父が遺した一枚の棋譜。そこに記された禁じ手(タブー)は、**餓島(がとう)**を生き抜いた英雄と、闇市に生きた屑が交わした、魂の対話だった。
あらすじ
父の葬式で、私は叔父が漏らした言葉に心を囚われた。「兄貴がよく言っていたんだ。『片方の祖父は国の英雄だが、もう片方はどうしようもない屑だが、本物だった』と…」。
私の祖父たちは、まさに対照的な人生を歩んだ。 父方の祖父・国枝正武は、地獄のガダルカナル島を生き抜き、勲章を受けた英雄。しかし戦後はマラリアの後遺症に苦しみ、多くを語らず深い虚無感を抱えていたと聞く。 母方の祖父・高見沢恭次は、病弱で戦争に行けず、その劣等感から酒に溺れた真剣師(賭け将棋指し)。戦後の闇市の片隅を根城にし、家族からは「屑」と呼ばれた男。
交わるはずのない、英雄と屑。
父の遺品から、私は一枚の古びた棋譜を見つける。そこに記されていたのは、二人の祖父の名前。指し手は素人目にも異様で、勝敗への執着とは違う、何か別の目的を感じさせた。
父はなぜ、この奇妙な棋譜を大切に持っていたのか。 私は、盤上に秘められた謎を追ううちに、二人の祖父が死を前にして邂逅した、戦後のある一日へと導かれていく。それは、家族の誰も知らなかった、静かな告白と救済の物語の始まりだった。
登場人物紹介
- 私(語り手) 主人公。父の死をきっかけに、自らのルーツである二人の祖父の人生に興味を抱き、残された棋譜の謎を追う。
- 国枝 正武(くにえだ まさたけ)/ 父方の祖父 故人。元陸軍兵曹長。「英雄」。「餓島」と呼ばれたガダルカナルで飢餓と病に苦しみ、生き残ったことへの強い罪悪感(サバイバーズ・ギルト)とPTSDを抱える。戦後はマラリアの後遺症による体調不良と虚無感に苛まれていた。
- 高見沢 恭次(たかみざわ きょうじ)/ 母方の祖父 故人。プロ棋士とは違う裏街道を歩む真剣師。「屑」。戦後の上野の闇市にあったような、場末の碁会所を根城にしていた。社会の規範から外れているが、相手の心理を深く読み抜く洞察力を持つ。
- 私の父 故人。物語の鍵を握る人物。対照的な義父と実父の狭間で、二人の苦悩を唯一理解していた可能性を持つ。
第一章 一枚の棋譜
父の葬式は、しとしとと降り続く、冷たい雨だった。
斎場の大きな窓ガラスを、無数の筋となって流れ落ちる雨粒が、外の世界を歪んだ水彩画のように滲ませている。
建物の屋根を叩く単調な雨音と、堂内に低く響く読経、そして規則正しく鳴らされる木魚の乾いた音。
その全てが混ざり合い、私の意識の表面を滑っていく。
私は、喪主の席から、ただぼんやりと祭壇を見つめていた。
白と緑の菊で埋め尽くされたその中央で、遺影の中の父は、少し困ったように微笑んでいる。
黒い礼服の列、すすり泣く声、湿ったウールのコートと線香が混じり合った独特の匂い。
それら全てが、まるで分厚いガラスを一枚隔てた向こう側の出来事のようだった。
現実感だけが、この空間からすっぽりと抜け落ちていた。
滞りなく式が終わり、親族だけの通夜振る-舞いの席に移った頃、その言葉は、私の耳に滑り込んできた。
畳の大広間には、寿司桶とオードブルが並び、酒が酌み交わされている。
無理に作られた明るさと、ひそやかな思い出話が交差する、奇妙に落ち着かない空気。
そんな中、すっかり顔を赤くした叔父が、私の前にふらりとやってきた。
緩んだネクタイを指でいじりながら、遺影に目をやり、ぽつりと言ったのだ。
「……兄貴が、よく言ってたんだよ。『うちの親父はガダルカナル帰りの英雄だったが、お前のとこの親父さんは、どうしようもない屑だが、本物だった』ってな……」
その言葉は、大声ではなかった。
むしろ、騒がしさの中に紛れて消えてしまいそうな、独り言に近い呟きだった。
だが、静寂の中で石を投げ込まれたように、私の心に波紋を広げた。
手にしたままだった冷酒のグラスが、ぴたりと止まる。
