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『ONE』

時代の寵児か、世紀の詐欺師か。 日本中を熱狂させた若き天才。その栄光の裏で、静かに牙を研ぐ“国家”という怪物。

あらすじ

2000年代、ITバブルの頂点で、一人の若き天才が彗星のごとく現れた。男の名は、堀川崇史。彼が率いるIT企業「ライブエッジ」は、旧来の常識を破壊する斬新なビジネスで、瞬く間に社会現象を巻き起こす。メディアは彼を「時代の寵児」と称え、人々は彼の言葉に熱狂した。

しかし、そのあまりに眩しい光は、日本の深層に根を張る“旧い権力”たちの眠りを妨げる。若き革命家の野望が、国家という巨大な壁に触れたとき、物語は誰も予測しなかった方向へ暴走を始める。

栄光の裏に隠された危険な取引。正義の名の下に動き出す、国家権力という名の巨大な影。熱狂の渦の中心で、堀川が見たものとは。そして、彼を信じた人々の運命は——。

これは、一人の男の栄光と没落を通して、現代日本の「真実」を問う、圧巻のヒューマン・ミステリー。

登場人物紹介

  • 堀川 崇史(ほりかわ たかし) IT企業「ライブエッジ」を率いる若きカリスマ。古い慣習を嫌い、卓越したビジネスセンスとメディア戦略で時代を駆け上がる革命家。その瞳の奥には、純粋な理想と、底知れぬ野心が同居している。
  • 稗田 慶一郎(ひえだ けいいちろう) 堀川の右腕であり、ライブエッジの「頭脳」。理想を語る堀川の傍らで、常に現実的な戦略を立てる冷静沈着な男。堀川の最も近き理解者だが、その危うさもまた、誰より感じている。
  • 佐山 亮(さやま りょう) 町工場を営む、ごく普通の男。旧態依然とした社会に失望する中で、彗星のごとく現れた堀川に自らの人生逆転の夢を託し、なけなしの資産をライブエッジ株に投じる。
  • 国枝 克彦(くにえだ かつひこ) 日本のメディア界に長年君臨する、大手テレビ局の経営者。自分たちが築き上げた秩序を脅かす堀川を「成り上がりの若造」と断じ、あらゆる手段をもって排除しようとする“旧い権力”の象徴。
  • 森村 誠(もりむら まこと) 堀川の前に立ちはだかる、東京地検特捜部の検事。社会の秩序を絶対とし、法を犯す者には一切の容赦をしない「正義」の体現者。堀川のやり方を、社会を蝕む“悪”と断じる。

第一章:時代の寵児

煌びやかなシャンデリアが、集まった人々の野心と欲望を照らし出している。西麻布の会員制バー。その一室を貸し切って開かれたパーティーは、時代の頂点に立つ男、堀川崇史のためにあった。 「堀川さん、時価総額5000億、おめでとうございます」 「次の狙いはどこです?やはりあの銀行ですか?」 取り巻きたちの耳障りの良い賞賛と、下心を含んだ質問のシャワーを、堀川は気怠げに受け流していた。グラスの中の琥珀色の液体を揺らしながら、窓の外に広がる東京の夜景を見下ろす。無数の光の粒が、まるで自分の成功を祝福するために輝いているように思えた。

「つまらないな」

誰に言うでもなく、堀川は呟いた。隣に控えていた右腕の稗田慶一郎が、その小さな声を正確に拾う。 「何がです?」 「全部だよ。株価が上がれば誰もが僕を褒め称える。僕の言葉一つで、億単位の金が動く。でも、彼らは僕自身を見ているわけじゃない。僕が作った『ライブエッジ』という神輿を担いで騒いでいるだけだ」 堀川は、自らを「僕」と呼んだ。それは彼の数少ないこだわりであり、世間が作り上げた「時代の寵”児”」という傲岸不遜なイメージに対する、ささやかな抵抗だったのかもしれない。 「神輿でも結構じゃないですか。そのおかげで僕たちは、何でもできる場所にいる」 稗田は常に冷静だった。堀川が理想や夢を語る時、稗田はそれを現実の数字と計画に落とし込む。堀川がアクセルなら、稗田は的確なハンドルさばきで巨大な船を操るナビゲーターだった。

