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『白眼』

その視線は、忠誠を値踏みする。 恩人の「情」に殺されかけた男と、恩人の「死」で覚醒した男。 四百年を貫く「義」が、今、逆襲の「城」を築く。


■ あらすじ

中堅商社「丸菱商事」で燻(くすぶ)る42歳の橘亮太(たちばな りょうた)。彼のアイデンティティは、出世コースから外れ閉塞感を抱える53歳の恩人・部長の**高坂(こうさか)**に認められることだった。だが、橘は自らの野心のため、高坂の引き留めを振り切り、急成長ベンチャー「X-Urban」へ事業本部長として転職する。

新天地で彼を待っていたのは、生え抜きの若手幹部・**松木(まつき)**らからの「落下傘」に向けられる冷たい「白眼」だった。

その孤独の中、橘の意識は、戦国時代の武将・**藤堂高虎(とうどう たかとら)**とシンクロを始める。高虎もまた、自らの才を見出してくれた唯一の恩人・**羽柴秀長(はしば ひでなが)**に絶対の忠誠を誓っていた。

やがて「X-Urban」の社運を賭けた国家プロジェクトのコンペが始まる。だが、橘が設計した核心情報(データ連携アーキテクチャ)が、競合の古巣「丸菱商事」へ漏洩。デジタル・フォレンジック(PC調査)の結果、すべての状況証拠が「スパイ=橘」を指し示していた。 橘は、全社員の「白眼」を浴び、停職処分(事実上の解雇)を言い渡される。

絶望の淵で、橘は高虎の最も暗い記憶を追体験する。 ――恩人・秀長の死。そして後継者も失い、すべてに絶望して高野山へ「出家」した高虎の姿だった。

だが高虎は、還俗する。「情」に生きることを捨て、己の「才」=「築城スキル」のみを武器に、次の天下人・家康に仕える「リアリスト」として蘇る。

橘は悟る。自分を陥れた真犯人が、恩人・高坂の「歪んだ支配欲(情)」と、若手・松木の「嫉妬(白眼)」の共謀であったことを。 高虎が「情」の死から蘇ったように、橘も「恩人への情」との決別を決意する。

停職命令を破り、橘はたった一人、逆襲の「プランB(奇策)」を起動する。それは、高虎が生み出した「層塔型天守(規格化され、強固で、速い)」の思想に貫かれた、完璧な「城」だった。


■ 登場人物紹介

  • 橘 亮太(たちばな りょうた) – 42歳 主人公(現代)。丸菱商事の元課長。閉塞感を破るため、恩人・高坂を振り切って「X-Urban」へ転職。だが「落下傘」として白眼視され、スパイ容疑をかけられる。
  • 藤堂 高虎(とうどう たかとら) 主人公(戦国)。「七度主君を変えた」冷徹なリアリスト。その一方で、若き日に己の才を見出してくれた恩人・羽柴秀長には絶対の忠誠を誓っていた。秀長の死と出家を経て、「情」ではなく「義(実利)」に生きる武将へと変貌する。
  • 高坂 啓介(こうさか けいすけ) – 53歳 (現代の敵役)丸菱商事の部長。橘の恩人。出世コースから外れ、自らのアイデンティティを「橘の師であること」に求めている。橘の転職を「裏切り」と断じ、その歪んだ支配欲から、橘を社会的に抹殺しようと画策する。
  • 松木 健(まつき けん) – 32歳 (現代の敵役)「X-Urban」の生え抜き幹部。橘の部下。年上で高給の橘を「無能な落下傘」と白眼視する。橘を追い出すため、高坂の「共謀」に応じ、社内から漏洩を手助けする。
  • 羽柴 秀長(はしば ひでなが) (高虎の恩人)豊臣秀吉の弟。高虎の「才」を最初に見出し、重用した大名。高虎が唯一「情」で仕えた主君。彼の病死が、高虎の運命を変える。
  • 篠原 祐(しのはら ゆう) – 38歳 「X-Urban」のCEO。合理的だが、橘の「才」を信じたいという葛藤を抱える。

序章: 澱

【現代】

空気が、死んでいた。 湿り気を帯びたまま循環を止めた澱みが、丸菱(まるびし)商事・第二十二会議室の隅々にまで沈殿している。梅雨時の不快指数が、そのまま室内の閉塞感を表していた。 週明け月曜の午前十時から始まった「新規事業戦略会議」は、昼をとうに過ぎた今、その実を終えていた。あとは、「誰が」「どのように」引導を渡すか、その不毛な時間だけが残されている。

課長、橘亮太(たちばな りょうた)(四十二)は、無機質な長テーブルの対岸で、己の企画書が緩慢に「処刑(しょけい)」される様を、無感情に見つめていた。 Yシャツの襟が、じっとりと首筋に貼り付く。外された腕時計の跡が、汗で白く浮き出ていた。

「――つまりだ、橘君」

口火を切ったのは、財務担当の五十嵐(いがらし)常務だった。分厚い眼鏡の奥で、光のない目が、手元の資料と橘の顔を、値踏みするように行き来している。

「君の言う『データ連携アーキテクチャ』とやらは、分かった。最先端だというのは結構。だがね、それを『誰が』担保する? リスクはどうヘッジする? 既存リソースとのシナジーは。要するに、二年後のキャッシュフローが、見えんのだよ」

『前例がない』。 その一言を、この男たちは、この二時間、実に様々な言葉に置き換えてきた。 橘は、三日三晩、精魂を込めて積み上げたロジックという名の「石垣」が、この「責任を取りたくない」というだけの、鈍い鉄槌で無残に突き崩されていくのを感じていた。 胃の奥から、酸っぱいものが込み上げてくる。

隣席の若手は、とうに反論する気力も失い、ノートPCの画面に浮かんだ無意味なグラフに視線を落としていた。会議室に響くのは、常務の粘つくような声と、プロジェクターの排熱ファンの、虚しい唸りだけだった。

「……よって、本プロジェクトは、時期尚早。一旦、ペンディング(・・・・・)とする」

五十嵐がそう宣言すると、待ってましたとばかりに、他の役員たちが安堵したように頷いた。 「ペンディング(保留)」とは、この会社において「死」を意味する。誰の責任にもならぬよう、陽の当たらぬ棚の上で埃を被り、静かに腐り落ちるのを待つだけ。

椅子の軋む音と共に、男たちが死屍のようにぞろぞろと退出していく。その疲労と諦念に色を失った横顔こそが、丸菱商事という「城」の、今の現実だった。

「橘」

橘が、重い腰を上げようとした時、背後から呼び止められた。 振り返ると、インフラ部門の部長、高坂啓介(こうさか けいすけ)(五十三)が、疲れた顔で、しかし、人の良さそうな笑みを無理やり浮かべて立っていた。

