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『石楠花の毒』

あらすじ

三重県伊賀市の坂の上。閉鎖された知的障害者授産施設「しゃくなげ作業所」。 過去のトラウマから逃げ、調理員として働く桜井美咲の偽りの平穏は、些細な窃盗事件をきっかけに崩れ去る。巧妙な罠にはめられ、犯人に仕立て上げられた彼女を、失踪、そして密室殺人という連鎖する悲劇が襲う。

警察からも疑われ、誰一人信じられない極限状況の中、唯一の希望は、言葉を話すことができない重度障害の女性「アッコさん」が描く、謎の絵だけ。

声なき目撃者が示す、残酷な真実とは。優しい笑顔の仮面の裏に隠された、あまりにも悲しい殺意とは。すべての人間が秘密を抱える箱庭で、孤独な闘いが今、始まる。息もつかせぬ、ノンストップ・サスペンスミステリー。


登場人物紹介

桜井 美咲(さくらい みさき) 本作の主人公。26歳の調理員。過去の職場で人間関係に疲れ果て、世間から逃げるように「しゃくなげ作業所」で働く。突如発生した事件の濡れ衣を着せられ、自らの潔白を証明するため、孤独な真相究明に乗り出す。

安曇 響子(あずみ きょうこ) / 通称アッコさん 42歳の利用者。重度の知的障害と身体障害を持つとされ、言葉を発せず一日中車椅子で過ごしている。しかし、その虚ろに見える瞳の奥には、時折すべてを見透かすような鋭い光が宿る。物語の鍵を握る、謎に包まれた声なき目撃者。

相田 雄介(あいだ ゆうすけ) 28歳の生活支援員。誰にでも親切で、爽やかな笑顔を絶やさない好青年。孤立しがちな美咲を何かと気遣う、優しい先輩職員であり、利用者からの信頼も厚い施設のホープ。

五十嵐 義男(いがらし よしお) 62歳の施設長。表向きは障害者福祉に尽力する温厚な人格者だが、その強引な運営手腕には黒い噂も絶えない。

村上(むらかみ) 生活安全課のベテラン刑事。鋭い洞察力を持ち、美咲の過去を知る人物。パン窃盗に端を発した事件に、ただならぬ闇を感じ取り、執拗な捜査を行う。


第一章 坂の上の箱庭

坂の上の空気は、麓よりも五度は低い気がした。伊賀の盆地を覆う湿った霧が、私の首筋にじっとりとまとわりつく。坂を上りきると、瓦屋根の重々しい門構えが姿を現す。かつてこの辺りを治めていた庄屋の屋敷。今はその古めかしい建物に、知的障害者授産施設「しゃくなげ作業所」という、どこか場違いに柔らかな名前の看板が掲げられている。

作業所といっても、その内実は名ばかりだ。彼らが作っているという木工品は、そのほとんどを私たち職員が手直ししている。彼らが社会復帰のための訓練をしているというのは、建前だ。ここは、社会という舞台から降りた者たちが、あるいは最初から上がることさえ許されなかった者たちが、ただ穏やかに、そして静かに忘れ去られるのを待つための箱庭に過ぎない。

ここで私が働き始めて、一年が経つ。 給食の調理員。月給二十一万円、寮付き。それが、人間関係に疲れ果て、東京から逃げてきた私にとって、唯一すがることのできる条件だった。私の仕事は、言葉の通じない彼らのための食事を用意すること。それだけ。それだけのはずだった。

調理室の窓からは、中庭が見渡せる。季節になると、看板にもなっている石楠花(しゃくなげ)が、毒々しいほど鮮やかなピンク色の花を咲かせる。その下を、三十人ほどの利用者たちが、それぞれの時間を生きている。大声で何かを叫び続ける男。ひたすら地面の蟻を追いかける女。両手を蝶のようにひらひらさせ、世界と交信しているかのような少年。彼らは、私が当たり前だと思っていた世界の法則の外側で、自由で、そして不自由だった。

「桜井さん、お疲れさま。今日の献立、ハンバーグだよね? みんな楽しみにしてたよ」

背後からかけられた声は、この澱んだ空気の中では場違いなほど明るく、爽やかだった。振り返ると、生活支援員の相田さんが、白い歯を見せて笑っていた。彼は若く、親切で、誰からも好かれている。特に、私のような新入りを何かと気にかけてくれる、施設では数少ない「味方」だった。

「はい。一応、形にはなりましたけど」 「またまた。桜井さんのご飯は美味しいって評判だよ。ねぇ、アッコさん」

相田さんが視線を向けた先、食堂の隅のテーブルに、車椅子に乗った一人の女性がいた。安曇響子さん、通称アッコさん。四十を過ぎていると聞いていたが、その小柄な体と切り揃えられたおかっぱ頭は、まるで少女のようだった。彼女は、いつもそこにいる。何も話さず、何も求めず、ただ虚空を見つめて。時折「あーあー」とかすかな声を漏らすだけ。食事も入浴も、すべて誰かの手が必要な、最も重度の障害を持つ人とされていた。

