あらすじ
元禄二年、将軍徳川綱吉の寵愛を一身に受けた若き大名、喜多見重政が突如改易された。表向きの理由は、彼の従兄弟・重治が江戸城中で起こした刃傷事件だ。だが、その幕切れはあまりにも不自然だった。
栄華を極めた寵臣の、わずか一年での転落。その裏には、将軍の気まぐれか、あるいは幕府内部の血塗られた権力闘争が隠されているのか? そして、「生類憐みの令」という奇妙な法令が、この事件にどう絡むのか?
市井の医者、多田宗哲は、この歴史の闇に葬られた事件に人間の嫉妬、野心、そして隠された真実が蠢いていることを直感する。彼の冷静な観察眼と深い洞察力が、複雑に絡み合った糸を解きほぐしていく時、喜多見の血にまつわる恐ろしい陰謀が明らかになる――。
登場人物紹介
- 多田 宗哲(ただ そうてつ) 江戸日本橋で医者を営む、30代後半の在野の知識人。元は下級武士の出で、武家社会の裏事情にも通じる。冷静な観察眼と、人間の心身の病理を見抜く深い洞察力を持つ。知的好奇心と不条理への義憤から、喜多見氏の事件の真相を独自に探り始める。
- 喜多見 重政(きたみ しげまさ) 将軍綱吉の絶対的な寵愛を受け、異例の速さで大名にまで上り詰めた若き才人。明晰な頭脳と先見の明を持つが、その栄光の裏には筆舌に尽くしがたい孤独と重圧を抱える。突如として全てを失い、深い沈黙の中に消えていく。事件の真の犠牲者であり、多くの謎を秘めている。
- 喜多見 重治(きたみ しげはる) 重政の従兄弟。江戸城中で刃傷事件を起こし、重政改易の直接の原因を作ったとされる。血気盛んな性格か、あるいは単純な思考の持ち主であった可能性も。彼の行動は衝動的だったのか、それとも何者かの意図によって操られたものだったのか、その真意は事件の核心に迫る鍵となる。
- 浅岡 直国(あさおか なをくに) 喜多見重治と刃傷に及んだ旗本。事件のもう一人の当事者であり、事件の真相を知る重要な人物の一人。彼の証言や、事件後の動向が、隠された真実を暴く手がかりとなるかもしれないが、多くは謎に包まれている。
- 徳川 綱吉(とくがわ つなよし) 江戸幕府第五代将軍。学問を好み、文治政治を推進する一方で、「生類憐みの令」を発布するなど、時に常軌を逸した行動を見せる絶対的な権力者。彼の気まぐれな寵愛と、その裏に潜む冷酷な判断が、寵臣の運命を大きく左右する。彼自身が事件の黒幕なのか、あるいは他の誰かに操られているのか、その真意は物語最大の謎の一つ。
- 牧野 成貞(まきの なりさだ) 綱吉の側用人として、かつて絶大な権勢を誇った老臣。重政の先達であり、その台頭を複雑な思いで見つめていた。事件の背後に、彼の思惑が絡んでいる可能性も。
- 柳沢 吉保(やなぎさわ よしやす) 綱吉の新たな寵臣として台頭しつつある若き側用人。重政の失脚後、その地位を確固たるものにしていく。彼の野心と知略が、事件の展開にどう影響したのか。
第一章:落日の報
元禄二年卯月朔日。江戸の空は、朝から重い鉛色の雲に覆われていた。日本橋の魚河岸は、いつもの喧騒に包まれているはずだったが、今日はどこかざわつきが陰を帯びている。
多田宗哲は、早朝の薄暗い光が差し込む診療所の奥で、静かに薬研を操っていた。乾いた薬草が擦り合わされる微かな音だけが、静謐な空間に響く。三十代後半を迎えた宗哲の顔には、昼夜を問わぬ診療の疲れの色が滲んでいたが、その奥には常に冷静な光が宿っていた。元は下級武士の出でありながら、剣を筆に、人を斬る術を癒す術へと転じた異色の経歴を持つ。
「先生、先生!」
戸を勢いよく開け放ち、息を切らせた声が飛び込んできた。朝一番の患者だろうか。顔を上げると、そこに立っていたのは見慣れない若い男だった。紺色の町人羽織は泥で汚れ、額には脂汗が滲んでいる。
「どうなさいましたか、そんなに慌てて」
宗哲が落ち着いた声で問いかけると、男は掠れた声で言った。
「大変なことでございます! 喜多見様が…喜多見重政様が、御改易に!」
