少年を殺したのは、熊か。それとも、僕らか。
あらすじ
埼玉県西部の、一見平和な郊外都市。この街の中学校に通う広瀬拓海にとって、教室は息の詰まる檻でしかなかった。スクールカーストという見えない階級と、SNSによる執拗な監視。彼の心は、限界を迎えようとしていた。
そんな中、決行された奥秩父への林間学校。そこで、悪夢のような事件が起こる。拓海を含む、8人もの生徒が、深い森の中で忽然と姿を消したのだ。
「集団遭難」の一報に、警察、学校、そして親たちは混乱の渦に叩き込まれる。大規模な捜索隊が組織されるが、奥秩父の険しい山々は彼らを拒み、時間は無情に過ぎていく。なぜ8人もの生徒が同時に?彼らの失踪は、本当にただの事故だったのか。残された者たちの証言が食い違う中、大人たちの間にも不信と罪悪感の影が広がり始める。
そして、誰も知らない。この事件が、数年前にこの森で起きた、もう一つの「事故」の歪んだこだまであることを。そして、一人の少年が、この悲劇のすべてを、冷徹な瞳で記録し続けていることを。
深い森に隠された真実とは何か。そして、少年たちを死の淵に追いやった、本当の獣はどこにいるのか。
登場人物紹介
- 広瀬 拓海(ひろせ たくみ) 物静かな中学二年生。本作の主人公。クラスでの居場所を見失い、心を閉ざしている。唯一の友人ケンジを信じ、林間学校で人生を賭けた行動に出る。
- 相沢 翔(あいざわ しょう) 拓海のクラスメイト。成績優秀、スポーツ万能で、誰からも好かれるクラスのリーダー。その明るい笑顔の裏に、冷たい影を宿している。今回、森で消息を絶った生徒の一人。
- 鈴木 拓也(すずき たくや) 拓海のクラスメイト。常に相沢のグループにいる、気弱な少年。集団から外れることを恐れるあまり、強い者に流されてしまう。彼もまた、森で消息を絶った生徒の一人。
- 井上 健司(いのうえ けんじ) / 通称:ケンジ 拓海の唯一の友人。本作のもう一人の主人公。集団に馴染まず、常に一歩引いた場所から全てを観察している。拓海の逃亡計画に協力するが、その真の目的は誰も知らない。
- 安西 幹夫(あんざい みきお) 奥秩父の森の奥深くに暮らす謎の男。元動物行動学者。森を支配するかのような知識とカリスマ性を持つ。彼の作る聖域は、子供たちにとって楽園か、それとも…。
- 佐倉 誠(さくら まこと) 拓海のクラス担任。生徒思いだが、事なかれ主義が抜けきれない。事件発生後、対応に追われる中で、過去に自分が見過ごした「小さな罪」が、悪夢となって蘇る。
序章:檻の中
ありふれた放課後だった。 西日が差し込む教室は、埃を金色にきらめかせ、生徒たちの楽しげな喧騒を鈍く反射している。 机の硬い感触だけが、広瀬拓海(ひろせ たくみ)にとっての現実だった。
彼は風景の一部だった。そこにいるのに、誰の目にも映らない。 教室の中心には、いつだって相沢翔(あいざわ しょう)がいる。彼が笑えば、クラスが笑う。 彼が誰かを無視すれば、その人間は、クラスから消える。
相沢は、拓海を見ない。 それは無関心ではない。王が、自らの支配する土地の、取るに足らない石ころを見ないのと同じだ。 その無関心が、拓海をゆっくりと窒息させていた。
ポケットの中で、スマートフォンが震えた。 クラスのLINEグループからの通知。心臓が、冷たい手で鷲掴みにされる。 もう、見たくなかった。でも、見なければ、もっと酷いことになる。
指先が震える。 意を決して画面をタップした瞬間、拓海の時間は止まった。 そこに、自分がいた。自分の顔が、知らない誰かの、卑猥で、屈辱的な身体に貼り付けられていた。
AIが作った、悪意の塊。 デジタル・タトゥー。永遠に消えない、電子の烙印。 くすくすと、押し殺した笑い声が聞こえる。何人かが、スマートフォンを隠しながらこちらを見ている。
相沢は、笑っていなかった。 ただ、教室の隅にいる拓海を一瞥し、満足そうに、ほんの少しだけ口の端を上げた。 王の、無慈悲な承認だった。
その日の帰り道、拓海は初めて、陸橋の上からハイウェイを走るトラックの群れを、吸い込まれるように見つめていた。 もう、何もかも、終わらせてしまいたかった。 その時、再びスマートフォンが震えた。今度は、個人からのメッセージだった。
『見たよ。ひどいな』
井上健司(いのうえ けんじ)、ケンジからだった。 クラスで唯一、拓海が「友人」と呼べるかもしれない男。集団に属さず、いつも何かを観察している、冷めた目をした少年。
『計画、早めるか?』
拓海の机の上には、数日後に迫った林間学校のしおりが置かれていた。 行き先は、奥秩父。豊かな自然に触れ合いましょう、なんて、空々しい言葉が並んでいる。 地獄からの、数日間の出張。そう思っていた。
ケンジのメッセージが、その意味を、全く別のものに変えた。 地獄からの出張じゃない。 地獄からの、脱出口だ。
数日後、体育館に集められた全校生徒は、佐倉先生の退屈な説明を聞いていた。 「――というわけで、自然を甘く見ないこと。特に、今年は」 スクリーンに、一枚の写真が映し出された。
