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『雲の切れ間に』

君は、僕が殺したかもしれない『太陽』を、まだ抱きしめていた。


あらすじ

大手広告代理店のアートディレクター・志水亮介は、ある製品のデザインが原因で痛ましい事故を引き起こしたとして世間から糾弾され、深い罪悪感の中にいた。 心を病み、休職した彼の日課は、灰色の雨の中を当てもなく歩くことだけ。

ある秋の午後、激しい雨宿りのために立ち寄った古びたバス停で、亮介は一人の女性と出会う。 季節外れの薄着。透き通るような白い肌。そして焦点の合わない瞳。 彼女は、骨の折れた泥だらけの「黄色い傘」を、まるで宝物のように抱きしめ、来るはずのない誰かを待ち続けていた。

その傘こそ、亮介がデザインし、彼を絶望へ追いやった「事故の象徴」そのものだった。

毎日、同じ時刻、同じ場所で繰り返される彼女の不可解な行動。 彼女はこの世の者ではないのか? 事故現場に縛られた「幽霊(ユーレイ)」なのか? 亮介は、自らの罪と向き合うため、彼女の「未練」を解き明かそうとする。 しかし、彼が踏み込んだ先には、幽霊譚よりも切なく、あまりにも残酷な「愛」の真実が待っていた。

止まった時間。不吉な鴉(カラス)の鳴き声。 厚い雲の切れ間から光が差すとき、絶望は形を変える――。

登場人物紹介

  • 志水 亮介(しみず りょうすけ) かつては数々の賞を受賞した敏腕アートディレクター。自身が企画した「子供用安全傘」が事故を誘発したとしてバッシングを受け、休職中。現実と非現実の境界が曖昧になっており、バス停の女性に「贖罪」の機会を見出す。
  • 千歳(ちとせ) 雨の日にだけ、事故現場近くのバス停に現れる謎の女性。 儚げな美しさを持ち、常に誰かに語りかけるような素振りを見せるが、その視線の先には誰もいない。亮介が近づいても気づかない様子から、亮介は彼女を「幽霊」ではないかと疑う。
  • 黄色い傘(サンブレラ) 亮介がデザインした子供用の傘。「雨の日でも手元に太陽を」というコンセプトで作られたが、今は無惨に壊れ、千歳の腕の中で静かにその時を待っている。

第一章 灰色のリズム

カァ、カァ、と頭上から嘲笑うような声が降ってくる。 志水亮介は思わず足を止め、鉛色の空を見上げた。電線に一羽の烏が止まっている。黒い瞳が、休職中の無精髭を生やした男をじっと見下ろしていた。 ここ数ヶ月、亮介の耳には常にこの音がこびりついて離れない。それはネットニュースのコメント欄を埋め尽くす罵詈雑言のようでもあり、会社のエントランスで浴びたフラッシュの音のようでもあった。

十月の冷たい風が、よれよれになったパーカーの隙間から入り込んでくる。 時刻は午後三時。働いている人間ならデスクでコーヒーを啜っている時間だ。かつては亮介もそうだった。大手広告代理店のアートディレクター。華やかな肩書き、クリエイティブな日々。 だが今の彼は、社会のサイクルから弾き出された異物でしかない。

「……降りそうだ」

頬にポツリと冷たいものが当たった。 予報になかった雨だ。亮介は逃げるように歩き出した。宛てもなく歩くことだけが、今の彼に残された唯一の日課だった。 雨脚は急速に強まり、アスファルトを黒く染めていく。雨音が世界を覆い尽くし、あの烏の声がかき消されたことに、亮介は奇妙な安堵を覚えた。

川沿いの遊歩道を抜け、古びたバス停の屋根の下に滑り込む。 そこは、廃線寸前の路線バスがたまに停まるだけの、寂れた待合所だった。錆びついたベンチ、落書きだらけの時刻表。 亮介は濡れた髪を払い、ふと顔を上げる。 心臓が、早鐘を打った。

