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『余白』

論理で解けない謎はない。けれど、論理で描けない未来はある。

あらすじ

大手コンサルティングファームの敏腕マネージャー・武田史人は、合理性と数字だけを信じる「再生請負人」。ある日、経営不振に陥った老舗製紙会社「御子柴製紙」の再建を担当することになる。史人が導き出した答えは、創業以来の伝統である「特殊紙部門」の廃止と、工場の売却だった。

しかし、現地の資料室で史人は奇妙なものを発見する。それは30年前に廃棄されたはずの試作ポスターのデザイン案。その構図とタッチは、かつて史人が幼少期に貧しさの中で、唯一の遊び道具だった「スーパーのチラシの裏」に描いていた落書きと完全に一致していたのだ。

なぜ、自分の記憶の中だけの絵が、30年前の企業の機密資料として存在するのか? 調査を進めると、当時の御子柴製紙で起きた「ある未解決の横領事件」と、史人の消された家族の記憶が交錯し始める。

論理(ロジック)の極北にいる男が、計算できない「人の想い」という謎を解き、ビジネスの設計図ではなく、人生のキャンバスに新たな色を乗せるまでのヒューマンミステリー。

登場人物紹介

  • 武田 史人(たけだ ふみと・32歳)
    • 現在: 外資系コンサルティングファーム「アクシス・ストラテジー」シニアマネージャー。
    • 性格: 感情を排した冷徹な論理的思考の持ち主。しかし、無意識にノートの端に幾何学的な模様を描く癖がある。
    • 過去: 母子家庭で育つ。画用紙が買えず、大量のチラシの裏をキャンバスにしていた。その時の「自由な感覚」を大人になるにつれ封印した。
  • 真壁 譲(まかべ ゆずる・68歳)
    • 現在: 山間部で隠居生活を送る元アートディレクター。
    • 過去: かつて御子柴製紙の広告を一手に担っていた伝説のクリエイター。30年前、ある事件を機に筆を折っている。史人の「落書き」の秘密を知る唯一の人物。
  • 御子柴 玲奈(みこしば れな・29歳)
    • 現在: 御子柴製紙の広報兼経営企画室長。創業家の娘。
    • 役割: 史人のドライなリストラ案に反発しつつも、会社を救いたい情熱で彼を動かしていくバディ的存在。
  • 氷室 恭介(ひむろ きょうすけ・45歳)
    • 現在: アクシス・ストラテジーのパートナー(史人の上司)。
    • 役割: 完全効率主義者。今回の再建案で「特殊紙部門」を切り捨て、外資への売却を目論む。史人の「迷い」を許さない敵対者。

序章 灰色の街

世界は、安っぽいインクの匂いでできていた。

一九九五年、十二月の夕暮れ。埼玉県郊外の県営団地の一室には、石油ストーブの上で沸くやかんの微かな音と、独特の湿った熱気が充満していた。

五歳になる武田史人(ふみと)は、こたつの上に散乱した「画用紙」に向かって、一心不乱に黒いクレヨンを走らせていた。

それは本物の画用紙ではない。近所のスーパーマーケット「マルヨシ」の特売チラシだ。 表面には真っ赤な明朝体で『豚バラ肉グラム九八円』『大根一本五〇円』といった文字と、荒い網点の写真が踊っている。

史人が用事があるのは、その裏面だった。

ザラついた灰色の再生紙。印刷機のローラーの汚れが薄黒く残るその紙は、真っ白なケント紙よりも想像力を掻き立てた。 史人は、チラシの四隅にあるわずかな「余白」を見つけ出し、それを一本の線で繋いでいく。

不規則な白い余白は、史人の手によって複雑怪奇な迷路へと姿を変える。 彼にとって、既に誰かの言葉や数字で埋め尽くされた表面は「退屈な現実」であり、何も描かれていない裏面の余白だけが、自分が支配できる唯一の王国だった。

「また描いてるのか、フミ」

背後でふすまが開く音がした。父だ。 史人は顔を上げずに頷く。

父は疲れた息を吐きながら、使い古された革鞄を畳に置いた。よれよれのスーツからは、微かにタバコと、古い紙の匂いがした。 父は中堅製紙会社「御子柴(みこしば)製紙」の経理部で働いていた。

「ほら、今日はいい紙があるぞ」

父が鞄から取り出したのは、横に細長い、不思議な紙の束だった。 両端に等間隔の穴が開いており、ミシン目で繋がっている。それは会社で使われなくなった、ドットプリンター用の連続帳票の損紙(そんし)だった。

「裏は真っ白だ。これなら好きなだけ繋げられるだろう」

史人の目が輝く。チラシの狭い余白とは違う、無限に続く白い帯。 彼はすぐにその紙を床に広げ、新しい迷路を描き始めた。

父はビールの大瓶を開け、手酌でコップに注ぎながら、史人の手元をじっと見つめていた。 その視線は、子供の遊びを見守る父親のそれよりも、どこか切迫した、何かを解析しようとする技術者の目に似ていた。

黒いクレヨンが、紙の上に波打つような幾何学模様を描き出す。

「……フミ、お前の線は面白いな」

父が独り言のように呟いた。

「普通の人間は、あるものを描く。でもお前は、ないものを描こうとする」

史人は手を止め、父を見上げた。 父の顔は逆光でよく見えなかったが、眼鏡の奥の瞳だけが、異様にぎらついているように見えた。 父は大きな掌で、史人の頭を乱暴に、しかし優しく撫でた。

「いいか、フミ。よく覚えておけ。その線は、ただの落書きじゃない」

父の声が低くなる。

「それは、歪んだ世界を直すための設計図だ」

その意味を史人が尋ねようとした瞬間、廊下の黒電話がけたたましいベルを鳴らした。

父の肩がびくりと跳ねた。張り詰めた空気が、六畳間を支配する。 父は無言で立ち上がり、受話器へと向かった。

その背中が、史人が見た父の最後の姿だった。


第一章 グリッド線(The Grid)

二〇二五年、十月。

東京、六本木。地上四十五階にある「デライト・ストラテジー」の第一会議室は、完全な静寂と適温に管理されていた。

三十年前の団地に充満していた石油と生活臭とは対極にある、無臭の空間。 ここにあるのは、磨き上げられたガラスのテーブルと、人間工学に基づいて設計されたアーロンチェア、そして壁一面のモニターに映し出された、冷徹な「正解」だけだ。

