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『降伏なき者たち』

神風は、吹いていなかった。
歴史が隠したのは、敵と味方を超えた魂の共鳴だった。

あらすじ

文永十一年、秋。日本を揺るがす未曾有の国難、「元寇」。 圧倒的な戦力で博多湾に押し寄せたモンゴル・高麗連合軍を前に、日本の武士たちは絶望的な防戦を強いられていた。誰もが国の滅亡を覚悟したその翌朝、悪夢は嘘のように消え去る。湾を埋め尽くしていたはずの大船団が、一夜にして、一艘残らず姿を消していたのだ。

人々はこれを「神風」と呼び、奇跡の到来に国中が熱狂する。

だが、死線を生き延びた一人の若き武士、久我景眞(くが かげまさ)だけが、その熱狂の輪に加われずにいた。あまりにも静かすぎる敵の陣地跡。そこに残された不自然な痕跡。彼の武士としての本能が、世が語る「奇跡」に不穏な違和感を覚えていた。

「奴らは本当に、嵐に敗れたのか?」

そのたった一つの疑念が、景眞を狂わしいほどの孤独な戦いへと駆り立てる。神の御業とされた勝利の裏に隠された、あまりにも人間的な真実とは何か。国の神話を疑うことは、英雄から「国賊」へと堕ちることを意味した。

これは、自らの信念のため、国家が信じる「奇跡」にたった一人で反逆した男の、壮絶な探求の物語である。


登場人物紹介

  • 久我 景眞(くが かげまさ) 肥後国出身の若き御家人。元軍との激戦を生き延びるも、誰もが信じる「神風による勝利」にただ一人、拭いきれぬ疑念を抱く。国中を敵に回すことを覚悟の上で、禁忌とされた謎の探求を始める主人公。
  • 北条 時宗(ほうじょう ときむね) 鎌倉幕府の若き執権。存亡の危機に瀕した日本の舵を取る、絶対的な指導者。彼の揺るぎない決断が、この国の運命を大きく左右する。
  • クビライ・ハーン ユーラシア大陸を支配するモンゴル帝国(元)の大ハーン。世界をその手に収めんとする野望の仕上げとして、東の島国・日本に狙いを定める、巨大な敵国の象徴。

序章:神に見捨てられた海

潮の香に、血の匂いが混じり始めて久しい。 久我景眞(くが かげまさ)は、鞍の上で浅い息を繰り返しながら、弓を固く握りしめた。砂浜を埋め尽くす異国の兵は、まるで蠢く蟻の群れだった。肥後国(ひごのくに)を出てこの博多の防衛線に来た時、これほどの数の敵が海を渡ってくるとは、誰も本気で考えてはいなかった。

「景眞、右だ!」 親友の庄太(しょうた)が叫ぶ。景眞は反射的に馬の首を巡らせ、矢を放った。一体、何本目の矢だろう。箙(えびら)に残る矢は、もはや数えるほどもない。

彼ら日本の武士が拠り所としてきた戦の作法は、この異国の大軍の前では意味をなさなかった。誇りある一騎討ちを名乗り出ても、返ってくるのは無数の矢の雨。馬を駆って弓を射る騎射こそが我らの本分と信じてきたが、その馬が、敵の放つ怪しげな黒い玉に怯えて役に立たない。

「ひっ…!」 庄太の馬が、すぐ間近で上がった轟音に狂ったように嘶(いなな)いた。黒い陶器の玉――奴らが「てつはう」と呼ぶ兵器が炸裂し、凄まじい音と煙を撒き散らす。それは人の体を砕くというより、魂そのものを砕くような響きだった。

陣形が崩れる。馬から振り落とされた武士たちに、分厚い盾を構えた歩兵の集団が容赦なく襲いかかる。景眞たちが纏う豪奢な大鎧は、騎射戦では鉄壁の守りを誇るが、一度馬を降りれば、その重さが動きを鈍らせるただの枷(かせ)だった。

「庄太、退け! 一度立て直すぞ!」 景眞が叫んだ、その時だった。庄太の肩に、短い矢が突き立っているのが見えた。元兵が使う、トリカブトの毒が塗られていると噂の矢だ。

「庄太!」 駆け寄ると、友はすでに馬から落ち、砂の上で苦悶していた。顔色は見る間に土気色に変わり、唇が紫色に震えている。

「かげ…まさ…」 その声は、ひどくかすれていた。景眞は友の体を抱き起こすが、できることは何もない。

「神は…我らを…見捨てたのか…」 それは、誰よりも神仏を篤く信じていた友が、この世に残した最後の言葉だった。その瞳から光が消えていくのを、景眞はただ見ていることしかできなかった。