先客がいた。 ベンチの端に、女性が座っていた。

この寒空の下、彼女は薄手の白いワンピースに、ベージュのトレンチコートを羽織っているだけだった。足元はサンダルで、季節感がまるで抜け落ちている。 だが、亮介が息を呑んだ理由はそれではない。 彼女の纏う空気が、あまりにも透き通っていたからだ。激しい雨音の中にいながら、彼女の周りだけ音が死んでいるように静かだった。

彼女は、亮介が入ってきたことに気づいていないようだった。 虚ろな瞳で、雨に煙る道路の向こう側をじっと見つめている。まるで、そこに来るはずのない誰かを待ちわびているように。

「……あの」

亮介は無意識に声をかけていた。無視されるかと思ったが、彼女の唇が微かに動くのが見えた。

「もうすぐ、来るから」

鈴を転がすような、美しい声だった。だが、それは亮介に向けられたものではなかった。彼女は依然として虚空を見つめたまま、独り言のように呟いたのだ。

「パパが車で来るから。そうしたら、お家でおやつにしようね」

亮介は背筋が寒くなるのを感じた。 彼女の視線の先には誰もいない。ベンチの隣は空席だ。 いや、違う。 彼女は何かを抱きしめていた。 亮介の目がそれに吸い寄せられ――次の瞬間、彼は悲鳴を上げそうになるのを必死で堪えた。

彼女が胸に抱いていたもの。 それは、泥に汚れ、骨組みがいびつに折れ曲がった、子供用の傘だった。 鮮やかな、警戒色のような黄色。そして、先端の透明な窓部分にプリントされた、笑っている太陽のキャラクター。

『Sun-Brella(サンブレラ)』 『雨の日でも、子供たちに太陽を』

かつて亮介が、何百枚ものラフを描き、幾度ものプレゼンを経て世に送り出した、あの傘だった。 機能美と安全性を謳い、そして――「子供の視界を惑わせる欠陥品」「死を招くデザイン」と糾弾された、あの黄色い傘だ。

なぜ、ここに。 亮介の足が震え始めた。逃げ出したいのに、金縛りにあったように動けない。

彼女が、慈しむようにその無惨な残骸を撫でる。

「ほら、見て。太陽だよ。あなたが選んだ、太陽の傘」

彼女は笑っていた。 その笑顔は、聖母のように穏やかで、そして狂気的なほどに純粋だった。 亮介は直感した。 この人は、生きている人間ではない。 現実の人間が、こんな雨の吹き込むバス停で、壊れたゴミのような傘を赤子のようにあやし、幸せそうに微笑むことができるはずがない。

ユーレイ。 そんな陳腐な言葉が脳裏をよぎる。 ここは、あの事故の現場に近い。 ならば彼女は、あの傘を持っていた子供の母親か。それとも、子供を探し続ける残留思念か。

「……ねえ」

ふいに、彼女が顔を動かした。 焦点の合わない瞳が、亮介の方を向いた気がした。亮介は息を止める。

「雨、やまないね」

彼女は傘をギュッと抱き直した。

「でも大丈夫。この傘があれば、ずっと晴れだから」

カァ――。 不意に、どこかで烏が鳴いた。 その瞬間、彼女の表情が凍りついた。美しい陶器にヒビが入るように、顔が恐怖に歪んでいく。

「いや……その音、やめて。来ないで」

彼女は頭を抱え、小さく震え出した。亮介に見えていた「美しい幽霊」の像が揺らぎ、そこにはただ、耐え難い苦痛に怯える何者かがいた。

亮介は何もできなかった。声をかけることも、触れることも。 ただ、彼女の腕の中で押し潰されている「黄色い傘」の、あの太陽のマークだけが、皮肉なほど明るく亮介を睨みつけていた。

雨は、世界を灰色に塗り潰すように、激しく降り続いていた。

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第二章 水底の部屋

不意に、遠くでクラクションが鳴った。 その鋭い音が、バス停を支配していた奇妙な静寂を切り裂いた。

「……行かなきゃ」

女は弾かれたように顔を上げ、怯えた小動物のような仕草で辺りを見回した。 先ほどまでの、子供に語りかけていた慈愛に満ちた表情は消え失せている。今の彼女は、何かに追われる逃亡者の顔をしていた。

