誰もが、そこにいる“怪獣”に気づかない。――だから夫は、たった一人で罪を被った。
あらすじ
進学校のカリスマ教師・三島賢一が、校内での盗撮未遂という不可解な容疑で逮捕された。
完璧な聖職者だったはずの夫の、信じがたい醜聞。妻・葉月の日常は、その日を境に一夜にして崩れ去る。「犯罪者の妻」の烙印を押され、好奇と非難の視線に晒され、社会から完全に孤立していく葉月。
しかし、夫のあまりに不可解な行動と、事件を早急に幕引きしようとする学校側の対応に、彼女は言いようのない違和感を覚えていた。
夫はなぜ、自らの人生を破壊するような罪を犯したのか。
夫が書斎に遺した一枚の奇妙な『怪獣の絵』だけを手がかりに、葉月はたった一人の真相究明に乗り出す。しかし彼女を待ち受けていたのは、保身と欺瞞に満ちた、社会という名の巨大な壁だった。
これは、愛と尊厳を懸けた、一人の女性の孤独な戦いの記録。
登場人物紹介
- 三島 葉月(みしま はづき) 本作の主人公。賢一の妻。完璧な教師である夫を信じ、穏やかな日々を送っていたが、夫の逮捕によって「犯罪者の妻」となり、日常の全てを奪われる。夫の失われた真実を求め、孤独な戦いを始めることになる。
- 三島 賢一(みしま けんいち) 葉月の夫。生徒や保護者から絶大な信頼を寄せられるカリスマ教師だったが、盗撮未遂という不可解な事件を起こし、社会から断罪される。その行動の裏には、ある固い決意が隠されている。
- 瀬川 正臣(せがわ まさおみ) 賢一が勤める高校の教頭。人当たりが良く、保護者からの評判も高い。賢一の事件に対し、学校の立場として冷静に対応するが、その完璧な貌の裏には別の顔を隠している。
- 蓮(れん) 賢一のかつての教え子。心に深い傷を抱え、他人との関わりを避けて生きているミステリアスな青年。賢一が遺した『怪獣の絵』の作者であり、物語の鍵を握る重要人物。
第一幕:崩壊
静かな朝の崩壊
秋の朝の光は、いつもなら部屋に優しい縞模様を描く。ブラインドの隙間から差し込む光が、空気中の細かな埃をきらきらと照らし出す、穏やかな時間。飲み干したコーヒーカップの底に残る黒い澱を眺めながら、私は夫の帰りを待っていた。昨夜は、進路指導の会議で遅くなると連絡があった。テーブルの上には、彼の分の朝食がラップに包まれて、静かに冷えている。キッチンの冷蔵庫が、時折、低い唸り声を上げる以外、家は静寂に満ちていた。
テレビのスイッチを入れたのは、ほんの気まぐれだった。天気予報でも確認しようと思った、ただそれだけのこと。 けたたましいファンファーレと共に始まった朝の情報番組が、リビングの穏やかな空気を無遠慮に引き裂いた。
『—続いてのニュースです。本日未明、県立進徳高校の教師、三島賢一容疑者(四十二)が…』
私の知らない夫の名前が、私の知らない事件と結びつけられて、アナウンサーの涼やかな唇から滑り落ちた。 世界から、音が消える。 指先から力が抜け、持っていたマグカップが重力を思い出したように手から滑り落ちる。床に叩きつけられ、甲高い音を立てて砕け散った。真っ白な陶器の破片が、磨き込まれたフローリングに星のように散らばり、零れたコーヒーが、その星々の間に黒い銀河を描いていく。
『…女子トイレに小型カメラを設置しようとしたところを、巡回中の警備員に取り押さえられたということです。容疑は、建造物侵入及び県迷惑行為防止条例違反にあたり…』
画面の隅で点滅する「盗撮未遂」というどす黒いテロップが、私の呼吸を止めた。 映し出されたのは、警察署から出てくる夫の姿だった。うつむき、いつもは整えられている髪は乱れ、その顔には、私が今まで見たこともない深い絶望の色が刻まれている。まるで、魂を抜き取られた抜け殻のようだった。 それは、私の知っている夫の顔ではなかった。
夫は、聖職者だった。 生徒たちの未来を、この国の未来そのものだと信じ、一人ひとりの瞳の奥にあるか細い光を見つめ続ける人だった。その彼が、なぜ。ありえない。何かの間違いだ。脳が思考を拒絶する。
その時、静寂を破って電話が鳴り響いた。 けたたましく、悪意に満ちたベルのように。 それが、私の日常が終わる、始まりの合図だった。
赤い文字
最初の電話は、心配する声だった。私の母から。次に、夫の同僚から。誰もが「何かの間違いだろう」と言った。私もそう信じようとした。
