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『未完のプロローグ』

彼が書き終えなかった物語が、僕の人生の最初の1ページになった。

あらすじ

大手IT企業のプロジェクトマネージャーとして、身を粉にして働き、家族を支え、家を建てた。誰もが羨むはずの人生。しかし、ある朝、彼の心は予告なくシャットダウンする。思考は麻痺し、満員電車に乗れず、PCの文字さえ頭に入ってこない。診断は「適応障害」。社会という名の舞台から、彼は静かに退場した。

時間が止まったような休職生活の中、健太は近所の公園で起きた自殺の噂を耳にする。丘の上の木に残されたロープ。彼は吸い寄せられるように、毎日その場所へ通い始める。死者の姿に、社会から忘れられた自分を重ねていたのかもしれない。

ある雨上がりの日、彼は木の近くで一冊のメモ帳を拾う。そこに記されていたのは、ウェブ小説サイト『カクヨム』と、「ユウキ」というペンネーム。興味本位でその物語を読み始めた健太は、心を鷲掴みにされる。そこには、自分がとうの昔に心の奥底に封じ込めたはずの、純粋な痛みと切実な希望が描かれていた。

なぜ彼は、これほどの物語を書きながら、絶望しなければならなかったのか? なぜ、希望に満ちた最新作の連載を、ぷっつりと止めてしまったのか?

健太は、作者「ユウキ」の人生の謎を追い始める。それは、他人の物語の「最終章」を探す旅であり、彼自身の人生の「新しい序章」を見つけ出す、痛切な再生の旅の始まりだった。

登場人物紹介

  • 佐藤 健太(さとう けんた) – 48歳 本作の主人公。大手IT企業に勤める、プロジェクトマネージャー。金融機関など、大企業の複雑なシステム開発の現場責任者を長年務めてきた。クライアントと開発チームの板挟びになる過酷な労働環境で心身をすり減らし、「適応障害」と診断され休職中。読書家だったが、心を失ってからは活字が読めなくなっていた。
  • 平野 佑希(ひらの ゆうき) – 26歳 故人。小説家志望。ウェブ小説サイト『カクヨム』で、ユウキというペンネームで活動。繊細な心理描写と、どこか切ない作風でごく少数のファンを持っていた。希望に満ちた最新作『編集者さん、僕がここにいます』の連載を突然中断し、自ら命を絶つ。
  • 佐藤 美由紀(さとう みゆき) – 46歳 健太の妻。パートで働きながら家計を支える現実主義者。心を閉ざした夫に苛立ちと不安を募らせるが、彼が毎晩PCで何かの物語を読んでいることに気づき、僅かな変化を感じ始める。
  • 佐藤 遥香(さとう はるか) – 17歳 健太の娘。大学受験を控え、将来に悩む高校3年生。生気を失った父の姿に、働くこと、大人になることへの漠然とした絶望を感じている。
  • 相沢 絵里(あいざわ えり) – 25歳 佑希の大学時代の文芸サークルの仲間。彼の才能を誰よりも信じ、唯一の読者として彼を励まし続けていた。

第一部:空白のページ

電子音が鼓膜を突き刺す。

佐藤健太は、その無機質な響きで意識の浅い層へと引き上げられた。時刻は午前六時半。

寝室の遮光カーテンは完璧に光を遮り、部屋はまだ夜の底に沈んでいる。

アラームを止めなければならない。

そう頭では理解しているのに、体が動かなかった。鉛の板が全身を押し潰しているような、奇妙な圧迫感。

瞼の裏がざらつき、昨夜もまともに眠れなかったことを思い出す。天井の木目は、ただの茶色い染みにしか見えなかった。

ディテールを読み取るための集中力が、どこにも見当たらない。

(起きなければ。スケジュールが、崩れる)

