あらすじ
1980年代の東京、音楽シーンが熱狂する中、元ギタリストの雑誌編集者・木村は、昏睡状態に陥った天才シンガーソングライター・奈々子の病室に通い続けていた。彼女の傍らに残されたカセットプレイヤーには、微かな「特徴的なビート」が録音されており、警察は単なるノイズと判断。しかし、木村はその音に違和感を覚える。奈々子に秘かに想いを寄せる木村は、彼女の「無垢」な才能を巡り、須藤、藤井、野村といった男たちの思惑が交錯していたことを知る。やがて、その「ビート」が事件の真相を解き明かす鍵だと直感した木村は、過去の記憶と鋭い感性を頼りに、閉ざされた真実へと迫っていく。
登場人物紹介
- 木村(きむら): かつてロックバンドのリードギタリストとして活躍した雑誌編集者。奈々子の才能を深く理解し、静かに彼女に想いを寄せている。鋭い聴覚と洞察力を持つ。
- 奈々子(ななこ): 天性の才能を持つシンガーソングライター。その「無垢」な歌声と詩は、関わる者全てを魅了する。事件に巻き込まれ、意識不明の重体となる。
- 須藤 春樹(すどう はるき): デビューを控えたカリスマ的アーティスト。奈々子の音楽的才能を高く評価し、自身のミューズとして独占しようとする。
- 藤井 卓也(ふじい たくや): 大手芸能事務所の若手社長。奈々子の才能を商業的な成功のための「商品」と見なし、冷徹な手腕で彼女に接近する。
- 野村 篤志(のむら あつし): ライブハウスの裏方。かつて音楽業界で夢破れた経験があり、奈々子の「無垢」な音楽が汚されることを誰よりも恐れ、過剰なまでに彼女を守ろうとする。
第一章:過去への序曲
東京の空は、分厚い梅雨雲に覆われていた。鉛色の空が、まるで蓋のように街全体を押し潰し、湿度を含んだ重い空気が、アスファルトの熱気と混じり合い、じっとりと肌にまとわりつく。冷房の効いたオフィスの中にいても、どこか息苦しさがつきまとう。木村は、デスクに広げた音楽雑誌の企画書には目もくれず、手元のスマートフォンを握りしめていた。画面には、ついさっきかかってきた電話の履歴が残る。見慣れない番号。しかし、その声の主が告げた事実は、木村の心に深い静寂と、それに続く嵐のような波紋を広げた。
「あの、佐伯(さえき)先生がお亡くなりになりました」
佐伯。音楽評論家の佐伯。木村が若き日に多大な影響を受け、その後の人生の道標ともなった存在。かつて、彼の著作にどれほど心を揺さぶられたか。彼の言葉一つ一つが、木村の中に眠っていた音楽への情熱に火をつけ、この道へと導いたのだ。その佐伯が、もうこの世にいない。受話器を下ろした瞬間、オフィスの喧騒が遠のき、まるで時間が止まったかのように感じられた。耳の奥で、遠い昔のロックンロールの16ビートが、幽かに、しかし確かに鳴り響く。それは、木村自身が、そして佐伯が、奈々子が、そしてあの男が、最も純粋に輝いていた時代の音だった。
木村は今、音楽雑誌の編集者として、デスクワークに追われる日々を送っている。表紙を飾る派手なポップスターの記事や、チャートを賑わすヒット曲の分析。かつての熱狂から一歩引いた、冷静な視点で音楽と向き合う日々だ。だが、彼の内には、紛れもなく、かつてステージの熱気を知る元ギタリストとしての魂が、静かに息づいている。使い込まれた指先は、今でもギターのネックを握る感覚を覚えているし、鋭敏な感性は衰えることなく、音のわずかな揺らぎにも耳を傾ける癖は、この二十年間でむしろ研ぎ澄まされてきたように思う。
「木村さん、次の締め切り、大丈夫ですか?」
後輩の明るい声が、途切れた思考を現実へと引き戻す。 「ああ、大丈夫だ。少し考え事をしていただけだ」 木村は曖昧に答え、椅子を軋ませて立ち上がり、オフィスの片隅にある個人用の書棚へと向かった。整然と並んだ音楽理論書やバンドスコアの中に、彼は目的の一冊を見つけた。
書棚の奥、埃をかぶった一角に、彼は一冊の古びた本を見つけた。背表紙には、褪せた金文字で『The Circle of Innocence』と記されている。触れると、ざらりとした紙の感触が指先に伝わってきた。それは、佐伯が、あるカリスマ的アーティストの人物像と音楽性を深く掘り下げた著作だった。当時、賛否両論を巻き起こした論考だったが、木村にとっては人生のバイブルであり、迷いが生じるたびに開いた羅針盤のような存在だった。
