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『ホワイトアウト・チルドレン』

彼らは死にたかったのではない。 ただ、現実(ノイズ)から消えたかっただけだ。


あらすじ

救命救急センターの精神科医・**神崎 湊(かんざき みなと)**は、市販薬のオーバードーズで運ばれる若者たちの対応に追われる日常を送っていた。彼らにとってODは「現実逃避」の手段だ。

ある夜、常習者である16歳の少女・**結菜(ゆな)**が搬送されてくる。その直後、エリートサラリーマン・**佐伯(さえき)**が「駅ホームから転落死」した遺体として運ばれる。警察は「自殺か事故」と判断するが、神崎は二つの死傷案件に奇妙な共通点を見出す。

佐伯の所持品と、結菜が常飲する市販薬の「レシピ」が、不気味なほど一致していたのだ。

なぜ、絶望した大人と現実逃避する少女が、同じ薬に手を伸ばしたのか? 神崎は、それが単なる自殺ではないと直感し、禁断の調査を始めるが、その先には彼自身の過去を揺るがす衝撃の真実が待っていた。

登場人物紹介

  • 神崎 湊(かんざき みなと) 救命救急センターの精神科医。多忙な現場で、連日運ばれてくるOD患者に冷静に対応する。エリートサラリーマンの不可解な転落死をきっかけに、市販薬の闇を追い始める。
  • 広瀬 結菜(ひろせ ゆな) 16歳の高校生。ODの常習者で、神崎の病院の”常連”。家庭や学校に居場所がなく、SNSのコミュニティで「現実から消える」ための情報を集めている。
  • 佐伯 誠(さえき まこと) 34歳のサラリーマン。エリートだったが、駅のホームから転落し死亡。警察は自殺と事故の両面で捜査するが、多くの謎が残る。
  • 高橋(たかはし) 佐伯の転落事件を担当する若手刑事。上司の「自殺」という見立てに疑問を持ち、神崎に協力を求める。

第一部:シグナル

第1章:ルーチン・ワーク

消毒液と、微かな血液の匂い。 ひっきりなしに鳴り響く電子音と、誰かの苦痛を訴える声。 救命救急センターの空気は、神崎 湊(かんざき みなと)の専門領域である「精神科」のそれとは、温度も密度も全く異質だった。

「神崎先生、お願いします! ODです!」

ER担当医の切羽詰まった声に呼ばれ、重いカーテンを開ける。 ストレッチャーの上で虚空を見つめる顔には、見覚えがあった。いや、見飽きるほど、見慣れていた。

「……広瀬さんか」

16歳の少女、広瀬 結菜(ひろせ ゆな)。 この一ヶ月で、三度目の搬送だ。焦点の合わない瞳が、天井の無機質な蛍光灯をぼんやりと映している。

「またか」 今度は、自分でも意識しないうちに声に出ていた。

救急隊員が、中身の見えるビニール袋を神崎に渡す。慣れた手つきでそれを受け取り、中身を検分する。 そこには、市販の咳止め薬『ブロン錠』の空シートが数枚。それに、睡眠改善薬としてドラッグストアで売られている『レスタミンコーワ』。

(黄金のレシピ、か)

SNSでそう呼ばれている、安価な現実逃避のチケットだ。 神崎は、感情を殺した声でERのスタッフに指示を飛ばす。

「ラヴァージュ(胃洗浄)と活性炭(チャコール)お願いします。バイタル落ち着いたら、いつものように精神科の閉鎖に回してください」

「はい」と短く答えた看護師が、手際よく胃管の準備を始める。 神崎は自席に戻ると、結菜のカルテを開き、無機質なキーボードの音を立てて記録を打ち込んでいく。

『市販薬オーバードーズ(常習)。ブロン錠、レスタミンコーワ。推定摂取量――』

彼女の胃を洗い、命を繋ぎ止めるのは「医療」だ。だが、彼女の壊れた心を救うのは? それは行政か、教育か、あるいは神の仕事か。 少なくとも、救命センターの精神科医(自分)の仕事ではない。自分はただ、死なないように後始末をし、病棟に送り返すだけだ。

