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『修羅の六文銭』

城内に潜むは、徳川か、それとも鬼か。真田幸村、最後の突撃が暴き出す、滅びの真相。

あらすじ

慶長十九年(1614年)、真田幸村は焦燥の中にいた。豊臣方の将として馳せ参じた大坂城は、徳川の大軍に包囲される以前に、味方同士の猜疑心という見えざる敵に蝕まれていたからだ。

そんな中、豊臣方の有力武将が密室で殺害される。現場に残されたのは、真田の紋とは似て非なる一枚の古銭。第二、第三の犠牲者が生まれ、城内はパニックに陥る。幸村は、これが徳川の間者ではなく、内部の者による連続殺人だと確信。腹心の忍びと共に、密かに犯人を追い始める。

やがて幸村は、被害者たちが過去のある「密約」で繋がっていたこと、そしてその裏切り者たちを指す暗号名が、皮肉にも**「六文銭」**であることを突き止める。

時は慶長二十年、大坂夏の陣。豊臣方の敗色が濃厚になる中、幸村はついに犯人の正体とその最後の標的に辿り着く。徳川家康の本陣へ向けた、生涯最後にして最大の突撃。その真の目的は、家康の首級を挙げること、そして戦場の狂気の中、最後の復讐を遂げようとする犯人を、己の槍で止めることにあった。

炎と怒号が渦巻く戦場で、幸村が直面する驚愕の真実とは。歴史の裏に葬られた、もう一つの大坂の陣が、今、幕を開ける。

登場人物紹介

  • 真田幸村(さなだ ゆきむら): 主人公。知略に優れた戦の天才であると同時に、冷静な観察眼と論理的思考で謎を追う「探偵」。父・昌幸譲りの謀略の才で、城内に潜む犯人との知恵比べに挑む。
  • 猿飛佐助(さるとび さすけ): 甲賀出身の忍び。幸村に絶対の忠誠を誓い、その手足となって影働きに徹する。情報収集や潜入調査で事件の核心に迫る。
  • 霧隠才蔵(きりがくれ さいぞう): 伊賀出身の忍び。佐助とは対照的に、常に冷静で現実主義的。幸村の理想論に異を唱えることもあるが、その刃は正確に敵を貫く。
  • 後藤又兵衛(ごとう またべえ): 勇猛果敢な浪人衆の筆頭。幸村をライバル視し、度々衝突する。城内の連続殺人に対し、幸村に疑いの目を向ける一人。
  • 大野治長(おおの はるなが): 豊臣家家老。城内の実権を握るが、浪人衆を信用せず、幸村の軍略にも口を挟む。事件の早期解決を望むが、何かを隠している節がある。
  • 真田信之(さなだ のぶゆき): 幸村の兄。徳川方の将。敵対する立場にありながら、密かに書状を送り、弟に謎を解くヒントを与える。その真意は、弟の救済か、あるいは別の目的か。
  • 犯人(見えざる敵): 「六文銭」への復讐を遂げる謎の人物。その正体は誰もが予想しえない人物であり、動機には戦国の世の非情さと悲しい過去が深く関わっている。

序章

慶長十九年(1614年)、秋。 大坂城の西ノ丸から望む空は、澄み渡る蒼穹の奥に、冬の気配をかすかに滲ませていた。乾いた風が城郭の白壁を撫で、寄せ集められた多種多様な旗指物を揺らす。その旗に描かれた紋は、桐、五七桐、千成瓢箪、そして、この城に流れ着いた数多の夢の残滓。槌を打つ音、諸国の言葉が入り混じる兵たちの怒声、そしてどこからか聞こえる故郷の唄。城全体が、巨大な熱病に浮かされたように、落ち着きなくざわめいている。

「……長き蟄居で、戦の匂いすら忘れかけておりました」

欄干に手を置き、城下に広がる巨大な喧騒を見下ろしながら、真田左衛門佐信繁――後世に真田幸村の名で知られることになる男は、ぽつりと呟いた。その声は、熱狂の中心にありながら、どこか醒めていた。

十四年。紀州九度山での歳月は、男から多くのものを奪った。代わりに与えられたのは、武人には無用な思索だけだった。 その静寂を破り、再びこの戦国の中心へ己を呼び戻した、豊臣家からの密使。この城に渦巻く十万の熱気は、信繁にとってもはや眩しすぎた。誰もが徳川を打ち破った後の栄華を夢見ている。だが、信繁の目には、その熱狂の奥に潜む、深い澱みが見えていた。 後藤又兵衛に代表される西国武者たちの豪放な笑い声と、大野治長ら譜代衆が交わす、本丸の奥からのひそやかな囁き。その間には、決して交わることのない断層が横たわっている。 (まるで、頭のない巨人のようだ……) 有り余る力は、向かうべき先を見失い、己の内で暴れているに過ぎぬ。