薬研を操る宗哲の手が、ぴたりと止まった。喜多見重政。将軍綱吉の覚えめでたく、異例の速さで大名に取り立てられた若き俊才。その名を知らぬ江戸の者はいないだろう。
「喜多見様が、改易…? いかなるご理由で」
宗哲の声は、平静を装ってはいたが、心には小さな波紋が広がっていた。
「それが…詳しいことはまだ…ただ、昨日の夕刻、御従兄弟の喜多見重治様が、江戸城内で旗本の浅岡直国様と刃傷沙汰に及ばれたとかで…その責を負われたと…」
男は言葉尻を濁らせた。刃傷沙汰。武士の間では決して珍しいことではない。しかし、それだけで一代を築き上げた大名家が潰えるなど、聞いたことがない。
「そんな馬鹿な…」
思わず呟いた宗哲の声は、納得できない響きを持っていた。喜多見重政は、才覚に溢れ、領民からの信望も厚いと聞いていた。それが、従兄弟の起こした一件で、あっという間に全てを失うとは。
男は不安げな目を宗哲に向ける。
「皆、何か裏があると言っております。喜多見様は、将軍様の『生類憐みの令』にも熱心に取り組んでおられたと…まさか、それが原因で…」
宗哲は黙って男の言葉を聞いていた。「生類憐みの令」。将軍綱吉が発布したこの奇妙な法令は、犬をはじめとする生き物を手厚く保護するものであったが、度を越した厳しさから庶民の生活を圧迫し、不満の声も少なくなかった。
「…分かりました。お話、ありがとうございました」
男に礼を言い、わずかな薬代を受け取ると、宗哲は診察室の奥へと足を向けた。窓から差し込む朝の光は、依然としてどんよりと暗い。
(刃傷沙汰だけで、か…)
宗哲の胸には、拭い去れない疑念が渦巻いていた。かつて自身も身を置いていた武家社会の暗部を知る宗哲にとって、このあまりにも迅速な処分は、何か大きな力が働いた結果であるようにしか思えなかった。理不尽な力、隠された陰謀――それは、宗哲が最も忌み嫌うものだった。
その日の診療中も、喜多見家の改易の噂は絶え間なく耳に入ってきた。患者たちは不安げな表情で、様々な憶測を口にする。「お犬様を粗末にしたからだ」「いや、重政様は幕府の重臣と対立していたのだ」「何か隠された御不祥事があったに違いない」。
夕刻、診療を終えた宗哲は、馴染みの薬種問屋「近江屋」の暖簾を潜った。主人の甚兵衛は、顔見知りの宗哲に温かい茶を出してくれた。
「先生も、喜多見様の件、お聞き及びでしょうな」
甚兵衛は、深いため息をつきながら言った。
「ええ。あまりにも突然で、驚いております」
「全くでございます。あのお方は、頭も良く、領民思いの立派な殿様だと評判でしたが…」
甚兵衛は、周囲に誰もいないことを確かめると、小声で囁いた。
「実は、私のところにも、喜多見様のお屋敷に出入りしていたという者が、ひっそりと薬を買いに来ましてな…殿は、ここ最近、随分と心労が重なっていらしたご様子だと…」
「心労、ですか」
「ええ。何か大きな難題を抱えておられたのかもしれません」
甚兵衛の言葉は、宗哲の胸に深く突き刺さった。単なる刃傷沙汰の責任転嫁ではない。喜多見重政は、何か深い闇の中で苦しんでいたのではないか。
その夜、宗哲は寝床に入っても、喜多見家のことが頭から離れなかった。理不尽な力によって、一夜にして全てを失った若き大名。そして、その背後に隠されたであろう真実。宗哲の医者の血、そしてかつて武士であった血が、静かに騒ぎ始めていた。父の理不尽な死を、ただ見ていることしかできなかった過去の悔恨が、宗哲を駆り立てる。今度こそ、見過ごすわけにはいかない。この不条理の裏に隠された真実を、この目で確かめなければならない――。
第二章:亡霊の影を追って
翌朝、宗哲は診療所の戸に「所用のため休診」という札を掲げた。向かう先は、武蔵国多摩郡喜多見の地。かつて喜多見氏が領した土地であり、今や落日の藩主の記憶だけが残る場所だ。
