その記録は、国家への最大の反逆。 ――歴史の闇に埋もれた真実が、魂の深淵を抉る。
あらすじ
寛永十五年(1638年)、島原。 かつて大坂の陣で全てを失い、今は世を斜に見る浪人・神崎重蔵(かんざき じゅうぞう)。彼の錆びついた刀は、もはや生きるための道具でしかなかった。
ある日、重蔵に破格の報酬で依頼が舞い込む。幕府軍十万が包囲する死地・原城へ潜入し、一人の男を救い出せ、というものだった。
その男の名は、山田右衛門作(やまだ えもさく)。 一揆の指導者・天草四郎の陣中旗を描いた、狂信者として知られる絵師。だが依頼主は言う。「奴は狂信者ではない。この乱の真実を後世に伝えるための、**”記録者”**だ」と。
信徒を装い、飢えと熱狂が渦巻く城へ潜入した重蔵。神の子を演じる孤独な少年、復権の野望に燃える浪人衆、そして的確に城の弱点を突く幕府軍の攻撃。城内に潜む「裏切り者」への疑心暗鬼が広がる中、重蔵は右衛門作の恐るべき秘密に近づいていく。
彼が命を賭して描く記録は、果たして神への祈りか、それとも国家を揺るがす反逆の告発状か。歴史の公式記録から抹殺された、もう一つの島原の乱が幕を開ける。
登場人物紹介
- 神崎 重蔵 (かんざき じゅうぞう) 本作の主人公。元豊臣方の浪人。大坂の陣での地獄を経験し、「剣では世の理不尽は斬れない」と悟った冷めた現実主義者。金のために危険な依頼を引き受けるが、時代の大きなうねりの中で傍観者ではいられなくなる。
- 山田 右衛門作 (やまだ えもさく) 物語の鍵を握る謎の絵師。天草四郎に仕え、敬虔なキリシタンとして振る舞う。しかしその目には狂信の色はなく、ただ冷徹に城内の惨状を記録し続ける。その真の目的は誰も知らない。
- 天草 四郎 (あまくさ しろう) 一揆勢の精神的支柱として君臨するカリスマ。奇跡を起こす「神の子」として崇められるが、その神々しい仮面の下には、巨大な重圧に押し潰されそうになっている少年の素顔が隠されている。
- 増田 好次 (ますだ よしつぐ) 浪人衆を束ねる武将。滅びた主家の再興という武士の論理に生きる。天草四郎を「生きた御神体」として利用し、この乱を自らの復権のための戦へと変えようと画策する野心家。
- 佐山 弾正 (さやま だんじょう) 幕府軍の冷徹な軍監。個人の情や真実よりも、国家体制の安寧という「組織の正義」を絶対視する。目的のためには非情な手段も厭わない、恐るべき合理主義者。
序:依頼と敗者の論理
寛永十五年(1638年)、冬。 長崎の空気は、塩辛い潮の匂いと、生乾きの魚のはらわたの臭いが混じり合っていた。その合間を縫うように、出島の方角から、伽羅(きゃら)か丁子(ちょうじ)か、嗅ぎ慣れぬ南蛮渡りの香料の匂いが微かに流れてくる。
神崎重蔵は、薄汚れた着流しの襟を合わせ、鉛色の空を見上げた。 今にも泣き出しそうな冬空が、港町の屋根の上に重く垂れこめている。肌を刺す風は、玄界灘の冷たい水をたっぷりと含んでいた。
「……また、ろくでもない一日が始まる」
誰に言うでもなく呟き、一つ、短く息を吐く。 白い息が、すぐに寒風に攫われて消えた。
左腰に差した一刀。 大坂で主家を失って以来、二十余年、片時も離したことはない。 だが、そこに武士の魂(ほこり)などという綺麗なものは、とうの昔に失せていた。朱塗りの鞘は剥げ落ち、鮫皮が巻かれた柄も、汗と脂で黒光りしている。手入れらしい手入れもしていない刀身は、鞘の中で静かに錆び始めていることだろう。
もはや、これは刀ではない。 ただ、食うために人を斬るための道具。 そして、大坂の夏空を焦がした地獄の記憶を背負う、重いだけの鉄塊だ。
(――剣で斬れるは、人の肉のみ。世の理不尽までは斬れぬ)