「気にするな。常務も古いんだ。財務畑の人間に、未来への投資なんぞ、分かるものか」 高坂は、橘の肩を、分厚い手で強く叩いた。その湿った掌の感触に、橘は微かな不快感を覚えた。 「……すみません、部長。力及ばず」 「いいんだ」高坂は、声を潜めた。「あれは俺からもう一度、上手く言っておく。……だがな、橘。お前は少し、急ぎ過ぎる。出る杭は打たれる。この会社で、それを一番知っているのは、俺たちだろう」

高坂は、橘の新卒時代からの恩人だった。かつては敏腕で鳴らし、橘を直属の部下として引き上げてくれた。 だが、その高坂も、五年前の派閥争いに敗れて以来、出世コースから外れ、今は「良き上司」というだけが取り柄の、牙を抜かれた男になっていた。

「お前の才は、俺が一番わかってる」 高坂は、口癖のようにそう言った。 「だから、焦るな。波風立てるな。……お前は、俺が必ず守る」

その言葉が、橘の首筋を冷たく這った。 (守る、か) いつからだろう。この恩人の「情」が、温かい庇護ではなく、息苦しい「呪縛(じゅばく)」に変わったのは。 『お前は俺の最高傑作だ』 いつか酒の席で言われた言葉が、見えぬ鎖となって橘の足首に絡みついている。 この男は、自分という「手駒」を手放したくないだけなのではないか。

澱んだ自席に戻ると、ジャケットの内ポケットに入れたスマートフォンが、短く震えた。 ロックを解除すると、一件のメッセージ。 学生時代の友人、今は外資系のヘッドハンティングファームに籍を置く、佐伯(さえき)という男からだった。

『橘、生きてるか。お前の「才」、そんな澱んだ沼で腐らせる気か』

まるで、先ほどの会議を見ていたかのような文面に、橘は息を飲んだ。 添付されていたのは、一件の非公開求人票。 急成長ベンチャー「X-Urban(エックス・アーバン)」。 募集ポジションは、「事業開発本部長」。 提示された年収は、今の倍に近かった。

『一度、CEOと会え。値踏みされるのは、今いる場所だけだと思うな』

橘は、指先が冷たくなるの感じていた。 「値踏み」。 その言葉だけが、澱んだオフィスの中で、錆びた鉄の臭いを放っていた。

【戦国】

天正元年(一五七三)、夏。 泥であった。 北近江(きたおうみ)、小谷城(おだにじょう)。 織田信長(おだ のぶなが)に完全包囲された城内は、長雨と汚物、そして兵たちの絶望が混じり合い、強烈な腐臭を放っていた。

藤堂与四郎(とうどう よしろう)(二十一)、のちの高虎(たかとら)は、その泥濘の中で、槍を握りしめ、西の丸の櫓から、眼下に広がる織田の大軍を見下ろしていた。 数えるのも馬鹿馬鹿しい、蟻のような大群だった。 (……詰み、か)

仕える主君は、浅井長政(あさい ながまさ)。 その「器」は、とうに見切っていた。 信義に厚い。それは美徳であろう。 だが、その信義の対象が、風前の灯である朝倉家であったが故に、長政は自ら、信長という巨獣の喉元に首を差し出した。 愚直であり、美しい滅びだ。

(だが、犬死には御免だ)

与四郎の胸に渦巻いているのは、主君への「恩義」ではない。 己の全てである、この「才」への渇望だった。 用兵の才。何より、まだ誰も知らぬ、新たな「城」を築く才。 それを正しく「値踏み」し、存分に振るわせてくれる「主(あるじ)」への、焦げるような渇き。 浅井長政という男は、この与四郎の才を見抜けなかった。ただの一兵卒としてしか使えなかった。それだけの器だった。

小谷城は沈む船だ。 この船に「義理」を立て、美しくも無意味な「情(しがらみ)」と共に、泥水に沈むか。 あるいは、己の「才」だけを頼りに、裏切り者と罵られながら、荒れ狂う「時」の大海へ漕ぎ出すか。

「与四郎、夜番か。精が出るな」 古参の兵が、酒臭い息を吐きかけて通り過ぎる。 彼らは、明日にも討ち死にするだろう。 与四郎は、無言で頭(こうべ)を垂れた。 (忠誠とは、人に捧げるものではない。己の「才」に捧げるものだ)

その夜、与四郎は荷駄に紛れ込ませてあった、わずかな銭と干し飯(ほしいい)を懐にした。 闇に紛れ、泥に塗れ、犬のように城を這い出した。 目指すは、南。 織田の陣中、その先――。 信長の弟・信澄(のぶすみ)か。いや、それよりも、あの「猿」と呼ばれる男、羽柴秀吉(はしば ひでよし)の弟、羽柴秀長(はしば ひでなが)。 兄の影で兵站と実務を握る、あの「実」を取る男こそが、己の才を正しく値踏みするはずだ。

七度にわたる「主君替え(=転職)」の、その一度目。 橘亮太が、最初の「転職」を決意する、四百十年余も昔の、出来事であった。

第一章: 新参

【現代】

高坂啓介(こうさか けいすけ)の顔が、能面のように強張った。 「……本気か、橘」 絞り出すような声だった。 丸菱商事、十七階。外部との打ち合わせに使う、無機質な応接室。橘亮太(たちばな りょうた)は、高坂と二人きりになるために、この「中立地帯」を選んだ。 ガラスのテーブルに置かれた一枚の白い紙が、二十年という歳月の重みを、あまりにも無造作に断ち切ろうとしていた。

「X-Urban……」 高坂は、退職願に書かれたその文字を、まるで汚物でも見るかのように指先で弾いた。 「あの、得体の知れんベンチャーか。橘、お前、騙されてるんじゃないのか。何を吹き込まれた」 「いえ。自分で調べて、自分で決めたことです」 「自分で、だと?」 高坂は、ふう、と大きく息を吐いた。その目が、じっとりと橘を射抜く。それはもう、いつもの温和な恩人の目ではなかった。 「俺を、裏切るのか」

その言葉は、鈍器となって橘の胸を打った。罪悪感が、粘り気のあるコールタールのように胃の奥からせり上がってくる。 「……ご恩は、忘れません。ですが、俺は――」 「恩を忘れない、だと?」高坂は低い声で笑った。「恩を忘れない人間が、俺の顔に泥を塗り、あまつさえ競合紛いの会社に走るのか。ああ?」

その通りだった。X-Urbanが今、最も力を入れているスマートシティ分野は、橘が丸菱で進めようとして、高坂以外の全員に潰された、あの企画そのものだった。 高坂は立ち上がり、狭い応接室の窓辺に立った。逆光が、その分厚い肩を、不気味なシルエットに変える。