それが、神崎 湊の「ルーチン・ワーク」だった。

第2章:赤い靴

結菜の処置が終わり、ナースステーションで冷めきったコーヒーを流し込もうとした瞬間、センター全体が再び灼けるような緊張に包まれた。

今度のストレッチャーの車輪の音は、さっきよりも切迫し、狂ったような速度で迫ってくる。

「CPA(心肺停止)入ります! 駅ホームから転落、列車と接触!」

ERのスタッフが一斉に走り出す。 神崎の出番ではない。これは外傷だ。彼は一歩下がり、壁際の傍観者となる。

「34歳男性! 氏名、佐伯 誠(さえき まこと)!」

リーダー格の医師がストレッチャーに飛び乗り、胸骨圧迫を開始する。「リブ(肋骨)が折れても構わん!」「アド(アドレナリン)1アンプル、静注!」 AEDのチャージ音、骨が軋む鈍い音、怒号のような指示が飛び交う。

だが、心電図のモニターは、神崎の心と同じように冷え冷えとした、絶望的なフラットラインを描き続けていた。

やがて、リーダー医師が胸骨圧迫の手を止めた。 「……ご臨終です。死亡時刻、23時44分」

センターから、一瞬だけ「音」が消えた。 警察官が、遺体の所持品をまとめたビニール袋を無言で受け取る。その中身が神崎の目に入った瞬間、彼はコーヒーカップを取り落としそうになった。

結菜が飲んでいたものと、全く同じ。 咳止め薬Aと、抗ヒスタミン薬Bの、大量の空シート。

(なぜだ? 34歳のエリートが、なぜ16歳の少女と同じ「レシピ」で?)

視線をストレッチャーに戻す。 白いシーツから、片方だけ足が垂れ下がっていた。 そこには、血と泥に汚れた、鮮やかな赤いスニーカーが履かされていた。

第3章:弟の命日

赤いスニーカー。

神崎の呼吸が、一瞬止まった。 脳裏に焼き付いて離れない光景が、フラッシュバックする。

数年前。警察署の冷たい霊安室で見た、弟の姿。 彼もまた、原因不明の「転落死」だった。 警察は「自殺」と処理した。だが、神崎だけは納得していなかった。弟は、そんな弱音を吐く人間ではなかったからだ。

遺品の中にあった、片方だけのスニーカー。 それは、神崎が大学の入学祝いに贈った、赤いスニーカーだった。

「……先生?」

看護師の声で、神崎は我に返った。 「いや、なんでもない」 彼は、激しく波打つ動悸を悟られまいと、努めて冷静に返事をした。

佐伯 誠。34歳。 広瀬 結菜。16歳。 そして、死んだ弟。

明日が、弟の命日だった。

第4章:二つの処方箋

(偶然か?) 神崎は自問する。 (絶望した大人が、現実逃避する少女と、同じ薬に行き着く。そんな偶然があるものか?)

もし、偶然でないとしたら。 もし、佐伯も「自殺」ではなく、弟と同じように、何か別の理由で「転落」したのだとしたら。

神崎は、白衣のポケットの中で強く拳を握りしめた。 弟の死の真相を解くカギが、今、目の前の遺体にあるのかもしれない。

彼は、佐伯の死亡診断書を作成していたERの医師に近づいた。 「先生。この男性、警察の検視の前に、採血サンプルを一つキープしておきたい。詳細な薬物血中濃度を調べたいんだ」

「え? 神崎先生?」 ER医は怪訝な顔をした。「もうDOAですよ。それに、警察マターだ」

「俺の弟も、同じ死に方をした」

神崎は、絞り出すような声で言った。 「だから、これは俺個人の問題だ。頼む」

ただならぬ神崎の気迫に押され、ER医は小さく頷いた。 「……検査室に、回しておきます」

神崎は「ありがとう」と短く告げ、佐伯の遺体が運び出されていくのを、暗い目で見送っていた。

第二部:壁

第5章:リスク管理室

神崎のデスクの内線が、乾いた音で鳴った。ディスプレイには「内線:病院管理室」の文字。最も関わりたくない部署からの呼び出しだった。

「神崎先生。少しよろしいですか」 管理室長――神崎の精神科医としての上司でもある男――は、眼鏡の奥の冷たい目で神崎を迎えた。

「昨日、ERで亡くなった佐伯 誠さんの件ですが」 切り出し方は、蛇が獲物に近づくように静かだった。 「先生が、死亡確認後に血液サンプルを採取し、詳細な薬物検査を指示されたと報告を受けました。これは、どういうことですかな?」