「次のステージに行く。稗田、準備はいいか?」 堀川が夜景から視線を外し、稗田の目を見た。その瞳の奥に宿る熱狂的な光を、稗田は見逃さない。 「まさか、本気で?」 「本気も本気さ。この国の放送と通信を融合させる。僕たちが、この国の情報の流れを支配するんだ。そのためには、あの古臭いテレビ局を手に入れる必要がある」 大日本テレビ。国枝克彦という老獪な経営者が支配する、旧世代の権力の象”徴”。 「無謀です。法律も、世論も、そして何より向こうの『仲間たち』がそれを許さない」 「だから面白いんじゃないか」

堀川は不敵に笑った。グラスを置き、人いきれのする輪の中へと戻っていく。再び賞賛の渦に飲み込まれていくその背中を見ながら、稗田はかすかな胸騒ぎを覚えていた。

この男は、どこまで行くのだろう。時代の寵児として祭り上げられたこの男が、もし墜ちる時が来るとしたら。その時、一体どれだけの人々を巻き込むことになるのか。

まだ誰も知らない。この夜の会話が、日本中を揺るがす巨大な事件の、静かな序曲であったことを。そして、熱狂の裏側で、佐山亮という一人の男の人生が、静かに狂い始めていたことにも。佐山は当時、東京の片隅で小さな町工場を営み、なけなしの退職金を「ライブエッジ」の株につぎ込んで、人生の再起を夢見ていた。画面の向こうで華やかに笑う堀川を、彼はまだ、自分を救ってくれる救世主だと信じていた。

第二章:兜町の乱

西麻布の夜が明けた翌朝、「ライブエッジ」の役員会議室には、早くも緊張が張り詰めていた。堀川が放った「テレビ局買収」という爆弾は、夜の間に稗田を通じて役員たちの耳に届いていた。彼らの顔には、興奮と、それ以上に色濃い戸惑いが浮かんでいた。

「—―以上が、僕が描く未来だ」

堀川は、巨大なホワイトボードに書きなぐった事業構想図を背に、締めくくった。彼の言葉は、いつものように自信に満ち、聞く者を高揚させる不思議な熱を帯びていた。 「放送と通信の融合。それは、誰もが口にしながら、誰も成し遂げられなかった革命だ。僕たちならできる。いや、僕たちにしかできない」

沈黙を破ったのは、最年長の財務担当役員だった。 「堀川さん、理想はわかります。ですが、現実を見てください。大日本テレビの時価総額は、現在の我々のおよそ倍。しかも、彼らの背後には、この国のメディアを牛耳ってきた大物たちがいる。銀行も、簡単には我々の味方をしないでしょう」 「金ならある」 堀川はこともなげに言った。 「正確に言えば、『作る』ことができる。僕たちの株価がそれを可能にする。市場はいつだって、古いものより新しい物語を求めるんだ」 彼の言う「作る」という言葉に、何人かの役員が顔をこわばらせる。それは、ファイナンスの錬金術を指していた。法と脱法のグレーゾーンを綱渡りするような、危険なスキーム。これまでライブエッジの急成長を支えてきた諸刃の剣だった。

「稗田くん、君はどう思う?」 議論が紛糾するのを見透かしたように、堀川は静かに座っていた稗田に水を向けた。すべての視線が、社のナンバーツーに集まる。 「……作戦自体は、不可能ではありません」 稗田は、手元の分厚い資料から目を上げ、静かに口を開いた。 「時間外取引を利用して、市場を驚かせることができれば、一気に発行済み株式の3分の1以上を取得できる可能性はあります。問題は、その後です。彼らは、あらゆる手を使って防衛してくるでしょう。我々は、メディア、政界、財界のすべてを敵に回す覚悟をしなければならない」 稗田は、堀川の理想論を具体的な戦術とリスクに翻訳した。その言葉は、熱に浮かされた会議室に冷水を浴びせ、役員たちを現実に引き戻す。

「面白いじゃないか」 堀川は、そのリスクさえも楽しむように笑った。 「旧世代の王様たちに、僕たちのやり方で戦いを挑む。歴史の転換点だ。こんなに胸が躍ることはないだろう?」 その純粋なまでの野心は、もはや狂気と紙一重だった。だが、その狂気こそが、堀川崇史という男のカリスマ性の源泉でもあった。役員たちは、その魔力に抗えない。不安を抱きながらも、心のどこかで、この男が見せてくれるであろう新しい景色に期待している自分たちがいた。