森の闇の中に設置された監視カメラの、不鮮明な映像。 赤外線に照らされた闇の中で、黒い巨大な何かが、カメラを睨みつけている。 「『片喰(かたばみ)』と呼ばれる雄熊です。人を恐れない個体なので、絶対に単独行動はしないように」
生徒たちが、不安と興奮の入り混じった声を上げる。 相沢が「俺が戦ってやるよ」と、軽口を叩いて周りを笑わせている。 拓海は、ただ黙って、スクリーンの中の獣を見ていた。
獣の目が、教室という檻の中にいる自分を、まっすぐに見つめ返しているような気がした。
第一部:消失と遭難
林間学校当日。バスは、日常と非日常を分かつ雁坂トンネルの、長い闇へと吸い込まれていった。 拓海とケンジは、後部座席で誰とも話さず、ただ車窓を流れる景色を見ていた。 これから始まる全てを計画したケンジの横顔は、いつも通り、何も読み取れない。
ハイキングが始まったのは、昼過ぎだった。 整備された登山道を、生徒たちの列が続く。佐倉先生が先頭に立ち、時折、後ろを振り返る。 相沢のグループは、わざと拓海のすぐ後ろを歩き、小石を蹴りつけたり、聞こえよがしに悪口を言ったりしていた。
計画の実行ポイントは、尾根道に出る手前の、沢筋への分岐点だった。 「先生、トイレ!」 ケンジが、絶妙なタイミングで声を上げる。拓海も続く。 佐倉先生は「すぐ戻ってこいよ」とだけ言って、列を進めた。
その瞬間を、佐倉先生は後悔し続けることになる。 二人が列から外れるのを、彼は確かに見ていた。その背中が、登山道ではなく、薄暗い森の奥へ向かったことに、一瞬だけ、本当に一瞬だけ、違和感を覚えたのだ。 しかし、他の生徒からの質問に気を取られ、彼はその小さな棘を、意識の底に沈めてしまった。
拓海とケンジは、走っていた。 獣道を、息を切らしながらひたすら進む。後ろから、自分たちを呼ぶ声は聞こえない。 計画は、成功した。
一方、その頃。 二人が戻らないことに気づいた相沢は、舌打ちをした。 「おい、あいつらサボりだぜ。ちょっと脅かしに行くぞ」
それは、いつもの遊びの延長だった。 獲物を追い詰める、王の気まぐれ。相沢は、鈴木拓也を含む仲間5人を率いて、拓海たちが消えた脇道へと踏み込んだ。 「五分で見つけて、先生より先に戻るぞ」
だが、森は彼らの支配が及ぶ教室ではなかった。 踏み荒らされた獣道はすぐに途切れ、似たような風景が、彼らの方向感覚を麻痺させていく。 天候が、急速に悪化し始めた。
そして、彼らは見てしまった。 少し開けた場所に転がる、巨大な鹿の死骸。 腹は食い破られ、おびただしい血が、苔と土を黒く染めている。強烈な腐臭と、獣の匂い。 「片喰」の、食事の痕跡だった。
誰かが、悲鳴を上げた。 パニックは伝染する。彼らは、リーダーである相沢の制止も聞かず、我先にとその場から逃げ出した。 鈴木拓也が、濡れた岩に足を滑らせ、短い悲鳴と共に沢の急斜面を転がり落ちていくまで、ほんの数秒のことだった。
どれくらい歩いただろうか。 拓海の足は、もうただの重い肉の塊になっていた。小枝に引っかけた頬が、熱っぽく痛む。 隣を歩くケンジだけが、不思議なほど冷静だった。
「…本当に、この道で合ってるのか」 拓海の掠れた声に、ケンジはちらりと視線を寄越すだけだった。 その手には、防水ケースに入ったスマートフォン。コンパスアプリが、不気味なほど正確に方角を示し続けている。
その時だった。 拓海の鼻腔を、微かな匂いが掠めた。湿った土と、腐葉土の匂いに混じる、懐かしいような匂い。 薪が燃える匂いだった。
息を飲んだ拓海の肩を、ケンジが軽く叩いた。 「着いたみたいだ」 木々の切れ間から、それが見えた。
忘れられた集落だった。 苔むした屋根、壁が崩れ落ちた家屋が、森の静寂の中に沈んでいる。廃村だ。 だが、そのうちの一軒から、細く白い煙が立ち上っていた。
集落の中心らしき広場で、一人の男が斧を振るっていた。 乾いた音が、森に響き渡る。男は、拓海たちの存在に気づいているはずなのに、気にする素振りも見せない。 背が高く、無駄のない筋肉質な身体。年は四十代だろうか。
やがて、男は斧を切り株に立てると、二人の方へ向き直った。 陽に焼けた顔。深く刻まれた皺。その瞳だけが、森の湖のように静かだった。 「迷ったのか。それとも、呼ばれたのか」
低い、落ち着いた声だった。 拓海が言葉に詰まる前に、ケンジが一歩前に出た。 「『月が満ちる時、獣は道を譲る』」
男の目が、ほんの少しだけ細められた。 それが合言葉であることを、拓海はその時初めて知った。 「…そうか。入れ」
男――安西(あんざい)に導かれ、二人は煙の立つ家の中へ足を踏み入れた。 中は、古びてはいたが、清潔だった。床には動物の毛皮が敷かれ、隅の囲炉裏では静かに火が燃えている。 そして、奥の暗がりから、数人の子供たちが、こちらをじっと見ていた。
拓海と同い年くらいだろうか。 その瞳には、好奇心よりも深い、警戒心と諦めのような色が浮かんでいた。 ここもまた、教室と同じ、見えないルールに支配された場所なのだと、拓海は直感した。
安西は、囲炉裏のそばに二人を座らせると、壁の一点を指差した。 家の柱に、巨大な獣が爪を立てたような、五本の深い傷が刻まれている。 「勘違いするな。ここは楽園じゃない。檻の中だ。お前たちは、外の檻から、こっちの檻に移ったに過ぎん」
