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『完全なる無実』

彼は無実。彼女は悲劇の妻。少年は被害者。――その『真実』を、疑え。


あらすじ

「無罪判決は、地獄の始まりだった」

殺人事件の被告人として全てを失い、無罪を勝ち取った男・三上誠。しかし、世間という法廷が下した「限りなく黒に近い灰色」の判決は、彼の人生から光を奪い去った。彼に残された唯一の願いは、ただ「もう一度、心から星を見上げること」だった。

若手弁護士・遠藤沙紀は、そんな彼の瞳の奥に、消えさせたくない誠実な光を見る。法では救えなかった過去のトラウマを抱える彼女は、法廷の外で彼の「完全なる無実」を証明するという、前代未聞の調査に乗り出すことを決意する。

警察が築き上げた完璧な「物語」を解体していく二人。やがて辿り着いたのは、惨殺された被害者が隠し持っていた「もう一つの顔」。そして、完璧な家族を演じ続けた妻・聡美と、心に深い傷を負った息子・雄太の存在だった。

献身的な母の愛、沈黙を続ける息子の瞳。パズルのピースが一つハマるたび、事件は単純な冤罪事件から、底知れない家族という名の深淵を覗き込む、人間ドラマへと変貌していく。

全ての嘘が暴かれた時、彼らが最後に辿り着く「真実」とは。そして、その真実は、本当に彼らを救うのだろうか。


登場人物紹介

  • 遠藤 沙紀(えんどう さき) 【過去に囚われた弁護士】 法を遵守した結果、依頼者を救えなかったという深いトラウマを抱える。三上の事件に、過去の自分を重ね合わせ、時に法という一線を超えてでも「人」を救おうと奔走する。しかし、彼女が求める真実は、彼女自身の正義感を根底から揺るがす。
  • 三上 誠(みかみ まこと) 【星に願う元被告人】 殺人事件の犯人とされ、人生を破壊された心優しい元職人。失ったものを取り戻すためではなく、ただ純粋に夜空を見上げたいと願う。隣人として知る、事件の裏に隠された「家族の小さな異変」の記憶が、固く閉ざされた真実の扉を叩く鍵となる。
  • 楢崎 聡美(ならさき さとみ) 【悲劇を纏う妻】 事件で夫を亡くした、献身的でか弱き妻。警察の捜査に全面的に協力し、隣人である三上の無実を信じようと努める。しかし、その悲しみに暮れる瞳の奥には、誰にも明かすことのできない、深く、そして重い秘密が隠されている。
  • 楢崎 雄太(ならさき ゆうた) 【沈黙する少年】 聡美の高校生の息子。父親の死と、その後の騒動で心に深い傷を負い、固く心を閉ざしている。事件について多くを語らないが、彼の存在そのものが、この物語の最も純粋で、最も残酷な核心を握っている。

第一章 閉ざされた空

弁護士・遠藤沙紀のデスクには、一枚だけ、常に裏返された写真立てが置いてあった。 他の書類に紛れ、時折手が当たっては乾いた音を立てる。その音は、沙紀の心の奥底に、鈍い痛みとして響いていた。まるで、遠い過去の、癒えない傷口をそっと指でなぞられるようだ。

写真の主は、三年前に担当した少女だ。あどけない笑顔の裏に、深い悲しみを湛えた瞳。法廷では、あらゆる手を尽くした。完璧な準備書面、理路整然とした弁論。法律家として、最善を、いえ、それ以上のことをしたと自負していた。だが、法が下した「親権は父親に」という結論は、少女を再び地獄へ送り返すための、冷たい、無情な通行手形に過ぎなかった。

法だけでは、人は救えない。 その無力感が、沙紀の正義感を容赦なく苛み、トラウマという名の分厚い壁となって、彼女の内側に分厚く、そして冷たく築き上げられていた。

だから、三上誠という男に会うと決めた時、沙紀は無意識のうちに、その写真立てに触れていたのかもしれない。指先がガラスの冷たさを感じた瞬間、あの少女の絶望が、再び彼女の胸を締め付けた。