江戸の喧騒を離れ、郊外へと向かう道のりは、どこか物寂しい雰囲気を漂わせていた。田畑は春の息吹を感じさせる緑に染まり始めていたが、宗哲の心は重い雲に覆われているようだった。
喜多見の里に近づくにつれ、宗哲は人々の間に漂う、言葉には出さないまでも感じ取れる不安の色に気づいた。領主を失った村人たちの目は、どこか未来への希望を失ったように沈んでいる。
宗哲は、かつて喜多見氏の居館があったとされる場所を訪れた。今はただの広大な空き地となり、わずかに石垣の跡が往時の繁栄を偲ばせるばかりだ。風が吹き抜け、枯れ草が寂しげに揺れる。
その一角に、ひっそりと佇む寺があった。「慶元寺」。喜多見氏の菩提寺であるという。宗哲は、この静寂の中に何か手がかりが隠されているのではないかと考え、山門をくぐった。
苔むした石畳の参道をゆっくりと進むと、本堂の前に老いた僧が掃き掃除をしていた。宗哲は近づき、深々と頭を下げた。
「和尚様、わたくし、江戸で医者を営む多田宗哲と申します。喜多見様のことで、少々お伺いしたいことが…」
老僧は、宗哲の顔をじっと見つめ、ゆっくりと箒を置いた。その目は、長年の風雪に耐えてきた古木の年輪のように、深く、そして全てを見通すようだった。
「喜多見様のこと、ですか…。ああ、重政様のことでしょうな。まことに、予期せぬことでございました」
老僧の声は、低くながらもよく通り、古い木の葉が擦れ合うような寂しさを帯びていた。
宗哲は、老僧に喜多見重政の人物像や、改易に至るまでの様子について尋ねた。老僧は、慎重に言葉を選びながら、記憶の糸をたぐり寄せた。
「重政様は、お若くしてこの里の領主となられましたが、聡明で民を大切にされるお方でございました。新しい事業にも積極的に取り組まれ、この里の行く末を心底案じておられました。それが、突然このようなことになるとは…」
老僧は、深いため息をついた。
「何か、特別なご様子はございませんでしたか? 例えば、ご心労の色が見られたとか…」
宗哲がさらに踏み込んで尋ねると、老僧は少し考え込むように目を伏せた。
「…この数ヶ月は、確かに以前よりもお疲れのご様子でございました。稀に重い顔をされることもございましたが…理由までは、わたくしのような身には窺い知ることもできません」
老僧の言葉は、甚兵衛の証言と一致する。喜多見重政は、表向きには順風満帆に見えながらも、内面深く苦悩していたのだ。
宗哲は、さらに重治という従兄弟について尋ねてみた。
「重治様、ですか…。ううむ…血気盛んなお方ではございましたが…殿には忠実でいらしたと聞いております。まさか、あのようなことをしでかすとは…」
老僧の言葉には、明白な含みがあった。まるで、重治の行動が、彼の本質とはかけ離れた意外なものであったと言いたいかのようだ。
宗哲は、寺の境内をもう少し散策した。墓地には、古びた喜多見家の墓石が静かに並んでいる。その一つ一つに、この地の歴史が刻まれているのだ。宗哲は、一番古い墓石の傍らに立ち止まり、時の流れを感じた。この地に眠る先祖たちは、今日の事態をどう見ているだろうか。
慶元寺を後にした宗哲は、多摩川の流れを見下ろす高台に立った。夕暮れが近づき、水面は黄金と赤の色を帯びて鈍く光っている。この静けさの裏には、何か大きなうねりが隠されているのではないか。宗哲は、喜多見の地に残された数々の疑問と、漠然とした不安だけを抱えて、江戸への帰路についた。
第三章:権力の影
江戸に戻った宗哲は、すぐに診療所に戻らず、情報収集に奔走した。まずは、疑惑の喜多見重治について調べようとしたが、噂は錯綜し、確かな情報はなかなか得られない。血気盛んな単純な男だという者もいれば、ある大名家の隠れた繋がりを持つ計算高い男だという者もいた。
次に、刃傷沙汰の相手となった旗本、浅岡直国について探ってみた。噂によれば、彼は酒と博打に溺れる日々を送っており、多額の借金を抱えていたという。喜多見家とは、特に因縁があったという話もない。