相田さんに話しかけられても、アッコさんは何の反応も示さない。人形のように、ただそこに在るだけ。

でも、私は知っていた。ごく稀に、ほんの一瞬だけ、その虚ろに見える瞳の奥に、鋭い知性の光が宿ることを。すべてを見透かし、すべてを記憶しているかのような、底冷えのする光。それはすぐに、分厚い無表情の仮面の下に隠されてしまう。

「桜井さんも、大変だよね。ここ、いろいろあるから」 相田さんの声に、私はアッコさんから視線を戻した。彼の瞳には、私への同情が浮かんでいる。壁際では、ベテラン職員の木下さんが、面倒くさそうに腕を組みながら、私たちを一瞥した。その目は「馴れ合うなよ、新入り」と語っているようだった。

いろいろある、か。 前の職場を思い出す。東京の洒落たレストラン。そこでは誰もが饒舌で、誰もが笑顔で、そして誰もが平気で嘘をついた。私は些細なミスをきっかけに、同僚たちの巧妙な嘘の網にかかり、すべてを失った。だから、ここへ来たのだ。言葉の通じないこの場所なら、もう裏切られることはないと信じて。

皮肉なものだ。言葉を交わさない彼らの方が、よほど雄弁に真実を語っているのかもしれない。

昼食の時間が終わり、食器を片付けていると、施設長の五十嵐さんが、険しい顔で事務所へ入っていくのが見えた。手には携帯電話が握られ、その口元は誰かを激しく罵っている。普段の温和な人格者をかなぐり捨てた、剥き出しの表情。

私はその光景から目をそらし、シンクの蛇口を捻った。ごぼごぼと音を立てて流れていく水。見たくないものも、聞きたくないものも、すべてこの水と一緒に流れていってしまえばいい。

この箱庭の平穏が、もうすぐ終わることを、この時の私はまだ知らなかった。 すべては、一斤のパンが消えるという、あまりに些細な事件から始まろうとしていた。

第二章 消えたブリオッシュ

嵐は、翌日の朝、唐突にやってきた。 その日は、月に一度の「来客日」。施設長が地元の名士や市議会議員を招き、活動報告という名の自慢話をする日だ。私はその日のために、特別なパンを用意するよう命じられていた。市内の有名ベーカリーが焼いた、卵とバターをふんだんに使った黄金色のブリオッシュ。五十嵐施設長が、来客の機嫌を取るためだけに注文した、利用者たちの口には決して入らないパン。

出勤後、私はまず調理室の隣にある食品保管庫へ向かった。昨日届いたばかりのブリオッシュが、段ボール箱に五斤、確かに入っているはずだった。ひんやりとした保管庫のドアノブに手をかけ、鍵を差し込んで回す。いつも通りの、重い手応え。

だが、扉を開けた瞬間、背筋が凍った。 あるはずの場所に、段ボール箱が、ない。 昨日の夕方、私が鍵をかける直前まで、確かにそこにあったはずの箱が、影も形もなくなっていた。

「……うそ」

心臓が嫌な音を立てて脈打つ。何度も見渡すが、結果は同じだ。保管庫は窓もなく、出入り口はこの一箇所だけ。そして鍵は、調理員の私と施設長しか持っていない。冷や汗が背中を伝う。これは、ただの紛失ではない。

私は震える足で事務所へ向かい、施設長に事態を報告した。電話口で上機嫌に誰かと話していた五十嵐さんは、私の言葉を聞くうちにみるみる表情を険しくし、やがて受話器を叩きつけるように置いた。

「なんだと? なくなった? 馬鹿なことを言うな、桜井さん。鍵はどうしたんだ、鍵は!」 「閉めました。昨日の夕方、私が確かに…」 「君の『確かに』なんてものが信用できるか! 今日、誰が来るか分かっているんだろうな!」

彼の怒声で、事務所にいた職員たちが何事かと顔を上げる。事態はすぐに施設全体に知れ渡った。休憩室に全職員が集められ、五十嵐さんのもと、即席の犯人捜しが始まった。

「そもそも、桜井さんが鍵を閉め忘れたんじゃないのか」 最初に口火を切ったのは、ベテラン職員の木下さんだった。壁に寄りかかり、腕を組んだまま、値踏みするような目で私を見る。 「いや、ですから、閉めました」 「でも、なくなった。じゃあ、誰かが盗んだってことか? この施設で? 利用者の誰かが?」

職員たちの視線が、一斉に私に突き刺さる。そうだ、と彼らは言外に語っていた。管理責任者のお前が悪いのだ、と。東京から来た、何を考えているか分からない、よそ者の女。

その時だった。 「まあまあ、皆さん。桜井さんをそんなに責めないであげてください。彼女は真面目な人ですよ」 助け舟を出してくれたのは、相田さんだった。彼は人の良い笑みを浮かべて、私と他の職員たちの間に割って入った。その優しさに、張り詰めていた心の糸が少しだけ緩む。だが、彼の言葉は、思わぬ方向へ続いた。

