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『夜明けを殺した男』

ただ一人の男が死んだのではない。日本の夜明けが、殺されたのだ。 夫の妻と、仇の女。対極の二人が辿り着く、時代の非情なる真相。


あらすじ

幕末の英雄、坂本龍馬、暗殺さる──。 遠い下関の地で夫の非業の死を知らされた妻・お龍は、悲嘆に暮れる中、龍馬の遺品から奇妙なものを見つける。意図的に真二つに割られた「鍔の欠片」と、ただ一言「桔梗」と記された謎の覚書。

夫が最後に遺した唯一の手がかりを胸に、お龍は危険渦巻く冬の京都へと向かう。 彼女が辿り着いたのは、祇園でその名を知られる芸妓・桔梗。そして彼女は、龍馬暗殺の実行犯と噂される「新選組」と深い繋がりを持つ女だった。

夫の仇と信じる組織の女に、お龍は憎しみをぶつける。しかし、氷のような貌で全てを否定する桔梗もまた、事件の裏で何かを探っているようだった。

公式に語られる「真相」に、それぞれが抱く違和感。見えざる手によって、時代そのものが操られているのではないかという疑念。敵対するはずの二人の女は、やがて京の深い闇の中心で、運命的に交錯していく。

本当の敵は誰なのか。時代の夜明けを殺したのは、一体誰なのか。 憎しみ合う二人の女による、命を懸けた真実への追跡が、今、始まる。

登場人物紹介

  • 楢崎 龍(ならさき りょう) 坂本龍馬の妻。明朗快活な性格の裏に、物事の本質を見抜く聡明さと、一度決めたことを貫き通す胆力を秘めている。夫の死の真相を突き止めるため、ただ一人、京の巨大な陰謀に立ち向かう。
  • 桔梗(ききょう) 祇園で名高い芸妓。常に冷静沈着で、能面のように本心を窺わせない謎多き女。新選組と密接な繋がりを持ち、特に隊士である沖田総司とは、ただならぬ関係にあることが示唆される。
  • 沖田 総司(おきた そうじ) 新選組一番隊組長。当代きっての天才剣士と謳われるが、不治の病に体を蝕まれ、現在は療養の日々を送る。時代の喧騒から離れた場所にありながら、その存在は物語の核心に深く関わっている。

第一章『凶報と欠片』

慶応三年、冬。 下関の空気は、京の都で吹き荒れる時代の嵐が嘘であるかのように、凪いでいた。 楢崎龍は、潮の香りが満ちる部屋で、遠い海を見つめていた。あの人が、帰ってくる。その知らせだけを、日々、息を詰めて待っていた。

「龍さん、龍さん!」 坂を転がるように駆け込んできた使いの者の声が、その静寂を破った。 埃と汗にまみれ、肩で息をする男の顔から血の気が引いているのを見て、龍の胸が氷の塊で打たれたようにどきりと鳴った。

嫌な予感がした。聞きたくない、と全身が叫び、耳を塞ごうとする。 男は畳に額をこすりつけ、震える声で言葉を絞り出した。 「坂本様が……京の、近江屋で……斬られ、ました」

龍の手から、湯呑みが滑り落ちた。ぱりん、と乾いた音が、やけに大きく部屋に響く。 その音を最後に、世界の音が、遠ざかっていく。 嘘だ。あの人が、こんな所で終わるはずがない。日本の夜明けを見ずして、死ぬはずがないのだ。

数日後、龍の元に、京の同志が届けた龍馬の遺品が届いた。 馴染みのある紋付羽織、墨の匂いが残る書きかけの手紙。その一つ一つが、あの人の不在という、あまりに過酷な現実を突きつけてくる。 その中に、見慣れぬ小さな桐箱があることに、龍は気づいた。

そっと蓋を開ける。絹の布に包まれていたのは、息を呑むほど美しい細工が施された、鍔の半身だった。 まるで、鋭利な何かで意図的に叩き割られたかのように、武士の魂は無残に砕かれていた。 龍の知る、龍馬のどの刀にも当てはまらない。謎の欠片だった。