「……医療的な疑義が生じたためです」 神崎は、ここで弟のことを口にするわけにはいかず、当たり障りのない言葉を選んだ。

室長は、その答えを待っていたかのように溜息をついた。 「神崎先生。我々は医者だ。警察ではない。我々の仕事は、生きて運ばれてきた患者を救うこと。亡くなった方の死因を“捜査”することではない」 「ですが、」 「警察の検視も入っている。我々が職権を逸脱した行動を取れば、どうなる? 警察との連携にヒビが入る。最悪の場合、遺族から『死後に何をされたのか』と訴訟を起こされる。病院の評判(レピュテーション)に関わるんですよ」

室長は「リスク」という言葉を、医者が「カルテ」と口にするのと同じ頻度で使った。

「これは、個人的な好奇心か?」 「違います」神崎は即答した。「同じ薬物の過剰摂取(オーバードーズ)が、別の患者(結菜)でも確認されています。公衆衛生上のリスクを鑑みても、」 「詭弁はよしたまえ」 室長は、神崎の言葉を遮った。 「検査は中止させました。二度と、このような越権行為はしないように」

その声は、医師への忠告ではなく、組織人への命令だった。 神崎は「失礼します」とだけ言い、冷え切った管理室を後にした。公式な調査の道は、これで完全に絶たれた。

第6章:@whiteout_child

組織がダメなら、個人で動くしかない。 神崎は、結菜が退院するタイミングを見計らって、病院の裏手にある喫煙スペースで彼女を待ち構えた。

「……なに、医者がサボり?」 結菜は、白衣のままタバコに火をつけようとする神崎を見て、皮肉っぽく笑った。 「医者も人間だ。それに、君に聞きたいことがある」

神崎はタバコを箱に戻し、真っ直ぐに結菜を見た。 「あの咳止めと抗ヒスタミン薬の組み合わせ。ブロンとレスタミン。なぜあれなんだ」

「うざい」 結菜の顔から、一瞬で表情が消えた。 「説教なら聞かないよ。どうせ『命を大事に』とかでしょ」

「違う」 神崎の声が、自分でも驚くほど低く、強くなっていた。 「なぜあの組み合わせでなければならなかったのか、知りたいんだ。……俺も、昔……」 弟のことを言いかけて、神崎は口ごもった。その苦しそうな沈黙が、結菜の警戒をわずかに解いた。

「……いちばん“飛べる”から」 結菜は、吐き捨てるように言った。 「現実(ノイズ)が、全部消えるから。頭ん中が真っ白になって、自分が自分じゃなくなる。気持ちいいよ。先生もやってみる?」

「どこで、その情報を」 「……」

結菜は答えず、ポケットからスマホを取り出し、SNSの画面を神崎の目の前に突きつけた。 アカウント名は「@whiteout_child」。

『最強レシピ更新』 『アセト(アセトアミノフェン)抜きで飛ぶ方法』 『今日は120t(錠)いった。宇宙』

そこは、現実から解離(かいり)する方法を競い合う、若者たちの暗黒のコミュニティだった。

第7章:元同僚

神崎は、その日の夜、自室のPCにかじりついていた。 「@whiteout_child」の膨大なログを、隠語辞典を片手に遡っていく。若者たちの刹那的な書き込みに混じり、一つだけ異質なアカウントが目についた。