叔父の言葉は、小さく鋭いガラスの破片のように、私の胸に深く突き刺さった。
私の祖父たちは、叔父の言葉通り、対照的な人生を歩んだ。
光と影、白と黒。
まるで違う国の物語のように、交わる点など一つもないはずの人生を。
父方の祖父、国枝正武。
実家の仏壇の、ひんやりと冷たい空気を今でも思い出す。
その奥に、色褪せた金鵄勲章と共に飾られていた写真の中の祖父は、背筋を伸ばし、厳しい眼差しで遠くを見ていた。
地獄と呼ばれた「餓島」ガダルカナルを生き抜き、武功を立てた英雄。
だが、父から聞いた話では、その背中はいつも虚無の影を背負っているようだったという。
夜中に突然、うなされて叫び声をあげることもあったらしい。
祖父は、戦争の話を決してしなかった。
ただ、その目の奥に宿る深い影だけが、語ることのできない地獄を物語っていた。
母方の祖父、高見沢恭次。
こちらは、夏の夕暮れの、縁台の記憶と結びついている。
安酒と蚊取り線香の匂い。
いつも濁っていた彼の目が、将棋盤を前にしたときだけ、剃刀のような鋭い光を宿した。
家族からは「一族の恥」とまで呼ばれ、私自身も、子供心に彼を避けていた。
病弱で戦争に行けなかったことが、生涯拭えぬ劣等感だったと母は言う。
その劣等感を埋めるかのように、彼は酒と将棋に溺れた。
英雄と、屑。
父はなぜ、そんな評価をしたのか。
「本物」とは、一体どういう意味なのか。
叔父の言葉は、私の胸の棘となり、消えなかった。
四十九日も過ぎ、秋の気配が深まった頃、私は父の遺品を整理するために書斎に入った。
埃と古い紙、そして微かに残る父の愛用していたパイプ煙草の香り。
本棚の奥に、ひっそりと置かれていた桐の箱があった。
蓋を持ち上げると、寸分の狂いもなくすっと開き、中から樟脳の匂いがした。
万年筆や古い手帳と並んで、一枚の黄ばんだ和紙が、大切そうに折り畳んで入れられていた。
広げると、それは将棋の棋譜だった。
和紙のざらりとした感触が指に伝わる。
墨で書かれたそれは、力強い、けれど明らかに違う二人の筆跡で駒の動きが記されていた。
そして、その上段には、二人の名が並んでいた。
『国枝 正武』 『高見沢 恭次』
心臓が、大きく脈打った。
あり得ないはずの組み合わせ。
英雄と屑が、盤を挟んで座っている。
私は急いで将棋に詳しい友人に連絡を取り、スマートフォンのカメラで撮ったそれを送った。
数分後、彼から興奮したような電話がかかってきた。
「おい、これ、なんだ? 滅茶苦茶だぞ。中盤で▲5八にいた金を守りの要から自ら捨てるなんて、素人でも指さない。それを受けた後手の△8六歩もおかしい。ここで成れば必勝なのに、わざわざ『不成』で打ってる。まるで……そう、これは勝負じゃない。盤の上で何かを告白して、それに返事をしているみたいだ」
告白と、返事。
私は、手の中の棋譜に視線を落とした。
ただの駒の動きの記録だと思っていたそれは、急に重みを増し、声なき言葉を放ち始めたように思えた。
二つの異なる筆跡が、二人の男の魂の応酬のように見えてくる。
父はなぜ、このたった一枚の棋譜を、桐の箱に仕舞っていたのか。
二人の祖父が会ったその日、盤上と、そして盤外で、何があったのか。
私の胸に刺さった棘が、じくりと熱を持った。
それは、父が私に残した、最後の宿題なのかもしれない。
私は、この棋譜という名の地図を手に、二人の祖父が生きた戦後の闇へと、旅に出ることを決めた。
駒が辿り着くべき場所を探すように、静かな真実を探す旅に。
第二章 英雄の影
最初の一歩は、父方の実家からだった。
国枝正武の妹、つまり私にとっての大叔母にあたる文江さんが、幸いにもまだ健在だったからだ。
都心から私鉄を乗り継ぎ、窓の外の景色がコンクリートの壁から低い家々の屋根へと変わっていくのを眺める。
降り立った駅は、時間が止まったかのような静かな空気をまとっていた。
