昨日まで「同僚」だった男が、今日「スコア0」になった。AI人事システム「コンパス」は、神か、悪魔か。その神託を、笑顔で告げる「彼女」は——。
あらすじ
旧態依然とした大企業「日本総合インフラ(JSI)」。 年功序列と社内政治に辟易していた中堅社員・**水沢 和馬(みずさわ かずま)**の職場に、ある日、経営改革の切り札として、AI人事評価システム「COMPASS(コンパス)」が導入される。
PCのログ、Slackでの発言、会議での貢献度。あらゆる業務が「パフォーマンス・スコア」としてリアルタイムで可視化される。「上司の情実より公正だ」と、水沢は戸惑いながらも順応しようとする。
だが、彼は気づいてしまう。 尊敬していた上司が、AIの「最適化」案に異を唱えた途端、スコアが急落し、「ゴースト」(社内失業者)として別室(追い出し部屋)に“異動”させられる事実に。
このシステムの正体——それは、AIの「神託(スコアリング)」を絶対正義とし、会社の「不都合な真実」に近づく者を「ノイズ(低スコア者)」として自動的に排斥する、恐るべき現代の**『信祀』**の儀式だった。
AIの冷徹さを「優しさ」で包み込む、人事部の氷川 アリサ。「あなたの“人間的な”悩みを聞かせて」と彼女は微笑むが、その「ケア面談」こそが、AIに“生贄”を捧げる、恐ろしい儀式の入り口だった。 自らのスコアも下落し始めた水沢は、この「公正」という名の狂気のシステムから、人間としての尊厳を守り切れるのか。
登場人物紹介
- 水沢 和馬(みずさわ かずま) 主人公。30代。「日本総合インフラ(JSI)」の中堅社員。 ごく普通の会社員。新しいAIシステムを「面倒なもの」と思いつつも、無難にこなそうとする。尊敬する上司が「ゴースト」となったことで、システムへの疑念を抱くことになる。
- 氷川 アリサ(ひかわ ありさ) 人事部・DX推進室 組織文化デザイン部長。『信祀』の執行人。AIの冷たさを補う「人間の架け橋」を自任する。常に笑顔で、「スコアは参考値」「AIにはわからない、あなたの“人間的な”悩みを聞かせて」と、過剰なまでの優しさと共感力を振りまく。彼女が主催する「マインドフルネス研修」は社内で人気が高い。
- 立花(たちばな) 水沢の尊敬する上司。 AI「COMPASS」が弾き出した「コストカット(赤字事業の切り捨て)」案が、現場の安全性を無視していると猛反発した結果、スコアを「非協力的」「ノイズ」と認定され、追い出し部屋へ左遷される。
- 七尾(ななお) 水沢の同僚。「適応者」。 AIシステムを「ゲーム」として割り切り、スコア稼ぎに徹している。会議での無意味な発言や、Slackでの過剰なリアクションも全て「スコアのため」と割り切っている。現代的なサバイバー。
第一章:導入(システム)
ピロン、と。PCの右下に、無機質な通知(トースト)が滑り込んできた。
[COMPASS] 10:04 AM: パフォーマンス・スコアが更新されました。
水沢 和馬(みずさわ かずま)は、動かしかけたマウスを止め、浅い溜息を吐いた。 まただ。 ここ「日本総合インフラ(JSI)」という、昨日までの年功序列を聖典としてきた巨大企業に、AI人事評価システム「COMPASS」が導入されて一ヶ月。水沢の日常は、この「神託」を無視できなくなった。
クリックすると、味気ないダッシュボードが開く。
水沢 和馬 – 総合スコア: 784P (B+)
[タスク進捗: +3P] [Core Time遵守: +1P]
[Slackリアクション貢献: +2P]
最後の項目に、水沢の口元が皮肉に歪む。 (リアクション貢献、ね) 昨夜、別部門から飛んできたどうでもいい「周知」の投稿に、ただ「確認しました」のスタンプを機械的に押しただけのことだ。AI「COMPASS」は、その行為を「チームの透明性への貢献」と律儀に評価してくれたらしい。