「殿」 背後から、二つの影が形を得たように声がした。猿飛佐助と霧隠才蔵。信繁が最も信頼する、二人の忍び。 「東からの知らせ。徳川方、先鋒隊はすでに京を発った由。総勢、二十万と」 佐助が、淡々と事実を告げる。 「二十万か。城を枕に討ち死にするには、不足のない数よ」 信繁は、城下を見下ろしたまま答える。そして、もう一人の影に問いかけた。 「才蔵。貴様の目には、この城の空気はどう映る」 才蔵は、佐助とは対照的な、どこか虚無的な瞳で主君を見返した。 「……機会、でございましょう」 「機会?」 「ある者にとっては、栄華を掴むための。またある者にとっては……古い恨みを晴らすための。 この城は、過去と未来が燃え上がる、巨大な祭壇にございます」 その言葉は、まるで他人事のように、乾いていた。

信繁は、天を衝くようにそびえ立つ天守閣を見上げた。黄金の茶室を設え、天下人としての栄華を極めた太閤秀吉の威光。その象徴であるはずの巨城が、今の信繁には、豪華絢爛な一つの棺のように見えていた。 鉄壁の城は、外からの敵を防ぐためにある。だが、もし、本当の敵が――才蔵の言う「古い恨み」を抱いた鬼が、すでにこの中にいるとしたら? 信繁は、体の芯が冷えるような、戦とは質の違う悪寒を覚えていた。それはまだ、形のない予感に過ぎなかった。


第一章:最初の古銭

その知らせは、夜が白み始めたばかりの、冷え切った空気の中、信繁の仮屋敷に届いた。 「申し上げます! 真田丸の普請場にて、死人が!」

信繁が駆けつけた時、真田丸の南側、未だ土塁が剥き出しの工事区画には、すでに人だかりができていた。集まった足軽たちは誰もが押し黙り、恐れと疑念が入り混じった目で、筵(むしろ)のかけられた一つの塊を見つめている。湿った土と、真新しい木材の匂いに混じって、微かに鼻をつく血の匂い。 「どけ、左衛門佐様のお成りだ!」 配下の一喝で人垣が割れる。その中心で、後藤又兵衛が腕を組み、鬼のような形相で立ち尽くしていた。

「……又兵衛殿」 信繁の声に、又兵衛はゆっくりと顔を上げた。その目には、怒りと、わずかな戸惑いの色があった。 「真田殿か。貴殿の普請場で、無様なことが起きたものよ」 吐き捨てるような言葉と共に、又兵衛は顎で筵を示した。信繁は無言で膝をつき、佐助がおもむろに筵をめくる。

現れたのは、岡部正綱の亡骸だった。その顔は驚きに目を見開いている。 (傷は、胸に一突き……。争った形跡もない。これは、熟練者の手口) 信繁が冷静に観察していると、又兵衛が地を噛むような声で呟いた。 「岡部……貴様、城作りの名人だなどと威張っていたが、己の死に場所も選べぬか。馬鹿者が……」 その声には、怒りだけでなく、確かな悼む心が滲んでいた。信繁は、初めて又兵衛の人間的な一面を垣間見た気がした。

その時、佐助が「殿」と短く声を上げた。彼が指差すのは、岡部のわずかに開かれた口元だった。 信繁が懐の手拭いで引き抜くと、現れたのは一枚の古びた永楽銭。その冷たい金属の感触が、指先から信繁の思考を凍てつかせた。 (儀式か? 何かの呪いか? いや、違う。これは、あまりに理知的すぎる……) 信繁が銭を凝視した、その時だった。

「何をしておるか! 物騒な!」 甲高い声と共に、大野治長が数人の供を連れて現れた。彼は遺体を一瞥すると、眉をひそめ、扇子で鼻と口を覆った。 「これは……岡部殿ではないか。何たる無残な」 治長は扇子で又兵衛を制すると、断定的な口調で言い放った。 「決まっておろう。徳川の間者が入り込み、我らの動揺を誘っておるのだ!」 (……違うな) 信繁は、治長の言葉を聞きながら、心の中で即座に否定した。 (この男は、本気でそう思っているわけではない。真実がどうであれ、彼にとって最も都合の良い筋書きを口にしているだけだ。この死すら、浪人衆を締め付けるための駒として使うつもりか)