その鍔の欠片には、夫の筆跡で書かれた小さな紙が添えられていた。 そこに記されていたのは、ただ一言。

「桔梗」

巷に流れる噂は、風だ。新選組が、見廻組が、と誰もが勝手な物語を口にする。 けれど、この冷たい鉄の塊だけが、夫が遺した最後の真実。 龍は、砕かれた魂の半身を、爪が食い込むほど強く握りしめた。

この欠片が導く先に、答えがある。 夫が、その魂の半身を託そうとした相手は誰なのか。 そして、なぜ、夫は殺されなければならなかったのか。

龍の瞳から、涙は消えていた。 そこにあるのは、京の闇を引き裂いてでも真実を掴み取ろうとする、鋼のような決意だけだった。

第二章『死都への旅路』

下関を発つ龍を、引き留める者はいなかった。 いや、誰もがその瞳に宿る、静かな炎を見て、声をかけることすらできなかったのだ。 それは、悲しみの淵から立ち上がった者が放つ、死地へ向かう覚悟の光だった。

旅支度は、すぐに済んだ。 懐には、母から譲られた懐剣と、桐箱に納めた鍔の欠片。 夫が遺した魂の半身が、冷たい重みで彼女の心臓に寄り添い、覚悟を問うていた。

道中は、冬の寒さが骨身に沁みた。 すれ違う誰もが、幕府だ、薩摩だ、と声を潜めて時勢を語っている。 あの人の死が、時代の歯車を狂ったように加速させているのを、龍は肌で感じていた。

龍の脳裏に浮かぶのは、夫の屈託のない笑顔と、そして謎の女「桔梗」の貌。 なぜ、夫は魂の半身を、仇敵であるはずの新選組と通じる女に繋がる形で遺したのか。 愛した男への疑念にも似た苦しみが、龍の心を焼いていた。

数日後、龍は京の入り口に立った。 かつて夫と共に歩いたはずの都は、そこにはなかった。 辻々には物々しい見張りが立ち、人々の顔からは色が消え、まるで街全体が息を潜めているかのようだ。

坂本龍馬という巨大な歯車を失った京は、ただ死の匂いだけが立ち込める、冷たい石の迷宮へと姿を変えていた。 龍は、懐の桐箱を強く握る。 この死都のどこかに、答えがある。 彼女は、迷いなく闇の中心へと足を踏み入れた。

第三章『氷の壁』

京の闇には、闇の流儀がある。 龍は夫の知人を頼り、一人の情報屋に辿り着いた。 淀んだ眼をした男は、金を受け取ると、煙管をくゆらせながら重い口を開いた。

「桔梗、ねぇ…。祇園で今、最も名高い芸妓(げいこ)だ。あの女に会うのは構わねぇが、一つ忠告しとく」 「あの女の背後には、壬生の狼ども……新選組がついてる。下手に嗅ぎ回って、命を落とすなよ」

情報屋の忠告を背に、龍は祇園のお茶屋へと向かった。 華やかな提灯の灯りが、彼女の硬い表情を照らし出す。 案内された一室で待っていると、りん、と涼やかな鈴の音がして、静かに襖が開かれた。

そこに立っていたのは、紫紺の着物に身を包んだ、人形のように美しい女だった。 一分の隙もなく結い上げられた髪、憂いを帯びた切れ長の瞳、血の気のない白い肌。 まるで能面のように感情を消した女は、値踏みするような視線を龍に送り、「桔梗、と申します」とだけ言った。

龍は、挨拶もそこそこに、懐から桐箱を取り出した。 桔梗の前に、ことりと置く。 「単刀直入に伺います。この『鍔の欠片』に、見覚えはありませんか」

桔梗の視線が、鍔の欠片に落ちた瞬間。 ほんの一瞬、その瞳が氷のように凍りついたのを、龍は見逃さなかった。 動揺は、それだけ。すぐに彼女は完璧な無表情に戻っていた。