しかし、昼を過ぎる頃には、電話の向こう側の声色が変わっていった。 探るような、ぬらりとした好奇心に満ちた声。 遠回しに、夫の性癖や夫婦関係について尋ねてくる、かつての友人。電話口のノイズの向こうに、下卑た好奇心が透けて見える。
夕方には、それは明確な非難に変わっていた。 匿名の電話が、家の固定電話を鳴らし続ける。 「犯罪者の妻」 「恥を知れ」 短い罵声だけを残して、ガチャン、と一方的に切られる。そのたびに、心臓が小さく削り取られていくようだった。
翌朝、私は玄関のドアに描かれた、真っ赤なスプレーの文字を見つけた。 『犯罪者』 朝日に照らされたその稚拙で、しかし暴力的な三文字は、まるで乾いていない血のように、ぬらぬらと光っていた。シンナーのツンとした匂いが、まだあたりに漂っている。
スーパーへ行けば、世界が私を指差しているのが分かった。 蛍光灯の白い光が、やけにまぶしい。ひそひそと交わされる囁き声が、まるで羽虫のように耳元でざわめく。昨日まで「三島先生の奥さん」と笑顔を向けてくれたレジの女性は、私から目を逸らし、商品を叩きつけるようにビニール袋に詰めた。その無言の拒絶が、どんな罵声よりも鋭く私を傷つけた。
私は、三島葉月。三十八歳。 昨日までは、教師の妻。 今日からは、犯罪者の妻。
社会は、私から名前を奪い、新しい役割を押し付けた。 それは、夫がいつも憂いていた、教室の隅でうずくまる生徒と同じだった。 一方的に貼られたレッテル。コミュニティからの排除。見えない石を、二十四時間、投げつけられ続ける拷問。
痛い。苦しい。息ができない。 心が悲鳴を上げているのに、声にならない。
怪獣のデッサン
絶望の匂いが充満する家の中で、唯一の聖域は夫の書斎だった。 古い紙とインクの匂い。彼が愛用するモンブランの万年筆。壁一面に整然と並べられた本の背表紙。ここにいる時だけ、私はかろうじて呼吸ができた。デスクライトが作る暖かい光の円の中だけが、世界の全てだった。
彼の机の上に、一枚の画用紙が、裏返しに置かれているのが目に入った。 何気なくそれを手に取り、ざらりとした紙の感触を指先で感じながら、表に返す。
そこに描かれていたのは、悲しい目をした怪獣だった。
木炭で描かれた、不格好に歪んだ体。不釣り合いに大きな爪。けれど、その瞳は、まるで迷子になった子供のように、怯え、濡れていた。泣いているようにも、怒っているようにも見える、奇妙な生き物。その瞳だけが、異様なまでに写実的に描かれていた。
私は、この絵を知っていた。 夫が、大切に机の引き出しの奥にしまっていたものだ。 『これは、俺の十字架なんだ』 いつか、そう言って寂しそうに笑った彼の横顔を思い出す。 彼がかつて救うことのできなかった、一人の生徒が描いたのだと。
夫は、この怪獣の痛みと、ずっと戦っていたのではないか。 この絵に込められた、声なき叫びを、誰よりも深く理解していたのではないか。
その仮説だけが、息もできないほどの暗闇の中で、私を支えるか細い一本の光になった。 私は、戦わなければならない。 夫のためではない。 この怪獣の正体を突き止めるために。
第二幕:共闘
沈黙の壁
「ご主人の情状酌量を願うなら、大人しくしていた方が身のためですよ、奥さん」 警察署の取調室のような小さな面談室で、対応した中年の刑事は、私を諭すように言った。消毒液の匂いが鼻をつく。その目には、同情ではなく、厄介事を持ち込まれた面倒臭さの色が浮かんでいた。
学校へ向かっても、状況は同じだった。 磨き上げられた廊下は、私の不安な顔を歪んで映し出す。校長室の革張りのソファは、私を拒絶するように固かった。校長は、マニュアル通りの謝罪を口にするだけ。教頭の瀬川先生は、心底同情しているかのような表情を浮かべながらも、「学校としては事実を重く受け止めるしかない」と、洗練された言葉で私と夫の間に壁を築いた。彼の完璧なスーツの着こなしが、私のよれた日常着を嘲笑っているかのようだった。 誰もが、早くこの「不祥事」という名の腫瘍を切り捨て、忘れ去りたいのだ。
私は巨大な沈黙の壁に、たった一人で向き合っていた。
デッサンのタッチだけが、唯一の手がかりだった。 作者の名前は、蓮(れん)。 卒業アルバムを引っ張り出し、彼の顔を確認する。集合写真の隅で、誰とも視線を合わせず、固い表情でレンズを睨みつけている。笑うのが苦手そうな、少し影のある少年。