本のページを開くと、独特のインクの匂いがした。何十年も前の空気が、その間に閉じ込められていたかのようだ。ページをめくるたびに、鮮明な記憶が蘇る。アルバム『The Circle』のコンセプトであり、この本のタイトルにもなっている「無垢の円環(The Circle of Innocence)」――。それは、人間が年齢を重ねることで失われたかに見えた**“無垢”が、人生の重要な局面で再び現れるという、深遠な哲学を提示していた。十代の木村にとって、それは単なる知的な好奇心を満たすエンターテイメントではなかった。まるで、未来の自分を暗示するかのようなその思想は、彼の価値観を形成する上で最も重要な指針**となったのだ。そして今、音楽業界の裏側から冷静にその光と影を見つめる立場になった木村には、佐伯が、そしてあのアーティストが語った「無垢の円環」の意味が、あの頃よりも深く、そして痛みを伴って理解できる気がした。
ふと、デスクの片隅に置かれたレコードプレーヤーに目が留まる。須藤春樹のデビューアルバム、『The Circle』。木村が最も愛聴した一枚だ。ジャケットには、若き日の須藤が、遠くを見つめるような憂いを帯びた表情で写っている。彼の傍らには、まだ見ぬ奈々子の面影があるかのようだ。木村は、指先で埃を払うと、針をそっと溝に落とした。
「ザー……」
カッティングされたばかりのノイズが、スピーカーから響き渡る。まるで、長い沈黙の後に、世界の呼吸が始まるかのようだ。やがて、そのノイズは壮大なメロディと、胸の奥底に響くような重厚な16ビートとが混じり合った。その音色は、木村を1980年、彼のデビュー前夜の記憶へと引き戻していった。熱気と喧騒、焦燥と希望、そして、誰もが純粋な音楽の輝きを追い求めていた、あの時代へ。
記憶のフィルムが巻き戻されるように、情景が鮮やかに蘇る。 あの頃、僕たちはまだ、「無垢」の意味を知らなかった。 奈々子も、須藤も、藤井も、野村も。 そして、僕自身も。 僕たちは皆、それぞれの**「無垢」の衝動**に突き動かされていた。 その衝動が、やがて、あんな事件を引き起こすとは、夢にも思わなかったのだ。
第二章:熱狂と才能の交錯
1980年の東京は、まるで一つの巨大なライブ会場のように、常に音楽の熱気に包まれていた。路地裏の小さなライブハウスでは、毎晩のように新しいバンドが生まれ、既存の秩序を打ち破ろうと、ラウドなサウンドを掻き鳴らしていた。汗とタバコの煙が充満し、若者たちの熱気が天井まで届きそうなほどだった。ストリートではパンクロックが爆音で鳴り響き、カフェではフォークソングが静かに歌い継がれる。混沌と創造が混じり合う、そんな時代だった。誰もが、何かの「本物」を求めていた。
木村は、その熱狂の渦中にいた。デビューを目前に控えたカリスマ的アーティスト、須藤春樹のバックバンドでリードギターを弾いている。須藤の、16ビートに乗せた外国語のような歌詞と、斬新なサウンドは、音楽業界の未来を変える予感をはらみ、木村もまた、その「本物」を追求する純粋な情熱に強く共鳴していた。彼の右腕はギターと一体化し、指先は弦の上を滑るように舞う。誰にも真似できない鋭い耳は、わずかな音の揺らぎにも聞き逃さなかった。木村にとって、ギターを弾くことは、呼吸することと同じくらい自然で、そして不可欠な行為だった。
この熱狂の中心には、須藤の大学の同級生であり、その**「無垢」な創造性で周囲を魅了する奈々子**がいた。長い黒髪を揺らし、知的な眼差しを持つ彼女は、天性の才能を持つシンガーソングライターだった。透明感のある歌声は、空気を震わせ、心をえぐるような詩は、聴く者の感情の襞(ひだ)に触れる。そして、一度聴いたら忘れられないメロディ。奈々子の紡ぎ出す音と言葉は、まるで磁石のように、関わる男たちの様々な感情を揺さぶっていく。彼女自身は、まるで、汚れることを知らない純粋な泉のようだった。
木村:純粋な憧れと募る不安
木村は奈々子に密かに恋心を抱いていた。その感情は、言葉にするにはあまりにも純粋で、触れれば壊れてしまいそうなほど繊細なものだった。彼はいつも奈々子の一歩後ろから、その輝きを見守っていた。眩しすぎて、直視できない太陽のようだった。
スタジオでのデモテープ録音の休憩中、奈々子がふと口ずさんだメロディに、木村だけがその非凡な才能を見抜いた。須藤や他のメンバーが雑談に興じる中、木村だけが、奈々子の口から漏れたそのわずかな音の断片に、未来の可能性、無限の広がりを感じ取っていた。 「今のメロディ、すごくいい」 木村が声をかけると、奈々子は少し照れたように微笑んだ。「ただの鼻歌よ」と軽くあしらう。だが、その瞳の奥には、どこか寂しげな陰りが見える気がした。それは、彼女が抱える才能ゆえの孤独なのか、あるいは、周囲の男たちの歪んだ眼差しに気づいているからなのか。