「決まりだ。これより、大日本テレビ買収作戦、コードネーム『ビッグバン』を開始する」 堀川の宣言が、日本の金融史、そしてメディア史を揺るガす戦いの火蓋を切った。

その頃、千代田区にある大日本テレビの社長室では、国枝克彦が不機嫌そうに葉巻を燻らせていた。 「ライブエッジ、だと?なんだ、あのITバブルで成り上がった小僧たちは」 側近からの報告を、国枝は鼻で笑った。 「市場で、我々の株を買い漁っているという噂が……」 「噂は噂だ。株価が少し上がるのは悪いことじゃない。放っておけ」 国枝は、堀川という若者を、自分たちが築き上げた秩序を脅かす存在だとは微塵も思っていなかった。自分たちが握る情報の力、そして政財界に張り巡らせた見えざるネットワークこそが、この国の真の権力だと信じて疑わなかったからだ。

テレビの経済ニュースが、ライブエッジの株価が連日最高値を更新していると報じている。その画面をぼんやりと眺めていた町工場の元経営者・佐山亮は、自分の預金通帳の数字が増えていくのを確認し、口元を緩ませていた。彼にとって堀川は、古いしがらみの中で苦しんできた自分を、新しい世界へ連れて行ってくれるヒーローに見えていた。この先に待つ運命など、知る由もなかった。

第三章:蝕む亀裂

そのニュースは、深夜の放送休止を告げるはずだったブルーバックの画面を突き破り、速報テロップとして日本中を駆け巡った。

『速報:IT大手ライブエッジ、大日本テレビに対し敵対的買収(TOB)を開始か』

翌朝、兜町は蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。ライブエッジの株価はストップ高まで買い進められ、逆に大日本テレビの株価は乱高下を繰り返す。堀川崇史が仕掛けた「ビッグバン」は、まさに言葉通り、日本の金融市場とメディア業界の古い秩序に巨大な衝撃を与えた。

「見たか、稗田。皆、僕たちの手のひらの上で踊っている」 六本木のヒルズレジデンス最上階。堀川は、巨大な窓から眼下に広がる朝の東京を眺めながら、満足げに呟いた。テレビのニュース番組は、どのチャンネルもライブエッジの特集を組んでいる。若き天才、時代の寵児、黒船、ハゲタカ――。賞賛と非難が入り乱れ、堀川崇史という存在が社会現象の中心に躍り出ていた。 「ええ。ですが、本当の戦いはここからです」 稗田は、コーヒーを一口すすり、冷静にタブレットの画面を指し示した。そこには、国枝克彦がテレビ局のエントランスで報道陣に囲まれている映像が映し出されていた。 『——断じて許さない。これは、日本の文化と秩序に対する挑戦だ!』 マイクに向かって怒りを露わにする国枝の姿は、老いた獅子のようだった。しかし、その瞳の奥には、未知の敵に対する警戒と焦りが滲んでいるのを稗田は見逃さなかった。 「彼らはあらゆる手を使ってくるでしょう。新株発行による買収防衛策、ホワイトナイトの要請、そして……政治家や官僚への根回し」 「やれるものならやってみればいい。僕たちの武器は、世論と市場だ。古い権力にしがみつく彼らより、僕たちにこそ大義がある」 堀川の自信は揺るがなかった。彼は、この戦いを正義と悪の対決だと信じていた。自分こそが、停滞した日本を前に進める革命家なのだと。その純粋すぎるほどの信念が、彼を支える最大の力であり、同時に、彼の視野を狭める最大の弱点でもあった。

その夜、赤坂の料亭の一室に、日本の見えざる権力者たちが集まっていた。大日本テレビの国枝を中心に、与党の大物議員、元大蔵省の重鎮、そして大手都市銀行の頭取。彼らにとって、堀川の存在は、自分たちが長年かけて築き上げてきた聖域を土足で踏み荒らす、野蛮な侵略者に他ならなかった。