「……人違いではございませんか」 声は、冬の夜気のように冷え冷えとしていた。 「そのようなもの、わたくしは一切存じませぬ」

その過剰なまでの拒絶は、肯定よりも雄弁に真実を語っていた。 この女は、知っている。夫と、この鍔の秘密の全てを。 だが、その唇をこじ開けることは、不可能に近いだろう。

「そうですか。お見知りおきを」 龍は短く告げると、桐箱を懐に戻し、立ち上がった。 これ以上の問答は無意味だ。

お茶屋を出た龍の背中に、桔梗の氷の視線が突き刺さっていた。 龍は、凍えるような悪寒と、同時に奇妙な高揚感を覚えていた。 あの分厚い氷の壁を、必ず打ち砕いてみせる。 京の冷たい夜空に、龍は静かに誓った。

第四章『壬生の狼』

楢崎龍が去った後も、桔梗はその場から一歩も動けずにいた。 指先が、氷のように冷たい。あの女が突きつけてきた、鍔の欠片の冷たさだ。 沖田が命よりも大事にする、あの魂の半身。なぜ、坂本龍馬が片割れを持っていたのか。

あの女は、ただの女ではない。 夫の死の謎を喰らい、どこまでも喰らい尽くすまで止まらぬ、獣の瞳をしていた。 このままでは、沖田の秘密が、あの静かな時間が、全て暴かれてしまう。

桔梗は、夜の祇園を抜け、屯所のある壬生村へと急いだ。 荒々しい剣士たちの気配が満ちるその場所は、彼女のような女が来るところではない。 しかし、彼女の顔を知らぬ者はいなかった。沖田総司の女、として。

彼女が向かったのは、隊の動向が全て記されている「巡察記録」が保管されている一室だった。 目的は一つ。坂本龍馬が殺された、十一月十五日の夜の記録。 蝋燭の灯りを頼りに、墨で書かれた文字を、彼女は必死に目で追った。

記録には、その夜、市中で不穏な動きがあり、多くの隊士がそちらへ割かれていたと記されている。 近江屋のある河原町一帯は、手薄だった。 あまりに、都合が良すぎる。

桔梗は、自身の情報網を使い、その「不穏な動き」の正体を探った。 答えは、すぐに出た。 そんな騒ぎ、どこにも起きてなどいなかったのだ。

つまり、新選組は偽の情報によって、意図的に現場から引き離されていた。 誰かが、龍馬を殺すために。 そして、その罪を新選組に着せるために。

桔梗の背筋を、冷たい汗が伝う。 敵は、想像していたよりもずっと狡猾で、巨大な存在だ。 これは、沖田個人を守るだけの話ではない。

壬生の狼と呼ばれ、恐れられるこの組織そのものが、見えざる手のひらの上で踊らされていたのだ。 桔梗は、記録を静かに閉じ、決意を新たにした。 あの女よりも先に、真実に辿り着かねばならない、と。

第五章『見えざる敵』

桔梗という氷の壁に跳ね返された龍は、独り、思考を巡らせていた。 あの女が隠す秘密と、夫の死は間違いなく繋がっている。 だが、闇雲にあの女を追うだけでは、何も掴めはしないだろう。

視点を変える必要があった。 「桔梗」という個人的な謎ではなく、夫・坂本龍馬が「なぜ」殺されたのか、という大きな視点から。 龍は、夫が頼りにしていた土佐藩邸へと向かった。

藩邸の空気は、重く張り詰めていた。 龍馬の妻である龍の訪問は、歓迎されざるものであった。 彼は土佐藩にとって、英雄であると同時に、藩を飛び出した厄介者でもあったのだ。

応対に出た重役は、警戒心を隠そうともせず、言葉少なに対応した。 龍が、夫が死の直前に誰を警戒していたか尋ねると、男は辺りを憚るように声を潜めた。 「坂本様が、本当に恐れておられたのは、壬生の狼ではありませぬ」

男は続けた。 「狼どもは、ただ吠え、ただ噛みつくだけ。坂本様が警戒しておられたのは……もっと巨大な、見えざる敵でした」 その言葉に、龍は息を呑んだ。

男が語ったのは、衝撃の事実だった。 大政奉還が成り、戦のない世を作ろうと奔走していた龍馬。 しかし、その平和路線を快く思わぬ者たちがいたのだという。

「西郷(さいごう)さあの考えていることが、わからん……」 夫は、そう漏らしていたという。 「あの人は、戦がしたいのかもしれん。我らが作ったこの流れを、全て壊してでも……」