***

三上の住むアパートは、太陽の光から見放されたような、淀んだ路地の奥にあった。 昼だというのに、建ち並ぶビル群の影が深く落ち、街の喧騒さえも吸い込んでしまうような、奇妙な静けさに包まれている。錆びついた呼び鈴を鳴らすと、しばらくの間を置いて、くぐもった音と共に、古い鍵がゆっくりと回る音がした。

ドアを開けた男は、まるで何年も光を浴びていないかのように青白く、その顔には深い疲労と諦めが刻み込まれていた。 「弁護士の、遠藤です」 沙紀が名乗ると、三上はかろうじて頷き、彼女を室内へと招き入れた。

一歩足を踏み入れた瞬間、沙紀は息を詰めた。澱んだ空気、固く閉ざされた遮光カーテン。わずかな隙間から漏れる光さえ、埃の舞う様を強調するだけだ。そこは、一年前に殺人事件の無罪を勝ち取った男が住む場所ではなく、社会という巨大な法廷から終身刑を言い渡された囚人が、ただ息を潜めるための、冷たい独房そのものだった。壁には、指の先ほどのカビが点々と浮き、湿った匂いが鼻をつく。

沙紀は、鞄から書類を取り出す準備をしながら、職業的な冷静さを保とうと努めた。 「ご依頼の件ですが、名誉毀損に対する損害賠償請求は可能です。メディア各社を訴えることも視野に入れられますし、社会復帰に向けた支援制度も……」

沙紀が法律家として、現実的な解決策を切り出す言葉は、この薄暗い部屋の空気と同じように、空虚に響いた。三上の瞳は、焦点が定まらないまま、どこか遠くを見つめている。まるで、彼の魂が肉体から抜け落ちてしまい、今はただ、残された殻がそこに座っているだけかのようだ。

一通り説明を終え、沙紀が次の言葉を探していると、三上がぽつりと呟いた。その声は、部屋の奥から聞こえてくるような、か細いものだった。 「賠償金が欲しいわけじゃ、ないんです」

彼の視線の先には、使い込まれた小さな本棚に、一冊だけ古びた天体観測の図鑑があった。ページは黄ばみ、表紙の角は擦り切れている。そこだけが、部屋の他の場所とは違い、彼の指の跡がつくほどに、丁寧に磨かれているように見えた。

「僕は、ただ……もう一度、星を。あの光を、心から綺麗だと思って、見上げたいだけなんです」

その言葉に、沙紀は不意を突かれた。それは、法律でも、金銭でも、決して取り戻すことのできない、あまりにも純粋で、そして痛切な、魂の叫びだった。三上誠という男は、法廷では確かに救われた。だが、その魂は今も、社会という名の無限の檻の中で、静かに殺され続けている。

デスクの写真立ての、裏返された少女の顔が、再び脳裏をよぎる。あの時の、諦めに満ちた瞳。また、同じ過ちを繰り返すのか。法という名の正しさだけを振りかざし、目の前で壊れていく人の心を見過ごすのか。

いやだ。もう、二度と。この無力感を味わうのは、もうたくさんだ。

アパートを出た沙紀は、三上が見ることのできない、鉛色の夕暮れの空を見上げた。高くそびえるビルの間に、一番星が、弱々しく、しかし確かに瞬いている。それは、三上の心の奥底で、かろうじて灯り続ける希望のようにも見えた。

「分かりました、三上さん」

誰に言うでもなく、彼女は誓った。その声は、決意に満ちて、微かに震えていた。

「私が、あなたの空を取り戻します」

それは、弁護士・遠藤沙紀が、自身の魂の救済を賭けて、初めて法に背を向け、人の心に寄り添う覚悟を決めた、静かなる宣戦布告の瞬間だった。

第二章 亀裂

沙紀の闘いは、警察と検察が一年がかりで築き上げた、難攻不落の城壁を前にして始まった。 事務所のデスクに広げられた分厚い事件ファイル。そこには、三上誠を殺人犯と断定する、あまりにも完璧で、揺るぎない「物語」が、隙間なく綴られていた。

被害者・楢崎謙司との些細な近隣トラブル。凶器の包丁から検出された指紋。事件発生時刻のアリバイの不存在。 一つ一つは決定的な証拠とは言えなくても、それらが緻密に組み合わさることで、三上を犯人だと指し示す、鉄のように強力な鎖となっていた。