安西の言葉に、拓海は息を飲んだ。 檻。そうだ、ここも檻だ。だが、少なくとも、あの教室よりは。 そう考えた拓海の心を見透かすように、安西は続けた。
「そして、この檻の番人は、俺じゃない」 彼は、柱の傷跡を、そっと指でなぞった。 「『片喰』だ」
その名を聞いた瞬間、家の奥にいた子供たちの肩が、微かに震えたのを、拓海は見逃さなかった。
「片喰」の名がもたらした冷たい沈黙は、囲炉裏の薪がぱちり、と爆ぜる音で破られた。 安西は、まるで何事もなかったかのように立ち上がり、奥の部屋から古びた毛布を数枚持ってくる。 「今夜はここで休め。明日、仕事を与える」
その声には、有無を言わせぬ響きがあった。 拓海とケンジは、ただ頷くことしかできない。 ここは、教室とは違う。だが、見えない檻の冷たさは、奇妙なほど似通っていた。
*
一方、その頃。 鈴木拓也が消えた沢筋では、時間が凍りついていた。 止まない雨が、残された五人の少年少女の体温と、そして思考を奪っていく。
「…おい、嘘だろ…」 誰かが、震える声で言った。 相沢翔は、その声に反応できなかった。耳の奥で、拓也の短い悲鳴が、何度も何度も反響している。
違う。俺のせいじゃない。あいつが勝手に足を滑らせたんだ。 そう心の中で叫ぶが、言葉にはならない。 クラスの王として、常に頂点に君臨してきたはずの自分が、今はただ、ずぶ濡れで立ち尽くすことしかできなかった。
「お前のせいだ、相沢!」 金魚のフンのように、いつも相沢の後ろをついてきていた木村が、初めて剥き出しの敵意を主人に向けた。 「お前が!拓海たちを追いかけようなんて言うから!」
「…黙れ」 絞り出した声は、自分でも驚くほど弱々しかった。 権力は、それを信じる者がいて初めて成り立つ。そして今、この森で、相沢の力を信じる者は、誰一人いなかった。
彼は、崩壊していく王国を背に、意を決して崖の下を覗き込んだ。 数メートル下。激しく流れ、泡立つ水の中に、見慣れたスニーカーの赤色が、明滅するように見え隠れしていた。 その先にあるはずの身体は、不自然な方向に折れ曲がり、まるで打ち捨てられた人形のようだった。
死。 テレビのニュースや、ゲームの中でしか触れたことのない、軽く、現実味のない言葉。 それが今、圧倒的な質量を持った事実として、相沢の喉元に突きつけられていた。
警察。学校。親。そして、鈴木拓也の両親。 積み上げてきた全てが、足元から崩れ落ちていく音がした。 ここは、教室じゃない。やり直しのきかない、現実だ。
雨が、少しだけ弱まる。 静寂が戻った森に、新たな音が響いた。 ぱきり、とすぐ近くの茂みで、太い枝が踏み折られる音。
全員が、凍りついたように音のした方角を振り返る。 彼らは、思い出した。 自分たちが、なぜ、あんなにも必死に走っていたのかを。
闇が濃くなり始めた森の奥から、低い、獣の唸り声が聞こえた。 それは、自分たちの縄張りで食事を邪魔され、そして新たな血の匂いを嗅ぎつけた、森の主の声だった。
その夜、拓海は夢を見た。 インクをぶちまけたような暗闇の中を、ただ一人で歩いている。 背後から、教室のざわめきが聞こえる。相沢の笑い声。自分を嘲る囁き。
逃げなければ。 そう思うのに、足が動かない。 やがて、背後の声は一つに溶け合い、低く、地の底から響くような獣の唸り声に変わっていく。
はっと目を覚ますと、そこはサンクチュアリの薄暗い部屋だった。 囲炉裏の火は消えかけ、他の子供たちの静かな寝息だけが聞こえる。 外は、まだ雨が降っているようだった。
隣で眠るケンジは、身じろぎ一つしない。 本当に眠っているのだろうか。あるいは、彼もまた、この暗闇の中で、何か別の獣の気配を聞いているのだろうか。 拓海は、毛皮を固く握りしめ、再び目を閉じた。
*
同じ闇の中、本物の獣に囲まれている者たちがいた。 相沢翔と、残された四人の生徒たち。 彼らは、沢を見下ろす岩陰で、身を寄せ合って動けなくなっていた。
「…行ったか?」 木村が、蚊の鳴くような声で囁く。 誰も答えられない。答えるための息さえ、惜しい。
闇に目が慣れてくると、絶望が形を持ち始める。 自分たちがいる場所は、三方を崖に囲まれた、行き止まりだった。 そして唯一の出口である森の側から、あの獣はじっと、こちらを窺っている。
それは、まるで巨大な猫が、弱った鼠をいたぶるようだった。 姿は見せない。 ただ、時折、岩を爪で引っ掻く、耳障りな音が響く。風に乗って、獣特有の、血と泥が混じった匂いが届く。
相沢は、歯の根が合わないほど震えていた。 教室での彼なら、こんな時、気の利いた冗談で周りを笑わせ、場を支配していただろう。 だが、ここでは、彼の言葉も、地位も、何の意味も持たない。
森の掟の中では、彼こそが最弱の存在だった。 獲物。ただ、それだけだ。 プライドが、音を立てて砕け散っていく。
「おい、相沢…なんとかしろよ…お前がリーダーなんだろ…」 隣にいた女子生徒が、懇願するように言った。 その声に、相沢は何も返せなかった。リーダーとは、進むべき道を示す者のことだ。そして今、彼らの前には、道などどこにもなかった。