金木犀の甘い香りが、どこからか漂ってくる。
目指す家は、駅から歩いて十分ほどの、古い住宅街の一角にあった。
黒い板塀に囲まれ、その上から見事に剪定された松の枝が覗いている。
門扉を開けると、打ち水された石畳が玄関まで続いていた。
その湿った石の匂いが、これから踏み入れる場所が、私の日常とは違う、濃密な時間の層に守られていることを告げていた。
「まあ、武史くん。大きくなって。お父さんのことは、本当に残念だったわね……」
引き戸の向こうから現れた文江さんは、小柄で、背筋がしゃんと伸びていた。
薄化粧を施した顔には深い皺が刻まれているが、その瞳は澄んでいる。
家に染み付いたのだろう、白檀の香りがふわりと私を包んだ。
仏間に通された。
い草の匂いがする、ひんやりとした畳の感触が足の裏に心地よい。
障子を通して差し込む午後の光は、部屋の中の輪郭を柔らかくぼかし、柱時計の振り子が刻む音だけが、静寂に重みを与えていた。
仏壇には、あの厳しい眼差しの正武祖父さんの写真が、父の遺影と並んで静かに置かれている。
その視線が、まるで私を試しているかのようだった。
文江さんの淹れてくれた少し渋い玉露をすすり、一通りの挨拶を終えた後、私は本題を切り出した。
「叔母さん、実は父の遺品を整理していたら、こんなものが出てきまして」
そう言って、桐の箱から取り出した棋譜のコピーを、漆塗りの座卓の上に広げた。
文江さんは老眼鏡をかけ、そこに記された名前に目を細めた。
「国枝正武……高見沢恭次……まあ。お兄さんと、あちらのお爺さんが?」
その声には、懐かしさよりも戸惑いの色が濃く滲んでいた。
「将棋を指したなんて、初めて聞いたわ。兄が駒をいじるなんて、この家では見たこともなかったもの」
「やはり、そうですか」
「ええ。それに……」
文江さんは言い淀み、母方の祖父の名前に、ためらうように細い指を置いた。
「……あちらの方と、お兄さんが会うなんて。一体どういう繋がりがあったのかしら」
その言い方には、英雄の家系と屑の家系が交わることへの、隠しようのない違和感が含まれていた。
「叔母さんにとって、正武お祖父さんはどんな人でしたか? やはり、英雄、だったのでしょうか」
私の問いに、文江さんは仏壇に目をやり、遠い昔を懐かしむように、ふっと口元を緩めた。
「そうねえ。兄は家の誇りだったわ。あのガダルカナルから生きて帰ってきただけでも奇跡なのに、勲章までいただいて。口数は少なかったけれど、いつも背筋がぴんと伸びていて、私たち家族を守ってくれる、頼もしい存在だった」
そこまで語ると、文江さんの表情からすっと光が消え、障子紙に落ちる影のように翳った。
「でもね……戦争から帰ってきた兄は、どこか昔とは違っていたのよ」
「違っていた、というと?」
「ええ。あの『餓島』で兄が何を体験したのか、誰も知りません。兄は、一度も戦場の話をしませんでしたから。ただ、あの島でうつされたというマラリアには、生涯苦しめられていたわ。縁側で日向ぼっこをしていても、突然、ガタガタと震えだしたりしてね。熱が出ては寝込み、起き上がっても気力が湧かないような日が続いて。まるで魂の半分を、南の島に置いてきてしまったみたいだった」
文江さんは声を潜め、仏壇に眠る兄に聞かせるように、あるいは聞かれぬように、続けた。
「夜中に、突然、獣のような叫び声をあげることもあったの。何か恐ろしい夢にうなされているようで……。駆けつけると、兄は寝汗でびっしょりになって、ただ暗闇をじっと見つめているだけ。そんな時、とてもじゃないけど『英雄』なんて声をかけられなかったわ。そこにはただ、何かに怯え続ける、壊れそうな一人の男がいるだけだったから」
PTSD。サバイバーズ・ギルト。
リサーチで得た無機質な単語が、大叔母の言葉によって、生々しい痛みとなって胸に迫る。
祖父の寡黙さは、厳格さの表れなどではなかった。
