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『屋根裏の劇作家』

物語は、どこまで現実を殺せるのか?――江戸川乱歩賞受賞作にして、史上最も悪質な自白録。


あらすじ

作家志望の神山創。彼の夢は、江戸川乱歩賞を受賞し、凡庸な日常から抜け出すこと。行き着いた先は、都内の古アパート「昭和荘」。そこで彼は、屋根裏から階下の住人たちの私生活を覗き見できる、「神の視点」を手に入れてしまう。

小説のネタに飢えていた神山は、単なる観察者ではいられなかった。孤独な女性・澪、粗暴な隣人・沢木。彼らの人生を駒として、些細な悪意で現実を「演出」し始める。彼の介入によって、住人たちの関係は歪み、アパートは不穏な空気に満ちていく。

だが、彼の描いた脚本は次第にコントロールを失い、やがて取り返しのつかない悲劇を招いてしまう。神山は、その血塗られた現実を完璧なミステリー小説『屋根裏の劇作家』として書き上げ、ついに栄光を手にする。しかし、彼が創り上げた物語には、彼自身さえ気づいていない、恐るべき「罠」が仕掛けられていた――。


登場人物紹介

  • 神山 創 (かみやま そう) 本作の主人公。江戸川乱歩賞の受賞を夢見る作家志望。屋根裏から隣人たちを操り、現実を自らの小説の舞台に変えようとする「劇作家」。
  • 星野 澪 (ほしの みお) 201号室の住人。過去のトラウマから心を閉ざす孤独な翻訳家。神山の歪んだ創作意欲の的となり、悲劇のヒロインとして彼の物語に組み込まれてしまう。
  • 古賀 麟太郎 (こが りんたろう) 203号室に住む元興信所調査員の老人。アパートに漂う不穏な空気の正体を探る、物静かな探偵役。神山の「舞台」を客席から見つめる、もう一人の観測者。
  • 沢木 快人 (さわき かいと) 202号室の住人。粗暴だが根は悪人ではない映像作家。神山の脚本によって、澪を脅かすストーカーという「悪役」に仕立て上げられる。

第一章 神の発見

二〇二五年、八月十四日。 その夏、世界は沸騰した油のように煮え返っていた。アスファルトは陽炎を立ち昇らせ、街路樹に張り付いた蝉たちは、断末魔じみた声で存在のすべてを掻き鳴らしている。ここ、東京都足立区の片隅に建つ木造モルタル二階建てのアパート「昭和荘」の安普請の壁は、その狂騒を遮断するにはあまりに無力だった。

俺、神山創(かみやまそう)の六畳一間の部屋は、蒸し風呂だった。半開きの窓からは熱風しか入ってこない。ちゃぶ台の上では、数時間前にすすったカップ麺の容器が、まだ食べ終えていない残骸を晒している。その隣に置かれた薄っぺらい封筒が、この部屋の淀んだ空気の中で唯一、鋭利な存在感を放っていた。

『江戸川乱歩賞』応募作品選考結果のご連絡。

結果は、言うまでもない。「今回は残念ながら」という陳腐な常套句で始まり、「今後のご活躍をお祈り申し上げます」という、死体にかける手向けの花のような一文で締め括られていた。これで何度目だろうか。俺の才能と、それを理解できない凡庸な世界との間にある断絶を再確認する儀式。ちゃぶ台の脚を蹴り飛ばしたい衝動を、奥歯を噛みしめることでどうにか殺す。

その時だった。 ふと見上げた天井に、奇妙な染みがあることに気がついた。歪な円を描く、古地図の海のような染み。雨漏りだろうか。このオンボロアパートならあり得ることだ。 椅子を引き寄せ、その上に立つ。手を伸ばし、染みの中央を指で押してみた。べこり、と頼りない感触と共に、天井板がわずかに撓(たわ)んだ。押入れの天井なら、点検口くらいあるかもしれない。 衝動的に、俺は押入れの中の物を掻き出し、その天井板に手をかけた。あっけないほど簡単に、それはずれた。

舞い落ちる埃と、黴の臭い。そして、濃密な闇。 その闇は、まるで舞台の幕が開く前の、静寂に満ちた奈落のようだった。懐中電灯を手に、俺は自分の部屋の天井裏へと、亡霊のように身を滑り込ませた。

梁と垂木が、巨大な生物の肋骨のように規則正しく並んでいる。足元には断熱材代わりの綿が埃を吸って黒ずみ、ところどころに、かつての住人が忘れていったのであろう雑誌や空き瓶が転がっていた。ここは、忘れられた時間の墓場だ。 梁の上を慎重に伝い歩く。すぐ下は、隣の部屋か。息を殺して進むと、板の隙間から一条の光が漏れているのを見つけた。

誘われるように、俺はその光に目を寄せた。 眼下に広がっていたのは、201号室の女――星野澪の部屋だった。 彼女はローテーブルに向かい、翻訳の仕事をしているようだった。時折、長い髪を指で巻きながら、ディスプレイを真剣に見つめている。部屋は彼女の性格を映したかのように、余計なものがなく、整然としていた。しかし、その静寂はどこか張り詰めている。まるで、薄氷の上を歩くような緊張感が、部屋全体を支配していた。彼女が席を立ち、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出す。その無防備な背中を、俺は闇の中から、神のように見下ろしていた。