沙紀は何度も資料を読み返し、夜遅くまで事務所にこもり、荒唐無稽な仮説さえ立ててみた。だが、城壁には一つの隙も見当たらない。まるで、最初から三上を犯人とする結末ありきで、物語が紡がれたかのように。彼女は焦り始めていた。時間は、三上の心を蝕み続けている。このままでは、彼の魂は、本当に枯れ果ててしまうだろう。

***

「楢崎さん一家とは、どのようなお付き合いを?」

再び訪れた三上の部屋で、沙紀は事件の核心から遠く離れた、当たり障りのない質問を投げかけた。突破口が見えない以上、今はただ、事件が起きたあの場所の空気を、三上の記憶の断片から掴むしかない。

「挨拶を交わす程度です。ご主人の謙司さんは、いつもにこやかで……会えば世間話をする、良い方でしたよ」

三上は、力なく答える。彼の記憶の中でさえ、被害者は「善良な市民」という、完璧な仮面を被ったままだった。その言葉が、沙紀の胸に小さな違和感を生じさせる。三年前のあの少女の父親も、外面だけは完璧だった。その裏で、どれほどの地獄を家族に強いていたか、誰も知らなかった。

「奥さんや……息子さんとは?」

「奥さんとは、ほとんど話したことはありません。……ああ、でも、雄太君とは一度だけ」 三上は、何か遠い記憶を辿るように、ゆっくりと天井を見上げた。その瞳に、かすかな光が宿る。

「事件の少し前です。あの子がうちの前で俯いていたから、心配になって声をかけて。古い星座早見盤をあげたんです。とても、喜んでくれて……」

その時のことを思い出したのか、三上の口元にかすかな笑みが浮かぶ。それは、彼が事件以来初めて見せた、人間らしい感情の揺らぎだった。 だが、その笑みはすぐに消え、彼の表情が再び曇った。

「でも、あの子……お父さんの謙司さんの車の音が聞こえただけで、肩をびくっと震わせて。顔が、真っ青になるんです。まるで、何か恐ろしいものから逃げ出すみたいに。一度や二度じゃありませんでした」

その些細な記憶。 警察の調書では一行も触れられていない、隣人が見ただけの、誰にも価値を認められなかった、小さな情景。だが、その言葉が、沙紀の目の前にそびえ立っていた、鉄壁の城壁に、最初の、そして決定的な亀裂を入れた。それは、事件の真実へと続く、細い、しかし確かな光の筋だった。

***

事務所に戻った沙紀は、ホワイトボードに書き出された事件の相関図を、全く違う目で見つめていた。 警察は、「犯人」と「被害者」という二つの点だけを結びつけ、その間に「動機」という一本の線を引いただけだった。だが、事件の本当の闇は、被害者の家の中に、隠されていたのではないか。

紳士の仮面を被った男、楢崎謙司。 その暴力に怯える息子、楢崎雄太。 そして、その地獄の中で、妻である楢崎聡美は、いったい何を思っていたのか。

沙紀は、ペンを取ると、相関図の中心に、大きく円を描いた。その円が、まるで、事件という名の深淵へと続く入口のように見えた。 円の中には、こう記した。

『楢崎家』

これが、この事件の本当の始まりの場所だ。 沙紀は受話器を取り、興信所に勤める旧知の友人に電話をかけた。その声は、刑事だった頃の執念を取り戻したかのように低く、そして鋭い。

「私、遠藤。調べてほしいことがあるの。被害者の楢崎謙司について……そう。彼の、完璧な仮面の下に隠された、本当の素顔を」

第三章 告白

沙紀が雇った調査員からの報告は、楢崎謙司という男が築き上げてきた、偽りの紳士像を木っ端微塵に破壊するものだった。

彼は表向き、社交的で穏やかなビジネスマンとして知られていた。しかし、その内実は、部下を精神的に追い詰めるパワハラは日常茶飯事。過去には、警察沙汰にはならなかったものの、DVを疑わせる近隣からの通報が何度かあったことも判明した。彼の人生は、他者を支配し、意のままに操ることで成り立っていた。そして、その歪んだ精神の全ての膿が、外部からは決して見えない、家庭という密室に注がれていたのだ。

