注目の記事 PICK UP!

『白夜のカンバス』

その「解放」は、罪か、愛か。一枚の絵が、法と魂を揺さぶる。


あらすじ

東京地検の若きエース、冬崎 亘(ふゆさき わたる)。彼は、心を病んだ妹を自死で失った過去を持つ。「なぜ救えなかったのか」という罪悪感は、彼の内側で決して癒えることのない傷となり、人の「死の選択」に対する強い拒絶感を植え付けていた。

ある日、冬崎は世間を揺るがす事件を担当する。国民的画家・**有馬 壮山(ありま そうざん)**が、難病の末に自宅アトリエで死亡。嘱託殺人の容疑で逮捕されたのは、たった一人で壮絶な介護を続けていた息子・**奏(そう)**だった。

「私が、父を解放しました」。取り調べに対し、奏は静かにそう語るだけだった。その穏やかな態度は、冬崎のトラウマを刺激し、彼を苛立たせる。

奏の弁護人には、人権派として知られる**明石 螢(あかし ほたる)**が就いた。「これは尊厳を巡る物語です」と主張する螢に対し、冬崎は「法の名の下、感傷的な美談は通用しない」と、断罪への決意を固める。

しかし、捜査の過程で冬崎は、壮山が遺した「白夜」のような闘病生活の現実に触れていく。言葉も身体も失った壮山が、唯一動く瞳で「カンバス(視線入力装置)」に描き続けたおびただしい数のデジタル絵画。そこに込められたメッセージとは何か。

法律という絶対的な物差しと、親子にしか分かち合えない魂の対話。二つの正義の狭間で、冬崎の信念は激しく揺さぶられる。壮山が最後に描いた一枚の絵——『白夜のカンバス』に隠された真実とは。

登場人物紹介

  • 冬崎 亘(ふゆさき わたる) 主人公。34歳、東京地検の検事。明晰な頭脳と強い正義感を持つが、妹を自死で失った過去から、人の手による死の選択を断固として許せない。法の正義を信奉することで、自らの心の傷と向き合うことを避けてきた。
  • 有馬 奏(ありま そう) 容疑者。42歳、画家。偉大な父・壮山の介護に人生を捧げ、自らの創作活動を中断している。父の死に関して一切の動揺を見せず、その静けさが事件の謎を深める。彼の行為は、父への献身か、それとも介護に疲れた末の絶望か。
  • 明石 螢(あかし ほたる) 弁護士。38歳、奏の担当弁護士。小さな光でも暗闇を照らす蛍のように、法律の条文だけでは掬い取れない人間の真実を粘り強く追求する。冬崎とは対極の立場から、事件の奥に潜む人間性に光を当てようと試みる。
  • 有馬 壮山(ありま そうざん) 被害者。享年75歳、日本を代表する画家。難病ALSにより、動くことも話すこともできない「閉ざされた世界」に生きていた。唯一のコミュニケーション手段である視線入力装置を使い、最期の瞬間まで「描くこと」を諦めなかった強い意志の持ち主。

第一章:無彩色の朝

絵の具と消毒液の匂いが混じり合っていた。

古い木造アトリエに満ちるその異質な調和が、死の気配をより一層、濃密にしていた。 警視庁の青い制服が、無数の油絵に囲まれた空間を無機質に切り取っていく。

ベッドに横たわるのは、有馬壮山。 日本の画壇にその名を刻んだ巨匠は、まるで眠っているかのように穏やかな顔をしていた。

数年に及んだ闘病生活が刻みつけた深い皺だけが、彼が生前、壮絶な時間を生きていたことを示している。 ただ、その腕に残された小さな注射の痕だけが、この静寂が自発的なものではないことを物語っていた。