潮騒が、遠く聞こえる。血と硝煙の匂いの中で、景眞は親友の亡骸を抱きしめた。何かが、自分の中で決定的に壊れてしまった。神がいるのなら、なぜ。なぜ、我らはかくも無様に、犬死にせねばならんのだ。

天を仰いでも、そこには鉛色の空が広がっているだけだった。

第一章:若き執権の決断

相模国(さがみのくに)、鎌倉。 幕府の中枢である評定所の空気は、凍りつくように冷え切っていた。上座に座す若き執権、北条時宗(ほうじょうときむね)は、居並ぶ有力御家人たちの顔を、感情の読めない瞳で静かに見渡していた。九州から命からがらたどり着った早馬の使者がもたらした報告は、ここにいる誰もが想像しうる最悪のものを、さらに上回っていた。

「…九百艘の船団、兵は三万と聞き及びます。てつはうなる新兵器の前に、我らの戦法はことごとく破られ、今は水城(みずき)まで退いておると…」 有力御家人の一人、安達泰盛(あだちやすもり)が重々しく口火を切る。その声には、隠しきれない動揺が滲んでいた。

「執権殿。こは、我らが経験したことのない戦にございます。一時的な和睦も、視野に入れるべきかと…」 泰盛の言葉に、数人の老臣が頷く。それは時宗の独裁体制を快く思わない者たちが、ここぞとばかりに揺さぶりをかけてきている、という側面もあった。和睦。その言葉が意味するものは、事実上の降伏だ。

時宗は、ゆっくりと口を開いた。その声は若いが、鋼のように冷たい響きを持っていた。 「和睦だと? 礼節も知らぬ蛮族に、一度でも頭を下げればどうなるか。彼らは我らを属国とし、富を奪い、民を奴隷とするだろう。そうなれば、この国は国でなくなる。降伏は、緩やかな死を意味するのだ」

彼は、自らの権力の源泉である私的家臣、御内人(みうちびと)たちが控える末席に、鋭い視線を送る。彼らは、時宗の言葉に声なく、しかし絶対の忠誠をもって頷き返した。

「異国警固の任にある者たちへ、改めて命を伝える。一歩も退くな。援軍は必ず送る。そして、この国難に際し、不穏な動きを見せる者がいれば、身分を問わず厳罰に処す」 その言葉は、評定所にいた全ての者の心を射抜いた。反論する者は、もはや誰もいなかった。

会議が終わり、一人になった時宗は、文机に置かれた九州の地図に目を落とした。そこには、赤い墨で「博多」と記されている。彼は、まだ見ぬその地の惨状を思い、唇を強く噛みしめた。弱音は見せられぬ。この国を背負うと決めたのは、他の誰でもない、自分なのだから。

第二章:大帝の傲慢

元、大都(だいと)。 世界を支配する大ハーン、クビライの宮殿は、あらゆる国の富と人で溢れていた。大理石の床を、モンゴル人、漢人、ペルシア人、そして遠く欧州から来たヴェネツィアの商人までが、それぞれの言葉で挨拶を交わしながら行き交う。

クビライは、玉座に深く身を沈め、遠征軍からの第一報を聞いていた。彼の興味は、すでに日本という小さな島の戦況にはなかった。彼の前には、西域から届いたばかりの新しい地図が広げられている。

「上陸は成功。日本の兵は脆弱で、抵抗は取るに足らぬ、か。当然のことだ」 報告を読み上げる漢人の側近に、彼はこともなげに言った。

「陛下。ただ一つ、懸念が」 側近が恐る恐る口を挟む。「かの国の海は、秋になると荒れると聞き及んでおります。高麗で急造させた船団の多くは、外洋の荒波に耐えられる作りではございません。兵站が…」

クビライは、その言葉を遮るように、地図の上を指でなぞった。 「些末なことだ。天命は我らにある。海が荒れるなら、その前に全てを終わらせればよい。それだけの兵も、将も、くれてやったはずだ」

彼の脳裏には、遠征軍に加えた旧南宋の将軍、陳洪の顔が浮かんでいた。有能な男だ。滅ぼした国の人間だが、使える駒は使わねばならぬ。彼の忠誠心など、クビライにとっては関心の外だった。この帝国では、皇帝の意志こそが全てなのだから。

「次の議題へ移れ」 クビライは、東の島国のことなど、もう忘れたかのように言った。彼の視線の先にあるのは、まだ版図に加えていない、世界の残りの部分だけだった。彼の傲慢は、彼自身の帝国と同じくらい、巨大だった。