あの夏、燃え盛る天守を見上げながら、骨の髄まで叩き込まれた真理。 理想も、忠義も、武士の意地も、圧倒的な数の暴力の前には、塵芥(ちりあくた)に等しい。勝者が歴史を作り、敗者は逆賊として泥を啜る。それが、この世の揺るぎない理(ことわり)であった。 以来、重蔵は何も信じず、何にも与せず、ただ己の腕一本で、この理不尽な世を渡ってきた。それが、神崎重蔵が血の対価として学んだ、唯一の、そして揺るぎない「敗者の論理」だった。
「よう、神崎殿。今日も死んだ魚のような目をしておられるな」 波戸場で荷揚げ人足の元締めが、口髭についた飯粒を飛ばしながら声をかけてくる。 「博打の誘いなら断るぞ」 「ちげえねえ。腕の立つ用心棒を探している旦那がいるんだが、どうだね。ちいとばかし、値の張る仕事らしいぜ」
値が張る仕事は、相場が決まって命の危険も高い。 だが、銭がなければ飯も食えぬ。 重蔵は、無言で頷いた。
案内されたのは、出島を見下ろす丘の上に立つ、大きな屋敷だった。 長崎でも指折りの商人、和泉屋宗左衛門。それが、今日の仕事の依頼主だった。
屋敷の中は、重蔵が生きる裏町とは別世界だった。 磨き上げられた黒檀の床、壁には異国の風景を描いた油絵が掛けられ、部屋の隅には螺鈿(らでん)細工の大きな箪笥が鈍い光を放っている。
だが、その豪奢な調度とは裏腹に、主である宗左衛門の姿は、ひどくやつれていた。 歳の頃は五十がらみ。上質な絹の着物を着てはいるが、その頬はこけ、目の下には深い隈が刻まれている。何日も眠っていないかのようだった。
「……神崎重蔵殿、ですな」 か細い、かろうじて聞き取れるほどの声だった。 卓に置かれた茶請けの饅頭には、手つかずのまま、うっすらと埃が積もっている。この部屋の主が、もはや食事はおろか、日常の営みすらまともに出来ていないことを示していた。
「腕は立つと、聞き及んでおります」 「……仕事次第だ」 重蔵は、短く答えた。早く本題に入れ、という無言の促しだった。
宗左衛門は、震える指で卓の木目をなぞると、意を決したように顔を上げた。 その目に、狂気とも諦念ともつかぬ、異様な光が宿っていた。
「頼みがある」 乾いた声が、静かな部屋に響いた。
「原城へ、行っていただきたい」
重蔵の眉が、わずかに動いた。 島原で一揆勢三万が籠るという、今や日の本で最も危険な場所。 幕府軍十万が包囲する、死地。
「城から一人、連れ戻してほしい」 「……誰を」 「山田右衛衛門作。わしの、娘婿だ」
右衛門作。 その名は、長崎の裏通りで日銭を稼ぐ重蔵の耳にも届いていた。 一揆の象徴たる陣中旗を描き、天草四郎という神の子に仕える絵師。 狂信者の筆頭と噂される男。
「断る」 重蔵は、間髪入れずに言い放った。 「俺は、狂信者のために命を張る趣味はない。犬死は御免だ」
重蔵が席を立とうとした、その背に、宗左衛門の静かな、しかし芯の通った声が突き刺さった。
「奴は、狂信者ではない」
重蔵の足が止まる。 振り向いた重蔵の目に、宗左衛門は射るような視線を返した。
「――奴は、”記録者”だ」
その言葉は、重く、鋭く、重蔵の心の、錆びついて久しい何かを微かに揺らした。
「記録者…だと?」
「そうだ」 宗左衛門は、一度固く目を閉じ、そして開いた。 「奴は、この乱の真実を、その目に映るありのままを、絵と文に写し取っている。幕府が語る歴史ではない。苛政に喘ぎ、飢えに苦しみ、それでも神に祈った者たちの、名もなき者たちの、真の記録をだ」
その言葉は、まるで熱を持った鉄のように、重蔵の胸に染みた。
「この戦、いずれ幕府の勝ちで終わろう。そうなれば、死んだ者たちはただの逆賊として、歴史という名の帳簿から消される。悪政も、飢饉も、全てはなかったことにされる。それだけは、あってはならぬのだ」