部屋の隅の椅子に、一人の男が座っていた。 有馬奏。壮山の息子であり、たった一人の介護者。

鑑識官たちが慌ただしく行き交う中で、彼だけがまるで別の時空にいるかのように、静止していた。 その視線は、窓の外の、何も映さない灰色の空に向けられている。

捜査一課のベテラン刑事が、事務的な口調で問いかける。 すでに大勢は決している、そんな空気が場を支配していた。

「……あなたが、やったんですね」

奏はゆっくりと顔を上げた。 その瞳には何の感情も浮かんでいない。凪いだ湖面のようだった。

「はい」

短い肯定。 刑事は次の言葉を待ったが、奏はそれ以上何も言わなかった。 沈黙に耐えかねたように、刑事が言葉を重ねる。

「動機は……介護疲れか」

よくある話だ、と刑事の目が言っていた。 悲劇ではあるが、理解できない話ではない。だが、奏は静かに首を横に振った。

そして、まるで夜明けの光を語るかのように、静かな声で言った。

「私が、父を解放しました」

第二章:条文の森

東京地方検察庁の空気は、常に乾燥している。

感情という名の湿り気を、分厚い六法全書がすべて吸い上げてしまうかのようだ。 冬崎亘は、その乾ききった空気に最も馴染む男だった。

寸分の狂いもなく整えられたデスク。膨大な資料は、内容ごとに完璧に分類されている。 彼の思考そのものを可視化したようなその場所は、他人の侵入を拒絶していた。

「冬崎君」

内線電話の無機質な呼び出し音に、彼はすぐさま受話器を取る。 声の主は、上司である次席検事だった。

簡潔な指示に従い、次席検事室の重い扉をノックする。 「入れ」という短い声。部屋の主と同じように、そこには一切の無駄がなかった。

「有馬壮山の件、君に担当してもらう」

ソファに深く腰掛けた次席検事が、分厚い資料の束をテーブルに示す。 冬崎は無言でそれを受け取り、表紙の「事件概要」という文字に目を落とした。

「嘱託殺人。世間の同情が集まりやすい厄介な案件だ」

次席検事は、冬崎の心中を見透かすように言った。 テレビのニュースは、偉大な画家の悲劇的な死と、彼を支え続けた息子の献身を、すでに感傷的な物語として報じ始めている。

「……承知しております」 冬崎の返答もまた、乾いていた。

「情に流されるな、冬崎。我々の仕事は、法に基づいて事実を認定し、然るべき罰を求めることだ。それ以上でも、それ以下でもない」

その言葉は、冬崎が自らに課してきた信条そのものだった。 感情は人を惑わせ、真実を見誤らせる。

法だけが、唯一の揺るぎない基準なのだ。 妹を失ったあの日から、彼はそう信じることで、かろうじて立っていた。

「はい。法と証拠に基づいて、厳正に処理します」

彼は、自らの手で、この感傷的な事件を「法」という無彩色の世界に引きずり戻すことを決めた。 有馬奏が語った「解放」という言葉。 その響きが、心の奥底で凍りついた何かを、微かに軋ませていることには気づかないふりをして。