彼女は知らない。自分の生活のすべてが、一枚の天井板を隔てたすぐ上で、値踏みするように観察されていることなど。

隣へ移動する。今度は、けたたましいギターの音が響いてくる部屋。202号室の映像作家、沢木快人だ。彼はヘッドフォンをして、何かの映像を編集している。自己顕示欲の塊のような男。時折、思い通りにいかないのか、小さく舌打ちするのが見えた。彼は物語における「ノイズ」だ。予測不能な不協和音。

そして、最も静かな部屋。203号室の古賀麟太郎。老人は、ただ部屋で文庫本を読んでいた。しかし、その静寂は星野澪のものとは違う。凪いだ海のような、全てを見通しているかのような静けさだ。彼は時折、窓の外に目をやり、何かを観察するようにじっと動かない。彼は「静寂」そのもの。だが、静寂こそが最も雄弁なこともある。

俺は、三つの部屋を、三つの異なる世界を、たった数十分で掌握した。 彼らは俺の存在に気づかないまま、それぞれの日常という名の退屈な劇を演じている。だが、もし、その脚本にほんの少し、俺が手を入れたとしたら? 小さな石を一つ、凪いだ水面に投げ込んだとしたら、波紋はどこまで広がるだろう?

自室の押入れから埃まみれで戻った時、世界は違って見えた。 六畳一間のこの部屋は、もはや才能を腐らせるための独房ではない。舞台の袖であり、演出家のいる調整室だ。ちゃぶ台の上に転がる選考結果の通知が、今はまるで、新しい劇の開幕を告げるゴングのように思えた。

小説の神は、俺を見捨てた。 ならば、俺自身が神になる。

俺はこれから、物語を「書く」のではない。この昭和荘という箱庭で、現実の人間を駒として、最高のミステリーを「創る」のだ。 俺はもはや、ただの作家志望ではない。

今日から俺は、この屋根裏の劇作家だ。

第二章 最初の投石

神になってから最初の三日間、俺はただ観察に徹した。 行動を起こす前に、まずは盤上の駒の性質を完璧に把握する必要がある。俺は自室にいる時間を極力減らし、亡霊のように屋根裏を徘徊した。食料は深夜にコンビニで買ったカロリーバーとペットボトルの水。眠りは、埃っぽい梁の上で断続的に取る。下界の生活サイクルを、俺は完全に掌握しつつあった。

ヒロイン、星野澪。彼女は極めて規則正しい生活を送っていた。午前七時に起床し、ヨガをする。午前九時から翻訳の仕事に取り掛かり、昼食は質素なサラダとパン。午後は再び仕事。日が暮れると、カーテンを閉ざし、クラシック音楽を小さな音で流す。彼女の部屋は静かな要塞だ。しかし、時折、悪夢にうなされるように、彼女はソファで膝を抱えて動かなくなることがあった。その時、彼女の部屋の空気は凍りつく。それは、凪いだ水面下に潜む、底知れない何かを予感させた。

俺は劇作家として、その「何か」を白日の下に晒す義務がある。 物語には、まず「発端」となる事件が必要だ。平穏を破壊する、最初の投石。

俺は自室に戻り、ノートパソコンを開いた。まずはヒロインのキャラクター造形を深めるためのリサーチだ。検索窓に「星野澪」「大学」「事件」といった単語を打ち込んでいく。いくつかの無関係な情報がヒットした後、ついに俺は探し物を見つけた。五年前の、地方大学の学生新聞のウェブアーカイブ。そして、当時の匿名掲示板のスレッド。

『〇〇大学 文学部 ストーカー被害について』

断片的な情報を繋ぎ合わせ、俺は事件の輪郭を掴んだ。執拗な男。無視され続けた手紙。そして、彼女が警察に相談したことで逆上した男が、彼女のアパートに押し入ろうとしたこと。公にはなっていなかったが、スレッドには、彼女が抵抗し、男に怪我を負わせたという噂も書き込まれていた。 そして、俺は決定的な「小道具」を見つけた。当時の書き込みの一つに、ストーカーが彼女に送ったプレゼントについての言及があった。「菫(すみれ)の花の押し花を挟んだ詩集」。陳腐だが、本人にしか分からないディテールとしては上等だ。

準備は整った。 俺は暗号化されたフリーメールのアカウントを取得した。送信元を辿ることは不可能に近い。 宛先には、彼女が仕事で使っている公開アドレスを入力する。 件名は、あえて空白に。 本文には、ただ一行だけを打ち込んだ。

『まだ、お前を見ている。あの菫のように。』

送信ボタンを押す指が、わずかに震えた。それは恐怖からではない。これから始まる物語への、武者震いだ。クリック音は、この部屋ではやけに大きく響いた。第一幕の、幕開けを告げるブザーだ。

俺は再び、足音を忍ばせて屋根裏へ戻った。 星野澪の部屋の真上。心臓の鼓動が、梁を伝わって階下まで響いてしまうのではないかと錯覚するほどの静寂。 彼女は、いつものようにディスプレイに向かっていた。やがて、彼女のマウスの動きが止まる。新着メールの通知に気づいたのだろう。彼女がメールソフトを開き、件名のないそれを受信トレイに見つける。 クリック。 彼女の時間が、止まった。