「……二十年だぞ、橘。お前が、まだ右も左も分からんヒヨッコだった頃から、俺が誰の目からお前を守ってきたと思ってる。常務に楯を突いた時も、役員会で無理筋の企画を通そうとした時も、全部、俺が頭を下げて回った。……そうだろ?」 「…………はい」 「お前のその『才』とやらを、ここまで育てたのは、誰だ」

それは問いではなかった。恩という名の「負債」を突きつける、最終通告だった。 「俺の情が、そんなに安っぽいものだったか」 「違います。部長に教えていただいたこと、守っていただいたこと、その全てに感謝しています」 橘は、深く頭を下げた。そして、顔を上げ、初めて高坂の目を真っ直ぐに見た。 「ですが、だからこそ、行かねばなりません。俺は、俺の『才』が、あの澱んだ会議室で腐っていくのを、もう見ていられません」

高坂の顔が、怒りで歪んだ。 「……澱んでる、だと? この俺のいる場所が」 「部長、俺は――」 「出て行け」

高坂は、テーブルの退職願を掴むと、橘の胸に叩きつけた。 「二度と俺の前に顔を見せるな。この、恩知らずの、裏切り者が」

橘は、床に落ちた紙片に一瞥もくれず、最後にもう一度、深々と頭を下げた。 「……二十年間、ありがとうございました」 ドアを閉める。 背中に突き刺さったのは、もはや「情」ではない。嫉妬と失望、そして拒絶が混じり合った、粘つくような憎悪。 それは、橘が人生で初めて浴びた、身内からの「白眼(はくがん)」だった。

二週間後。 橘は、X-Urbanのオフィスフロアに立っていた。 丸菱商事の、くすんだベージュ色で統一された静寂とは対極だった。 壁一面のガラス。天井を走る剥き出しの配管。フロアを縦横無尽に滑るバランススクーター。響き渡るBGMと、平均年齢三十代前半の、熱に浮かされたような喧騒。 ダークスーツに身を包んだ橘は、まるで昭和の時代から迷い込んだ化石のように、その場違いな空間に立ち尽くしていた。

「橘さんですね! CEOがお待ちです!」 案内されたガラス張りの社長室で、橘はCEOの篠原祐(しのはら ゆう)(三十八)と対面した。Tシャツにジーンズ。鋭い目つきが、橘の頭の先から靴の先までを、一瞬で値踏みする。 「ようこそ、X-Urbanへ。期待しています。あなたの『丸菱での二十年』という『経験(しがらみ)』が、俺たちの『速度(スピード)』を殺さないことを、ね」

棘のある歓迎の言葉だった。 篠原は橘を、そのままオープンフロアの中央に連れて行った。 「全員、手を止めろ! 今日からジョインする、橘亮太さんだ。事業開発本部長として、例の『国家戦略特区プロジェクト』をリードしてもらう!」

フロアが一瞬静まり返り、無数の視線が橘に集中した。 それは、「歓迎」ではなかった。 『落下傘(らっかさん)』。 『丸菱(ふるす)のお偉いさん』。 『俺たちのプロジェクトを、横取りするのか』 好奇心と、それ以上に冷ややかな猜疑の色。 橘は、その視線の中心で、背筋が冷たくなるのを感じていた。

篠原は、チームの最前列にいた、一人の男に声をかけた。 「松木。彼が、お前の新しいボスだ。よろしく頼む」 松木健(まつき けん)(三十二)。 フーディーのフードを被ったまま、ゆっくりと立ち上がった。このプロジェクトの、事実上の現場リーダー。 「……よろしく、お願いします」 差し出された手は冷たく、握手というよりは、ただ触れただけ、という感触だった。 その目。 松木の目は、高坂の「情」が歪んだ目とも、篠原の「値踏み」する目とも違っていた。 それは、自らの縄張りを侵しに来た「異物」を見る、冷徹な「白眼」だった。

最初の戦略会議。橘は、丸菱で培ったインフラ整備のノウハウを元に、プロジェクトの課題を指摘した。 「――そこのリスクヘッジが甘い。国家特区となれば、経産省や国交省との折衝は必須だ。丸菱では、こういう場合、まずAとBの根回しから……」 「あの」 松木が、スマホから顔も上げずに橘の言葉を遮った。 「橘さん。うちは、丸菱さんみたいな『お役所』じゃないんで。その『前例』とやらと『根回し』は、ここでは不要です」 室内の空気が凍る。 「……いや、そういう意味ではなく、純粋に技術的なリスクとして」 「ですから」松木は、ここで初めて橘の目を真っ直ぐに見た。「俺たち、あんたよりこのプロジェクトを一年長くやってるんで。やり方は、俺たちに任せてもらえますか。……本部長」

最後の「本部長」という言葉に、隠しようのない侮蔑が込められていた。 橘は言葉を失った。 二十年分の「経験(スキル)」は、この新しい戦場では、価値を持つどころか、「足枷(あしかせ)」として白眼視される対象でしかなかった。 恩人という「城」を捨て、裏切り者のそしりを受けてたどり着いた新天地。 そこは、孤立無援の、敵陣の真っ只中だった。

【戦国】

羽柴秀長(はしば ひでなが)は、目の前の男を値踏みしていた。 藤堂与四郎(とうどう よしろう)(二十一)。 浅井家から逃げ出してきた、ただの牢人。 だが、その目は、泥の中を這ってきたにしては、異様なほど澄んでいた。 兄・秀吉(ひでよし)ならば、その「運の強そうな目」とやらを理由に、即座に取り立てるかもしれぬ。だが、自分は違う。実だ。この男が、羽柴家の「実」になるか否か。

「……浅井を捨てたか」 秀長の問いに、与四郎は即答した。 「滅びる船に、用はござりませぬ」 「ほう。忠義というものを持たぬか」 「忠義は、己の『才』にのみ。その才を使いこなせる御方にこそ、身命を賭しまする」

秀長の背後に控えていた譜代の臣たちが、あからさまに顔を顰めた。 「……裏切り者が、よく吠える」 「浅井の泥の臭いがするわ」 その「白眼」のささやきを、与四郎は意にも介さず、続けた。 「わたくしは、城が築けまする」 「城、だと? わが兄が、今、長浜に途方もない城を築いておる。あれ以上のものがか」

「兄君の城は、『見せる』ための城」 与四郎は、臆すことなく言い切った。 「わたくしが築くのは、『戦う』ための城。鉄砲を防ぎ、鉄砲で殺めるための、新しい仕掛け。敵の動線、兵の心理、その全てを読み切った、実のための城にございます」