宗左衛門の目は、商人のそれだった。 冷徹に、損得を計算する目だ。 だが、その奥に燃える執念は、娘婿を思う情だけではない。 歴史の闇に葬られる者たちへの、非情なまでの使命感。 それは、美しく飾り立てられた勝者の歴史に対する、敗者からの反逆の意志だった。
「……報酬は」 重蔵の口から、乾いた声が漏れた。
ずしり、と。 卓に置かれた布包みは、浪人一人が十年は遊んで暮らせる重みを持っていた。 この金があれば、日の本を捨て、呂宋(ルソン)へでも安南(アンナン)へでも渡ることすら叶うやもしれぬ。
だが、重蔵の心を動かしたのは、黄金の重みだけではなかった。 宗左衛門の言う「敗者のための記録」。 それは、大坂の陣で勝者によって全てを奪われ、以来、ただ生きるためだけに刀を振るってきた己の空虚な半生に、初めて、何かの意味を与えるかのように響いた。
重蔵は、金には目もくれず、宗左衛門を真っ直ぐに見据えた。 「潜入の算段は」
宗左衛門の口元が、初めてかすかに緩んだ。 それは、笑みと呼ぶには、あまりにも悲痛な形をしていた。
数日後。 重蔵は、着古した着流しを、巡礼者の白装束に着替え、島原へ向かう街道を歩いていた。 信徒を装い、一揆勢に紛れ込む。それが、宗左衛門の立てた算段だった。
道中、目にする村々は、ことごとく荒れ果てていた。 冬の寒さに加え、重税と飢饉が、人々の顔から生気を奪い尽くしている。道端には、筵(むしろ)を被せられただけの亡骸が転がっていた。 これが、天草四郎という救世主を、神を生み出した土壌なのだ。 重蔵は、冷ややかに現実を見つめた。
やがて、前方に巨大な人の群れが見えてきた。 幕府軍の陣地だった。 丘一つが、まるごと一つの町と化している。無数の幟旗が寒風にはためき、武具のぶつかり合う鈍い音が、地響きのように伝わってくる。その数、十万。
そして、重蔵は息を呑んだ。 島原の海に、黒い影が浮かんでいる。 これまで見たこともないような、巨大な南蛮船。 オランダの商船「デ・ライプ号」。 城壁を砕くための巨大な大砲が、いくつも、無機質に空を睨んでいた。
重蔵は、歴戦の士として、瞬時に戦力差を計算した。 あれは、戦の道具ではない。 一方的な、処刑の道具だ。
この戦に、もはや人の情けが入る余地はない。 幕府は、一揆勢を人間として見てはいないのだ。根絶やしにすべき、害獣か何かとしか。
重蔵は、これから向かう原城の方角を見据えた。 あの城壁の向こうで、三万を超える人間が、己たちの運命も知らずに神に祈っている。
(――地獄か)
重蔵は、自嘲するように呟いた。
(今更、地獄の一つや二つ、増えたところで、どうということはない)
彼は、何もかもを諦めた巡礼者の顔つきで、再び歩き出した。 新たな地獄へ、自らの意思で。
破:偽りの王国と魂の共鳴
重蔵が足を踏み入れた原城内は、人の世の理(ことわり)が、とうに崩れ落ちた場所だった。
天を突くほどに響き渡る祈りの声。オラショと呼ばれる、独特の節回しを持つ歌。 だが、その敬虔な響きの合間から、傷口の膿が放つ甘ったるい腐臭と、汚物の臭いが、容赦なく鼻をついた。 聖と俗、生と死が、冬の冷たい空気の中で澱み、泥のように混じり合っている。
城壁の上から見渡す景色は、絶望的だった。 外には、蟻の群れのような幕府軍十万の陣が、どこまでも続いている。 内には、飢えと寒さに震えながら、それでも神の救いを信じる三万の民。 まるで、巨大な墓石の中に閉じ込められているかのようだった。
重蔵は、まず、城の縄張(せっけい)を検めた。 戦の経験が、そうさせるのだ。 三方を海に囲まれた、天然の要害。世間ではそう言われている。 だが、歴戦の士である重蔵の目は、その欺瞞を、そして隠された致命的な欠陥を見抜いていた。
(――見かけ倒しの要害よ)