「国枝さん、どういうことかね。あのような成り上がりの若造一人、始末できないのか」 大物議員が、吐き捨てるように言った。 「申し訳ありません。奴らは、我々の常識が通用しない連中です」 国枝は深く頭を下げた。昼間の激昂が嘘のように、そこには権力者の序列に忠実な男の姿があった。 「……奴の資金源を叩け」 沈黙を保っていた元大蔵官僚が、低い声で言った。 「派手な買収を繰り返しているが、その裏には必ず歪みがあるはずだ。金の流れを徹底的に洗え。埃の一つでも出れば、あとは特捜が動く」 それは、法による裁きという名の、権力による私刑の宣告だった。彼らは、堀川が土俵にしている市場やメディアではなく、自分たちが支配する別の土俵へと、静かに戦いの舞台を移し始めていた。

この時、元経営者である佐山のパソコンの画面には、急騰したライブエッジの株価が映し出され、彼の口座残高は、失った工場を買い戻してもお釣りがくるほどの金額に膨れ上がっていた。 「すごい、すごいぞ堀川さん……!」 佐山は、堀-川を熱狂的に信奉する個人投資家の一人として、ネットの掲示板に賞賛のコメントを書き込んでいた。旧態依然とした大企業を打ち破るヒーローの物語に、彼は自分の人生の逆転劇を重ね合わせていた。

熱狂の渦の中心で、堀川はまだ気づいていなかった。自らが放った光が強ければ強いほど、その足元に生まれる影もまた、濃くなっていくということに。そして、その影の中で、巨大な権力が静かに牙を研いでいることにも。虚構の王国に、最初の亀裂が走ろうとしていた。

第四章:逆襲の狼煙

東京、霞が関。 整然と区画された官庁街の一角に、その庁舎は静かに佇んでいる。東京地方検察庁、特捜部。日本の数々の巨悪を屠ってきた最強の捜査機関。その会議室には、重い沈黙が垂れ込めていた。

部屋の奥に立つ男、森村誠が、集まった精鋭検事と事務官たちを見渡す。彼の目は、獲物を前にした猟犬のように鋭く、一切の感情を映していなかった。 「—―これより、株式会社ライブエッジ、および代表取締役・堀川崇史に対する内偵捜査を開始する」 森村の声は、静かだが部屋の隅々まで響き渡った。 「世間では、今回の買収劇を新旧の世代交代、既得権益への挑戦などと持て囃している。だが、我々の仕事は、そういった世論に左右されることではない」 森村は、ホワイトボードに貼られた堀川の雑誌の表紙を、冷徹な視線で射抜いた。 「我々が見るのは、ただ一つ。法と正義だ。彼らの急成長を支えた錬金術の裏に、違法な手段はなかったのか。投資家を欺く行為はなかったのか。我々の任務は、その一点を解明し、もし罪があるのならば、断固としてこれを裁くことにある。以上だ」

それは、堀川たちが戦っていた華やかなメディアや市場とは全く異なる、もう一つの戦いの始まりを告げる狼煙だった。水面下で、音もなく、しかし着実に、巨大な包囲網が形成され始めていた。

その頃、ライブエッジのオフィスでは、稗田が珍しく血相を変えて堀川の執務室に飛び込んできた。 「堀川さん、大変です。メインバンクの一つである中央第一銀行が、我々への追加融資を事実上凍結すると通告してきました」 「なんだと?」 メディア戦略の打ち合わせをしていた堀川は、眉をひそめた。 「理由は?あれだけ僕たちを持ち上げておいて、今さらなんだ」 「『コンプライアンス上の懸念』、だそうです。曖昧な表現ですが、これは……きな臭い。まるで、何か見えない力が働いているようです」 稗田の額には、脂汗が滲んでいた。彼は、赤坂の料亭で交わされた会話など知る由もない。しかし、長年のビジネスの勘が、自分たちの足元に得体の知れない地殻変動が起きていることを告げていた。 「考えすぎだ、稗田」 堀川は、テレビ局のスタジオで向けられるカメラのライトを思い出しながら、楽観的に言い放った。 「僕たちの勢いに怖気づいただけさ。大丈夫、銀行なんていくらでもある。世論は僕たちの味方だ」 しかし、その世論にも、わずかな変化の兆しが見え始めていた。大手新聞や週刊誌が、匿名のエコノミストや市場関係者のコメントという形で、ライブエッジの会計処理の不透明さを指摘する記事を掲載し始めたのだ。 『急成長の裏に隠された粉飾の疑惑』 『若きカリスマの危うい資金調達術』 最初は小さな疑念の記事だった。しかし、それは確実に、堀川が築き上げた輝かしいイメージに、少しずつ泥を塗りつけていった。