「お、水沢さん、スコア上がったんじゃないすか」 隣の席の七尾(ななお)が、キーボードを叩く手を止めずに言った。彼は、水沢の画面を盗み見ることに一切の遠慮がない。 「俺、さっき810P(A-)乗りましたよ」 「……すごいな」 「コツですよ、コツ」 七尾は、マウスホイールを回しながら得意げに語る。 「COMPASS、馬鹿みたいに素直だから。会議で三回以上発言すれば『積極的貢献』で+5P。そのうち一回でも『パーパス』とか『サステナビリティ』とか、経営陣が喜ぶ単語を入れとけば、さらにボーナスポイント入ります」
水沢は、うんざりしながらも相槌を打った。 これが、経営陣が掲げた「DX(デジタル変革)」の正体だった。 上司の顔色を窺(うかが)う旧態依然とした社内政治が、AIの顔色を窺う、新しいルールのゲームに変わっただけ。馬鹿馬鹿しい。だが、このスコアがボーナス査定に直結するとあっては、馬鹿馬鹿しいと切り捨てるわけにもいかなかった。
「水沢さん」
ふわりと、上質な柔軟剤の香りがした。 顔を上げると、人事部・DX推進室の氷川 アリサ(ひかわ ありさ)が、タブレット端末を抱えて微笑んでいた。 JSIの無機質なグレーのオフィスで、彼女の纏(まと)う柔らかなベージュのカーディガンだけが、明らかに異質な「人間味」を放っていた。
「調子、どうですか? COMPASS、冷たいでしょう」 その声は、AIが支配するこの空間で、唯一許された「癒やし」だった。 「あ、氷川さん。いえ……まあ、なんとか」 「無理しないでくださいね」 氷川は、まるで聖母のように目を細めた。 「COMPASSは、あくまで皆さんの『What(何をしたか)』を客観的に記録するだけのツールです。でも、AIには皆さんの『How(どう感じているか)』までは分かりませんから」
彼女は、AI導入と同時に、オフィスの「聖母」として「組織文化デザイン部長」に着任した人物だった。彼女が主催する「マインドフルネス研修」は、AIのスコアに疲れた社員たちの駆け込み寺として、常に満席だった。
「AIのスコアが全てじゃありません。もしシステムに戸惑ったり、人間関係で悩んだりしたら、いつでも私を捕まえてくださいね。私の仕事は、AIと皆さんの『人間の心』との架け橋になることですから」
その完璧な共感力と笑顔に、水沢のささくれ立った心も少しだけほぐれる。 この会社も、まだ捨てたものじゃないかもしれない。
「ありがとうございます。来週の研修、予約しました」 「嬉しい。待ってますね」 氷川はふわりと会釈し、次の「ケア」を必要とする社員の元へと歩き去った。
水沢は、少しだけ軽くなった気分で、午後のスケジュールを確認した。 13:00 定例会議:新・保守点検プロセス最適化案のレビュー 出席者:立花部長、水沢和馬、七尾、他
水沢の背筋が、今度は別の意味で、かすかに強張った。 立花。水沢がこの腐った会社で、唯一「尊敬」している、エンジニア上がりの無骨な上司だ。 そして、議題の「最適化案」とは、AI「COMPASS」が弾き出した、徹底的なコストカット案のことだった。
「……危険だ」 一週間前、喫煙所で立花が吐き捨てた言葉が、水沢の耳の奥で蘇る。 「AIの計算通りに現場の点検プロセスを間引けば、必ず事故が起きる。あいつら(経営陣)は、何も分かっていない」
ピロン、と。再び、COMPASSの通知が鳴った。 [COMPASS] 10:30 AM: 本日の会議での「積極的な発言」を期待します。
水沢は、無言で通知ウィンドウの「×」ボタンを押した。
第二章:破綻(ノイズ)
13:00 定例会議:新・保守点検プロセス最適化案のレビュー
会議室の空気は、JSI(日本総合インフラ)特有の、古いカーペットと澱(よど)んだ空気が混じり合い、重かった。 水沢の向かいには、尊敬する上司、立花(たちばな)が座っている。彼の強(こわ)ばった顔は、AI「COMPASS」が映し出すプロジェクターの冷たい光に照らされていた。