プロジェクトマネージャーとして二十年以上、体に染みついた思考が警鐘を鳴らす。だが、その音は分厚いガラスの向こう側から聞こえるように遠かった。

意志が、肉体という名の部下に命令を伝達できない。完全に断線してしまっていた。

なんとか体を起こし、リビングへ向かうと、すでに日常が始まっていた。

テレビからは当たり障りのないニュースが流れ、妻の美由紀がキッチンで忙しなく動いている。テーブルには、こんがりと焼かれたトーストと、湯気の立つコーヒー。

「あなた、顔色が悪いわよ。昨夜も眠れなかったの?」

美由紀の声には、心配と、それを隠そうとする苛立ちが混じっていた。健太は何か答えようとして口を開くが、言葉にならなかった。

大丈夫だ、という一言が、喉の奥に張り付いて出てこない。

トーストは乾いた紙のようで、コーヒーは色のついたお湯としか思えなかった。味がしない。ただ、胃の中に義務的に詰め込むだけの作業だった。

向かいの席では、娘の遥香がスマートフォンに視線を落としている。彼女は何も言わないが、時折、心配そうに父の顔を窺っているのを、健太は視界の隅で感じていた。

(何か言わなければ。大丈夫だと。いつもの仮面はどこにやった?)

しかし、探している仮面は見つからず、代わりに深い溜息だけが漏れた。

ラッシュアワーの駅のホームは、音と情報の洪水だった。人の波、飛び交うアナウンス、そして、銀色の巨体が地響きを立てて滑り込んでくる。

獣の咆哮のようなブレーキ音。健太はホームの柱の陰に立ち尽くしていた。

ドアが開き、人が吐き出され、吸い込まれていく。その機械的な反復運動を、彼はただ呆然と眺めていた。

乗らなければならない。

一本見送る。次も、乗れない。呼吸が浅くなり、額に冷たい汗が滲む。

あの閉ざされた箱の中に、自分が入っていくことがどうしても想像できなかった。入ったら、息ができなくなる。圧し潰されてしまう。

三本目の電車が、目の前を通り過ぎていった。その時、健太の脳裏に、数週間前の光景がフラッシュバックした。

クライアント企業の、冷たい光が満ちる会議室。心血を注いだプロジェクトが、経営方針の変更という、ただそれだけの理由で凍結を告げられた日。

彼のチームの、若いエンジニアの顔。健太を信じきった目で見ていた彼の、失望に歪んだ表情。

健太は、ゆっくりと踵を返し、改札口へと引き返した。スマートフォンを取り出し、震える指で上司に一本のメールを送る。「体調不良のため、本日は休ませていただきます」。

送信ボタンを押した瞬間、何かが、ぷつりと切れた。

上司の勧めで訪れた心療内-科は、無菌室のような静寂に包まれていた。初老の医師は健太の話を静かに聞き、いくつかの質問をした後、穏やかな声で告げた。

「佐藤さん、これは『適応障害』です。仕事の強いストレスが原因ですね。一度、そこから完全に離れる必要があります。三ヶ月、休職しましょう」

適応、障害。

社会に適応できない、障害者。その言葉の響きに、健太は深い屈辱を感じた。

だが同時に、もう戦わなくていいのだという、黒い沼のような安堵が心を侵食していくのを、彼はどうすることもできなかった。

休職生活が始まった。社会という名の路線から完全に脱線した車両のように、彼はただ当てもなく近所を彷徨った。

そうして、丘のある公園にたどり着いた。頂上には、一本の大きな欅の木が、空に向かって枝を広げている。

その木を、健太はすぐに見つけた。

太い枝の一本から、そこだけ時間が止まったかのように、一本のロープがだらりと垂れ下がっていたのだ。

風に揺れるそれを、彼はただ、瞬きもせず見つめた。ベンチに座る主婦たちの「…警察が来てたらしいわよ」「まだ若い男の人だったって…」というひそひそ話が、風に乗って耳に届く。