休憩時間になると、奈々子はいつも隅のソファに座り、小さなノートに何かを書きつけていた。集中すると、周囲の音も聞こえなくなるかのように、彼女の世界に入り込んでいた。ある日、奈々子が飲み物を取りに席を立った隙に、机に無造作に置かれた彼女の手書きの詩が目に入った。真っ白なページに、鉛筆で綴られた文字。木村は、誰にも見つからないよう、そっとそのノートを手に取った。言葉一つ一つが持つ力に心を揺さぶられ、彼の胸に熱いものが込み上げてくる。詩は、光と影、希望と絶望、そして**「円環」**という言葉を巡る、奈々子自身の魂の叫びのようだった。彼はそっとノートを閉じ、奈々子の背中に視線を送った。そして、彼女が戻ってきた時、木村は意を決して、奈々子の才能への尊敬を告げた。
「奈々子さんの詩は、本当に素晴らしい。須藤の曲に新しい魂を吹き込むだろうな」 木村の言葉に、奈々子ははにかむように微笑んだ。「そんな、大袈裟よ」と、細い指先で髪をかき上げた。 木村は、一歩踏み込んで、自分の本当の気持ちを、遠回しではあったが、告白した。 「俺は、奈々子さんの音楽が、このまま純粋なままでいてほしいと願っている。この業界に、汚されてほしくない」 木村の言葉は、まるで告白のようだった。奈々子の純粋な音楽性こそが、商業主義に染まりゆく業界の中で守るべき**「無垢」だと、彼は信じていたのだ。須藤や藤井の奈々子へのアプローチを見るたび、木村は表立って口を出すことはできなかったが、内面では強い危機感を抱いていた。奈々子の純粋さが、この業界の濁流に飲み込まれてしまうのではないかという漠然とした不安**が、常に彼の心を締め付けていた。彼が奈々子を守れるとしたら、それは純粋な音楽性に対する理解と、彼女の詩への深い共感だけだった。その日以来、木村の奈々子への思いは、守護者のような色を帯びていった。
須藤春樹:支配欲と才能への歪んだ嫉妬
須藤春樹は、奈々子を自身の音楽的ミューズと捉えていた。彼は奈々子の才能を高く評価し、共に新たな音楽を創造しようと、常に奈々子を自身の傍に置きたがった。だが、その根底には、奈々子の才能を自身の「作品」の一部として取り込みたいという独占欲が深く渦巻いていた。奈々子の詩とメロディが、彼の持つ革新的な16ビートと融合することで、誰も成し得ない究極の音楽が生まれると信じていたのだ。
大学のカフェテリアでは、須藤と奈々子が互いの音楽論を熱く語り合う光景が日常だった。 「奈々子の詩は、僕の音楽に足りない最後のピースだ。君の言葉がなければ、僕のメロディはただの音の羅列でしかない」 須藤は、身を乗り出すようにして奈々子に語りかける。その瞳は、奈々子への尊敬と、彼女の才能を渇望する輝きで満ちていた。奈々子の瞳には、須藤に対する尊敬と、共に新たな音楽を創造することへの期待が輝いていた。 しかし、須藤の眼差しには、奈々子の才能を自身のものにしたいという独占欲が確かに垣間見えていた。スタジオで奈々子のアイデアをあたかも自分のもののように語る須藤の姿に、木村は気づいていたが、口を挟むことはできなかった。
ある日のレコーディング後、奈々子が疲れてソファに横たわっている時、須藤はそっと彼女の隣に腰を下ろした。柔らかな照明が二人の影を長く伸ばす。 「奈々子、君の才能は計り知れない。だが、この世界でそれを花開かせるには、僕が必要だ。君は僕の隣にいるべきだ。僕が君を、もっと大きな場所へ連れて行ってやる。僕と、共に、最強の16ビートを刻もう。僕たちの音楽は、誰も到達できない領域へ行ける。君の**『無垢』は、僕が守り、僕の『無垢』と一体となるんだ」 それは、まるで愛の告白のようでありながら、奈々子の独立性を奪う精神的な支配の試みだった。須藤の視線は、奈々子の瞳の奥、その才能の源泉を覗き込もうとしているかのように深く、そして執拗だった。奈々子が自分から離れていくことへの恐れや、他の誰かに才能を奪われることへの嫉妬が、須藤の行動を支配していた。奈々子の才能が、自分とは独立した存在として輝くことを、須藤は無意識に拒んでいたのだ。彼は奈々子の「無垢」を称賛しながらも、その「無垢」が自身の支配下にないことに対する苛立ちを隠しきれずにいた。彼の求める「最強の16ビート」**は、奈々子の才能を完全にコントロールすることでしか得られない、歪んだ幻想だった。
藤井卓也:商業的支配欲と冷徹な取引
大手芸能事務所の若手社長、藤井卓也は、奈々子の才能を「金になる商品」としてしか見ていなかった。彼の目的は、奈々子の才能を自社の支配下に置き、莫大な利益を生み出すことだった。音楽に対する情熱よりも、数字と成功に対する執着が、彼の原動力だった。