井戸の数が、致命的に少ない。三万の人間が生き延びるには、あまりに心許ない水量だ。 大手門は、海からの艦砲射撃の格好の的となっている。あのオランダ船の大砲が火を噴けば、ひとたまりもあるまい。 そして、兵糧蔵の位置。あれは、あまりに無防備に過ぎる。
(この籠城、長くは保たぬ。ひと月か、もってふた月か)
結末は、火を見るより明らかだった。 この城は、民を守るための砦ではない。 三万の人間を、緩やかに死に至らしめるための、巨大な檻だった。
城の中心にある広場は、異様な熱気に渦巻いていた。 その中心に、美少年、天草四郎がいた。 齢十六と聞く。元服したばかりの少年の体は、豪奢な陣羽織の中で、あまりにも華奢に見えた。 だが、その瞳には、人を惹きつけて離さない、不思議な光が宿っていた。
病に伏し、死にかけていた老婆が、担架に乗せられて四郎の前に運ばれてくる。 老婆の額は玉のような汗を浮かべ、呼吸は浅く、早い。
四郎が、その細い指を、老婆の額にそっとかざす。 民衆が固唾を飲んで見守る中、オラショの歌声だけが、低く響き渡る。
「……熱が」
誰かが、震える声で言った。 老婆の苦悶に満ちた顔から、すうっと汗が引き、その呼吸が穏やかなものに変わっていく。 奇跡だ、と。 神の子の御業だ、と。 熱狂が、津波のように広場に満ちた。人々はひれ伏し、涙を流しながら、四郎の名を繰り返し叫んだ。
だが、重蔵の目は、神の子とされた少年を見てはいなかった。 彼の目は、老婆の背後に控える、浪人衆の僅かな動きを捉えていた。
冷水を含んだ布を、死角から巧みに入れ替える、その手際。 老婆の耳元で、何かを囁く男の口の動き。 そして、その全てを、少し離れた場所から冷徹な目で見つめている、浪人頭・増田好次の姿。
(――茶番だ)
すべては、計算され尽くした「演出」に過ぎなかった。 民の純粋な信仰を、自らの野望のために利用する、構造の醜さ。 重蔵は、熱狂の渦に背を向け、静かにその場を離れた。
依頼の対象である、山田右衛門作。 彼が住まうという物置小屋は、城の最も暗く、湿った一角にあった。 戸を開けると、墨と、薬草と、そして微かな血の臭いがした。
中は、絵師の仕事場というには、あまりにも異様だった。 壁際には、様々なものが分類されて置かれている。 鍋の底から丁寧に集められた、煤(すす)。 城壁の土を水で溶いた、黄土。 薬草を煮詰めた、どす黒い緑色の液体。 そして――負傷者の治療で出たのであろう、赤黒く変色した血に濡れた布。
「この地獄そのものが、わしの絵具よ」
右衛門作は、重蔵に一瞥もくれず、そう呟いた。 彼は、飢えに頬のこけた子供の顔を、冷徹なまでの筆致で和紙に写し取っていた。 その目は、対象に何の感情も移入していない。まるで、道端の石か、枯れ木でも写生するかのように、ただそこにあるものを、あるがままに紙の上へ刻みつけているだけだった。
彼の周囲には、描きためられた絵が、無造作に積み上げられている。 それらは、単なる絵ではなかった。 城内の人口の推移、米蔵の残量、戦死者の数が、客観的な数値と共に、克明に記されていた。 これは、芸術ではない。 あまりにも冷徹な、戦場の記録(ログ)だった。
ふと、重蔵は、壁に立てかけられた一枚の絵に、視線を奪われた。 そして、全身の血が、凍りつくのを感じた。
大坂の天守が、紅蓮の炎に焼かれていた、あの日。 燃え落ちる梁の下で、名も知らぬ母子が、なすすべもなく天を仰いでいた。 二十余年、夢に見ては、うなされてきた光景。 己の無力さを、骨の髄まで刻みつけられた、あの地獄。
目の前の絵は、その光景を写し取っていた。 その構図、絶望に歪む母の顔つき、呆然と空を見上げる子供の瞳。 寸分違わぬ。
(――この男…! この男は、俺と同じ地獄を見ていたというのか…!?)