「待って」

亮介は思わず手を伸ばした。 だが、指先が彼女のトレンチコートに触れようとした瞬間、彼女は音もなくベンチから立ち上がり、雨煙の中へと走り出していた。 その足取りは不安定で、今にも倒れそうに見える。けれど、亮介が呆気にとられている数秒の間に、彼女の姿は白く煙る雨のカーテンの向こう側へと吸い込まれていった。

あとには、湿ったコンクリートの匂いと、亮介の荒い呼吸だけが残された。 ベンチを見る。濡れた跡が、確かにそこに人が座っていたことを証明している。 だが、亮介の感覚はそれを否定していた。 あれは現実だったのか? あの壊れた黄色い傘。あの透き通るような白い肌。そして、どこにも焦点が合っていない瞳。

「……俺のせいだ」

口をついて出た言葉は、雨音にかき消された。 亮介は、彼女が走り去った方向――灰色の住宅街の方角を、いつまでも立ち尽くして見つめていた。


築四十年、1Kのアパート。 亮介の部屋は、カーテンが閉め切られ、万年床の布団とコンビニのゴミが散乱していた。昼夜の感覚はとうに失われている。ここはまるで、時間の流れから切り離された水底(みなそこ)のようだ。

帰宅した亮介は、濡れた服も着替えず、埃を被ったノートパソコンを開いた。 指が震える。検索窓に打ち込むべき言葉は分かっている。けれど、それを直視することが怖くて、数ヶ月間、決して検索しなかった言葉だ。

『黄色い傘 事故 子供』 『サンブレラ 視界不良 死亡』

エンターキーを押す。 画面が切り替わり、無機質な文字の羅列が亮介の網膜を焼いた。

――三ヶ月前、市内交差点にて七歳の男児が軽トラックにはねられ死亡。 ――雨天時、男児が使用していた傘のフィルム部分が光を反射し、ドライバーの発見が遅れた可能性。 ――問題の製品は、大手代理店が企画した『Sun-Brella』。

記事には、現場の写真が添えられていた。 雨に濡れたアスファルト。規制線。そして道路の隅に転がる、ひしゃげた黄色い傘。 あのバス停で、彼女が抱きしめていたものと全く同じ形だった。

「やっぱり、そうだ……」

亮介は乾いた笑い声を漏らした。 あそこにいたのは、あの事故の関係者だ。 母親か? 記事によれば、母親は事故当時、風邪で寝込んでおり、子供一人で習い事へ行かせたことを苦にしていたという記述があった。

もし、母親がその心労で亡くなっていたとしたら? あるいは、生きていたとしても、あのバス停に現れた彼女は、明らかに「こちらの世界」の住人ではなかった。 あんな季節外れの格好で、壊れた傘を抱き、虚空の子供と会話をする。 あれは、この世に未練を残した魂の残滓(ざんし)。 地縛霊。幽霊。呼び方は何でもいい。

確かなことは一つだけだ。 俺が作った傘が、あの子を殺し、あの母親をあそこに縛り付けた。

亮介は画面を閉じた。暗転したディスプレイに、やつれきった自分の顔が映り込む。 死んだような目をしていた。 だが、その瞳の奥に、ここ数ヶ月間感じたことのない、微かな熱が灯っていることに亮介は気づいた。

使命感、と呼ぶにはあまりに独善的かもしれない。 けれど、もし彼女が、自分の罪によって生まれた「幽霊」なのだとしたら。 彼女の未練を晴らし、あのバス停から解き放つことができれば。 それは、社会的に抹殺され、生きる意味を失った自分にとって、唯一の「贖罪」になるのではないか。

「また、会えるだろうか」

亮介は窓を見る。 雨はまだ、降り続いている。 彼は立ち上がった。冷蔵庫からぬるくなった缶ビールを取り出し、一気に煽る。 明日の天気予報を確認する。 雨だ。 秋雨前線は、まだしばらくこの街に居座るらしい。