薩摩藩。 夫が、薩長同盟という奇跡の立役者として、手を取り合ったはずの盟友。 龍の頭を、金槌で殴られたような衝撃が襲った。

憎むべき敵は、分かりやすい顔をして牙を剥く新選組ではなかったのか。 本当の敵は、味方の顔をして、背後から忍び寄るものなのか。 龍が追うべき闇は、想像を絶するほど深く、そして巨大だった。

土佐藩邸を出た龍の足取りは、重かった。 京の空は、分厚い雲に覆われ、まるで底なしの沼のように、どこまでも暗く淀んでいた。

第六章『薄れゆく光』

桔梗は、京の外れにある静かな療養所を訪れていた。 新選組の屯所を離れ、沖田総司が身を寄せる場所だ。 あの血と鉄の匂いが満ちる場所は、彼の命を蝕む病には毒だった。

「来たのか」 布団の上に半身を起こした沖田は、咳を一つこぼし、穏やかに笑った。 かつて京の街を震撼させた天才剣士の面影はなく、その頬はこけ、肌は陽の光を知らぬ雪のように白い。 しかし、その瞳の奥には、今も鋭い光が宿っていた。

「騒がしいのだろう、京の街は」 沖田の問いに、桔梗は静かに頷いた。 坂本龍馬の死、そしてその犯人として囁かれる新選組の名。 そのことを、沖田はとうに知っていた。

桔梗は、お龍が持っていた「鍔の欠片」のことは伏せたまま、尋ねた。 「沖田さん。あなたがた新選組は、本当に坂本龍馬を?」 問いの答えを、彼女はもう知っていた。だが、確かめたかった。

沖田は、静かに首を横に振った。 そして、熱に浮かされたように、遠い目をして呟いた。 「俺たちが斬ったのは、本当に敵だったのかな…」

それは、三年前の池田屋事件を指していた。 新選組の名を天下に轟かせた、あの血の夜。 「あの夜、あまりに都合が良すぎた。まるで、誰かが書いた筋書きの上で、俺たちも長州の連中も、ただ踊らされていたような……そんな気が、今でもするんだ」

沖田は、激しく咳き込んだ。桔梗が慌ててその背をさする。 息を整えた沖田は、絞り出すように言った。 「その筋書きを書いていたのが、誰なのか……」

「俺は、見たんだ。池田屋の騒ぎを、遠くから眺めていた男がいた。満足そうに、にやりと笑っていた」 「どこの者かは分からない。ただ、その男が差していた刀の鞘には……薩摩藩の紋が、入っていた」

桔梗の時が、止まった。 薩摩。楢崎龍が追う龍馬の盟友。そして、新選組を駒として操っていた、見えざる敵。 全ての点が、今、恐ろしい一つの線で繋がった。

桔梗は、眠りに落ちた沖田の額の汗を拭う。 この人の光が、これ以上、誰かの描く闇に利用されてはならない。 そのためならば、どんなことでもする。

たとえ、それが坂本龍馬の妻と手を組むことであっても。 桔梗の心は、静かに、しかし確固として定まっていた。

第七章『交差する刃』

お龍は、京の宿で独り、思考の海に沈んでいた。 敵は薩摩。しかし、あまりに巨大すぎる。 一介の女である自分に、何ができるというのか。焦りと無力感が、重くのしかかる。

その時だった。宿の者に、そっと文を渡された。 差出人の名はない。しかし、その紙から微かに香る気品のある白檀の香りに、龍はすぐに差出人を悟った。 桔梗。あの氷の女からだった。

文に記されていたのは、夜半、とある荒れた寺の境内を示す、簡素な地図だけ。 罠かもしれない。龍は懐剣を握りしめ、覚悟を決めて夜の闇へと向かった。 境内には、月光を背に、桔梗が静かに佇んでいた。