「――以上が、御子柴製紙におけるポートフォリオの最適化案です」

武田史人は、手元のレーザーポインターを消し、淡々とした口調でプレゼンテーションを締めくくった。

三十二歳になった史人は、チャコールグレーのオーダーメイドスーツを隙なく着こなし、表情筋を微塵も動かさずにクライアントを見据えていた。

モニターに映っているのは、美しいグリッド線で区切られた四象限のマトリクス図。 その右下、「低収益・低成長」の象限に、赤いバツ印が付けられた事業部がある。

『特殊紙(ファンシーペーパー)事業部』。

かつて御子柴製紙の創業を支え、数々の名作ポスターや書籍の装丁に使われた、同社の魂とも言える部門だ。

「特殊紙部門の赤字は、過去三期連続で拡大しています。デジタル媒体へのシフトにより、高級印刷用紙の需要回復は見込めません。感情的な愛着を捨て、即時に当該部門をカーブアウト(切り出し)、あるいは売却するのが、御社の生存に向けた唯一のロジカルな解です」

史人の言葉に、対面に座る御子柴製紙の役員たちは沈黙した。 苦虫を噛み潰したような顔で腕を組む専務、視線を落とす財務部長。彼らも数字の上では反論できないことを知っている。

だが、この場の空気を本当の意味で支配していたのは、史人ではなかった。

「武田」

史人の斜め後ろから、低く、よく通る声が響いた。 デライト・ストラテジーのシニアパートナー、氷室恭一(ひむろきょういち)だ。

銀縁眼鏡の奥にある氷のような瞳が、モニターの数字を射抜いている。彼は指先ひとつ動かさず、口だけでその場を凍りつかせた。

「詰めが甘い。そのプランには、まだ『甘え』がある」

史人は振り返らずに答える。

「甘え、とは?」

「売却? 誰が買うんだ、こんな死に体の部門を。買い手がつくのを待っている間に、キャッシュが尽きる」

氷室は立ち上がり、ゆっくりとホワイトボードへ歩み寄った。 黒いマーカーのキャップを外す音が、静寂の中で銃撃音のように響く。

「解体だ」

氷室は、史人が作った美しいマトリクス図の上から、太い線で『×』を書き殴った。

「工場を閉鎖し、設備をスクラップにする。従業員は早期退職勧奨。残るのは、静岡の一等地に広がる工場用地だけだ。これを物流倉庫のデベロッパーに売る。それが最も早く、最も高く、御社のBS(貸借対照表)を美しくする」

役員たちから呻き声が漏れる。それは企業の歴史そのものを更地にするという死刑宣告だった。

「しかし、氷室さん……あそこには、創業以来の技術が……」

御子柴製紙の専務が弱々しく反論しようとするのを、氷室は冷笑で遮った。

「技術? PL(損益計算書)のどこに『技術』という勘定科目があるんですか? 我々の仕事は、クライアントを延命させることだ。思い出を守ることじゃない」

正論だった。反論の余地のない、暴力的なまでの正論。

史人は無表情を保ちながら、手元のモレスキンのノートに視線を落とした。 そこには、会議のメモなど一文字も書かれていない。

あるのは、無意識のうちにボールペンで描いていた、無数の幾何学模様。四角いグリッドの隙間を縫うように、迷路のような線が黒々と刻まれている。

(僕は、また描いている)

幼い頃、チラシの裏に描いていたあの線。 大人になり、論理(ロジック)という武器を手に入れてからは封印したはずの「意味のない線」が、氷室の言葉を聞いた瞬間に指先から溢れ出していた。

「武田、明日から現地へ飛べ」

氷室がマーカーを放り投げた。

「デューデリジェンスだ。工場の資産価値を精査してこい。紙切れ一枚、ボルト一本までな。感情は置いていけよ」

「……承知しました」

史人はノートを閉じた。黒い革表紙が、中の迷路を闇に閉じ込める。

六本木の高層ビルから見下ろす東京の街は、まるで巨大な回路図のように整然としていた。 だが史人には、その隙間に、見えない「余白」が悲鳴を上げているように思えてならなかった。


第二章 質感(Texture)

新幹線のこだま号が新富士駅に滑り込むと、空気の密度が変わったような気がした。

ホームに降り立った武田史人は、思わず鼻をひくつかせた。 潮風と、焦げたような独特の硫黄臭、そして湿った木材の匂い。製紙工場の街特有の、生々しい「生産」の匂いだ。

「……嫌な匂いだ」

史人は誰に聞かせるでもなく呟き、完璧にプレスの効いたズボンの裾を気にしながら改札を抜けた。

タクシーで二十分。潤井川(うるいがわ)沿いに走ると、目指す「御子柴製紙」の本社工場が見えてきた。

錆びついたパイプラインが血管のように建屋を這い回り、巨大な煙突からは白煙が空へと昇っている。 デライト・ストラテジーのオフィスがある六本木のスマートビルとは対極にある、二十世紀の遺物のような光景だった。

正門の前でタクシーを降りると、一人の女性が待っていた。

作業着のブルゾンを羽織っているが、その下には仕立ての良い白いシャツが見える。 後ろで束ねた黒髪と、意志の強そうな瞳。御子柴玲奈(れな)、二十九歳。創業家の孫娘であり、現在は経営企画室長を務めるこの再生プロジェクトのカウンターパートだ。

「お待ちしていました、武田さん」

玲奈の声は硬かった。敵意を隠そうともしない。

「遠路はるばる、私たちの『処刑台』の下見ですか?」

「資産の査定(デューデリジェンス)です。御子柴室長」

史人は事務的な笑みを貼り付け、名刺を差し出した。

「感情的な言葉は慎みましょう。私は、あなた方が守りたいものを、数字という共通言語に翻訳しに来ただけです」

「数字、ですか」

玲奈は名刺を受け取ると、ふんと鼻を鳴らした。

「工場の音を聞いたことがありますか? 紙の重さを知っていますか? Excelのセルの中には、そんなもの一行も書かれていないでしょうけど」

彼女は踵を返すと、構内へと歩き出した。

工場の中は、轟音の嵐だった。

全長百メートルにも及ぶ巨大な抄紙機(マシン)が、地響きを立てて稼働している。 ドロドロに溶けたパルプの液体が、高速でワイヤーの上を流れ、プレスされ、熱で乾燥させられ、巨大なロール紙へと巻き取られていく。