第三章:『解放』という言葉

東京拘置所の取調室は、あらゆる感情を漂白する空間だった。

窓はなく、壁も、机も、椅子も、すべてが均一な色をしている。 法というフィルターを通せば、世界はかくも単純になるのだと、その部屋は雄弁に語っていた。

テーブルの向こう側に座る有馬奏は、冬崎がこれまで対峙してきたどの被疑者とも異なっていた。 憔悴はしているが、その瞳の奥にある静けさは揺らいでいない。

罪を犯した者の怯えも、開き直った者の傲慢さも、そこにはなかった。 冬崎は、用意した調書の最初のページを開き、事務的な手続きから尋問を始めた。

「……有馬壮山さんを、あなたがその手で殺害した。間違いないですね」

「はい」 淀みない返事だった。

「動機は?」 その問いに、奏は初めて口を閉ざした。

「介護に疲れたのか。経済的な問題か。それとも、あなた自身の将来を悲観してか」 冬崎が並べるありふれた動機のどれもが、目の前の男には当てはまらないように思えた。

沈黙の後、奏は、初めてまっすぐに冬崎の目を見た。 「動機、ではありません。それは、結論です」

「何?」

「父と私が、二人で辿り着いた、結論です」 そして、彼はあの言葉を繰り返した。

「父を、解放しました」

その瞬間、冬崎の脳裏に、黒い礼服の匂いと、白菊のむせ返るような香りが蘇った。

妹の葬儀。遠い親戚たちが、彼の肩を叩いて口々に言った。 「これで、あの子も楽になれたんだよ」 「苦しみから解放されたんだ」

無責任な同情。死を美化する、空虚な言葉の羅列。 生きている人間たちの、身勝手な自己満足。 あの時感じた吐き気を、冬崎ははっきりと覚えていた。

冬崎は、ペンを握る手に力がこもるのを感じた。 「解放、だと?」

声が、自分でも気づかぬうちに低くなっていた。 検事としての冷静さをかなぐり捨てた、剥き出しの敵意が滲む。

「感傷的な言葉で、犯罪を正当化するのはやめろ。あなたの行為は、ただの身勝手な殺人だ」 冬崎の言葉は、刃物のように鋭く、部屋の乾燥した空気を切り裂いた。

だが、有馬奏の表情は、変わらなかった。 ただ、その瞳の奥に、ほんの一瞬、深い哀しみの色がよぎったのを、冬崎は見逃さなかった。

第四章:闇の中の螢

翌日の午後、冬崎の執務室のドアが、静かにノックされた。 事務官が来客を告げる。

入室してきたのは、小柄な女性だった。 有馬奏の担当弁護人に選任された、明石螢だった。

華美な装飾はないが、芯の強さを感じさせるスーツ姿。 その瞳は、暗闇に慣れた夜行性の動物のように、じっと冬崎を見つめていた。 検事としての経験が、彼女が手強い交渉相手であることを告げていた。

「検事」 彼女は、名刺を差し出しながら、まっすぐに本題に入った。

「本件を、単なる嘱託殺人として処理するおつもりですか」

その問いには、非難と、そして僅かな探るような響きがあった。 冬崎は、彼女の名刺に目を落としたまま、無感情に答える。

「法と証拠に基づけば、それ以外の結論はありません」

「そうですか」 螢は小さく頷くと、冬崎のデスクの前に腰掛けた。

「東海大学病院の事件をご存知のはずです。あの判決が示した四つの要件。あれが、司法が示したギリギリのラインです」

冬崎の眉が、わずかに動いた。 もちろん知っている。安楽死が違法性を阻却されるための、極めて厳格な条件。

「そして、本件はその要件を何一つ満たしていない。本人の明確な意思表示も、代替手段の不存在も、立証は不可能です」 冬崎は、彼女の論理の先を読んで、冷たく言い放った。

「法律の条文や判例だけでは掬い取れないものがある、と申し上げているんです」 螢の声は、静かだったが、鋭く冬崎の理性を貫いた。

「言葉を失った人間の尊厳。それを最後まで守ろうとした家族の愛。あなたは、それらをすべて無視して、ただ『殺人』というラベルを貼るおつもりですか」

冬崎は、目の前の小さな弁護士の瞳の奥に、強い光を見た。 それは、正義という名の太陽の光とは違う。 闇の中で、自らの存在を主張するかのように点滅する、小さな、しかし消えることのない光だった。

「私の仕事は、ラベルを貼ることです。それが法治国家ですから」 冬崎は会話を打ち切った。

だが、螢が去った後も、彼女の最後の言葉が執務室の乾いた空気に、微かな湿り気のように残っていた。 その湿り気は、冬崎が最も嫌う、感情という名のものだった。

第五章:雄弁な物たち

一週間後、冬崎は再び有馬壮山のアトリエに立っていた。

警察の規制線が解かれ、主を失った空間は、がらんとした静寂に満たされている。 今回は、検事として、この場所が持つ「物語」を読み解くために来た。

絵の具の匂いは薄れ、消毒液の匂いだけが、壁の染みのようにこびりついている。 それは、ここで芸術が死に、闘病という名の生々しい現実だけが生き残ったことを示していた。