「でも、そういえば……」と、相田さんは何かを思い出したように首を傾げた。「桜井さん、最近、実家への仕送りか何かで、お金に困ってるって話、してませんでしたっけ? あのパン、結構高いですし…」

空気が、凍った。 そんな話、私は誰にもしたことがない。血が逆流するような感覚に襲われ、私は相田さんを見た。彼の顔には、悪意のかけらもない、純粋な心配の色が浮かんでいる。だからこそ、それはたちの悪い刃物のように、私の急所を抉った。

「…してません。そんな話」 かろうじて絞り出した声は、自分でも驚くほどか細かった。

「そうか。ごめん、僕の聞き間違いかな」。彼はそう言ってあっさり謝ったが、一度投げ込まれた毒は、もう取り返しがつかない。職員たちの間に、「なるほど」という納得の空気が伝播していくのが、肌で分かった。

「全員のロッカーを調べる!」

五十嵐施設長が鶴の一声を発した。プライバシーも何もない。ここは彼の王国なのだ。そして、悪夢は現実になった。私のロッカーの、制服の奥に押し込まれるようにして、「発見」されたのだ。盗まれたブリオッシュのものと全く同じ、ベーカリーの名前が入ったビニールの包装紙が、一枚。

それは、完璧な罠だった。

施設長室に、二人きり。五十嵐さんは、机に置かれたそのビニール袋を指先で弾きながら、蛇のような目で私を見据えた。 「警察沙汰にだけはしてやらん。施設の恥だ」 吐き捨てるように彼は言った。 「今週末まで、時間をやる。それまでに真犯人を見つけ出すか、あるいは正直に自分のやったことを認めて、私に詫びを入れるかだ。もしどちらもできないようなら、君は解雇だ。もちろん、パンの代金と、私の顔に泥を塗った慰謝料は、きっちり請求させてもらうからな。覚悟しておくことだ」

部屋を出ると、足がもつれた。壁に手をつき、なんとか自分の体を支える。寮を追い出されたら、行く場所はない。財布の中身は、次の給料日までもたない。そして何より、まただ。また、私は見えない悪意に絡め取られ、引きずり降ろされるのか。前の職場で、笑顔の裏に隠された刃で刺された記憶が、鮮明に蘇る。

――お前のような半端者には無理だ。 家を出る時、父に投げつけられた言葉が、頭の中でこだました。

涙がこみ上げてくるのを、奥歯を噛み締めてこらえる。もう逃げるのは、終わりだ。逃げた先に、安住の地などなかった。 ならば、闘うしかない。

私は顔を上げ、食堂の方へ目をやった。職員たちが私を遠巻きに見ながら、ひそひそと噂話をしている。その喧騒の中心で、まるで嵐の中の凪のように、アッコさんが一人、静かに車椅子に座っていた。

彼女は、じっと、一点を見つめていた。 それは、私が今しがた出てきた、食品保管庫の、固く閉ざされた扉の方向だった。

第三章 ふたつの事件

週末まで、あと二日。時間は容赦なく、私の首を絞める縄のように狭まっていく。

私は狂ったように手がかりを探し始めた。保管庫の鍵穴を凝視し、ドアの蝶番を揺さぶってみる。だが、素人の目には、こじ開けられた痕跡など見つけようもなかった。職員たちに話を聞いて回っても、返ってくるのは冷笑か、あるいは壁のような無関心だけだった。

「あんたがやったんだろ。往生際が悪いな」 木下さんは、吐き捨てるようにそう言った。相田さんは、「僕も協力するよ」と言ってくれるが、いざ核心に触れる質問をすると、「うーん、どうだったかな…」と巧みに話を逸らされてしまう。彼は優しい。だが、その優しさは、決して私の領域には踏み込ませない、硬い殻のようなものだった。

皆、分かっているのだ。私が犯人であれば、この施設の歪んだ平穏は元通りになる。面倒なことには蓋をされ、日常は続く。私は、そのための生贄だった。

翌朝、施設は新たな混乱に見舞われた。 利用者のひとり、田中誠さんが、自室から姿を消したのだ。昨日の昼食後から、誰も彼の姿を見ていないという。五十嵐施設長は、「またいつもの徘徊だろう。すぐに戻りますよ」と事態を矮小化しようと躍起になっていたが、その日の午後、彼の焦燥は頂点に達した。誠さんの家族が警察に捜索願を出し、制服警官が二人、あの重々しい門をくぐってきたのだ。

そして、その中に、私の過去を知る男がいた。 生活安全課の、村上と名乗る年配の刑事。彼は、私の顔を見るなり、すべてを承知しているというような、ねっとりとした視線を向けた。