重蔵が戦慄に声も出せずにいると、右衛門作は、初めて筆を止めて、静かにこちらを振り向いた。 その目は、狂信者のそれではない。 あまりに深く、そして静かな、冬の湖面のようだった。
「あなたも、見ておられたか」
問いではない。 事実の確認だった。
右衛門作は、ただ真実を記録する男。 重蔵は、その真実から目を背け、ただ生き延びてきた男。 二人の間に、言葉はなかった。 だが、互いの魂の奥底に横たわる、決して癒えることのない同じ傷跡を、確かに認め合っていた。
その夜だった。 幕府軍による、夜襲が始まった。 闇を切り裂き、腹の底を抉るような砲声が、断続的に轟く。 着弾は、恐ろしいほどに的確だった。
狙われたのは、城内に数少ない井戸と、重蔵が密かに目をつけていた兵糧蔵。 それは、城の縄張を熟知していなければ、決してできぬ芸当だった。
「裏切り者だ!」
誰かの絶叫が、疑心暗鬼の炎を煽る。 城内に、幕府へ情報を流す鼠が潜んでいる。
浪人たちの猜疑の目が、闇の中でぎらぎらと光る。 そして、そのいくつかが、新参者である重蔵へと、音もなく向けられた。 それは、次に斬り捨てる相手を吟味する、冷たい光を宿していた。
急:裏切りの真相
「あの男…」 物陰から、息を潜めた声が重蔵の背後を撫でる。 「新参者にしては、城の内に詳しすぎる」
一度撒かれた疑心暗鬼の種は、飢えと恐怖を養分として、一夜にして城内に根を張った。 浪人たちの目が、重蔵を値踏みするように光っている。 それは、もはや仲間を見る目ではない。 斬り捨てるべき相手を吟味する、冷たい獣の目だった。
(――潔白を証明せねば、俺が斬られる)
重蔵の「生存の論理」が、脳の奥で冷たく警鐘を鳴らす。 彼は、誰よりも注意深く、城内の人間の動きを観察し始めた。 鼠は、必ず痕跡を残す。その痕跡を見つけ出すのが、生き残るための唯一の道だった。
幕府軍の砲撃は、偶然ではない。 井戸、兵糧蔵、そして天守へと続く狭い通路。 それらは全て、この城の急所。籠城戦の経験がある者ならば誰でもわかる。だが、その正確な位置を知る者は、城の縄張を熟知した、内部の者に限られる。
重蔵は、脳裏に城の図面を描き、砲撃の着弾点を重ねていった。 そこから浮かび上がる、一つの法則性。 そして、あの男の、異様なまでの冷静さ。
答えは、すぐそこにある。 だが、その答えは、あまりにも重く、信じがたいものだった。 重蔵は、己の導き出した結論を、一度、心の奥底に沈めた。
その夜、重蔵は眠れずに城壁の上を歩いていた。 冬の夜気は、骨の芯まで凍らせるように冷たい。 すると、天守の陰になった小さな祈祷所から、か細い声が漏れてくるのが聞こえた。
忍び寄り、隙間から中を窺うと、そこにいたのは、天草四郎だった。 祭壇の前に一人きりの彼は、神の子の威厳などどこにもなく、ただ寒さに震える小さな影にしか見えなかった。
「……天主様。私は、もう……」
声は、嗚咽に途切れる。
「もう、奇跡は起きません。皆、死んでしまう。私が、この私が、皆を死なせてしまうのです…」
神を演じることに疲れ果てた、ただの少年の、絶望の告白だった。 重蔵は、初めて、この少年に対して憐憫の情を覚えた。 彼もまた、増田好次という男の「復権の論理」のために利用され、巨大な重圧に押し潰されかけている犠牲者なのだ。
重蔵の気配に気づいたのか、四郎はびくりと肩を震わせた。 だが、暗闇の中に立つ重蔵の顔を認めると、その目から恐怖が消えた。 この男だけが、自分を神として見ていない。 そのことが、孤独な少年には、むしろ救いに感じられたのかもしれない。
「あなたも、信じてはおらぬのでしょう。私のことなど」 か細い、だが芯のある声だった。
「……信じる、信じないの問題ではない。俺は、ただ生きるだけだ。あんたも、そうだろう」 重蔵は、ありのままを答えた。
その言葉は、少年の心の琴線に触れたようだった。 四郎は、何かを決意したように、重蔵の袖を掴んだ。 その手は、氷のように冷たい。
「ならば、これだけを覚えていてください」 それは、懇願するような、祈るような声だった。
「あの旗だけが、本当のことを見ています。旗の…裏を…」
その言葉は、重蔵の心に、奇妙な棘となって、深く突き刺さった。
翌日。 重蔵は、山田右衛門作の仕事場を、再び訪れていた。 右衛門作は、何事もなかったかのように、黙々と筆を動かしている。