城壁は崩れた。だが、沙紀の心は晴れない。 暴君の死。それは、長年虐げられてきた者たちによる、あまりにも正当で、悲劇的な「革命」だったのではないか。その革命の影に、三上誠という無垢な人間が巻き込まれたのだとしたら、あまりにも救いのない話だ。

***

沙紀は、雄太に会うために、彼がよく利用するという市立図書館を訪れた。 聡美に連絡すると、彼女は少し戸惑った後、静かに息子の行き先を告げた。その声には、微かな疲労と、何かに怯えるような響きが混じっていた。

書架の陰で、一冊の科学雑誌を広げていた雄太は、沙紀が近づく気配に、怯えた小動物のように肩を震わせた。その華奢な背中は、まるで嵐の中に立つ枯れ木のように頼りなく見えた。 「遠藤、です。三上さんの弁護士をしています」

沙紀が名乗ると、雄太はこくりと頷くだけで、視線を雑誌に落としたままだった。その澄んだ瞳は、父親の話になると、恐怖と悲しみが混じった複雑な色を帯びて、伏せられてしまう。まるで、父親という言葉自体が、彼にとって禁句であるかのように。

「お父さんは……厳しい人でした。でも、僕のために……」 途切れ途切れに語られる言葉は、まるで誰かに教えられた台詞のようだった。その痛々しいほど完璧な言葉選びに、沙紀は三年前の少女の面影を重ねていた。あの時も、少女は父親の虐待を、必死でかばおうとしていた。

この子を守らなければ。 その思いは、もはや弁護士としての使命感ではなかった。過去に犯した過ちを、二度と繰り返さないための、個人的な、そして深く胸に刻まれた誓いだった。この無垢な少年を、あの地獄から救い出さなければ。

***

沙紀は、楢崎家のドアの前に立っていた。インターホンを押すと、しばらくの間を置いて、ドアの向こうから聡美の声が聞こえる。 「……遠藤先生」 中から現れた聡美は、沙紀の顔を見ると、全てを察したように諦めの表情を浮かべた。その顔には、長年の疲労と、抗いようのない運命を受け入れたかのような、深い諦念が漂っていた。

リビングは、モデルルームのように完璧に整えられている。埃一つなく、家具は配置図通りに配置されているかのように隙がない。だが、その完璧さが、かえってこの家に流れる歪んだ空気を際立たせていた。まるで、崩壊寸前の精神を、必死で取り繕っているかのように。

「ご主人のこと、調べさせていただきました」 沙紀が切り出すと、聡美は黙って、差し出されたカップに紅茶を淹れるだけだった。湯気と共に、微かにハーブの香りが立ち上るが、その香りさえ、この重い空気を拭い去ることはできない。

「雄太君にも、会いました。あの子……ずっと、苦しんでいたんですね」 その一言が、聡美が必死で築き上げた最後のダムを決壊させた。彼女の肩が、小さく、しかし激しく震え始める。カップから紅茶が溢れ、白いソーサーに染みを作る。

「あの日……主人の暴力が、初めて雄太に向かったんです。あの子の悲鳴を聞いて……もう、何も考えられませんでした」

堰を切ったように、聡美の口から慟哭が溢れ出す。それは、あまりに痛切な、そして生々しい告白だった。夫の暴力から息子を守るため、母は鬼になった。法など、倫理など、考える暇もなかったのだろう。

「あの子を守るためなら、私は、何にでもなれる……私が、私がやりました」

聡美は、テーブルに突っ伏して泣き崩れた。その姿は、痛ましいほどに小さく、そして同時に、凄絶なまでの母性によって、恐ろしいほど強靭に見えた。 その姿に、沙紀は深く同情し、そして確信した。これが真実だ。法では裁けない悪があり、法だけでは救えない人がいる。そして、今、目の前で打ちひしがれているこの女性こそ、その典型だ。

ならば、自分がすべきことは一つしかない。 沙紀は、泣きじゃくる聡美の肩に、そっと手を置いた。その手は、震えていた。 「分かりました。私が、あなたたち親子を、守ります」