部屋の隅には、壮山の体を吊り上げるためのリフトが置かれていた。 床には、その車輪がつけた無数の傷。 それは、終わりのない体位変換という闘争の軌跡だった。

ベッドサイドには、胃ろうの交換セットと栄養剤のパックが、几帳面に並べられている。 生きるために、ただ機械的に栄養を流し込む。 その行為の無機質さが、冬崎の胸を突いた。

食べる喜びも、語る喜びも、描く喜びさえも奪われた人間。 それでもなお、生きなければならないということ。

そして、彼の視線は、壮山の枕元に固定された一台のPCモニターに吸い寄せられた。 視線入力装置。 言葉も体も失った画家が、唯一、世界と繋がるための糸。

これが、有馬奏が言った「カンバス」だった。 この小さな画面の中で、壮山は一体何を見て、何を描こうとしていたのか。

冬崎は、初めて有馬壮山の「苦しみ」を、そして有馬奏の「日常」を、皮膚感覚で理解した。 それは、法律の条文にも、判例にも書かれていない、生身の人間の営みだった。

明石螢の言葉が、脳裏で蘇る。 『法律だけでは掬い取れないものがある』

その言葉の意味を、彼はこの雄弁な物たちに囲まれて、ようやく理解し始めていた。 だが、理解することは、罪を赦すことには繋がらない。 冬崎は、込み上げる感情を振り払うように、固く目を閉じた。

第六章:白衣の沈黙

大学病院の診察室は、清潔だが、どこか疲弊していた。 ひっきりなしに訪れる患者たちの、見えないため息が壁紙に染みついているかのようだ。

有馬壮山の主治医だった老医師の目にも、同じ色の疲労が浮かんでいた。 彼は、冬崎の差し出した検事の身分証を一瞥し、静かに頷いた。

「……あの日が、いつか来るとは思っていました」

その声には、諦念と、そして僅かな安堵が混じっていた。 冬崎は、まっすぐに本題に入った。

「有馬壮山さんに、リビング・ウィルはありましたか。延命措置を拒否するという、書面での意思表示です」

医師は、ゆっくりと首を横に振った。 「……残念ながら、正式な書面はありませんでした」

その一点が、検察にとってどれほど重要か、医師は理解しているようだった。 冬崎は、畳み掛けるように次の質問を投げかける。

「ですが、先生のカルテには、延命措置を拒否する意思表示があったと記録されていますね」

「ええ」 医師は、分厚いカルテのページをめくった。

「気管切開と人工呼吸器の装着は、頑なに拒否されていました。まだ言葉が話せた頃に、何度も。視線入力装置でも、同じ意思を示されました」

その時の壮山の、強い光を宿した瞳を思い出すかのように、医師は遠くを見た。 「画家として、そして一人の人間としての、彼の最後のプライドだったのでしょう」

「ですが……」 医師は、そこで言葉を切り、深くため息をついた。

「我々にできるのは、そこまでです。法が、我々の手を縛っている」

その声は、白衣を纏った一人の人間の、静かな叫びのように冬崎の耳に届いた。

「検事さん、あなたは知らないでしょう。意識ははっきりしているのに、体が少しずつ動かなくなる。やがて呼吸する筋肉さえも。その恐怖が、どれほどのものか」

「我々は、患者の『生きたい』という声には全力で応える。だが、『もう十分だ』という声には、耳を塞ぐしかない。それが、今の日本の医療の現実です」

冬崎は礼を言って診察室を出た。 書面がないという事実は、有罪の根拠を一つ固めるものだ。

検事としての思考が、そう結論づけている。 だが彼の頭には、医師の最後の言葉が、重い錨のように沈んで離れなかった。

第七章:色彩の遺言

数日後、冬崎は国立近代美術館の資料室にいた。 目の前には、有馬壮山のデビュー時から現在までの、分厚い作品集が積み上げられている。

被疑者ではなく、被害者を知る。 それが、今回の捜査で彼が自らに課した、いつもとは違う手順だった。

ページをめくる指が、壮山の初期の作品群の上で止まった。 意外にも、そこには朽ちていく古木や、蔦に覆われた廃墟、冬の枯野といった、生命の終わりを連想させるモチーフが多かった。