亮介は、生まれて初めて、雨が降り続くことを祈った。 あのバス停に行けば、また彼女に会える。 あの美しく、哀しい幽霊に。


翌日も、その翌日も、雨が降った。 亮介は憑かれたようにバス停に通った。 予想通り、彼女は現れた。

午後三時十五分。 彼女はいつも、どこからともなくふらりと現れ、ベンチの端に座る。 服装は変わらない。薄手のワンピースにトレンチコート。そして腕の中には、あの壊れた黄色い傘。

亮介は、少し離れた場所から彼女を観察した。 彼女は誰とも会話しない。時折、傘を愛おしそうに撫で、また虚空に向かって微笑みかける。 その姿は神聖ですらあり、同時に見ていられないほど痛々しかった。

異変が起きるのは、決まって午後三時半だ。 近くのゴミ集積所あたりで、カラスが鳴く。 その声を聞いた瞬間、彼女は発作を起こしたように震え出し、何かに追われるように走り去っていく。 亮介が後を追おうとしても、彼女は迷路のような路地裏へ逃げ込み、煙のように姿を消してしまうのだ。

三日目の雨の日。 亮介は、意を決してベンチの反対側に座った。 彼女との距離、五十センチ。 雨の匂いに混じって、彼女からは微かに、古びた金木犀(キンモクセイ)のような甘く切ない香りがした。線香の香りに似ている気もした。

「……今日も、待ってるんですか」

亮介は震える声で尋ねた。 彼女はゆっくりと首を巡らせ、初めて亮介を――いや、亮介の背後にある雨空を真っ直ぐに見つめた。

「うん。待ってるの」

彼女の声は、雨音に溶けそうなほど儚い。

「この傘があれば、あの子は濡れないから。あの子、雨が嫌いなの。でも、この傘はお日様だから好きだって……」

亮介の胸が締め付けられる。 それは、亮介が企画書に書いたコンセプトそのものだった。 『雨の日が憂鬱な子供たちに、手元の太陽を』 その言葉が、こんな形で呪いとなって返ってくるとは。

「あの」

亮介は、喉の渇きを覚えながら、核心に触れる問いを投げかけた。

「あなたが待っているお子さんは……もう、来ないんじゃないですか?」

残酷な問いだった。 成仏させるためには、自分が死んでいること、あるいは待っている相手がもういないことを自覚させなければならないと、何かの本で読んだことがあった。

彼女の手が止まった。 抱きしめていた黄色い傘の骨組みが、ギシ、と悲鳴を上げるほど強く握りしめられる。

「来るわ」

彼女は、感情の抜け落ちた声で言った。

「来るのよ。だって、まだ『さよなら』も言ってないもの」

彼女の瞳から、一筋の涙が零れ落ちた。 それは頬を伝い、黄色い傘の透明なビニールの上にポツリと落ちた。 その時、亮介は見た気がした。 彼女の身体が、ふっと透き通り、雨の景色と同化したように見えたのを。

やはり、彼女はこの世の者ではない。 「さよなら」を言えなかった後悔。それが彼女をこのバス停に縛り付けている鎖なのだ。

カァ、カァ、カァ――。

頭上で烏が鳴いた。 彼女の顔が強張る。時間の切れ目がやってきたのだ。

「行かなきゃ」 「待ってください!」

立ち上がろうとする彼女の手首を、亮介はとっさに掴んだ。 冷たい。 氷のように冷たく、そして、驚くほど細い手首だった。 だが、その感触は確かに「物体」としての質量を持っていた。

彼女が驚愕の表情で亮介を見る。 その瞳に、初めて亮介自身の姿が映ったように見えた。

「離して……! あの人が、帰ってくる」 「あの人?」

夫のことか? それとも、彼女を迎えに来る死神のような存在か? 彼女は必死に腕を振りほどいた。その力は、幽霊とは思えないほど必死で、人間的な強さを持っていた。

「ごめんなさい、いかなきゃ、怒られる、鍵が、鍵が閉まっちゃう……」

彼女はうわ言のように呟きながら、雨の中へと駆け出した。 亮介の手には、彼女の冷たい体温の余韻と、彼女が振りほどいた拍子に落ちた、小さな何かが残されていた。

亮介はそれを拾い上げる。 それは、泥に汚れた、小さな男の子の写真が入ったロケットペンダントだった。

第三章 鴉の啼く家

手のひらに残ったロケットペンダントは、氷のように冷たかった。 泥を拭うと、中から小さな写真が現れた。あどけない笑顔でピースサインをする男の子。その背景には、あの「黄色い傘」が花開いている。 間違いない。ネットニュースで見た、事故死した男児だ。