又兵衛が治長に食ってかかる中、信繁は佐助と才蔵に目配せをした。 「佐助、この銭の由来を洗え。才蔵……」 信繁は、才蔵に視線を移した。才蔵は、ただ静かに、まるで人形のように遺体を見つめている。その目に、何の感情も浮かんでいないように見えた。 「……岡部正綱という男の過去を、もう一度洗い直せ。九度山にいた俺よりも、お前たちの方が詳しいはずだ」 「御意」 佐助の返事にかぶせるように、才蔵も静かに頷いた。信繁には、その才蔵の無感情さが、妙に胸に引っかかった。

治長と又兵衛の怒声が、まだ朝霧の残る普請場に響き渡っている。 信繁はゆっくりと立ち上がると、その言い争いに背を向けた。 戦はまだ始まっていない。だが、もう一つの、見えざる敵との戦は、今この瞬間、確かに幕を開けたのだと確信していた。掌の古銭が、ひやりと冷たかった。

第二章:炎の砦

岡部正綱の死がもたらした城内の亀裂は、修復される間もなく、より巨大な脅威によって覆い隠された。 徳川家康率いる二十万の大軍が、大坂城を蟻のように包囲したのだ。 慶長十九年十一月。大坂冬の陣の火蓋は、ついに切られた。

城の南側、平野口に築かれた出城――真田丸。それは、信繁が己のすべてを注ぎ込んで作り上げた、三日月形の小さな砦だった。だが、この小規模な砦こそ、徳川の大軍を迎え撃つための、恐るべき牙城であった。

「まだだ」 物見櫓の頂で、信繁は静かに呟いた。その声は、眼下で繰り広げられる地獄絵図を前に、氷のように冷え切っていた。 押し寄せるのは、前田、井伊、松平といった徳川でも屈指の精鋭部隊。鬨の声が地を揺らし、津波のように殺到する。耳を찢くような鉄砲の発射音、味方の怒声、そして鉛が鎧や肉を砕く鈍い音。鼻をつくのは、むせ返るような硝煙と、熱した鉄と、おびただしい量の血の匂い。 (……この狂気の中、あの犯人も息を潜めているのか) 指揮を執る信繁の脳裏を、場違いな思考がよぎる。この戦と同じだ。犯人の手口もまた、無駄がなく、冷徹で、一点の目的のためだけに計算され尽くしている。

敵兵が、空堀の目前まで迫る。もう槍の穂先が届こうかという、その刹那。 「――放て!」 信繁が手にした軍配を、振り下ろした。 瞬間、真田丸が火を噴いた。轟音。櫓や塀に設けられた無数の狭間から、一斉に鉛の弾が吐き出される。それは、計算され尽くした死の十字砲火だった。密集した敵兵が、まるで草のように薙ぎ倒されていく。 「第一陣、退け! 第二陣、構え!」 矢継ぎ早の号令。鉄砲隊が入れ替わり、途切れることなく第二射が放たれる。 敵が怯んだ、その隙を逃さず、信繁は次の手を打った。 「佐助!」 「はっ」 いつの間にか背後に控えていた佐助に、信繁は視線だけで命じた。次の瞬間、砦の各所から、信繁が率いてきた手練れの兵たちが躍り出た。彼らは徳川勢の混乱に乗じ、負傷した敵将の首を的確に狩っていく。

戦は、信繁の描いた絵図の通りに進んでいた。 敵の第一波が退き、第二波が陣形を整え直す、束の間の静寂。 「殿」 佐助と才蔵が、音もなく隣に立った。 「例の銭、調べがつき申した」佐助が報告する。「あれは永楽銭には相違ござりませぬ。が、豊臣の世に鋳造されたものではありませぬ。おそらくは、それより二十年以上は昔……天正の頃、織田が世を治めていた時代のものかと」 「……織田、だと?」 信繁の眉が動いた。二十年以上も昔。 彼は、隣に立つもう一人の忍びにも問いかけた。 「才蔵、敵の間者の動きは?」 才蔵は、血の匂いが満ちる戦場を、どこか愉しむような冷たい目で見下ろしながら答えた。 「我らの不和を嘲笑っております。『真田丸は堅城なれど、大坂城は内から腐る』と。……そして、こうも。**『古き戦場の亡霊が、今頃になって目を覚ました』**と」 その言葉は、まるでどこか遠い国の物語を語るように、何の感情もこもっていなかった。

