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『骨の尖』

その魂に、触れてはならない。触れてしまえば、あなたは「普通」ではいられなくなる。

あらすじ

仕事に燃え尽き、人生から逃げ出した水野詩織(36)が、亡き祖母の家で見つけたのは、一枚の古びた写真。そこに写る、男でも女でもない、射抜くような瞳。そして、家族が血相を変えてその名を禁じる、大伯母「静子」の存在。

「あの化け物のことを、二度と口にするな」

父の狂気じみた抵抗は、詩織の心を、過去という名の底なし沼へと引きずり込んでいく。なぜ、一人の人間の存在が、これほどまでに恐れられ、憎まれ、そして歴史から消されなければならなかったのか。

社会に「普通」を強要され、自分を殺して生きてきた詩織は、やがて気づく。これは単なる過去の謎解きではない。声も名前も奪われた静子の魂は、自分自身の、声なき叫びそのものなのだと。

詩織が辿り着いたのは、一族が六十年かけて隠蔽してきた、一冊の手記の存在。 それは、血で綴られた告白であり、社会への呪詛であり、そして魂の遺言書だった。

この手記を解き放つことは、家族という名の美しい嘘を、根こそぎ破壊する爆弾を投下するに等しい。

暴かれるのは、死者の過去か。それとも、生者の嘘か。

ページをめくるあなたの指を震わせ、読後、あなたの生き方そのものを揺さぶる、衝撃の社会派ミステリー。 これは、あなたの魂の物語だ。

登場人物紹介

  • 水野 詩織(みずの しおり):36歳。 ウェブメディアの元編集者。社会の効率主義に疲れ、心に深い傷を負い休職中。祖母の遺品整理で出会った大伯母の過去に、自らの人生の答えを探し始める。真実を求める過程で、家族の深い闇と対峙していく。
  • 長谷川 静馬(はせがわ しずま):故人。 詩織の大伯母。戸籍上の名前は「静子」。昭和の高度経済成長期に、自身の心と身体の性の不一致に苦しみ、男性「静馬」として生きることを選択する。社会の偏見と家族からの孤立の中で、自らの存在証明を言葉として遺そうとした。
  • 水野 健介(みずの けんすけ):65歳。詩織の父。 長谷川家の一員として、かつて静馬が引き起こした「事件」を深く憎み、その過去を徹底的に隠蔽しようとする。その背景には、少年時代に自身が負った、決して癒えないトラウマと、静馬に対する複雑な感情が隠されている。
  • 宮田 芙美(みやた ふみ):81歳。元文芸雑誌編集者。 六十年前の静馬の事件を独自の視点で報じ、彼の魂の叫びに共感した数少ない理解者の一人。詩織の調査に協力し、静馬が手記を遺していた可能性を示唆する。
  • 水野(旧姓:長谷川) 聡子(さとこ):故人。詩織の祖母。 静馬の妹。兄の手記の存在を知りながら、それを隠蔽したとされる人物。兄への愛情と家族を守るという思いの間で葛藤した、その心の軌跡が、物語の鍵を握る。

序章

埃の匂いがした。

長いあいだ光を拒んできた部屋に特有の、時間の澱が積もったような匂い。

東京のマンションを引き払い、祖母が遺したこの古い家に移り住んでから二週間が経つ。

その匂いは、私の身体に染み付いたアスファルトと排気の匂いと、未だに馴染もうとしなかった。

縁側のガラス戸を滑らせる。 十月の午後の気怠い光が、畳の上に長く伸びた。 無数の塵が、金色に乱舞するのが見える。

携帯端末は、もう何時間も鳴らない。 鳴らないことに、心の底から安堵している自分がいた。 あの目まぐるしい情報の奔流から断絶された、この静寂。 それこそが今の私にとって、唯一の処方箋だった。

休職、という名の敗走。

ウェブメディアの編集者だった私は、数字にならなかった声を記事にした。 社会の片隅で、誰にも聞かれることのなかった小さな叫びを。

だが、編集長は完成した原稿を一瞥もせず、ただ冷たく言い放った。 「数字だよ、水野くん。数字が全てだ。この記事で一体いくつのPVが稼げる? 読者の承認欲求を刺激しない正論に、一円の価値もない」

「価値は、あるはずです」

食い下がった私に、彼は吐き捨てるように言った。 「お前の正義感は、ただの自己満足だ」

その言葉が、私の魂に突き刺さった棘だった。

正しさを信じ、それを貫こうとすればするほど、組織という巨大な論理の中で私は孤立し、削られていった。

眠れなくなり、食べ物の味がしなくなり、満員電車で呼吸ができなくなった。

そして、逃げるようにこの家に来た。

祖母の遺品は、多岐にわたった。 ほとんどがガラクタだったが、一つ一つを手に取り、「要るもの」と「要らないもの」に仕分ける作業は、不思議と心を落ち着かせた。 それはまるで、自分自身の人生を整理しているかのようだった。