彼は、恐怖も哀れみも感じなかった。ただ、そのロープが放つ静かな引力に、心を捕らわれていた。

社会から忘れられた自分と、ここで命を絶った名も知らぬ誰か。その二つの孤独が、ロープを介して静かに共鳴しているような気がした。

その日から、健太は毎日、その木を訪れるようになった。

それは、彼の新しい、そして唯一の日課となった。

それから健太の、時間の止まったような日々が始まった。

始まった、というよりは、ただ続いているだけだったのかもしれない。朝、意味もなく目覚め、夜、逃れるように眠りにつく。その間にある、途方もなく長い空白。それを埋めるために、彼は公園へ向かった。

彼の目的は、丘の上の欅の木。そして、その枝から下がる一本のロープだった。

定位置となったベンチに座り、彼はそれを眺める。子供たちの甲高い笑い声や、犬の吠える声が遠くに聞こえる。

生命力に満ちたそれらの音は、健太の周りだけを綺麗に避けていくようだった。彼は、風景の一部になった幽霊のように、ただそこにいた。

ロープ。

それは、彼にとって単なる死の道具ではなかった。あらゆる可能性と、迷いと、苦しみが断ち切られた果てにある、ある種の完成された静寂の象徴に見えた。

風に揺れるロープのリズムは、彼の時間感覚が失われた心に、唯一、確かな刻印を残した。

警察が設置した黄色いテープはいつの間にか取り払われたが、ロープだけは残されていた。まるで、この丘で起きた悲劇の、静かな墓標のように。あるいは、誰かが片付け忘れた、不吉な忘れ物のように。

季節が夏から秋へと移ろうとしているのを、肌を撫でる風の変化で知った。健太が休職してから、二ヶ月が過ぎようとしていた。

その日は、台風が過ぎ去った翌日だった。夜通し続いた激しい雨が嘘のように、空は抜けるように青い。

清められたような空気の中、健太はいつもの公園へ向かった。地面はまだぬかるみ、木の葉からは絶えず雫が落ちている。

定位置のベンチは、雨でぐっしょりと濡れていた。彼は立つ気にもなれず、その前に佇む。その時だった。ベンチの下の茂みに、泥に汚れた黒い角が覗いているのに気づいた。

吸い寄せられるように、彼はそれに近づき、拾い上げた。

ビニールカバーのついた、ごくありふれたA6サイズのメモ帳だった。泥を指で拭うと、それは新品同様の綺麗さだった。

誰かの落とし物だろうか。彼はあたりを見回すが、公園には誰もいない。

ずしりとした、小さな重み。それはただのメモ帳の重さではなかった。他人の人生の、生々しい断片の重みだった。

見てはいけない。そう思うのに、指はビニールカバーの縁を探っていた。空っぽの自分の中に、何かが滑り込んでくる。その感覚に、彼は抗えなかった。

自宅の書斎は、彼が社会から断絶されて以来、時が止まった場所だった。ホコリをかぶったノートPC。

それを開くのは、忌まわしい儀式のようだった。電源を入れると、聞き慣れた起動音が鳴る。

かつては一日の始まりを告げる合図だったその音も、今では彼の敗北を告げるファンファーレにしか聞こえない。

デスクトップには、進行中だったプロジェクトのフォルダが墓標のように並んでいる。彼はそれらから目を逸らし、震える指で、泥のついたメモ帳を開いた。

殴り書きのような、勢いのある文字が目に飛び込んでくる。物語の断片、人物のセリフ、こぼれるようなアイデアの数々。

その熱量に、健太は少し気圧された。そして、最後のページに、彼はその文字を見つけた。

「ペンネーム:ユウキ」 「投稿先:カクヨム」

カクヨム。聞いたことがある。ウェブ小説の投稿サイトだ。

健太は、ブラウザを開いた。検索窓に、指が意思を持つかのようにキーワードを打ち込んでいく。カチ、カチ、と。静かな部屋に、乾いたクリック音だけが響いた。

すぐに、作者「ユウキ」のページが見つかった。

そこには、三つの作品タイトルが並んでいた。『灰色のキャンバス』『片道の通学路』そして、連載中の『編集者さん、僕がここにいます』。

健太は、ためらいながらも、最初の作品の「第一話を読む」をクリックした。

(読めるはずがない)