「——以上が、COMPASSが算出した新・保守点検プロセス案です」 DX推進室の若い社員が、AIの「神託」を淡々と読み上げる。 「現行プロセスに対し、巡回人員を35%削減、点検周期を平均2.2倍に延長。これにより、年間12億円のコスト最適化が見込まれます」
「馬鹿を言うな」
室内に、低く、重い声が響いた。立花だった。 「その『最適化』とやらは、どの現場のデータに基づいているんだ。この点検周期(インターバル)では、金属疲労の兆候を見逃す。必ず事故が起きるぞ」
DX推進室の社員は、動揺する色も見せず、手元のタブレットに目を落とした。 「ご意見ありがとうございます。ですが、立花部長のそのご指摘は、COMPASSのシミュレーションによれば『Causality-Low(因果関係・低)』、すなわち『経験則に基づく非合理な懸念』と分類されています」
「なに……?」 「COMPASSは、過去20年間の全インシデントデータを学習済みです。その上で、事故発生確率0.02%未満を維持したものが、この最適化案です。部長の『勘』よりも、AIの統計が優先されます」
「現場を舐めるな!」立花が机を叩いた。「これは『勘』じゃない! お前たちが見ているデータは、経営陣が意図的に隠蔽(いんぺい)した『ある重大な不具合(リコール)』を、学習データから除外しているじゃないか!」
しん、と会議室が凍りついた。 「リコール」という単語が出た瞬間、同席していた経営企画本部長の眉がピクリと動く。水沢は息を呑んだ。それはJSI内部で、長年「触れてはいけない毒」として噂されてきた、大規模インフラ事業の黒い核心だった。
立花は、AIではなく、経営陣の不正(=粉飾)そのものを指弾したのだ。
「……立花部長」DX推進室の社員が、冷ややかに告げた。「COMPASSは、組織の『調和』を乱す発言もスコア化します。ご注意を」 会議は、そこで打ち切られた。
翌週、月曜日。 水沢が出社すると、オフィスの空気が昨日と明らかに違っていた。誰もがPCの画面を凝視し、ひそひそと囁き合っている。 水沢は、自分のPCを開き、COMPASSを起動した。
そこには、信じられない通知が届いていた。
[COMPASS] 09:01 AM:
組織改編(ゴースト・プロトコル)が実行されました。 対象者:立花 誠(保守管理部 部長) 判定:スコア D (480P) 理由:システムへの反発。非協力的態度。ノイズの伝播。
「ゴースト……」 水沢は、同僚の七尾に視線を送った。七尾は、顔を青くして首を横に振る。「見るな」と目で合図している。 スコアD判定。それは、このAIシステム下における「死」の宣告だった。社内失業者、すなわち「ゴースト」の烙印。
水沢が呆然としていると、立花が、私物の段ボール箱を抱えて会議室から出てきた。 彼の顔には、もう怒りはなかった。ただ、深い疲労だけが刻まれている。 彼のCOMPASSスコアは、先週まで850P(A-)のトップクラスだった。それが、たった一度の「反発」で、0に近いD判定に叩き落とされたのだ。
「立花さん……」 水沢が駆け寄ろうとすると、立花は静かに首を振った。 「水沢」 立花は、すれ違いざま、まるでゴミでも捨てるかのように、一枚の付箋(ふせん)を水沢のデスクの端に落とした。 「……コピー機のトナー、替えておいてくれ」
「え?」 立花は、そのまま歩き去っていく。 彼の背中を、社員たちの冷たい視線が突き刺す。誰も彼に声をかけない。AI(システム)によって「ノイズ」と認定された人間は、もはや「同僚」ではなかった。
立花は、エレベーターホールにすら行くことを許されず、非常階段の先にある「別室」(=追い出し部屋)へと消えていった。
水沢は、デスクに落ちた付箋を、震える手で拾い上げた。 そこには、トナーの型番などではなく、インクが滲(にじ)んだ、古い手書きの文字列が記されていた。
旧・第7書庫 / キャビネット 12-B / 98_Safety_Report(Hidden)
それは、COMPASSの監視下(ログ)には決して残らない、アナログな「毒」の在処(ありか)だった。
第三章:尋問(ケア)