問題は、奥の和室に鎮座する、開かずの桐箪笥だった。 祖母が嫁入り道具として持ってきたというそれは、どの引き出しも湿気で膨張し、びくともしない。

業者に頼むか、と諦めかけた時、一番下の段を強く引き抜くと、背後でカタリと小さな音がした。 底板がずれ、手帖が一つ入るほどの隠し引き出しが現れたのだ。

中にあったのは、茶色く変色した封筒が一つ。 指先でそっと中身を滑り出させると、まず、一枚の写真が畳の上に落ちた。

息を、呑んだ。

セピア色の写真の中で、一人の若い女性が、こちらを射抜くような眼差しで見ていた。 詰襟の学生服にも似た服を着て、髪は耳が出るほど短く刈り上げられている。

女性、と判断したのは、その繊細な顔立ちと、襟元からわずかに覗く着物の柄ゆきからだった。 だが、その佇まいは、私が知るどの「女性」とも異なっていた。 凛とした、という月並みな言葉では追いつかない。 何かを拒絶し、何かと戦っているような、張り詰めた気配がそこにあった。

もう一つは、折り畳まれた新聞の切り抜きだった。 昭和四十年十一月十二日付の、全国紙の社会面。 その紙面は、私の知らない時代の熱気と狂騒を伝えていた。

『医学の名を借りた異常手術』 『“青い部屋”医師を逮捕 風俗浄化の網に』

記事は、東京オリンピック後の社会浄化キャンペーンの一環として、性別適合手術を行った医師が優生保護法違反などの容疑で逮捕されたことを、扇情的な筆致で報じていた。 そして、その記事の隅に、プライバシーへの配慮など微塵もないまま、患者の一人として小さな活字で名前が晒されていた。

長谷川 静子(二十五)

長谷川、は祖母の旧姓だ。

胸がざわついた。この家に、静子という名前の人間がいた記憶はない。 私は、箪笥から取り出した古いアルバムをめくった。 祖母の姉妹は二人。どちらも嫁ぎ、穏やかな笑みを浮かべた写真が残っている。 だが、どの写真にも、あの射抜くような瞳の女性はいない。 意図的に、その存在が消し去られているかのようだった。

その週末、実家に立ち寄った際に、私は父・健介にそれとなく尋ねてみた。 仏壇に手を合わせた後、何気ないふりをして、あの写真を差し出した。 「お父さん、この人、知ってる?」

写真を見た瞬間、父の顔から血の気が引いた。 穏やかだったはずの表情が、まるで忌まわしいものを見たかのように歪む。 彼は私の手からひったくるように写真と新聞記事を奪い取ると、その手をわなわなと震わせた。 「どこでこれを…」 「お祖母ちゃんの家の、箪笥に」 「……捨ててしまえ!」

父の怒声が、静かな居間に響いた。 それは、私が知る父の声ではなかった。恐怖と憎悪が混じり合った、獣のような叫びだった。 「どうして? この人は、一体誰なの」 「知る必要はない! お前は、これ以上あの家の過去を掘り起こすな! あの化け物のことを!」

化け物—。

父の口から放たれたその言葉が、私の耳に突き刺さった。 写真の中の、あの孤高な瞳が脳裏に蘇る。 違う、と声にならない声が喉の奥で叫んでいた。

健介は、新聞記事ごと写真をくしゃくしゃに丸めると、ゴミ箱に叩きつけた。 そして、私を睨みつける。 「いいか、二度とこの話はするな。水野家の、長谷川家の恥だ。お前が触れていいことじゃない」

私は、父の剣幕に圧倒され、その場では何も言い返せなかった。 だが、東京へ帰る道すがら、ゴミ箱から密かに拾い直した写真と記事をハンドバッグの中で握りしめながら、確信していた。

父が守ろうとしているものは、家の体面などではない。 もっと暗く、個人的な、決して触れてはならない傷なのだ、と。 そして、その傷の奥にこそ、私が失ってしまった、私が今一番知るべき何かが眠っている。

私の戦いは、この一枚の写真から始まる。

社会の論理に潰され、家族にさえもその存在を消された、名も知らぬ大伯母。 長谷川静子。

あなたの骨は、どこに在るのか。 あなたの魂の尖は、何を貫こうとしたのか。

私は、アクセルを強く踏み込んだ。 行き先は、東京ではない。 すべての始まりである、あの古い家だ。 もう、逃げるのは終わりだった。


第一部 封印された声

化け物という名の沈黙

あの家に戻った私は、まず一枚の写真を額に入れた。 祖母が使っていた小さな鏡台の上に、静子さんの写真を置く。 射抜くような瞳が、まっすぐに私を見つめ返してくる。 あなたはいったい、誰なのですか。

その日から、私の戦いが始まった。

最初の壁は、思ったよりも早く、そして分厚く立ちはだかった。 市役所の市民課。番号札を握りしめて待った末、カウンターの向こうで若い職員が申し訳なさそうな顔で首を振った。 「長谷川静子様の除籍謄本ですね……申し訳ありませんが、発行はできません」 「どうしてですか。祖母の姉だと聞いています」 「はい。ですが、法律で定められておりまして。戸籍を請求できるのは、ご本人か、その配偶者、もしくは直系の親族に限られます」