秀長は、思わず身を乗り出していた。 この男は、今、主流の「土の城」ではなく、未来の「石と仕掛けの城」を語っていた。 それは、兄・秀吉の派手好みとは真逆の、兵站と実務を司る秀長自身の合理性と、奇妙なほどに一致していた。

「面白い」 秀長は、声を立てて笑った。 「だが、口だけならば、何とでも言える。……譜代の者たちの目を見よ。おぬしを『新参の裏切り者』としか見ておらぬ」 「『白眼』は、才無き者の常。わたくしは、あなた様にのみ仕えます。他の視線は、要りませぬ」

秀長は、与四郎のその「才」への絶対的な自負と、兄ではなく、この自分という「実」を選んだ慧眼に惚れ込んだ。 「よかろう。わしの家臣として、三百石をくれてやる。だが、城はまだ任せぬ。まずはお前の『実』を、戦場で見せよ」 「はっ!」

譜代の臣たちが、不満の声を上げようとするのを、秀長は手で制した。 「黙れ。お前たちの『白眼』で、信長公の天下布武が成るか。この男の『才』は、いずれ羽柴家の宝となる。この男への侮辱は、わしへの侮辱と知れ」

高虎(たかとら)(この頃、与四郎から改名)は、秀長のその言葉に、全身の血が熱くなるのを感じていた。 (この人だ) 己の「才」を信じ、譜代の「白眼」から、守ってくれる。 高虎は、泥にまみれた額を、地に擦り付けた。 「この高虎、生涯をかけて、殿に『忠誠』を誓いまする」

それは、冷徹なリアリストであった高虎が、その生涯で唯一、「情(じょう)」によって捧げた誓いだった。 彼は、己の才を存分に振るうべく、新たな戦場へと身を投じていく。 恩人・秀長という、絶対的な庇護のもとで。

第二章: 亀裂

【現代】

X-Urbanの社運は、一つのコンペに賭けられていた。 『国家戦略特区・次世代都市OS構築プロジェクト』 数百億円の予算が動く、官民一体の巨大事業。これを獲れるか否かが、X-Urbanが真のリーディングカンパニーとなるかの分水嶺だった。

そして、X-Urbanは、第一次選考を一位で通過した。 「勝ったぞ!」 「丸菱と、あのNTT-Dを抑えた!」 フロアは、株価が沸騰した証券取引所のように、狂騒的な熱気に包まれた。CEOの篠原祐が、中央のデスクに飛び乗り、叫んだ。 「まだ一次だ、浮かれるな! だが、この波を掴んだのは、間違いなく彼のおかげだ!」

篠原が指さしたのは、橘亮太だった。 橘が丸菱時代に「ペンディング」にされた、あの企画書。そのロジックの核を、X-Urbanの技術力で再構築した提案書が、審査員である霞が関の役人たちの心を射抜いたのだ。 「最終提案に向け、プロジェクトの全権を、橘本部長に一任する!」

その宣言が、熱狂に冷水を浴びせた。 すべての視線が、一人の男に集まる。 松木健だ。 彼は、このプロジェクトの叩き台を一年がかりで作り上げてきた、事実上の責任者だった。

松木は、無表情に篠原を見上げると、短く「……承知しました」とだけ言った。 祝福の拍手が、まばらに起こる。だが、それは橘に向けられたものではなかった。松木への「同情」と、橘という「新参者」への、より一層冷え切った視線だった。 橘は、己の功績が、そのままX-Urban社内における「亀裂」の深さになったことを悟った。

その日から、松木の「白眼」は、隠微な「妨害(サボタージュ)」へと変わった。 「落下傘」を、兵糧攻めにする。それが松木の選んだ戦法だった。

橘が戦略会議を招集しても、松木配下のコアエンジニアたちは、必ず「別件の重役会議」で半分が欠席した。 「すみません、橘さん。こっちも篠原社長マターなんで」 松木は、悪びれもせずにそう言った。

橘が、基礎設計の検証に必要なデータアクセスを申請しても、承認は意図的に遅らされた。 「ああ、そのデータ、管轄が違いますね。申請フロー、丸菱さんとは違うんで。これ、全部読んでサイン貰ってきてください」 渡されたのは、橘が把握していない、膨大な内規の束だった。

slackの重要なチャンネルから、橘は静かに外された。 『#prj-core-dev』 『#back-channel』 橘は、事業本部長という「城主」でありながら、その城の「本丸」で何が起きているかを、誰よりも知らぬ男となった。 彼は、完全に「蚊帳の外」に置かれた。

(これが、ベンチャーか……) 丸菱の「澱み」とは違う。ここは、才無き者、あるいは「仲間」と認められぬ者を、即座に死に追いやる、剥き出しの戦場だ。 孤立と焦燥が、橘の判断を鈍らせる。 金曜の夜。誰もいなくなったオフィスで、彼は、高坂啓介に切り捨てられた、あの退職願の光景を思い出していた。 (……あの人は、間違っていた。だが、あの人だけが、俺を「守る」と言った) 罪悪感だった。 恩人を裏切ったという負い目が、この孤立無援の状況で、毒のように心の隙間に染み込んでくる。 橘は、スマートフォンを手に取り、その番号を押していた。

『……俺だ』 高坂の声が、妙に耳に馴染んだ。 「……部長。俺です、橘です」 『おお、どうした。お前からかけてくるなんて。……ふん、声が死んでるぞ。あの派手な「城」で、いじめられてるか』 図星だった。橘は、言葉に詰まった。 「いえ……少し、声が聞きたくなっただけ、です」 『……そうか』 高坂は、それ以上何も聞かなかった。その沈黙が、橘には救いだった。 『今夜、少し飲むか。いつもの場所で』 「……はい」 断る理由は、見つからなかった。

赤坂の、古びたホテルのバーラウンジ。 高坂は、そこにいた。 「まあ、座れ。……どうだ、居心地は」 「……」 橘は、水割りのグラスを握りしめた。 高坂は、昔話をした。橘が新入社員だった頃の失敗談。二人で乗り切った、困難なプロジェクト。 それは、橘が丸菱に置いてきたはずの「情」だった。 「橘。お前は、俺の息子みたいなもんだ。……いつでも、戻ってこい。俺のポストなら、まだ空けてある」 高坂の言葉が、温かく、そして重く、橘の疲弊した心に染み渡っていく。

その時だった。 ラウンジの入り口で、二人の男が、橘たちを見て目を見開いた。 X-Urbanの、松木健。 そして――コンペの競合相手である、別の大手デベロッPERの幹部だった。