熱気と湿気が、史人の肌にまとわりつく。高価なイタリア製のスーツがあっという間に重くなるのを感じた。

「ここは五号抄紙機。主に書籍の装丁や、化粧品のパッケージに使う特殊紙を漉いています」

玲奈が大声で説明する。

「見てください、この『風合い』を。ただ白いだけじゃない。表面に微細なエンボス(凹凸)加工を施すことで、指先に吸い付くような質感を出しているんです」

彼女はラインから出てきたばかりの紙片を手に取り、史人に突きつけた。

「触ってみてください」

史人は躊躇いながら、その白い紙片を受け取った。

温かい。

生まれたての赤ん坊のような熱を持っていた。そして指の腹で撫でると、確かにザラリとした心地よい抵抗がある。 一瞬、史人の脳裏に、幼い日にこたつの上で触れた「チラシの裏」の感触がフラッシュバックした。安っぽい再生紙とは違うが、紙という物質が持つ根源的な温かみは同じだった。

(……ノイズだ)

史人はその感覚を振り払うように、紙片を無造作にポケットへ突っ込んだ。

「いい紙ですね。ですが、稼働率は四〇パーセントを切っている。このマシンを動かすための燃料費だけで、毎月数千万円の赤字です。この温かさは、会社を燃やして得ている熱だ」

玲奈が睨みつける視線を無視し、史人はタブレット端末を取り出した。

「生産ラインの確認は終わりました。次は、過去の知的財産(IP)を確認したい。デザインの版下や、試作品のアーカイブはどこに?」

「……旧館の資料室です。三十年前から、時計が止まったままの場所ですが」

案内されたのは、敷地の隅にある赤レンガ造りの倉庫だった。 重い鉄扉を開けると、カビとインクの混じった、むせ返るような古書の匂いが立ち込めた。

中は薄暗く、天井の高い空間に、無数のスチール棚が並んでいる。 そこには御子柴製紙が過去半世紀にわたって生み出してきたポスター、見本帳、カレンダーの原画が眠っていた。

「整理されていないんです。埃っぽいので気をつけて」

玲奈が入口のスイッチを入れると、水銀灯がバチバチと音を立てて頼りない光を落とした。 史人は咳き込みながら、棚の間を歩いた。

リストラ対象の資産価値査定。過去のデザインに著作権的な価値があれば、切り売りできるかもしれない。 そんな冷徹な計算をしながら、彼は「一九九〇年代」と書かれた棚の前で足を止めた。

ふと、棚の奥から突き出ている、一本の太い筒(ポスターケース)が目に入った。

ラベルには何も書かれていない。ただ、ケースの蓋に貼られた管理シールの変色具合から、かなり古いものだと分かった。 何気なく、史人はその筒を手に取った。 蓋を開け、中の丸まった上質紙を引き出す。

「……っ」

広げた瞬間、史人の喉から声にならない音が漏れた。 全身の毛穴が収縮し、心臓が早鐘を打つ。

そこに描かれていたのは、極彩色の迷路だった。

黒い背景に、蛍光色に近い鮮やかなラインが、幾何学的に、しかし有機的に絡み合いながら走っている。 一見すると前衛的な現代アートだが、その線の走り方、角の曲がり方、余白の残し方――そのすべてに見覚えがあった。

(嘘だろ……?)

史人の手が震える。 これは、僕の絵だ。

五歳の頃、団地の狭い部屋で、チラシの裏に何百枚、何千枚と描いた、あの迷路だ。 だが、これはプロの仕事だった。線は定規で引いたように鋭く、色彩設計は完璧だ。 しかし、その「設計思想(アーキテクチャ)」は、間違いなく幼い史人の脳内にしかなかったはずのものと一致している。

ポスターの右下、断裁されるはずの余白部分(トンボの外側)に、小さな日付とサインが印字されていた。

『1995.11.14 Designed by Y.Makabe』

一九九五年、十一月十四日。 史人の記憶が正しければ、父が失踪したのはその翌月、十二月のことだ。

そして『Y.Makabe』――真壁譲。かつて一世を風靡した伝説のアートディレクターの名前。 なぜ、僕の落書きが、三十年前のプロの作品としてここに存在する?

「武田さん? どうかしましたか?」

背後から玲奈が不審そうに声をかけてきた。 史人は弾かれたようにポスターを丸め、筒に戻した。額には脂汗が滲んでいた。

「……いえ。ただの、めまいです」

嘘ではなかった。世界がぐらりと傾いた気がした。 この倉庫にあるのは、単なる古い紙ではない。 ここには、史人が「余白」として切り捨ててきた自分の過去と、論理では説明のつかない「何か」が埋まっている。

筒を握る手に、嫌な汗が滲む。

その時、倉庫の小窓から差し込んだ夕日が、舞い上がる埃をキラキラと照らし出した。 それはまるで、金色の迷路の中に史人を閉じ込める檻のように見えた。


第三章 ノイズ(Noise)

「……武田さん、顔色が優れませんね」

玲奈の声には、心配というよりは、不審なものを見る色が混じっていた。

史人は大きく一つ深呼吸をして、心臓の早鐘を無理やり意志の力で抑え込んだ。営業用の仮面(ペルソナ)を貼り直す。 コンマ数秒で、彼は「冷徹なコンサルタント」に戻っていた。

「失礼。埃にやられたようです。ハウスダストアレルギーなもので」

史人はハンカチで口元を拭いながら、手にしたポスターケースを軽く振ってみせた。

「この資料、借りてもいいですか? 当時のデザインの権利関係を確認したい。もし真壁譲氏に著作権が残っているなら、整理(クリアランス)する必要があります」

「ええ、構いませんけど……」

玲奈は狐につままれたような顔をしていたが、それ以上は追求してこなかった。彼女にとってその筒は、ただの古びたゴミに過ぎないのだから。

帰りの新幹線こだま号のグリーン車。 史人は隣の席に誰もいないことを確認し、サイドテーブルに広げたタブレット端末と、あのポスターを並べた。

窓の外では、夕闇に沈む富士山のシルエットが後方へと飛び去っていく。 彼は震える指先で、自身のモレスキンのノートを開いた。会議中、無意識に描いてしまっていた落書き。

そして、タブレットのカメラで撮影した、ポスターのデザイン。 画像を拡大し、透過させて重ね合わせる。

「……あり得ない」

喉の奥から乾いた音が漏れた。 線の角度、分岐点の数、余白のバランス。 それらは、指紋のように一致していた。

人間が無意識に描く線には癖が出る。だが、ここまで完璧に一致することは統計的に不可能だ。

考えられる可能性は二つ。 一つは、幼い自分が、どこかでこのポスターを見て強烈に記憶し、三十年間無意識に模写し続けていた可能性。だが、このポスターは試作品であり、世に出ていない。

もう一つは――。

(僕が描いたものを、誰かが盗んだ?)