その時だった。 恐怖に耐えきれなくなった一人が、叫び声を上げながら、スマートフォンのライトを闇へと向けた。 「あっちへ行けっ!」
「やめろ!」 相沢が叫んだが、遅かった。 闇を切り裂いた一筋の光が、数メートル先で、二つの点を爛々と光らせた。
光は、巨大な黒い毛皮の塊と、大きく開かれた口の、生々しいまでの赤色を映し出す。 次の瞬間、森全体が震えるほどの、凄まじい咆哮が放たれた。 それは、もはや警告ではなかった。狩りの始まりを告げる、鬨の声だった。
第二部:沈黙と亀裂
咆哮は、全ての音を喰らい尽くした。 雨音も、風の音も、恐怖に引き攣る自分たちの呼吸さえも。 ただ、絶対的な暴力の意志だけが、鼓膜を震わせ、脳を揺さぶる。
それが、相沢翔がこの世で聞いた、最後の音になるはずだった。
*
夜が明け、拓海は鳥の声で目を覚ました。 昨夜の悪夢の気配は、朝の冷たく澄んだ空気の中に消え去っていた。 囲炉裏には、すでに新しい火がおこされ、鉄鍋から湯気が立ち上っている。
安西は、まるで森の木の一本であるかのように、静かにそこに座っていた。 他の子供たちは、もう起きていた。彼らは言葉を交わすことなく、実践的で、効率的な動きで朝の支度をしている。 その姿は、家族というより、何かの規律に支配された、小さな兵隊のようだった。
朝食は、質素な味噌汁と少しのお粥だった。 食器がぶつかる音だけが響く、重苦しい沈黙。 誰も、昨夜ケンジが放った問いには触れなかった。まるで、そんなことは最初からなかったかのように。
食事が終わると、安西が立ち上がった。 「仕事だ」 その一言で、子供たちは一斉に行動を開始する。
「お前と…ユキは水汲みだ」 安西は、拓海と、昨夜隅で怯えていた少女を指名した。 「ケンジとリョウは、薪割り。今日のノルマは倍だ。雨で薪が湿っている」
リョウと呼ばれた、あの高校生の男が、無言で頷く。 ケンジが、一瞬だけ拓海の方を見て、すぐに視線を逸らした。 拓海は、ユキと名指された少女と共に、重い木桶を二つ、手渡された。
サンクチュアリの外れにある、澄んだ沢へ向かう道。 ユキは、拓海より数歩前を、黙って歩いている。背中が、何かを拒絶しているようだった。 拓海は、どう話しかけていいか分からず、ただ気まずい沈黙の中、彼女の後に続いた。
「…静かだね、ここは」 耐えきれず、拓海が絞り出した言葉は、ひどく凡庸に響いた。 ユキの足が、ぴたりと止まる。
彼女は、ゆっくりと振り返った。 その瞳には、昨夜の怯えとは違う、底なしの沼のような、深い諦めの色が浮かんでいた。 「静かすぎるよ」
少女の声は、ほとんど吐息のようだった。 「…声の、出し方。忘れちゃいそう」 そう言うと、彼女はすぐに背を向け、再び歩き始めた。
拓海の胸を、冷たい何かが通り過ぎていく。 そうだ、ここは静かすぎるのだ。あの教室の、悪意に満ちた喧騒とは違う。 魂が、ゆっくりと死んでいくような、墓場のような静けさだ。
帰り道、拓海は薪を割るケンジの姿を見かけた。 リョウが、見せつけるように力強く斧を振り下ろしている。 ケンジは、体格では劣るが、的確な動きで、黙々と自分の仕事を進めていた。
だが、彼の目は、ただ薪だけを見ているのではなかった。 サンクチュアリの地形、子供たちの動き、そして、遠くで森を眺めている安西の姿。 その全てを、まるで脳裏に焼き付けるかのように、彼は観察し、記録していた。
拓海は、桶の中の水面に映る自分の顔を見た。 憔悴し、見慣れない顔。 自分たちは、本当にここへ逃げてきて、正しかったのだろうか。
そして、ふと思う。 あの森に残してきた、もう一つの現実。 相沢たちは、今頃、どうしているのだろう。
拓海が、ありもしない楽園の夢と現実の狭間で揺れている頃。 本物の地獄の縁に立たされた者たちは、最後の瞬間を迎えていた。 咆哮は、宣戦布告だった。
闇が、動いた。 それは、黒い津波のようだった。相沢のすぐ隣にいた木村が、短い悲鳴を上げて弾き飛ばされる。 獣の圧倒的な質量。湿った毛皮の匂い。全てを薙ぎ払う、巨大な前脚の一撃。
相沢は、動けなかった。 恐怖で縫い付けられたように、その場から一歩も動けない。 教室の王も、森の神の前では、ただの無力な餌に過ぎなかった。
片喰は、倒れた木村に乗りかかろうと、その巨大な頭を巡らせる。 全てが、終わる。 相沢が、固く目を瞑った、その時だった。
空が、裂けた。 凄まじい轟音と共に、夜の闇が、真昼のように白い光で満たされる。 天から降り注ぐ光と音。それは、森の掟の外側から来た、理不尽なまでの介入だった。
捜索隊のヘリコプターだった。 けたたましいローター音と、地上を舐めるように動くサーチライトの光。 さすがの片喰も、この未知の襲来に怯んだように動きを止め、威嚇するように咆哮を返した。
だが、空の獣は怯まない。 光は、岩陰で震える少年少女の姿を、そして、その傍らで蠢く巨大な黒い影を、はっきりと捉えていた。 「生存者発見!熊と接触!」 拡声器を通した、緊張をはらんだ声が、谷間に響き渡る。
片喰は、忌々しげにもう一度咆哮すると、諦めたように身を翻し、あっという間に闇の中へと消えていった。 後に残されたのは、破壊されたキャンプ用品と、腕を抑えて呻く木村。 そして、言葉を失った四人の生存者。