第四章 違和感

沙紀と三上は、共犯者として、静かに計画を練り始めていた。 聡美が「真犯人から三上さんを庇うよう脅されていた」という筋書きで声明を発表し、三上の社会的地位を回復させる。それが、三人の魂が救われるための、唯一の道だと信じていた。

三上の表情には、冤罪被害者としての苦悩の色とは別に、どこか安堵のようなものが浮かんでいた。閉ざされていた彼の空に、ようやく光が差し込む兆しが見えたかのように。 「あの子が、雄太君が救われるなら、僕は……」 その言葉は、沙紀の胸を締め付けた。彼の優しさが、この計画の最も純粋な動機となっていた。

***

その夜、沙紀は一人、事務所で聡美の「告白」を文章に起こしていた。 涙ながらに語られた悲劇の母の物語。その一行一行をタイプしながら、沙紀は三年前の、あの事件の準備書面を思い出していた。あの時も、私は完璧な書類を作り上げたはずだった。だが、その完璧さの裏に、真実が隠されていたことを知った時、どれほどの絶望に打ちのめされたか。

ふと、手が止まる。 聡美の証言と、警察の現場資料との間に存在する、些細な、しかし無視できない齟齬。

「主人の身体に乗り上げるようにして、必死で何度も刺しました……」。聡美はそう言った。その声は、まだ耳に残っている。 だが、検死報告書に記された刺し傷の角度は、小柄な彼女が馬乗りになって振り下ろしたものとは、明らかに異なっていた。もっと低い位置から、強い力で抉るように、深々と、と。その報告書に書かれた医療用語が、頭の中で鋭い棘となって刺さる。

三年前の、あの少女の担当医の言葉が、脳裏で警鐘を鳴らす。 「先生、カルテの数字だけじゃなく、あの子の心の叫びを、ちゃんと聞いていましたか? 法律だけじゃ、人を救えませんよ」

――私はまた、物語の美しさに騙されて、真実から目を逸らそうとしているんじゃないか。感情に流されて、見たくないものを見ないふりをしているのではないか。

***

その疑念が冷たい靄のように心を覆い始めた時、沙紀の携帯が静かに震えた。 警察内部の旧知の刑事からの、匿名のメッセージだった。画面に表示された文字は、沙紀の冷静さを揺さぶった。

『タナカが動いている。楢崎の件、初動捜査に疑問を持ったらしい。周辺の再聴取を始めた。気をつけろ』

タナカ。所轄のベテランで、一度食らいついたら決して離さない、執念深い刑事だ。彼の嗅覚は、警察内部でも一目置かれている。沙紀の背筋を、冷たい汗が伝う。時間がない。聡美たちの、あまりにも人間的な「嘘」は、百戦錬磨の刑事の鋭い目をごまかせるほど、精巧ではないかもしれない。

このまま計画を進めれば、田中刑事が真実に辿り着き、沙紀も三上も、聡美も、雄太も、全員が破滅する。 真実を、本当の真実を知らなければ。三年前の二の舞は、もう演じるわけにはいかない。

***

沙紀は、三上との共有ファイルとは別に、新しいフォルダをパソコンのデスクトップに立ち上げた。 パスワードをかけ、誰の目にも触れないよう、固く、固く閉ざした。

フォルダ名は、迷いなく、こう打ち込んだ。 『楢崎 雄太』

守ると誓ったはずの、あのか弱き少年の名前。 それが、今や最大の容疑者として、彼女の目の前に、冷たく、不気味に浮かび上がっていた。

第五章 怪物

沙紀の孤独な調査は、デジタルの海に潜ることから始まった。 楢崎雄太。彼の公開されているSNSアカウントは、どこにでもいる、少し内気で、星やSF映画を愛する高校生そのものだった。友達との何気ないやり取り、学校行事の写真。そこには、何の影も見当たらない。

だが、沙紀は知っている。人間は誰しも、光の当たる場所とは別に、深く、暗い顔を持っている。 彼女は、雄太の友人関係、彼がフォローしているアカウント、過去のコメントの痕跡を、執念深く、まるで深海の底に沈んだ財宝を探すかのように辿っていった。そして、ついに見つけ出した。巧妙に隠された、鍵付きの裏アカウントを。