そう思っていた。今の自分には、活字の羅列は意味をなさず、ただの黒い染みとなって流れていくはずだった。しかし。

画面に表示された最初の文章が、彼の目に飛び込んできた。

〈東京の空は、いつだって借り物の青色をしていた〉

その一文は、健太の心の分厚い壁を音もなくすり抜け、乾ききった地面に染み込む、最初の水滴となった。

彼は、息を殺して、次の行を追い始めた。

第二部:彼の物語

健太の、時間の止まったような日々が、再び動き始めた。

いや、正確には、彼の時間だけが、現実のそれとは異なる速度で、激しく回転し始めたのだ。

あの一文を読んでから、健太は憑かれたように平野佑希の物語を読みふけった。

食事も、睡眠も、必要最低限。書斎のPCの前が、彼の世界のすべてとなった。

渇いた砂が水を吸うように、彼の空っぽの心は、ユウキが紡ぐ言葉を、感情を、痛みを、貪欲に吸収していった。

不器用な若者たちの、どうしようもない焦燥感。都会の片隅で生まれ、誰にも気づかれずに消えていく刹那的な優しさ。

夢を追うことの残酷さと、それでも夢を見ずにはいられない人間の愚かさ。

ユウキの物語は、健太が二十数年かけて、社会人という鎧の下に封じ込めてきた生々しい感情を、容赦なく抉り出していった。

妻の美由紀は、そんな健太の変化に戸惑っていた。

夜中にそっと書斎を覗くと、夫は画面の光に顔を照らされ、子供のように物語に没頭している。

生気を失った抜け殻のようだった数週間前とは、明らかに違う。だが、その常軌を逸した集中力は、どこか危うさを孕んでいた。彼女は何も言わず、ただドアを静かに閉めることしかできなかった。