「@Makoto_S」

書き込みは数えるほどしかない。だが、その一行一行に、若者のそれとは質の異なる、重い絶望が滲んでいた。 『ノイズが消えない』 『もう、疲れた』

プロフィール欄には、佐伯 誠が勤めていた大手商社の名前が、かつてのエリートの証として残されていた。

神崎は受話器を取り、商社の人事部に電話をかけた。医師の身分を使い、言葉巧みに誘導する。 「わたくし、佐伯 誠様の健康診断を担当しておりました医師の神崎と申します。先日、気になる検査結果が出まして……」

電話口の相手は、佐伯が亡くなったことをまだ知らないようだった。 「佐伯、ですか……。あいつ、最近はメンタルをやっていたみたいでね。元々はエースだったんですが、上司と揉めて、今は……その、関連部署(※追い出し部屋の隠語)に」 「そうでしたか」 「真面目すぎたんですよ、あいつは。融通が利かないというか……。先生、そんなに悪いんですか? あいつの身体」

「……いいえ」 神崎は、受話器を握りしめた。 「もう、手遅れです」

電話を切り、神崎は目を閉じた。 現実(ノイズ)から逃げたかった少女と、現実(ノイズ)と戦って敗れた大人が、同じ「ホワイトアウト」に行き着いた。その事実が、鉛のように神崎の胃に沈んだ。

第8章:劇症肝炎

佐伯の孤独を噛みしめていた、その夜。 救命センターの扉が、再び激しく開かれた。

「17歳女性、意識障害! JCS(意識レベル)300! 黄疸(おうだん)著明、アンモニア臭あり!」

ストレッチャーで運ばれてきた少女は、土気色(つちけいろ)の皮膚をしていた。そして、その横で「ミカ! ミカ!」と泣き叫んでいるのは、数日前に退院したはずの結菜だった。

神崎は、少女の呼気に混じる独特の甘ったるい匂い(アンモニア臭)と、白目が黄色く染まった眼球を見て、瞬時に診断を下した。

「アセトアミノフェン中毒による、劇症肝炎だ!」

市販の風邪薬や鎮痛剤に含まれる、解熱鎮痛成分。肝臓が分解できる許容量(閾値)を遥かに超えた摂取。肝細胞が広範囲に壊死し、機能不全に陥っている。

「アセチニン(解毒剤)! 最大量で静注! 透析の準備急げ!」

神崎は怒号を飛ばしながら、肝不全で意識を失った少女の処置にあたる。 数分後、処置室から出た神崎は、廊下で震えながら座り込む結菜を見つけた。

「神崎、先生……ミカは……」 「……」 神崎は何も言わず、結菜の胸ぐらを掴み、引きずり上げた。

「これも“レシピ”か!」

神崎の怒声が、深夜の廊下に響き渡った。 「飛んだ結果がこれだ! 肝臓が腐って死にかけてる! これが、お前たちの言う“宇宙”か!」

結菜は、恐怖と罪悪感で言葉を失い、ただ泣きじゃくることしかできなかった。 「違う……死ぬつもりじゃ……」

「そうだろうな!」 神崎は、結菜を壁に押し付けた手を振りほどいた。 「佐伯 誠も、君たちも、誰も死ぬつもりなんかなかった。……だが、現実は死ぬんだ!」

第三部:ホワイトアウト

第9章:万引き

結菜(ゆな)は、自分の病室のベッドで震えていた。 ミカが運ばれてきたICUの光景が、まぶたの裏に焼き付いている。土気色の肌。虚ろな目。解毒剤の点滴。神崎の、まるで自分の中の何かが壊れたような怒声。

『これが、お前たちの言う“宇宙”か!』

その通りだった。 遊びだった。現実(ノイズ)を消すための、安全な「逃避」のはずだった。死ぬつもりなんて、誰も、一度だってなかった。 それなのに、ミカは死にかけている。佐伯という男は、死んだ。

(やめたい) (やめなきゃ)

だが、恐怖が現実の輪郭をはっきりさせると同時に、耐え難い禁断症状が結菜の身体を内側から食い破り始めた。 不安感、吐き気、そして全身の骨が軋むような痛み。

(一錠だけ) (落ち着いたら、もうやめるから)