一九九五年の僕から? 五歳の子供の落書きを、業界のトップクリエイターが? 思考がループする。論理の袋小路(デッドロック)。

史人はこめかみを指で強く押し、思考を切り替えた。 推測は無意味だ。ファクト(事実)を集めるしかない。

彼はスマホを取り出し、検索窓に『真壁譲 現在』と打ち込んだ。 検索結果は少なかった。

かつては広告賞を総なめにした時代の寵児。しかし一九九六年を境に、その名前はメディアから消えている。

『伝説のアートディレクター、謎の隠居』 『山奥のアトリエで晴耕雨読の生活』

数件の個人ブログから、彼が現在、東京都の最西端、奥多摩の山間部に住んでいるという情報が拾えた。 史人はスマホのカレンダーアプリを開き、明日の予定を確認する。

午前十時から、デライト・ストラテジー社内での中間報告ミーティング。氷室への進捗報告だ。

史人は迷うことなく、その予定を指でスワイプし、『移動』させた。 行き先は六本木ではない。奥多摩だ。

これは「私用」ではない、と彼は自分に言い聞かせる。これはデューデリジェンスの一環だ。過去の権利関係をクリアにしなければ、売却価格(バリュエーション)に影響が出る。 これはあくまで、ビジネス上の判断だ。

胸の奥でざわめく、正体不明のノイズを無視して、史人は目を閉じた。 瞼の裏に、極彩色の迷路が焼き付いて離れなかった。

翌朝、史人はレンタカーのハンドルを握っていた。

都心から二時間。青梅街道を西へ走り、渓谷沿いの細い山道へ入ると、携帯の電波も怪しくなってきた。 鬱蒼とした杉林を抜けた先に、その平屋はあった。

古い日本家屋を改築したような建物で、広い庭には手入れされていない雑草が生い茂っている。 史人は車を降り、ポストを確認した。『真壁』という表札は、雨風にさらされて判読不能になりかけている。

インターホンはない。木製の引き戸をノックした。

「……どなたかな」

しばらくして、中からしわがれた声がした。 引き戸が重い音を立てて開く。現れたのは、白髪を後ろで縛り、作務衣を着た小柄な老人だった。

深く刻まれた皺。だが、その眼光だけは、かつてレンズ越しに世界を切り取ってきた職人の鋭さを保っていた。 真壁譲、六十八歳。

「デライト・ストラテジーの武田と申します。御子柴製紙の件で、過去のデザインについてお話を伺いに参りました」

史人が名刺を差し出すと、真壁はそれを手に取ることもなく、じろりと史人を値踏みするように見た。

「デライト……? コンサルタントか」

真壁は鼻で笑った。

「スーツの匂いがするな。金と理屈の匂いだ。帰ってくれ。私はもう、商売の話はせんよ」

扉を閉めようとする真壁。 史人は咄嗟に、脇に抱えていたポスターケースの蓋を開け、中身を取り出した。

「商売の話ではありません」

史人は広げたポスターを、真壁の目の前に突きつけた。

「この絵の話をしに来ました」

一九九五年の日付が入った、極彩色の迷路。 真壁の動きが止まった。

扉を閉めようとしていた手が、空中で硬直する。彼の視線がポスターに吸い寄せられ、そしてゆっくりと、史人の顔へと戻った。 その瞳に浮かんだのは、驚きでも懐かしさでもなかった。 それは「恐怖」に近かった。

「……どこで、それを」

「御子柴製紙の廃棄倉庫です」

史人は一歩踏み込んだ。

「真壁さん。このデザインは、あなたが描いたものですね?」

真壁は長い沈黙の後、小さく溜息をついた。その溜息は、三十年間抱えてきた重荷を少しだけ降ろすような、深い響きを持っていた。

「……入れ。茶くらいは出そう」

アトリエの中は、時間が止まっていた。

北向きの大きな窓から、安定した柔らかな光が入る。部屋の中央には大きな製図台があり、使い込まれたロットリング、乾いた絵具のチューブ、そして大量の紙の束が山積みになっている。 壁には一枚の絵も飾られていない。あるのは「余白」だけだ。

「それで? 若いコンサルタント様が、なぜこんな古紙切れ一枚に血相を変えてやってくる」

真壁は湯呑みをテーブルに置き、パイプ椅子に腰掛けた。 史人はポスターをテーブルの上に広げた。

「単刀直入に伺います。このデザインの『原案』は、どこから着想を得ましたか?」

真壁は湯呑みを啜り、視線を逸らした。

「着想も何も、私の頭の中だ。夢で見た景色かもしれんし、酔っ払って描いた線かもしれん」

「嘘です」

史人は鞄から、自分のモレスキンのノートを取り出した。

「これは、私が無意識に描いたものです。そして、私は五歳の頃から、この線を描き続けている」

ノートのページをめくり、ポスターの横に並べる。 真壁の目が大きく見開かれた。 二つの迷路が、時を超えて共鳴する。

「……君は」

真壁の声が震えた。彼は史人の顔を、まるで幽霊でも見るように凝視した。

「名前は? 下の名前だ」

「史人です。武田史人」

「フミト……」

真壁の口元が歪んだ。それは笑みのようでもあり、泣き顔のようでもあった。

「そうか。フミ君か。生きていたのか」

史人の背筋に冷たいものが走る。

「私を知っているんですか?」

「知っているとも」

真壁は立ち上がり、部屋の隅にある古いキャビネットへと歩いた。鍵を開け、一番下の引き出しから、一冊のスケッチブックを取り出す。 表紙は黒ずんでいるが、紙質は上等だ。

「君が五歳の頃、君のお父さんはよく私に自慢していたよ。『うちの息子は天才だ』とな」

真壁はスケッチブックを史人に手渡した。 史人は震える手でそれを受け取り、ページを開いた。

そこに描かれていたのは、絵ではなかった。 数字だ。

びっしりと書き込まれた、数字の羅列。日付、勘定科目、金額。それは経理の帳簿のようだった。 だが、ページをめくっていくと、その数字の羅列が、次第に「形」を持ち始めていることに気づく。 あるページでは、金額の多寡(たか)が棒グラフになり、それが極端にデフォルメされ、あの「迷路の壁」のような幾何学模様に変容していた。

「これは……」

「君のお父さん、武田和彦(かずひこ)は、私の大学時代の同期だった。彼は真面目な経理マンだったが、数字の中に『美しさ』を見る男だった」

真壁は懐かしそうに、しかし痛ましげに語り始めた。

「一九九五年。彼は私にこう言った。『会社の帳簿が汚されている』とね。裏金、架空取引、反社会的勢力への送金……御子柴製紙の経営陣は、本業の不振を隠すために手を染めていた」