「桜井美咲さん。少し、お話を」 休憩室が、即席の取調室になった。村上刑事は、私の向かいにどっかりと腰を下ろし、分厚い手帳を開いた。 「奇妙な偶然が重なるもんですねえ。高級なパンが盗まれた日に、施設の利用者が一人、いなくなる。まるで、何かを隠すための煙幕みたいだ」 「…私には、関係ありません」 「でしょうな。あなたはいつもそう言う。前の職場でも、そうだったんじゃないですか? 東京の、あのレストランで食中毒騒ぎがあった時も」

心臓を、冷たい手で掴まれたようだった。忘れたい過去。私をここに追いやった、悪夢。 「あなたは、どうもトラブルを引き寄せる体質らしい。それとも、行く場所がなくなると、いつも何か大きな問題を起こして、自分の居場所を作ろうとするのかな?」

言葉のナイフが、次々と突き立てられる。私はもう、二つの事件の容疑者だった。施設では窃盗犯、警察からは失踪事件の重要参考人。四方八方を、分厚い壁で塞がれていく。

その日の夕方、私は完全に打ちのめされ、食堂の椅子に幽霊のように座り込んでいた。もう、だめかもしれない。父の言った通り、私には一人で生きる力なんてなかったのだ。荷物をまとめて、ここから消えるしかないのか。あの忌まわしい実家に、頭を下げて戻るしか――。

不意に、視線を感じた。 顔を上げると、アッコさんが、いつものテーブルから私をじっと見ていた。 いつもと違う。虚空を見つめているのではない。その瞳は、確かに私を捉えていた。

何かに引かれるように、私は立ち上がり、彼女のテーブルへと歩み寄った。向かいの椅子に、音もなく座る。何を話すでもない。ただ、その静寂が、今の私には唯一の救いに思えた。 「アッコさん……。もう、どうしたらいいか、分からないよ」

ほとんど独り言だった。だが、その言葉に、アッコさんが反応した。 彼女はゆっくりと手を動かし、テーブルにこぼれていた水の染みを、おもむろに人差し指でなぞり始めた。そして、私のエプロンのポケットに入っていたボールペンと、隅に置かれていたメモ帳を、無言で指さした。

促されるまま、私はそれを彼女の前に置く。 アッコさんは、震える手でボールペンを掴むと、子供が初めて文字を書くような、拙く、しかし力強い線で、メモ帳に二つのものを描いた。

一つは、どう見ても鳥だった。大きく羽を広げ、空を飛んでいる。 もう一つは、煙突から煙がもくもくと立ち上っている、四角い箱のようなもの。

「……鳥、と……箱?」 意味が分からない。だが、アッコさんは私の目を見つめ、こくんと、僅かに頷いたように見えた。そして、もう一度、今度は「鳥」の絵を、ボールペンで強く、何度も突き刺すように指し示した。

それは、ただの落書きではなかった。 この狂った箱庭で、彼女が私に送った、最初のメッセージ。 意味不明で、不確かで、それでも、暗闇の中で見つけた、唯一の蜘蛛の糸だった。私はその絵が描かれたメモ帳を、震える手で強く握りしめた。

第四章 鳥と焼却炉

自室に戻った私は、ドアに鍵をかけ、アッコさんが描いたメモ帳を机に広げた。子供の落書きのような、拙い二つの絵。羽を広げた「鳥」。煙を吐く「焼却炉」。この二つが、消えた田中誠さんと、どう繋がるというのか。

週末まで、あと一日。もう時間はない。

私は頭をフル回転させた。鳥。鳥というあだ名の利用者、あるいは職員がいただろうか。記憶を辿っても、思い当たらない。ならば、比喩か?自由の象徴?いや、そんな詩的なメッセージを、あのアッコさんが送るとは思えなかった。彼女のあの真剣な眼差しは、もっと直接的で、具体的な何かを指し示していたはずだ。

翌日、私は藁にもすがる思いで、施設内での会話に神経を集中させた。調理室の窓から、食堂から、廊下のざわめきから、何か一つでもヒントを掴もうと。

チャンスは、昼食の時に訪れた。 ある利用者の青年が、フォークを口に運びながら、楽しそうに「ピピ、ピピピ!」と鳥の鳴き真似をしていたのだ。私は彼の隣にそっと近づき、尋ねた。 「上手だね。鳥さん、好きなの?」 青年はにこりと笑い、「ピーちゃん! マコトの、ピーちゃん!」と、いくつかの単語を口にした。

マコト。田中誠さんのことだ。 私は心臓の鼓動が速くなるのを感じながら、その足で、休憩室にいたパートの職員にカマをかけてみた。 「そういえば、ピーちゃんって、鳥の名前でしたっけ?」 「え? ああ、そうそう」パート職員は、雑誌から顔も上げずに答えた。「施設長が裏の離れでこっそり飼ってるカナリアのことよ。表向きは、アレルギーの子がいるからペット禁止なんだけどね。誠くんが一番懐いてて、よく餌をあげに行ってたわ」