ユウキが書いたすべての文字を読み終えた時、健太の心には、再び空白が生まれた。

だが、それは以前の灰色の虚無ではなかった。素晴らしい物語を読み終えた後の、切なく、そして愛おしい喪失感だった。

そして、渇望が生まれた。

もっと、知らなければならない。この物語を書いた人間について。その指がどんなキーボードを叩き、その目がどんな窓の外を見ていたのか。

そして何より、これほどの言葉を持ちながら、なぜ、彼は沈黙を選んだのか。

健太は、ユウキが遺したSNSの過去の投稿や、そこにリンクされていた古いブログを、執念深く探った。

そして、数年前の日記に、彼が住む街の、駅前の小さなラーメン屋について書かれた記事を見つけ出した。

彼はアパートを突き止め、メモ帳に記されていた実家の電話番号に、震える手で電話をかけた。

電話に出た父親に、自分はユウキの作品の読者であること、彼の部屋を一度、目にしたいという突飛な願いを、訥々と、しかし真摯に伝えた。

受話器の向こうの父親はしばらく黙り込んでいたが、やがて「…好きにすればいい」と、感情のこもらない声で呟いた。

ドアを開けた瞬間、古本の匂いと、インスタント食品のかすかな匂いが混じり合って鼻をついた。

六畳一間の、殺風景な部屋。そこは、平野佑希という小説家の、静かな戦場だった。

壁一面の本棚には、純文学の文庫本と、流行りのライトノベルが混在してぎっしりと詰まっている。彼が貪欲に物語を吸収していた証だ。

そして、部屋の中央に置かれたPC。モニターには、健太が電話で依頼して電源を入れてもらったままの、『カクヨム』のアナリティクスページが映し出されていた。

作品ごとのPV数、ユニークユーザー数、ブックマーク数。そこに並んでいたのは、彼の才能とは不釣り合いな、残酷なまでに低い数字だった。

健太は、ユウキの物語に唯一、毎回感想コメントを寄せていた相沢絵里に連絡を取り、吉祥寺の喫茶店で会った。

彼女は、目の前に座る冴えない中年男を、警戒心に満ちた目で見つめていた。

「…ユウキに、何かご用でしたか」

健太は、どう切り出すべきか迷った末、正直に口にした。

「『灰色のキャンバス』に出てくる、絵描きの先輩のモデルは、誰かいたのでしょうか。あの人の、諦念と優しさが混じった言葉が、忘れられなくて」

その一言で、絵里の表情がわずかに和らいだ。目の前の男が、ただの野次馬ではないことを理解したのだろう。

「…彼は天才でした」

絵里は、ぽつりと語り始めた。

「でも、不器用すぎた。自分の魂を削らないと、一行も書けない人だったから。いつも物語のことばかり考えていて、世の中を渡っていくのが、本当に下手で…。だから、私が唯一の読者でもいいって、本気で思っていました。彼が書き続けてくれるなら、って」

彼女の言葉が描くのは、純粋で、才能に満ち、だが社会と折り合いをつけられない、悲劇の芸術家像だった。

その数日後、健太は佑希の実家を訪ねた。遺品の整理について相談するためだった。

手入れの行き届いた庭のある、立派な一軒家。応対した父・昭彦の顔には、深い疲労と苛立ちが刻まれていた。

健太が、佑希の類稀なる才能について恐る恐る口にすると、昭彦はそれを遮るように、吐き捨てるように言った。

「才能? くだらない。あいつはただの怠け者だった。現実から目を背けて、子供みたいな物語ごっこに逃げていただけだ」

テレビのワイドショーが、BGMのように流れている。

「私はあいつに言ったんですよ。『いい加減、大人になってまともな仕事に就け』って。それが、あいつと交わした最後の言葉になりましたよ」

昭彦の目には、後悔とも、自己正当化ともつかない、暗い光が揺れていた。

彼の言葉が描くのは、現実逃避の末に自滅した、愚かな息子の姿だった。

喫茶店を出て、健太は混乱していた。

平野佑希とは、一体誰だったのか。

天才か、怠け者か。聖人か、愚か者か。

相沢絵里が語った、純粋で不器用な芸術家の姿。父・昭彦が吐き捨てた、現実逃避の末に自滅した愚かな息子の姿。

二つの肖像画は、健太の頭の中で決して交わることなく、ぐらぐらと揺れ続けていた。

夜、書斎でユウキの最後の小説『編集者さん、僕がここにいます』を読み返す。

絵里の言葉を思い出すと、一行一行が魂の叫びのように、切実に響く。

だが、昭彦の顔を思い浮かべると、それは途端に独りよがりで、感傷的な若者の戯言のようにも読めた。

物語は同じはずなのに、読み手である自分の心が、その色を決めかねていた。

どちらが、本当の平野佑希だったのか。

その答えが見つからない限り、自分はこの物語のページを、そして自分の人生のページを、一枚もめくることができないような気がした。

その夜のことだった。リビングで、娘の遥香が大学のパンフレットをテーブルに広げていた。

その横で、妻の美由紀が家計簿をつけながら、独り言のように呟いた。

「…あなたの休職手当だけだと、やっぱり私立の学費は厳しいわね…」

その言葉に、遥香が顔を上げた。その視線は母親ではなく、ソファに座る健太に、まっすぐに向けられていた。

「ねえ、お父さん」

その声は、これまで健太が聞いてきた娘の声とは違う、硬質で、冷たい響きを帯びていた。

「教えてよ。一生懸命勉強して、いい大学入って、いい会社に入って、その結果がお父さんみたいになるんだったら、何の意味があるの?」

時が、止まった。

遥香の言葉は、正確に健太の心の核を撃ち抜いていた。

「その人の小説読んで、一日中部屋にこもって…それって、昔のお父さんが馬鹿にしてた『生産性のないこと』そのものじゃないの? 私にはどっちが本当のお父さんか、もう分からないよ」