宗哲は、これらの断片的な情報を繋ぎ合わせようとしたが、どうにも全体像が見えてこない。まるで、意図的に隠されているかのように。
そんな中、宗哲は、意外な人物から接触を受けた。それは、かつて宗哲が仕えていた小さな大名の家老、藤村であった。藤村は、宗哲が医者に転身した後も、折に触れてその安否を気遣ってくれていた。
「多田殿、少々お話がしたく…今夜、いつもの茶屋で会えませんか」
藤村からの手紙には、そう簡潔に書かれていた。通常の友好的な会合とは異なる、何か含みのある文面に、宗哲は少し緊張感を覚えた。
夜、約束の茶屋で藤村と会った宗哲は、すぐに彼の様子が普段と違うことに気づいた。周囲を注意深く見回し、声をひそめて話そうとする様子に、宗哲も自然と身構える。
「多田殿、今日は、少々込み入った話をしに来ました」
藤村は、まずそう切り出した。
「喜多見様の御改易の件、噂は様々飛び交っておりますが…多くの不明な点がございますでしょう」
宗哲は、黙って頷いた。
「実は…私の耳にも、いくつか気になる噂が届いております」
藤村は、声をさらに小さくした。
「喜多見様は、将軍様からの御信頼が厚く、それを面白く思わぬ者たちがいた、という噂です」
「面白く思わぬ者たち、と申しますと?」
宗哲が尋ねると、藤村は少しためらった後、名を挙げた。
「まずは、かつて絶大な権勢を誇った老臣、牧野成貞様。そして、今急速に勢力を伸ばしている柳沢吉保様…」
宗哲は、彼らの名前に聞き覚えがあった。どちらも、将軍綱吉の側近として、幕府内で大きな影響力を持つ者たちだ。
「牧野様は、かつて喜多見様を自分の弟子としていた噂もございましたが…」
「ええ、昔のことです。今や、その関係は冷ややかなものになっている噂です。喜多見様の急速な台頭に、複雑な思いを抱いていたのでしょう」
そして、柳沢吉保。若くして将軍の信頼を得、今その勢いを増している男。喜多見重政の失脚は、彼にとって大きな好機となった可能性も否定できない。
「柳沢様は…喜多見様の失脚で、何か得をしたのでしょうか」
宗哲の問いに、藤村は深く頷いた。
「喜多見様が持っていたいくつかの重要な役職が、今や柳沢様の息のかかった者たちで埋められている噂です」
権力闘争。将軍の信頼を巡る、表向きには静かで、しかし内面は激しい競争。喜多見重政は、その絶大な信頼ゆえに、敵を作ってしまったのだろうか。
藤村は、さらに声をひそめた。
「そして…『生類憐みの令』…あれを巡っても、幕府内には様々な意見がございます。喜多見様は、表向きは熱心にこの法令に取り組んでおられた噂ですが…内面は、その極端さに多少の懸念を抱いておられた、という噂も…」
宗哲は、混沌とした思考が頭の中で渦巻くのを感じた。喜多見重政の改易は、単なる従兄弟の刃傷沙汰が原因ではない。その裏には、幕府内の複雑な権力構造、そして将軍の寵愛を巡る人間の嫉妬と野心が渦巻いているのだ。
藤村との短い会合を終えた宗哲は、夜の闇の中を一人歩いた。風が冷たく、星の光も弱い。しかし、宗哲の胸には、熱い思いが宿っていた。見えない権力の影。その悪しき意図が、若き寵臣の運命を狂わせたのだとしたら、宗哲は、その真実を明らかにしなければならない。それは、失われた者へのささやかなレクイエムであり、そして、この不条理な世の中への、静かなる抵抗なのだから――。
第四章:閉ざされた口
喜多見重政が現在蟄居している小川村は、江戸から北西に向かった場所にあった。宗哲は、数日後、その地に一人足を運んだ。
村は、静かで時間の流れもゆっくりとしているように感じられた。田畑が広がり、ところどころに古い民家が点在している。かつて栄華を誇った寵臣が、今はこの静かな村で、どのような思いで日々を過ごしているのだろうか。
宗哲は、村人に慎重に喜多見重政の居場所を尋ねた。皆、口を揃えて「一番奥の家」と答える。村の端にひっそりと建つ、小さな質素な庵。そこが、かつての栄華を誇った大名の現在の住まいだった。