――繋がった。 鳥は、施設長の飼っているカナリア。そして、その鳥と最も親しかったのが、田中誠さん。アッコさんは、誠さんのことを伝えたかったのだ。 では、もう一つの絵は? 焼却炉は? 最悪の想像が、胃の腑からせり上がってくるようで、私は咄嗟に口元を押さえた。まさか。誠さんが、あそこで……。

施設の裏手、木々が生い茂る一番奥まった場所に、今は使われていない古い焼却炉があるのを、私は知っていた。ゴミはすべて専門の業者が回収していくため、その錆びついた鉄の箱は、まるで忘れ去られた墓標のように、ただ静かに朽ちていくだけの存在だった。

私が、ぼんやりとそちらの方角を見ていると、ふいに背後から声がかかった。 「桜井さん、どうかした? まさか、あんな所を調べる気じゃないよね」 相田さんだった。彼は私の隣に立ち、同じ方向を見ながら、心配そうな顔で言った。 「あそこはもう何年も使ってないし、足場も悪い。危ないから、やめときなよ」 「……はい」 「何かあったら、僕も手伝うからさ。一人で無茶しないで」 ありがとう、と返しながら、私は彼の目を盗み見た。その瞳は、優しく私を案じている。だが、その奥に、笑っていない光があった。こちらの覚悟を値踏みするような、冷たい光。彼の言葉は、忠告ではなく、牽制だった。行くな、そこへは足を踏み入れるな、という無言の圧力。

それが、逆に私の決意を固めさせた。 その夜、私は寮を抜け出した。調理室からこっそり持ち出した小さな懐中電灯だけが頼りだ。月明かりは雲に遮られ、風が木々を揺らす音が、まるで誰かの足音のように聞こえて、何度も背後を振り返る。自分の心臓の音が、やけに大きく耳についた。

目的の焼却炉は、闇の中で巨大な獣のようにうずくまっていた。錆び付いた鉄の扉に手をかけると、ぎい、と嫌な音が鳴り響く。私は息を殺し、震える手で扉をこじ開けた。

懐中電灯の光が、暗い炉の内部を照らし出す。そこには、灰が厚く積もっているだけだった。違う、ここじゃない。焦りと失望が胸をよぎった、その時。灰の表面に、不自然な凹みがあることに気づいた。誰かが、最近この灰を掘り返した跡だ。

私は落ちていた木の枝で、慎重にその場所の灰を掻き分けた。 カツン、と何かが枝に当たる。 あった。

それは、黒く焼け焦げた布の切れ端だった。田中誠さんが、失踪した日に着ていた、安物のチェック柄のシャツ。間違いない。 そして、光がその傍らで、鈍い金属の輝きを捉えた。 黒く煤け、熱で歪んだ、小さな鈴。彼が小学生の頃からずっとお守りにしていたと、彼の母親が刑事に泣きながら話していた、あの鈴だ。

「……誠さん」 声が、漏れた。彼は、やはりここで、事件に巻き込まれたのだ。 私は証拠を手に、その場に立ち尽くした。懐中電灯の光の輪が、足元で小さく揺れている。 これを警察に持って行けば、信じてもらえるだろうか。村上刑事は、また私の仕業だと決めつけるだけではないのか。勝手に現場を荒らしたと、さらに罪を深くするだけではないのか。

アッコさんがくれた、蜘蛛の糸。 だがそれは、私を天国へ引き上げてくれるものではなく、さらに深い奈落の底へと誘う罠なのかもしれない。私は次に打つべき一手を完全に失い、ただ暗闇の中で、冷たくなっていく証拠を握りしめていることしかできなかった。

第五章 血文字の密室

証拠をポケットに隠し、私は寮の自室に戻った。眠れるはずもなかった。小さな鈴と布切れが、まるで呪いのアイテムのように、私のポケットの中で重く存在を主張している。これをどうすればいい? 警察に突き出せば、村上刑事は「なぜ今まで隠していた」と、さらに私への疑いを深めるだろう。最悪の場合、私が誠さんを殺害し、証拠を捏造したとさえ考えかねない。

夜が明け、週末までのリミット最終日となった。施設は、嵐が来る直前の海のように、不気味なほど静まり返っていた。職員たちは皆、田中誠さんの失踪には触れず、まるで何もなかったかのように黙々と仕事をこなしている。その偽りの平穏が、私の神経をじりじりと焼いた。

事件が動いたのは、昼食の時間が終わった、午後二時過ぎだった。 「きゃああああああっ!」 甲高い悲鳴が、敷地の奥にある施設長の離れの方から響き渡った。ガラスが割れるようなその絶叫に、施設内の空気が一瞬で凍りつく。パート職員の一人が、昼食を下げに行ったきり応答のない五十嵐施設長を不審に思い、部屋を覗きに行ったのだ。