藤井は、ガラス張りの高層ビルにある豪華なオフィスに奈々子を呼び出した。広々とした社長室には、高価な調度品が並び、東京の街並みが一望できる。だが、奈々子の目には、その煌びやかな装飾が、ひどく冷たく、無機質なものに映った。 「奈々子さんの才能は、まさに原石だ。磨けば磨くほど、光り輝くだろう。僕がプロデュースすれば、きっと大金を生むだろう。想像以上のスターにしてあげよう」 藤井は、甘言を弄しながら、奈々子の目の前に、破格の契約書を差し出した。その言葉には、奈々子の音楽性への敬意など微塵も感じられない。ただ、彼女の才能を金銭的価値に変換しようとする、冷徹な計算が見え隠れしていた。
「もう少し、考えさせてください」 奈々子がそう言うと、藤井の表情は一変した。それまでの柔和な笑みは消え去り、獲物を狙う猛禽類のような冷たい眼差しが、奈々子を射抜く。まるで、ガラス張りの窓の外の景色のように、感情のない瞳だった。 「君のような才能は、大手のバックアップがなければすぐに埋もれてしまう。理解しているね? 君が今、このチャンスを逃せば、後悔することになるだろう。君の**『無垢』な音楽も、いずれ時代の波に飲まれて消える。私と組むことだけが、唯一、君の才能を永遠のものにする道だ。もちろん、どんな障害があっても、私が排除しよう」 彼の声には、紛れもない脅しめいた響きがあった。それは、表面上はビジネスの提案でありながら、奈々子の自由を奪う冷徹な「告白」**だった。
ライブハウスの楽屋でも、ライブ前の喧騒の中、藤井は奈々子に密かに接触していた。周囲の人間は、彼の顔の広さに感心するばかりで、その会話の内容にまでは耳を傾けていない。 「契約の件、どうですか? 君の返事を待っていますよ。君がこの道を進むなら、私はどんな障害も取り除こう。君の邪魔をする者など、いらない」 奈々子がはっきりと拒否すると、藤井はさらに言葉を重ねた。「君が僕の言うことを聞かないなら、君の才能は潰れるだけだ。この業界で生き残るのは甘くない」。藤井は奈々子の才能を支配することで、かつて失われた自身の「無垢」を取り戻そうとするかのような、歪んだ執着を抱いていた。奈々子の純粋な創造性が、彼の手に落ちることで、ようやく自身の存在意義を確立できるとでも考えているようだった。彼の言葉の端々には、奈々子の「才能」そのものへの執着と、それが自身の支配下にないことへの苛立ちが滲んでいた。
野村篤志:過激な保護欲と裏切られた夢
ライブハウスの裏方として働く野村篤志もまた、奈々子に特別な感情を抱いていた。彼はかつて純粋な音楽を追求しながらも、業界の商業主義に潰された自身の夢を、奈々子の姿に重ね合わせていたのだ。夢破れた男の、深い傷跡が、彼の言動の端々に見て取れた。
「奈々子さん、あの藤井って男には気をつけた方がいい。音楽業界なんて、表の顔だけじゃないんだ。裏では汚い金が動いてる。君の無垢な音楽が、奴らに汚されてたまるか」 野村は、奈々子に何度も忠告した。彼の言葉は奈々子への純粋な心配から来ていたが、その眼差しには、自分の果たせなかった夢を奈々子に託すかのような、過剰な期待と保護欲が入り混じっていた。
ある夜、ライブハウスの通路で、藤井が奈々子を強引に引き留めているのを目撃した際、野村は激しい怒りを露わにした。彼の顔は赤く染まり、目は血走っていた。 「おい、何してるんだ!」 野村の目に宿る光は、まるで獣のようだった。藤井に向かって一歩踏み出し、今にも掴みかかりそうな勢いだ。 「彼女に指一本でも触れてみろ。ただじゃおかないぞ。俺が奈々子さんを守る! この業界の汚れた連中から、奈々子さんを守ってみせる! 俺の夢は、もう叶わない。だが、奈々子さんの**『無垢』だけは、絶対に守ってみせる!」 野村は声を荒げ、それはまさに情熱的な「告白」にも聞こえた。藤井は嘲笑うように野村を一瞥したが、野村のその目は本気だった。彼は奈々子を守るためなら、どんな手段も辞さない覚悟を見せていた。奈々子の「無垢」な音楽が、かつての自分のように商業主義に踏みにじられることを恐れている。その恐怖から、奈々子を守るためなら、常軌を逸した行動も辞さないという危険な思想を抱いていたのだ。彼の心には、奈々子への純粋な憧れと、失われた自身の夢への未練**が複雑に絡み合っていた。
奈々子は、これら4人の男たちの様々な思惑と感情の渦に巻き込まれていった。まるで、純粋な蝶が、様々な色の糸に絡め取られていくかのようだった。彼女自身もまた、自分の才能をどう生かすべきか、誰を信じるべきか、激しい葛藤を抱えていた。その**「無垢」な創造性**が、愛憎、野心、嫉妬、そして歪んだ保護欲に満ちた人間関係の中で、いかに試されていくのか。誰もがその行方を見守っていた。
それぞれの男の、奈々子に対する**歪んだ「愛」**が、やがて来る悲劇の序章となることを、この時の彼らはまだ知る由もなかった。
第三章:消えたビートの残響