亮介は震える手でロケットを握りしめた。 幽霊が物を落とすだろうか? いや、心霊現象の事例には、物品移動(アポーツ)という現象もある。あるいは、彼女が強い念を込めたからこそ、このペンダントだけが実体化したのかもしれない。 亮介は、必死に「非現実」のロジックで自分を納得させようとしていた。もし彼女が生身の人間だとしたら、あの透き通るような身体の消失や、会話の成立しなさを説明できないからだ。何より、生きた人間があんな目をして、雨の中を彷徨っているという現実の方が、幽霊よりも遥かに恐ろしかった。

ペンダントの裏面には、小さく『Kakeru』と刻まれていた。そして、その下には電話番号らしき数字が彫られていたが、摩耗して読み取れない。 だが、亮介には心当たりがあった。 彼女が走り去った路地裏。あの先にあるのは、古くからの住宅街だ。 亮介は以前、事故の記事を検索した際、被害者遺族の名字を記憶していた。『宮本(みやもと)』だ。

翌日。雨は上がっていた。 雲の切れ間から薄日が差しているが、亮介の心は鉛色のままだった。 彼はロケットペンダントをポケットに入れ、アパートを出た。彼女にこれを返さなければならない。それが、彼女を成仏させるための鍵(キー)になるかもしれない。

路地裏は迷路のように入り組んでいたが、表札を確認しながら歩くこと三十分。 亮介は、ある一軒家の前で足を止めた。 築浅の、こざっぱりとした二階建て。だが、その家だけが周囲から浮いていた。 全ての窓の雨戸が閉め切られ、庭木は伸び放題になっている。まるで、その家だけ時間が止まっているようだ。 門柱の表札には『宮本』とある。

「ここか……」

亮介は息を整え、インターホンに手を伸ばした。 その時だ。 玄関のドアがガチャリと開き、男が出てきた。 四十代だろうか。喪服のように黒いスーツを着ている。ひどく疲れた顔をしており、手には大きなゴミ袋を持っていた。 亮介はとっさに電柱の影に隠れた。 男はゴミを集積所に出すと、ふう、と重い溜息をつき、再び家の中へ戻ろうとした。

――カァ。

どこかで烏が鳴いた。 男の肩がビクリと跳ねる。男は憎々しげに空を睨みつけ、「……うるさいな」と低く吐き捨てた。 その声を聞いた瞬間、亮介の脳裏に閃くものがあった。 バス停で彼女が言っていた言葉。 『あの人が帰ってくる』 『怒られる、鍵が閉まっちゃう』

男が玄関のドアを開ける。その隙間から、家の中の様子がわずかに見えた。 薄暗い廊下。 そこに、白い影が立っていた。

亮介は目を疑った。 そこにいたのは、あの千歳だった。 だが、バス停で見せる「聖母」のような姿とは似ても似つかなかった。 髪は乱れ、うつむき、男の足音に怯えるように身体を小さくしている。トレンチコートではなく、色褪せたスウェット姿だ。

「ただいま。……千歳、薬は飲んだか?」

男の声は、優しさというよりは、疲弊しきった管理者の響きを帯びていた。 千歳と呼ばれた彼女は、無言で首を横に振る。男は諦めたように首を振り、彼女の背中に手を添えて奥の部屋へと促した。 その時、彼女が一瞬だけ振り返り、外の世界を見た。 その瞳は、バス停で見た時と同じ、どこにも焦点の合わない虚ろな瞳だった。だがそこには、明確な「生気」の欠落と、病的な「絶望」が張り付いていた。

バタン、と重い音を立ててドアが閉まる。 二つの鍵をかける音が、カチャリ、カチャリと響いた。

亮介は、電柱に背中を預けたまま、ずり落ちるように座り込んだ。 心臓が早鐘を打っている。

彼女は、生きていた。 幽霊ではなかった。 あの家で、夫と思われる男と暮らしている、生身の人間だった。

では、あのバス停での出来事は何だったのか? なぜ彼女は、雨の日だけ、あんな格好で抜け出し、壊れた傘を抱いて「過去」を演じていたのか?