松木は、橘と高坂の親密そうな様子と、競合の男の顔を、値踏みするように見比べた。 その「白眼」は、もはや侮蔑ではなかった。 「スパイ」を見る、冷徹な猜疑そのものだった。 松木は、何も言わずに踵を返し、闇に消えた。

その翌日。 松木のPCに、一通のメッセージが届いた。 差出人は、高坂啓介。SNS経由の、事務的な文面だった。 『昨夜は奇遇でしたね、松木様。ウチの元部下が、貴社の重要なプロジェクトを任されているとか。……彼の「才」は本物ですが、いかんせん、忠誠心が無い。古巣の人間と、競合他社の人間と、ああして会っているようでは、先が思いやられます』

松木は、PCの画面を睨みつける。 高坂は、橘が自分だけでなく、あのデベロッパーの幹部とも「繋がっている」と示唆していた。

高坂からのメッセージは、こう締め括られていた。 『彼の「暴走」は、貴社にとっても、我が丸菱にとっても、望ましいことではない。……もしよければ、情報交換(・・・・・)しませんか?』

それは、橘亮太という「城」を内外から崩すための、「共謀」の狼煙だった。

【戦国】

天正十九年(一五九一)、正月。 藤堂高虎は、大和・郡山城の普請現場に立っていた。 彼の人生において、最も充実した日々だった。 恩人・羽柴秀長は、兄・秀吉から大和・紀伊・和泉百万石を任され、その実務の一切を、この高虎に任せていた。

高虎は、秀長の「才」を見抜く目に、絶対の信頼を寄せていた。 「高虎。お前の築く城は、美しい。だが、お前の真骨頂は、美しさではないな」 秀長は、高虎が設計した新しい石垣の図面を見ながら、そう言った。 「これは、どういう仕掛けだ」 「はっ。これは『横矢掛(よこやがかり)』にございます。城壁を屏風のように折ることで、石垣に取り付く敵兵に、側面から矢と鉄砲を浴びせかけるためのもの。……戦うための城にございます」 「うむ。お前は、わしの最高の『槍』であり、最強の『壁』だ。この城を、天下の『実』を担う、わが羽柴大納言家の、証としてくれ」

高虎は、この恩人のために、己の才の全てを注ぎ込んでいた。 兄・秀吉の「見せる」ための大坂城とは違う。 「実」のための、不落の城を。

だが、その正月。 高虎の「庇護者」であり、「忠誠(=情)」の全てであった男が、病に倒れた。 秀長は、高虎を枕元に呼んだ。 痩せ衰えた手が、高虎の手を掴む。 「高虎……」 「殿……」 「兄上……秀吉は、もう、昔の兄上ではない。……朝鮮に、渡る、と」 秀吉による、無謀な大陸出兵計画。秀長は、それに唯一、反対していた。 「殿、ご無理を」 「聞け。……わしが死んでも、お前の『才』は、死なすな。……お前の城は、戦のためだけではない。……泰平の世を、守る、礎だ」

それが、恩人の最後の言葉だった。 天正十九年一月二十二日。 羽柴秀長、死去。

高虎の「忠誠(=情)」の拠り所が、音を立てて崩れ落ちた。 後継者には、秀長の幼い養子・秀保が就いた。高虎は、秀長の遺言に従い、この幼君を必死に補佐した。 だが、秀長という「重石」を失った豊臣政権は、急速に歪み始める。

兄・秀長の死を、秀吉は嘆き悲しんだ。 だが、その悲しみは、政権の「実」を担う弟を失ったという「焦燥」へと変わった。 秀吉は、秀長の旧領を統制するため、石田三成(いしだ みつなり)ら「文治派(ぶんち は)」の官僚たちを、大和に送り込んだ。

郡山城の、高虎の執務室。 三成は、秀長の喪も明けぬうちに、分厚い検地帳を広げた。 「藤堂殿。秀長公の治世は、些か、大らかに過ぎたようだ。太閤殿下の御意に従い、これより、大和の石高を、再び洗い直す」

高虎は、冷たい目で三成を見た。 「……それは、亡き秀長公の『実』を、疑うということか」 「『実』ではない。『法』だ。太閤殿下の定めた『法』こそが、豊臣の『義』。……そなたのような『新参者』には、理解できぬかもしれぬがな」

三成の「白眼」は、才への嫉妬ではなかった。 秀長という「情」に仕え、太閤殿下の「法」に拠らぬ高虎を、「異物」として排除しようとする、官僚の冷徹な視線だった。

高虎は、悟った。 (……この城も、もはや、わが主の城ではない)

豊臣家との間に、巨大な「亀裂」が生じた瞬間だった。 高虎の視線は、もはや大坂には向いていなかった。 東。 関東に八カ国を領し、太閤の「法」から距離を置き、次の「実」を狙う男。 徳川家康(とくがわ いえやす)。 高虎は、己の「才」の、新たな「値踏み」の先を、静かに定めていた。

第三章: 白眼

【現代】

事件は、コンペの最終提案書提出を、三日後に控えた火曜の朝に発覚した。 「――データが、ありません」 CEO篠原祐の執務室。 セキュリティ部門の責任者が、徹夜明けの充血した目で報告した。 「昨夜未明、02時14分。当社の基幹サーバーに不正アクセス。持ち出されたのは、戦略特区コンペの……根幹データ。橘本部長が設計した『データ連携アーキテクチャ』の、第一次提案書を含む全設計図です」

篠原の顔から血の気が引いた。彼はデスクのタンブラーを握りしめ、骨が白くなるほど力を込めた。 「漏洩先は」 「……競合、丸菱商事の関連IPアドレスです」

その名が出た瞬間、室内の温度が数度下がった。 篠原は、無言で内線電話を掴んだ。 「橘本部長を、今すぐここに。……いや、待て。デジタル・フォレンジックチームを先に緊急招集しろ。全役員と、松木健もだ。第一会議室。……橘本部長には、その後で来てもらう」

橘は、自分が設計したシステムの「漏洩」という、技術者として最大の汚辱を知らされ、愕然とした。 「そんな馬鹿な! 俺のアーキテクチャは……!」 「橘さん」篠原が、氷のように冷たい声で遮った。「事実だ。今から、君の全端末の調査を行う。PCとスマートフォンを、まずここに置いてくれ」 「もちろん、です。俺は……」 「わかってる。今は、何も言うな」

だが、橘が潔白を証明する前に、第二の矢が放たれていた。 篠原が会議室へ向かう直前、彼個人のPCに、一本の「匿名内部告発」メールが届いていた。

『貴社に、丸菱のスパイが紛れ込んでいる。 S・T(戦略特区)プロジェクトリーダー。 古巣の恩人と、今も赤坂で密会を重ねている男。 これ以上、社の機密を売らせるな』