「何の用です」 龍の言葉は、刃のように鋭い。 桔梗は、ゆっくりと龍に向き直った。その瞳は、もはや氷ではなく、静かに燃える炭火の色をしていた。

「あなたも、気づいているはず。我々の本当の敵は、誰なのか」 その言葉に、龍は目を見開いた。 「新選組は、踊らされただけ。あなたの夫を殺し、その罪を我らに着せ、漁夫の利を得ようとしている者がいる」

「……薩摩、ですね」 龍の口からその名が出ると、桔梗は静かに頷いた。 「なぜ、あなたを信じられる」 龍の問いに、桔梗は初めて、人間らしい苦渋の表情を浮かべた。

「信じる必要などない。だが、利害は一致するはず」 「私は、あの人の命と、新選組の名誉を守りたい。あなたは、夫の無念を晴らしたい」 「目的は違えど、刃を向けるべき相手は、同じだ」

二人の視線が、暗闇の中で激しく交差する。 憎しみ。不信。警戒。 だが、その奥で、互いの瞳に宿る、決して消すことのできない覚悟の光を、二人は確かに見ていた。

この女となら、あるいは。 この女でなければ、あるいは。

「……分かりました」 龍は、ついに頷いた。 「一時休戦としましょう。ただし、あなたが私を裏切るようなことがあれば、その時は……」

「望むところだ」 桔梗は、龍の言葉を遮った。 それは、友情とはほど遠い、ただ一点の目的のためだけに結ばれた、危険で、脆く、そして鋼のように強固な盟約の始まりだった。

第八章『比翼の鳥』

桔梗は、龍を沖田の療養所へと導いた。 「あなたに、見せなければならないものがある」 その声に、龍は黙って従った。もはや、言葉は不要だった。

部屋に入ると、薬の匂いが鼻をついた。 布団に横たわる沖田は、蝋燭の光に照らされ、まるで生きているのが不思議なほどに痩せていた。 しかし彼は、龍の姿を認めると、確かに頷き、枕元を指差した。

そこには、桐箱に納められた、もう半分の鍔の欠片が置かれていた。 桔梗はそれを、震える手で手に取る。 龍も、懐から己の欠片を取り出した。

二つの欠片が、ゆっくりと近づけられる。 ひたり、と合わさった瞬間、冷たい金属がまるで磁石のように吸い付き、一つの円を成した。 失われていた半身と出会い、鍔は再び、その魂を取り戻したかのようだった。

そこに現れた意匠に、龍と桔梗は息を呑んだ。 描かれていたのは、月に向かって飛ぶ二羽の鳥。比翼の鳥だ。

一羽の鳥の翼には、新選組の「誠」の文字が刻まれている。 もう一羽の鳥の翼には、坂本家の紋である「組合角に桔梗紋」が。 敵対するはずの二羽の鳥が、同じ月(=新しい日本)を目指して、寄り添うように飛んでいた。

ああ、そうだったのか。 夫は、沖田総司は、敵味方というくだらない垣根を超えようとしていたのだ。 血で血を洗う時代の果てに、誰も傷つかぬ夜明けを、二人で夢見ていたのだ。

それが、この鍔に込められた、二人の剣士の本当の魂。 そして、西郷が、時代が、殺そうとしたものの正体。 あまりに気高く、あまりに美しい、儚い理想。

沖田の口元に、かすかな笑みが浮かんだように見えた。 まるで、これでようやく役目を果たせたとでも言うように。 その顔は、不思議なほど安らかだった。

龍と桔梗は、完成された鍔を見つめたまま、立ち尽くしていた。 憎しみも、怒りも、今はどこか遠い。 ただ、二人の男が遺した、あまりにも眩しい理想の重さに、胸が締め付けられるだけだった。

第九章『怪物の正体』

沖田の療養所を、二人は静かに辞した。 夜の京を歩く間、お龍と桔梗は、一言も口を利かなかった。 しかし、その沈黙はもはや敵意ではなく、あまりに重い真実を共有してしまった者同士の、静かな共鳴だった。