ぐうの音も出なかった。遥香の言う通りだった。健太は、効率と成果を信奉し、数字にならないものを切り捨てて生きてきた。

部下の悩みも、家族の些細な喜びも、すべて「プライオリティが低い」と判断してきた。その結果が、これだ。

健太の脳裏に、昭彦の顔が浮かんだ。「くだらないお話ごっこが、あいつをダメにした」。

(俺は、昭彦さんと同じだ)

健太は戦慄した。息子の夢を、自分の価値観で裁き、否定したあの父親と、今の自分は何が違う? 自分は、娘の未来にとって、希望ではなく、絶望の見本になっている。

彼は、何も言い返せなかった。

翌日、健太は震える手で相沢絵里に電話をかけ、もう一度だけ時間が欲しいと頼み込んだ。彼の声には、これまでになかった切迫感が滲んでいた。

再び、吉祥寺の喫茶店。

健太は、遥香に言われた言葉を打ち明ける勇気はなく、ただ本題だけを切り出した。

「ユウキくんの最後の小説、『編集者さん、僕がここにいます』。あれは、希望に満ちていました。何かを掴みかけていた。それなのに、なぜ、彼は書くのをやめてしまったんですか。どうしても、そこが分からない」

絵里は、コーヒーカップを持つ手を止め、しばらく俯いていた。やがて、何かを決心したように顔を上げると、静かに言った。

「…あれは、彼に起きた、本当の話だったんです」

彼女はスマートフォンを取り出し、メールの画面を開いて、テーブルの上に置いた。

「読んで、ください。これが、ユウキの物語の、本当の結末です」

画面には、数ヶ月前のメールの履歴が表示されていた。

大手出版社の編集者を名乗る人物からの、一通のメール。

〈平野佑希様 突然のご連絡失礼いたします。株式会社〇〇文庫の…と申します。カクヨムにて先生の作品を拝読し、その類稀な才能に感銘を受けました。一度、お話をお伺いする機会をいただけないでしょうか〉