語ることのできない地獄に蓋をし、その蓋が軋む音に、毎晩耳を塞いでいただけなのだ。
私は、最後の質問を投げかけた。
「そんなお祖父さんが、高見沢恭次という……私のもう一人の祖父に、会う必要があったのでしょうか」
文江さんは、きっぱりと首を振った。
「さあ……。見当もつかないわ。住む世界が違いすぎますもの。兄が、あの……上野の闇市あたりを根城にしていたような方と、わざわざ会う理由なんて、何も」
闇市。その言葉が、私の頭に引っかかった。
礼を言って文江さんの家を辞した私は、夕暮れの道を駅へと向かいながら、冷たい秋風に吹かれていた。
振り返ると、松の枝の向こうに、家の窓明かりが温かく灯っている。
あの静かな家の、暗い仏間で、祖父は一人、何を思っていたのだろう。
私は、再びポケットから棋譜のコピーを取り出した。
友人が指摘した、異様な一手。
守りの要である「金将」を自ら捨てる、あの不可解な動き。
それは、自決の一手にも似ていた。
地獄を語れなかった英雄が、盤上で初めて上げた声なき叫びだったのかもしれない。
ならば、それを受け止めた男は何者だったのか。
次の目的地は、決まった。
屑と呼ばれた祖父がいた世界。
上野の闇市がかつてあった、猥雑で、生命力に満ちた街へ。
私は、高見沢恭次という男の「本物」の姿を探しに行かなければならない。
第三章 屑のいた場所
上野の駅に降り立つと、空気が変わった。
湿ったコンクリートと香辛料、甘く煮詰めたタレの匂いが混じり合った、猥雑な空気が鼻をつく。
高架下をひっきりなしに通過する山手線の轟音が、街全体を巨大な生き物のように震わせている。
アメヤ横丁の入り口に立つと、人の波が渦を巻き、様々な国の言葉と威勢のいい呼び込みの声がカクテルのように混ざり合っていた。
このエネルギッシュな混沌のどこかに、高見沢恭次という男の痕跡が、今も亡霊のように漂っているのだろうか。
母方の親戚からは、ろくな話は聞けなかった。
「あの人の話はしないでくれ」「家の恥だ」と、誰もが古傷に触れられるのを嫌がるように顔を曇らせる。
ただ、一人だけ、遠縁の老婆が、茶箪笥の奥から古い記憶を引っ張り出すようにぽつりと言った。
「恭次さんは、将棋を指している時だけは、まるで王様みたいだったよ。上野に行けば、あの人を知ってる古い人間がまだいるかもしれないねぇ」
その細い糸だけを頼りに、私は上野の碁会所や将棋道場を片っ端から訪ね歩いた。
錆びた看板を掲げた雑居ビルの階段を上る。
どの扉の向こうも、紫煙と、男たちの低い唸り声、そして駒が盤を打つ「パチン!」という鋭い音に満ちていた。
時間の流れから取り残されたような空間で、私は場違いな訪問者だった。
背広姿の私に、盤面に全神経を集中させている老人たちは、一瞥をくれるだけ。
「高見沢恭次という真剣師をご存知ないですか」という私の問いは、「そんな昔のことは知らねえな」というぶっきらぼうな返事で、何度も空気に溶けて消えた。
半ば諦めかけていた矢先、高架下に近い、ひときわ古びた将棋道場の引き戸を開けた。
中には客が二人しかおらず、部屋の隅でストーブが不完全燃焼の匂いを放っている。
番台に座っていたのは、分厚い瓶底眼鏡をかけ、猫のように背中を丸めた老人だった。
私が差し出した棋譜のコピーに、彼はほとんど興味を示さなかった。
だが、その指が友人の言葉をなぞった瞬間、ぴたりと動きを止めた。
「……この『不成らずの歩』。見覚えがある」
店主は、眼鏡の奥の目を細め、埃っぽい記憶の棚を探るように天井を見上げた。
「これは、師匠から聞いたことがある。伝説の真剣師、『上野の恭次』が指したという一局だ」
「上野の恭次……」
私の声が、わずかに上ずる。
「ああ。俺の師匠が若い頃、一度だけ手合わせしたことがあるらしい。ヤクザ相手にも動じず、相手の目を見ただけで次の手が分かった、とんでもない打ち手だったそうだ。だが、酒で身を持ち崩して、あっという間に消えちまった」