事件は、須藤のデビューライブから数日後の、蒸し暑い夏の夜に起こった。ライブの成功で、須藤は一躍、次世代のスター候補として注目を集め始めていた。新聞や雑誌は彼の特集記事で溢れ、レコード店には連日、彼の音楽を求めるファンが押し寄せた。そんな喧騒から少し離れた場所で、奈々子は自分の音楽と向き合っていた。彼女が個人練習のために借りていたのは、都心から少し外れた、普段は人気のない貸しスタジオだった。古い雑居ビルの地下に位置するそのスタジオは、防音設備も完璧とは言えず、隣の部屋のドラムの音が微かに響いてくる。多くのバンドやアーティストが入れ替わり立ち替わり利用する、誰もがアクセスできる場所だ。夕暮れが迫り、スタジオ内はどこか薄暗く、空調の効きも悪く、じっとりとした湿気がこもっていた。
その日、奈々子は一日中、スタジオの個室に籠もり、新しい曲のアイデアを練っていた。集中すると、周囲の音も聞こえなくなるかのように、彼女の世界に入り込んでいく。テーブルの上には、書きかけの詩と、愛用のカセットプレイヤーが置かれている。指先で古いキーボードの鍵盤をなぞり、新しいメロディを紡ぎ出す。練習を終え、バッグに楽譜やコード譜をしまい、ヘッドホンを外した時、背後に人の気配を感じた。
「奈々子さん、まだいたんですか?」
聞き慣れた、しかしどこか冷たい声が、奈々子の耳に届いた。奈々子は、訝しげに振り返ろうとした。だが、その声の主の顔を見る間もなく、後方から頭部を強打された。鋭い痛みが脳を貫き、視界が白く霞む。衝撃で体がぐらりと揺れ、床に膝をつく。彼女の指から、鉛筆が滑り落ち、書きかけの詩が床に散らばった。意識が遠のく中、彼女の耳には、これまで聞いたことのない、しかしどこか耳に残る奇妙な「ビート」が微かに響いていた。それは、まるで誰かの心臓が速く脈打つような、不規則で焦燥的なリズム。そして、その不規則さの中に、奇妙なほど耳慣れた、特定のアクセントを持つ16ビートが混じっているような気がした。奈々子の体は床に崩れ落ち、意識は闇へと沈んでいった。
貸しスタジオのオーナーが、奈々子が倒れているのを発見したのは、それから間もなくのことだ。スタジオの入り口は解放されており、施錠された個室ではなかった。ちょうど利用者が入れ替わる時間帯で、犯行を目撃した者はいない。奈々子はすぐに病院に搬送されたが、頭部の負傷は重く、意識不明の重体が続いた。
現場検証が行われ、床に散らばった奈々子がいつも持ち歩いていた手書きの詩が回収された。紙の端には、血の滲みが広がっていた。その傍らには、彼女のカセットプレイヤーが倒れていた。警察が回収したプレイヤーのテープを再生すると、奈々子のうめき声と、その直前に録音された**微かな「特徴的なビート」**が記録されていた。それは、周囲の喧騒に紛れてしまうほどの小さな音だったが、確実に存在していた。警察は、貸しスタジオの利用者や関係者を中心に捜査を進めるが、誰がいつ休憩スペースにいたか特定しきれず、決定的な証拠も見つからない。奈々子の詩の内容も、事件の動機に繋がるような直接的な記述はない。事件は、手がかりが少ないまま、迷宮入りとなった。新聞の見出しには、「天才シンガーソングライター襲撃事件、捜査難航」という文字が踊った。
木村は、奈々子の病室に通いながら、憔悴した表情で彼女を見つめていた。白いシーツに横たわる奈々子は、まるで眠っているかのように静かだった。規則的に上下する胸元だけが、彼女がまだ生きていることを示していた。医師からは、意識が戻る保証はないと告げられ、木村の心は鉛のように重くなった。奈々子の純粋な魂が、このまま闇の中に閉ざされてしまうのか。許せない。だが、彼には、どうしても解き明かしたい謎があった。奈々子への強い強い想いと、ミュージシャンとしての類まれな鋭い聴覚が、彼を突き動かしていた。
警察の捜査が行き詰まる中、木村は独自に動き始めた。彼は、事件のカセットプレイヤーに秘められた真実に迫っていく。警察官たちが「ただのノイズ」と切り捨てたプレイヤーの**微かな「特徴的なビート」**に、木村は強い違和感を覚えた。その音は、周囲の喧騒の中では聴き取れないほど小さく、通常の楽器の音や環境音とは明らかに異質だった。彼は、自宅の小さな部屋にカセットプレイヤーを持ち帰り、何度も何度も繰り返し再生した。ヘッドホンを耳に押し付け、目を閉じ、神経を集中する。夜が明けるまで、その音を分析し続けた。
「これは…」