私も含め、近くにいた数人の職員が現場へ駆けつけた。離れの引き戸は固く閉ざされ、内側から古い木製の閂(かんぬき)ががっちりと掛けられていた。 「施設長! 五十嵐さん! 大丈夫ですか!」 相田さんが扉を叩きながら叫ぶが、中からの返事はない。部屋には異様な静寂が満ちていた。やがて、痺れを切らした相田さんが「どいてください!」と叫び、渾身の力で扉に体当たりを繰り返した。三度目の衝撃で、閂を支えていた古い木枠が砕け散り、扉が開いた。

最初に流れ出してきたのは、むせ返るような血の匂いだった。 部屋の中は、惨劇という言葉が生ぬるいほどの光景だった。五十嵐施設長は、愛用していた重厚な執務机に突っ伏すようにして、絶命していた。その背中には、私の調理室から持ち出されたのであろう、牛刀が深々と突き刺さっている。

そして、誰もが息を飲んだ。机の向こうの白い壁に、べったりと、おびただしい量の血で、震える文字が書きなぐられていたのだ。

『ごめんなさい マコト』

それは、この世の終わりを告げる呪いの言葉のように、不気味に赤黒く光っていた。

すぐに施設は警察によって完全に封鎖された。けたたましいサイレンの音、飛び交う無線、職員や利用者たちへの厳しい事情聴取。私たちの箱庭は、一瞬にして捜査本部という名の檻に変わった。 村上刑事は、鬼のような形相で現場を仕切り、その目はもはや私を人間として見ていなかった。ただの、解剖されるべき容疑者として捉えていた。

その日の夕方、休憩室のテレビが、この事件を全国ニュースとして報じた。 『三重県伊賀市の障害者施設で施設長の男性が殺害された事件で、警察は、以前から行方が分からなくなっている利用者の少年を、殺人の重要参考人として行方を追っています』

テレビの中の田中誠さんは、はにかんだような笑顔の写真で、凶悪な殺人犯として日本中に指名手配された。真実は、いとも簡単に権力によってねじ曲げられ、一人の人間の尊厳を粉々に砕いていく。ポケットの中の鈴が、急にその重さを失ったように感じた。誠さんが犯人なら、彼が自分の痕跡を焼却炉で消そうとしても、何ら不思議はない。この証拠は、もはや何の力も持たなかった。

すべてが、終わった。 私は、食堂の隅で膝から崩れ落ちそうになった。犯人の掌の上で、何もかもが踊らされていたのだ。絶望が、冷たい泥のように、足元から這い上がってくる。

その夜だった。 寮の自室で、ただ虚空を見つめていた私の部屋のドアが、音もなく、僅かに開いた。驚いて顔を上げると、そこにアッコさんがいた。車椅子を巧みに操り、誰にも気づかれぬよう、闇に紛れてやってきたのだ。

彼女は私の前に進み出ると、震える手で、小さく折りたたんだ一枚のメモを差し出した。それは、彼女がいつも使っている画用紙の切れ端だった。 私は、吸い寄せられるようにそれを受け取り、開いた。

そこに描かれていたのは、信じられない光景だった。 二つの、奇妙な道具。細いピアノ線のような糸と、ドアの隙間に差し込むための薄い金属板。 そして、その二つの道具をまるで手品師のように操り、施設長の部屋の閂を「外から」かけている、一人の人物。

その顔には、満面の笑みが浮かんでいた。 いつも優しく、いつも私の味方でいてくれた、爽やかな青年。

相田雄介さんの、顔だった。

息が、止まった。脳を直接殴られたような衝撃。アッコさんが目撃した、密室殺人のトリックの核心。そして、犯人の肖像。 これが、彼女の瞳に映っていた、あまりにも残酷な「真実」の姿だった。

第六章 笑顔の仮面

アッコの絵を握りしめたまま、私は自室の床に座り込んでいた。頭が、理解を拒絶している。相田さん。あの爽やかな笑顔。困っている私を庇ってくれた、優しい言葉。そのすべてが、計算され尽くした偽りだったというのか。

信じられない。信じたくない。だが、パズルのピースが、恐ろしい音を立ててはまっていく。 なぜ彼は、私が話したこともない金銭事情を知っていたのか。なぜ彼は、私が焼却炉に近づくのを、あのタイミングで的確に牽制できたのか。なぜ彼は、施設長の部屋の扉を、まるで壊れる場所を知っていたかのように、的確に打ち破れたのか。 全ての「なぜ」が、アッコの描いた一枚の絵に繋がっていた。

あの笑顔は、仮面だった。そして私は、彼の掌の上で道化のように踊らされていたのだ。 自分の愚かさに吐き気がした。同時に、過去のトラウマが蘇る。人を信じ、そして裏切られたあの日の絶望。だが、今回は違う。私の背後には、命がけで真実を伝えてくれた、声なき協力者がいる。

私の目的は、もう自分の潔白を証明することだけではなかった。殺人犯の汚名を着せられたままの田中誠さんの無念を晴らすこと。そして何より、この恐ろしい秘密を知ってしまったアッコさんを、犯人の手から守り抜くこと。