パソコンの画面に並ぶそれらの見出しを見て、佐山は怒りに拳を震わせた。 「ふざけるな……! これは、旧世代の奴らの、卑劣なネガティブキャンペーンだ!」 彼は、堀川を擁護するブログや掲示板を渡り歩き、批判的な記事を書いたメディアを攻撃するコメントを夢中で書き込んだ。顔も知らない投資家仲間たちとの間に生まれた奇妙な連帯感が、彼をますます熱狂させていく。堀川は、自分たちの希望の星なのだ。彼が墜ちることは、自分たちの人生が終わることを意味する。佐山は本気でそう思い始めていた。

堀川本人だけが、その変化に気づいていない。あるいは、気づかないふりをしていた。メディアと市場という、光の当たる舞台での戦いに勝利することだけが、彼の頭を占めていた。背後から静かに忍び寄る、検察という影の存在には、まだ気づかずに。

第五章:砂上の楼閣

その日は、冬にしては穏やかな日差しが降り注ぐ、晴れた日の午後だった。六本木ヒルズの最上階、ライブエッジのオフィスは、いつものように活気に満ちていた。堀川は、大日本テレビとのプロキシーファイト(委任状争奪戦)に向けた戦略会議で、檄を飛ばしているところだった。 「守りに入った時点で僕たちの負けだ。攻めろ、攻め続けろ。僕たちが未来で、奴らが過去だということを、株主たちに見せつけてやれ」 役員たちの顔にも、検察の内偵という不穏な噂を忘れさせるほどの熱気が戻っていた。この男についていけば、まだ勝てる。誰もがそう信じようとしていた。

その瞬間だった。

会議室のガラス張りのドアが、なんの断りもなく、荒々しく開け放たれた。なだれ込んできたのは、ダークスーツに身を包んだ、表情のない男たちの一団だった。先頭に立つ男が、堀川をまっすぐに見据え、手にした紙を突きつける。 「東京地方検察庁検事、森村だ。証券取引法違反の容疑で、家宅捜索令状が執行される」

時が、止まった。 誰かの悲鳴のような声。書類が床に散らばる音。怒号。オフィスは一瞬にして、パニックと混乱の坩堝と化した。堀川は、ただ呆然と立ち尽くしていた。目の前で起きていることが、現実だとはにわかに信じられなかった。

森村は、堀川の戸惑いを意にも介さず、部下たちに次々と指示を飛ばす。 「役員室、経理部、サーバー室を確保しろ! 一切の書類、および電子データを押収する! 社員は全員、その場を動くな!」 整然と、しかし有無を言わせぬ威圧感で、特捜部の男たちはオフィスを掌握していく。昨日まで、堀川が王として君臨していたはずの城は、わずか数分で、見知らぬ占領軍に制圧された。

「……何の真似だ」 ようやく絞り出した堀川の声は、自分でも驚くほどか細く、震えていた。 森村が、ゆっくりと堀川に歩み寄る。その目は、堀川の内面の動揺を全て見透かしているようだった。 「君が築き上げた砂上の楼閣は、今日、崩れ落ちる。堀川崇史くん、君の作った『物語』は、ここで終わりだ」

ビルの外には、どこから情報を聞きつけたのか、おびただしい数の報道陣が殺到していた。ヘリコプターが上空を旋回し、無数のカメラのフラッシュが、ヒルズのガラス窓を絶え間なく白く照らす。その光景は、まるで巨大な城の落城を伝える祝祭のようでもあった。

その様子を、佐山は自宅の古いテレビで見ていた。 画面の中で、ライブエッジのロゴが入った段ボール箱が、次々と運び出されていく。それは、彼が全財産を、そして人生の逆転の夢を託した会社の姿だった。画面の隅に表示された株価のテロップが、信じられない速さで値を下げていく。 「嘘だ……こんなこと……」 佐山の全身から、血の気が引いていく。ヒーローだと思っていた男は、ただの犯罪者だったというのか。自分は、一体何を信じていたのか。キーボードを握りしめていた指が、力なく滑り落ちた。