『鍵が閉まっちゃう』

彼女の言葉がリフレインする。 彼女は、あの家から出られないのか? 監禁されているのか? いや、夫の様子は暴力的というよりは、病人を抱えて憔悴しているように見えた。 だとすれば、彼女自身が――。

亮介はポケットの中のロケットペンダントを握りしめた。 金属の冷たさが、残酷な現実を突きつけてくる。

彼女は「幽霊」として過去に留まっているのではない。 耐え難い現実から逃れるために、心が壊れ、自ら「あの日」の時間をループし続けているのだ。 そしてその原因を作ったのは、他でもない。 亮介がデザインした、あの黄色い傘だ。

「……なんてことだ」

亮介は呻いた。 幽霊であってほしかった。 死者が残した未練ならば、祈ることで、あるいは忘れることで救われたかもしれない。 だが、彼女は生きている。 生きながらにして、地獄のような時間を、今も呼吸しながら繰り返している。

亮介は立ち上がった。足元がふらつく。 逃げ出したい衝動に駆られた。ここから立ち去り、二度とあのバス停に近づかなければ、また元の灰色の日常に戻れる。 だが、ポケットの中の少年が、亮介の指先を熱く焦がしているように感じた。

彼は震える指で、インターホンを押した。 ピンポーン、という電子音が、静まり返った住宅街に場違いに明るく響いた。

数秒の沈黙。 再びドアが開き、先ほどの男が怪訝な顔で顔を出した。

「……どちら様ですか?」

警戒心に満ちた目だ。 亮介は乾いた唇を舐め、掠れた声で言った。

「落とし物を、届けに来ました」

亮介はロケットペンダントを差し出した。 男の目が大きく見開かれた。先ほどの疲労感が吹き飛び、驚愕と、そして深い悲しみが混ざり合った表情に変わる。

「これは……翔(かける)の」 「奥様が、落とされたようです」 「妻が? まさか、また抜け出して……」

男はロケットを受け取ると、崩れ落ちそうになる身体をドア枠で支えた。そして、すがるような目で亮介を見た。

「どこで、妻を?」 「……近くの、バス停です。川沿いの」 「あそこか……。事故の、現場の」

男は顔を覆った。指の隙間から、嗚咽のような声が漏れる。 亮介は、自分が断頭台の前に立っているような気分だった。 今こそ、言わなければならない。自分が何者か。なぜ、あの傘があそこにあったのか。

「あの」 「上がってください」

男が顔を上げ、亮介を真っ直ぐに見た。

「妻に、会ってやってくれませんか。いえ……少しだけ、話を聞いてほしいんです。このままでは、私も妻も、壊れてしまいそうで」

それは、限界を迎えた介護者が、通りすがりの他人に助けを求めるような、切羽詰まった響きだった。 亮介は頷くしかなかった。 重い鉄の扉のような玄関ドアが、亮介を招き入れるように開かれた。 その奥から、またあの甘い線香の匂いと、微かな金木犀の香りが漂ってきた。

第四章 罪の在処

通されたリビングは、昼間だというのに夜のように薄暗かった。 雨戸の隙間から、わずかな光が糸のように差し込んでいるだけだ。部屋の空気は澱み、時が止まったような重苦しさに満ちている。 部屋の奥には、立派な仏壇があった。その中央に、先ほどのロケットペンダントと同じ、屈託なく笑う少年の遺影が飾られている。 そして、その遺影の横に、泥だらけの「黄色い傘」が立てかけられていた。 骨組みは折れ、ビニールは破れている。それは紛れもなく、亮介がこの世に生み出し、そして少年を死に追いやった凶器だった。