庵の戸は固く閉ざされていた。宗哲は少しためらった後、静かに声をかけた。
「喜多見様、わたくし、江戸で医者を営む多田宗哲と申します。少々お話を伺いたく…」
返事はなかった。しばらく無音の時間が流れる。宗哲は、もう一度声をかけた。
「喜多見様…」
その時、庵の中から、かすかに咳をするような音が聞こえた。生きている。そこに、かつての寵臣は、まだ息づいているのだ。
宗哲は、もう一度声をかけようとしたが、その時、内側から静かな声が聞こえた。
「…どなたか…?」
その声は、乾いてかすれており、かつての栄華の影もなかった。
「はい、わたくし、江戸の医者、多田宗哲と申します」
しばらくの沈黙の後、戸がゆっくりと開き、中から痩せこけた男が現れた。それが、噂に聞いた喜多見重政だった。顔色は土気色で、深く刻まれた皺が、彼の苦悩を物語っている。しかし、その瞳の奥には、かつての聡明さの片鱗が、まだわずかに残っていた。
「医者…? わたくしに治療など必要ない」
重政の声には、冷たい拒絶の色がはっきりと表れていた。
「いいえ、わたくしは、あなた様の病を癒しに来たのではありません」
宗哲は、重政の目を真っ直ぐ見つめながら言った。
「わたくしは、あなた様の心に巣食う病を知りたいのです。あの日、江戸城で何があったのか。そして、あなた様が、なぜこのような目に遭われたのか…」
重政の顔の色が、一瞬固まったように見えた。そして、乾いた笑いを漏らした。
「何を望む? 公式発表の通りだ。わたくしの従兄弟が愚かな行動を起こし、その責をわたくしが取った。それ以外に、何があるというのだ」
その声は、疲労と自己防衛の色を帯びていた。
「しかし、その公式発表には、多すぎる不明な点がございます。それに、あなた様の顔には、深い絶望の色が見えます。それは、単なる失脚の悲しみではございません」
宗哲は、一歩踏み込み、重政に迫った。
「喜多見様、わたくしは、真実を知りたいのです。あなた様を陥れた者の真実を」
重政は、宗哲の強い視線から目を逸らし、静かに首を振った。
「もう良い。全ては終わったこと。わたくしは、ただ静かにこの生を終えるだけだ。あなたに話すことなど、何もない」
そう言い残し、重政は再び庵の中へと体を向けた。重い戸が、再び静かに閉ざされた。
宗哲は、しばらくその場に立ち尽くしていた。喜多見重政は、真実を知っている。しかし、何らかの強い力によって、その口を固く閉ざされているのだ。その力とは一体何なのか。そして、重政は何を恐れているのか。
宗哲は、実りのない訪問を終え、重い足取りで小川村を後にした。しかし、彼の内なる探求心は、決して消えてはいなかった。むしろ、重政のこの固い沈黙が、宗哲の心に、より強い火をつけたのだ。閉ざされた口の裏に隠された真実を、必ずや暴いてみせる――。
第五章:陰謀の糸
江戸に戻った宗哲は、喜多見重政の沈黙の理由を探るべく、さらに情報収集を続けた。藤村から聞いた牧野成貞と柳沢吉保の動向を探る一方、喜多見重治と浅岡直国の過去についても洗い直した。
その中で、宗哲はある噂に辿り着いた。喜多見重治は、最近、熱心に特定の儒学者の教えに傾倒していたというのだ。その儒学者の名は、古垣道庵といった。表向きは穏健な学者として知られていたが、その思想には、既存の幕府体制を批判する隠れた要素が含まれているという噂もあった。
宗哲は、古垣道庵について調べを進めた。道庵は場所を転々としながら私塾を開いており、その門下には、下級武士や浪人の姿も多く見られたという。喜多見重治も、その一人だったのだ。
さらに調べを進めるうち、宗哲は、浅岡直国が多額の借金を抱えており、その金銭問題の背後に、古垣道庵の名前が頻繁に浮上していることを知った。道庵が、何らかの形で浅岡の借金に関わっており、彼を支配する立場にあった可能性が示唆された。
(喜多見重治と古垣道庵、そして借金を抱える浅岡直国…。これらの点が、線で結びつくのか…?)