その時、地を揺るがす陣太鼓の音が、再び轟いた。徳川勢の第二波が、怒涛の勢いで押し寄せてくる。 信繁は、思考の海から意識を引き戻した。今は、目の前の敵に集中せねばならない。 彼は再び軍配を高く掲げた。その顔は、冷徹な将のものに戻っていた。 「第二陣、来るぞ! 一人たりとも、砦に近づけるな!」 炎と鉄が飛び交う砦の上で、信繁は二つの戦線を同時に見据えていた。一つは徳川の大軍という、目に見える敵との戦。もう一つは、過去の怨念が潜む、見えざる敵との戦。どちらも、一瞬の油断が死を招くことだけは間違いなかった。


第三章:疑心の槍

真田丸の攻防は、終日続いた。夕刻、徳川の兵たちが潮のように引いていった時、砦を守る豊臣方の兵士たちは、疲労困憊の中にも確かな高揚感を覚えていた。 だが、その束の間の勝利の美酒は、すぐに毒へと変わった。後藤又兵衛の陣屋にて、彼の腹心・河村惣左衛門が、何者かに殺害されたのだ。 遺体の状況は、岡部正綱のそれと酷似していた。胸にただ一突き。そして、口には一枚の古びた永楽銭。

「真田殿……」 地を這うような、低い声がした。 振り向くと、後藤又兵衛が血走った目で信繁を睨み据えていた。その手は、愛用の槍の柄を、砕けんばかりに握りしめている。 「……何か、申し開きはあるかな」 「又兵衛殿、早まるな。これもまた、我らを仲違いさせる罠だ」 信繁が静かに言うと、又兵衛は鼻で笑った。 「罠、だと? とぼけるな! 岡部殿は貴殿の普請場で死んだ。我が腹心の惣左衛門は、貴殿の砦のすぐ隣で、貴殿が戦の指揮を執っておる真っ最中に殺された! 徳川の間者が、これほど自在に動けるものか!」 又兵衛の言葉は、単なる激情ではなかった。それは、戦の修羅場をくぐり抜けてきた男の、冷徹な分析でもあった。 「犯人は、この真田丸の地理と、戦の潮目を熟知している。……それは、貴様か、貴様の配下の中にいる者にしか出来ぬことよ。違うか!」 その鋭い指摘に、信繁は言葉を詰まらせた。又兵衛の言う通りだ。自分の推理は、甘かったのかもしれない。犯人は、外部の者ではない。この内部、それも自分の手の内を知る者に……?

信繁の沈黙を、又兵衛は肯定と受け取った。 「……証を見せよ。おのれの潔白を証明する、犯人をな。それまでは、貴殿を味方とは思わぬ」 又兵衛はそれだけを吐き捨てると、配下に命じて惣左衛門の遺体を運ばせた。その背中は、信繁への消えぬ疑心を雄弁に物語っていた。

一人残された信繁の元へ、霧隠才蔵が音もなく姿を現した。 「殿。厄介なことになりましたな」 「……ああ」 又兵衛の言葉が、棘のように信繁の胸に突き刺さっていた。 (俺の配下……? 馬鹿な。佐助や才蔵を始め、皆、九度山から苦楽を共にしてきた者たちだ。だが……) 信繁は、己の中に、小さな疑いの芽が生まれるのを感じていた。そして、一度生まれた疑いは、この閉ざされた城の中では、毒のように心を蝕んでいく。 「才蔵、どう思う」 信繁は、己の動揺を隠すように、配下に問いかけた。 「さあ……。ですが、疑心は鉄の檻にございます。殿が囚われてしまえば、それこそが敵の思う壺」 才蔵は、淡々とそう言った。その無感情な瞳を見ていると、信繁は、自分が底なしの沼に足を踏み入れてしまったような、言い知れぬ恐怖を感じた。

第四章:兄からの文

大坂冬の陣は、奇妙な形で終わりを告げた。 徳川家康が提示した和議を、淀殿をはじめとする城の中枢が受け入れたのだ。真田丸での大勝も虚しく、城内には厭戦気分と、豊臣家への不信感が漂っていた。そして、その不信感は、やがて屈辱へと変わった。 和議の条件として、大坂城の自慢であった外堀と二の丸の堀が、無残にも埋め立てられていったのだ。昼夜を問わず響く、人夫たちの掛声と、土を運ぶ鍬の音。それは、この城の命脈が、少しずつ断たれていく音に聞こえた。 信繁は、天守閣からその光景を黙って見下ろしていた。戦が止んでいる今、城内の警備はさらに厳しくなり、犯人も身を潜めている。後藤又兵衛に面会を求めても、「お会いする理由がない」と門前で追い返される始末。完全に孤立していた。 (手詰まりか……) 犯人は、この膠着状態を、どこかで嘲笑っているに違いない。その考えが、信繁の心を苛んだ。