「お茶も出せず、すみません」

夫――宮本は、ソファの対面に重い腰を下ろした。 亮介は座ることができなかった。直立不動のまま、仏壇の少年に向かって深く頭を下げた。

「……先ほどは、失礼しました。妻の状態を見て、驚かれたでしょう」

宮本が自嘲気味に笑う。

「妻は、あの日から時間が止まっているんです。翔が事故に遭った、あの雨の日から」

宮本の話は、亮介の想像を裏打ちするものだった。 あの日、風邪で寝込んでいた千歳は、翔を一人で習い事に行かせた。翔は気に入っていた黄色い傘を持って出かけた。そして、二度と帰ってこなかった。 その自責の念が、彼女の心を砕いた。 彼女は解離性障害と診断されていた。雨が降る午後三時になると、彼女の意識は「あの日」に飛び、翔を迎えに行かなければという強迫観念に駆られ、夫の制止を振り切って家を抜け出してしまうのだという。

「バス停での妻は、まだ翔が生きている時間を生きているんです。だから、幸せそうに見えたかもしれません。でも……」

宮本の顔が歪む。

「カラスの声で、現実に引き戻されるんです。あの日、現場に響き渡っていたあの声で。そうして彼女は、毎日、息子が死ぬ瞬間を追体験させられている」

亮介は拳を握りしめた。爪が皮膚に食い込む。 彼女は幽霊などではなかった。 毎日、地獄の業火に焼かれるような苦しみを味わっている、生身の人間だった。 そして、その地獄の舞台装置を作ったのは、自分だ。

「……宮本さん」

亮介の声が震えた。これ以上、黙っていることは卑怯だと思った。 自分が何者かを知れば、この夫は自分を殴り殺そうとするかもしれない。それでも構わない。むしろ、そうされたかった。

「お話の途中ですが、申し上げなければならないことがあります」

宮本が顔を上げ、亮介を見る。

「私は、通りすがりの者ではありません。私は……あの傘を、デザインした人間です」

部屋の空気が凍りついた。 換気扇の回る音だけが、ブーンと低く響いている。 宮本は目を見開き、亮介を凝視した。そして、視線を仏壇の「黄色い傘」へと移した。

「『Sun-Brella』……でしたか」 「はい。子供の安全のためにと、私が考案しました。ですが、結果として……私の未熟なデザインが、翔くんの視界を奪い、あのような事故を」

言葉が詰まる。喉が熱い。

「私が、翔くんを殺しました。そして、奥様をあのような姿にしてしまった。死んで詫びても、償いきれるとは思いません。本当に……申し訳ありませんでした」

亮介は床に膝をつき、額を擦り付けた。 罵声を待った。暴力の痛みを待った。 だが、降りてきたのは、長く、重い溜息だった。

「……顔を上げてください」

宮本の声は静かだった。

「ニュースは見ました。ネットで、あの傘が『欠陥品』だと叩かれていることも知っています。デザイナーの方が、責任を感じて休職されているという噂も」 「なら、なぜ……!」 「翔が、選んだからです」

宮本の言葉に、亮介は息を呑んだ。

「あの日、玄関で翔は言ったんです。『今日は雨だけど、これがあるから大丈夫』って。あの傘は、私たちが買い与えたものではありません。翔が、自分でお小遣いを貯めて買ったんです」

宮本が立ち上がり、仏壇の前へ歩み寄る。そして、壊れた黄色い傘を手に取った。

「あの子は、雨の日が嫌いでした。体が弱くて、外で遊べないから。でも、この傘を買ってからは、雨の日を待ち遠しく思うようになったんです。『この傘を開くと、空に太陽ができるんだ』って」

宮本は、傘の破れたビニール部分を指でなぞる。そこには、亮介が描いた太陽のキャラクターが、泥にまみれながらも笑っていた。

「あなたを恨まなかったと言えば、嘘になります。メーカーに抗議しようと思ったこともありました。でも……あの子が最後に握りしめていたのは、恐怖の象徴じゃない。あの子にとっての『希望』だったんです」

宮本は亮介に向き直り、深く頭を下げた。

「作ってくれて、ありがとうございました。あの子の短い人生に、雨の日の楽しみをくれて」

亮介の目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。 彼は断罪を求めていた。自分が「悪」であると決めてもらうことで、楽になろうとしていた。 だが突きつけられたのは、あまりにも切実な「救い」の事実だった。 自分の仕事は、確かに誰かを殺したかもしれない。けれど同時に、誰かの心を照らしてもいたのだ。