とある廃寺で、二人はようやく向き合った。 桔梗は、懐から取り出した「対の鍔」を、月光の下に置く。 完成されたその意匠が、二人の男の果たされなかった夢を静かに物語っていた。

「夫は、西郷という男を恐れていました」 先にお龍が口を開いた。土佐藩邸で聞いた、夫の懸念を語る。 「平和な世を作るには、あの男の力がいる。だが、あの男は平和そのものを望んではいない、と」

桔梗が、静かに続けた。 「薩摩は、ずっと好機を待っていた。京に混乱が生まれ、幕府の力が弱まるのを。そのためならば、敵であるはずの長州を使い、味方であるはずの新選組すら駒にする」 「池田屋も、近江屋も、すべては同じ盤上の出来事…」

二人の言葉が、最後のパズルを完成させた。 黒幕の正体は、西郷隆盛。 そして、その男が殺したかったのは、坂本龍馬という個人ではない。

龍馬と沖田が紡ごうとしていた「敵味方の融和」という、か細い希望の糸。 戦を起こさずして新しい世を作ろうという「穏健な夜明け」そのもの。 それこそが、武力による完全な支配を目論む男にとって、最も邪魔な存在だったのだ。

「化け物だわ…」 龍は、思わず呟いた。 国を想うという大義のために、人の心も、友との絆も、時代の希望さえも喰らい尽くす。 それは、もはや一個人の悪ではない。時代が生み出した、巨大な怪物そのものだった。

その怪物を、どうすれば討てるというのか。 証拠も何もない。いや、たとえあったとしても、これから国を創る英雄を裁くことなど、誰にもできはしない。 二人の前には、絶望的なまでに巨大な壁がそびえ立っていた。

「それでも」 桔梗が、顔を上げた。その瞳に、宿るのは諦観ではなかった。 「我々が、知ってしまった。あの人たちの本当の想いを、それを踏みにじった者の正体を」 「このまま、何もかもを闇に葬らせはしない」

龍も、頷いた。 正義を問うことなどできない。ならば、せめて。 「分からせてやりましょう。あなたたちの罪を、見ている者がいる、と」

それは、復讐ではない。裁きでもない。 偽りの歴史が作られるその片隅で、真実を見届け、記憶するという、人間だけが持つ最後の抵抗。 二人の女の、静かで、しかし何よりも熾烈な戦いが、始まろうとしていた。

第十章『最後の罠』

二人の標的は、すぐに定まった。 西郷隆盛の腹心であり、京における薩摩藩の工作活動を取り仕切る男。 そして、夜な夜な祇園で豪遊を繰り返す、傲慢な男でもあった。

桔梗の情報網と手練手管が、その男を罠に誘い込む。 「新選組に関する、とっておきの情報がございます」 そう文を送り、男を祇オンの一室へと誘い出した。

そこは、桔梗が手配した、古びたお茶屋の一室。 襖一枚を隔てた隣室には、お龍が息を殺して潜んでいる。 二人の手には、もはや慈悲も情けもなかった。ただ、冷徹なまでの覚悟があるだけだった。

やがて、薩摩藩士が姿を現した。 酒と女で弛緩しきった、しかし目の奥には油断のない光を宿した男。 彼は、桔梗が注ぐ酒をうまそうに呷りながら、本題を促した。

「して、土産話とは何だ。壬生の狼どもの、断末魔の叫びでも聞かせてくれるのか」 下卑た笑みを浮かべる男に、桔梗はゆっくりと答えた。 「いいえ。申し上げたいのは、坂本龍馬様のこと」

男の動きが、ぴたりと止まる。 桔梗は、構わず続けた。 「龍馬様と、新選組の沖田総司。二人の間に、ある『約束』があったことはご存じでしたか?」

男の顔から、笑みが消えた。 「……何が言いたい」 その声には、剥き出しの殺意が混じり始めていた。

桔梗は、懐から取り出した桐箱を、ことりと畳の上に置いた。 中身は見せない。だが、それが何を意味するか、男には分かっているはずだった。 「この中身が、公(おおやけ)になる前に、あなた様のお考えを聞かせていただきたく……」