第三章:静かすぎる朝

死を覚悟して迎えた朝は、不気味なほど静かだった。 鬨(とき)の声も、銅鑼(どら)の音も、馬の嘶きも聞こえない。ただ、潮騒が常と変わらずに寄せては返す音だけが、夜明け前の冷たい空気に響いていた。久我景眞(くが かげまさ)は、水城(みずき)の土塁の上で傷ついた腕の痛みに耐えながら、夜が明けていく博多湾を睨みつけていた。昨夜までの悪夢が嘘のように、海は凪いでいた。

そして、太陽が昇り、湾全体を照らし出した時、誰もが息を呑んだ。 いないのだ。湾を埋め尽くしていた九百艘の船団が、一艘残らず、跡形もなく消え失せていた。

しばしの沈黙の後、誰かが震える声で叫んだ。 「神風だ…!」

その一言が、堰(せき)を切ったように歓喜の波紋を広げた。奇跡だ、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)のご加護だ、と武士たちは雄叫びを上げ、抱き合い、天を拝んだ。昨日までの絶望が嘘のように、陣営は勝利の熱狂に包まれた。

だが、景眞の心は晴れなかった。昨夜、彼は宗像(むなかた)の武士たちと共に、数艘の小舟(こぶね)で敵船団への夜襲を敢行していた。暗闇の中、巨大な船腹に身を寄せた時、彼は確かに聞いたのだ。船内から聞こえる、規律の取れた怒声ではなく、不満に満ちた異国の言葉の応酬を。まるで、船の中で仲間割れでもしているかのような、不穏な空気を肌で感じていた。

嵐が、あれほどの大船団を、一夜にして海の藻屑にしたというのか。それも、一艘の残骸も残さずに?

疑念に駆られ、景眞は祝いの輪から離れ、まだ誰も近づかない敵の陣地跡へと馬を向けた。そこには、夥しい数の武具や旗、そして屠られた馬の死体が散乱していたが、景眞はすぐに異変に気づいた。これは、慌てふためいて逃げた軍の跡ではない。食料の多くは手付かずで、整然と積み上げられたままの武具もある。まるで、計画的に陣を畳んだかのようだ。

砂浜のはずれ、松林に近い窪地で、彼はそれを見つけた。 うつ伏せに倒れた、ひときわ豪華な鎧を纏った男の亡骸。元軍の高官に違いない。だが、その背には矢傷も槍傷もなかった。体を仰向けに返すと、胸鎧の隙間に、一つの傷があった。血はすでに黒く乾ききっている。それは、日本刀による斬り傷ではなかった。細く、鋭利な刃物による、ただ一突きの刺し傷。そして傷口の脇には、見慣れぬ様式の短刀が、砂に半ば埋もれていた。

遠くで仲間たちの歓声が聞こえる。だが景眞の耳には、もう届いていなかった。彼の前には、神風という奇跡とは全く別の、冷たい人間の意志によってもたらされた死が、静かに横たわっていた。

第四章:神話の治世

鎌倉に「神風による大勝」の報が届いた時、評定所は歓喜に揺れた。安達泰盛(あだちやすもり)をはじめ、時宗の強硬策に疑念を抱いていた者たちも、この奇跡的な勝利を前にしては、執権の神がかり的な強運を認めざるを得なかった。

北条時宗は、諸将の祝いの言葉を静かに受けながら、その心はすでに次の戦いを見据えていた。僥倖(ぎょうこう)だ。天が味方したに過ぎぬ。クビライという男が、この一度の敗北で諦めるはずがない。

彼は、この熱狂こそが武器になると判断した。 「皆、静まれ」

時宗の一声で、評定所は水を打ったように静まり返った。 「此度の勝利は、まさしく神仏のご加護。我が国が神国であることを、天が自ら示したのだ。この奇跡を、全日本の武士と民が分かち合わねばならぬ」

彼は、この「神風」という物語を、国家統治の柱に据えることを決意した。この物語は、御家人たちの心を一つにし、幕府への忠誠心を高め、来るべき国難へ立ち向かうための精神的な城壁となるだろう。

その日の午後、時宗は腹心である御内人(みうちびと)の長を呼び寄せた。 「博多へ、信頼できる男を遣わす。表向きは、此度の戦功を調査し、恩賞を差配するための監察官として。だが、真の役目は別にある」

時宗の目が、鋭く光る。 「神風の奇跡に、些かでも疑いを差し挟むような不心得者がいれば、見つけ出せ。噂の火種は、小さいうちに摘み取らねばならぬ。国の安寧を乱す者は、たとえ誰であろうと許すな」

その命を受け、一人の男が選ばれた。梶原景時(かじわら かげとき)。人の心の闇を覗き見るような、氷の瞳を持つ男だった。

時宗は、再び九州の地図に目を落とす。彼は今や、神話の治世者となった。だが、彼が信じるのは神ではなく、人間の力だった。彼は、博多湾の沿岸に、長大な石の壁を築くことを決意していた。神が二度、微笑む保証など、どこにもないのだから。