最初は、ディスプレイの文字が理解できないかのように、彼女は数度、瞬きをした。 次の瞬間、彼女の顔から急速に血の気が引いていくのが、天井の隙間からでも分かった。肩が小刻みに震え、片手が無意識に口元を覆う。喘ぐような呼吸。それは恐怖の発作だ。 彼女は椅子から転げ落ちるように立ち上がると、神経質に部屋の窓という窓に駆け寄り、鍵がかかっていることを確認し、全てのカーテンを力任せに引ききった。真昼間だというのに、彼女の世界は自ら光を遮断し、暗闇に閉ざされた。 ソファの隅で、彼女は膝を抱えてうずくまった。五年前の亡霊は、たった一行のテキストによって、完璧に蘇生したのだ。

見事だ。俺の演出は、完璧だった。 俺は満足感と共に、203号室の上へ移動した。古賀麟太郎の部屋だ。 老人は、窓辺の椅子に座り、ただ外を眺めていた。だが、その視線は、先ほどまでと明らかに違っていた。彼の目は、固く閉ざされた201号室のカーテンに、じっと注がれている。その眉間には、深い皺が刻まれていた。 この老人は、気づいている。このアパートを覆う空気の「質」が、たった今、変わったことに。

面白い。実に面白い。 探偵役まで、自ら舞台に上がってきた。

俺は自室に戻ると、ノートパソコンを開いた。 真っ白なページに、タイトルを打ち込む。

『屋根裏の劇作家』

そして、最初の章を書き始めた。 「第一章 亡霊からの手紙」。俺は、星野澪が体験したばかりの生々しい恐怖を、神の視点から、恍惚と共に描写していった。 これは、傑作になる。俺は確信していた。

第三章 不協和音の配置

最初の投石による波紋は、しかし、俺が期待したほど大きな広がりを見せなかった。 星野澪は、要塞に立て籠もることを選んだ。カーテンは閉ざされ、食事はネットスーパーで注文。彼女は俺の舞台から姿を消してしまったのだ。これでは物語が進まない。悲劇のヒロインには、彼女を脅かす具体的な「敵」が必要だ。亡霊には、肉体を与えなければならない。

その役を演じるのは、202号室の沢木快人しかいない。 彼はうってつけだった。粗野で、無神経で、そして何より、星野澪に執着している。彼の行動原理は、欲望という名の単純なエンジンで動いている。扱いやすい駒だ。 俺は、沢木の行動を数日間にわたって屋根裏から徹底的に観察した。彼がゴミを出す時間、アルバイトに出かける時間、そして、時折201号室のドアをためらうように一瞥してから自室に戻る、その哀れな姿まで。

計画は、深夜に実行した。 俺は近所の花屋で、一本だけ売れ残っていた、少しだけ首の垂れた向日葵を買った。夏が盛りを過ぎたことを告げる、感傷的な花だ。それを、沢木が昨夜の酒の勢いで買ったかのように見せかける。もちろん、俺の指紋は布で丁寧に拭き取っておいた。 深夜二時。アパートの全住人が寝静まったのを確認し、俺は自室から這い出た。ぎしり、と床板が鳴る音に心臓が跳ねる。屋根裏の全能感とは違う、現実的なリスクを伴うスリル。俺はそれを楽しみさえしていた。 暗い廊下を進み、201号室のドアノブに、そっと向日葵を一本、立てかける。まるで、内気な男が勇気を振り絞って置いたプレゼントのように。だが、今の星野澪にとっては、それは毒蛇に等しいはずだ。

翌朝、俺は定位置でその瞬間を待った。 午前九時、新聞を取りにドアを開けた澪が、足元の花に気づく。彼女の体が、びくりと硬直した。彼女は花に触れることさえせず、まるで汚物でも見るかのように後ずさる。そして、憎悪と恐怖が入り混じった目で、隣の202号室のドアを睨みつけた。 完璧だ。亡霊は、沢木快人という肉体を得た。

その日の午後、事件は起きた。 アパートの廊下で、ゴミ袋を持って出てきた沢木と、外出のために部屋を出た澪が鉢合わせたのだ。俺は屋根裏の隙間から、固唾を飲んで舞台を見守っていた。

「……やめてください」 先に口火を切ったのは、澪だった。震えているが、その声には鋼のような拒絶が込められていた。 「私の部屋の前に、何も置かないでください」 「は?」 沢木は心底、訳が分からないという顔をした。「何の話だよ。俺じゃねえよ」 「しらばっくれないで!」澪の声がヒステリックに裏返る。「昨日といい、今日といい……気持ち悪いんです! 近づかないで!」 「なんだと!」 濡れ衣を着せられた沢木の顔が、屈辱と怒りで赤く染まった。「人をストーカーみてえに言いやがって! こっちだって迷惑なんだよ、お前のその神経質なとこが!」

口論は数分で終わった。澪は唇を噛みしめて自室に逃げ込み、沢木は壁を殴りつけて悪態をつきながら部屋に戻っていった。 俺の脚本通り、二人の間には決定的な亀裂が入った。ヒロインと、彼女を脅かすヴィラン(悪役)。これでようやく、物語のエンジンがかかる。

その時、視界の隅で、203号室のドアが僅かに開いていることに気づいた。隙間から、古賀麟太郎の鋭い目が、二人が消えた廊下をじっと見つめている。彼は口論の全てを聞いていたに違いない。彼は、沢木の「本物の苛立ち」と、澪の「本物の恐怖」の間に存在する、奇妙な断絶に気づいただろうか。 老探偵の視線が、俺の筋書きに新たな複雑さを与える。面白い。実に面白い。これもまた、物語のスパイスだ。