木村の脳裏に、ある可能性が閃いた。それは、一般的なメトロノームやリズムマシンが発する規則的なものではない。まるで誰かの心臓が速く脈打つような、不規則で焦燥的なリズム。しかし、その不規則さの中に、彼はある確かな規則性を見出した。それは、ロックンロールの真髄ともいえる、特定のアクセントを持った16ビートだった。彼が、バンドで幾度となく練習し、肌で感じてきたリズム。それは、ある種の即興的な演奏練習、あるいは特定の機材から漏れる独特な同期信号から生じる音であり、普段、音楽スタジオで自然に鳴る音ではないはずだ。この**「音の指紋」**が、犯人を特定する鍵になると直感した木村は、その音の起源を突き止めることに全力を注ぎ始めた。
奈々子が事件現場で手から落とした手書きの詩もまた、木村の心を捉えて離さなかった。それは、彼女が「イノセンスの円環」というコンセプトに触発されて書いた、ある曲の歌詞だった。血の滲んだ詩は、奈々子の苦痛と、それでも表現しようとした魂の叫びを物語っていた。
「終わりのない旅路の果てに、見えない糸で繋がれた魂が、再び巡り会う……」
詩には、そんなフレーズが散りばめられている。木村は、この詩が、奈々子が自身の音楽活動と、周囲の男たちとの関係性の狭間で感じていた、才能の純粋な追求と、外部からの影響への葛藤を暗示しているように思えた。彼女は、何に抗おうとしていたのか。誰の「糸」から逃れようとしていたのか。
木村は、この詩の内容とカセットプレイヤーの「特徴的な16ビート」が結びつくことに気づく。奈々子を襲った犯人は、彼女の才能、特にその「詩」を奪うことが目的だったのではないか。犯人は、奈々子が詩を書いている最中を狙い、その詩を奪おうとした際に抵抗を受け、揉み合いの中で奈々子を負傷させてしまったのだ。その際、犯人が焦燥感から、あるいは無意識のうちに自身のポケットに入れていた小型の電子リズムデバイスのスイッチを入れてしまい、その微かな16ビートがカセットプレイヤーに偶然記録されてしまったのではないか、と。
この**「特徴的な16ビート」は、犯人が自身の作曲や演奏のアイデアを練るために日常的に携帯していたものであることを強く示唆する。奈々子の詩は、犯人にとって、自らの失われた「無垢」を映し出す鏡であり、同時に、その才能が新たな光となることへの嫉妬の対象**でもあったのだ。犯人は、奈々子の純粋な創作物が、自分のものとして世に出るべきだと、歪んだ信念を抱いていたのかもしれない。
木村は、自身のギタリストとしての感性、純粋な音楽への情熱、そしてリズムに対する鋭い感覚を原動力に、カセットプレイヤーに残された微細な**「特徴的な16ビート」の性質**から、その音源(特定の電子リズムデバイス)を特定し、犯行時の状況と犯人の心理を深く読み解いていった。彼は、須藤、藤井、野村、そして自分自身のアリバイを再確認し、それぞれの奈々子に対する感情の裏に潜む動機を探った。
藤井は、奈々子の商業的な価値に執着していた。奈々子の詩が持つカリスマ性が、彼にとっての「商品価値」そのものだったのかもしれない。もし、奈々子が契約を拒み、彼の計画が頓挫する危機に瀕したとしたら……。木村は、藤井が普段から持ち歩いているアタッシュケースの中には、きっと最新のビジネスツールや録音機材が入っているだろうと想像した。その中に、音楽的なリズムを刻むデバイスがあったとしても不思議ではない。彼の持つ、デジタルな拍子を刻むデバイスは、まさにあの乾いた16ビートを再現できるものだった。
野村は、奈々子を守ろうとするあまり、過激な行動に出る可能性も否定できない。彼の失われた夢と、奈々子への投影が、彼を狂気へと駆り立てたのだろうか。野村が普段から使う道具の中には、スタジオの音響調整で使う小型の試験機材がある。もしかしたら、その機材に何らかの16ビートを発する機能があったのかもしれない。木村は野村のアパートの古びた楽器たちを思い浮かべ、彼の焦燥と葛藤が、あのビートに繋がった可能性も捨てきれなかった。彼の自作リズムマシンは、故障しているが故に、不規則な揺らぎを持つ16ビートを刻むことがあった。
そして、須藤。奈々子の才能を自身のミューズとして独占しようとした彼の歪んだ支配欲が、事件を引き起こした可能性は最も高い。須藤は常に新しい音、新しいリズムを追求していた。彼のスタジオには、未発表の様々な電子リズムデバイスが転がっていたはずだ。その中に、あの**「特徴的な16ビート」**を刻むものが、隠されているのかもしれない。木村は、須藤の、奈々子の「無垢」への賞賛と、それに対する激しい嫉妬という二律背反の感情を思い出した。
木村は、貸しスタジオの受付で、事件当日、あるいはその前後にスタジオを利用したバンドやアーティストのリストを借り受けた。その膨大なリストの中から、須藤が個人的に借りていた時間帯、藤井が出入りしていた時間帯、そして野村が裏方として滞在していた時間帯を洗い出す。誰もが奈々子と接触し、事件を起こす物理的な機会はあった。容疑は絞られたが、決定打はまだない。