第五章:大帝の怒り

大都の宮殿は、死のような静寂に包まれていた。 ほうほうの体で逃げ帰った遠征軍の将が、玉座の前で震えながら報告を終えた時、クビライは一言も発しなかった。ただ、その指が、玉座の肘掛けに彫られた龍の鱗を、ギリ、と強く握りしめた。

「嵐、だと?」 ようやく絞り出された声は、怒りよりも、冷たい侮蔑に満ちていた。 「天候ごときに、我がモンゴルの軍が敗れたと申すか。恥を知れ」

クビライは合図もせず、立ち上がり、報告を終えた将には目もくれずに部屋を出て行った。その直後、衛兵たちが音もなく入ってきて、将を引きずっていった。彼が二度と生きて宮殿の門を潜ることはなかった。

自室に戻ったクビライは、側近たちを下がらせ、一人、巨大な世界地図の前に立った。彼は激情に駆られる男ではなかったが、これほどの屈辱は、生涯で初めてだった。天命に選ばれたはずの自分が、東の蛮族に敗れた。それも、戦ではなく、嵐によって。その公式報告を、彼は信じていなかった。

報告には、矛盾が多すぎる。損害の規模、撤退の状況。まるで、何かを隠しているかのようだ。不手際か、あるいは…。 裏切りか。

クビライの脳裏に、あの旧南宋の将軍、陳洪の顔が浮かんだ。あの男の、決して屈服しない瞳。 彼は腹心の密偵の長を呼び寄せた。 「日本へ行け。商人になりすまし、あるいは難民に紛れ、何年かかってもよい。此度の遠征から生き残った者を探し出せ。特に、将校の階級にあった者だ」

密偵の長は、影のように平伏したまま、次の言葉を待った。 「そして、真実を聞き出せ。嵐の夜、我が艦隊に何が起きたのか。もし、そこに帝国の威信を汚すような裏切りがあったのなら…」

クビライは、地図上の日本を、憎悪を込めて睨みつけた。 「…その真相を知る者を、一人残らず、闇に葬れ」

その日、数人の影が、壮麗な大都の宮殿から、東の海を目指して静かに旅立った。彼らがもたらす新たな嵐が、博多の地で待つ一人の武士の運命を巻き込むことを、まだ誰も知らなかった。

第六章:共犯者

元軍の捕虜たちは、博多のはずれにある古い寺に収容されていた。傷ついた者、戦意を失った者、そして故郷の言葉で虚ろに何かを呟き続ける者。久我景眞(くが かげまさ)はその中を、一人の男を探して歩いていた。武人ではない。書記として従軍していたという、南宋の文官。

男は、本堂の隅で静かに座っていた。年の頃は景眞とさほど変わらないように見えたが、その目には深い疲労と諦観が浮かんでいる。着ているものは他の兵と同じだが、その手は武具を握る者の手ではなかった。指先が、墨で微かに黒ずんでいる。

「陸秀英(りく しゅうえい)殿とお見受けする」 景眞が声をかけると、男はゆっくりと顔を上げた。その瞳には、警戒と侮蔑が混じっていた。

「日本の武士に、何か用かな」 「尋ねたいことがある」 「どうせ、撤退の理由だろう。嵐が怖くて逃げた。それで満足か」

その言葉には、自嘲と、何かを庇うような響きがあった。景眞は、彼の隣に腰を下ろした。尋問するのではなく、語りかけるように、静かに言った。 「俺の親友が、お前たちの毒矢で死んだ」

陸秀英の肩が、微かに震えた。 「彼は、誰よりも神仏を信じていた男だった。だが、死ぬ間際に言った。『神は我らを見捨てたのか』と。…なあ、陸殿。俺は、神が彼を見捨てたとは思いたくない。彼が死んだのは、神の気まぐれなどではなく、もっと別の…人間の理由があったはずだ。俺は、それを知りたい」

陸秀英は、しばらくの間、黙って景眞の顔を見つめていた。やがて、彼は重い口を開いた。 「毒矢は…モンゴル人のやり方だ。彼らにとって、戦に名誉などない。ただ、効率の良い殺戮があるだけだ」

その声には、モンゴル人への静かな憎しみがこもっていた。 「あなたも、彼らとは違うのだな」と景眞が言うと、陸秀英は力なく笑った。「私か? 私は、国を滅ぼされた宋の人間だ。この戦は、私の戦ではない。私の将軍…陳洪(ちん こう)殿にとっても、そうだった」

その時、二人の間に、初めてかすかな共感が生まれた。景眞は、この男が真実を語る可能性があると確信した。それは、日本のためではない。モンゴルへの憎しみでもない。彼が敬愛したという、陳洪という将軍の名誉のために。