結菜は、検査着のままスリッパで病室を抜け出した。夜勤の看護師の目を盗み、非常階段を駆け下りる。 病院の目の前には、24時間営業のコンビニの光があった。

店内のBGMが、やけに大きく頭に響く。 結菜は、薬品棚の前に立つ。いつもの咳止め薬。いつもの抗ヒスタMINA薬。 ポケットを探るが、金など持っているはずがない。

(一箱だけ。ミカが助かったら、神様に謝るから)

震える手で、二つの箱を掴み、スウェットのポケットにねじ込む。 心臓が破れそうな音を立てる。 店の出口。自動ドアが開く。外の冷たい空気が肌を撫でた――その瞬間。

「ちょっと、お嬢さん」

低い声。中年の店長が、彼女の腕を掴んでいた。 「ポケットの中、見せてもらおうか」

結菜の頭は、今度こそ本当に真っ白になった。 これは、薬(クスリ)による「ホワイトアウト」ではなかった。 現実が、彼女の逃げ道を完全に塞いだ音だった。

第10章:嘱託医(しょくたくい)の仮説

神崎がリスク管理室との攻防に疲弊していた日の午後、一人の男が精神科の医局を訪ねてきた。 「神崎 湊先生でしょうか。わたくし、所轄の高橋と申します」 年の頃は三十代前半。スーツは少し着古しているが、その目だけは鋭く、まだ擦り切れていない正義感の色をしていた。

「……佐伯 誠の件で」

神崎は、息を飲んだ。病院の管理室とは別の「壁」が来たのだと身構える。 「自殺として処理されたと聞いていますが」 「上司(ホシ)は、そう結論付けたがっています。ですが、どうにも腑に落ちない」

高橋は、鞄から佐伯の所Nextの所持品のリストを取り出した。 「これです。確かに、市販薬のシートが大量に出てきた。ですが、アルコールは検出されなかった。薬物自殺にしては、遺書も、その兆候も一切ない」

高橋は、まっすぐに神崎を見た。 「先生は、救命で彼を見た。そして、何かを調べていると聞いた。……医者として、何か気づいたことはありませんでしたか」

神崎は、高橋を医局の奥へと招き入れた。リスク管理室長に見つかれば、今度こそ懲戒ものだ。だが、この刑事は「真実」にたどり着くための唯一の協力者かもしれない。

神崎は、室長命令で中止させられる前に、臨床検査技師の友人に頼んで「個人研究」として回してもらった佐伯の血液検査データをディスプレイに映し出した。 「高橋さん。これは、ただの自殺じゃない」

神崎は、薬理学の知識を、刑事にも分かる言葉に翻訳していく。 「佐伯が摂取した咳止め薬の主成分、デキストロメトルファン。これは、過剰摂取すると強烈な『解離(かいり)作用』を引き起こします。自分の精神と肉体が切り離される感覚。現実感が消失する」 「解離……」 「そして、もう一つの抗ヒスタミン薬。これは『せん妄』を引き起こす。ありえない幻覚を見せ、被害妄想を増大させる」

神崎は、高橋の目を見た。 「佐伯は、死のうとしたんじゃない。彼は、現実(ノイズ)から“消えよう”とした。 その結果、彼は自分がどこにいるのか、何をしているのか、全く認識できない状態に陥った。 彼はホームに立っていたんじゃない。化け物が跋扈(ばっこ)する、意味不明な空間の真ん中に立たされていたんです」

高橋は、ゴクリと唾を飲んだ。彼の警察官としての常識が、神崎の医学的見地に激しく揺さぶられていた。

第11章:防犯カメラ

数日後。高橋が、血相を変えて神崎の元へ駆け込んできた。手にはノートPCを抱えている。 「先生。医局、借りられますか。……これ、絶対に内部データです」

二人は、鍵のかかる仮眠室に閉じこもった。 高橋がPCを開き、映像を再生する。駅のホームに設置された、防犯カメラの映像だった。 画質は粗く、音もない。タイムスタンプが、佐伯の死亡推定時刻を示している。

映像の端から、佐伯がふらついた足取りで現れた。 千鳥足だ。だが、高橋が指摘する。 「酔っ払いとは違う。足が、もつれているというより……まるで床の感覚を掴めていないみたいだ」