健太の心臓が、どきりと音を立てた。

続くメールには、ユウキの、子供のようにはしゃいだ、感謝と喜びの返信が綴られていた。何度かのやり取り。

そして、編集者からの依頼で、ユウキが改稿した原稿を送ったことを示すメール。

これが、あの希望の物語の正体だったのか。

健太は、息を飲んで画面をスクロールした。そして、最後のメールにたどり着く。

一週間後、編集者から届いた、たった一行の返信。

〈社内で検討しましたが、今回は見送らせていただきます〉

署名も、定型的な挨拶すらない、あまりにも冷たい、事務的な文字列。

健太は、言葉を失った。

天国から地獄へ。いや、これはもっと残酷だ。一度希望を見せられ、全力で手を伸ばさせた後で、その手を無慈悲に払い落とす。

そこには悪意すらない。ただ、巨大なシステムの中の、効率的な処理があるだけだ。

健太は、自分がかつて、部下に非情な業務命令をメール一本で伝えた日のことを思い出した。自分が、平野佑希を殺した側の人種であるという事実を、突きつけられた。

天才か、怠け者か。

その問いは、もう意味をなさなかった。

彼は、繊細すぎる心を持った一人の人間だった。そして、その心を砕いたのは、劇的な悲劇などではない。

この社会にありふれた、ごく小さな、だが致命的な無関心だったのだ。

健太は、スマートフォンの画面が涙で滲んでいくのを、ただ呆然と見つめていた。

第三部:新しい序章

健太は、いつどうやって喫茶店を出たのか、よく覚えていなかった。

相沢絵里の「ありがとうございました」という声が、遠くに聞こえた気もする。

気づけば、彼は夕暮れの街を歩いていた。雑踏の音も、行き交う人々の顔も、まるでピントの合わない映画のようだった。

彼の頭の中では、あのたった一行のメールが、何度も何度も繰り返し再生されていた。

〈社内で検討しましたが、今回は見送らせていただきます〉

悪意のない、無関心。

効率の名の下に行われる、魂の査定。

それは、平野佑希という一人の青年を殺すには、あまりにも十分な毒だった。そして自分は、その毒を生成する側の人間だった。

その事実が、鉛のように健太の体にのしかかる。

足は、自然とあの公園へ、丘の上へと向かっていた。

夕日で赤く染まった空を背に、欅の木が巨大なシルエットとなって立っている。そして、その枝から下がる一本のロープ。

これまで、彼はこのロープに、自分自身の諦念や、社会からの断絶を重ねてきた。

だが、今は違った。そこに見えるのは、希望を絶たれた一人のクリエイターの、あまりにも痛切な無念だった。

もう、ここにあってはいけない。

誰のためでもない。彼が書き遺した物語のために。そして、これから自分の物語を始めなければならない、自分自身のために。

健太はスーツのジャケットを脱いで地面に置くと、ワイシャツの袖をまくった。そして、ごつごつとした木の幹に手をかけた。

四十八歳の、なまりきった体は悲鳴を上げた。樹皮が手のひらに食い込み、何度も足が滑る。

呼吸が荒くなり、心臓が激しく脈打った。それでも彼は、必死に上を目指した。

それは、自分自身を縛り付けていた重力と、無気力からの、困難な離陸だった。

ようやく太い枝にたどり着き、彼はロープと対峙した。雨風に打たれ、固く締まった結び目は、彼の指の力を拒んだ。

爪が剥がれそうになり、汗が目に入る。それでも彼は諦めなかった。これは、儀式なのだ。決別と、再生のための。

渾身の力を込めて引っ張った瞬間、結び目が、ぶつりという鈍い音を立てて緩んだ。

健太は、そのロープを解き、黒い蛇のように地面へと投げ捨てた。

見下ろすと、ロープは力なく地面に横たわっていた。もう、誰の命も奪うことはない。

健太は、枝に座ったまま、しばらくの間、街の灯りが増えていくのを黙って眺めていた。

その夜の食卓は、静かだった。

健太は、箸を置くと、妻と娘の顔をまっすぐに見つめた。そして、鞄から二つのものを取り出し、テーブルの上に置いた。

一つは、ユウキの未完の小説『編集者さん、僕がここにいます』の、最後の一節を印刷した紙。

もう一つは、押し入れの奥から見つけ出してきた、自分が二十代の頃に撮った、一枚のモノクロ写真だった。

「ある青年が」と、健太はゆっくりと話し始めた。「こんな物語を書いていた。希望に満ちた、素晴らしい物語だ。でも、彼はその結末を書くことができずに、死を選んだ」

彼は、印刷された紙を指し示した。そこには、主人公が希望の光を見出す直前の、痛切なモノローグが記されている。

次に、健太は自分の撮った写真を指した。なんでもない日常を切り取った、光と影の美しい風景。

「そして俺は、自分がこんな写真を撮っていたことを、すっかり忘れていた。自分がどんな物語を生きたいのか、思い出せなくなっていたんだ」