俺は満ち足りた気持ちで自室のパソコンに向かった。 「第二章 不協和音」。 俺は、先ほどの口論を、より劇的に、よりサスペンスフルに描写していく。沢木の戸惑いを、犯人特有の計算高い「演技」として描き、澪の恐怖を、読者の共感を誘う悲痛な叫びとして綴る。 俺の指先から、現実が、虚構へと昇華されていく。 俺は、この世界の創造主。俺の書くことだけが、ここでの真実なのだ。

第四章 舞台装置

口論という名の不協和音は、たしかに二人の関係に決定的な亀裂を入れた。だが、それだけだった。星野澪はより深く自室の砦に閉じこもり、沢木快人は不機嫌を撒き散らしながら自堕落な生活を送る。舞台は膠着した。観客(=未来の読者)は、もっと切迫した、目に見える脅威を求めている。俺の物語には、ヒロインの聖域が侵されるという、古典的だが不可欠なシーンが欠けていた。

計画を練るのに、さらに一週間を要した。沢木が深夜に友人たちと飲みに出かけ、朝まで帰らない日。そして、澪が珍しく翻訳の徹夜仕事で疲れ果て、深い眠りに落ちている夜。全ての条件が揃うのを、俺は蜘蛛のように、巣の中心で待ち続けた。

その夜、昭和荘は墓場のような静寂に包まれていた。 俺は三度、自室から這い出た。手には、アパートの旧式のドアロックを突破するために用意した、硬質のプラスチックカードと、細い針金。そして、今回の「小道具」。沢木の部屋の郵便受けから抜き取っておいた、彼がよく利用するバーのレシートだ。

201号室のドアの前で、俺は息を殺した。心臓が肋骨を打つ。ドアスコープの向こう側は暗い。俺はカードをドアの隙間に差し込み、熟練の空き巣のように、慎重にデッドボルトを押し込んでいく。数秒後、かちり、と生命の誕生を祝福するかのような小さな音を立てて、鍵が開いた。

一歩、足を踏み入れる。 空気が違う。彼女のパーソナルスペース。石鹸と、古い紙の匂い。暗闇の中、彼女がソファで毛布にくるまって眠っているシルエットが見える。俺は、その存在を無視するように、一直線にローテーブルのノートパソコンへと向かった。 スリープ状態のパソコンを開く。壁紙は、当たり障りのない風景写真だ。俺は用意しておいたUSBメモリを差し込み、一枚の画像を壁紙に設定した。黒一色の背景に、一輪の菫(すみれ)が、踏みつけられたかのように萎れている写真。俺がネットで拾い、加工したものだ。 そして、沢木のバーのレシートを、わざとらしくキーボードの上に置いておく。まるで、侵入者がポケットを探った際に落としていったかのように。

目的は達した。俺は音もなく部屋を出て、自室に戻った。あとは、女優が目覚め、この完璧に設えられた「舞台装置」に気づくのを待つだけだ。

翌朝、俺は屋根裏の定位置にいた。 悲鳴は、午前十時過ぎに上がった。それは、これまでのような恐怖の発作とは違う、現実的な危険を確信した者の、魂の叫びだった。 数分後、澪は部屋から飛び出し、隣の203号室のドアを狂ったように叩いた。 「古賀さん! 古賀さん、助けて! 誰かが、誰かが部屋に…!」

ドアを開けた古賀は、パニック状態の彼女を落ち着かせ、部屋の中へと招き入れた。俺はすぐさま203号室の上へ移動する。俺の脚本にはない、アドリブのシーンが始まった。

「…警察には連絡したかね?」 古賀の声は、冷静だった。 「いえ、まだ、怖くて…」 「わしが見てこよう。あんたはここにいなさい」 老人は一人で201号室へと向かった。そして数分後、レシートを指でつまんで戻ってきた。 「これを、犯人が?」 「たぶん…沢木さんの…」 古賀はレシートを光に透かすように眺め、それから静かに言った。 「星野さん。警察を呼びなさい。これはもう、あんた一人で抱えられる問題じゃない」

古賀のその言葉は、澪を落ち着かせると同時に、ある種の決定的な区切りをつけた。 やがて、アパートの前にパトカーが到着した。制服警官が二人、慌ただしく階段を上がってくる。俺は屋根裏の闇の中から、自らが作り出した混乱を、悦に入って見下ろしていた。 警官が古賀と澪から事情を聞いている。レシートは証拠品としてビニール袋に入れられた。部屋の壁紙を見た若い警官が、気味悪そうに顔をしかめている。全てが、俺の筋書き通りに展開していく。

警官の一人が、古賀に尋ねた。 「隣の沢木さん、ですか。彼が怪しいと?」 古賀は少しの間、沈黙した。そして、ゆっくりと答えた。 「さあ、どうでしょうな。ただ……」 彼は、まるで天井裏の俺に語りかけるように、続けた。 「この犯人は、少々、芝居がかりすぎているような気もしますな」

俺は、その言葉を聞きながら、口元に浮かぶ笑みを抑えることができなかった。 芝居がかっていて結構。三流の役者には、それくらい分かりやすい舞台装置が必要なのだ。 俺は、点滅するパトカーの赤色灯を、最高の舞台照明だと思った。俺の物語は、ついに公権力まで巻き込む、社会派ミステリーへと昇格したのだ。 パソコンを開き、新しい章のタイトルを打ち込む。