「聞かせてくれぬか。嵐の夜、あの海の上で、本当に何があったのかを」 陸秀英は、長く、深い息をついた。そして、決意を秘めた目で景眞を見返した。

「よかろう。だが、これは神の物語ではない。一人の男の、苦渋に満ちた決断の物語だ。それを聞く覚悟が、あなたにあるのなら」 その瞬間から、肥後の武士と南宋の文官は、国境を越えた奇妙な「共犯者」となった。

第七章:二つの追跡者

陸秀英との約束を取り付けた景眞の心は、重い高揚感に満ちていた。だが、彼が寺の門を潜った時、その高揚感は冷や水を浴びせられたように消え去った。

門前が、にわかに騒がしくなっていた。鎌倉から派遣されたという幕府の監察官が、物々しい警護の武士を連れて到着したのだ。中心にいる男は、歳は四十ほどだが、その全身から剃刀のような鋭い空気を放っている。彼こそが、北条得宗家の私的家臣、御内人(みうちびと)の地位にある梶原景時(かじわら かげとき)だった。

景時は、この地の御家人たちを前に、まるで罪人を尋問するかのような口調で言った。 「此度の勝利は、ひとえに神仏のご加護と、上様(時宗)のご威光の賜物。にもかかわらず、その奇跡を疑い、よからぬ噂を流す不心得者がおると聞く。我が役目は、そうした不忠者を炙り出し、断罪することにある」

その氷の瞳が、居並ぶ武士たちの中から、まっすぐに景眞を射抜いた。二人の視線が交錯する。景眞は、自分が幕府の敵として明確に認識されたことを悟った。

その夜。景眞は、陸秀英をこのまま寺に置いておくことの危険性を感じ、彼を密かに連れ出す算段を立てていた。そのための協力者を得ようと、馴染みの商人を訪ねた帰り道だった。

人通りの絶えた小路に差し掛かった時、背後に二つの気配を感じた。商人姿だが、その足運びは明らかに武芸の心得がある者のものだ。昼間、寺の周辺をうろついていたのを覚えている。

景眞は、咄嗟に角を曲がり、闇に身を潜めた。案の定、二人の男は足音を殺して後を追ってくる。景眞は刀の柄に手をかけ、息を殺した。男たちが角を曲がった瞬間、景眞は闇から躍り出た。不意を突かれた男の一人の腕を掴み、壁に叩きつける。もう一人が短刀を抜くが、景眞の鞘の一撃がその手首を砕いた。

呻き声も上げさせず、二人を無力化する。懐を探ると、見慣れぬ意匠の短刀と、元の通貨が出てきた。クビライの密偵だ。

景眞は、全身から冷たい汗が噴き出すのを感じた。事態は、彼の想像を遥かに超えていた。自分は、ただの謎を追っているのではない。東からは幕府の監察官、西からは大元の密偵。その両方に追われる、絶望的な立場にいるのだ。

彼の武器は、一振りの刀と、まだ何も語られていない真実だけだった。そして唯一の味方は、異国の捕虜一人。景眞は、闇の中で固く拳を握りしめた。これはもう、後戻りのできない戦いだった。

第八章:戦後の貌(かお)

寺は、もはや安全な場所ではなかった。 久我景眞(くが かげまさ)は、その夜のうちに陸秀英(りく しゅうえい)を連れて闇に紛れた。幕府の監察官と元の密偵、双方の追手から逃れるには、人の多い場所に潜むしかない。彼らが身を寄せたのは、戦で焼け出された人々が寄り集まって暮らす、博多の場末の廃屋だった。

昼間は息を殺し、夜になると、景眞は食料を調達するために町に出た。そして彼は、戦場とはまた違う、もう一つの戦の姿を目の当たりにすることになる。

往来では、戦で手柄を立てたと触れ回る武士の横で、役人に恩賞の不服を訴える老武士がいた。長年の異国警固番役で田畑を売り払い、この戦で全てを失ったのだと、その声はかすれていた。

寺社の前では、手足の傷痍(しょうい)を見せながら物乞いをする元・御家人の姿があった。彼らは、もはや馬に乗ることも弓を引くこともできない。

その一方で、町は奇妙な熱気に満ちていた。「神風」の奇跡を面白おかしく語る辻講釈師は、やんやの喝采を浴びていた。元の兵士がかぶっていたという触れ込みの兜が、破格の値段で売られている。もちろん、そのほとんどは偽物だろう。

ある日の夕暮れ、景眞は廃屋の隙間から、小さな女の子が母親に手を引かれているのを見た。女の子は、父の形見だというお守りを握りしめ、母親に尋ねていた。 「おとっつぁんは、どうして死んでしまったの?」