重蔵は、無言で、部屋の隅に立てかけられた陣中旗を指差した。 聖杯を掲げる二人の天使が描かれた、荘厳な旗。
「あの天使の指が、不自然なほどに、城の裏門を指し示している」 重蔵は、静かに言った。 「そして、一昨日の砲撃は、その裏門に集中した」
右衛門作の筆が、ぴたり、と止まった。
「あんたが、裏切り者か」
右衛門作は、ゆっくりと顔を上げた。 その目に、動揺はない。 ただ、深い、深い哀しみが、冬の湖のように湛えられていた。
彼は、すべてを認めた。 幕府軍の軍監・佐山弾正と密かに文を交わし、城内の情報を渡していたこと。 その目的は、女子供だけでも助命させるための、取引であったこと。
「これは、わしが選んだ**『愛の論理』**だ」 右衛門作は、絞り出すように言った。 「大義のために全員が玉砕するより、一人でも多く生き残らせる。それこそが、神の御心ではないのか」
その言葉は、ただ生きるためだけに刀を振るってきた重蔵の心を、激しく揺さぶった。 だが、その願いは、あまりにも脆く、あまりにも純粋すぎた。
数日後。 右衛門作のもとに、佐山弾正からの最後の返書が届いた。 使者が持ってきたその書状は、上質な美濃紙に、墨痕たくましく、揺るぎない筆跡で書かれていた。 重蔵も、その文面を見た。 そこに記されていたのは、個人の情など微塵も介さない、無慈悲な国家の論理だけだった。
「降伏は許さぬ。反乱分子は根絶やしにすべし。ただし、貴殿の記録は、乱の顛末を記す公式記録の参考として、召し上げる。日の本の安寧のため、貴殿の記録は、幕府の威光を示す礎となるであろう」
取引は、反故にされた。 右衛門作の「愛の論理」は、佐山弾正の「制度の論理」の前に、無残に踏みにじられたのだ。
右衛門作は、その書状を握りしめ、しばらくの間、虚空を見つめていた。 やがて、その口から、血を吐くような声が漏れた。
「……ならば、わしの”償い”は、別の形で果たさねばならぬ」
その目には、絶望と、そして、新たに宿った恐るべき覚悟の光が、静かに揺らめいていた。
終焉:落日の刻
終わりは、音もなく始まった。 幕府軍の鬨(とき)の声よりも先に、城内を満たしたのは、完全な静寂だった。 食料は、昨夜、尽きた。 人々はもはや、神に祈ることすらしなかった。 ただ、己の運命を悟り、冷たい地面に座り込んでいる。 錆と血の臭いが、冬の乾いた空気に満ちる。か細い子供のすすり泣きだけが、城の石垣に虚しく染み込んでいった。
「四郎様ッ!」
その絶望の静寂を破ったのは、浪人頭、増田好次の絶叫だった。 その目は血走り、もはや正気の色はない。
「最後の奇跡を! 神の子の力を、我らに見せてくだされ!」
それは、祈りではなかった。 追い詰められた獣の、最後の咆哮。 滅びゆく武士の論理が、もはや存在せぬ神にすがる、醜い断末魔だった。
浪人たちに囲まれた天草四郎は、静かに顔を上げた。 その表情に、怯えはない。 ただ、あまりにも深い、諦念があった。
彼は、傍らに立つ重蔵にだけ聞こえる声で、ぽつりと呟いた。
「この人たちを救うには、もう、これしかないのですね」
それは、神の子の言葉ではなかった。 自らの無力さを悟った少年が、せめて人々を絶望の淵から救うために、全てを擲(なげう)つと決めた、悲壮で崇高な覚悟の言葉だった。
四郎は、民衆の前に進み出た。 そして、恍惚とした表情を浮かべ、天を指差して叫んだ。
「見よ! 天主の軍勢が、我らを迎えに来た!」
その声は、不思議な力を持って、城内の隅々まで響き渡った。
「我らは、この地で殉教するのだ! 永遠の楽園へと、共に旅立とうぞ!」
敗北ではない。殉教だ。 惨めな死ではない。栄光ある凱旋なのだ。
それは、最後の、そして最大の演出。 絶望を希望にすり替える、最後の虚構だった。
うおおおおおぉぉぉッ―――! 地鳴りのような雄叫びが上がった。 飢えと恐怖で死んでいた民の目に、再び狂信の火が灯る。
城門が、内から開かれた。 死を覚悟した信徒と浪人たちが、最後の突撃を敢行する。 だが、それは、戦ですらなかった。 ただ、幕府軍の鉄砲隊が放つ鉛の弾丸に、自らの命を投げ出すだけの、集団自決に過ぎなかった。
地獄絵図の中を、重蔵は走った。 銃声、怒号、悲鳴。 飛び散る血飛沫が、頬を濡らす。 目指すは、山田右衛門作の仕事場。