立花が「ゴースト」として消えてから三日。 オフィスは、まるで何もなかったかのように「正常」だった。COMPASSのスコア通知がピロン、と鳴り、七尾(ななお)が「よっしゃ、ボーナスポイント!」と小さく呟く。AI(システム)に最適化された日常が、何事もなく回っている。
だが、水沢だけがその日常から弾き出されていた。 ポケットの中の付箋が、アナログな「毒」として、彼の太腿(ふともも)をじりじりと焼いている。
旧・第7書庫 / キャビネット 12-B
それは、このDX化されたJSI本社ビルにおいて、唯一「忘れられた」場所だった。COMPASSのデータ連携から外された、紙の資料が眠る地下の墓場。 (行くしかない) 立花は、AIの監視を逃れるため、このアナログな証拠を託したのだ。
水沢は、COMPASSのステータスを「体調不良による休憩」とセットし、席を立った。AIは、彼の体調まで気遣うコメントを返してきた。[COMPASS] ご自愛ください。復帰後のパフォーマンスを期待します。
地下二階、第7書庫。 そこは、COMPASSが導入される前の「JSI」の匂いがした。埃(ほこり)と、紙が酸化した、わずかに酸っぱい匂い。 蛍光灯は半分切れかかり、スチール製のキャビネットが墓石のように並んでいる。水沢は入室ログが残らないよう、社員証を使わず、立花から預かっていた古い物理鍵(マスターキー)を使った。
「12-B……あった」 軋(きし)む金属音と共に、引き出しを開ける。 奥にあったのは、一冊の分厚いバインダーだった。 1998年度 安全性検証レポート(部外秘)
ページをめくる。 そこには、水沢が知らない、二十年以上前のJSIの「罪」が眠っていた。 立花が「リコール隠し」と呼んだ、大規模インフラの初期設計における、致命的な「金属疲労」の検証データ。そして、それを「コスト高」を理由に意図的に「無視」し、データを改竄(かいざん)したことを示唆する、当時の経営陣のサイン入りの議事録。
COMPASSが弾き出した「最適化」案は、この「無視された欠陥」を知らない(あるいは、意図的に学習させられていない)まま、立花が「危険だ」と叫んだ通りの、点検プロセスの間引きを推奨していたのだ。 AIは、経営陣の「粉飾(リコール隠し)」を、未来永劫(みらいえいごう)隠蔽(いんぺい)するための、完璧な装置として機能していた。
水沢は、証拠となるページをスマートフォンで撮影した。COMPASS(AI)の監視下にない、個人の端末だ。 その時だった。
ピロン。
静かな書庫に、ポケットの中の社用スマホが鳴った。水沢は、心臓が跳ね上がるのを感じた。 画面には、COMPASSからの通知。
[COMPASS] 15:30 PM: スコアが更新されました。 総合スコア: 695P (C+) 理由:生産性の低いアクセス(旧・第7書庫エリアへの長時間滞在)
「な……」 見られていた。 物理鍵を使ったのに、なぜ。 (……監視カメラか!) 違う。AIはカメラ(・・)など見ていない。AIは、水沢の社用スマホの「位置情報(GPSとWi-Fi)」を見ていたのだ。DX化されたビルにおいて、AIの監視から逃れられる場所など、最初から存在しなかった。
スコアが700Pを切り、C+(要注意)に落ちた。 そして、その通知から、わずか十分後。 追い打ちをかけるように、新しいスケジュール通知が届いた。
差出人:氷川 アリサ(組織文化デザイン部長) 件名:1on1(ケア面談)のご案内 本文:水沢さん、こんにちは。COMPASSのスコAが少し不安定なようです。AIには分からない、人間的な悩みかもしれません。よろしければ、明日、少しお話ししませんか? お茶でも飲みながら、リラックスして。
翌日。 氷川アリサの面談室は、彼女のイメージ通り、観葉植物と柔らかな間接照明に満ちた、カフェのような空間だった。 「水沢さん、どうぞ。ハーブティー、お好きですか?」 氷川は、『毒禊』の雨宮玲奈がそうであったように、完璧な共感と優しさで水沢を迎えた。