「第三章 侵入者」。 傑作は、完成にまた一歩近づいた。

第五章 脚本の綻び

警察が介入してから数日間、俺は至福の時を過ごしていた。 自らの作品が、ついに現実世界を動かしたのだ。屋根裏から見下ろすと、昭和荘はにわかに活気づいていた。警官が聞き込みに訪れ、住人たちは不安げに囁き合う。その中心にいるのは、もちろん俺のヒロインと、俺が指名したヴィランだ。

沢木快人は、数度にわたって警察から事情聴取を受けていた。俺は屋根裏の特等席から、彼の苛立ち、焦り、そして時に見せる怯えを、最高のエンターテインメントとして鑑賞した。彼は俺の掌の上で完璧に踊っている。逮捕は時間の問題だろう。俺は、小説のクライマックスで、探偵役が犯人を追い詰めるシーンの草稿を練り始めていた。

だが、三日後の午後、俺の完璧な脚本に、最初のノイズが走った。 階下で、二人の刑事が古賀麟太郎と話しているのが見えた。老人は落ち着き払った様子で、時折、手帳のようなものを見せながら何かを説明している。やがて、刑事たちは深く頷き、古賀に敬礼して去っていった。その顔には、沢木への疑惑の色はもうなかった。 おかしい。何かが、俺の知らないところで起きている。

その日の夕方、俺の疑念は確信に変わった。 古賀が、澪の部屋を訪れていた。俺は慌てて201号室の真上へ移動する。

「……だから、もう安心しなさい。沢木くんは、白だ」 古賀の穏やかな声が聞こえた。 「でも、あのレシートは…」 「あの晩、彼には確かなアリバイがあった。埼玉県のご実家に帰省していて、ご家族とずっと一緒だったそうだ。私が署に連絡し、刑事さんにもう一度裏を取ってもらった」 澪の息を呑む音が聞こえた。では、あの侵入者は。あの菫の壁紙は。ドアの前の向日葵は。全てが、再び正体不明の悪意の塊となって、彼女に襲いかかる。 「なんてこと……じゃあ、一体誰が……」 「分からん。だが、敵は沢木くんのような単細胞じゃない。もっと狡猾で、陰湿な人間だ。そして、目的は金品じゃない。あんたの心を弄ぶことそのものが目的だ」 古賀は続けた。「まるで、悪趣味な芝居の筋書きでも書くようにな」

屋根裏の闇の中、俺は全身の血が逆流するのを感じた。 馬鹿な。ありえない。俺の完璧な脚本が、綻びている。あの凡庸な駒どもが、俺の意図を離れて、勝手な動きを……! 古賀麟太郎。あの老人、ただの元興信所調査員ではない。奴は、俺の舞台に乱入してきた、招かれざる役者だ。俺の物語を、俺の芸術を、破壊しようとしている。

怒りと焦りが、俺の思考を焼き尽くす。 こうなれば、もう小細工は通用しない。回りくどい演出は終わりだ。役者が脚本を読めないなら、舞台装置そのもので、奴らの身体を動かすしかない。 俺は、この物語に、決定的な悲劇のトリガーを埋め込むことを決意した。

俺は一度、沢木の部屋に忍び込み、彼の道具箱からカッターナイフを一本、抜き取っていた。万が一のための「小道具」だったが、今こそ、それを使う時だ。

夕暮れ時。アパートの住人が、夕食の準備や帰宅でざわめき始める、最も無防備な時間帯。 俺は自室を飛び出し、階段を駆け下りた。もはや、以前のような慎重さはない。ただ、燃え盛るような激情だけが俺を突き動かしていた。 201号室のドアの前。俺は盗み出したカッターナイフを取り出すと、その刃を剥き出しにし、力の限り、ドアの中央に突き立てた。 ぐ、と木が裂ける鈍い感触。刃はドアを貫通し、向こう側へ突き抜ける。 それは、脅迫であり、宣戦布告だ。 このアパートの全ての住人に対する、俺からの最終通告。

俺は震える手でナイフを突き立てたまま、荒い息を殺した。 さあ、どうする。星野澪。古賀麟太郎。 俺は脚本を破り捨てた。 ここからは、アドリブだ。お前たちの本能が、俺の望む通りのクライマックスを演じてくれるだろう。

俺は身を翻し、再び屋根裏の闇へと姿を消した。 心臓は破れそうなほど高鳴り、口の中は鉄の味がした。 舞台は整った。あとは、役者が血を流すのを待つだけだ。

第六章 血とインク

突き立てられたナイフは、まるで舞台の時間を止めるかのように、静寂の中に存在し続けていた。 俺は屋根裏の闇で、息を殺し、全身を耳にして、その瞬間を待っていた。どのくらいの時間が経っただろうか。永遠のようにも、一瞬のようにも感じられた。

その時、階下で、錠の開く小さな音がした。 201号室、星野澪のドアだ。新聞か、あるいは喉の渇きでも癒しに、自販機へでも行くつもりだったのかもしれない。 ドアが数センチ開いて、止まる。 隙間から、彼女の鋭い、しかし怯えた視線が覗いた。そして、その視線はドアに突き立てられた銀色の凶器に吸い寄せられる。 「ひっ」 声にならない、空気が喉を無理やり通過する音がした。