健太は顔を上げた。その目には、もう迷いはなかった。

「会社を、辞めようと思う」

沈黙が落ちる。美由紀は、驚いたように夫の顔を見つめていた。その表情が、やがて、ゆっくりと和らいでいく。

彼女の目から、大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。

それは、不安や悲しみの涙ではなかった。

「……おかえりなさい」

その声は、震えていた。夫の、長い不在の終わりを告げる、心からの声だった。

遥香もまた、何も言わず、ただ父の顔を見つめていた。反発でも、憐れみでもない。何かを深く理解しようとする、静かな眼差しで。

数ヶ月後。季節は秋。都心の、雑多な裏路地。

健太は、首から古い一眼レフカメラを下げている。彼はプロではない。ただ、撮りたいものを探している。

猫、錆びた看板、ショーウィンドウに映る自分の姿。彼は、路地の向こうから歩いてくる、楽しそうに笑う若いカップルにレンズを向ける。

そして、ファインダーの中で、彼らの笑顔が最高になった瞬間、静かにシャッターを切った。

カシャッ。

その小さなシャッター音が、彼の新しい物語の始まりを告げていた。

エピローグ

あれから、一年が過ぎた。

神保町の、古本屋が立ち並ぶ裏路地。その一角にある小さなレンタルギャラリーの白い壁に、健太が撮ったモノクロの写真が、静かに飾られていた。

写真展のタイトルは、『物語のありか』。

そこに写っているのは、特別な風景ではない。路地裏で丸くなる猫。バスを待つ老婆の、皺の刻まれた手。雨上がりの水たまりに映る、歪んだビルと空。

健太が、新しい目で見つけ出した、世界に散らばる無数の物語の断片だった。

健太は、壁にかけられた一枚の写真を、特に感慨深く眺めていた。

他の写真とは少しだけ雰囲気の違う、丘の上に立つ一本の欅の木。季節は夏。力強い生命力に満ちた、あの一本だ。

「まあ、あなたもやればできるものなのね。生活は少し大変になったけど」

隣から聞こえた声に、健太は微笑んだ。妻の美由紀だった。その言葉には、軽口の中に、隠しきれない誇らしさが滲んでいる。

「ありがとう。君がパートを増やしてくれたおかげだ」

「それだけじゃないでしょ。あなたが、週に三日だけだけど、またITの仕事をしてくれるようになったからよ」

健太は、フリーランスのコンサルタントとして、無理のない範囲で仕事を再開していた。

それは、かつてのような猛烈な働き方ではなかったが、社会との確かな接点であり、家計を支える現実でもあった。

「この写真、好きだな」

少し大人びた顔つきになった娘の遥香が、木の写真を指さして言った。彼女はこの春、都内の大学に進学し、新しい生活を楽しんでいるようだった。

「お父さんが撮るものって、優しい感じがする。昔の、いつもピリピリしてたお父さんとは全然違う」

「そうか?」

照れながら、健太は答える。

「この木が、お父さんにとっての始まりだったんだ。すべての物語の、最初のページ」

その時だった。ギャラリーの入り口に、一人の女性が立っていた。相沢絵里だった。健太が、写真展の案内状を送っていたのだ。

彼女は、一枚一枚の写真を、慈しむようにゆっくりと見て回った。そして、欅の木の写真の前で、足を止めた。

「…素敵な、写真ですね」

「ありがとう。来てくれて」

絵里は、しばらく黙って写真を見つめていたが、やがて、ふっと息を吐いて微笑んだ。

「ユウキが、ここにいたら」

彼女は、健太の目をまっすぐに見て言った。

「きっと、あなたの写真を見て、すごく嫉妬して、それから、最高の笑顔で『参りました』って言ったと思います。彼は、そういう人でしたから」

その言葉に、健太は胸が熱くなるのを感じた。

平野佑希という青年が、確かにこの世界に存在した証が、今、ここにいる自分と、絵里の心の中に、温かい光として灯っている。

その夜、訪問客のいなくなったギャラリーで、健太は一人、自分の作品に囲まれていた。

平野佑希が書き遺した、未完のプロローグ。

彼の物語は、あの丘の上で唐突に終わってしまった。だが、その終わりがあったからこそ、健太の新しい物語は始まることができた。

誰かの物語の終わりが、誰かの物語の始まりになる。そうやって、世界は静かにつながっていくのかもしれない。

健太は、愛用の古いカメラを手に取った。ファインダー越しに、ギャラリーの窓に映る自分の姿を見る。

そこにいたのは、疲弊しきったプロジェクトマネージャーではない。少しだけ未来に期待している、一人の初老の男だった。

彼の物語は、まだ始まったばかりだ。

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