大伯母、という関係は「直系」ではないのだという。 職員はマニュアル通りの言葉を続けた。 「個人情報保護の観点からも、ご理解ください」

個人情報。 六十年も前に、新聞紙上で面白おかしくその存在を晒された人間のプライバシーが、死んだ後に、分厚い法律で守られている。 その矛盾に、めまいがした。

家、という閉ざされた箱。 法律、という名の冷たい壁。 静子さんの声は、その二重の檻に閉じ込められている。

私は礼を言ってカウンターを離れたが、悔しさはなかった。 むしろ、闘志に火が点くのを感じていた。 そうやって、あなたは消されてきたのですね。 ならば、私があなたを見つけ出す。

その日の午後、私は県立図書館のマイクロフィルム室にいた。 古い新聞を収めたリールを閲覧機にセットし、ハンドルを回す。 カタカタと乾いた音を立てて、スクリーンに時代の残像が浮かび上がっては消えていく。

昭和四十年、十一月。 あった。 父が破り捨てた記事と同じものが、そこにあった。

私はさらに、その前後の日付を追った。 出てくるのは、おぞましい言葉の羅列だった。 週刊誌は、この事件をもっと下劣な好奇心で書き立てていた。

『性の倒錯—猟奇手術の全貌』 『異常性欲者の悲しき末路』

スクリーンに浮かぶ白抜きの文字が、私の神経を逆撫でする。 記事の中で、静子さんは人間ではなかった。 ただの研究対象であり、見世物であり、社会から排除されるべき「異物」として扱われていた。

胸の奥が、ずきりと痛んだ。 編集長に投げつけられた言葉が蘇る。 —お前の正義感は、ただの自己満足だ。

社会の「普通」から逸脱した声は、こうやって嘲笑され、異物として処理されていく。 六十年前も、今も、何も変わってはいない。

私は吐き気をこらえながら、リールを回し続けた。

一筋の光

その時だった。 一つだけ、明らかに毛色の違う記事が目に留まった。 それは、文芸雑誌に掲載された、小さなコラムだった。 見出しは、こうだ。

『裁かれるべきは、誰か』

記事は、扇情的な報道に疑問を呈し、被告である医師や患者たちが置かれた状況に、静かな同情を寄せていた。 法が裁こうとしているものは、本当に「罪」なのだろうか。 彼らが求めたものは、ただ人間として生きるための、魂の叫びではなかったのか。

記事の最後は、こう結ばれていた。 —我々は、彼らの声を怪物として処理するのではなく、我々自身の社会が内包する歪みとして聞くべき時が来ている。

記事の署名は、短く記されていた。 宮田 芙美

その名前を、私は手帳に書き写した。 暗闇の中で見つけた、細く、しかし確かな光の筋だった。

その夜、携帯端末が着信を告げた。 ディスプレイには、父の名前。 嫌な予感がした。

「……もしもし」 『お前、親戚に電話をかけたそうだな』 父の声は、怒りよりも冷たい響きを帯びていた。 「どうしてそれを」 『勘当されたいのか。俺は言ったはずだぞ。あの化け物のことは掘り起こすな、と』 「化け物なんかじゃない」 『……もういい。親戚には、俺から言っておいた。お前には何も話すな、と』

電話の向こうで、父が息を呑む音が聞こえた。 『これ以上、家の恥を掘り返して、俺の顔に泥を塗るというなら……もう、お前は俺の娘じゃない』

一方的に、通話は切られた。 静まり返った部屋で、私は携帯を握りしめる。 父の狂気じみた抵抗。 それは、私から全ての梯子を取り払おうとしていた。 孤立させ、諦めさせようとしている。

だが、遅すぎた。 私はもう、引き返せない。 手帳に記した「宮田 芙美」という名前を、指でそっとなぞる。 あなただけが、頼りです。 どうか、この声に答えてください。 窓の外は、完全な闇に包まれていた。

父からの電話は、私の中に眠っていた最後の躊躇いを断ち切った。 これは、私の戦いだ。 そして、私だけの戦いではない。 あの写真の中で、まっすぐにこちらを見つめていた静子さん。 あなたの声を取り戻すための、戦いだ。

翌日から、私はインターネットという現代の武器を手に、宮田芙美という名前の追跡を始めた。 元編集者。文芸雑誌。 六十年という歳月は、一人の人間の足跡を消し去るには十分な時間だった。 同姓同名の人物は無数にヒットするが、どれも違う。

私は、ウェブ編集者として培ったスキルを総動員した。 古い雑誌のデータベースを検索し、国会図書館のデジタルアーカイブを遡り、出版社や文芸協会の名簿を片っ端から調べた。

三日目の夜だった。 ある文芸賞の、過去の選考委員名簿の隅に、その名前を見つけたのだ。 連絡先として記されていたのは、都内の小さな編集プロダクション。 もう存在しないだろう、と諦め半分で電話をかけると、年老いた男性の声が応じた。 「宮田さん? ああ、芙美さんなら、もう十年以上前に引退されたよ。昔、少しだけうちで手伝ってもらっていてね」