その通りだった。佐伯は、まるで重力のない場所を歩くように、不自然に手足を動かしている。

次の瞬間、佐伯はホームの真ん中で立ち止まり、何もない空間に向かって、激しく怯え始めた。 (せん妄だ……!) 神崎は息を飲んだ。 佐伯は、目に見えない「何か」から逃れるように、数歩後ずさった。 そして、彼はくるりと向きを変え、今度は「それ」から逃げるように、まっすぐ歩き始めた。

その先が、線路とも知らずに。

彼は、ホームの端を示す黄色い点字ブロックを、何の躊躇もなく踏み越えた。 彼は「飛び込まなかった」。 彼は「ためらわなかった」。 彼は、まるで平らな地面が続いているかのように、そのまま、まっすぐに、空中に足を踏み出した。

次の瞬間、佐伯の姿はホームから消えていた。

高橋は、震える声で「……嘘だろ」と呟いた。 神崎は、奥歯を強く噛みしめた。 「彼は、ホームの端を認識していなかった。彼がいたのは駅じゃない。彼自身の脳が作り出した、真っ白な地獄(ホワイトアウト)の中だ」

第12章:デッドエンド

ノートPCが、パタンと閉じられた。 仮眠室の静寂に、二人の重い呼吸だけが響く。 真実は、そこにあった。

「……これが、真実だ」 高橋が言った。 「だが、どうしろと? これで、誰を逮捕できる?」

神崎は、答える言葉を持たなかった。 「……誰も、逮捕できない」

「そうですよ」高橋は、自嘲するように笑った。「俺は、上司に報告書を出します。『自殺の線は消え、薬物の影響による不慮の事故死と断定』と。便利屋みたいな仕事だ」

佐伯 誠の事件は、これで終わる。 コンビニで薬を売った店員に罪はない。薬を作った製薬会社にも罪はない。合法的な市販薬だ。 彼をそこまで追い詰めた会社の上司も、罪には問われない。 そして、佐伯自身は、もういない。

(デッドエンドだ) 神崎は、無力感に包まれた。

佐伯の死の真相は解明された。 だが、神崎の胸に突き刺さった、弟の死の謎は、より一層暗く、深くなるだけだった。 弟も、こうだったのか? 弟も、この真っ白な地獄の中で、一人で「転落」したのか?

その問いに答えてくれる者は、どこにもいなかった。

第四部:ノイズと声

第13章:弟の処方箋

佐伯 誠の死は、最終的に「薬物の影響下における不慮の事故死」として処理された。高橋刑事は「ご協力、感謝します」と神崎に深く頭を下げたが、その表情は真実にたどり着いた者のそれではなく、やりきれないルーチンを一つ終えた男の顔だった。

無力感が、鉛のように神崎の身体に染み込んでいた。 佐伯を救えなかった。結菜の友人(ミカ)は一命を取り留めたが、その肝臓には不可逆的なダメージが残った。

その週末は、弟の命日だった。 神崎は、数年ぶりに実家の自室に入った。空気が止まったような部屋の隅に、弟の遺品を詰めた段ボールが埃をかぶって置かれている。母親が「あなたが落ち着いたら開けてあげて」と言ったまま、開けられずにいた箱だ。

神崎は、カッターナイフでテープを切った。 教科書、聴き古したCD、そして、弟が使っていた通院用のショルダーバッグ。

(そうか、あいつも……) 弟も晩年、精神的な不調を訴え、大学病院に通っていた。 神崎は、そのバッグのチャックを開けた。 中には、大学病院のロゴが入った、くしゃくしゃの薬局の袋が一つ。