アイコンは、真っ黒に塗りつぶされていた。感情も、表情も、全てを拒絶するかのように。 プロフィール欄には、ただ一言、冷たく、乾いた文字で記されている。『ここは墓場』とだけ。

沙紀は、息を呑んだ。心臓が、ドクドクと不規則なリズムを刻む。その禁断の扉を開くことに、言いようのない恐怖を感じたが、彼女にはもう、後戻りする選択肢はなかった。

***

そこに綴られていたのは、人の形をした絶望そのものだった。 父親から受けた暴力の、生々しい記録。腕や足にできた痣の写真を載せ、「今日の戦果」と自嘲する日もあった。その写真の下には、無数の「いいね」と「頑張れ」のコメントが並んでいた。彼もまた、孤独な戦士だったのだ。

だが、スクロールを進めるにつれ、その記録は悲しみから、冷たい怒りへと変貌していく。 『あの豚を殺す方法。包丁一本で、一番苦しませるにはどうすればいいか、誰か教えてくれないか』 『あいつの寝言がうるさい。この世から永遠に黙らせてやりたい。あの音が、頭の中で響いて離れない』

それは、単なる憎悪の吐露ではなかった。 殺害計画は、日に日に具体的になり、その文章は、感情を排した、まるで実験レポートのように、冷静で、そして緻密に記述されていた。どの包丁を使うべきか、返り血を最小限にするにはどうすればいいか、アリバイをどう偽装するか。

そして、事件の三日前、最後の投稿がされていた。 『星が綺麗だ。あの、隣の優しいおじさんに、お礼を言おう。もう、会えなくなるかもしれないから』

沙紀は、パソコンの画面に顔を近づけたまま、愕然とした。三上誠の無垢な善意さえもが、この少年の冷徹な計画の中に、周到に、そして計算高く組み込まれていたのだ。あのか弱く見えた姿は、全て、完璧な演技だったのか。それとも、あの地獄の中で、生き残るために身につけた、究極の防御術だったのか。

***

沙紀は、身分を明かした上で、雄太が事件前に通っていたスクールカウンセラーに接触した。 カウンセラーは、守秘義務を盾に、初めは固く口を閉ざした。だが、沙紀が「雄太君の将来のためにも、彼の心の闇の深さを知っておきたい」と食い下がると、カウンセラーは一度だけ、深く、重い溜息をついた。その溜息には、諦めと、そして後悔のようなものが混じっていた。

「法的なことは何も言えません。ただ……あの子に必要なのは、同情や慰めじゃない。もっと、専門的な……隔離された環境での、治療だったのかもしれない、と今でも思います」

その言葉は、沙紀が雄太の中に見ていた、かろうじて残された「救うべき少年」という最後の希望を、完全に打ち砕いた。彼は、救うべき被害者などではなかった。彼は、自らの意思で、怪物の道を選んでいたのだ。

***

事務所に戻った沙紀は、ホワイトボードの前に立ち尽くした。 人の良い元職人、三上誠。 家庭内で牙を剥き、家族を精神的に殺し続けた怪物、楢崎謙司。 息子を守るため、自らが罪を被った悲劇の母、楢崎聡美。

そして、その全てを裏で操っていた、無力な被害者の仮面を被った、少年という名の怪物。

楢崎聡美が涙ながらに語った「告白」が、全く違う意味を帯びて、沙紀の脳内で冷たく再生される。 あれは、息子を庇う母の慟哭などではなかった。それは、自らが産み落とし、しかし制御不能となった怪物を世に放たぬよう、必死で檻の鍵をかけようとする、絶望的な、そして全てを承知した上での叫びだったのだ。

田中刑事が、この真実に辿り着くのも時間の問題だ。 沙紀は、震える手で受話器を取った。呼び出す相手は、一人しかいない。

「私です、遠藤です。楢崎聡美さん。……お話したいことがあります。全ての嘘について、そして、これからのことについて」

第六章 共犯者

沙紀と聡美は、都心のホテルのラウンジの、一番奥の席で向き合っていた。 窓の外では、光り輝く都会の華やかな夜景が広がっている。しかし、二人の間の空気は、深海の底のように冷たく、重く、そして張り詰めていた。微かに流れるジャズのBGMさえ、この重苦しい沈黙を破ることはできない。