「右衛門作! 逃げるぞ!」
小屋の中に飛び込むと、右衛門作は、血で濡れた筆を握りしめたまま、静かに座していた。 まるで、これから訪れる全てを、受け入れているかのように。
「これは犬死だ! あんたの論理は、こんな結末を望んでいたわけではあるまい!」 重蔵は叫んだ。
だが、右衛門作は、静かに首を横に振った。
「わしは残る」
その目は、もはやこの世の者とは思えぬほど、澄み切っていた。
「わしの死と、幕府に召し上げられる**『表の記録』**。その二つが揃って初めて、わしの真の記録は完成する」
「何を言っている…!」
「あんたを選んだのだ、重蔵殿」
右衛門作は、初めて重蔵の名を呼んだ。
「あんたは、俺と同じ地獄を見た。そして、その地獄から目を逸らさなかった。ならば、わかるはずだ。この記録の、本当の意味が」
彼の言葉は、重蔵の魂に、重い楔となって打ち込まれた。 これは、継承なのだ。 生き残る者から、死にゆく者への。 いや、死にゆく者から、生き残ってしまう者への、あまりにも過酷な、魂の継承。
幕府軍の雑兵が、雪崩を打って城内へとなだれ込んでくる。 もはや、一刻の猶予もなかった。
重蔵は、足元に転がっていた雑兵の死体から、汚れた具足を剥ぎ取った。 顔に泥を塗り、血を擦り付ける。 彼は、再び、ただの「生存者」となった。
雑兵の群れに紛れ、九死に一生を得て城から脱出する。
そして、振り返った。
燃え盛る天守。 その一番高い場所で、小さな影が、十字架を天に掲げている。 天草四郎だった。
その瞬間。 幻聴か、あるいは風の音か。 重蔵の耳にだけ、あの少年の、最期の声が聞こえた。
「あの旗の……裏を……見よ……」
直後。 数条の火線が走り、乾いた音が夜空に響いた。 四郎の小さな体は、糸の切れた人形のように、炎の中へと崩れ落ちていった。
結:沈黙の海と錆びたる十字架
数年の歳月が、流れた。
乱は完全に鎮圧され、日の本は再び、何事もなかったかのような静寂を取り戻していた。 島原を苛んだ苛政も飢饉も、歴史の闇に葬り去られた。 代わりに、幕府が監修した瓦版が、世に広まっていた。 曰く、島原の乱は「邪教に狂った者たちの、狂信的な暴動であった」と。
キリシタンへの禁制は、苛烈を極めた。 人々は、聖像を踏みつけさせられる「絵踏」によって、その信仰を試される。 密告が奨励され、隣人が隣人を監視する、息の詰まるような世の中。 もはや、神に祈る者など、どこにもいないかのように見えた。
山田右衛門作の記録は、幕府に召し上げられた後、その筋書きを補強する格好の材料として利用された。 悪政や飢餓に関する記述は巧みに削除され、歪曲された**「公式記録」**として、世に残った。 真実は、勝者の手によって、いとも容易く塗り替えられてしまったのだ。
全ては、虚無に帰した。 神崎重蔵は、再び長崎の裏通りで、ただ生きるためだけに刀を差す日々に、戻っていた。 あの地獄は、遠い昔の悪夢。そう思うことで、己の心を飼いならしていた。
そう、思っていた。 あの日、和泉屋宗左衛門が、数年前とは比べ物にならぬほど痩せこけた姿で、重蔵の前に現れるまでは。
「…右衛門作が、処刑前に密かに残したものです」
託されたのは、小さな桐の箱だった。 重蔵は、何も言わずにそれを受け取った。宗左衛門も、何も言わずに去って行った。 二人の間に、言葉はもはや必要なかった。
重蔵は、一人、薄暗い部屋でその箱を開けた。 中には、古びた布切れ――**「陣中旗の断片」**と、固く封をされた一巻の書状。 **「最後の記録(副文)」**と記されている。
重蔵は、まず、副文を広げた。 それは、幕府の公式記録とは似ても似つかぬ、地獄の報告書だった。 だが、それだけでは、ただの敗者の繰り言に過ぎぬ。こんなものを公にしたところで、狂人の戯言として、握り潰されるだけだ。
(――何の意味がある。これでは、何も覆せはしない)
重蔵が、全てを投げ出してしまおうとした、その時。 脳裏に、あの少年の、最期の声が蘇った。
『あの旗の……裏を……見よ……』
重蔵は、はっとして、陣中旗の断片を手に取った。 裏返す。だが、そこには何もない。ただ、血と煤で汚れているだけだ。
(……違う。裏とは、物理的な裏側ではない。描かれた絵の、その裏に隠された”意味”を読め、ということか…!)