世間が彼に与えた「生命力あふれる色彩の巨匠」というイメージとは、かけ離れている。 その暗く、静謐な絵画群は、若い頃の壮山が、すでに死の影を深く見つめていたことを示していた。

ある著名な美術評論家の解説文に、冬崎は指を止める。

『有馬壮山の芸術は、常に「終わり」の持つ豊かさを描いてきた。彼は、生命が最も鮮烈な輝きを放つのは、その光が消えゆく瞬間にあると信じていたフシがある』

冬崎は、息を飲んだ。

『彼の描く「死」は、決して断絶や無ではない。むしろ、それは完成であり、究極の静謐への到達なのだ』

冬崎は、作品集を閉じた。 背筋に、冷たいものが走る。

有馬奏の言った「解放」という言葉。 それは、介護に疲れた息子の感傷ではなかったのかもしれない。

父である壮山自身が、何十年も前から追い求めてきた、彼自身の芸術の、そして人生の、最終到達点だったとしたら——。

だとしたら、息子の行為は、父の芸術を完成させるための、最後の筆致だったということになるのか。

事件の構図が、足元から静かに崩れていくような感覚に襲われた。 法という名の画用紙に描いてきた単純な犯罪の輪郭が、壮山の遺した色彩によって、滲み、溶け出していく。

第八章:開かれなかった扉

その夜、冬崎は自宅の書斎で、古い段ボール箱を整理していた。 捜査資料の置き場所を確保するためだったが、それはただの口実だったのかもしれない。

検事になってから、一度も開けていない箱。 そこには、彼が封印してきた過去が、埃をかぶって眠っていた。

その中に、見覚えのある一冊のノートがあった。 妹の、美月が好きだったキャラクターのシールが貼られた、ごく普通の大学ノート。 それが彼女の日記だと、すぐにわかった。

開くべきではない。 そう理性が命じるのに、指が勝手にページをめくっていた。 あの日以来、彼がずっと目を背け続けてきた、妹の心の扉を開いていた。

そこにあったのは、病に蝕まれていく心の、痛々しい記録だった。 眠れない夜のこと。薬の副作用のこと。 そして、兄である自分への、心配をかけまいとする気遣いの言葉。

冬崎は、奥歯を噛み締めた。 なぜ、気づいてやれなかったのか。 すぐそばにいて、何も。

そして、最後のページ。 そこには、乱れた文字で、たった一行だけが記されていた。

『迷惑をかけてごめんなさい』

その瞬間、冬崎の中で、何かが音を立てて砕け散った。

迷惑? 誰が、そんなことを言った。兄である自分か。それとも、世間か。 違う。他ならぬ、妹自身が、そう思い込んでいたのだ。

妹が感じていた孤独。助けを求めることさえできずに、一人で抱え込んでいた絶望。 その姿が、言葉を失い、カンバスだけを世界のすべてとしていた有馬壮山の姿と、不意に重なった。

尊厳。 有馬奏が、そして明石螢が語った言葉。

妹が、最後まで守りたかったものも、それだったのではないか。 「負担」ではなく、一人の人間としての「尊厳」を。

冬崎は、日記を閉じることもできず、ただその一行を見つめ続けていた。 条文の森の中で、彼が唯一、道を見失う場所。 それは、たった一人の妹の、開かれることのなかった心の扉の前だった。