心臓が大きく跳ねた。 事情を話すと、男性はしばらく黙り込んだ。 「……長谷川静子、さんのご親族、ですか。あの裁判のことを、今でも」 声には、驚きと懐かしさと、そして微かな痛みが滲んでいた。 「芙美さんが、会ってくれるかは分かりません。あの方は、あの事件の後、少し筆が鈍ってしまったから。……でも、伝えてみましょう。あなたの名前と、連絡先を」

祈るような気持ちで、電話を切った。 返信は、三日後の午後に、一通の手紙として届いた。 古風な縦書きの便箋に、万年筆で書かれたであろう、美しい文字が並んでいた。

『水野詩織様 お手紙、拝見いたしました。 あなたが、あの長谷川静馬くんの—。 驚いております。 もしよろしければ、一度お会いしてお話しできませんでしょうか。 私も、もうあまり長くはありません。 彼のこと、そしてあの時代のことを、誰かに伝えておかなければならないと、ずっと思っておりました。 これは、天が私に与えてくれた、最後の機会なのかもしれません』

文末に記された住所は、都心から少し離れた、閑静な住宅街だった。


第二部 肉付けられた声

静馬という声

宮田芙美さんの家は、古い木造の平家だった。 庭には手入れの行き届いた草木が静かに茂り、縁側には猫が丸くなっている。 時間の流れが、ここだけ違うようだった。

「まあ、どうぞ。散らかっていますが」 通された客間は、壁という壁が本棚で埋め尽くされていた。 その膨大な本の森の中で、宮田芙美さんは、まるで老いた木の精のように佇んでいた。 八十歳を超えていると聞いていたが、その背筋はすっと伸び、眼鏡の奥の瞳は知的な光を失っていない。

「あなたが、詩織さん。……そう。面影は、ないわね。静馬くんとは」 彼女は、私が持参した静子さんの写真を、懐かしそうに指で撫でた。 「でも、その目は似ている。何かを探し、何かと戦おうとしている。あの頃の、静馬くんの目に」

宮田さんは、静子さんを、当たり前のように「静馬くん」と呼んだ。 その響きには、倒錯だとか異常だとかいう社会のレッテルを、微塵も感じさせない、人間への確かな敬意があった。

「どこから、お話しすればいいかしら。あの裁判のことは、資料でお調べになったのね」 「はい。ですが、そこに書かれていたのは、怪物として扱われる『長谷川静子』だけでした。私が知りたいのは、記録の行間にいる、生身の人間としての……静馬さんのことです」

私の言葉に、宮田さんは深く頷いた。 「そうね。記録に残るのは、骨だけ。その人がどう笑い、何に怒り、何を夢見ていたかという肉は、時間と共に削ぎ落とされてしまう」 彼女は、ゆっくりとお茶を淹れながら、記憶の糸をたぐるように話し始めた。

「あの頃の法廷は、見世物小屋だったわ。誰も、彼の魂の声なんて聞こうとしなかった。検察官も、裁判官も、ただ自分たちの『常識』という物差しで、彼の存在を測ろうとしていただけ」 宮田さんの声は、静かだったが、その奥には六十年分の怒りが宿っているのが分かった。 「でも、静馬くんは、その中でたった一人、背筋を伸ばして戦っていた。彼は、自分が社会の基準から外れていることを、誰よりも理解していたわ。でもね、魂だけは偽れない。その一点において、彼は誰よりも誇り高い人間だった」

彼女は、ふと、遠くを見るような目をした。 「彼は、言葉の人だったのよ」 「……言葉の、人?」 「ええ。裁判記録には残っていないけれど、彼の言葉は、とても知的で、美しかった。軟禁される前、私と短い手紙のやり取りをしたことがあるの。その文章は、そこらの凡百の作家が束になっても敵わないほど、鋭くて、そして哀しかった」

宮田さんは、本棚の一角から、古びたファイルを取り出した。 「これは、公になっていない、私の取材ノート。そして……」 彼女がファイルの中から取り出したのは、一枚の便箋だった。 「彼が私に宛てた、最後の手紙よ」

私は、息を呑んでそれを受け取った。 『—私の肉体は、いずれ朽ちるでしょう。社会は、私の存在を病気として処理し、やがて忘れるでしょう。ですが、私の言葉だけは、殺させはしない』

震える指で読んだその一文は、遺書のように、私の胸に突き刺さった。

「詩織さん」 宮田さんが、まっすぐに私を見た。 「彼は、ただ絶望して死んだんじゃない。何かを遺そうとしていた。自分の生きた証を、魂の記録を、言葉として遺そうとしていたはずよ」 「手記……ということですか」 「ええ。私は、そう信じているわ」