現代の探偵は、足ではなく指を動かす。 SNSの広大な砂漠の中から、彼の名前を探し続けた。 同姓同名のアカウントがいくつも見つかる。その一つひとつを、祈るような気持ちで開いていく。
そして、見つけた。 無機質な風景写真ばかりが並ぶ、タイムライン。誰もいない埠頭。錆びたガードレール。曇り空。その写真の構図の片隅に、あの怪獣と同じ、言いようのない寂しさが滲んでいた。
魂の共鳴
指定されたカフェは、駅前のチェーン店だった。 BGMの軽薄なポップスと、食器のぶつかる甲高い音、人々の無意味な会話が、濁流のように渦巻いている。 目の前に座る蓮(れん)くんは、青年になっていた。学生の頃の面影を残しながらも、その瞳は全てを拒絶するように、固く閉ざされている。猫背気味の背中が、見えない何かから身を守っているようだった。
「今更、なんですか」 彼は、テーブルの上のシュガーポットの銀色の蓋を見つめたまま、吐き捨てるように言った。 「先生は、結局俺を救えなかった。正義の味方みたいな顔をして、最後は見て見ぬふりをした。大人なんて、みんなそうだ」
氷のように冷たい言葉が、私の胸を抉る。 私は、何も言い返せなかった。彼にとっては、それが真実なのだ。
ただ、ぽつりと、自分の話を始めた。 玄関にスプレーで書かれた文字のこと。スーパーで避けられること。昨日までの友人が、電話にも出てくれないこと。夫のしたことへの絶望と、それでも信じたいと願う自分の矛盾を。
「私も、いじめられているの。社会っていう、顔の見えない誰かに」
その言葉に、蓮くんの肩が、微かに震えた。 彼は初めて、私の目をまっすぐに見た。 その瞳の奥に、かつての彼が描いた、あの悲しい怪獣がいた。カフェの喧騒が、嘘のように遠のいていく。
「…先生が救えなかった俺が」 蓮くんは、絞り出すような声で言った。 「先生の奥さんを、救う」
その瞬間、私たちは共犯者のような、不思議な絆で結ばれた。 孤独だった二つの魂が、寄り添うように重なった。
水面下の真実
蓮くんの視点は、私の見えなかった世界を鮮やかに暴き出した。 彼は、今も学校に残る後輩たちとの繋がりを使い、水面下で情報を集め始めた。彼の指が、スマートフォンの画面を驚くべき速さで滑っていく。
「やっぱりだ。今、学校で問題になってるいじめがある」 数日後、彼から興奮した声で電話がかかってきた。 「主犯は、瀬川教頭の息子の、拓海。被害者の女子生徒は、不登校になる寸前らしい」 そして、決定的な一言が続いた。 「三島先生は、逮捕される直前まで、その件を執拗に調べていた。教頭と、何度も言い争っていたって」
パズルのピースが、音を立てて嵌っていく。 夫の「盗撮」は、このいじめを告発するための、最後の手段だったのではないか。 権力によって守られた聖域に踏み込むための、あまりにも無謀で、自己破壊的な一手。
私たちの仮説が、確信に変わっていった。 しかし、まだ最後のピースが足りない。 なぜ、夫はそこまでする必要があったのか。
答えは、彼が遺した最後の謎かけに隠されているはずだった。
第三幕:真相
夫の遺書
夫の書斎の「最優秀指導教師賞」のトロフィー。 その冷たく重い金属の台座の裏に、テープで貼り付けられた小さなUSBメモリがあった。 賢一らしい、用意周とさと、ほんの少しの遊び心。
蓮くんが、数日かけてその強力な暗号を解いてくれた。 深夜、彼の部屋のPCの前に二人で座る。画面の明かりだけが、私たちの顔を青白く照らしていた。 クリックすると、日記と題されたファイルが開いた。夫の魂の叫びが、黒いテキストとなって溢れ出した。
『蓮くんを救えなかった。あの日、彼の心が壊れる音を聞きながら、私は組織の論理を優先してしまった。結果、彼は怪獣になった。私の罪だ。あの過ちを、二度と繰り返してはならない』
『今回の瀬川教頭の息子の件は、構造が全く同じだ。父親の権力が、教室の正義を歪めている。正攻法で訴えても、また同じように潰されるだろう。証拠は、全て闇に葬られる』
『この世界は、いつからか怪獣の存在そのものに、気づくなくなってしまったようだ。いじめは「子供同士のトラブル」になり、隠蔽は「組織防衛」になる。この麻痺した世界に警鐘を鳴らすには、私自身が、社会から後ろ指をさされる、最も分かりやすい怪獣になるしかない』