夜が更け、ほとんどの捜査員が引き上げた後、オフィスには稗田が一人、残っていた。荒れ果てた室内は、まるで激しい嵐が過ぎ去った後のようだった。堀川は、任意同行という形で、特捜部の車に乗せられていった。 稗田は、堀川がいつも外を眺めていた大きな窓の前に立つ。眼下に広がる東京の夜景は、昨夜と何も変わらず、美しく輝いている。

しかし、自分たちの王国は、もうどこにもなかった。 あまりにも脆く、儚い、砂上の楼閣だった。そして、その崩壊は、まだ始まったばかりに過ぎなかった。

第六章:偶像の黄昏

東京拘置所。 堀川崇史は、灰色一色に塗り固められた独房の中で、静かに座っていた。 数日前まで、時代の寵児として日本中を熱狂の渦に巻き込んでいた男は、今や、名前の代わりに番号で呼ばれる一人の被疑者に過ぎなかった。家宅捜索から数日後、堀川は、金融商品取引法違反の容疑で正式に逮捕された。

カチャン、と音を立てて手錠がかけられた時の、あの金属の冷たい感触を、堀川は生涯忘れることはないだろう。それは、彼が信じていた自由と万能感の終わりを告げる、無慈悲な音だった。 連日続く、検事・森村による厳しい取り調べ。森村は、堀川を「社会を弄んだ詐欺師」と断じ、一切の妥協を見せなかった。 「君の言う『革命』は、結局のところ、株価を吊り上げるための壮大な虚構だった。君の言葉を信じた多くの個人投資家たちが、今、絶望の淵にいることを知っているか?」 「……僕のやり方は、新しかっただけだ。古い法律が、僕たちのスピードについてこられなかっただけだ」 堀川は抵抗した。しかし、拘置所の閉鎖された空間では、かつてあれほど雄弁だった彼の言葉も、虚しく響くだけだった。一人きりの夜、彼は何度も自問した。自分は本当に、新しい時代を創造したかったのか。それとも、ただ旧世代の権力者たちを打ち負かすというゲームに酔っていただけなのか。答えは、簡単には出なかった。

同じ頃、腹心であった稗田もまた、堀川と共謀したとして逮捕され、隣の棟に収監されていた。取り調べに対して、稗田は常に冷静で、法廷での戦いを見据えていた。彼は弁護士を通じ、堀川にメッセージを送り続ける。「感情的になるな。これは法律というルールに則った、新たな戦いだ」と。

その戦いの、最大の被害者とも言える佐山は、全ての光が消えた部屋で、ただ天井を眺めていた。ライブエッジの株は、もはや紙くず同然だった。なけなしの金どころか、借金だけが残った。テレビをつければ、昨日まで自分を熱狂させていたヒーローが、囚人服を着て護送車に乗り込む姿が繰り返し映し出される。 「どうして……どうしてなんだ……」 憎しみと、裏切られたという思い。しかし、その感情の奥底には、どうしても消せない疑問があった。あれほどの熱量で未来を語った男が、ただの詐欺師だったとは、どうしても思えなかったのだ。佐山は、震える手でパソコンの電源を入れた。ライブエッジ事件に関する、あらゆる記事やデータを集め始めた。警察でも、検察でもない。ただの被害者として、自分自身の力で、堀川崇史という男の「真実」に辿り着かなければ、前に進めない。そう直感していた。

赤坂の夜。 大日本テレビの国枝は、例の料亭で、与党の大物議員と静かに杯を交わしていた。 「ようやく、騒がしい蝿がいなくなったな」 議員の言葉に、国枝は深く頷いた。 「これも先生方のお力添えあってのことです」 彼らの間に、堀川の名前はもう出なかった。全ては終わり、秩序は回復された。彼らにとって、事件はすでに過去のものだった。

だが、物語はまだ終わっていなかった。 法廷という新たな舞台で、堀…川、稗田、そして検察の三つ巴の戦いが始まろうとしていた。そして、その裁判を、佐山という一人の男が、固唾を飲んで見守っていた。偶像が黄昏の彼方に消え去った後、そこに一体何が残るのか。それを確かめるために。