手記。 父が、そして一族が、躍起になって隠そうとしているものの正体。 それは、ただの家の恥などではない。 社会に殺された一人の人間が遺した、告発。 魂の、叫び。

「探してあげて。あなたにしか、できないことよ。あの家に眠っているはずの、彼の本当の声を」 宮田さんの言葉が、私の中で確信に変わった。 私が探すべきものは、これだ。 父の狂気の奥に、祖母の沈黙の裏に隠された、静馬さんの、最後の声。 それを見つけ出すまで、私は決して終われない。 終わらせてはいけないのだ。

黒く塗りつぶされた罪悪感

東京から戻った私は、亡霊に取り憑かれたように祖母の家をさまよった。 宮田さんの言葉が、頭の中で反響し続けている。 —探してあげて。彼の本当の声を。

手記。 静馬さんの、魂の記録。 それは、この家のどこにあるのか。 床下か、壁の中か、それとも庭の土の中か。

闇雲に探しても見つかるはずがない。 手がかりは、あまりにも少なかった。

私はもう一度、祖母が遺した数冊の日記と向き合うことにした。 以前は、静子さんの名前がどこにも見当たらないことに絶望し、途中で投げ出したものだ。 だが、今は違う。 祖母・聡子は、兄である静馬の手記の存在を知りながら、それを隠した張本人かもしれないのだ。

沈黙には、沈黙の理由がある。 完全に消し去ろうとしたのなら、日記そのものを処分したはずだ。 残した、ということは、そこに消せない何かが記されているからではないか。

私はページを一枚一枚、光に透かすように、丁寧にめくっていった。 天気のこと、畑仕事のこと、私の父—つまり彼女の息子である健介の成長の記録。 平凡で、穏やかな日々がそこにはあった。

昭和四十二年、秋。 静馬さんが亡くなったとされる年の日記。 その一冊を、私は特に注意深く調べた。

そして、見つけた。 十月のあるページ。 その日の欄だけが、黒いインクで、ぐしゃぐしゃに塗りつぶされていたのだ。 まるで、そこに書かれた言葉を、この世から抹殺しようとするかのように。

なぜ、この日だけ。 私は日記を机に置き、スマートフォンのライトを裏側から当てた。 紙が薄く透ける。 強い筆圧で書かれた文字の跡が、裏側にかすかに浮かび上がっていた。 言葉を、拾う。 神経を、指先に集中させる。

「…ま…にいさん……ごめ…なさい」

間違いない。 —静馬兄さん、ごめんなさい。

全身の血が、逆流するような感覚に襲われた。 祖母は、知っていた。 兄の死の真相も、手記の存在も、全て。 そして、罪悪感に苛まれながら、その全てを闇に葬ったのだ。

なぜ。 兄を想う気持ちがあったのなら、なぜその声を世に出してあげなかったのか。 何が、彼女にそうさせたのか。 答えの出ない問いに頭を抱えていた、その時だった。

父の絶叫

玄関の引き戸が、乱暴に開け放たれる音がした。 「詩織! いるのか!」

父の声だった。 なぜ、ここに。実家から車で一時間以上はかかるはずだ。 私は、日記を慌てて閉じた。

ずかずかと客間に上がり込んできた父・健介の顔は、怒りと、そして私が今まで見たことのない種類の恐怖に歪んでいた。 「近所の人から電話があったぞ。毎晩遅くまで明かりをつけて、庭を掘り返したりしているそうじゃないか。お前、一体何をしているんだ!」 「……別に。家の片付けを」 「嘘をつけ!」

健介は、私の目の前にあった日記帳をひったくった。 そして、黒く塗りつぶされたページが開かれているのを見て、息を呑んだ。 「……見た、のか」 その声は、かすかに震えていた。

「お父さん、教えて。この日に、何があったの。お祖母ちゃんは、どうして謝っているの」 私は、父に迫った。 「静馬さんが遺したものを、お祖母ちゃんが隠したんでしょう。どこにあるの。教えて!」

その瞬間、父の中で何かが壊れる音がした。 「やめろ……」 「教えて!」 「やめろと言っているだろう!」

健介は絶叫し、日記帳を畳に叩きつけた。 そして、子供のように頭を抱えてうずくまる。 「……あれは、地獄だった」 絞り出すような声が、彼の喉から漏れた。

「俺は、ガキだった。静子叔母さんが『静馬』になった時、学校で何て呼ばれたか分かるか? 『化け物の親戚』だ。石を投げられ、持ち物を隠され、毎日殴られた。家に帰って親父—お前の爺さんだ—に泣きついたら、何て言われたと思う?」 父は、顔を上げた。 その目には、六十年前の少年が浮かべる、絶望の色が宿っていた。 「『お前が、弱いからだ』と、そう言われたよ。そして、俺への見せしめみたいに、親父は静馬叔父さんを離れに閉じ込めたんだ。俺の目の前で。あの日から、あの人は化け物になった。いや、俺が、そう思うことにしたんだ。そうしないと、自分が壊れてしまいそうだったから!」

それは、私がまったく知らなかった父の姿。 父の絶叫だった。 彼が必死に守ろうとしていたものは、家の体面などではなかった。 いじめに遭い、父親にさえも見捨てられた、傷だらけの少年時代の自分。 そのトラウマの蓋を、私がこじ開けてしまったのだ。