母親は、涙をこらえながら、必死に笑顔を作って答えた。 「お前の父上はね、この国を神様と一緒に守って、大風を呼んだんだよ。だから、みんな助かったんだ。立派だろう」

その言葉を聞いた時、景眞の胸を激しい痛みが貫いた。 自分が暴こうとしている真実は、この母娘から、何を奪うのだろう。父の死の意味を、国が救われたという奇跡を、そして、明日を生きるための、か細い希望の光を。

廃屋に戻ると、陸秀英が静かに言った。 「見ましたか。あれが、今のこの国の貌(かお)です」

彼は、景眞の葛藤を見抜いていた。 「時として、美しい物語は、死者のための真実よりも、生者のために必要なものなのです」

景眞は、何も答えられなかった。彼が追い求める真実は、あまりにも重く、そしてあまりにも多くの人々を傷つける刃(やいば)であるのかもしれない。その思いが、鉛のように彼の心を蝕み始めていた。

第九章:敵の涙

追手は、執拗だった。 梶原景時(かじわら かげとき)の配下は、鼠一匹這い出る隙間もないほどに、博多の町に網を張っていた。景眞と陸秀英が隠れ家を移そうと動き出した矢先、ついに彼らは包囲された。場所は、戦死者を弔うために設けられた、無数の粗末な墓標が並ぶ仮の墓所だった。

部下に周囲を固めさせ、梶原景時が一人、ゆっくりと景眞の前に進み出た。その氷のような瞳は、景眞を射抜き、その背後にいる陸秀英を値踏みするように見た。 「見つけたぞ、国の安寧を乱す者よ。その異国人を渡し、潔く縄にかかれ」

「断る。俺は、ただ真実を知りたいだけだ」 「真実だと?」梶原は、吐き捨てるように言った。「貴様が追い求める真実が、この国に何をもたらす? いたずらに人心を惑わし、幕府への不信を煽るだけではないか。我らに必要なのは、民を一つにする『神風』という名の秩序だ。それ以外の物語は、全て不要なのだ」

「死んだ者たちも、そう思っているか!」 景眞が叫ぶ。その言葉に、梶原の表情が初めて歪んだ。彼は、ゆっくりと辺りの墓標を見回した。そこには、戦で散った名もなき兵士たちの名が、墨で書きつけられている。

「私の息子も、ここで眠っている」 その声は、絞り出すようで、微かに震えていた。 「あの子も、貴様の親友とやらと同じ、この砂浜で死んだ。死ぬ間際まで、神仏の加護を信じていた、愚かなほどに真っ直ぐな男だった」

その顔には、もはや幕府の監察官としての冷徹さはなく、ただ息子を失った父親の憔悴(しょうすい)だけが刻まれていた。「息子の死は、神国日本を守るための尊い犠牲だったのだ! 私は、そう信じなければ、明日を生きることさえできぬ! それを…貴様は、それを、敵の内輪揉めによる偶然の勝利だったと貶めるのか! 父の祈りを、息子の死を、無意味なものに変えるというのか!」

梶原の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。 景眞は、言葉を失った。目の前にいるのは、幕府の冷徹な走狗(そうく)ではなかった。自分と同じ痛みを、自分とは全く別の形で抱きしめ、その悲しみ故に「物語」の番人となった、一人の男だった。

憎むべき敵。そのはずの男の涙が、景眞自身の心の最も深い場所を、鋭く抉った。

第十章:語られる真相

梶原景時(かじわら かげとき)は、去った。 部下たちに囲まれ、一度も振り返ることなく、彼は墓所から立ち去った。憎しみでも、憐れみでもない、空虚な何かが二人の間に残された。その夜、景眞(かげまさ)と陸秀英(りく しゅうえい)は、誰も住まわなくなった浜辺の漁師小屋に身を潜めていた。

戸の隙間から、月明かりに照らされた静かな海が見える。その海を見つめながら、陸秀英は、静かにあの夜の真実を語り始めた。 「我々の船団は、浮かぶ地獄でした」

その声は、遠い昔を懐かしむようであり、昨日のことのように生々しくもあった。 「高麗で急造された船は、この玄界灘の荒波に耐えられるものではなかった。船内には、兵と馬がぎゅう詰めにされ、汚物と吐瀉物の匂いが満ちていました。新鮮な水は日に日に減り、兵士たちの間では赤痢(せきり)が蔓延し始めたのです。彼らは日本の武士と戦う前に、病と渇きで死んでいきました」

陸秀英の言葉は、景眞が想像していた戦の姿を根底から覆した。 「モンゴル人の将帥たちは、そんな我々を家畜のように扱いました。だが、陳洪(ちん こう)将軍だけは違った。彼は元に滅ぼされた南宋の将でしたが、我々、漢人の兵にとっては、最後の光でした。彼は何度もモンゴルの司令官に進言しました。このままでは戦にならない、兵が尽きると。しかし、聞き入れられることはなかった」