すぐに、オレンジ色の制服を着た男たちが、木々の間から現れた。 埼玉県警山岳警備隊。 彼らの冷静で、無駄のない動きは、この悪夢のような空間に、無理やり「日常」の秩序を取り戻そうとしているかのようだった。
山麓に設置された対策本部は、戦場のような喧騒に包まれていた。 救急車のサイレン。報道陣のフラッシュ。怒号と、泣き声。 相沢は、毛布にくるまりながら、ただ呆然と、その光景を見ていた。
「…一名は、滑落による死亡。鈴木拓也くん」 「一名は熊による重傷…木村くんはドクターヘリで」 遠くで、大人たちの会話が聞こえる。
「しかし、あと二人の行方が依然として…広瀬拓海くんと、井上健司くん…」 その名を聞いた瞬間、相沢の脳裏で、森の闇と、教室の風景が、ぐらりと混じり合った。 獣から、逃げることはできた。
だが、自分たちが作り出した、もう一匹の獣からは。 そして、鈴木拓也を殺した、という紛れもない事実からは。 決して、逃れることはできないのだと、相沢は悟った。
佐倉が罪の意識に打ちのめされている頃、サンクチュアリでは、歪んだ平穏が続いていた。 拓海とケンジが来てから、三日が過ぎた。 水汲み、薪割り、食料の採集。決められた労働をこなすだけの、色のない毎日。
拓海は、少しずつこの生活に順応し始めていた。 あの教室の、息の詰まるような人間関係はない。誰も彼を嘲笑しない。 ただ、静かすぎるだけだ。まるで、感情までが森の深い静寂に吸い取られていくようだった。
その均衡が破られたのは、四日目の昼過ぎだった。 数時間ぶりに、森の見回りから戻った安西の顔が、いつもと違っていた。 その表情は、硬く、そしてどこか壊れそうなほどに脆く見えた。
「全員、広間に集まれ」 低い声に、子供たちの間に緊張が走る。 安西は、濡れた背嚢から、泥のついたビニール袋を取り出した。
中から出てきたのは、雨に濡れてふやけた、一冊の新聞だった。 この場所では禁忌のはずの、外の世界の異物。 テーブルの上に広げられたその紙面に、拓海は見覚えのある顔写真が並んでいるのを見た。
自分の顔。相沢の顔。そして、鈴木拓也の、少しはにかんだような笑顔。 見出しの、黒く、大きな活字が目に飛び込んでくる。 『奥秩父中学生遭難、死者1名、重傷1名。依然2名が行方不明』
安西は、その記事を、まるで聖書でも読むかのように、淡々と、一語一語、読み上げ始めた。 発見時の状況。救助された生徒たちの名前。 そして、鈴木拓也の死因が、沢への滑落によるものだと告げられた時。
隅にいた少女、ユキが、ひっと息を飲む音が聞こえた。 拓海の頭の中で、何かがぷつりと切れた。 血の気が引き、耳鳴りが世界を支配する。
俺のせいだ。 俺たちが、逃げなければ。相沢たちが、俺たちを追いかけてくることもなかった。 そしたら、鈴木が死ぬことも、なかったんだ。
激しい罪悪感の渦に飲み込まれそうになりながら、拓海は、隣にいるはずのケンジに、救いを求めるように視線を向けた。 そして、その表情を見て、凍りついた。 ケンジは、悲しんでも、驚いてもいなかった。
彼は、ただ、見ていた。 罪悪感に顔を歪める拓海を。 安西の、苦悶に満ちた横顔を。 怯えるユキや、他の子供たちの反応を。
その瞳は、友人の死を知った人間のそれではない。 実験の結果を観察する、科学者のように、冷たく、澄み切っていた。 なぜだ。なぜ、お前は、そんな顔ができるんだ。
拓海の心に、疑念という名の、小さな亀裂が入る。 その時、記事を読み終えた安西が、くしゃりと新聞を握り潰した。 その顔は、絶望に染まっていた。
「…まただ」 絞り出すような、呻き声。 「また、守れなかった…。すまない、タカシ…」
タカシ。 それは、ここにいる誰も知らない名前だった。 安西が、死んだ我が子の幻影に向かって呟いた、贖罪の言葉。
その言葉を聞いたケンジの表情が、ほんの一瞬、氷のような無表情から、何か別のものに変わったのを、拓海は見逃さなかった。 それは、憎しみか、憐れみか。 あるいは、完璧な計画が、最終段階に入ったことを確信した、演出家の、静かな満足だったのかもしれない。
サンクチュアリの歪んだ日常が、軋みを上げながらも続いていた頃。 外界では、巨大な機械が、その歯車を逆回転させ始めていた。 広瀬拓海と井上健司を、「被害者」から「重要参考人」へと作り変えるための、冷徹な機械が。
*
奥秩父の山麓に設置された捜索対策本部は、もはや遭難者の家族がすがりつく場所ではなかった。 そこは、埼玉県警捜査一課が統轄する、事件の最前線基地へとその姿を変えていた。 相沢翔たちが救助されてから、五日が経過していた。
ベテラン刑事の佐藤は、ぬかるんだ地面に広げられた巨大な地図を睨みつけていた。 赤と青のペンで、捜索済みのエリアと、可能性のあるルートが無数に書き込まれている。 それは、まるで巨大な獣の、血管と神経の解剖図のようだった。
「佐藤さん!」 若い分析官が、興奮した様子で駆け寄ってきた。 「例の井上健司の件ですが…過去の記録を洗っていて、奇妙な一致が」
分析官が差し出したタブレットには、数年前、2020年10月の、古い事故報告書が表示されていた。 「同じ中学校の生徒が、同じ山域で滑落死。当時の担任は…偶然にも、佐倉誠。そして…」 佐藤は、報告書の文字を、息を飲んで追った。