神崎は、無意識にその袋に手を入れた。 指先に触れたのは、アルミのPTPシート。 それを取り出した瞬間、神崎は呼吸を忘れた。

『デパス(エチゾラム) 0.5mg』

研修医時代、神崎が所属していた精神科で、最も安易に、そして大量に処方されていたベンゾジアゼピン系の抗不安薬。睡眠導入剤としても使われる。

シートの裏側、処方欄に書かれた医師の名。

『神崎 湊』

それは、紛れもなく神崎自身の筆跡だった。

記憶が、濁流のように蘇る。 研修医で多忙だった頃、弟からかかってきた電話。 『兄貴、なんか最近眠れなくて。仕事、きつくて』 『ああ? 大丈夫だろ、お前なら。……そうだ、今度ウチに来いよ。いい薬、出してやるから。お守りだ』

神崎は、床に散らばっていた弟の遺品をかき分ける。 あった。警察の遺品リストにも載っていたが、当時は意味が分からなかった「市販の咳止め薬」の空シート。

(まさか)

佐伯 誠は「市販薬A+市販薬B」で死んだ。 弟は。 弟は、「処方薬(兄)+市販薬(社会)」という、最悪のレシピで「ホワイトアウト」していたのだ。

弟の転落は、自殺ではなかった。 兄が与えた「お守り」と、ドラッグストアで手に入る「現実逃避」を掛け合わせ、佐伯と同じように現実感を失い、幻覚に怯え、そのままベランダから「転落」したのだ。

神崎は、その場に崩れ落ちた。

第14章:二人の加害者

「あ……ああ……っ」 声にならない声が、喉から漏れた。 神崎は、自分が佐伯の事件に執着した理由を、今、この瞬間に理解した。

彼は、弟の死の「真実」を探していたのではない。 無意識に、弟の死が「自分のせいではない証拠」を探していたのだ。 佐伯の死を「事故」だと証明することで、「弟の死も事故だった」と、自らを納得させたかった。自分が「加害者」ではないと、誰かに言ってほしかったのだ。

だが、現実は逆だった。

弟が「ノイズが消えない」とSOSを出した時、自分は何をした? 忙しさを理由に、その声を聞かなかった。 向き合うことを避け、医者という権限を使い、最も安易な「薬」というフタを渡した。

『お守りだ』

それは、弟の心を殺す毒だった。 コンビニの棚と、一体何が違う? いや、弟の信頼を裏切った分、自分の方が悪質だ。

自分は「救う側」の人間だと思い上がっていた。 だが、違った。 自分は、弟を死に追いやった「加害者」だった。

神崎は、自室の床で、声を殺して泣いた。

第15章:聴診器

翌週。 神崎の顔は、死人のように蒼白だった。ルーチン・ワークをこなす気力もなく、医局のデスクで自責の念に沈んでいた。

そこへ、看護師が声をかけてきた。 「神崎先生。外来です。……広瀬 結菜さん。万引きで補導された件で、保護観察所からの指示で」

結菜が、母親に腕を引かれ、うつむいたまま診察室に入ってきた。 その姿が、かつて「眠れない」と助けを求めてきた、弟の最後の姿と二重写しになった。

神崎は、ゆっくりと立ち上がった。 いつもなら、PCの画面に向かい、キーボードを叩きながら「その後、どうですか」と尋ねるはずだった。 カルテという「情報」を処理し、保護観察所向けの「書類」を作る。それが、これまでの彼の仕事だった。

だが、神崎はPCの電源に触れなかった。 彼は、白衣のポケットから、もう何年も使っていなかった「聴診器」を取り出した。研修医の頃、弟に「医者になったんだ」と見せた、あの聴診器だ。

「結菜さん」

神崎は、震える手で、聴診器の冷たい金属部分(チェストピース)を握りしめた。

「こっちに来て。……服、まくって」 結菜が、驚いたように顔を上げる。OD患者の診察で、聴診器など使われたことがないからだ。

神崎は、結菜の背中に、聴診器を当てた。 トクン、トクン、という、不規則だが、懸命に続く鼓動の音。

「君の“ノイズ”を、聞かせてくれ」

その言葉は、医者としてではなく、同じ地獄を知る「加害者」としての、贖罪の言葉だった。 結菜は、神崎のただならぬ様子に驚き、数秒間、息を止めた。 やがて、その肩が小さく震え始め、こらえきれなかった嗚咽(おえつ)が、診察室の静寂を破った。

