は描き始めた。

告発の下絵の上に、全く別の絵を。それは、誰もが息をのむほどに荘厳で、静謐な山水画だった。

朝霧が立ち込める湖、霧の中から姿を現す雄大な山々、そして、天へと昇っていくかのような一筋の光。

芳崖の魂を混ぜた純白の胡粉は、画面で最も神聖な、朝霧そのものとなっていく。彼の祈りが、絵の具に宿るかのようだった。

彼は、描き続けた。夜が白み始めるまで。その筆は、決して止まることはなかった。

描き終えた時、月影静馬という画家は、この世から消えた。残されたのは、未来の誰かに真実を託した、声なき魂の叫びだけだった。

九曜財団の地下深く。温度と湿度が完璧に管理された巨大な収蔵庫は、まるで神殿のようだった。だが、そこに満ちているのは、神聖さではなく、重苦しい秘密の空気だった。

神崎亮は、財団理事長の久我重明、そして文化庁の役人たちと共に、部屋の中央に安置された巨大な桐の箱の前に立っていた。

「――これが、”月影”の最高傑作、『狩野派鎮魂歌』ですかな」

亮の問いに、久我は答えなかった。ただ、その目に宿る、狂信的ともいえる光だけが、亮の言葉を肯定していた。彼の執着が、空間を満たしていた。

箱が開けられ、中から屏風が運び出される。立てられた瞬間に、その場にいた誰もが息をのんだ。

朝霧に包まれた山水画。描かれた技術も、その気韻も、まさしく国宝級。これが、百四十年間もの間、光の当たらない場所に封印されていたのか。

「……これより、文化財保護法に基づき、作品の調査を開始します」

亮は冷静に告げ、持参した機材を設置し始めた。彼の指先は、微かに震えていたが、その表情は毅然としていた。

まずは、携帯式の赤外線カメラ。亮は、屏風の表面をゆっくりとスキャンしていく。

モニターに映し出された映像を見て、文化庁の役人が首を傾げた。その顔には、困惑と驚きが混じっていた。

「神崎さん、これは……?」

「絵の具の層の下に、別の絵が描かれています。下絵……いいえ、これは、完成された一つの絵だ」

亮は、モニターを久我の方へと向けた。久我の目が、その映像を捉えた瞬間に大きく見開かれた。

美しい山水の絵が、モニター上では亡霊のように透け、その下から、おぞましい光景が浮かび上がっていた。

料亭の一室。倒れ伏す男。そして、それを取り囲む複数の人影。その中心に立つ男の顔は、久我源八に酷似していた。隠された真実が、今、姿を現した。

久我の顔が、能面のようにこわばっていく。彼の視線は、もはやモニターに釘付けだった。

「……ただの下絵ですかな。画家が構図を変えるのは、よくあることだ」

久我の声は、か細く震えていた。言い訳のようにも、自分に言い聞かせているようにも聞こえた。

「では、これはどう説明しますかな?」

亮は次に、屏風の朝霧を描いた、白い絵の具の表面を特殊なペンでなぞった。携帯型の蛍光X線分析装置が、瞬時に成分を解析する。

「主成分は、胡粉に含まれる炭酸カルシウム……当然ですな。だが」

亮は、モニターに表示された微量元素のグラフを指し示した。その数値は、疑いようのない事実を突きつけていた。

「リン、カリウム……生物由来でなければ、これほど高い数値で検出されるはずのない元素が、この白い絵の具からだけ、検出されている。久我さん、これはただの絵の具ではない」

亮は、久我の目をまっすぐに見据えて言った。その声は、静かだが、鋼のような響きを帯びていた。

「これは、墓標だ。狩野芳崖の骨を混ぜて描かれた、鎮魂の絵だ。あなたの一族は、このおぞましい真実ごと、この美を百四十年も封じ込めてきた」

静寂。収蔵庫の張り詰めた空気は、針が落ちる音すらも吸い込んでしまうようだった。

やがて、久我重明は、崩れるようにその場に膝をついた。その姿は、一族の罪の重さに耐えきれなくなった、哀れな老人のようだった。

それは、日本美術史の最も深い闇が、科学の光によって白日の下に晒された瞬間だった。

エピローグ 継承

九曜財団は、文化庁の徹底的な調査の末、解体された。長きにわたる闇の支配は、ついに終わりを告げた。

久我一族の罪は、しかし、派手に報道されることはなかった。神崎亮が、それを望まなかったからだ。

彼の目的は、社会的な断罪ではなく、歴史の裏に葬られた魂の名誉を回復することだった。それが、祖父が彼に託した本当の願いだと亮は理解していた。

国宝に指定された屏風絵の作者名は、「伝・月影」と記された。

個人名ではなく、歴史の闇に消えた名もなき天才たちの、集合体としての名として。それは、彼らが確かに存在したことの証だった。

月影静馬が、新しい名を得て、北の大地でどのような人生を送ったのか。筆を再び握ることはあったのか。それを知る者は、もう誰もいない。

神田神保町、神崎古美術修復工房。

亮は、いつものように、黙々と欠けた茶碗の修復をしていた。祖父の名誉は回復され、彼の心にあった復讐の炎は、静かに、そして完全に消えていた。

工房の壁には、一枚の扇面画が、美しく表装し直されて飾られている。ニューヨークのオークションから始まった、長い旅の始まりの絵。

彼は、これからもここで、名もなき職人たちが遺した美を、その魂ごと未来へ繋いでいく。

それが、歴史から消えた”月影”の魂を受け継いだ、自分自身のやり方だと信じて。

工房の窓から差し込む西日が、扇面画に描かれた月下の渓流を照らし出す。

その水面が、一瞬だけ、百四十年前と同じように、きらりと光ったように見えた。それは、過去と現在、そして未来を繋ぐ、希望の光だった。

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