罠は、仕掛けられた。 男は、自分がまんまと誘い込まれたことを悟った。 その顔は、怒りと屈辱に、醜く歪んでいた。

部屋の温度が、急速に下がっていく。 襖の向こうで、お龍は懐剣の柄を強く、強く握りしめた。 歴史の闇に葬られようとしていた真実が、今、その重い口を開こうとしていた。

第十一章『夜明けを殺した男』

薩摩藩士は、しばらく桔梗を睨みつけていたが、やがて、堰を切ったように笑い出した。 それは、全てを諦めた者の乾いた笑いではなく、全てを支配する者の、傲慢な哄笑だった。 「……見事だ、女。そこまで嗅ぎつけたか」

男は、杯に残っていた酒をぐいと飲み干すと、がらん、と乱暴に置いた。 「そうさ。坂本龍馬は、我らが斬った。奴が夢見ていた、なまぬるい夜明けごと、この手でな」 その言葉は、襖の向こうのお龍の胸に、氷の刃のように突き刺さった。

男は、まるで聞かせるように、独白を続けた。 「龍馬と沖田の間に、どんな約束があったかは知らん。だが、敵味方が手を取り合うだと?そんな子供の夢物語で、国が作れるか!」 「この国に必要なのは、血だ!全てを焼き尽くし、古いものを根こそぎ破壊する、業火なのだ!」

男の目が、狂信的な光を宿す。 「西郷先生こそが、この腐った世を破壊し、新しい日本を創る。龍馬の甘っちょろい夜明けなど、邪魔なだけだったのだ!」 それは、罪の告白ではなかった。 自分たちが信じる正義のための、高らかな宣言だった。

桔梗は、静かに問うた。 「歴史は、あなた方を許さない」 すると男は、心底おかしそうに、腹を抱えて笑った。

「歴史だと?歴史とは、我ら勝者がこれから作るものだ」 「龍馬は新時代の礎となった英雄として語り継がれ、その死は旧時代の残党、例えば新選組の仕業として記録される。民は分かりやすい物語を望むのだ。歴史とは、そうやって作る!」

それが、彼らの正体。 真実さえも、自らの手で創り変えようとする、時代の怪物。 龍は、襖の向こうで、唇を噛み締め、血の味がするのをただ感じていた。

告白を終えた男は、すっと立ち上がった。 そして、二人の女に、まるで判決を言い渡すように告げた。 「さて、聞かずともよい物語を聞かせてやったな。礼には及ばんぞ」

「その真実、墓場まで大事に持っていくがいい」 男がそう言って、ぱん、と手を叩いた瞬間だった。 襖が、外から勢いよく引き開けられた。

そこに立っていたのは、お龍だけではなかった。 いつの間にか背後に回り込んでいた、あの「追跡者」の男。 そして、数人の刺客たちが、鈍い光を放つ刃を手に、二人を取り囲んでいた。

ここは、罠であると同時に、処刑場でもあったのだ。 桔梗とお龍は、絶体絶命の窮地に立たされていた。

第十二章『二羽の鳥』

絶望的な状況。 しかし、お龍と桔梗の瞳には、諦めの色はなかった。 二人は、言葉もなく、すっと背中合わせになった。

「死にはしない。あの人たちの魂の在り処を、知ってしまったのだから」 龍の呟きに、桔梗が応える。 「ええ。この記憶は、我らが墓場まで持っていく」

先に動いたのは、桔梗だった。 彼女は、身につけていた鼈甲(べっこう)の簪(かんざし)を引き抜くと、それを逆手に握りしめた。 それは、ただの髪飾りではない。先端が鋭く研がれた、一本の刃だった。