最終章:ONE

日本の社会を揺るがした世紀の裁判は、数年という歳月を経て、ついに判決の日を迎えた。 法廷に立つ堀川崇史は、かつての傲岸不遜な時代の寵児の面影はなかった。無駄な肉は削ぎ落とされ、その瞳には、長い拘置所生活と自己との対話によって得た、深い静けさが宿っていた。

裁判の過程で、堀川は自らの野心や傲慢さを隠さなかった。しかし、同時に、古い規制と権力構造に縛られた日本の経済を、本気で変えようとしていた情熱もまた、赤裸々に語った。 「僕たちは、走りすぎていたのかもしれない。やり方が、間違っていたのかもしれない。しかし、僕たちが見ていた未来は、決して嘘ではなかった」 その言葉は、検事・森村が築き上げた「狡猾な詐欺師」という被告人像を、わずかに揺るがした。冷静沈着な稗田もまた、罪を認めるべきは認めつつ、彼らの挑戦が社会に与えた影響の大きさを淡々と述べた。

だが、法は法だった。 「主文、被告人・堀川崇史を、懲役二年六ヶ月の実刑に処する」 裁判長の非情な声が、法廷に響き渡る。堀川は、静かに目を閉じ、その判決を受け入れた。

裁判の傍聴席で、その瞬間を見届けていた佐山は、意外なほど冷静だった。怒りも、喜びも湧いてこない。ただ、堀川という男が引き起こした巨大なうねりの、一つの結末を確かめたという、不思議な空虚感だけがあった。事件を追い続ける中で、佐山は知っていた。これは単純な善悪の物語ではない。誰もが、それぞれの正義と欲望のために戦った結果なのだと。

そして、皮肉な結末が訪れる。 堀川が収監されてから一年後、大日本テレビは、大幅な経営不振に陥っていた。堀川が仕掛けた買収騒動は、結果として旧経営陣の保守的な体質を白日の下に晒し、株主たちの厳しい目に晒されることになったのだ。かつて堀川を「蝿」と罵った国枝は、株主総会で突き上げを食らい、失意のうちに社長の座を追われた。敵を葬ったはずの墓穴に、自らが落ちたのだった。

さらに数年の月日が流れた。 刑期を終え、世間から忘れ去られた存在として、堀川は刑務所の門をくぐった。彼を待っていたのは、まばらな報道陣と、そして、予想もしない人物だった。 佐山亮が、そこに立っていた。 二人の間に、長い沈黙が流れる。先に口を開いたのは、佐山だった。 「……ずっと、あんたを殺したいほど憎んでいた」 静かな、しかし重い言葉だった。 「あんたのせいで、僕の人生はめちゃくちゃになった。だが」 佐山は一度言葉を切り、まっすぐに堀川の目を見た。 「だが、あんたのおかげで、もう一度自分の足で立つことを覚えたよ。失って初めて、金よりも大事なものがあることにも気づけた」 彼は小さなIT関連の会社で、再びものづくりの道を歩み始めていた。それは、堀川がかつて熱狂させた、新しい時代の片隅だった。

堀川は、何も言わずに深く頭を下げた。謝罪でも、感謝でもない。ただ、自分という存在が、目の前の男の人生に与えたものの重さを、全身で受け止めるかのように。

その一週間後。堀川のもとに、一通の封書が届く。差出人は、大日本テレビの新社長からだった。国枝が去り、大きく若返った経営陣は、今、かつての敵が持っていた未来への慧眼を必要としていた。 『我が社の経営アドバイザーとして、あなたの力を貸してはいただけないだろうか』 堀川は、窓の外にそびえ立つ、かつて憎んだテレビ局のビルを見上げた。その手紙を握りしめる。

栄光も、没落も、熱狂も、憎悪も、全てが混ざり合ったあの時代。勝者も、敗者もいなかったのかもしれない。堀川も、稗田も、国枝も、佐山も、そして熱狂した国民も、皆が社会という一つの舞台でそれぞれの役を演じた、時代の当事者だった。誰もが、巨大な物語の『ONE』、その一片だったのだ。

堀川は、静かに呟いた。 「……ああ。もう一度、ここから始めてみようか」 今度は、誰かを熱狂させるためではない。ただ、確かな未来を、一歩ずつ築き上げるために。彼の二度目の人生が、静かに幕を開けた。

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