翌朝、私は仮面をかぶって調理室に立った。平静を装う。いつも通りの私を演じる。 やがて、彼がやってきた。 「桜井さん、おはよう。顔色が悪いよ。昨日は大変だったからね。無理しないで」 相田さんが、いつもの笑顔で声をかけてくる。その声を聞いた瞬間、全身の血が凍るような感覚に襲われた。私は必死にそれを押し殺し、作り笑いを浮かべて振り返った。 「大丈夫です。ありがとうございます、相田さん」 「何かあったら、いつでも相談して。僕はずっと、桜井さんの味方だから」

味方。その言葉が、ガラスの破片のように耳の奥に突き刺さった。私は、透明な壁一枚を隔てて、獰猛な肉食獣と向き合っているのだと悟った。彼に気づかれてはいけない。私が真相を知ったことを、絶対に。

警察は頼れない。「障害者の描いた絵です」と言ったところで、村上刑事が一笑に付すだけだろう。自力で、動かぬ物証を掴むしかない。 私は昼休み、アッコさんの元へ向かった。彼女は、私の覚悟を見抜いたように、静かに私を見つめ返した。私は、昨日彼女が描いた絵を指さした。 「アッコさん。相田さんは、この道具を、どこに隠したか分かる?」 アッコさんは答えなかった。ただ、おもむろにボールペンを手に取ると、相田さんの似顔絵の背景に、何かを描き足した。それは、壁だった。そして、その壁には、いくつもの「菱形」の模様が刻まれていた。

菱形の壁? そんな模様の壁は、この施設にあっただろうか。私は記憶を探ったが、思い当たらない。 その日の午後、私は腹痛を装って仕事を早退し、普段は誰も寄り付かない施設の資料室に忍び込んだ。カビ臭い書類の山をひっくり返し、必死に探す。そして、ついに見つけた。この屋敷が「しゃくなげ作業所」になる前の、古い設計図を。

そこには、現在の間取り図には存在しない、点線で描かれた幾筋もの通路が記されていた。伊賀の古い庄屋屋敷によく見られるという、「武者隠し」や「抜け道」と呼ばれる、隠し通路。 そして、その通路への入り口の一つは、職員寮の、相田さんの部屋のクローゼットの奥に記されていた。設計図には、その壁に「菱形透彫」という小さな注釈まで添えられていた。

トリックに使った道具。そして、彼の本当の動機を示す何か。証拠は、そこにある。 私は、相田さんが夜勤で施設を離れる、今夜しかない、と覚悟を決めた。それは、虎の口に頭を突っ込むような、自殺行為にも等しい危険な賭けだった。

計画を、アッコさんにだけ打ち明けた。言葉はいらない。私の鬼気迫る表情と、設計図のコピーを指さす仕草だけで、彼女はすべてを理解した。そして、力強く頷くと、自ら車椅子を動かし、職員寮の廊下、相田さんの部屋が死角から見える位置に、ぴたりと陣取った。 彼女が、見張り役を引き受けてくれたのだ。 私たちは、声なき共犯者になった。

深夜。私は盗み見ておいた合鍵で、相田さんの部屋に滑り込んだ。心臓が張り裂けそうだ。部屋は、彼の爽やかなイメージ通り、綺麗に片付いている。まっすぐにクローゼットへ向かい、服を掻き分ける。奥の壁には、設計図通り、菱形の透かし彫りが施されていた。 彫刻の縁に指をかけると、僅かな隙間があった。力を込める。ぎ、と小さな音を立てて、壁の一部が内側へと沈み込んだ。その向こうには、かび臭い、本物の闇が口を開けていた。

私は懐中電灯を点け、その闇へと足を踏み入れた。 その、瞬間だった。

コン、コン。

廊下の角から、乾いた音が二度、響いた。アッコさんが、車椅子のフットレストを、壁に強く打ち付けた音。 約束の合図。

相田さんが、予定より早く、帰ってきたのだ。 退路はない。私は、闇の中で、息を殺した。すぐそこまで、あの笑顔の殺人鬼の足音が、近づいてきていた。

第七章 箱庭の終焉

闇。それは、ただ光がないだけの空間ではなかった。カビと埃が混じり合った匂い、肌に纏わりつく湿気、そして、壁の向こうから聞こえてくる、殺人鬼の息遣い。私は隠し通路の壁に背を押し付け、自分の心臓の音が、彼の耳に届いてしまうのではないかと恐怖した。

壁の向こうで、相田さんが冷蔵庫を開ける音がする。缶ビールを開ける、小気味いい音。彼の日常が、私の非日常をじりじりと炙っていく。私はここにいてはいけない。早く、この闇から抜け出さなければ。

その時だった。彼の立てる生活音が、ふいに途絶えた。 静寂。先ほどまでの物音より、その静寂の方が、何倍も恐ろしかった。 「……ネズミが、入り込んだか」 静かな、独り言が聞こえた。 次の瞬間、私が潜む隠し通路の壁が、何の躊躇もなく、乱暴に開け放たれた。逆光の中に浮かび上がる、相田さんのシルエット。その顔に、いつもの人懐こい笑顔はなかった。ただ、獲物を見つけた捕食者のような、冷え切った無表情が張り付いているだけだった。