「お願いだから、もうやめてくれ……。あの家の記憶を、これ以上引っ掻き回さないでくれ……」 健介は、嗚咽を漏らしながら、私に懇願した。 それは、父親の威厳などどこにもない、ただの傷ついた一人の人間の、悲痛な叫びだった。

和解など、できなかった。 かけるべき言葉も、見つからなかった。 嵐のように家を去っていった父の後ろ姿を、私はただ、呆然と見送ることしかできなかった。

床柱の記憶

父が嵐のように去った後、家は墓標のような沈黙に包まれた。 健介が残していった絶叫の残響が、壁や柱に染み付いているようだった。 和解など、できなかった。 父の心の傷の深さを知り、私はひどく打ちのめされていた。 真実を求めるという行為は、ナイフと同じだ。使い方を間違えれば、最も近しい人間を容赦なく傷つける。

それでも。 私は、床に落ちた日記帳を拾い上げた。 黒く塗りつぶされたページを、指でなぞる。 それでも、私はもう、止まることはできないのだ。 父の苦しみの、そのさらに奥にある、本当の声に辿り着くまでは。

だが、どこを探せばいいのか。 祖母・聡子はこの家のどこに、兄の魂を隠したのか。 その日から、私は家そのものと対峙し始めた。 屋根裏に上り、埃まみれになりながら梁を調べた。 畳を一枚一枚剥がし、床板の軋む音に耳を澄ませた。

手応えは、なかった。 家は、ただ黙って私を見下ろしているだけだった。

数日が過ぎ、焦りだけが募っていく。 万策尽きた、と感じた時、ふと、ある人物の顔が思い浮かんだ。 以前、父から話を聞いたことがある、祖父の代からこの家の庭を手入れしているという、老いた植木職人。 彼は、軟禁されていた頃の静馬さんを知る、最後の生き証人かもしれない。 私は、震える手で、紹介された番号に電話をかけた。

「……もしもし」 受話器の向こうから聞こえてきたのは、枯葉が擦れるような、老人の声だった。 事情を説明すると、彼はしばらく黙り込んだ。 「……静馬さんの、ことでございますか。ああ、覚えておりますとも。あのように、美しいお方はおりませんでしたから」 その声には、六十年前の記憶を慈しむような響きがあった。

私は、単刀直入に尋ねた。 「離れのことについて、何か覚えていらっしゃいませんか。祖母が、離れで何かをしていたとか、どんな些細なことでも構いません」

老人は、ううむ、と唸りながら、川底の石を拾い上げるように、記憶を探っているようだった。 「聡子奥様、でございますな。……そういえば、一つだけ。奥様は、離れの掃除をなさる時、いつも決まって、床柱を、まるで慈しむように、撫でておられましたな。何か、大切なものでも仕舞ってあるのかと、子供心に思ったもんです」

床柱。 その言葉が、私の頭の中で、警鐘のように鳴り響いた。

電話を切り、私は離れへと走った。 父が「蔵」と呼んだ、今は物置として使われている、家の中で最も冷たい空気が澱む場所。 引き戸を開けると、かび臭い匂いが鼻をついた。 部屋の隅に、それはあった。 黒光りする、太い檜の床柱。 この部屋の時間の流れを、たった一人で見つめてきた証人のように、静かに佇んでいる。

私は、その冷たい表面に、そっと手を触れた。 そして、上から下へ、ゆっくりと指を滑らせていく。 祖母がしたように。慈しむように。 何か、あるはずだ。 祖母が遺した、最後の道標が。

何度も、何度も、柱を撫でた。 その時だった。 指先が、柱の中ほどで、微かな凹凸を捉えた。 木目に擬態した、小さな、小さな継ぎ目。 爪を立てると、木の皮に化けた薄い蓋が、ことりと音を立てて外れた。 中は、指が一本入るほどの空洞になっていた。

息を止め、指を入れる。 冷たい感触。 硬い、何か。 引き出したのは、錆びついた小さな鍵だった。 そして、その鍵に、細い糸で結びつけられた、小さく折り畳まれた和紙の切れ端。

開くと、そこには、見慣れた祖母の、震えるような筆跡があった。 —蔵の天井裏、長持の底

短い、たったそれだけの言葉。 だが、それは、私が探し求めていた全ての答えだった。 魂の在処を示す、一枚の地図。

私は、鍵とメモを、強く、強く握りしめた。 涙が、あとからあとから溢れてきた。 お祖母ちゃん。 あなたは、ただ隠したのではなかったのですね。 いつか、誰かがこれを見つけ出してくれることを、信じて。 兄の声を、未来に託したのですね。

夜の闇が、家を包み始めていた。 私の手の中にあるのは、もはやただの鍵ではない。 六十年分の沈黙を破るための、唯一の鍵だった。


第三部 解き放たれる骨

魂の在処

夜だった。 蔵の引き戸は、錆びついた獣のような呻き声を上げた。 懐中電灯の光が、闇の中に白い円を描く。 黴と、古い木と、忘れられた時間の匂いが、凝縮された空気となって私の肺を満たした。