その夜更け、佐助が音もなく信繁の背後に現れた。 「殿。上田より、密書にございます」 上田。兄、真田信之が治める、父祖伝来の地。敵である徳川方にいる兄から、一体何が。 信繁は、震える指で書状の封を切った。兄の、実直で硬質な筆跡。そこには、弟の身を案じる言葉と共に、時候の挨拶が儀礼的に綴られていた。そのありふれた文章が、今の信繁には、乾いた心に染み渡るように温かかった。 だが、末尾の一節に、信繁は目を奪われた。

『――我ら真田が掲げる六文銭は、三途の川の渡し賃。死を恐れぬ覚悟の証と、父上は常々申されていた。 されど、思うのだ。銭には、死への備えとは別の意味もあろう。 それは、約束の証。あるいは、契約の印。 そなたが今いる城には、様々な約束で結ばれた者たちが集まっていると聞く。 源二郎よ。今一度、考えてみるがよい。男と男が交わす、銭一枚の本当の意味を』

文面は、そこで途切れていた。 信繁は、書状を持ったまま、しばし凍り付いたようになっていた。 (約束……契約……) 兄の言葉が、脳内で何度も反響する。 そうだ、俺は間違っていたのかもしれない。あの古銭を、単に犯人が残した印(しるし)としてしか見ていなかった。だが、もしあれが、過去に交わされた契約の証文そのものだとしたら? 犯人は、その契約者たちに、一枚ずつ証文を返しているのではないか。血塗られた、死という形で。

岡部正綱と河村惣左衛門。出自も年齢も違う二人が、過去に、何かを誓い合った。二十年以上も昔、織田の世に。 (六文銭……) 信繁は、己の家紋の名を呟いた。兄が言いたいのは、真田の六文銭のことではない。犯人が狙う、もう一つの「六文銭」……すなわち、六人の契約者がいる、ということではないのか。 すでに二人が殺された。残りは、四人。そして、その四人は、まだこの城の中にいる。

「佐助、才蔵!」 信繁の声に、二つの影がすっと姿を現した。彼の目には、先程までの迷いは消え、狩人のような鋭い光が戻っていた。 「これより調べを改める。殺された二人の、最近の身辺を探るのはもうよい」 信繁は、兄の書状を炎で燃やしながら、命じた。 「洗うべきは、過去だ。天正十年、織田信長が死んだ本能寺の変。あの前後に、岡部と河村がどこで、何をしていたか。どんな些細なことでも構わん。二人を結びつける、古い約束を探り出せ!」 屈辱的な和議の裏で、見えざる戦いの局面は、大きく動こうとしていた。信繁は、兄が投じた一条の光を頼りに、深い闇の奥へと、再び足を踏み出した。


第五章:譜代の死

慶長二十年(1615年)。年が明けても、大坂城を包む空気は氷のように冷え切ったままだった。 信繁の調査もまた、暗礁に乗り上げていた。天正十年という、あまりに古い過去。記録は散逸し、人々の記憶は曖昧だった。「煙を掴むような話だ」と、佐助も珍しく弱音を吐いた。

そんな折、城を震撼させる第三の事件が起こった。 今度の現場は、本丸御殿の一角にある蔵屋敷だった。被害者は、石川景裕。豊臣家に古くから仕える譜代の家臣。その死は、これまでの事件が浪人衆の内部抗争であるという淡い期待を、無慈悲に打ち砕いた。 遺体の口には、三枚目となる古銭。その静かな佇まいは、城の権威そのものを嘲笑っているかのようだった。

即日、大広間にて緊急の軍議が開かれた。 上座に座る大野治長の顔は、怒りと屈辱に歪んでいた。彼は、集まった諸将を睨み回すと、証拠として盆に載せられた古銭を指さした。 「もはや疑いの余地はない! 犯人は、この度の戦で流れ着いた浪人の中にいる!」 治長は、理路整然と、しかし毒を込めて続けた。 「考えてもみよ。初めの二人は浪人衆。これは仲間割れに見せかけた、我らを油断させるための偽装工作であったのだ。まんまと我らが浪人同士の争いと見たところで、ついに本性を現し、譜代である石川殿を手にかけた! この城の地理に詳しく、武芸に長け、そして我ら豊臣に恨みを抱く者……浪人をおいて他に誰がいる!」 それは、あまりに巧みな演説だった。事実を巧みに捻じ曲げ、憎悪を煽るための完璧な筋書き。