神崎は、何も言わなかった。 ただ、弟の命を奪った自分の手で、今、目の前にある「生きている音」を聞き洩らさないよう、結菜の背中の震えに、耳を澄まし続けた。

エピローグ

あれから、三ヶ月が過ぎた。 神崎 湊は、救命救急センター(ER)の喧騒から離れ、病院本館の精神科外来で診察を行っていた。

急性期の患者を「処理」する場所から、慢性期の患者と「向き合う」場所へ。それは、彼自身が望んだ異動だった。効率も、キャリアも、すべてを捨てた末の選択だった。

診察室の空気は、ERとは違い、よどんだまま静かだった。

「……で、学校は?」 神崎は、PCの画面ではなく、目の前でうつむく15歳の少年の顔を見ていた。 「……別に」 「そうか」 神崎は、安易に「行け」とは言わなかった。 「学校に行かない間、何が一番つらい?」

少年は、医者がそんな質問をすることに驚いたように、わずかに顔を上げた。 沈黙が続く。神崎は、かつての自分のように「薬で様子を見ましょう」という言葉で沈黙を埋めようとはしなかった。 ただ、待った。

やがて、少年が絞り出す。 「……朝、親父がため息をつく音」

「そうか」と、神崎は再び頷いた。 それが、この少年の「ノイズ」だった。

診察が終わり、神崎がカルテを閉じると、看護師が「先生、次、広瀬さんです」と声をかけた。

待合室の隅に、広瀬 結菜(ゆな)が座っていた。 黒く染め直した髪が、少し伸びている。ピアスは消え、派手だった化粧も薄くなっていた。だが、その目は三ヶ月前と同じように、今も鋭く世界を拒絶しているように見えた。

彼女は「完治」などしていない。 ただ、薬の代わりに、週に一度のこの不毛な診察に「依存」することで、ギリギリの現実を耐えているだけだ。

「……行こうか」 神崎が言うと、結菜は無言で立ち上がり、診察室についてきた。

いつものように、当たり障りのない会話が続く。学校に少しだけ行けたこと。まだ、夜は眠れないこと。 神崎が、劇症肝炎で倒れた友人の名を口にした。 「ミカさんは、どうだ」

「……肝臓移植、決まったって」 結菜は、床を見つめたまま言った。 「……助かるってさ」

「そうか。良かった」 「……良くないよ」 結菜は、神崎を睨みつけた。「あいつの腹には、一生、傷が残る。私のせいだ」

「ああ」 神崎は、それを否定しなかった。「君のせいだ。そして、君だけのせいじゃない」

結菜は、その答えが不満そうだった。 診察が終わり、結菜がドアに手をかけた時、彼女は振り返らずに呟いた。

「……先生」 「なんだ」 「“ノイズ”って、いつ消えるの」

現実は、相変わらずうるさくて、痛い。 結菜の問いは、純粋だった。

神崎は、目を閉じた。 弟の、最期の声を想像する。

「……消えない」

神崎の答えに、結菜の肩が小さく震えた。

「ノイズは、消えない。生きている限り、ずっと鳴り続ける」

神崎は、立ち上がった。 そして、かつて弟にしてやれなかったことを、目の前の少女にする。

「だが」と神崎は続けた。 「一人で聞く必要は、もうない」

結菜は、何も言わずに診察室を出ていった。

その夜、神崎は冷え切った冬の道を歩いて帰路についていた。 雪が、街の「ノイズ」をすべて吸い込んでいく。

病院の目の前にあるコンビニ。 あの日、結菜が万引きをした場所だ。

自動ドアが開き、フードを被った若者が出てきた。 その手には、咳止め薬……ではなく、湯気の立つ肉まんが握られていた。

世界は、何も変わらない。 薬の棚は、今も優しい顔で「ホワイトアウト」を誘い続けている。 だが、世界が変わらなくても、たった一人、肉まんを選び取る人間がいるのなら。

神崎は、コートの襟を立てた。 雪は、弟の墓標のように、静かに降り積もっていく。 彼は、その白さに目を細めると、冷たい空気の中へ、一歩を踏み出した。

(了)

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