何度も何度もビートを聴き込むうちに、木村の頭の中で、そのビートと、ある人物の行動が一致する感覚が芽生え始めた。その人物は、常に完璧なリズムを求め、新しいサウンドに貪欲だった。そして、誰よりも奈々子の才能を高く評価し、同時に、誰よりもその才能を自身の支配下に置きたがっていた。それは、須藤春樹しかいない。
ある日、木村は須藤の練習風景を遠くから観察していた。須藤は、新しい曲のアイデアを練る時、いつもポケットから小さなデバイスを取り出し、指先で器用に操作していた。そのデバイスから漏れる、微かな、しかし独特な16ビートが、奈々子のカセットプレイヤーから聞こえた音と酷似していることに、木村は気づいた。心臓が大きく脈打つ。それは、須藤が自身の作曲に取り入れるために開発した、まだ市場には出回っていない特殊な電子リズムマシンだった。そのマシンの出す16ビートは、彼が創り出す楽曲の**「基盤」であり、彼の「音楽的魂」**そのものだった。そして、その魂は、奈々子の「無垢」な才能を吸収しようと、歪んだ形で飢えていたのだ。
木村は、須藤の行動を注意深く追った。須藤が奈々子の詩に異常なほど執着していたこと、彼女の才能を自分のものにしようと躍起になっていたこと。そして、あの日の貸しスタジオに、須藤が奈々子の練習時間に訪れていたことを、複数の証言から確認した。須藤は、奈々子の才能を心から尊敬していたが、それ以上に、彼女の「無垢」な創造性が、自身の支配を離れて輝くことを恐れていたのだ。彼の心の中の嫉妬と焦燥が、あの**「16ビート」**となって、奈々子のカセットプレイヤーに残されていたのだ。木村の疑念は確信へと変わった。
第四章:真実と対峙、そして円環の継承
雨上がりの午後、重苦しい空気が街を覆っていた。遠くで雷鳴が轟き、今にも大粒の雨が降り出しそうだ。木村は須藤の自宅兼スタジオのドアを叩いた。緊張で、乾いた喉の奥がヒリヒリと痛む。
「木村? どうしたんだ、こんなところで。何か用か?」 ドアを開けた須藤は、木村の突然の訪問に驚きを隠せない様子だった。その声は、不自然なほどに平静を装っていたが、彼の瞳の奥に、わずかな動揺が揺れていたのを木村は見逃さなかった。 「須藤、単刀直入に聞く。奈々子を襲ったのは、君なのか?」 木村の言葉が、稲妻のように空間を切り裂いた。須藤の顔から血の気が引くのが、木村にははっきりと見て取れた。彼の表情は、一瞬で凍り付いたかのように硬直した。
須藤は最初は否定し、しどろもどろになった。彼は後ずさり、部屋の奥へと誘う。 「何を言っているんだ? 僕が奈々子を? まさか。君も知っているだろう、僕は奈々子の才能を誰よりも評価していた!」 彼の声は震え、瞳は泳いでいる。焦点が定まらない。 「僕にはアリバイがある。あの時間は、別のスタジオで作業を……」 「そのアリバイは崩れた。君が貸しスタジオにいた目撃情報がある。それに、君が現場に残した決定的な証拠がある」 木村は、須藤の目の前に、奈々子のカセットプレイヤーと、そこから抽出した**「特徴的な16ビート」の録音データを突きつけた。彼は、携帯していた小型のラジカセから、その微かなビートを再生した。スタジオの静寂の中に、不規則ながらも確かに存在する16ビート**が響き渡る。
「これは、君がいつも作曲に使っている、あの特殊なリズムマシンの音だ。君が独自に開発した、市場には出回っていない、君だけの16ビートだ」 木村の言葉に、須藤の顔はみるみるうちに蒼白になり、やがて苦痛に歪んだ。彼の表情から、すべての虚勢が剥がれ落ちていく。須藤は、絶望したように、その場に崩れ落ちるように座り込んだ。まるで、彼の内側にあった何かが、一気に崩壊したかのようだった。
「……そうだ。僕だ。僕が奈々子を襲った。奈々子の才能は、僕のものでなければならなかったんだ!」 須藤は、しゃくり上げるように、自身のアーティストとしての苦悩や、奈々子の才能への歪んだ執着を吐露し始めた。彼の言葉は、まるで壊れたレコードのように、同じフレーズを繰り返した。 「彼女の詩は、僕の音楽にこそ必要なものだったんだ! 彼女は僕のミューズだった! 僕が、彼女の才能を世界に知らしめてやるつもりだった……なのに、彼女は僕から離れていこうとしていた……僕から、僕だけのものから……!」 須藤の目には、狂気にも似た光が宿っていた。彼の心の中には、奈々子への愛情と、彼女の才能を独占したいという歪んだ支配欲が、複雑に絡み合っていたのだ。奈々子が自身の創造性を自由に表現しようとすればするほど、須藤の心には焦燥が募り、ついにその支配欲が暴走した結果が、あの事件だったのだ。彼は奈々子の詩を奪い、自分のものにしようとした。その焦燥感と、彼自身の内なるビートの乱れが、彼がポケットに入れていたリズムデバイスのスイッチを無意識に押し、その音がカセットプレイヤーに静かに、そして皮肉にも記録されていたのだ。彼が追い求めていた完璧な16ビートは、奈々子の「無垢」な才能を自身の檻に閉じ込めるための手段へと変貌していた。