後藤又兵衛らが激高し、怒号が飛び交う。軍議の場は、新たな戦場と化した。 信繁は、その罵り合いの渦の中で、一人、背筋に冷たい汗が流れるのを感じていた。 (……罠だ) 兄の書状によって、犯人の目的が「六人の契約者」への復讐であると、ほぼ確信している信繁だけが、治長の論理の欺瞞性を見抜いていた。だが、それを口にすることはできない。兄との密通が露見し、浪人衆と譜代衆の双方から狙われることになる。そして何より、又兵衛や治長自身が「契約者」である可能性を、この場で指摘するわけにはいかない。 口を開けば軍は崩壊する。黙っていれば、嘘が真実としてまかり通っていく。 信繁は、唇を噛み締め、沈黙を選んだ。その選択は、まるで砕けたガラスを飲み込むような痛みを伴った。

「これより、城内の一切の儀は、我ら譜代衆が執り行う! 浪人衆は、許可なく持ち場を離れることを禁ずる!」 治長の宣言が、決定打となった。 軍議を終え、自陣に戻る信繁の元に、才蔵が影のように寄り添った。 「殿。籠の中の鳥ですな、我らも」 「……ああ」 「狩人は、獲物を檻に追い込んでから、ゆっくりと仕留めるものにございます」 才蔵の言葉は、淡々としていた。だが、その言葉の本当の意味を、信繁はまだ知らなかった。 ただ、自分たちを囲む檻が、また一段、狭まったことだけは確かだった。

第六章:過去の亡霊

季節は巡り、春。城を囲む徳川の圧力が日増しに強まる中、信繁は焦燥に駆られていた。 浪人衆は軟禁され、兵たちの士気は地に落ちている。信繁自身の陣屋にも、大野治長の配下が見張りに立つ始末。もはや、この城そのものが、一つの巨大な牢獄だった。 「殿、これ以上は……」 夜陰に乗じて報告に来た佐助の顔にも、疲労の色が濃い。天正十年というあまりに古い過去の記録は、焼失したり、散逸したりして、ほとんど残ってはいない。調査は、完全に行き詰まっていた。 信繁の脳裏に、日に日に重くのしかかる言葉があった。 (狩人は、獲物を檻に追い込んでから、ゆっくりと仕留めるものにございます) 才蔵の、あの無感情な声が、耳から離れない。

その夜、事態が動いた。 佐助が、命懸けで持ち帰った一枚の古ぼけた陣立書。それは、天正十年、羽柴秀吉が行った備中高松城攻めの際の、詳細な部隊配置図だった。 「殿。殺された三人、岡部、河村、そして石川。所属も役目も違いますが、この戦に参陣していたことは間違いありませぬ」 信繁は、その紙面に食い入るように見入った。そして、城内の主要な将の名簿と、一つ一つ照合していく。指が、震えていた。 やがて、二つの名前の上で、その指が止まった。 後藤又兵衛。そして、大野治長。 (……いた。やはり、いたか) 信繁は息を呑んだ。犬猿の仲である二人が、過去のある一点で繋がっている。 「佐助。この戦で、何か大きな裏切りがあったという噂は?」 「は。一つだけ。毛利方に通じ、城の守りを手引きしようとした部隊があったとか。ですが、事前に露見し、責を負った指揮官が一人、腹を切ったと……」

その時、才蔵がすっと姿を現した。彼の顔は、常にも増して能面のように無表情だった。 「その話には、続きがございます」 才蔵は、静かに言った。 「その指揮官は、嵌められたのです。真の裏切り者たちは、その者にすべての罪をなすりつけ、己らは手柄を得て、後の世で出世の道を歩んだ。……巷では、そう囁かれております」 その言葉は、まるで見てきたかのように、淀みがなかった。 信繁は、目の前の忍びの顔を凝視した。 (……お前は、一体何を知っている)

信繁は、才蔵から目を逸らし、再び名簿に視線を落とした。 これで、五人だ。岡部、河村、石川、後藤、大野。 だが、「六文銭」には、あと一人足りない。 (六人目は誰だ。その六人目こそが、この復讐劇を操る犯人なのか……?) 思考の迷路に、出口は見えなかった。

その時、伝令が血相を変えて飛び込んできた。 「申し上げます! 徳川方より、最後通牒! 城内の浪人衆の追放と、秀頼公の大和郡山への国替えを要求! これに応じぬ場合、即刻、総攻撃を開始するとのことにございます!」

ついに、来たか。 信繁は、ゆっくりと立ち上がった。窓の外では、春の嵐が、まるで何かの終焉を告げるかのように、激しく吹き荒れていた。 謎は、まだ解けていない。だが、時間はもう残されていなかった。


第七章:決戦前夜

慶長二十年五月六日、夜。 大坂城は、巨大な獣の断末魔のような喧騒に包まれていた。明日、すべてが決まる。

信繁の陣屋だけが、その喧騒から切り離されたように、静まり返っていた。彼の前には、備中高松城の陣立書と、兄・信之から届いた最後の密書が広げられている。 その密書は、あまりに短かった。ただ一言、こう記されている。 『斎藤利三が娘、福のことを思う』 斎藤利三。本能寺の変を起こした明智光秀の、腹心の家老。山崎の戦いで敗れ、処刑された男。その娘が、福。後の、徳川家光の乳母となる春日局。 (なぜ、兄上は今、この名を送ってきた……?)