死亡した生徒の父親の名は、安西幹夫。 職業、動物行動学者。 その名前は、この地域で熊の調査をしている変わり者として、佐藤の記憶にも残っていた。
同じ学校。同じ教師。同じ森。 偶然にしては、出来すぎている。 パズルのピースが、音を立ててはまっていく。
「そして、これが決定的です」 分析官が、別の画面を指差した。それは、家族関係を示すものだった。 「安西幹夫の死亡した長男。その弟が――井上健司です。母親の旧姓を名乗っています」
テントの中の喧騒が、遠のいた。 佐藤の頭の中で、全ての点が、一本の赤い線で繋がった。 これは、遭難事故でも、家出でもない。
復讐だ。 数年前に兄を殺された少年が、同じ舞台、同じ配役を揃えて作り上げた、壮大な復讐劇。 拓海も、相沢も、そして父である安西さえも、彼の脚本の上で踊る駒に過ぎなかったのだ。
「…そういうことか」 佐藤は、壁の井上健司の写真を睨みつけた。 あの、全てを見透かすような静かな瞳。あれは、子供の目ではなかった。
「目標は、安西幹夫だ」 佐藤の声に、周りの捜査員たちが一斉に顔を上げる。 「彼の研究論文、過去のフィールドワークの記録を全部洗え!奴が拠点にしそうな、この山域の廃村を特定するんだ!」
分析官が、凄まじい勢いでキーボードを叩き始める。 数分後、彼は顔を上げた。 「ありました…。『岳集落跡』。安西のかつての論文に、この付近の熊の生態調査の記述が、集中しています」
佐藤は、地図上の、最もアクセスの悪い一点を、指で強く叩いた。 そこが、聖域の在り処。 彼は、無線機を掴んだ。
「山岳警備隊隊長、聞こえるか」 ノイズ混じりの応答。 「ターゲットを再設定する。目標は、岳集落跡。生存者の保護を最優先とする」
そこで、佐藤は一度、言葉を切った。 「ただし…相手は、ただの子供じゃないかもしれん。最大限の警戒を」 沈黙の聖域を破る、最後の槌音が、静かに振り下ろされた。
拓海が、友人の仮面を被った支配者の下で、静かな絶望に囚われていた頃。 外の世界では、巨大な包囲網が、その最終的な形を完成させようとしていた。 全ての始まりとなった、一つの「死」の真相が、数年の時を経て、暴かれようとしていたのだ。
*
その日、拓海は意を決してケンジを探した。 あの日以来、二人の間には、目に見えない、ガラスのような壁ができていた。 ケンジは、拓海の罪悪感にも、他の子供たちの動揺にも、一切関心を示さなかった。
彼は、ただ、記録していた。 サンクチュアリの地形、子供たちの力関係、そして、時折、森の奥を見つめて何かに耽る、安西の姿。 その全てを、小さな防水メモ帳に、暗号のような文字で書き留めていた。
拓海は、薪小屋の後ろで、一人で何かを考えているケンジを見つけた。 「ケンジ」 声をかけると、ケンジはゆっくりと顔を上げた。その目は、いつもと同じ、何も映していない湖面だった。
「お前、鈴木が死んだって聞いた時、なんで平気だったんだ?」 単刀直入な問いに、ケンジは少しだけ眉を動かした。 「平気じゃないさ。ただ、悲しんで、何かが変わるのか?事実は事実だ」
その理路整然とした、あまりに大人びた答えに、拓海は苛立ちを覚えた。 「事実?じゃあ、これも事実か?合言葉のこと、安西さんのこと、この場所のこと…お前は、最初から、詳しすぎた」 拓海は、一歩前に出た。
「お前は、最初から全部、知ってたんじゃないのか」 問い詰める拓海の顔を、ケンジは、まるで珍しい昆虫でも見るかのように眺めている。 やがて、その唇に、うっすらとした笑みが浮かんだ。
それは、拓海が今まで見たことのない、侮蔑と、そして憐れみが入り混じったような、奇妙な笑みだった。 「拓海」 ケンジの声は、どこまでも優しかった。それが、逆に拓海を追い詰める。
「僕たちは、逃げたんだ。あの地獄から。君は、またあそこに戻りたいのか?」 それは、問いかけの形をした、脅迫だった。 お前には、もう、帰る場所なんかないんだぞ、と。
「僕を疑うのか?君を、あの場所から救い出した、唯一の人間を?」 違う、と拓海は叫びたかった。お前は、俺を救ったんじゃない。 俺の絶望を、利用しただけじゃないのか。
だが、言葉は出なかった。 ケンジの言う通りだった。彼がいなければ、自分は今頃、あの教室で心を殺され続けていたか、あるいは。 そこまで考えて、拓海はぞっとした。
「ここにいる限り、僕たちは安全だ」 ケンジは、拓海の肩に、ぽんと軽く手を置いた。 「僕を信じていれば、それでいい」
その手は、氷のように冷たかった。 拓海は、もう何も言えなかった。 目の前にいるのは、もはや、自分の知っている井上健司ではなかった。
友人の仮面を被った、全く別の、何か。 自分は、あの教室の檻から逃げ出した結果、この男が作り出した、より巧妙で、抜け出すことのできない檻に、囚われてしまったのだ。 拓海は、初めて、本当の孤独の意味を知った。
第三部:真実と選択
刑事・佐藤が、包囲網を完成させるべく最後の一手を打った、その翌朝。 サンクチュアリの空気は、張り詰めた弦のように、いつ切れてもおかしくない緊張に満ちていた。 拓海とケンジの間には、もはや言葉はなかった。