「君の愛は、いつの間にか奈々子を縛り、彼女の**『無垢』を汚そうとしていたんだ」 木村は静かに、しかし断固とした声で須藤に語りかけた。その声には、奈々子への、そして音楽への、揺るぎない愛情が込められていた。 「それはもはや、純粋な音楽への情熱ではない。それは、ただのエゴイズムだ。君が本当に追い求めるべきは、奈々子を支配することじゃない。彼女の音楽から、新たな『無垢の円環』を見出すことだったはずだ。君自身の16ビート**を、独りよがりに歪めることではなかったんだ」 須藤は床に崩れ落ち、嗚咽を漏らした。彼の夢見た「無垢の円環」は、彼自身の歪んだ欲望によって、無残にも打ち砕かれていた。
事件は解決した。須藤は逮捕され、彼の歪んだ愛と嫉妬の真相が世に知らされた。奈々子は、長い昏睡状態から奇跡的に目を覚ました。意識を取り戻した彼女は、すぐに筆を執り、新しい詩を書き始めた。それは、事件の傷跡を感じさせない、しかし以前よりも深く、成熟した**「無垢」**に満ちた言葉たちだった。奈々子は、あの恐ろしい経験を通じて、自身の「無垢」が、決して誰にも奪われることのないものであることを知ったのだ。彼女の心には、誰の支配も受けない、彼女自身の確固たる16ビートが、力強く刻まれていた。
エピローグ:円環の継承
現在。
東京の空は、依然として梅雨雲に覆われている。だが、あの頃のような重苦しさはなく、どこか澄んだ空気が満ちていた。アスファルトの匂いも、どこか懐かしい。木村は、オフィスで静かにレコードプレーヤーの針を上げた。カッティングされた溝のノイズだけが、遠い過去の残響のように響く。あの日の事件は、若き日の彼の心に深い傷跡を残したが、同時に、彼が**「イノセンスの円環」という哲学を身をもって経験し、その後の人生を歩む上で大きな意味を持った**。
佐伯評論家が、かつて木村に語った言葉が蘇る。まるで、昨日のことのように鮮明だ。 「音楽は、常に真実を映し出す鏡だ。そして、君自身の内なる声を見つけ、本質を問い続け、その情熱を他者と共有することで、人生は豊かに生きられる」 あの言葉が、若き日の彼の行動の中にも、そしてその後の、音楽業界に身を置きながらも、より広い視点で人生の真実を探求し続けた彼の生き方にも、確かに息づいていることを確信する。
木村は、デスクに置かれた新しいカセットプレイヤーに目をやった。最新のデジタル機器にはない、温かみのあるアナログの感触。その傍らには、奈々子が最近発表した、新しい詩集が置かれている。装丁はシンプルだが、手触りの良い紙が使われている。彼女の詩は、以前にも増して深みを増し、多くの人々の心を揺さぶっている。奈々子は、あの事件を乗り越え、真の**「無垢」**を手に入れたのだ。彼女の紡ぐ言葉には、もはや誰の支配も受けない、彼女自身の確固たる16ビートが刻まれている。そのビートは、力強く、そして限りなく優しい。
須藤は、事件後、音楽業界から姿を消した。彼の消息は定かではないが、木村は時折、彼のことを考える。どこかで彼が、真の「無垢」の意味を見つけ出すことを、木村は願っていた。藤井は、奈々子のような純粋な才能ではなく、商業的な成功を追求し続け、業界での地位を確立した。彼のオフィスは、以前にも増して煌びやかになっているだろう。野村は、相変わらずライブハウスの裏方として、ひたむきに音楽を支えている。彼もまた、奈々子の新しい詩集を読み、自身の**「無垢」の衝動**を再確認していることだろう。
木村は、静かに窓の外を見つめた。雨上がりの東京の街は、どこか澄んだ空気に満ちている。遠くのビル群の向こうに、淡い光が差し込んでいる。
「円環は、終わることなく、巡っていく」
木村は心の中で呟いた。それは、過去の事件が示した、「無垢」の再生と継承の物語だ。彼自身もまた、あの事件を通じて、新たな「無垢」の円環を生き始めたのだ。奈々子の詩が、これからも多くの人々の心に響き渡り、新たな**「無垢」のビート**を生み出していくことを信じて。そして、いつか、その円環が、再び自分自身の内なる声と響き合う日が来ることを、木村は静かに予感していた。
木村は佐伯先生への追悼の意を込めて、文章を紡ぎ始めた。



































この記事へのコメントはありません。