史人の脳裏に、父の言葉が蘇る。 『歪んだ世界を直すための設計図だ』

「和彦は、その証拠となるデータを持ち出そうとした。だが、当時のデータ管理は厳重で、フロッピーディスク一枚持ち出すのも命懸けだった。そこで彼は、奇策を思いついた」

真壁が、史人の手元にあるポスターを指差した。

「彼は、不正な金の流れ(キャッシュフロー)の異常な数値を、独自のアルゴリズムで『図形』に変換したんだ。ベンフォードの法則を知っているか? 自然な数字のバラつきには一定の法則があるが、人為的に操作された数字――つまり粉飾された帳簿は、その法則から逸脱する」

「……その歪みを、線として描いた?」

「そうだ。彼は不正の証拠(データ)を、暗号化して『アート』に偽装した。そして、それを君に見せた」

史人は息を呑んだ。 父は、幼い僕に絵を描いて見せていたのではない。 あれは、僕に証拠を託していたのか?

「君は、お父さんの描く不思議な図形を面白がって、チラシの裏に真似して描いた。子供の純粋な模写能力は、スキャナーよりも正確だ。和彦は、君が描いたチラシの束を私に預けに来た。『これがオリジナルデータだ。もし僕に何かあったら、これを世に出してくれ』と言ってな」

真壁は悲しげに目を伏せた。

「私は、その意味も分からず、君の描いた線を元にこのポスターを仕上げた。入稿直前に、和彦が事故死したと聞くまでは」

事故死。 史人の記憶の中で、黒電話のベルが鳴り響く。

「私は悟ったよ。彼は消されたんだと。そして、このポスターが世に出れば、私も、そして『原版』を持っている君も危ないと」

真壁は、スケッチブックから視線を外し、史人を真っ直ぐに見た。

「だから私は、デザインを封印し、業界から消えた。君を守るために、君の存在を誰にも知らせないままな」

部屋の空気が、鉛のように重く感じられた。 史人が三十年間、無意識に描き続けていた落書き。 それは「アート」への憧れなどではなかった。 それは、殺された父が遺した、未だ解決されていない「事件の告発状」だったのだ。

「……武田さん」

真壁が静かに告げた。

「君が今、御子柴製紙に関わっているというのは、運命などという綺麗な言葉では片付けられん。君は、爆弾のスイッチの上に立っているんだぞ」

史人はスケッチブックを握りしめた。指の関節が白くなるほどに。 コンサルタントとしての理性が警鐘を鳴らす。

『ここから先は、契約範囲外だ。即座に撤退しろ』

しかし、史人の中の「ノイズ」が、かつてないほど大きく叫んでいた。 これは計算ではない。 これは、僕自身の人生(シナリオ)の問題だ。

「真壁さん」

史人は顔を上げた。その目には、もう迷いはなかった。

「この『原版』の読み解き方を、教えてください。私は、父が何を直そうとしていたのか、知らなければならない」


第四章 抹消(Erasure)

翌日、武田史人は六本木のオフィスに戻っていた。

足元のバッグには、真壁から託されたスケッチブックが入っている。それは三十年前の亡霊が詰まったパンドラの箱であり、同時に、史人自身のアイデンティティそのものだった。

だが、デライト・ストラテジーのオフィスは、そんな個人の感傷を許さない。

「武田、ちょっといいか」

デスクに座るなり、チャットツールに氷室恭一からの呼び出し通知が入った。 パートナー個室。ガラス張りだが、ボタン一つで曇りガラスに変わる、密室の権化。 ドアをノックして入ると、氷室は窓の外の東京タワーを見下ろしていた。

「奥多摩の空気は美味かったか?」

氷室は振り返りもせずに言った。背筋が凍る。彼は史人のGPSログを監視しているのか、あるいは興信所を使っているのか。

「……デューデリジェンスの一環です。過去の知財リスクを」

「真壁譲。かつてのアートディレクター。三十年前に業界から消えた男」

氷室がゆっくりと振り返った。その手には、一枚のペーパーが握られている。御子柴製紙の現経営陣の名簿だ。

「お前が何を嗅ぎつけたか、想像はつく。御子柴の古い連中が騒ぎ始めているよ。『外部のコンサルタントが、余計な場所を掘り返している』とな」

氷室はペーパーをシュレッダーにかけた。ジーッという機械音が、静寂を切り裂く。

「武田、お前は優秀なコンサルタントだ。だから教えてやる。ビジネスにおいて、解決できない問題は見なかったことにするのが『正解』だ」

「見なかったことにする? 不正会計があったとしてもですか」

史人が反論すると、氷室は冷ややかな笑みを浮かべた。

「時効だ。三十年前の粉飾など、法的責任は問えん。だが、レピュテーション(評判)リスクは別だ。もしお前がそれを公表すれば、御子柴製紙は『反社と繋がっていた企業』として烙印を押される。株価は暴落、銀行団は融資を引き揚げ、M&Aの話も白紙だ。結果、会社は即座に倒産。従業員は退職金も貰えずに路頭に迷う」

氷室は史人の目の前まで歩み寄り、低い声で囁いた。

「正義漢ぶって過去を暴けば、現在を生きる千人の従業員が死ぬ。私のプラン通り、静かに解体して資産を売却すれば、彼らは退職金を得て再出発できる。……どちらが『慈悲』深いと思う?」

史人は言葉に詰まった。 氷室のロジックは完璧だった。感情論ではない、残酷なまでの功利主義。

「そのスケッチブックは捨てろ。それはノイズだ」

氷室は史人の足元のバッグを一瞥した。

「明日の取締役会で、解体・売却プランの最終合意を取り付ける。お前は黙って頷いていればいい。それが、お前の仕事だ」

退出を促され、史人は廊下に出た。

足が重い。バッグの中のスケッチブックが、鉛のように重く感じられた。 父は、会社を壊すためにこれを遺したのか? いや、違う。父は言ったはずだ。『歪んだ世界を直すための設計図』だと。

だが、今の史人には「直す」方法が見えなかった。壊すか、腐らせるか。二つのバッドエンドしか用意されていないように思えた。

逃げるようにオフィスを出た史人は、気がつくと新幹線に飛び乗っていた。 思考を整理するための場所は、無機質な会議室ではない。あの、パルプの匂いがする現場しかなかった。