「やっぱり、君だったんだね、桜井さん。思ったより、賢いネズミだ」

思考より先に、体が動いていた。私は握りしめていた懐中電灯を、彼の顔面めがけて全力で振り抜いた。鈍い音と短い呻き声。できた一瞬の隙に、私は彼の脇をすり抜け、部屋から廊下へと飛び出した。 「逃がすかよ!」 背後から、豹変した彼の怒声が追いかけてくる。私は、設計図の記憶だけを頼りに、この迷宮のような屋敷を走った。目指すは、この隠し通路のもう一つの出口。施設の最も古い区画、今は使われていないボイラー室だ。

古い木の床を踏み鳴らし、闇の中をひた走る。背後からは、私よりもこの屋敷を知り尽くした彼の足音が、正確に距離を詰めてくる。ボイラー室の、錆び付いた鉄の扉に手をかけた、その時。腕を強く掴まれ、壁に叩きつけられた。 「おしまいだ、桜井さん」 相田さんの手が、私の首にかかる。息ができない。意識が遠のいていく。

ボイラー室の中は、ガスの匂いが充満していた。見ると、施設のメインガス管のバルブが、全開にされている。そして、その傍らには、時限式の着火装置が、不気味なデジタルの光を点滅させていた。 「もう終わりなんだよ」相田さんは、狂ったように笑っていた。「この腐った箱庭も、僕の惨めな復讐も、君っていう邪魔者も、全部ここで綺麗に終わらせるんだ」

万事休す。そう思った、その時だった。 ボイラー室のもう一つの扉が、勢いよく開いた。アッコさんだった。彼女は車椅子を軋ませながら、部屋に飛び込んでくると、壁際にある、古びた配電盤を力の限り指さした。そこには、埃をかぶった、一本の巨大な手動レバーがあった。 設計図にあった、緊急用の手動装置。屋敷の古いからくりを作動させるための、最後のスイッチ。

私が相田の腕を必死に押さえつけ、気を引いている、ほんの数秒の隙。アッコさんは、全体重をかけるようにして、車椅子ごとレバーに激突した。 ゴゴゴゴ、と地響きのような音が鳴り、次の瞬間、相田さんの頭上から、天井を支えていた太い梁が、滑り落ちてきた。

梁は、彼の足に直撃した。骨が砕けるおぞましい音と、獣のような絶叫。動けなくなった相田さんは、床に蹲りながら、憎悪に満ちた目で私を睨みつけた。 「十年前……」彼は、途切れ途切れに語り始めた。「僕の妹は、ここで死んだ。たった十七歳だった。この施設の、ずさんな管理のせいでな。だが、五十嵐はそれを隠蔽した。あいつは、たった一人の人間の命より、施設の体面を選んだんだ!」 彼の瞳から、涙が溢れていた。それは、復讐鬼の顔ではなく、愛する者を失った、一人の青年の顔だった。 「だから、全員に罰を与えなくちゃいけない。あいつにも、見て見ぬふりをした職員にも、何も分からず笑っているだけの、お前たちみたいな連中にも!」

彼は最後の力を振り絞り、懐からライターを取り出した。カチ、と火花が散る。ガスが充満したこの部屋で、それが何を意味するか。 私は、壁際に立てかけてあった古い消火器を、無我夢中で掴んでいた。安全ピンを引き抜き、レバーを握る。白い猛烈な煙が、相田と、彼の持つ小さな炎を、一瞬で飲み込んでいった。

すべてが終わった時、遠くから、たくさんのサイレンの音が聞こえてきた。

エピローグ

数ヶ月後。私は、しゃくなげ作業所を去るための荷造りをしていた。事件によって施設の闇はすべて暴かれ、運営法人は解散。相田さんは逮捕され、彼の悲しい動機も、世間に知られることとなった。

アッコさんは、より専門的な治療を受けられる、県外の施設へと移ることが決まっていた。別れの日、私は彼女の病室を訪ねた。 彼女は、まだ言葉を発することはなかった。ただ、別れ際に私の手を取ると、その人差し指で、私の掌に、ゆっくりと、しかし力強く、三つの文字をなぞった。

『い・き・て』

涙が、溢れた。それは、私に向けられた言葉であり、彼女自身に向けられた誓いなのだと分かった。 私は、うなずいた。もう、逃げない。過去からも、誰かのせいにする人生からも。

しゃくなげ作業所の、あの長い坂道を、私は自分の足で下っていく。麓の町から吹いてくる風は、もう湿ってはいない。私の頬を撫で、新しい季節の匂いを運んでくれた。 坂の上には、もう私の居場所はない。 だが、これから歩いていく、この世界のどこかに、きっと私のための場所があるはずだ。 私は、それを探しにいくのだ。生きて、自分の人生を。

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