拓海は、ただ黙々と、安西に命じられた仕事をこなしていた。 だが、その意識は、常にケンジの動きを追っている。 友人の仮面を被った、あの冷徹な観察者を。
ケンジは、いつもと変わらなかった。 他の子供たちの動揺も、拓海の猜疑心に満ちた視線も、まるで意に介さない。 彼はただ、この歪んだ楽園の、最後の一日を慈しむかのように、静かに森を眺めている。
その、静寂を破るものが、空から来た。 最初は、風の音かと思った。だが、それは、次第に大きくなる、規則的で、無機質な羽音だった。 ヘリコプターのローター音。
子供たちが、一斉に作業の手を止め、空を見上げる。 木々の隙間から、黒い機影が旋回しているのが見えた。 安西が、厳しい顔で母屋から飛び出してきた。
「全員、中に入れ!早くしろ!」 安西の怒号に、子供たちは怯えながら母屋へと駆け込む。 ローター音は、今や、耳を聾するほどの轟音となって、廃村全体に降り注いでいた。
そして、地上からも、異変が始まった。 遠くで、犬の吠える声がする。森の獣ではない、訓練された警察犬の、鋭い声だ。 やがて、拡声器を通した、機械的な音声が、山肌にこだました。
「―――こちらは埼玉県警!この建物は、完全に包囲されている!」 拓海は、窓の隙間から外を見た。 木々の間に、オレンジ色や紺色の、無数の人影が蠢いている。山岳警備隊と、機動隊員。
「中にいる者は、武器を捨て、両手を上げて出てきなさい!繰り返す!」 武器。 その言葉の、あまりの場違いさに、拓海は乾いた笑いを漏らしそうになった。 ここにいるのは、ただ、社会から逃げ出した、無力な子供たちだけだ。
子供たちの間に、パニックが広がる。 ユキは泣き崩れ、年長の少年リョウは、絶望的な顔で薪を握りしめている。 安西は、全てを諦めたように、静かに目を閉じた。
その中で、ただ一人。 ケンジだけが、いつもと同じ、静かな瞳で、窓の外を見ていた。 その唇の端に、ほんのわずかな、満足の色が浮かんでいるのを、拓海は見逃さなかった。
ああ、そうか。 これが、お前の望んだ結末なのか。 拓海は、全てを悟った。
ケンジが、ゆっくりと拓海の方を向いた。 その目は、こう言っているようだった。 「さあ、最終幕の始まりだ」と。
バタン、と大きな音を立てて、母屋の扉が蹴破られた。 武装した隊員たちが、次々となだれ込んでくる。 沈黙の聖域が、暴力的な現実によって、完全に破壊された瞬間だった。
突入してきた隊員たちの動きには、一切の無駄がなかった。 子供たちの叫び声も、リョウの虚勢も、彼らの前では意味をなさない。 それは、日常というシステムが、その圧倒的な力で、非日常の抵抗を鎮圧する光景だった。
子供たちは、泣き叫ぶ者、呆然と立ち尽くす者、様々だった。 だが、安西は、抵抗しなかった。 彼は、ただ静かに立ち上がると、自ら腕を差し出した。まるで、この瞬間が来ることを、ずっと前から知っていたかのように。
隊員の一人が、安西の手に無機質な手錠をかける。 その光景を、リョウが信じられないといった顔で見ていた。 神が、聖域が、いとも容易く蹂躙されていく。
やがて、テントの中から、一人の男が静かに入ってきた。刑事の佐藤だった。 彼の目は、手錠をかけられた安西ではなく、子供たちの輪の中にいる、ある一点に向けられていた。 佐藤は、まっすぐにケンジの前まで歩いていく。
「井上健司くん」 佐藤の声は、不思議なほど穏やかだった。 「…いや、安西健司くん、と言うべきかな」
その場にいた、拓海以外の全員が、息を飲んだ。 安西と、ケンジ。繋がるはずのない二つの名前。 手錠をかけられた安西が、苦悶の表情で、息子の方を振り返った。
「君のお兄さんの事件…もう一度、調べさせてもらったよ」 佐藤は、続ける。 「全て、君の計画通りだったというわけだ」
ケンジは、何も答えなかった。 否定も、肯定もしない。ただ、その静かな瞳で、刑事を見つめ返している。 それが、何より雄弁な答えだった。
ああ、と拓海は思った。 やはり、そうだったのか。 友情も、救済も、何もかもが、この壮大な復讐劇のための、ただの舞台装置だったのだ。
隊員たちが、子供たちを一人ずつ保護し、外へと連れ出していく。 混乱の中、一人の隊員が無線で報告しているのが聞こえた。 「保護したのは子供6名、成人男性1名。これで全員か?」
その言葉に、拓海は、はっとした。 違う。 全員じゃない。
警察は、行方不明の8人が、全員ここにいると思い込んでいる。 拓海とケンジが失踪し、その後に遭難した相沢たち。二つの事件が、一つだと誤解されているのだ。 まだ、森の奥深くには、瀕死の相沢翔が、たった一人で。
言わなければ。 言わなければ、相沢は、死ぬ。 だが、なぜ、俺が。俺を、地獄に突き落としたあいつを、この手で。
拓海は、唇を噛み締めた。 隣では、ケンジが、全てを終えた脚本家のような、静かな顔で立っている。 彼にとって、相沢の生死など、もはや物語のエピローグに過ぎないのだろう。
だが、拓海にとっては違った。 これは、彼の物語だ。そして、最後の選択は、他の誰でもない、自分自身に委ねられている。 救うのか、見捨てるのか。聖域が崩壊した今、本当の審判が、始まろうとしていた。