運命の歯車が噛み合ったのは、まさにその瞬間だった。 ガチャリ、と重い音を立てて、隣の202号室のドアが開いた。Tシャツにスウェット姿の沢木快人が、気怠そうに姿を現したのだ。おそらく、深夜のコンビニにでも行くのだろう。 彼は、ドアの前で凍りついている澪と、そのドアに突き立つ異様なナイフに気づいた。 「おい、なんだよこれ……」 彼の口から漏れたのは、純粋な困惑と、わずかな恐怖だった。

だが、その声は、星野澪には届いていなかった。 彼女の世界では、すべての音が消えていた。彼女の目には、ただ、自分を追い詰めたストーカーが、凶器を手に、最後の壁を破ろうとしている姿だけが映っていた。過去のトラウマと、現在の恐怖が、彼女の中で赤い閃光となって炸裂した。 彼女は獣のような素早さで、半開きのドアの内側へ一度身を引いた。そして、再び姿を現した時、その手には、鈍い金色に光るブロンズ製のブックエンドが握られていた。 「え……」 沢木の戸惑いの声は、最後まで結ばれることはなかった。 澪が、全身の体重を乗せて、その金属の塊を振り下ろした。

ごん、という、熟れた果実が潰れるような鈍い音が、アパートの廊下に響き渡った。 沢木は、驚愕の表情を顔に貼り付けたまま、糸の切れた操り人形のように、ゆっくりと床に崩れ落ちた。後頭部からじわりと広がる黒い染みが、みるみるうちに床の木目を濡らしていく。

星野澪は、ブックエンドを握りしめたまま、倒れた男を見下ろして、ぜえぜえと肩で息をしていた。 俺は、屋根裏の闇の中で、その光景をただ、見ていた。 死んだ。 人が、死んだ。俺の、せいで。 胃の奥から、酸っぱいものがこみ上げてくる。これが、現実の死。生々しく、不条理で、あまりに呆気ない、命の終わり。 だが、その嘔吐感にも似た恐怖が引いた後、俺の心を支配したのは、身も世もないほどの、芸術的な興奮だった。 なんというクライマックスだ。 予想を超えた、最高の悲劇。ヒロインが、自らの手でヴィランを裁く。これ以上の物語があるか?

その時、203号室のドアが、静かに開いた。 古賀麟太郎が、目の前の惨状を一瞥した。彼の顔には、驚きも、恐怖もなかった。ただ、まるで、とうに来るべき時が来たとでも言うような、深い、深い哀しみが浮かんでいた。 彼は、呆然と立ち尽くす澪に、静かに語りかけた。 「星野さん。もう、いい。それを、お置きなさい」 澪の手から、ブックエンドが滑り落ち、からん、と乾いた音を立てた。 古賀は、彼女の肩にそっと手を触れてから、ポケットから携帯電話を取り出し、躊躇うことなく、110番を押した。

遠くから、サイレンの音が聞こえ始める。 今度は、本物だ。殺人事件の発生を告げる、本物のサイレン。 俺は、闇の中で、震えていた。それは、恐怖か。それとも、神だけが味わうことのできる、創造の喜びに打ち震えていたのか。 あるいは、その両方か。 階下で流れたのは、沢木快人の血だ。だが、俺の脳内では、それが、傑作を完成させるための、極上のインクに変わっていた。

第七章 探偵の小道具

昭和荘が赤と青の回転灯に繰り返し舐められたのは、それから十分も経たないうちだった。 俺の脚本は、ついに本物の役者たち――警察を呼び寄せた。刑事、鑑識、制服警官。彼らは俺が設えた舞台を、土足で、無遠慮に踏み荒らしていく。俺は屋根裏の闇に身を潜め、そのすべてを記録した。

星野澪は、抜け殻のようだった。刑事の問いかけに、か細い声で「覚えていない」「夢中で」と繰り返すだけ。彼女は正当防衛を主張したが、その主張は、凶器となったブックエンドの重さと、沢木の頭部に残された傷の深さの前では、あまりに説得力に欠けていた。彼女は重要参考人として、任意同行を求められた。朝焼けが窓を白く染め始める頃、彼女は二人の刑事に付き添われ、俺の舞台から静かに退場していった。

鑑識の作業は、夜が明けても続いた。彼らはプロだった。ドアに突き立てられたナイフを慎重に抜き取り、廊下の血痕を丹念に拭い、ブックエンドを証拠品として袋に詰めていく。俺の「小道具」が、次々と押収されていく。その光景は、自分の作品を検閲されるようで、奇妙な不快感があった。

その時だ。 ひと通りの現場検証が終わり、刑事たちが引き上げの準備を始めた、まさにその時。古賀麟太郎が、現場を仕切る初老の刑事に、静かに話しかけているのが見えた。 「……どうも、腑に落ちない」 彼は、沢木が倒れていた場所のすぐ脇、壁と床板の隙間を指差した。 「沢木くんは、あんな場所に物を落とすような男じゃない。彼は部屋こそ汚かったが、自分の商売道具や身につけるものには、妙なこだわりがあった」

刑事は訝しげにその場所を見たが、鑑識の徹底的な調査の後だ、何も見つかるはずがない。 「ご協力は感謝しますが、我々もプロです。そこは何度も…」 「ええ、分かっております」 古賀はそう言うと、自らゆっくりと屈み込み、隙間を覗き込んだ。そして、まるで今気づいたとでもいうように、かすかに目を見開いた。 「おや……これは、なんだろう」 彼の指が、床板のささくれに引っかかっていた、黒く細長い何かを摘まみ上げた。それは、陽の光を鈍く反射した。 古い、モンブラン製の万年筆だった。