店主は、ヤニで黄色くなった指で、対局相手の名前をゆっくりと撫でた。
「この国枝正武とあるな。聞いたことのない名前だ。だが、恭次さんにここまで指させたからには、よほどの打ち手だったに違いない」
私は、正武祖父さんが将棋を指したという話を、親戚の誰も知らなかったことを思い出した。
英雄の祖父は、一体どこで、恭次祖父さんと渡り合うほどの腕を磨いたのだろうか。
店主は、古びた湯呑みの茶を一口すすると、もう一つ、意外な事実を教えてくれた。
「恭次さんはな、昔、たった一人の親友を戦争で亡くしてから、人が変わったように酒と将棋に溺れるようになった、って話だ。その親友も、将棋が滅法強かったらしい。二人で、いつかプロになるって誓い合ってたってよ」
親友の死。その言葉が、私の心に新たな棘を刺した。
恭次祖父さんの自堕落な生活は、単なる劣等感からではなかったのかもしれない。
それは、夢を絶たれた友への、彼なりの弔いだったのではないか。
礼を言って道場を出ると、外はすっかり日が暮れ、ネオンの光がアスファルトの濡れた染みをけばけばしく照らし出していた。
私は、喧騒を避けるように不忍池のほとりまで歩いた。
水面には高層ビルの明かりが揺れ、遠くで救急車のサイレンが鳴っている。
私は、一つの仮説にたどり着いていた。
あの対局は、ただの将棋ではなかった。
それは、二人の失われた魂が、盤の上で邂逅する、必然の儀式だったのだ。
正武祖父さんは、誰にも語れなかった罪を告白するために。
そして恭次祖父さんは、おそらく、その告白を受け止めるに足る、唯一の人間だったからだ。
だが、まだピースが足りない。
恭次祖父さんの親友とは、誰だったのか。
そして、その死が、この一局にどう関わっているのか。
私は、母方の祖母がまだ何かを隠しているような気がしていた。
次に話を聞くときは、もっと深く、核心に踏み込まなければならない。
この物語の最後の扉を開ける鍵は、きっとそこにあるはずだ。
私は冷たいベンチから立ち上がり、再び駅の明かりへと向かって歩き出した。
第四章 餓島の亡霊
母方の祖母が住むのは、私鉄沿線の、再開発から取り残されたような一角だった。
線路脇に密集する、陽の当たらない木造アパート。
その二階へ続く、急で暗い外階段は、人が上るたびに悲鳴のような軋んだ音を立てた。
手すりに触れると、鉄錆の冷たさとざらりとした感触が伝わってくる。
曇りガラスの引き戸の前で息を整え、軽く二度叩くと、中からゆっくりとした足音と、「はいはい」という、障子紙を震わせるような掠れた声が聞こえた。
「まあ、武史。どうしたんだい、また」
祖母は私を見ると、深く刻まれた皺を目尻に寄せ、綻ぶように笑った。
六畳一間の部屋は、祖母の長い年月が染み付いていた。
壁には黄ばんだ柱時計が掛かり、テレビの上には色褪せた家族写真が並んでいる。
万年筆のインクと、沸かした麦茶の香ばしい匂いが混じり合った、懐かしい生活の匂いがした。
上がり框に腰掛けた祖母に、私は一枚の写真を差し出した。
先日、母方の実家の、開かずの桐箪笥の底から見つけ出した、セピア色の一枚だ。
若き日の恭次祖父さんが、まだ酒の翳りを知らない晴れやかな顔で、見知らぬ青年と肩を組み、レンズの向こうにいる誰かに誇らしげに笑いかけている。
「お祖母ちゃん。この、お祖父さんの隣にいる人、誰だか覚えてる?」
祖母は写真を受け取ると、陽の光にかざすように持ち上げ、目を細めた。
その指先が、写真の縁を愛おしむように撫でる。
「……ああ、健ちゃんじゃないか。山本健一さん。恭次の、たった一人の親友だったよ」
その名前を聞いた瞬間、私の背筋を冷たいものが走り抜けた。
防衛省の史料館で見た、インクが滲んだ死亡者名簿。
国枝正武の部隊に属し、餓島で命を落とした兵士たちのリスト。