壁際に、天井裏へと続く、粗末な梯子が立てかけられている。 一歩、足をかける。 ぎしり、と木が軋む音が、静寂を鋭く引き裂いた。 埃が、雪のように舞い落ちてくる。 光の中をきらめくそれは、まるで、この家が溜め込んできた沈黙の粒子のように見えた。

天井裏は、私の想像を絶する空間だった。 低く、息苦しく、家の記憶が捨て置かれる場所。 光の輪が、闇を舐めるように動く。 古い家具、割れた陶器、誰のものとも知れぬガラクタの山。 その奥に、それはあった。

黒く、巨大な、棺のような長持。 埃をかぶり、まるで巨大な獣の死骸のように、闇の中に沈んでいる。 私は、そこに辿り着くまでに、何度も足をもつれさせた。

長持の蓋は、重かった。 六十年分の沈黙の重みが、私の腕にのしかかる。 力を込めると、蓋は鈍い音を立てて開いた。 中から、樟脳の匂いが立ち上る。 そこにあったのは、色褪せた数枚の着物だけだった。

違う。 祖母のメモは、こう示していた。 —長持の底

私は、着物を掻き分け、長持の底板に手を触れた。 指先で、板の継ぎ目を探る。 あった。 隅の方に、指をかけられる、わずかなくぼみ。 板を、持ち上げる。 それは、偽りの底だった。 その下に、さらに空間が広がっている。

そして、その空間の真ん中に、油紙に何重にも、何重にも固く包まれた、一冊の本が置かれていた。 まるで、大切な赤子をくるむように。 あるいは、決して外に出てはならない呪物を封じるように。

震える指で、油紙を一枚、また一枚と剥がしていく。 最後に現れたのは、学生が使うような、ごくありふれた大学ノートだった。 表紙には、何も書かれていない。

私は、その場で、長持の縁に腰掛けた。 懐中電灯の光で、ノートの最初のページを照らす。 そこには、インクが滲むほど、力の込められた筆跡があった。 それは、もはや文字ではなかった。 紙の上に刻みつけられた、魂の傷跡だった。

—これを読む、名も知らぬあなたへ。 もし、あなたがこの声を聞いてくれるなら、まず、私の墓を暴いてほしい。 私の骨は、長谷川静子という名の墓にはない。 私は、ここにいる。 この言葉の一文字一文字が、私の肉であり、私の骨だ。 私の名は、静馬。 長谷川 静馬。 社会が、家族が、そして神が許さずとも、私は、私として生きた。 その証が、ここにある。

息が、できなかった。 これは、手記などという生易しいものではない。 絶望の底から、未来の誰かに向けて放たれた、一本の矢。 血の滲むような、遺言だった。

私は、懐中電灯の光の中で、ページをめくることも忘れ、ただ、その最初の言葉を繰り返し読んでいた。 静馬さん。 あなたの声が、聞こえる。 六十年の沈黙を突き破って、今、確かに聞こえる。

天井裏の闇の中で、私は一人、ノートを胸に抱きしめた。 それは、ひどく冷たく、そして、燃えるように熱かった。 この声を、解き放たなくてはならない。 たとえ、それが全てを壊すことになったとしても。

私の手の中にあるのは、もはやただのノートではなかった。 それは、この家の、そしてこの社会の偽善を突き刺すための、鋭く尖った—骨だった。

六十年目の嗚咽

一族が集まったのは、祖父の七回忌だった。 線香の匂いが、澱んだ空気のように客間に満ちている。 喪服に身を包んだ親戚たちが、当たり障りのない挨拶を交わし、互いの子供の成長や、老いていく身体の不調を報告し合っている。 その偽りの平穏の中で、私だけが異物だった。 ハンドバッグの中にあるノートの重みが、私の背骨をまっすぐにさせている。

やがて、読経が終わり、会食の席に移った。 ある叔父が、空気を読まずに口火を切った。 「そういえば詩織ちゃん、会社を辞めて、婆さんの家に住んでるんだって? いずれあの家も、どうするか考えないとなあ」

全ての視線が、私に集まる。 その中には、父・健介の、警告を宿した鋭い眼光も混じっていた。 私は、静かに顔を上げた。 「家の整理をしています。六十年ぶんの、誰も触れようとしなかった記憶の、整理を」

その言葉に、場の空気が凍りついた。 健介が、慌てて会話を遮ろうとする。 「詩織。よさないか。今日は、そういう席じゃない」 そして、親戚たちに向かって、取り繕うように言った。 「……あいつは、少し疲れているんだ。昔、この家にいた叔母が、若くして病気で亡くなってな。そのことを、少し感傷的に捉えているだけなんだよ。悲しい話だが、もう終わったことだ」