「雄太君の、SNSを見ました」 沙紀が静かに切り出すと、聡美はピクリとも動かなかった。ただ、ティーカップを持つ指先が、僅かに震え、白く、血の気を失っていくのが沙紀の目にははっきりと映った。

「カウンセラーにも会いました。……聡美さん、あなたの告白は、嘘ですね」

一瞬の沈黙。それは永遠にも感じられる時間だった。そして、聡美はゆっくりと顔を上げた。 その瞳には、もはや数日前の憔悴しきった悲劇の母の面影はなかった。そこにあるのは、全てを諦め、そして抗いようのない運命を受け入れた人間の、昏く、しかし強い光だった。

「どこから……遠藤先生は、どこから、気づいていましたか」 「……最初から、完璧すぎました。あなたの物語は」

***

聡美は、全てを語り始めた。その声は、感情を排したかのように、しかし深く重い響きを持っていた。 あの日、夫の謙司に手を下したのは、やはり息子の雄太だったこと。長年の虐待が、ついに息子の心の何かを、完全に断ち切ってしまったこと。そして、その断ち切れた先で、雄太が抱いた恐ろしいほどの殺意。

血まみれの息子を抱きしめながら、聡美は瞬時に、悪魔的なまでの母性を発揮した。その脳裏には、いつかこの日が来るかもしれない、と心のどこかで準備していた、完璧な隠蔽工作の筋書きが閃いたという。その最後のピースとして、隣人で人の良い三上誠を、スケープゴートの役にはめ込んだこと。

「あの方は……優しすぎたのです。雄太にも、私にも。だから、利用しやすかった。あの方を利用すれば、誰も、あの子の罪には気づかないだろうと」 聡美の言葉は、三上の善意を、冷徹な計算で利用した自身の罪を、隠すことなく露呈させた。

「あの子を、怪物にしたのは、あの男と、そして、この社会です。私には、母親として、あの子を守る義務がある。そのために、誰かを犠牲にすることが、そんなに悪いことですか」

その言葉は、もはや弁解ではなかった。それは、歪んでいても、聡美の、唯一の正義だった。世界が何を言おうと、息子を守り抜くという、彼女の悲痛な、そして恐ろしいまでの決意表明だった。

***

事務所に戻った沙紀は、三上に全てを話した。 聡美の本当の告白。そして、三上自身が、その善意の故に、周到な計画の駒として利用されていたという、残酷で、あまりにも救いのない事実を。

三上は、ただ黙って聞いていた。その顔からは、怒りも、悲しみも、絶望も、全ての感情が抜け落ちているように見えた。彼は、法に裏切られただけではなかった。人の心にまで、その純粋な優しさにまで、裏切られたのだ。彼の魂が、今度こそ完全に壊れてしまうのではないかと、沙紀は恐怖した。

長い、長い沈黙の後、三上が呟いた。その声は、乾いた砂のようにざらざらとしていた。 「僕が……あの子に、星座早見盤をあげたから……」

その言葉が、最も重い真実だった。彼の何気ない善意が、彼自身を奈落に突き落とし、そして、この残酷な真実へと辿り着かせるための、引き金になっていたのだ。

***

沙紀は、ホワイトボードの前に立った。田中刑事の執念深い影が、すぐそこまで迫っている。 もう、時間はない。このままでは、全てが露呈し、誰も救われない。

「三上さん。私たちに残された道は、二つです」

沙紀の声は、静かだが、微かに震えていた。

「一つは、この全ての真実を公にすること。そうすれば、あなたの無実は完全に証明されるでしょう。けれど、雄太君は……被害者ではなく、冷徹な殺人犯として、法の裁きに委ねられる」

「もう一つは」と、沙紀は言葉を続けた。その声には、弁護士としての倫理観との、激しい葛藤が滲んでいた。

「このまま、真実を永遠に葬り去ること。聡美さんの嘘に加担し、私たち自身が……この事件の、共犯者になることです」

それは、法か、人か。 過去のトラウマと、目の前の現実、そして自らの魂そのものが試される、究極の選択だった。

最終章 共犯者たちの夜空

沙紀の事務所に、重い沈黙が落ちていた。 究極の選択。それは、三上誠という一人の男に、神にでもなることを強いるような、あまりにも残酷な問いだった。彼の人生は、ずっと他者に翻弄されてきた。そして今、彼は、自らの意志で、誰かの運命を決めることを迫られている。