陸秀英は、一度言葉を切り、月の光が差し込む床の一点を見つめた。 「そして、あの日、司令部から強行策が下されました。消耗しきった兵を博多へ総上陸させ、玉砕覚悟で太宰府を衝け、と。それは命令ではなく、我々、非モンゴル系の兵士たちへの死刑宣告でした」

その夜、陳洪は決断したのだという。 彼は、同じ思いを抱いていた漢人や高麗人の将校たちを密かに集めた。計画は単純にして、あまりにも大胆だった。モンゴルの司令官を拘束し、偽の撤退命令を出す。それは、元への反逆であり、発覚すれば一族郎党皆殺しとなる大罪だった。

「だが、計画はモンゴル人のある高官に気づかれた。名はバヤン。忠誠心の塊のような男でした。彼は陳将軍に詰め寄り、刀を抜いた。…そして、彼は殺されたのです。あなたが見つけた亡骸は、その男でしょう」 もはや、後戻りはできなかった。

陳洪は、その夜のうちにクーデターを決行した。司令船を制圧し、モンゴルの将帥たちを拘束。そして、全軍に向けて銅鑼と角笛で、「全軍撤退」の合図を送った。 「我々は、嵐からは逃げていない。我々は、無意味な死から逃げたのです」

陸秀英は、語り終えた。小屋の中には、潮騒の音だけが響いていた。 景眞は、ようやく全てを理解した。神風などではなかった。敵の内部で起きていたのは、支配に屈することに「降伏しなかった」者たちの、誇りを賭けた最後の戦いだったのだ。

あまりにも人間的な、そしてあまりにも悲しい、勝利の真相。その重い真実が、景眞の両肩にのしかかった。

第十一章:三つ巴の死闘

静寂は、唐突に破られた。 漁師小屋の戸が、轟音と共に蹴破られる。月明かりを背に、黒い影が三つ、音もなく室内に躍り込んだ。元の密偵だ。彼らの目は、捕らえるべき獲物として、陸秀英に一直線に向けられていた。

「逃げろ!」 景眞は叫びながら刀を抜き、陸秀英を背後にかばった。密偵の一人が、毒蛇のような速さで短刀を突き出してくる。景眞はそれを辛うじて受け流すが、二人目が背後に回り込もうとする。小屋の中は狭く、思うように太刀が振るえない。

密偵たちの動きに一切の無駄はなかった。彼らの目的は、ただ一つ。真相を知る者を、この場で抹殺すること。景眞の腕が、肩が、浅く切り裂かれ、じわりと血が滲む。多勢に無勢、追い詰められるのは時間の問題だった。

その時。 「そこまでだ!」 小屋の外から、鋭い声が響いた。梶原景時が、松明を掲げた部下たちと共に、小屋を完全に包囲していた。

一瞬、三者の動きが止まる。元の密偵たちは、新たな敵の出現に戸惑い、梶原は、小屋の中の異様な光景に目を見張った。 だが、その均衡はすぐに破れた。

「者ども、かかれ! 異賊も、国賊も、一人残らず始末いたせ!」 梶原の非情な号令が飛ぶ。彼の部下たちが、一斉に小屋へとなだれ込んできた。元の密偵たちも、生き残るために狂ったように刃を振るい始める。

そこは、地獄の縮図だった。 元の密偵は、幕府の兵を斬る。幕府の兵は、元の密偵を斬る。そして、両者の刃は、その中心にいる景眞と陸秀英にも向けられた。

景眞の頭の中から、全ての雑念が消え去った。守るべきものは、ただ一つ。背後にいる、このか弱き文官の命。彼こそが、友の死に意味を与え、陳洪という将の名誉を証明する、唯一の「真実」そのものだった。

鬼神が乗り移ったかのように、景眞の太刀が舞った。幕府の兵の槍を弾き、元の密偵の短刀を叩き折る。彼はもはや、日本の武士でも、誰かの家臣でもなかった。ただ、守るべきもののために戦う、一人の男だった。

血飛沫が舞い、断末魔の叫びが上がる。やがて、小屋の中の動きが止まった時、立っているのは景眞ただ一人だった。元の密偵たちは絶命し、梶原の部下たちは深手を負って倒れている。

小屋の入り口で、梶原景時が、信じられないものを見るような目で景眞を見つめていた。その手から、刀が力なく滑り落ちる。彼の信じた秩序も、正義も、目の前の男の、ただ一点を守り抜こうとする凄まじい執念の前に、砕け散っていた。