その時、信繁の脳裏で、佐助の報告が蘇った。 『備中高松城の裏切りで、責を負わされ腹を切った武将。その名は――斎藤利宗』 斎藤。 斎藤利三と、斎藤利宗。同じ、斎藤。 まさか。 信繁は、息を吸うのも忘れ、一つの結論にたどり着いた。

「……才蔵。いるのだろう」 信繁が静かに呼びかけると、闇の中から、霧隠才蔵が音もなく姿を現した。その腰には、戦支度として、一振りの刀が差されている。 「お呼びでしょうか、殿」 「貴様の本当の名を、聞かせてもらおうか」 信繁の言葉に、才蔵の眉が、かすかに動いた。 「……何のことですかな」 「斎藤利宗。備中の地で、五人の裏切り者に罪をなすりつけられ、無念の死を遂げた武将。彼は、明智光秀の重臣・斎藤利三の、従弟にあたる」 信繁は、才蔵を真っ直ぐに見据えた。 「貴様は、斎藤利宗の子か」

才蔵は、答えなかった。だが、その沈黙は、雄弁な肯定だった。 やがて、彼は、まるで仮面を剥がすように、ふっと表情を緩めた。それは、長年の苦しみから解き放たれたような、悲しい笑みだった。 「……お見事。真田殿。いや、我が最後の主よ」 才蔵は、己の胸元から、古びた永楽銭を一つ、取り出した。 「父は、死の間際に呪いの言葉を遺しました。『六文銭』、と。己を裏切った五人と、復讐を遂げる我が息子の、合わせて六人。三途の川は、六人で渡れ、と。五人を地獄へ送り、この六枚目の銭で、私も父の元へ参る」

衝撃の告白。長年、影として仕えてきた男の、恐るべき素顔。 「だが、なぜだ。なぜ、裏切りの内容を偽った。黄金の強奪……それこそが、真相であろう」 「あなたを、試したのです」 才蔵は、静かに言った。 「あなたが、ただの戦馬鹿ではなく、真実を見抜く目を持つ主君であると信じていた。そして、あなたは、応えてくださった」 才-蔵は、深く一礼した。 「感謝いたします。これで、心置きなく、最後の務めを果たせます」

最後の務め。それは、残る二人、後藤又兵衛と大野治長を、明日の戦場で葬ること。 信繁は、槍を握りしめた。 「……それは、させられぬ」

その、刹那。

ドォォォン……! 城外から、暁を告げる砲声が轟いた。 ついに、最後の戦が始まったのだ。 「……これまで、世話になりました」 才蔵は、再び深く一礼すると、影に溶けるように、陣屋から姿を消した。

信繁は、動けなかった。 外からは、味方の鬨の声と、徳川勢の怒号が聞こえ始める。 追いかけるべきは、長年の宿願を遂げようとする一人の復讐者か。 それとも、己の死に場所となる、徳川家康の本陣か。

運命の夜が明け、修羅の朝が、来た。

最終章:修羅の果て

号砲は、もはや合図ではなかった。それは、一つの時代の終わりを告げる、弔鐘そのものだった。 慶長二十年五月七日、大坂夏の陣、天王寺・岡山の戦い。豊臣方の最後の戦力、毛利勝永隊が獅子奮迅の働きで徳川方の先鋒を突き崩し、戦場は序盤から凄まじい混戦の様相を呈していた。

そのわずかな活路を見据え、真田信繁は動いた。 馬上から戦場全体を見渡し、彼は己の中で最後の覚悟を決めた。 (我が本懐は、家康の首、ただ一つ。されど、このままでは、豊臣の軍は内から崩れる。又兵衛も治長も、好かぬ男たちよ。だが、彼らもまた、豊臣の歯車……。そして才蔵、貴様は、我が配下。主として、貴様を怨念のままに死なせるわけにはいかぬ) 彼の脳裏に、三つの目的が一本の道となって浮かび上がった。 (よかろう。我が修羅の道、その終着点は家康の本陣。だが、その道すがら、我が家の始末をつけ、豊臣の歪みを正す。なんとも欲張りな、死への旅路よな) 信繁は、自嘲するように、ふっと笑った。 「全軍、突撃!」 その号令一下、真田の赤備え三千が、一つの巨大な槍となって徳川軍の側面へと突き刺さった。先頭に立つのは、鹿角の兜を戴き、十文字槍を水平に構えた信繁自身。