イニシャル。プロジェクトリーダー。赤坂での密会。 パズルのピースは、すべて橘亮太という一点に収斂していく。

緊急役員会。 橘は、会議室の中央に、被告人のように立たされていた。 ガラス張りの壁の向こうで、フロアの全社員が、何事かとこちらを窺(うかが)っている。 デジタル・フォレンジックの責任者が、淡々と調査結果を報告した。

「――漏洩は、昨夜02時14分に実行されています。データは、橘本部長のIDとパスワードを用い、正規の管理者権限でアクセスされた。転送が完了した後、02時16分にログアウト。偽装の形跡は……見られません」

橘は、全身の血が凍るのを感じた。 「待ってください! 俺じゃない! その時間は、俺は確かにログインしていましたが、設計の見直しを……!」 「02時14分、ですか」 冷笑を浮かべ、初めて口を開いたのは、松木健だった。 彼は、心配そうに眉を寄せ、芝居がかった仕草で橘を見た。 「確かに、その時間、本部長室の灯りは点いていましたね。俺も残業していて、見ました。……てっきり、最終提案に向けて、お一人で集中されているのだと……」

それは、完璧な「アリバイ」の証言だった。 橘が「たしかに、そのPCの前にいた」ことを証明する、最も悪質な「証言」だった。 「何を……!」 橘が松木を睨みつける。だが、松木はもう橘を見ていない。

篠原が、告発メールをスクリーンに映し出した。 『スパイ』『古巣の恩人』『赤坂で密会』 橘は、罠に嵌められたことを悟った。あの夜の、高坂との酒席。そして、松木との遭遇。

「橘君」 篠原が、低い声で問うた。 「君は、丸菱商事の高坂部長と、密会していた。事実かね」 「……密会では、ありません。あれは、ただ、昔の……」 「事実か、と聞いている」 「……会ったのは、事実です」

会議室が、蜂の巣をつついたように騒めいた。 「おい、本当か……」 「丸菱と繋がってたのかよ……」

その瞬間、松木が、待っていましたとばかりに手を挙げた。 「篠原社長! 俺……俺、言わなければならないことがあります!」 彼は、悲痛な、正義感に燃える部下の顔を完璧に演じていた。 「俺、その現場を、見てしまったんです! 先週金曜、赤坂のバーです! 橘本部長は、高坂部長と……それだけじゃない。競合である、あの、大手デベロッPERの幹部とも同席していた!」

これが、決定打だった。 橘は、あの時ラウンジにいた、もう一人の男の顔を思い出せなかった。高坂の知り合いだと、軽く紹介されただけだった。 「違う! あれは、高坂部長の知人で……俺は、名前も……!」 「本当ですか?」松木が、悲しそうに首を振る。「あんなに親しげに、三人で話し込んでいたのに。……俺は、信じてたんです。橘本部長の『才』を。なのに……あなたは、丸菱に情報を売るだけじゃなく、別の競合にも、俺たちのプランを……!」

「違う!」 橘の絶叫は、もはや誰の耳にも届かない。 若手社員たちの、昨日までの「値踏み」する視線は、今や、汚物を見るかのような、剥き出しの「白眼」へと変わっていた。 『落下傘』『スパイ』『裏切り者』 無数の声が、橘の鼓膜を打つ。

篠原が、静かに立ち上がった。 「橘本部長」 その声には、一切の感情がなかった。 「調査が完了するまで、君を停職処分とする。本日付で、すべての業務、すべてのデータアクセス権限を剥奪する」 篠原は、橘のデスクに置かれていた私物入りの段ボール箱を、顎で示した。 「……PCと、社員証を、ここへ置いて、出て行け」

それは、事実上の解雇通告だった。 橘は、震える手で、首から提げていた社員証を外した。 カツン、と乾いた音が、死のように静まり返った会議室に響いた。 橘は、全役員と、そして松木の、勝利を確信した「白眼」に晒されながら、背中を丸め、逃げるようにオフィスを後にした。

【戦国時代】

慶長五年(一六〇〇)九月十五日。関ヶ原。 濃霧が、数万の男たちの殺意を湿らせていた。 藤堂高虎は、徳川家康率いる東軍の先鋒として、馬を静止させていた。 その視線の先、西軍・大谷吉継(おおたに よしつぐ)の陣から、凄まじい罵声が飛んでくる。

「藤堂玄蕃(げんば)! この裏切り者めが!」 「太閤殿下の御恩を忘れたか!」 「浅井を裏切り、豊臣を裏切る! まさに七度の変節漢!」

それは、かつて同じ豊臣の釜の飯を食った者たちの、怨嗟の声だった。 高虎は、その「白眼」の嵐の中で、微動だにしなかった。 (恩、か) 高虎の脳裏を過(よ)ぎるのは、恩人・羽柴秀長の顔。 あの人が死に、三成が「法」で大和を蹂躏(じゅうりん)した時、高虎の「情」も死んだ。

今、高虎が信じるのは、「情」ではない。 家康が創る「泰平の世」という、冷徹な「義(システム)」のみ。 その「義」を成すためならば、千の「白眼」も、万の罵声も、甘んじて受けよう。

霧が、わずかに晴れた。 大谷吉継の、白頭巾(しろずきん)に包まれた顔(かんばせ)が見える。 高虎は、右手を静かに上げた。

「――鉄砲隊、構え」

橘の絶望が、この「裏切り者」と呼ばれた男の、非情なまでの「覚悟」と、今、確かにシンクロしていた。

第四章: 出家

【現代】

リビングの遮光カーテンは、閉ざされたままだった。 時刻は、昼をとうに過ぎているはずだった。だが、薄暗い部屋には、時間の感覚すらも麻痺(まひ)した空気が澱(よど)んでいる。 橘亮太は、ソファに、死んだように沈み込んでいた。 停職処分から、丸一日が過ぎた。

テーブルの上には、飲み干された酒の缶が転がり、コンビニ弁当のプラスチック容器が、食べ残しのソースをこびりつかせたまま放置されている。 スマートフォンは、昨日から一度も鳴らない。 X-Urbanの誰からも。 篠原祐からも、松木健からも。 そして、二十年間、あれほど頻繁(ひんぱん)に連絡を取り合ってきた、高坂啓介からさえも。

(……終わった)

社会的に、抹殺された。 その実感が、じわじわと手足の先から体温を奪っていく。

(何が、間違っていた?) 丸菱にいた頃。高坂の「情」に応え、「恩」に報いようとすれば、己の「野心」が死んだ。 X-Urbanに来て。己の「野心」を追えば、高坂の「情」を裏切り、松木たちの「白眼」に晒された。 結果、その両方から「スパイ」という最悪の烙印(らくいん)を押され、全てを失った。 何という、救いのない仕掛けか。