夕刻、御子柴製紙の工場。 史人は、稼働を停止した第五抄紙機の前に立っていた。 巨大な鉄の塊は、静まり返ると墓標のように見える。

「……また来たんですか」

背後から声をかけられた。御子柴玲奈だ。彼女は油汚れのついた作業着のまま、怪訝そうに史人を見ている。

「ここに来ると、落ち着くんです。皮肉なことに」

史人は自嘲気味に笑った。

「落ち着く? あなたが壊そうとしている場所なのに」

玲奈は史人の隣に並び、動かない機械を見上げた。

「今日、現場のスタッフに解雇予告の噂が広まりました。みんな、動揺しています。……武田さん、本当にこの工場には価値がないんですか? 私たちの三十年は、無駄だったんですか?」

彼女の声は震えていた。怒りではなく、悲痛な叫びだった。 史人はバッグの中のスケッチブックを握りしめた。

真実を告げるべきか。 『あなたの会社は、三十年前から腐っていた。その膿を出し切らなかったから、今こうなっているんだ』と。 だが、それを言えば彼女の誇りも、従業員の生活も終わる。

「……価値は、あります」

史人は絞り出すように言った。

「ですが、市場がそれを認めてくれない。今のルールの下では、あなたたちの技術は『オーバースペック(過剰品質)』なんです」

「ルール……」

玲奈はポケットから、一枚の紙を取り出した。 それは、先日史人に見せた特殊紙とは違う、半透明の不思議な素材だった。

「じゃあ、ルールを変えるものなら、どうですか?」

彼女はその紙を史人に手渡した。 驚くほど軽く、しかし強靭だ。プラスチックのようだが、温かみがある。

「これは?」

「セルロースナノファイバーを応用した、新しい梱包材です。プラスチックを一切使わず、土に還る。でも、水にも油にも強い。うちの古い抄紙機を改造して、職人たちが手探りで開発した試作品です」

玲奈の目が、夕日を受けて燃えるように輝いていた。

「コスト高で、量産化の目処は立っていません。今の経営陣からは『金食い虫』だと開発中止を命じられました。でも、これは世界を変えられる素材なんです。プラスチックゴミで溢れた海を、この紙なら救えるかもしれない」

史人はその半透明の紙を透かして、夕日を見た。 美しい、と思った。

その時、脳内で二つのレイヤーが重なった。 父が遺した「不正のグラフ(過去の負債)」。 玲奈たちが作った「新しい素材(未来の資産)」。

それらは、どちらも「歪み」を持っていた。父のグラフは数字の歪み。この素材は、既存の市場原理からの歪み(外れ値)。

(待てよ……)

史人の中で、コンサルタントの脳と、アーティストの脳が高速でリンクし始めた。 氷室は言った。「解決できない問題は見なかったことにしろ」と。 だが、デザイン思考(アート)のアプローチは違う。 問題(ノイズ)を隠すのではない。問題を「新しい文脈(コンテクスト)」に置き換えて、価値に変えるのだ。

「御子柴さん」

史人は顔を上げた。その表情から、迷いは消えていた。

「この素材、量産化のボトルネックは何ですか?」

「え? ええと、専用の乾燥ラインがないことと、あとは何より、認知度です。こんな高い梱包材、誰も買ってくれません」

「買いますよ」

史人は断言した。

「世界中のラグジュアリーブランドが。彼らが今、一番欲しがっているのは『サステナビリティ(持続可能性)』という物語だ。プラスチックを使わない、土に還る、そして『美しい』梱包材。高くても売れる」

史人はバッグからスケッチブックを取り出した。

「そして、ここには『物語』がある」

彼はページを開き、あの迷路のようなグラフを玲奈に見せた。

「これは、御社の三十年前の不正の証拠です」

「な……っ!?」

玲奈が絶句する。

「父が遺したものです。これは負の遺産だ。隠せば爆弾になる。だが、公表して、それを『過去との決別』の象徴にすれば?」

史人の脳内で、プランが組み上がっていく。

「解体も売却もしない。第三の道(サード・オプション)を作ります。この不正のグラフを……新ブランドのロゴマークにするんです」

「は?」

玲奈がポカンと口を開けた。

「過去の膿を、デザインとして昇華させる。不正な波形を、美しい『再生の波』として再定義(リ・ブランディング)する。正直さ(インテグリティ)こそが、新しい御子柴製紙の価値になる」

史人は、半透明の素材の上に、黒いマジックで迷路を描き込んだ。 新しい素材と、古い罪。二つが重なった時、そこには誰も見たことのない「未来の設計図」が浮かび上がっていた。

「御子柴さん、真壁譲を呼びましょう。そして、明日の取締役会ではなく、来週の株主総会でクーデターを起こします」

史人はニヤリと笑った。それは冷徹なコンサルタントの顔ではなく、白いキャンバスを前にした、悪戯好きの少年の顔だった。

「氷室さんには内緒で、最高のプレゼンを準備しますよ」


第五章 新しいレイヤー(New Layer)

「まさか、またこの土を踏むことになるとはな」

真壁譲は、工場のゲートを見上げ、苦虫を噛み潰したような顔で呟いた。 その手には、三十年前に使っていたという年代物のドローイングケースが握られている。

深夜の御子柴製紙。稼働を停止した工場は、巨大なクジラの死骸のように静まり返っていた。 史人は真壁を迎え入れ、玲奈が待つ旧館の資料室へと案内した。

「ここを『作戦室』にします」

史人が重い鉄扉を開けると、玲奈が長机の上に広げていた資料から顔を上げた。

「真壁先生……!」

彼女の声が上ずる。伝説のクリエイターの登場に、緊張の色が隠せない。

「お嬢さん、挨拶はいい。時間がないんだろう?」

真壁は無造作にコートを脱ぐと、パイプ椅子にドカと腰を下ろした。

「話は車の中で聞いた。過去の不正の証拠を、新ブランドの顔にするだと? ……狂気の沙汰だな。普通の企業なら隠蔽一択だ」

「隠蔽した結果が、今の御社の惨状です」

史人はホワイトボードの前に立ち、マーカーを握った。

「通常、リブランディングとは『化粧』です。汚いものを隠し、綺麗に見せる。ですが、今回我々がやるのは『外科手術』です。傷跡を隠さず、むしろそれを『生き延びた証』として見せる」

史人はボードに三つの要素を書き出した。

1.【過去】 父・和彦が遺した「不正の波形(負の遺産)」 2.【現在】 玲奈たちが開発した「新素材(技術)」 3.【未来】 世界が求める「サステナビリティ(物語)」

「この三つを重ね合わせ(レイヤー)、一つのデザインに落とし込みます。ターゲットは、欧州のラグジュアリーブランド。彼らが求めているのは、単なるエコ素材ではない。『贖罪と再生』という強いストーリーです」