そこに刻まれていた、忘れようもない名前。
山本 健一。
「健ちゃんはね、将棋が本当に強くてね。恭次と二人、この部屋の窓際で、陽が暮れるまで盤を挟んでいたよ。いつか二人でプロになるんだって、夢みたいなことばかり話しながらね」
祖母の声は、遠い昔の縁側をたどるように穏やかだった。
だが、その穏やかさは、次の言葉で冬の川面のように凍りついた。
「でも、赤紙が来てね。一枚の紙切れが、あの子たちの夢を全部持っていっちまった。健ちゃんは、南の、食べ物もないような島に送られた……。それが、あの子を見た最後だった」
「……ガダルカナル、ですか」
私の問いに、祖母はこくりと、小さく、しかしはっきりと頷いた。
「そうだよ。ラジオじゃ景気のいいことばかり言ってたけど、帰ってきた人たちはみんな『餓島』だって言ってた。あの子が死んでからだよ。恭次が人が変わったように酒を飲み始めて、真剣師なんてものになったのは。まるで、健ちゃんの夢の続きを、裏街道でたった一人でやっているみたいだった……」
全てのピースが、脳内で音を立てて嵌まった。
あの対局は、単なる「英雄と屑の邂逅」ではなかった。
それは、親友の部隊の、たった一人の生還者と、親友の死の影を背負い続けた男が、盤を挟んで対峙する、静かな決闘の場だったのだ。
恭次祖父さんは、全てを知っていた。
国枝正武が誰であるかを知った上で、あの場に臨んでいたのだ。
彼の目的は、復讐だったのか。
それとも、親友が死んだ場所で、一体何があったのか、その真実の探求だったのか。
私は、もう一度、あの棋譜に目を落とした。
国枝正武の罪の告白である**「捨て駒の金」**。
それは、部下を見捨てたという漠然とした懺悔ではない。
山本健一という一人の友を死なせてしまったことへの、恭次に対する、血を吐くような謝罪だったのだ。
そして、それを受けた高見沢恭次の、『不成らずの歩』。
あの手は、単なる赦しではなかった。
それは、目の前の男の罪を赦すと同時に、亡き親友・健一の魂に語りかける、鎮魂の一手だったのだ。
「お前も、プロ棋士という夢に『成る』ことができずに無念だっただろう」。
盤上に打たれた無力な「歩」は、戦争に夢を奪われた全ての若者の涙そのものだった。
父が遺した言葉が、全く新しい意味を持って蘇る。
『うちの親父は英雄だが、お前の親父さんは、屑だが本物だった』
父は、この対局の背景にある全てを知っていたのだ。
国のために戦い、英雄と呼ばれながらも、友を見捨てた罪に苛まれ続けた義父。
社会からは屑と呼ばれながらも、友の無念を一身に背負い、その仇とも言える男の魂を、将棋という自分の土俵で救ってみせた実父。
どちらが英雄で、どちらが屑かなど、誰に決められるというのだろう。
父は、その両方の生き様に、人間のどうしようもない弱さと、そして、それを超える気高さを見ていたのだ。
「本物」という言葉は、父から二人の祖父へ送る、最大限の敬意と愛だったに違いない。
祖母に礼を言い、軋む階段を下りる。
夕暮れの空は、燃えるような茜色と、深い藍色が混じり合っていた。
踏切の警報音が遠くで鳴り響き、世界の全てが、この哀しい物語を肯定しているように思えた。
私は、そっと棋譜を折り畳んだ。
そこには、勝者の名も敗者の名も記されていなかった。
ただ、戦争という巨大な理不尽に翻弄されながらも、人間としての尊厳をかけて向き合った、二人の男の魂の軌跡だけが、静かに刻まれている。
父が私に解かせたかった宿題の答えは、ここにあった。
私は、この声なき物語を、胸に抱いて生きていこうと、強く思った。
冷たい風が頬を撫で、私の視界をわずかに滲ませた。
最終章 不成らずの歩
父の納骨からひと月が過ぎた。
秋晴れの午後、私は一人、多摩川を見下ろす丘の上にある霊園を訪れていた。
午後一時を過ぎた太陽が真上からわずかに傾き、墓石の列に影の輪郭を落とし始めている。