その時、廊下から微かな足音が聞こえた。 ふらりと、千歳がリビングに入ってきた。 薬が効いているのか、その瞳は虚ろだ。彼女は亮介の存在に気づいていない様子で、ふらふらと夫の方へ歩み寄る。

「……あなた。翔は?」

彼女が掠れた声で尋ねる。 宮本は泣きそうな顔で微笑み、彼女の肩を抱いた。

「もうすぐ帰ってくるよ。……いや、違うな」

宮本は亮介を見た。 亮介は涙を拭い、立ち上がった。 今なら、できるかもしれない。 幽霊としてではなく、現実の人間として、彼女の時間を動かすことが。

「奥さん」

亮介は千歳に呼びかけた。 千歳がゆっくりと顔を上げる。その瞳に、亮介の姿が映る。

「明日、もう一度、あのバス停に行きましょう」

千歳が小首を傾げる。

「バス停? ……翔を、迎えに?」 「いいえ。翔くんが大好きだったものを、見に行きましょう」

亮介は、宮本の手にある黄色い傘を見つめた。

「雨は上がりました。明日はきっと、晴れますから」


翌日の午後三時。 空は、昨日の嵐が嘘のように高く澄み渡っていた。 濡れたアスファルトが乾き始め、街は秋の穏やかな光に包まれている。

亮介は、あのバス停に立っていた。 隣には、宮本に支えられた千歳がいる。彼女は今日はスウェットではなく、きちんとした服を着ていたが、その手にはやはり、あの壊れた傘が握られている。

「……来ないわ」

千歳が不安そうに呟く。

「パパの車、まだ来ない」

彼女の意識が、また「あの日」に揺り戻されようとしている。 亮介は首を振った。

「来ませんよ。もう、誰も来ないんです」

千歳がハッとして亮介を見る。その瞳に動揺が走る。

「どうして? だって、この傘を……」 「その傘を、開いてみてください」

亮介は静かに促した。 千歳は戸惑いながら、夫の顔を見た。宮本が黙って頷く。 彼女は震える指で、傘の留め具を外し、ゆっくりとそれを空へ掲げた。

バッ、と音がして、骨の折れた無惨な傘が開く。 破れたビニール。泥の跡。それはゴミのように見苦しい物体のはずだった。

だが、その瞬間。 西に傾きかけた太陽の強い光が、黄色いフィルムを透過した。

「あ……」

千歳が息を呑んだ。 透過した光が、バス停のコンクリートに、鮮烈な黄金色の影を落としたのだ。 そして、逆光に透かされた傘そのものもまた、眩いばかりの光を放ち、まるで彼女の手の中に小さな太陽が生まれたかのように輝いた。

それは、亮介がデザイン段階で夢見た光景そのものだった。 雨の日でも、子供たちの頭上に太陽を。 そのコンセプトは、破損し、泥にまみれた今でさえ、いや、傷ついた今だからこそ、痛々しいほど神々しく機能していた。

「あったかい……」

千歳が呟いた。 彼女は眩しそうに目を細め、光り輝く傘を見上げた。 その光の中で、彼女の表情から「幽霊」のような虚ろさが消えていく。 代わりに、人間らしい、深い悲しみと、そして微かな安らぎが戻ってくる。

「翔は、これを見ていたのね」

彼女の頬を涙が伝う。 それは、過去をループする強迫的な涙ではなく、息子の死を受け入れ、その痛みを噛みしめるための、現実の涙だった。

カァ、カァ――。 遠くで烏が鳴いた。 けれど、千歳はもう怯えなかった。彼女はただ、手の中にある「息子の太陽」を、愛おしそうに見つめ続けていた。

空を見上げる。 厚い雲が割れ、そこから注ぐ光が、三人の影を長く伸ばしていた。

(了)

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  4. 『僕らの人生は終わらない』

  5. 『未完のプロローグ』

  6. 『ノクターンの交錯点』

  7. 『金木犀』

  8. 『きみが怪獣に変わる日』

  9. 『不成らずの歩』

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