宗哲の頭の中で、散らばっていたパズルのピースが、ゆっくりと形を取り始めようとしていた。
そんな折、宗哲は、予期せぬ柳沢吉保の屋敷に薬を届けに行く用事ができた。形式的には患者のためだったが、宗哲には、屋敷の雰囲気を探る密かなチャンスでもあった。
柳沢邸は、大勢の人々が出入りしており、その一人一人の顔には、野心や打算、隠れた感情が花のように浮かんでいるように見えた。宗哲は、用事を済ませると、慎重に周囲を観察した。柳沢吉保自身の姿を見ることはできなかったが、屋敷の者たちの声の端々から、その主人の今日は機嫌が良い噂が聞こえてきた。まるで、何か大きな目的が達成されたかのように。
数日後、宗哲は、藤村と再び密かに会った。
「多田殿、噂によれば、喜多見様の以前の地位に、間もなく柳沢様の息のかかった者が就任する噂です」
藤村の声は、以前よりもさらに沈痛だった。
「やはり…」
宗哲は静かに呟いた。全ては、柳沢吉保の計画通りに進んでいるのだ。喜多見重政を失脚させ、その地位を奪い取る。そのために、喜多見重治と浅岡直国の刃傷沙汰は、利用されたのではないか。そして、その筋書きを描いたのが、古垣道庵だったとしたら――。
宗哲は、藤村に古垣道庵について尋ねてみた。
「古垣道庵という儒学者について、何かご存知でしょうか」
藤村は少し考え込み、慎重に答えた。
「古垣道庵…噂には聞いたことがあります。過激な思想を持つ者として、一部では警戒されている噂です。その門下には、幕府に不満を持つ者たちが集まっているとも…」
全てが繋がった。柳沢吉保の野心、古垣道庵の危険な思想、借金を抱える浅岡直国、そして血気盛んな喜多見重治。これらの要素が、巧妙に組み合わされ、喜多見重政という一人の才能ある男を、社会から排除したのだ。
真実は、冷たく、そしておぞましい。宗哲は、この巨大な陰謀の前に、一人の医者として、いかに無力であるかを痛感した。しかし、それでも、真実を見過ごすわけにはいかない。喜多見重政の沈黙を破り、この隠された闇を日の下に晒さなければならない――。
第六章:沈黙の代償
宗哲は再び小川村の庵を訪れた。今回は、前回とは異なる決意を胸に抱いていた。喜多見重政の顔は、さらに力を失い、生命の灯火が今にも消えそうだった。
「喜多見様、全て分かりました」
宗哲は、静かに重政に語りかけた。
「あなた様を陥れたのは、柳沢吉保です。そして、その計画を描いたのは、古垣道庵という儒学者です。喜多見重治は利用され、浅岡直国は借金の弱みを握られて操られていたのです」
重政は、わずかに目を開き、宗哲の顔をじっと見つめた。その瞳には、驚き、悲しみ、そして重苦しい諦念の色が花のように浮かんでいた。
「…やはり、そこまで…」
重政の声は、かすかに空気中に溶けるように聞こえた。
「なぜ、沈黙を貫いたのですか? なぜ、真実を語らなかったのですか?」
宗哲の問いに、重政は静かに首を振った。
「語ったところで、何が変わるというのだ? わたくしは、すでに全てを失った。そして、真実を語れば、さらに多くの血が流れるだろう…」
その声には、深い疲労と自己犠牲の色が滲んでいた。
「しかし、あなた様の無念は…!」
宗哲が声を荒げると、重政はか細く笑った。