第九章:言葉なき対話

再び、あの感情を漂白する部屋に、二人は向き合っていた。 だが、冬崎が放つ空気は、以前とはまるで違っていた。

断罪者の鋭さは消え、ただ静かに、目の前の人間の心を探ろうとする、探求者のそれになっていた。 その変化を、有馬奏も感じ取っているようだった。

冬崎は、調書ではなく、まっすぐに奏の目を見て、口を開いた。 「……教えてください、有馬さん」

その丁寧な口調に、奏の肩が微かに揺れた。

「あなたと、お父さんは、最後にどんな話をしたんですか」 「なぜ殺したか」ではない。「どんな話をしたか」。 その問いが、奏の心の固い扉を、少しだけ開いた。

奏は、しばらく黙っていた。 やがて、ぽつり、ぽつりと語り始めた。それは、言葉を失った父との、静かな戦争のような、そして祈りのような日々のことだった。

「父のカンバスは、PCの画面だけでした。瞳の動きだけで、カーソルを動かすんです」 「最初は、簡単な単語を打つだけで、数十分かかりました。『ありがとう』と、『すまない』。父が最後まで使ったのは、その二つの言葉です」

奏の声は、淡々としていた。 だが、その声の奥に、どれほどの絶望と愛情が渦巻いていたか、今の冬崎には痛いほどわかった。

「そのうち、父は文字を打つことさえ億劫になりました。代わりに、絵を描くようになったんです。ただの、線や、点を」

「それが、あなたたち二人の、言葉だったんですね」 冬崎の言葉に、奏は初めて、かすかに頷いた。

奏の話は、具体的な介護の苦労ではなかった。 それは、日に日に衰えていく父の瞳の中に、消えない光を見つけようとする、息子の魂の記録だった。

冬-崎は、相槌も打たず、ただ聞いていた。 妹が、自分に伝えたかった言葉も、こんな風に、声にならない声だったのではないか。

その声に耳を傾けようとしなかったのは、他の誰でもない、自分自身だった。 後悔が、鋭い棘のように、冬崎の胸を刺した。

第十章:白夜のカンバス

明石螢の法律事務所は、検察庁の重厚な建物とは対照的に、柔らかな光に満ちていた。 冬崎は、初めて敵地でありながら、安堵している自分に気づいた。

「検事にお見せしたいものがあります」 螢はそう言うと、ノートPCの画面を冬崎に向けた。

そこに映し出されていたのは、一枚の絵だった。 有馬壮山が、最後に描いた作品。

画面全体を、底なしの闇のような黒が支配している。 絶望、孤独、閉塞感。見る者の心を締め付けるような、圧倒的な闇。

だが、その右上の一点にだけ、針の先ほどの、しかし強烈な白い光が、輝いていた。

「これは……」 冬崎の言葉を、螢は静かに遮った。

「有馬さんから、直接お聞きください」 促され、同席していた奏が、震える声で口を開いた。

「子供の頃、父とよく散歩をしました。日が暮れる頃になると、父は決まって一番星を探したんです」 その声は、遠い過去の温かい記憶を辿っていた。

「一番星を見つけたら、願い事が叶う。だから、今日あった嫌なことは全部忘れて、いい願いだけを祈りなさいと」 「僕たちの間の、おまじないのようなものでした」

奏は、再びPCの画面に目を落とした。 その瞳が、悲しみと、そして愛情に濡れている。

「父は、言葉を失ってから、この絵をずっと描いていました。この黒は、父の世界そのものです。終わらない、白夜です」

冬崎は、息を詰めて次の言葉を待った。

「そして、あの日の朝、父は最後に、この白い点を描きました。一番星です」 奏の声が、途切れた。

「『もう、いいだろう』と。僕には、そう聞こえました。父の、最後の願いでした」

それは、法廷では証拠になどなり得ない、あまりに個人的で、あまりに密やかな同意の形。 『白夜のカンバス』と名付けられたその絵は、壮絶な苦しみの果てに、父と子がようやく見つけた、たった一点の希望だった。