史人のロジックは明快だった。だが、それは言葉上の理論に過ぎない。

「口で言うのは簡単だ、コンサルタント」

真壁が鞄から太い芯の鉛筆を取り出し、指先で弄んだ。

「だが、理屈で人の心は動かんぞ。その『傷跡』を、どうやって『美』に変える? 見せてみろ」

真壁の挑発的な視線。 史人は息を呑み、自分のカバンからモレスキンのノートと、父のスケッチブックを取り出した。

「……僕が、描きます」

そこからの数時間は、言葉の要らない戦いだった。

資料室の床には、工場の倉庫から運んできた巨大なロール紙が敷き詰められた。 PCもプロジェクターもない。あるのは、紙と鉛筆、そして黒いインクだけ。

史人は、父の遺したスケッチブックのページを開いた。 ベンフォードの法則から逸脱した、異常な数値の羅列。それをグラフ化した、歪んだ波形。

(父さん。あなたが残したかったのは、告発だけじゃないはずだ)

史人は、その波形をロール紙に拡大して模写していく。 幼い頃、チラシの裏に描いていた時と同じ感覚が蘇る。だが、今の史人には「コンサルタントの視点」があった。

「この鋭角なスパイク(突出)は、九五年三月の不正送金だ。……これを『山』に見立てる」

史人の線に、真壁が横から筆を入れる。

「線が硬い。山の稜線なら、もっと風を受け流すように引け。……こうだ」

真壁の筆が走ると、単なるグラフの折れ線が、荒々しくも雄大な山脈へと姿を変えた。

「すごい……」

横で見ていた玲奈が息を漏らす。

「でも、これだけじゃ『怖い絵』です。不正の記録そのものですから」

「そこで、君たちの技術だ」

史人は、玲奈が持ってきた半透明の新素材――セルロースナノファイバーのシートを、その絵の上に重ねた。

「この素材は、光を透過させる。黒い『過去』の上に、半透明の『未来』を重ねるんだ」

史人は新しいシートの上から、別の色のペンで線を加えた。 それは、山脈(過去)を土台にして伸びていく、新しい植物の芽のような、あるいは血管のような有機的なライン。

「下の黒い山(不正)があるからこそ、上の緑の線(再生)が際立つ。二つのレイヤーが重なって初めて、一つの絵になる」

史人の手は止まらなかった。 「思考」と「感覚」の壁が溶けていく。

今まで、コンサルティングファームで作成してきたパワーポイントの資料は、すべて四角い枠の中に情報を押し込める作業だった。 だが今、史人が描いているのは「枠のない未来」だ。 余白は、埋めるものではない。広げるものだ。

夜が白み始めた頃。

資料室の壁一面に、巨大な「設計図」が完成していた。 それは、一見すると美しい水墨画のようなランドスケープ(風景画)に見える。 だが、近づいてよく見ると、その稜線は企業の財務データ(不正の記録)であり、その上を流れる川は、新素材の分子構造モデルになっている。

『YOHAKU(余白)』

中央に、史人が力強いレタリングでブランド名を書き入れた。

「余白……ですか」

玲奈がコーヒーの入った紙コップを両手で包みながら言った。

「ああ。プラスチックで埋め尽くされた世界に、余白を取り戻す。そして、過去の罪を隠さず、その余白の中に受け入れる」

真壁が腕を組み、満足げに頷いた。

「悪くない。……いや、いい仕事だ。和彦が見たら、泣いて喜ぶだろうよ」

真壁の指先は黒く汚れていた。史人の手も、インクで真っ黒だった。 だが、その汚れこそが、何よりも雄弁な「証拠」だった。

史人は窓の外を見た。工場の煙突の向こうから、朝日が昇ってくる。 この数時間で、彼は変貌していた。

論理(ロジック)だけの冷徹な仮面は剥がれ落ち、その下から、情熱と計算を兼ね備えた「ビジネス・デザイナー」の顔が現れていた。

「準備はできました」

史人は、壁の巨大な紙を巻き取り始めた。

「行きましょう。株主総会の会場へ」

「氷室さんは、驚くでしょうか」

玲奈が不安げに尋ねる。 史人はニヤリと笑った。それは、かつて父に「世界を直す線」を褒められた時の、少年の笑顔だった。

「驚きませんよ。……腰を抜かすでしょうね」


第六章 プレゼンテーション(Climax)

株主総会の会場となる御子柴製紙本社の講堂は、重苦しい熱気に包まれていた。

最前列には、無表情な氷室恭一と、デライト・ストラテジーの部下たちが陣取っている。壇上では、現社長が脂汗を拭いながら、業績悪化の謝罪と、会社解体案の議決を求めていた。

「……以上により、特殊紙部門の廃止および工場用地の売却を、承認いただきたく……」

「異議あり!」

会場の後方扉が、大きな音を立てて開かれた。 一斉に振り返る株主たち。

そこに立っていたのは、武田史人だった。 だが、いつもの高級スーツではない。ワイシャツの袖をまくり上げ、ネクタイは外されている。その手には、バズーカ砲のような巨大な筒が抱えられていた。

「武田……?」

最前列の氷室が、初めて眉をひそめた。

「何をしている。お前の出番はないはずだ」

史人は無視して、壇上へと歩を進める。その背後には、凛とした表情の御子柴玲奈と、作業着のようなジャケットを羽織った老人――真壁譲が続く。

「株主の皆様。デライト・ストラテジーの武田です。会社側が提案した『解体案』には、重大な欠陥があります」

会場がざわめく。身内のコンサルタントからの造反。 史人はマイクを握り、会場を見渡した。

「そのプランには、御社の『本当の資産価値』が計上されていません。今から、修正案(カウンタープラン)を提示します。……ただし」

史人はPC接続用のケーブルを抜き捨てた。

「スライドはありません。現物を見ていただきます」

合図と共に、玲奈と真壁が筒から巨大なロール紙を引き出し、ホワイトボードのフレームに磁石で固定した。 バサリ、と音がして、数メートルの紙が垂れ下がる。

会場から、どよめきが起きた。 そこに描かれていたのは、圧倒的な迫力の「黒と緑の山脈」。 文字ばかりの決算書を見せられていた株主たちの目に、それは鮮烈なアートとして飛び込んだ。