血と汗にまみれた景眞は、刀の切っ先を地面に突き立て、荒い息をついた。背後で、陸秀英が息を呑む音が、やけに大きく聞こえた。

終章:降伏なき者たち

夜が明けようとしていた。 漁師小屋の中は、鉄と血の匂いで満ちている。久我景眞(くが かげまさ)は、自らの腕から流れる血も拭わず、ただ呆然と死闘の跡を見つめていた。傍らでは、陸秀英(りく しゅうえい)が息を殺し、小屋の入り口では、梶原景時(かじわら かげとき)が力なく座り込んでいる。彼の信じた秩序は、景眞の狂気じみた執念の前に、意味をなさず崩れ去った。

やがて、陸秀英が静かに立ち上がった。彼は、懐から油紙に包まれた一巻の書状を取り出す。それは、元の密偵が血眼になって探し、梶原がその存在を恐れた「真実」の物証。クーデターの首謀者、陳洪(ちん こう)が記した計画の全てだった。

「景眞殿」 陸秀英は、その書状を景眞に差し出した。 「これが、あなたが求めた答えです。亡き将軍の名誉は、あなたのその手に託します」

景眞は、震える手でそれを受け取った。これが、友の死の謎を解く鍵。これを掲げれば、自らの正義は証明される。神風という偽りの物語を覆し、歴史に真実を刻むことができる。

だが、彼の脳裏に、いくつもの顔が浮かんでは消えた。 神に見捨てられたと叫んで死んだ、親友の顔。 父は神風を呼んだ英雄だと、幼い瞳を輝かせていた少女の顔。 そして、息子の死の意味を守るため、鬼になるしかなかった、目の前の敵の、涙に濡れた顔。

この真実を明らかにすることは、彼らの心を、彼らがすがる最後の光を、奪い去ることではないのか。それは、正義の名を借りた、ただの自己満足ではないのか。

景眞は、ゆっくりと立ち上がった。そして、小屋の隅で燃え残っていた熾火(おきび)へと、静かに歩み寄る。 「何を…」と息を呑む陸秀英の目の前で、景眞は、その書状を火の中に投じた。

油紙は、一瞬で炎を上げ、陳洪の苦悩も、元の艦隊の地獄も、そして景眞が追い求めた真実も、全てを黒い灰へと変えていった。 「なぜ…」 「俺は、真実を暴くという己の渇望に、降伏しないと決めた」

景眞は、静かに言った。 「この国の人々には、まだこの真実は重すぎる。今は、生きて前に進むための、美しい物語が必要なのだ」

彼は、友の死に意味を与えることを諦めた。その代わり、友が愛したこの国の人々が、希望を失わずに生きる道を選んだ。

梶原景時が、顔を上げた。その目には、もはや憎しみはなかった。ただ、己の理解を遥かに超えた決断を下した男への、畏怖にも似た感情が浮かんでいた。

太陽が、博多の海から昇り始める。朝の光が、血に濡れた小屋を、そして三人の男たちを、分け隔てなく照らしていた。

エピローグ:代償

七年の歳月が流れた。弘安四年(一二八一年)、夏。 久我景眞は、完成した長大な石塁の上に立ち、眼下に広がる海を見ていた。あの日と同じ博多湾。だが、その貌(かお)は、全く違っていた。

水平線の彼方までを埋め尽くす、おびただしい数の船団。クビライは、諦めていなかった。国力を賭した、第二回遠征軍。その数は、七年前の比ではない。

周囲の若い武士たちは、しかし、誰一人として怯えてはいなかった。 「七年前と同じことよ。どうせまた、神風が奴らを吹き払ってくれるわ」

彼らは、そう言って笑い合っている。神風の物語は、この七年で、疑う者など一人もいない神話となっていた。それは人々を団結させ、この巨大な石塁を築き上げる力となった。だが同時に、敵を侮るという、危険な驕りも生んでいた。

景眞は、自らが守った「物語」がもたらした光と影を、その全身で感じていた。これが、あの日の選択の代償だった。

その頃、都から遠く離れた山寺で、一人の僧が静かに経を写していた。名を、了然(りょうぜん)という。かつて、陸秀英と呼ばれた男だった。窓の外では、鳥が穏やかにさえずっている。

石塁の上で、景眞はゆっくりと刀を抜いた。切っ先が、夏の陽光を弾いてきらめく。 彼はもう、若き日のように、一つの分かりやすい真実を求めたりはしない。ただ、守ると決めた者たちのために、この不条理で、矛盾に満ちた、それでも愛おしい国のために、戦うだけだ。

誰にも知られることのない真実を、ただ一人、胸の奥深くに秘めながら。 降伏なき者として。

景眞は、日本史上最大の国難へと、静かに歩みを進めた。

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