重蔵は、副文の記述と、旗の断片に描かれた天使の絵を、食い入るように見比べた。 そして、副文の最後に記された一文に、全身が粟立った。
「旗の天使の指差す先に偽りあり。聖杯の水面の波の数、それこそが真実の日付なり」
そういう、ことだったのか。
右衛門作は、自らの記録が幕府によって歪曲されることを、完全に見越していたのだ。 彼が幕府に提出した「表の記録」は、意図的に偽りの日付や地名を記した、いわば**”偽書”**だったのである。
幕府が公表した「公式記録」の嘘を、右衛-門作が残した「真の記録」によって一つ一つ訂正していくことで、初めて歴史の真実が浮かび上がる。 国家権力による記録の歪曲すら利用し、後世に真実を伝えるという、二重構造の告発状。 それは、国家そのものへの、最大の反逆。
右衛門作の真の「償い」とは、自ら裏切り者の汚名(錆びたる十字架)を背負い、この壮大な仕掛けを完成させることだったのだ。
重蔵は、震える手で記録を抱え、原城跡の見える岬に、一人、立っていた。
青く、美しい有明の海。 あの熱狂も、飢えも、祈りも、絶望も、全てを飲み込んで、ただ静かに広がっている。
英雄も、神もいなかった。 そこにいたのは、己の論理と使命のために、必死に生きた人間たちだけだった。 右衛-門作の論理は、ただ生きることだけを考えていた己の論理を、遥かに凌駕していた。
重蔵は、懐から、右衛門作の真の記録を取り出した。 これを海に捨てれば。 燃やしてしまえば。 俺はまた、ただの神崎重蔵に戻れる。 全てを忘れ、ただ生きるだけの、空虚な日々に。
(――俺には、関係ない。俺は、生き延びた。それだけだ)
記録を持つ手が、崖の下の、紺碧の海へと伸びる。
その、瞬間。
脳裏に、いくつもの顔が浮かんだ。 飢えながらも寄り添っていた、名も知らぬ親子の姿。 神を演じきった、四郎の震える声。 そして、自分を選んだ、右衛門作の、あの澄み切った目。
『あんたを選んだのだ』
違う。 もはや、ただ生きるだけの論理は、通用しない。 この記録の重みを知ってしまった以上、俺はもう、ただの生存者ではいられない。
重蔵は、ゆっくりと、腕を引いた。 そして、右衛門作の記録を、己の胸に、強く抱きしめた。
ただ生きるためだけに振るってきた、錆びついた刀。 それは、もう重くはなかった。 代わりに、この胸に抱いた真実が、ずしりと重い。
「真実を知りながら、沈黙を強いられる」
それこそが、神崎重蔵が、これから背負っていく、新たな、そして最も重い**「錆びたる十字架」**だった。
重蔵は、沈黙の海に深く一礼すると、静かに背を向けた。 いつか、この記録を白日の下に晒す者が現れる、その日まで。 歴史の闇の中で、真実を守り抜くために。
彼は、歩き出した。 光ではなく、再び、影の中へと。
(了)



































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