刑事が慌てて駆け寄り、それをピンセットでつまみ上げ、証拠品袋に入れる。 「鑑識は何をやっていたんだ…!」 刑事たちの間に、緊張が走った。見落とされていた、決定的な証拠かもしれない。 屋根裏の俺は、息を呑んだ。 万年筆? なぜ、あんな場所に。沢木が持つはずがない。星野澪のものか? いや、彼女の部屋の趣味とは明らかに違う。では、一体誰が、いつ、何のために。

これは、俺の脚本にはない、全く新しい謎だ。 警察という凡庸な観客が見逃し、あの老獪な探偵役だけが見つけ出した、極上のミステリー。

俺は、脳髄が痺れるほどの興奮に襲われた。 素晴らしい。なんと素晴らしい。俺の物語は、俺の想像さえ超えて、自ら進化を始めたのだ。この謎を解き明かし、物語に組み込むことができるのは、屋-根裏から全てを俯瞰する、神である俺だけだ。

警察が完全に引き上げた後、昭和荘には黄色い規制線だけが残された。アパートは、まるで巨大な死体のように静まり返っていた。 俺は自室に滑り込むように戻ると、憑かれたようにパソコンを開いた。 血の匂いと、死の感触が、まだ指先にこびりついている。 その生々しい感覚を、一滴も余さず、文字に変換していく。

俺は書いた。ヒロインが絶望の淵で犯した、悲劇的な殺人。 そして、凡庸な警察が見逃した小さな綻びを、老練な名探偵が発見する、鮮やかなシーンを。 そう、俺の小説の中では、古賀麟太郎は名探偵だ。そして、彼が発見した「謎の万年筆」こそが、事件の真相を解き明かす、最も重要な鍵となるのだ。 俺は、古賀が仕掛けた罠とは知らず、その罠の構造そのものを、自らの手で、克明に、小説として記録し始めた。 俺の傑作は、破滅へと続くレールの上を、猛スピードで走り始めた。

第八章 受賞

あの夜から、数ヶ月が過ぎた。 灼熱の夏は遠い記憶となり、昭和荘の廊下には、北風が枯葉を吹き溜まらせていた。 黄色い規制線はとうに剥がされ、202号室は固く閉ざされたまま、沢木快人という男が存在した痕跡をゆっくりと消し去ろうとしている。だが、アパートに染みついた死の匂いだけは、冬の冷たい空気でも拭い去ることはできなかった。

星野澪の事件は、宙吊りになっていた。 彼女は逮捕後、一貫して正当防衛を主張。古賀麟太郎が手配した弁護士の尽力もあり、彼女は保釈されたが、裁判の目処は立っていない。状況証拠は彼女に圧倒的に不利だったが、度重なるストーカー被害の訴えという背景が、単純な「殺人」という断罪を躊躇させていた。 彼女は、社会という巨大な天秤の上で、その運命を測られ続けている。俺のヒロインは、今、最も過酷なサスペンスの只中にいた。

そのすべてを、俺は屋根裏から見届け、そして書き記した。 俺の執筆は、神懸かっていた。あの日、俺の指先にこびりついた血の感触が、そのままインクとなっていた。恐怖、混乱、悲劇、そして、警察の捜査。すべてが、俺の物語の血肉となった。

特に、古賀麟太郎が発見した「謎の万年筆」。 俺はこの小道具を、物語の核心に据えた。俺の小説『屋根裏の劇作家』の中で、老獪な名探偵は、この万年筆から、驚くべき真相を導き出す。 ――万年筆は、殺された沢木のものでも、ヒロインのものでもない。それは、沢木を裏で操っていた「第三の男」のものだったのだ。沢木は単なる実行犯に過ぎず、ヒロインを精神的に追い詰めていた真のストーカーは別に存在する。その男が、事件の夜、沢木と密会するために部屋を訪れ、その際に落としていったのだ――。 我ながら、完璧なプロットだった。現実の不可解な断片を、虚構の論理で、美しく再構築する。読者は、この鮮やかな謎解きに熱狂するだろう。

一月末、江戸川乱歩賞の締め切り当日。 俺は、コンビニでプリントアウトした原稿の束を、震える手で封筒に入れた。それは、単なる紙の束ではない。人間の血と、魂と、狂気が詰まった、俺のすべてだった。

そこから、また季節が巡った。 冬が終わり、春の気配が訪れる。俺は、屋根裏に上がることもやめ、ただひたすら、審判の時を待った。落ちても、もう次の作品を書く気力はない。俺は、あの一作にすべてを燃やし尽くしていた。

そして、四月。運命の日。 鳴らないと思っていた固定電話が、けたたましく鳴った。知らない番号。編集者を名乗る、冷静で、丁寧な男の声だった。 俺は、ちゃぶ台の前で正座し、受話器を握りしめていた。

「もしもし、神山創先生でいらっしゃいますか」 「……はい」 「わたくし、講談社の文芸第三編集部、佐藤と申します。この度は、江戸川乱歩賞にご応募いただき、誠にありがとうございました」 事務的な、丁寧な前置き。俺は、唾を飲み込んだ。 「単刀直入に申し上げます」 一瞬の間。その沈黙が、俺の心臓を鷲掴みにした。