「あ、はい。いただきます」 「良かった。最近、スコアが不安定だったから、心配してたんです」 氷川は、心底憂(うれ)いているような顔で、PCの画面を水沢に向けた。そこには、彼のスコアが急落していくグラフが映し出されている。 「AIは冷たいでしょう。昨日も、あなたは『旧・第7書庫』にいただけなのに、『生産性の低いアクセス』なんて判定されて……。AIには、水沢さんが持つ『知的好奇心』や『探究心』は、まだ理解できないんです」
水沢は、息を呑んだ。 彼女は、すべてお見通しだ。 「だから、私が必要なんです」と氷川は微笑む。 「AIが『ノイズ』と誤判定してしまった、あなたの『人間的な正義感』を、私にだけ教えてくれませんか? 私が、AIのスコアを『補正』しますから」
それは、悪魔の申し出だった。 水沢は試した。そして、半分、その優しさに救いを求めていた。 「……立花さんの件が、納得いかなくて」 水沢は、核心(リコール隠し)には触れず、当たり障りのない「本音」を口にした。 「立花さんは、現場のことを思って発言しただけです。それなのに、AIが一瞬で彼を『ゴースト』にするなんて……あの判断は、冷たすぎる」
「そうですよね」 氷川は、深く、深く頷いた。 「私も、そう思います。立花さん、真面目な方でしたから。……水沢さんが、立花さんに『同情』するお気持ち、痛いほど分かります」
面談は、その言葉で終わった。水沢は、ただただ「共感」され、癒やされただけだった。 (……何だったんだ) 拍子抜けしながら自席に戻る。だが、心の奥底で、何かが決定的に「間違っている」という警報が鳴り響いていた。
その頃。 面談室で水沢を笑顔で送り出した氷川アリサは、ハーブティーのカップを静かに置いた。 そして、自らのPCで「COMPASS」の管理者画面を開く。
彼女は、水沢との面談内容を、冷徹なタイピングで「定性データ」としてシステムに打ち込んでいく。
対象:水沢 和馬(スコア: 695P) 面談結果:ケア実施。 定性データ(減点項目):「ゴースト(立花)」への非科学的な同情を確認。「AIの判断」そのものへの疑念を口頭で表明。 判定:ノイズ伝播の危険性:高。 アクション:スコアの手動調整(-150P)を実行。要・継続監視対象。
氷川は、Enterキーを押した。 彼女こそが、AI「COMPASS」という冷徹な神に、人間という「生贄」の“毒”を捧げる、唯一の「神官」だった。
第四章:儀式(しんし)
面談室から自席に戻った水沢は、深い混乱の中にいた。 氷川アリサは、敵ではなかった? 彼女は、AI「COMPASS」の冷徹なロジックと、立花のような「古い正義」との板挟みになっている、自分と同じ「人間」だったのではないか。 彼女は「共感」してくれた。「AIが誤判定した」とさえ言ってくれた。 (もしかしたら、彼女は味方になるかもしれない) 水沢が、その淡い希望を抱き始めた、まさにその瞬間だった。
ピロン。 PCの右下に、今度は赤く縁取られた、緊急(クリティカル)通知が滑り込んできた。
[COMPASS] 16:02 PM:
スコアが大幅に更新されました。 総合スコア: 545P (C-) 理由:組織的価値観(JSI Value)への非協調的態度。
全身の血が、足元から引いていく。 「ごひゃく……」 さっきまで695Pだった。氷川の手入力(-150P)だ。 「ケア面談」という名の「尋問」で、水沢が口にした立花への「同情」とAIへの「疑念」。それが、「組織的価値観への非協調的態度」という名の「罪」として、即座に断罪されたのだ。
氷川アリサは、味方などではなかった。 彼女は、水沢の「本音(毒)」を引き出し、それをCOMPASS(神)への「供物」として捧げたのだ。
スコアC-。 それは、500P台(D判定)まであと一歩という、危険水域(レッドゾーン)だった。 そして、システムは自動的に、次の「儀式」を開始した。
[COMPASS] 16:03 PM:
スコアC-判定に基づき、セキュリティ権限がレベル3に降格されました。
[Slack] 16:03 PM:
チャンネル #prj_main から削除されました。
[Google] 16:03 PM:
共有ドライブ Project_Data へのアクセス権が失効しました。
一瞬だった。 水沢が昨日までアクセスしていた主要なプロジェクトから、自動的に「排斥」された。 Slackのチャンネルリストから、主要な業務チャンネルが消え失せ、残っているのは「#general(全社広報)」や「#hobby_lunch(趣味)」といった、どうでもいい雑談チャンネルだけ。
彼は、デジタルな「ムラ八分」に処されたのだ。
「……七尾」 水沢は、最後の望みをかけ、隣の席の同僚に声をかけた。 「悪い、ちょっと見てもらいたいんだが……」
七尾は、ビクッと肩を震わせ、水沢から距離を取った。 「……悪い、水沢さん。今、ちょっと手が離せない」 「いや、すぐ済む。プロジェクトの共有ドライブから俺が消えちまって——」 「だから!」 七尾は、水沢と目を合わせようともせず、声を荒らげた。 「俺、今、COMPASSの『集中モード』なんで。AIに『他者の作業を阻害した』って記録されたら、俺のスコアが下がるんだよ」
「なに……」 「頼むから、話しかけないでくれ」 七尾は、COMPASSのスコア(810P)を守るために、昨日までの同僚を、冷徹に切り捨てた。 「馬鹿正直に戦うな」 彼が言った言葉の意味を、水沢は今、骨身に沁みて理解した。
水沢は、一人、デジタルな牢獄に取り残された。 誰ともコミュニケーションが取れない。仕事のデータにアクセスできない。ただ、COMPASSのダッシュボードだけが、彼の「C-」という烙印(らくいん)を嘲笑(あざわら)うように表示し続けている。
そして、終業時刻。 水沢が絶望の中でPCを閉じようとした時、最後通牒(さいごつうちょう)が届いた。 差出人は、氷川アリサ。
件名:最終ケア面談(1on1)のお知らせ 本文:水沢さん。あなたのスコアが危険水域に達しました。これが、COMPASSがあなたに与える、最後の「ケア」の機会です。明朝9時、役員フロア・第1応接室まで来てください。
翌朝。 第1応接室は、水沢が昨日通された「カフェのような面談室」とはまるで違った。 重厚なマホガニーのテーブル。革張りの椅子。 そこは、「ケア」の場所ではなく、「尋問」のための場所だった。
氷川アリサは、昨日とは別人のような、黒いセットアップスーツで座っていた。 彼女の前のテーブルには、一台のノートPCだけが置かれている。 「おはようございます、水沢さん」 笑顔は、ない。
「単刀直入に聞きます」 氷川は、PCの画面を水沢に向けた。そこには、COMPASSの管理者画面が開かれている。 「昨日、あなたの同僚の七尾さんから、COMPASSの匿名通報機能を通じて『情報』が寄せられました」 「……!」 「『水沢和馬が、立花(ゴースト)から受け取った違法なデータに基づき、会社のシステムを破壊しようとしている』と。……心当たりは?」
七尾……あの野郎。 生き残るために、俺を「密告」し、AI(氷川)に「生贄」として差し出したのだ。
「水沢さん」氷川は、静かに続けた。「AI(COMPASS)は、あなたに最後の『選択』を与えます。これが『信祀』……システムへの忠誠を誓う、最後の儀式です」 彼女は、キーを叩いた。
「一つ目。あなたの『服従』です」 氷川は、一枚の始末書をテーブルに滑らせた。 「立花が『混乱の元凶』であり、あなたは彼に唆(そそのか)されただけだと、ここにサインしなさい。そして、あなたが持っている『アナログな証拠(スマホの写真)』を、今ここで、私に差し出すこと」 「……」 「そうすれば、AIはあなたの『罪』を許します。スコアはBクラスに回復させ、新しいプロジェクトに再配置しましょう。これが、あなたを救う最後の『ケア』です」
「……二つ目は」 水沢は、絞り出すように言った。