「待って!」 拓海は、隊員の腕を振り払って叫んだ。 そして、全ての元凶である、ケンジの方へ向き直る。 「まだだ!まだ、終わってない!」
ケンジの目が、初めて、あの冷たい平静さを失った。 脚本にないセリフを叫び始めた、役者を見るような目。 「拓海、何を…」
「貸せ!」 拓海は、ケンジが背負っていたザックのサイドポケットに、手を突っ込んだ。 そこにあるはずだ。万が一のための「保険」だと、ケンジが言っていた、最後の切り札が。 指先が、硬いアンテナに触れた。
小型の無線機。 それをひったくるように掴み取ると、拓海は、震える指でスイッチを入れた。 激しいノイズ。
「まだいる!森の中に、もう一人!」 拓海は、叫んだ。嗄れた、喉が張り裂けそうな声で。 「相沢が!相沢翔が、まだ、沢の近くに!」
その場にいた全員が、拓海を見た。 刑事の佐藤、隊員たち、そして、手錠をかけられ、連行されようとしていた、安西も。 ケンジの顔からは、完全に表情が消え失せていた。彼の完璧な世界が、音を立てて崩れていく。
「場所はどこだ!少年!」 佐藤が、拓海の肩を掴む。 「分からない!でも、鹿の死骸があった、その先の…」 情報が、あまりに曖昧すぎる。この広い森で、それだけでは。
その時だった。 「…タカシ」 安西が、何かを呟いた。 彼は、絶望に満ちた顔で息子ケンジを一瞥し、そして、次に、信じられないものを見るような目で、拓海を見た。
その目に、一瞬だけ、父親の顔が戻っていた。 「君の選択を、無駄にはしない」 そう言うと、安西は、夜の森に向かって、甲高い、鳥の鳴き真似のような口笛を、鋭く響かせた。
それは、ただの口笛ではなかった。 この森の主、「片喰」の縄張りを侵す、明確な挑発の音。 「おい、何をする!」 隊員が制止するより早く、安西は彼らを振り払い、闇の中へと駆け出した。
「こっちだ!」 安西は叫んだ。 「俺が、いるのは、こっちだぞ!」 その声に応えるように、森の奥深くから、地を揺るがす、怒りに満ちた咆哮が響き渡った。
拓海は、見た。 偽物の聖域を作った男が、一人の少年の、たった一つの正しい選択を守るため、本物の神の怒りの中へと、その身を投じていくのを。 それが、安西幹夫の、最後の「救済」だった。
エピローグ:沈黙のあと
あれから、三ヶ月が過ぎた。 世界は、まるで何事もなかったかのように、いつもと同じ速度で回り続けている。 ただ、いくつかの歯車は、あの事件を境に、狂ってしまったか、あるいは、ようやく正常に回り始めた。
ケンジが準備していた告発サイト、『クロニクル(記録者)』は、彼が山を下りて電波を拾った瞬間に、世界へと解き放たれた。 そこに記録されていたのは、生の、編集されていない真実だった。 教室で行われていた陰湿ないじめの動画。遭難した森での、醜い責任のなすりつけ合い。そして、安西の、亡き息子への悲痛な告白。
社会は、熱狂した。 テレビは連日この事件の特集を組み、専門家たちが、それぞれの正義を語った。 学校の管理責任が問われ、校長は辞任した。相沢たちの親は、好奇の目に晒され、この街に住めなくなった。
安西は、公務執行妨害と未成年者誘拐の罪で裁かれた。 熊に襲われた彼の身体は、もはや元には戻らなかったが、法廷での彼の表情は、サンクチュアリで見たどの顔よりも、穏やかだったという。
そして、ケンジは、姿を消した。 完璧な復讐を成し遂げた彼は、多くのものを破壊し、そして、何も手に入れることなく、どこかへ去っていった。 正義の英雄か、冷酷な怪物か。その評価は、今もネットの海を漂っている。
そして、今日。 拓海は、三ヶ月ぶりに、あの教室の前に立っていた。 ドア一枚を隔てた向こう側は、かつて、彼の世界の全てだった、息の詰まる檻。
もう、恐怖はなかった。 森の闇と、獣の咆哮、そして友人の裏切りを乗り越えた今、教室の悪意は、ひどくちっぽけなものに感じられた。 聖域(サンクチュアリ)なんて、どこにもないのだと、彼は知った。
逃げる場所じゃない。 ここで、戦うしかないのだ。 拓海は、ゆっくりと息を吸い込むと、ドアに手をかけ、横に引いた。
がらり、と乾いた音が響く。 一瞬にして、クラスの全ての視線が、拓海一人に突き刺さる。 それは、かつて彼が浴びていた、無関心や嘲笑の視線ではなかった。畏怖と、戸惑いと、好奇心。
拓海は、その視線を、一つ一つ受け止めた。 そして、教室の奥、窓際の席に、それを見つけた。 車椅子。
そこに、相沢翔が座っていた。 かつての王の面影はなく、ただ、痩せて、力の抜けた少年が、窓の外を眺めている。 視線に気づいたのか、相沢が、ゆっくりとこちらを向いた。
二人の視線が、音のない空間で、交錯する。 憎しみでも、同情でもない。 あまりにも多くのものを内包した、長い、長い一瞥。
やがて、拓海は視線を外し、自分の空席へと、まっすぐに歩き始めた。 もう、俯くことはなかった。 彼の戦いは、まだ、始まったばかりだった。



































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