「これは何だ?」 「絵画か?」

史人は一歩前に出た。

「これは、御子柴製紙の『履歴書』です」

彼は指し棒で、黒い稜線(グラフ)を指した。

「正直に申し上げます。この黒い線は、過去三十年間にこの会社が行ってきた、不正会計の推移グラフです」

悲鳴のような声が上がる。経営陣が顔面蒼白で立ち上がる。

「おい! 止めろ! 何を言うんだ!」

社長が怒鳴るが、史人の声量に圧倒される。

「隠せば、この会社は死にます! ですが、見てください」

史人は声を張り上げた。

「この黒い線の上を、新しい緑の線が覆っています。これは、御社の現場が開発した新素材『セルロースナノファイバー』の成長予測モデルであり、同時に、過去の負債を浄化する『自浄作用』のメタファーです」

史人は、玲奈から受け取った半透明のサンプルを掲げた。

「この新素材は、過去の不正を隠蔽してきた古い体質(プラスチック)を置き換える力を持っています。ブランド名は『YOHAKU』。コンセプトは『Regeneration(再生)』」

彼は氷室の方を向いた。 氷室は、無表情のまま腕を組んでいる。だが、その眼鏡の奥の瞳は、かつてないほど鋭く史人を捉えていた。

「氷室さん。あなたは言いました。『感情を捨てろ』と。ですが、市場(マーケット)は人間で構成されています。人間は、完璧な優等生よりも、罪を償い、立ち上がろうとする人間に心を動かされる。それが『応援』という名の投資です!」

史人は会場に向き直った。

「解体して土地を売れば、確かに負債は消える。だが、未来も消えます。この新ブランドに投資すれば、リスクはある。だが、ここには世界を変える『物語』がある! どちらを選びますか!」

史人のプレゼンは、論理を超えていた。 それは、魂の叫び(ソウル・スクリーム)だった。

会場の空気が変わる。 損得勘定で固まっていた株主たちの顔に、赤みが差していく。

沈黙。 それを破ったのは、皮肉にも氷室恭一だった。

彼はゆっくりと立ち上がり、パチ、パチ、と乾いた拍手を送った。

「……計算外だ、武田」

氷室の声が会場に響く。

「リスク計算が滅茶苦茶だ。ロジックにも飛躍がある。コンサルタントとしては失格だな」

氷室は口角をわずかに上げた。

「だが……アートディレクターとしては、悪くない」

その言葉を合図に、会場中から割れんばかりの拍手が巻き起こった。 経営陣は項垂れ、玲奈は目に涙を浮かべている。真壁は腕を組み、満足げにニヤリと笑った。

史人は肩で息をしながら、壇上からその光景を見つめた。 「余白」だらけだった未来の地図に、今、確かな道が描かれていた。


終章 キャンバス(Canvas)

一ヶ月後。

経済ニュースのヘッドラインは、御子柴製紙の話題で持ちきりだった。 『老舗製紙会社、三十年越しの不正を公表』 『新ブランド「YOHAKU」、欧州ラグジュアリーグループと提携交渉へ』

世間の反応は賛否両論だった。コンプライアンス違反に対する厳しい批判は免れなかったが、同時に、それを「過去の清算」として提示し、環境負荷ゼロの新素材で再起を図るというドラマチックなストーリーは、SNSを中心に熱狂的な支持を集めていた。

株価は一時的に急落したが、YOHAKUブランドの発表直後からV字回復を見せ、現在は騒動前の水準を上回っている。

御子柴製紙は、死ななかった。 それどころか、脱皮したばかりの昆虫のように、瑞々しい生命力を放ち始めていた。

十月末。六本木、デライト・ストラテジー。

武田史人は、かつて戦場だったガラス張りのオフィスを歩いていた。 私物は既にダンボール一箱にまとめている。ここにあるのは、借り物のPCと、返却すべきIDカードだけだ。

彼はパートナー個室のドアをノックした。

「入れ」

変わらぬ、温度のない声。 氷室恭一は、デスクで分厚い洋書を読んでいた。史人が白い封筒を差し出しても、視線を上げようとしない。

「辞表か。手続きは人事を通せと言ったはずだが」

「最後のご挨拶です。氷室さん」

史人は静かに言った。

「今回の件、会社に損害を与えたことは謝罪します」

「損害?」

氷室はようやく顔を上げ、眼鏡の位置を直した。

「御子柴製紙の株価上昇に伴い、我々が保有していた成功報酬型のストックオプションは、想定の三倍の価値になった。結果として、今期一番の利益(プロフィット)だ。……皮肉なことにな」

氷室は口元を歪めた。それは嘲笑ではなく、どこか諦めにも似た苦笑だった。

「お前のロジックは穴だらけだった。リスク管理もなっていない。だが、マーケットは『正解』よりも『熱狂』を選んだ。……私の負けだ」

「勝ち負けではありません。ただ、見ているレイヤーが違っただけです」

史人は深く一礼し、踵を返した。 ドアノブに手をかけた時、背後から氷室の声が飛んだ。

「武田」

振り返ると、氷室は窓の外、広大な東京の街並みを見ていた。

「この街は、すべてが計算と利害で動いている。お前が行こうとしている世界は、ここより遥かに不確かで、非効率で、残酷だぞ」

「ええ、知っています」

史人は微笑んだ。

「ですが、そこには『余白』がありますから」

氷室は鼻を鳴らし、再び本に視線を落とした。

「……行け。せいぜい、いい絵を描くんだな」

ビルを出ると、秋の風が吹き抜けた。

空調で管理された無臭の空気ではなく、排気ガスと、どこかから漂う金木犀の甘い香りが混じった、雑多な街の匂い。 史人はベンチに腰を下ろし、ポケットから真新しい名刺入れを取り出した。

まだインクの匂いが残る、特注の紙。御子柴製紙の「YOHAKU」を使用した、少しザラつきのある温かい名刺だ。 そこには、肩書きと名前だけがシンプルに刻印されている。

Art Director / Business Designer 武田 史人

カバンからスケッチブックを取り出す。

かつて、彼にとって世界は、誰かが引いたグリッド線で区切られた、息苦しい迷路だった。 歩くべき道は決まっていて、壁にぶつからないように進むだけの、灰色のゲーム。

だが、今は違う。

史人は顔を上げた。 行き交う人々、林立するビル群、その隙間に広がる青空。 視界に入るすべてのものが、色を持ち、形を主張している。

そして、それらの隙間には、無限の「描かれていない場所」があった。 史人はペンを握った。

白いページに、最初の一本の線を引く。 それは迷路の壁ではない。 まだ見ぬ明日へと続く、自由な稜線だ。

「さて、何を描こうか」

彼は立ち上がり、極彩色の世界へと歩き出した。 その足取りは軽く、まるでキャンバスの余白に踊る筆先のようだった。

(了)

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