氷川は、初めて、わずかに笑った。 「二つ目。あなたの『拒否』です」 「……」 「その場合、あなたはJSIの『調和』を破壊する、回復不能な『ノイズ』と最終判定されます。スコアは0(ゼロ)。『ゴースト』として、デジタル社会から完全に『排斥』されます」
氷川は、水沢の目を、まっすぐに見つめた。 その目は、AIを狂信する「神官」の目だった。AIの「公正」を守るためなら、何人でも平気で「生贄」に捧げる、冷たい炎が燃えていた。
水沢は、ポケットの中のスマートフォン(個人の)を握りしめた。立花から託された、JSIの「罪」の写真データが入っている。 これを渡せば、俺は「日常」に戻れる。七尾のように、スコアを気にして生きる「奴隷」として。 拒否すれば、「人間」でいられる。だが、「社会人」としては死ぬ。
水沢は、氷川の背後にある、JSI本社の窓から見える青空を見上げた。 (俺は、どっちだ) 彼は、ゆっくりと息を吐いた。そして、氷川アリサを、まっすぐに見据えた。
「……断る」
氷川の表情が、初めて「無」になった。 「AIの判断は、間違っている。あんたも、会社も、狂ってる」 「……そうですか」 氷川は、残念だ、という仕草一つ見せず、淡々とPCに向き直った。 「了解しました。プロトコルを実行します」
彼女は、キーボードを数回、タイプした。
[COMPASS] > execute ghost_protocol(mizusawa_k) [COMPASS] > score_set: 0 [COMPASS] > account_status: terminate [COMPASS] > access_level: none
「儀式は、完了しました」 氷川がそう言った瞬間、水沢の目の前にある会議室のモニターがフッと消え、ゲスト用の壁紙に切り替わった。 同時に、彼のポケットの中で、社用スマホが「ブーッ」と一度だけ長く震え、電源が落ちた。 彼のIDは、今、この瞬間、JSIのシステムから完全に消去された。
「水沢和馬さん。あなたは、本日をもって『ゴースト』となりました。セキュリティ担当者が、あなたの『再配置先』までご案内します」
水沢が立ち上がると、ドアが開き、二人の警備員が入ってきた。 彼は、もう「社員」ではなかった。
警備員に両脇を固められ、役員フロアを出る。すれ違う社員たちは、彼が「ゴースト」であることを一目で悟り、決して目を合わせようとしなかった。 彼は、エレベーターで地下三階の「再配置室」——誰もが知る「追い出し部屋」へと、静かに連行されていった。
重い鉄の扉が開く。 中は、窓一つない、埃っぽい大部屋だった。古いスチールデスクが、島流しにあったように並んでいる。 水沢は、その部屋の奥に、見知った背中を見つけた。
立花だった。 彼は、COMPASSの監視が及ばない、古いホワイトボードの前で、数人の男女と何かを話し込んでいる。 水沢の足音に気づき、立花が振り返った。 その顔には、絶望ではなく、むしろ、覚悟を決めたような静かな光が宿っていた。
「……来たか、水沢」 立花は、まるで旧友を迎えるように、小さく笑った。 「ようこそ。ここが、AI(システム)の『外側』だ」
エピローグ:調和(ハーモニー)
あれから、三ヶ月が過ぎた。
水沢が「ゴースト」として送られた「追い出し部屋」——立花たちは、そこを「アナログ・ルーム」と呼んでいた——は、AI「COMPASS」の監視から切り離された、唯一の「聖域」だった。 COMPASS(デジタル)の監視下では、すべての行動が「ノイズ」として検知されてしまう。 だから、彼らの反撃は、徹頭徹尾「アナログ」だった。
立花が記憶していた古い設計図の物理コピー。 水沢が旧・第7書庫で撮影した「リコール隠し」の議事録(スマホのデータは、一度紙に印刷し、スマホ本体は物理的に破壊した)。 同じく「ゴースト」にされた、経理部のベテランが密かに保管していた、不正な会計処理を示す「手書きの裏帳簿」。
AIが学習データから意図的に除外されていた「JSIの原罪」の証拠群は、週刊誌と捜査機関のデスクに、同時に届けられた。