高坂の歪んだ「支配欲」。松木の幼稚な「嫉妬」。 その二つが「共謀」した、完璧な罠。 (ああ、そうか……) 橘は、乾いた笑いを漏らした。 高坂は、俺が丸菱を辞めたあの瞬間から、こうなることを予期していたのかもしれない。いや、あるいは、仕組んでいたのか。 己の「最高傑作」が、自分の手の届かぬ場所で成功することが許せず、最初から、潰すつもりで――。

そこまで考えて、橘は思考を放棄した。 もう、どうでもいい。 何もかもが、馬鹿馬鹿しい。 橘は、目を閉じた。ソファの冷たい革の感触だけが、現実だった。

その、重く冷たい絶望が、四百年の時の隔たりを溶かした。 橘の意識は、抵抗する術もなく、藤堂高虎の、人生で最も暗い「底」へと、引き摺り込まれていった。

【戦国時代】

天正十九年(一五九一)、郡山城。 死の匂いが、満ちていた。 高虎は、痩せ細った主君・羽柴秀長の手を、ただ握りしめていた。 「殿……」 「高虎……」 秀長は、荒い息の下で、絞り出す。 「兄上……秀吉は、もう、昔の兄上ではない。……朝鮮に、渡る、と」 秀吉による、無謀な大陸出兵計画。秀長は、それに唯一、反対していた。 「殿、ご無理を」 「聞け。……わしが死んでも、お前の『才』は、死なすな。……お前の城は、戦のためだけではない。……泰平の世を、守る、礎だ」

それが、恩人の最後の言葉だった。 一月二十二日。 高虎の「忠誠(=情)」の拠り所が、崩れ落ちた。

彼は、秀長の遺言に従い、その幼い養子・羽柴秀保(はしば ひでやす)に仕えた。この「情」の残滓(ざんし)を守り抜こうと、必死に補佐した。 だが、秀長という「重石」を失った豊臣政権は、急速に歪み始める。 石田三成ら文治派が、秀長の「実」を「法」で蹂躙していく。

そして、文禄四年(一五九五)。 その秀保もまた、十津川(とつかわ)で謎の急死を遂げる。 まだ、十七歳だった。

高虎の中で、何かが、音を立てて砕け散った。 (もはや、守るべきもの無し) 秀長様も、秀保様も、お守りできなかった。 己の「才」とは、何であったか。 忠誠とは、何であったか。

高虎は、その日、すべての官位と領地を豊臣秀吉に返上した。 そして、自ら髻を切り落とし、高野山(こうやさん)へと登った。 俗名・高虎を捨て、彼は「出家」した。 世を、捨てたのだ。 「情」に殉じようとして、すべてに敗れた男の、完全な敗北だった。

【現代】

(そうだ……高虎も、一度はすべてを捨てたのだ) 橘は、暗闇の中で薄らと目を開けた。 (あの男は、最初から冷徹なリアリストなどではなかった) 彼もまた、自分と同じ、「情」に縛られ、恩人の死に絶望し、戦場から逃げ出した男だった。

【戦国時代】

高野山の冷え切った庵。 高虎は、壁に向かい座禅を組んでいた。 だが、そこへ俗世からの使者が訪れる。秀吉からの、還俗(げんぞく)を命じる使者だった。 高虎は、拒否した。 (わたくしは、もう死んだ身)

だが、使者は秀吉の言葉を伝えた。 「『お前の才を、死んだ秀長と共に、高野山の土に埋める気か』と。……そう、仰せでございました」

その瞬間、高虎の脳裏に、秀長の最後の言葉が蘇った。 『お前の『才』は……泰平の、礎……』

(……!)

高虎は、目を見開いた。 (そうだ。秀長様が認めてくださったのは、わたくしの「情」ではない。この「才」だ) (この「才」を、恩人の死と共に「出家」させて、どうする!)

高虎は、立ち上がった。 彼が下山を決意した時、その目から「情」に迷う光は消えていた。 還俗した高虎は、もはや「羽柴家の高虎」ではなかった。

彼は、己の「才(スキル)」だけを信じ、次の時代を創る「システム(=家康)」にのみ仕える「リアリスト(義)」へと、変貌した瞬間だった。

【現代:決意】

橘は、ソファから、ゆっくりと身体を起こした。 軋む身体を引きずり、リビングの遮光カーテンを、勢いよく引き開けた。 西日が、埃の舞う部屋に鋭く突き刺さった。

(……俺を、殺そうとしたのは、誰だ)

高坂の顔が浮かぶ。 『お前は俺の最高傑作だ』『いつでも、戻ってこい』 あれは「恩」ではない。 自分という「作品」を手元に置き続けたいという、出世コースから外れた男の、歪んだ「支配欲(=情)」だ。 俺が自分の手の届かぬ場所へ行くのが許せなかった。だから、潰した。

(松木は……) あの「白眼」は、「嫉妬」だ。己が築いた「城」を、得体の知れぬ「落下傘」に奪われることへの、幼稚な抵抗。 高坂は、その松木の「嫉妬」を利用し、共謀した。

(ふざけるな)

高虎が秀長の「死」で覚醒したように、橘は、高坂の「裏切り(情の死)」によって、覚醒した。 (俺の「才」は、あんたのオモチャじゃない)

橘は、私物のノートPCを開いた。 「忠誠とは、人に捧げるものではない。己の『才』と、成すべき『義』に捧げるものだ」 橘にとっての「義」は、丸菱への恩返しではない。 X-Urbanへの忠誠でもない。 ただ一点。 『次世代都市を実現する』 その、己が信じたビジョン、ただそれだけだ。

橘は、指をキーボードに走らせた。 漏洩したプランAは、もう捨てる。 たった一人、この自宅から、逆襲の「プランB」を起動させる。 それは、高坂の「情」も、松木の「白眼」も、すべてを計算に入れた、完璧な「城」の設計図だった。

終章: 層塔

【現代】

翌朝、水曜日の午前九時。 X-UrbanのCEOフロアに、いるはずのない男が立っていた。 停職処分中の、橘亮太だった。 セキュリティカードは停止されている。彼は、通用口が開いた一瞬の隙を突き、守衛の制止を振り切って、役員専用エレベーターに乗り込んでいた。 フロアの空気が凍り付く。 CEO秘書の制止を、橘は無言で手で制した。 社長室のドアを、ノックもせず、叩き開ける。