三上は、ゆっくりと窓辺に歩み寄った。固く閉ざされた遮光カーテンの隙間から、一筋の光が差し込み、彼の横顔を照らす。ガラスに映るのは、法に、そして人の心に裏切られ、疲労の極みに達した自分の顔。その瞳の奥には、かすかな、しかし深い、思索の光が宿っていた。

「あの子も……雄太君も、僕と同じだったのかもしれない」

長い沈黙の末、三上が絞り出した声は、不思議なほど穏やかだった。その声には、憎しみも、怒りも、後悔も、何も含まれていないように聞こえた。ただ、深い理解と、そして諦めだけが溶け込んでいる。

「見えない檻に閉じ込められて、空を見ることさえ、できなかった……」

その言葉に、沙紀は息を呑んだ。自分を奈落に突き落とした者たちへ、彼が向けたのは、憎しみではなく、あまりにも深く、そして哀しい、共感だった。三上は、雄太の中に、かつての自分自身を見ていたのかもしれない。法によって自由を奪われ、社会によって光を閉ざされた、自分と。

沙紀は、何も言わずに、ただ頷いた。彼女の唇は、固く結ばれている。 弁護士としての倫理、正義。それらの全てを捨て去り、一人の少年を、そしてその母を救う。それは、三年前、法に敗れた彼女が、もう一度、人と向き合うために選んだ、あまりにも重い決断だった。

決断は、下された。

***

最後の計画は、静かに、そして迅速に実行された。 沙紀が作成した、緻密に練られた書面に基づき、聡美は「三上さんの無実を確信している」という声明を発表した。その内容は、世間が納得するに足る、巧妙なものであった。テレビのワイドショーは、手のひらを返したかのように三上を「もう一人の被害者」として持ち上げ、彼の社会復帰を応援する論調へと変わっていった。

田中刑事の再調査も、聡美の声明と世論の圧力によって幕を引かざるを得なかった。彼は納得していない顔をしていたが、新たな証拠が見つからない以上、どうすることもできない。事件は「解決済み」となり、三上は社会的な「無実」を手に入れた。

聡美は、一生息子の罪と、三上を陥れた罪という、二重の十字架を背負って生きていく。その顔に、もう笑顔はなかった。 沙紀は、法を捨て、人を選んだ。その決断の重みを、弁護士として、そして一人の人間として、生涯問い続けるだろう。彼女の心の傷は、癒えることなく、永遠に残り続けるだろう。 そして三上は、自由になった体で、誰よりも重い秘密の鎖に繋がれた。彼の心に灯る星は、決して、以前のように輝くことはない。

三者が、再び顔を合わせることは、もう二度とない。それぞれの人生は、全く別の道へと分かたれたのだ。

***

数ヶ月後。 沙紀と三上は、プラネタリウムの深い闇の中にいた。

やがて、アナウンスと共に、ドーム型の天井に満天の星が映し出される。きらめく銀河、無数の星々。それは、本物よりも美しく、完璧な星空だった。しかし、その完璧さは、彼らが守り通した、残酷な嘘の姿に、どこか似ていた。

隣の席で、三上が息を呑むのが分かった。 失われた空が、今、ここにある。だが、その光は、彼の心を照らしてはいない。彼の瞳に映る星は、遠く、冷たい光を放っている。

上映が終わり、場内が明るくなる直前。 三上が、静かに、しかし深い問いを沙紀に投げかけた。

「僕たちは、間違っているんでしょうか」

沙紀は、答えなかった。 答える資格など、彼女にはない。 法の裁きを逃れた少年、そしてその母。社会的な無実を手に入れた三上。誰も裁かれず、誰も報われなかった。

それは決して、かつて三上が夢見た、一点の曇りもない「真実の光」ではなかった。 それでも、暗闇の中に瞬くその無数の光を、共犯者となった二人は、ただ、見つめ続けるしかなかった。

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