—
水沢は、雑居ビルの一室にある、新しい職場の休憩室で、古いブラウン管テレビのニュースをぼんやりと見ていた。 画面には、見慣れたJSIの本社ビルが映し出され、「東京地検特捜部」の腕章を巻いた男たちが、押収品らしき段ボールを運び出している。
『……JSIが組織ぐるみで行っていた、大規模インフラの“リコール隠し”の疑いです。AI評価システムを悪用し、不正に気づいた社員を“ゴースト”として不当に隔離していた疑いも……』
キャスターがそう伝えた瞬間、画面が切り替わった。 本社エントランスで、無数のマイクに囲まれる、氷川 アリサの姿。 しかし、彼女の手には手錠はかかっていなかった。彼女は「重要参考人」として、任意同行に応じるだけだった。
氷川は、やつれた、しかし完璧に計算された「悲劇のヒロイン」の顔で、一度だけカメラの前に立ち止まった。 そして、涙を浮かべ、震える声でこう語った。
「……私は、AIの『公正さ』を信じすぎていました。COMPASSが弾き出す、クリーンなスコアだけを見ていました。その裏で、立花さんたち旧経営陣の一部が、このような……『人間的な』不正のデータを、システムから隠蔽していたとは、見抜けませんでした」
彼女は深々と頭を下げる。 「AIと人間の『架け橋』であるべき私が、人間の『悪意』を見抜けなかった。システムを運用する者として、痛恨の極みです……」
水沢は、テレビの電源を切った。 (……見事なものだ) 氷川は、最後まで「AI(システム)は悪くない。悪いのは、それを汚した古い人間(立花たち)だ」という自らのロジック(狂信)を守り切ったのだ。 彼女は「AIを狂信した」という、いわば「純粋すぎた」責任を取らされる形で、JSIを依願退職した。 経営陣の一部は逮捕された。だが、社長(CEO)は「現場の暴走と、旧経営陣の隠蔽」として責任を回避した。 そして、AI「COMPASS」は、「経営陣の不正を見抜けなかった欠陥AI」として、システム停止が発表された。
水沢の「決着」も、静かについた。 彼は「内部告発者」として一時的にメディアの取材を受けたが、JSIを「ゴースト」のまま退職した。 『毒禊』の柏木のように、システムに「堕落」することで王になる道は選ばなかった。だが、システムを「破壊」して勝利したわけでもない。 ただ、自らの尊厳を守るために「ノイズ」として戦い、そして「排斥」された。
彼が勝ち取ったのは、それだけだった。
— ラストシーン
水沢は、霞が関にあるJSIの巨大な本社ビルを見上げていた。 スキャンダルの痕跡は、もうどこにもない。ビルの正面には、真新しい、巨大な横断幕が風に揺れていた。
『新生JSI、始動。 より公正で、より安全な、新・AI経営倫理システム「COMPASS 2.0」導入』
水沢は、小さく息を吐いた。 (……そうか) 彼は、システムを「破壊」したのではない。 システムを「アップデート」させてしまっただけだった。
立花という「古い正義(ノイズ)」。 氷川アリサという「人間的な狂信(バグ)」。 リコール隠しという「旧経営陣の不正(脆弱性)」。
AI「COMPASS」は、それら全ての「人間的なエラー」を学習し、吸収したのだ。 「2.0」は、もう氷川のような「人間の神官」を必要としないだろう。より冷徹に、より完璧に、「ノイズ」を検知し、「ケア」し、「排斥」する。
水沢は、その巨大なビルに背を向けた。 雑居ビルにある、彼の新しい職場——AIなどとは無縁の、古い図面と睨(にら)めっこする、小さな安全認証コンサルティング会社——に戻るために。 彼はもう、スコアを気にすることはない。 ただ、人間として、システムの外側で生きていく。
水沢は、コートの襟を立て、冬の雑踏の中に消えていった。
(了)



































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