「……何の真似だ、橘君」 篠原祐は、デスクでPCを開いていた手を止め、氷のように冷たい目で侵入者を睨みつけた。「不法侵入だぞ。停職命令を忘れたか」

橘は、ドアを背に立ったまま、荒い息を整えた。 昨夜、プランBを組み上げた後、シャワーを浴び、髭を剃った。昨日までの死人のような顔色は、そこにはない。その目には、絶望も狼狽も消え、異様なほどの光が宿っていた。 「篠原社長。俺はスパイではない」 「……証拠は?」 「無い。恐らく、ログも何もかも、俺が犯人だと示しているはずだ」 篠原の眉がピクリと動いた。 「では、何をしに来た。謝罪か。命乞いか」

「『義』を、果たしに来ました」

橘は、持参した私物のノートPCを開くと、篠原のデスクの前に叩きつけるように置いた。 「コンペは、まだ勝てます。いや、俺が勝たせる」 「……漏洩したプランで、か?」 「あれは、もう『城』ではない。ただの『残骸』だ」

橘は、画面に新たな設計図を表示させた。 それは、橘が丸菱で提案し、X-Urbanの一次選考で通したプランAとは、似て非なるものだった。より複雑で、より合理的で、そして、より強固なシステムアーキテクチャ。 篠原は、その図面に、息を飲んだ。

橘は、高虎の言葉を借りるように、静かに、だが熱を込めて語り始めた。 「漏洩したプランAは、言わば、旧来の『望楼型(ぼうろうがた)天守』でした。一階部分の設計が大きく、そこが崩れれば全てが終わる、一点豪華主義の城だ。……今ごろ、丸菱の高坂は、その一点を突くためだけの『大筒』を準備しているでしょう」

篠原は、黙って先を促した。

「だが、このプランBは違う」と、橘は続けた。「これは、『層塔型(そうとうがた)天守』だ」

「……そうとうがた?」

「高虎が発明した、新しい城の形だ。下から上まで、規格化されたモジュール(部品)を、ただ積み上げていく。工期は圧倒的に速く、構造は強固。何より、どの部分が攻撃されても、即座に別のモジュールと差し替えられる」 橘は、プランBの核心を指さした。 「俺たちの『義』=『スマートシティOS』の核心は、データ連携の『速さ』と『拡張性』だ。このプランBこそが、その『義』を体現している。……丸菱がプランAという『幻』を攻めている隙に、我々はこの真の『城』を完成させる」

篠原は、橘の目を、数十秒、射抜くように見つめていた。 この男は、スパイか。あるいは、背水の陣に立つ、本物の「才」か。 橘は、その「白眼」から、一瞬たりとも目を逸らさなかった。 やがて、篠原は、深く息を吐き、内線電話のボタンを押した。

「……松木を、呼べ。全技術チームを、第一会議室に集めろ。……プランBに、移行する」

【決着】

コンペ最終日、金曜日。 霞が関、合同庁舎の大講堂。 先攻は、丸菱商事だった。 高坂啓介は、老練な笑みを浮かべ、壇上から、審査員席の背後に座る橘を、侮蔑するように一瞥した。

「――X-Urban社の提唱するシステムは、一見華麗ですが、その根幹アーキテクチャは、致命的な欠陥を抱えています」 高坂は、漏洩したプランAの設計図をスクリーンに映し出し、その脆弱性を、執拗なまでに叩き始めた。 「この部分のデータフローは、セキュリティリスクを全く考慮していない。これでは、国家のインフラは任せられない」 それは、内部者でなければ知り得ない情報に基づく、完璧な「攻撃」だった。 審査員である官僚や学者たちが、深刻な顔で頷いている。 「X-Urban=欠陥システム」という印象が、強烈に刷り込まれていく。

高坂のプレゼンが終わり、次に橘が、壇上に上がった。 会場は、落ちこぼれを見るような「白眼」に満ちていた。 最後列で、松木健が腕を組み、橘がどう恥をかくかを見届けるように座っている。

「ただ今、丸菱商事様より、我が社の旧プランに対する、実に的確なご指摘をいただきました」 橘は、深々と頭を下げた。 高坂が、勝利を確信し、口元を歪めた。

「――故に、我々は、その『欠陥のある城』を、すべて捨てました」

橘がスクリーンを切り替えると、そこには、あの完璧な「層塔型」のプランBが映し出された。 「我々がご提案するのは、こちらです」

高坂の顔が、凍りついた。 「な……に?」

橘は、丸菱の「攻撃」をすべて受け止めた上で、プランBが、その「すべて」を解決していることを、冷徹なロジックで証明していく。 「丸菱様ご指摘のセキュリティリスク。プランBでは、高虎の『横矢掛』の思想に基づき、監視モジュールを多重化。不正アクセスは、本丸に届く前に、この第二、第三の『堀』で必ず迎撃されます」 「ご指摘の拡張性の問題。プランBは『層塔型』です。機能はすべてモジュール化されており、自治体ごとの要望に合わせ、工期を十分の一に短縮し、実装が可能です」

丸菱の「大筒(=批判)」は、すべて、もぬけの殻となった「旧プランA」という幻影に撃ち込まれた。 橘のプランBは、無傷だった。 会場の「白眼」は、驚愕へ、そして最後には「畏敬」へと変わっていった。 結果は、圧勝だった。

コンペが終わった直後、篠原が動いた。 高坂と松木は、不正競争防止法違反と電子計算機損壊等業務妨害の容疑で、即刻通報された。 プランAが漏洩した時点で、篠原は外部の調査機関を入れていた。橘がプランBを構築している裏で、「共謀」の証拠は、すべて掴まれていたのだ。 高坂が松木に送ったSNSのメッセージ、二人がアクセスしたログ、そして、松木が橘のPCに仕込んだ、遠隔操作の痕跡。 高坂は「情」に溺れた橘を操ったつもりだったが、その実、松木の「嫉妬」に踊らされ、老醜を晒しただけだった。

松木が、オフィスで連行されていく。 その顔は、「白眼」ではなく、己の愚かさに気づいた、幼い絶望に染まっていた。

【エピローグ】

数年後。 橘は、国家戦略特区として完成したスマートシティの、管制タワーに立っていた。 眼下には、自動運転のバスが行き交い、ドローンが物流を担う、彼が設計した「未来」が広がっていた。 それは彼が築き上げた、現代の「城」だった。

その手には、一冊の歴史書がある。 ページには、戦国の世が終わった後、伊勢津藩(いせつはん)三十二万石の「城主」となった、藤堂高虎の肖像画が描かれていた。 高虎は、徳川の「泰平」を守るため、その生涯を「城」を築き続けることに捧げた。

橘は、本を閉じた。 彼はもう、他者の「情」に揺らがない。 他者の「評価(=白眼)」を恐れない。 ただ、己の「才」を信じ、成すべき「義」のために、次の「城」を築くことだけを見据えていた。

(完)

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