赤備えは、敵兵を蹴散らし、怒涛の勢いで進む。 目指す家康本陣の手前、後藤又兵衛の隊が奮戦していた。だが、衆寡敵せず、その陣形は崩壊寸前だった。又兵衛自身も、数人の敵に囲まれ、死の淵にいる。 その、刹那。又兵衛の背後、味方の兵士の影から、一つの刃が音もなく伸びた。才蔵だ。 「―――させるか!」 信繁は馬上で絶叫し、渾身の力で槍を投げつけた。槍は空を切り、才蔵の刃と又兵衛の背中の間に突き刺さる。 「なっ!? 真田殿!?」 驚く又兵衛と、舌打ちする才蔵。信繁の馬が、二人の間に割って入った。 「退け、又兵衛! ここは俺が引き受ける!」 信繁の槍と、才蔵の忍び刀が、火花を散らした。 「なぜ、邪魔をする! 真田殿!」 「貴様の復讐は、もはや貴様だけのものではない! この戦、豊臣のすべてを巻き込む毒だ!」 「父の無念を晴らして、何が悪い!」 「お前の父君は、貴様が復讐鬼となることなど望んでおらぬはず! 目を覚ませ、才蔵!」 信繁の言葉に、才蔵の刃が一瞬、鈍った。その隙を、徳川の兵が見逃すはずもない。二人の間に槍が割って入り、才蔵は再び姿を消した。又兵衛は、己を救った信繁の背中を、呆然と見送ることしかできなかった。

信繁は、振り返ることなく再び駆け出した。 幾重もの敵陣を突破し、真田隊は満身創痍となりながらも、ついに家康の本陣まであと一息という場所まで迫った。だが、その進路上に、崩壊した自陣の中から逃れようとする、大野治長の姿があった。 そして、その背後に、再び亡霊のように現れる、才蔵。 「終わりだ、才蔵!」 信繁は、最後の力を振り絞って馬を駆る。今度こそ、二人の刃が、決着を求めて激しく打ち合わされた。 「あなたの父上の名は、あなたが汚すな!」 信繁は叫んだ。それは、主君としての、最後の情だった。 「父の無念は……私が死なねば、晴らせぬ!」 才蔵の刃が、信繁の体を掠める。同時に、徳川兵の槍が、信繁の脇腹を深く貫いた。だが、信繁は構わず、その槍を掴んだまま、渾身の力で、才蔵の刀を弾き飛ばした。 「ぐっ……!」 武器を失い、体勢を崩した才蔵の体に、背後から徳川兵の槍が突き刺さる。 「……見事な、槍働き……。これが、真田の……」 才蔵は、信繁を見つめ、満足したように、微かに笑った。 「……ありがとう、存じまする。我が、殿……」 それが、彼の最期の言葉だった。

信繁は、才蔵の亡骸を見下ろした。 これで、すべてが終わった。備中高松城から始まった、長い亡霊たちの物語が。 だが、その代償は、あまりに大きかった。 信繁の体は、もはや限界だった。家康の本陣は、目と鼻の先に見えている。だが、そこへたどり着くための力は、もう残っていなかった。

「……退くぞ」 彼は、生き残った数少ない配下に命じると、静かに戦場を離脱した。 辿り着いたのは、近くの安居神社の境内だった。 信繁は、松の木の下にゆっくりと座り込むと、血に塗れた鹿角の兜を脱いだ。 空は、青かった。 脳裏に、様々な光景が浮かんで消える。父・昌幸の厳しい顔。兄・信之の優しい顔。九度山で過ごした、穏やかな日々。そして、この大坂城で出会った、愚かで、愛おしい、数多の男たちの顔。 (歴史は、俺を英雄と呼ぶかもしれぬ。才蔵を、ただの影として語るだろう。だが、本当の真実は、誰にも知られぬまま、消えていく) 備中の地で交わされた、黄金の契約。それに翻弄された、いくつもの人生。 (……それで、いい) 真実は、時に人を傷つけすぎる。ならば、この物語は、俺が胸に抱いて、共に逝こう。 信繁は、そっと目を閉じた。 遠くで、自分を呼ぶ敵兵の声が聞こえる。 心は、不思議なほど穏やかだった。 これにて、我が修羅の道も、終わりか。 真田左衛門佐信繁、享年四十九。 彼の死と共に、戦国の世は、完全に終わりを告げた。

【完】

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