刺客の一人が飛びかかってきた瞬間、桔梗の体が舞う。 喉笛に簪が突き立てられ、男は声もなく崩れ落ちた。 その隙を、龍は見逃さない。

懐から懐剣を抜き放ち、別の男の脇腹を深く抉る。 悲鳴を上げる男を蹴り飛ばし、二人は血路を開いた。 それは、生き残るための、獣たちの舞だった。

「こちらへ!」 桔梗が叫ぶ。彼女はこの茶屋の構造を知り尽くしていた。 二人は、迷路のような廊下を駆け抜ける。 背後からは、追っ手の怒号が追いかけてくる。

桔梗は、行燈(あんどん)を蹴り倒し、障子に火を放った。 燃え盛る炎が、追跡者たちの足を止める。 煙が充満する中、二人は裏口から、冬の夜の闇へと転がり出た。

どれだけ走ったか。 とある廃寺の仏堂で、二人はようやく肩で息をついた。 二人とも、浅い傷を負い、着物は乱れていた。しかし、その瞳は爛々と輝いていた。

龍は、懐から「対の鍔」を取り出した。 月光に照らされ、二羽の鳥が静かに輝いている。 命懸けで守り抜いた、夫の、そして沖田の魂。

「これは、あなたに」 龍は、桔梗に鍔を差し出した。 「あの人の魂と共に、葬ってあげてください。偽りの歴史が作られるこの世ではなく、静かな場所で眠らせてあげたい」

桔梗は、静かにそれを受け取った。 「……ありがとう」 それは、彼女が初めて龍に見せた、偽りのない感情だった。

夜明けが、近い。 二人の戦いは、終わった。 これから、二人の道が交わることは二度とないだろう。

言葉もなく、二人は互いに背を向け、それぞれの闇へと歩き出した。 友情ではない。信頼でもない。 ただ、同じ秘密を胸に抱き、時代の闇を見届けた、共犯者として。

終章『残香』

歳月は流れ、時代は「明治」となった。 京を焼き尽くすかと思われた動乱は遠い昔話となり、人々は新しい時代の光に顔を上げていた。 かつての死都は、文明開化という化粧を施し、過去を忘れようとしていた。

横須賀の港町。 すっかり様変わりした街並みを、一人の女が静かに歩いていた。楢崎龍だった。 彼女は、もう刀も、憎しみも、何も持っていなかった。

ふと、龍は錦絵(にしきえ)を売る店の前で足を止めた。 そこには、美化され、英雄として描かれた坂本龍馬の姿があった。 そして、その龍馬に斬りかかる、鬼のような形相の新選組隊士たちの絵も。

「大悪党・新選組を討ち、新時代の礎となった坂本龍馬!」 店主の威勢のいい声が響く。 それは、あの夜、薩摩藩士が語った通りの「作られた歴史」だった。

龍は、何も言わず、ただ静かに微笑んだ。 そして、空を見上げた。青く澄み渡った、新しい時代の空を。 偽りの歴史の上で、それでも人々は笑い、生きている。

それで、いいのかもしれない。 夫が本当に目指した夜明けは、誰も傷つけぬ、そんな優しい世界だったのだから。 ただ、時折、胸の奥がちくりと痛む。そこにあったはずの、魂の欠片の冷たさを思い出すように。

同じ頃、江戸から名を変えた東京の、片隅にある寺。 そこには、訪れる者もほとんどない、小さな墓石があった。 質素な着物に身を包んだ桔梗が、その墓の前に、そっと白い桔普通の桔梗の花を供えていた。

沖田総司の墓。その土の下には、二羽の鳥が彫られた「対の鍔」が、主と共に静かに眠っている。 世間では、沖田も新選GUMIも、時代に刃向かった悪党として語られている。 それで、いいのだと桔梗は思う。

あの人が本当に望んだのは、名誉ではなく、ただ静かな時間だったのだから。 偽りの歴史の中で、本当の魂の在り処を知っているのは、自分だけでいい。

お龍と桔梗。 二人の女が、再び会うことは生涯なかった。

だが、彼女たちは知っていた。この世界のどこかに、もう一人、同じ記憶を持つ者がいることを。 世に語られる歴史とは違う、二人の男が夢見た、本当の理想の輝きを。 そして、その夢が放つ気高い香りが、偽りの時代の中にあっても、確かに自分の胸に生き続けていることを。

その「残香」だけが、彼女たちが命を懸けて戦った、唯一の真実だった。

-了-

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