「わたくしの無念など、重要ではない。重要なのは…この国、そして民のことだ。柳沢吉保の権勢が確立すれば、きっとさらに多くの者たちが苦しむことになるだろう。しかし…わたくしが真実を語れば、それは大きな混乱を招き、より大きな悲劇を生むかもしれない…」
重政は、重く呼吸をしながら、言葉を続けた。
「わたくしの沈黙は、自己憐憫ではない。これは…最悪の事態を避けるための…わたくしなりの…贖罪なのだ…」
宗哲は、その言葉に言葉を失った。喜多見重政は、自身の不名誉と引き換えに、より大きな混乱を防ごうとしていたのだ。その犠牲の深さに、宗哲は胸を締め付けられる思いがした。
その夜、喜多見重政は、静かに息を引き取った。その顔には、不思議なほどの安らかさが浮かんでいたという。
宗哲は、彼の最期に立ち会った。彼の犠牲を前に、宗哲は、真実を世間に伝えるべきか、それとも、重政の意志を尊重し、沈黙を守るべきか、激しい葛藤に苛まれた。
真実を語れば、柳沢吉保をはじめとする権力者たちに敵と見なされ、自身の命も危険に晒されるだろう。しかし、沈黙を守れば、喜多見重政の犠牲は、誰にも知られることなく、歴史の闇に消え去ってしまう。
夜、宗哲は自室で静かに考え込んだ。蝋燭の炎が揺れ、壁に長い影を映し出す。その時間の中で、宗哲は、一つの結論に達した。真実を直接に語ることはできない。しかし、その記憶を、未来へと繋ぐことはできる――。
終章:秘された血痕
喜多見重政の死は、公式には病死として処理され、その存在は、ゆっくりと人々の記憶から薄れていった。柳沢吉保は、その後、幕府内でさらに強固な地位を築き、その影響力は増大する一方だった。
宗哲は、江戸に戻り、通常の診療の日々を送った。しかし、彼の内面には、喜多見重政の犠牲と、知ってしまった真実の重みが、常にのしかかっていた。
彼は、喜多見重政の真実を、直接的に語ることはなかった。しかし、診療の合間や、夜の静かな時間に、その記憶を薬の処方箋の隅に、医術書の行間に、暗号のような言葉で密かに書き残した。いつか、未来の誰かが、その隠されたメッセージを読み解き、真実に辿り着くことを願って。
宗哲の診療所には、様々な人々が訪れた。病に苦しむ者、心に悩みを抱える者、権力の圧政に静かに耐える者たち。宗哲は、彼らの声に耳を傾け、できる限りの治療を施した。しかし、彼の心の奥底には、癒えることのない傷跡が残っていた。
月日は流れ、元禄の時代も終わりを迎えようとしていた。多田宗哲は、静かにその生涯を閉じた。彼の残した薬の処方箋や医術書は、後世の医者たちの手に渡り、一般的な医療技術の知識として受け継がれていった。しかし、そのページに隠された、喜多見重政の真実を暗示する言葉に気づく者は、ついに現れなかった。
だが、歴史の流れの中で、真実は常に姿を変え、いつか再び日の下に現れるものなのかもしれない。多田宗哲が医術書の行間に秘められた血痕のように残した、喜多見重政の不名誉な記憶は、遥か未来の、別の誰かの注意深い視線によって、予期せず暴かれる日が来るのかもしれない。そしてその時、読者は、元禄の闇の中で、一人の男がどれほどの犠牲をもって名誉を守ろうとしたのかを知るだろう。



































この記事へのコメントはありません。