読み終えた時、涙が止まらなかった。 夫の孤独が、絶望が、そして悲壮なまでの覚悟が、奔流となって私の中に流れ込んでくる。
罪の選択
日記の最後は、彼の本当の計画で締めくくられていた。 逮捕されることすら、計画のうち。 彼は学校のサーバーの深層部に、教頭や関係者の会話を自動で録音し続ける、スパイウェアを仕掛けていた。 それが、夫の遺した「時限爆弾」。 彼が社会的に抹殺された後も、静かに真実を記録し続ける、最後の罠。
しかし、その証拠を手に入れるには。 私が、学校に忍び込み、教頭のPCからデータを抜き出すしかない。 それは、紛れもない「犯罪」だった。
蓮くんが、私の顔を覗き込む。 「葉月さん、あなたを共犯にはできない。これは、やりすぎだ」 彼の声には、私を案じる響きがあった。
私は、静かに首を振った。 窓の外は、もう真っ暗だった。街の灯りが、遠くで滲んでいる。 「ううん。私はもう、とっくに共犯者よ」
夫が怪獣になる覚悟をしたのなら、私はその怪獣の牙を振るう。 その罪ごと、引き受ける。 そう、決めた。
第四幕:継承
深夜の侵入者
深夜の校舎は、巨大な生き物の骸のようだった。 月の光が、長い廊下に、どこまでも続く肋骨の影を落とす。自分の足音だけが、やけに大きく響く。 蓮くんが外で見張り役をしてくれている。イヤホンから聞こえる彼の落ち着いた声だけが、私の命綱だった。
教頭室のドアを、一枚のカードキーで開ける。 夫が、最後の日の朝、私のカバンに忍ばせたものだ。
PCの電源を入れると、無機質な青い光が私の顔を照らした。 教えられた通りに操作を進める。心臓が、肋骨を叩く音がうるさい。 ダウンロードの進捗バーが、亀のようにゆっくりと進んでいく。 その数分間が、永遠にも思える時間だった。
正義の刃
翌日の放課後。 私は教頭の瀬川を、人気のない旧館の音楽室に呼び出した。 窓から差し込む西日が、床の埃を金色に照らし、長い光の筋を作っている。壁に並んだ偉大な音楽家たちの肖像画が、無言で私たちを見下ろしていた。
彼は、全てを認めた上で、こう言い放った。 「息子を守るのは、親の正義だ!それに比べて三島先生の行動は、単なる自己満足に過ぎん。教育者として失格だ」
私は、彼の目の前のピアノの鍵盤の上に、小さなボイスレコーダーを置いた。 再生ボタンを押す。
『—拓海の件は、私がもみ消す。三島は邪魔だ。あの男の正義感は、我々にとって害悪でしかない。社会的に、再起不能にしてやる—』
瀬川の顔から、血の気が引いていく。 それは、私が昨夜、彼のPCから抜き出した、彼らの隠蔽工作の記録だった。
私は、静かに告げた。 「夫が、社会から受けた汚名と全く同じ方法で、私は夫の正義を証明します」 夕日が、彼の顔に深い影を落とす。 「あなたは息子さんの罪を庇い、私は夫の意志を継いだ。私たち、どちらが悪だったのでしょうね」
夫が遺した「罪」が、私の手の中で「正義の刃」として完成した。
青空
事件は、終息した。 匿名で送られた音声データは、決定的な証拠となった。 教頭は失脚し、いじめの事実は公になった。 けれど、夫の「盗撮未遂」という罪が、世間から消えることはなかった。彼は聖職者ではなく、奇妙な義賊として、人々の記憶の片隅に追いやられた。
数ヶ月後。 風が少しだけ冷たくなった秋の午後、私は蓮くんと、川沿いの道を歩いていた。 川面が、午後の光を浴びてきらきらと輝いている。 彼は少しだけ、笑うようになった。
ふと、近くの小学校の校門を、子供たちが駆け抜けていくのが見えた。 ランドセルを揺らし、屈託のない、明るい笑い声を上げている。 当たり前の、しかし奇跡のように美しい光景。
私は心の中で、夫に語りかける。 —教室に、怪獣はいない。 —いるべきではない。
その、当たり前のことのために、あなたは戦った。 そして今度は、私が戦い続ける。
この、どうしようもなく歪んでいて、それでも愛おしい世界で。
私の隣で、蓮くんが空を見上げて呟いた。 「空、青いですね」
私も、空を見上げた。 そこには、全てを洗い流すような、どこまでも続く、抜けるような青が広がっていた。
(了)



































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