風は凪ぎ、遠くに見える川崎の街並みは陽光の中に静かに沈み、その向こうの川面は銀の鱗粉を撒いたように穏やかにきらめいていた。
カラカラに乾いた風が吹き抜け、桜並木の葉を揺らす音が、まるで囁きのように聞こえる。
砂利を踏む自分の足音だけが、この静寂の中でやけに大きく響いた。
父が眠る、真新しい黒御影石の墓は、まだ土の匂いに馴染みきれていないようだった。
隣に並ぶ、風雨に洗われ角の丸くなった祖父母の古い墓石と比べると、その磨き上げられた黒さはあまりに深く、私の心の空洞をそのまま映しているかのようだった。
ジャケットの内ポケットから、例の黄ばんだ棋譜と、一枚の古い写真を取り出す。
和紙のかさりとした乾いた感触と、硬い印画紙の角が指先に触れる。
私はそれを、ひんやりと冷たく滑らかな墓石の上に、そっと並べて置いた。
「親父、ようやく分かったよ」
声に出した言葉は、風に攫われて消えた。
だが、それでよかった。
これは父への報告であり、私自身の魂への確認でもあった。
「親父が言っていた『本物』って言葉の意味が。そして、どうしてこの棋譜を、たった一枚の紙切れを、あんなに大切に持っていたのかも」
写真の中の二人の笑顔と、棋譜に刻まれた声なき対話を見比べる。
英雄と呼ばれた国枝正武は、その勲章の重さに耐えかねるように、誰にも言えない罪の意識を背負っていた。
餓島で友を見殺しにした亡霊に、生涯苛まれ続けた一人の弱い人間だった。
屑と呼ばれた高見沢恭次は、社会の物差しを捨て、自らの矜持だけを頼りに生きた孤高の男だった。
そして彼は、親友の仇であるはずの男の魂を、断罪ではなく、共感によって救ってみせた。
盤上で交わされた、たった一度の邂逅。
そこには、英雄も屑もいなかった。
ただ、戦争という巨大な運命に翻弄され、心に深い傷を負った二人の人間がいただけだ。
彼らは、将棋という盤上の宇宙で、言葉にならない言葉を交わし、互いの魂に触れたのだ。
捨てられた金将は、正武祖父さんの懺悔。
成らなかった歩は、恭次祖父さんの鎮魂と赦し。
そして、敵陣へ向かった王将は、全ての役割から解放され、一人の人間に還っていくための、静かな旅立ちだったのだろう。
父は、この静かな丘の上から見える景色のように、ただ静かに、二人の人生の全てを見つめていたのだろう。
社会が貼ったレッテルではなく、その奥にある人間の真実を。
だからこそ、父は二人の祖父を等しく尊敬し、愛していたのだ。
この棋譜は、そんな父にとって、人間の救済の可能性を示す、何より大切な宝物だったに違いない。
不意に雲の切れ間から強い光が差し、墓石に彫られた父の名を黄金色に照らし出した。
「親父、ありがとう」
私は心の中で呟いた。
あなたが残してくれた宿題は、僕に、僕自身のルーツを教えてくれた。
僕の血の中には、英雄の弱さも、屑の気高さも、両方流れている。
そのことを、これからは誇りに思うよ。
人は誰もが、社会的な役割という名の「成り駒」になることを期待される。
だが、本当に大切なのは、その役割の奥にある、名もなき「歩」のままの心なのかもしれない。
傷つき、迷い、それでも前に進もうとする、ただの一人の人間としての心を、見失わないことなのかもしれない。
私は、墓石に深く、長い一礼をした。
顔を上げたとき、胸の奥で長らくつかえていた何かが、すうっと溶けていくのを感じた。
私はもう一度、きらめく川面と、どこまでも広がる今日の空を見渡した。
そして、踵を返し、丘を下り始めた。
これからは、私も自分の足で歩いていかなければならない。
たとえ、成ることができなくても。
ただの一歩を、自分の意志で、踏み出すために。
-完-



































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