終わったこと。 病気で死んだ。 その、あまりにも手軽な嘘が、健介の口から紡がれる。

私は、ゆっくりと立ち上がった。 そして、ハンドバッグから、あのノートを取り出した。 「お父さん」 私の声は、自分でも驚くほど、静かに響いた。 「その『終わったこと』が、ここにあります」

健介の顔が、絶望に歪む。 「やめろ……詩織……」 「これは、長谷川静馬さんが遺した手記です。彼が、病気で死んだのではないことの、何よりの証拠です」

親戚たちが、息を呑むのが分かった。 化け物、家の恥、タブー。 その亡霊が、六十年の時を超えて、この座敷に姿を現したのだ。

父の制止を無視して、私はノートを開いた。 そして、最後の方のページに記された、彼の魂の独白を、読み上げ始めた。

—これを書いている今、私の意識は日に日に薄れている。 医者は、これを衰弱と呼ぶだろう。 家族は、病と呼ぶだろう。 だが、違う。 これは、私の、最後の戦いだ。 この肉体は、生まれてから一度も、私のものではなかった。 社会が『女』と名付けた、借り物の檻だった。 私は、この檻を、自らの意志で破壊する。 食事を拒み、水分を拒み、この肉体を滅ぼすことで、私は、私という魂を完成させるのだ。 もう、誰も私を『静子』とは呼ばせない。 もう、誰も私を『女』として扱えない。 骨だけが残る。 静馬という、一人の男が生きたという、揺ぎない事実だけが残る。 ああ、ようやく、私は—

私が、最後の一文を読み終える前に、奇妙な音が響いた。 ひっ、と、誰かが息を吸い込むような、かすかな音。 見ると、父が、畳の上にうずくまっていた。 子供のように、小さな身体を丸めて。

「……にいちゃん」 父の唇から、言葉にならない声が漏れた。 「……しずま、にいちゃん……ごめん……ごめんなさい……」

それは、六十年前。 化け物、と罵られ、石を投げつけられていた、傷だらけの少年の声だった。 守れなかった兄への、罪悪感。 憎むことでしか自分を保てなかった、自己嫌悪。 封印してきた全ての感情が、堰を切って溢れ出している。

健介は、畳に額をこすりつけ、ただ、嗚咽を漏らし続けた。 その姿は、もはや家の長でも、私の父でもなかった。 兄の名を呼びながら、許しを乞う、たった一人の、迷子の子供だった。

座敷の誰もが、声を失っていた。 六十年という歳月をかけて塗り固められた嘘が、静馬自身の声によって、粉々に砕け散った瞬間だった。

私は、ノートを静かに閉じた。 これが、真実だ。 痛みを伴い、全てを壊して、それでも、ここにあるもの。 私の戦いは、終わった。 いや、ここから、始まるのだ。


終章

あれから、一年が過ぎた。 私は、祖母が遺したあの古い家で、この物語を書き上げた。 書籍『骨の尖』は、静かな、しかし確かな反響を呼んだ。 声なく消されていった魂の記録に、涙を流してくれた人がいた。 社会の「普通」という名の暴力に、怒りを寄せてくれた人がいた。

父・健介は、あの法事の後、何も語らなかった。 ただ、出版された本を、仏壇に供えていた。 それが、父の六十年分の贖罪の形だったのかもしれない。

静かな鎮魂。 物語は、そうやって穏やかに終わるのだと、私は信じようとしていた。 その日、郵便受けに一通の分厚い封筒が届くまでは。

差出人は、都内の大手法律事務所。 それは、「特別送達」と赤い判が押された、裁判所からの通知だった。 中身は、一枚の訴状。 原告は、父を除く、親族一同。 訴えの内容は、こうだ。

—名誉毀損による出版差し止めと、損害賠償請求。

訴状は、冷たい活字で、私を断罪していた。 一族が守ってきた名誉を傷つけ、故人の尊厳を踏みにじった、と。

同じ頃、インターネットには、匿名の刃が溢れた。 『死者のプライバシーを食い物にするハイエナ』 『承認欲求を満たすために、家族を売った毒婦』 『トランスジェンダーへの理解を盾にした、ただの暴露本だ』

私は、理解した。 静馬がかつて立った、あの法廷。 無理解と好奇の視線が突き刺さる、あの場所に、今度は私が立たされるのだ。 社会という、顔のない巨大な法廷の、被告席に。

不思議と、恐怖はなかった。 私は、机の引き出しから、静馬さんの手記を取り出した。 油紙に包まれた、あの古い大学ノート。 もう何度も読み返し、その言葉は私の血肉の一部となっていた。

私は、彼の「骨」を受け継いだのだ。 社会の常識や、家族の体面という名の分厚い肉。 その全てを突き破ってでも、真実を貫こうとする、鋭い切っ先を。

誹謗中傷の嵐が吹き荒れるパソコンの画面を、私は静かに閉じた。 そして、訴状を、テーブルの上に置く。 私の脳裏に、手記の最後の一文が、燃えるように蘇っていた。

—私の骨は、ここに在る。この尖を、折ることは誰にもできない。

私の、新しい戦いが、今、始まろうとしていた。

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