冬崎は、返す言葉を持たなかった。 ただ、その小さな光が、彼が拠り所にしてきた条文の森を、静かに、しかし根こそぎ焼き払っていくのを感じていた。

第十一章:ひとりの法廷

検察庁の窓の外では、東京の夜景が、無数の星屑のように輝いていた。 だが、冬崎の目には、その光は届いていなかった。

彼の世界は、有馬壮山の事件ファイルと、デスクの隅に置かれた一枚の写真だけで、構成されていた。 妹、美月の写真。

ファイルを開けば、そこにあるのは冷徹な事実だ。 殺意の有無、行為の違法性。法律の言葉で切り刻めば、有馬奏の行為は「嘱託殺人」以外の何物でもない。

だが、写真をみれば、そこには声なき声があった。 『迷惑をかけてごめんなさい』 妹の最後の言葉と、カンバスに描かれた白い光が、彼の心の中で重なり合う。

どちらも、法廷では証拠にならない。 だが、人間の真実としては、何よりも重い。

内線電話が、静寂を破った。次席検事からだった。 その声は、冬崎の葛藤を見透かしたように、冷たく響いた。

「冬崎、有馬の件、どうなっている。明朝までには起訴状を準備しろ」 「……はい」

「世間は感傷的な物語を求めているが、我々は法を執行するだけだ。忘れるなよ」 一方的な通告。それが、組織の意思だった。

電話が切れ、部屋は再び、冬崎ひとりの法廷となった。 被告人は、有馬奏であり、そして、検事である自分自身だった。

法を遵守するのか。 それとも、法では裁けない真実と向き合うのか。 妹の死から目を背け、条文の森に逃げ込んできた自分は、今、その出口に立たされている。

冬崎は、キーボードに手を伸ばした。 モニターの白い画面が、彼の顔を青白く照らし出す。

それはまるで、彼自身が、一枚のカンバスになったかのようだった。 長い夜が、明けようとしていた。

最終章:彼が描いた夜明け

冬崎亘が提出した起訴状は、検察庁内部で、静かな波紋を呼んだ。

罪状は、嘱託殺人罪ではなかった。 より刑の軽い、自殺幇助罪。 それは、検事の裁量の範囲内ではあったが、組織の方針からは逸脱した判断だった。

だが、本当に異例だったのは、そこに添付された長文の「意見書」だった。 そこには、法廷では証拠となり得ない、父子の「言葉なき対話」と、介護の現実、そして人間の尊厳についての、一人の検事の真摯な考察が綴られていた。 それは、法律家としての一線を、わずかにはみ出すものだった。

数カ月後、有馬奏の裁判で、裁判官は異例の執行猶予付き判決を言い渡した。 判決理由の中で、裁判官は冬崎の意見書に、一度だけ、言及した。 「法は万能ではない。法が掬いきれない人間の真実に対し、我々は常に謙虚でなければならない」

そのニュースを、冬崎は検察庁の小さなモニターで、一人、見ていた。

早春の光が、墓石を照らしていた。 冬崎は、妹、美月の墓前に、一輪の花を供えた。

以前のように、「救えなくて、すまなかった」という言葉は、もう出てこなかった。 代わりに、彼は心の中で、静かに語りかけた。

君が、最後まで守りたかったもの。 俺は、その本当の意味を、少しだけ、理解できたのかもしれない。

答えは見つからない。でも、問い続けることはできる。 君の苦しみからも、有馬さんたちの選択からも、目を背けずに。

冬崎は、顔を上げた。 空は、彼がこれまで見たことがないほど、青く、澄み渡っていた。

それは、長い白夜の果てに訪れた、静かな夜明けの色だった。

-了-

関連記事

  1. 『不成らずの歩』

  2. 『金木犀』

  3. 『余白』

  4. 『若葉の候、君に願う』

  5. 『極まりし光』

  6. 『未完のプロローグ』

  7. 『きみが怪獣に変わる日』

  8. 『僕の言葉と、君の声と』

  9. 『僕らの人生は終わらない』

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

PAGE TOP