「神山先生。第72回江戸川乱歩賞、受賞、おめでとうございます」

その瞬間、俺の世界から、音が消えた。 受話器の向こうで、編集者が何かを話し続けている。選評のこと、授賞式のこと、今後のこと。だが、その言葉は、もう俺の耳には届いていなかった。 俺は、泣いていた。 声もなく、ただ、涙が次から次へと頬を伝い、乾いた畳の上に染みを作っていく。 報われた。認められた。俺の芸術は、俺の神としての所業は、この世界の最高権威によって、祝福されたのだ。

電話を切った後、俺はゆっくりと立ち上がり、窓を開けた。 春の生ぬるい風が、部屋の淀んだ空気を掻き混ぜる。眼下には、平凡で、退屈な日常の風景が広がっている。だが、今は、そのすべてが愛おしく見えた。 なぜなら、今日から、この世界は俺のものなのだから。 俺は、この世界の王になったのだ。

授賞式は、六月。 その日、俺の栄光は頂点を迎え、そして、俺の物語は、俺自身が予想だにしなかった、真の最終章を迎えることになる。 もちろん、その時の俺は、知る由もなかった。

最終章 屋根裏の劇作家

授賞式の日、俺は生まれて初めて、オーダーメイドのスーツに袖を通した。 帝国ホテルのボールルームは、シャンデリアの光が乱反射し、まるで現実感のない夢の世界のようだった。文壇の大御所、有名な評論家、華やかなドレスに身を包んだ女性たち。かつて俺が、淀んだ六畳間で憎悪と嫉妬を込めて見上げていた世界の、まさに中心に、今、俺は立っていた。

「――続きまして、第72回江戸川乱歩賞、受賞作、『屋根裏の劇作家』、神山創先生です!」

万雷の拍手。無数のカメラのフラッシュ。 俺は、練習した通り、謙虚さと新人らしい硬さが入り混じった表情で、ゆっくりと壇上へ向かった。選考委員の老人から、シャーロック・ホームズ像と、一千万円の小切手を受け取る。重い。現実の、栄光の重みだった。

マイクの前に立ち、俺は用意してきたスピーチを読み上げた。 「……現代社会の孤独が生み出した、必然の悲劇。そして、物語という虚構が、いかに現実を侵食しうるかというテーマを、私なりに突き詰めた結果が、この作品です……」 俺は語りながら、聴衆の中に、古賀麟太郎の姿を探した。彼にも見せてやりたかった。俺の芸術が、彼のちっぽけな探偵ごっこを、遥かに超越したことを。だが、彼の姿は見当たらなかった。

スピーチを終えると、再び割れんばかりの拍手が巻き起こった。 壇上を降りた俺は、編集者や評論家たちに囲まれ、次々と差し出されるシャンパングラスを受け、賞賛の言葉を浴び続けた。すべてが、甘美な酩酊感の中にあった。俺は神であり、王だった。この夜、この場所では、俺こそが世界の中心だった。

その時、ふと、人垣の向こうから、俺をじっと見つめる視線に気づいた。 一人は、見知った顔。古賀麟太郎。彼は、なぜか喪服のような黒いスーツを着て、そこに佇んでいた。 そして、その隣には、四十代半ばほどの、怜悧な雰囲気を持つ女性がいた。彼女は、俺を見ると、人垣を分けるように、まっすぐにこちらへ歩いてきた。手には、俺の受賞作『屋根裏の劇作家』の単行本を持っている。

「神山先生、おめでとうございます。素晴らしい作品でした。一晩で、夢中になって読みましたわ」 女性は、穏やかな笑みで言った。てっきり、どこかの書評家だろうと俺は思った。 「ありがとうございます。光栄です」 「わたくし、警視庁捜査一課の若松と申します」

その名乗りを聞いた瞬間、俺の身体から、すっと血の気が引いた。だが、刑事だと? なぜ、こんな場所に。俺はかろうじて、平静を装った。 「刑事が、私の小説に何かご用でも?」 「ええ。先生の小説のおかげで、行き詰まっていた『昭和荘変死事件』の捜査が、大きく進展したのです。感謝を申し上げたくて」

隣まで来ていた古賀が、静かに口を挟んだ。 「神山先生。あなたの小説の中で、私の万年筆が、殺人のあった部屋から見つかったと書かれていましたな」 「……それが、何か?」 心臓が、嫌な音を立てて脈打つ。 古賀は、初めて、心の底からの笑みを浮かべた。それは、まるで、チェスでチェックメイトを告げる勝者の笑みだった。

「ですが先生。あの万年筆は、私が警察の捜査が終わった後に、あなたに見つけさせるために、こっそり置いた私の私物なのです」

―――時が、止まった。

シャンデリアの光が、白く思考を焼き尽くす。グラスのぶつかる音、人々の笑い声が、急速に遠ざかっていく。 若松警部補が、冷徹な声で、俺の耳元で囁いた。 「星野澪さんを精神的に追い詰め、沢木快人さんを死に至らしめた、数々の陰湿な嫌がらせ。その手口と、犯人しか知り得ない現場の状況。そして何より、存在するはずのない証拠品の描写。あなたの小説は、すべてを完璧に物語ってくれました」 彼女は、俺が手にしたホームズ像に目をやった。 「あなたは殺人犯ではない。ですが、人の心を弄び、死に至らしめた、悪質な犯罪者です。殺人教唆、住居侵入、証拠捏造……あなたのしたことは、物語ではなく、ただの醜悪な犯罪なのですよ」

ああ、そうか。 そういうことだったのか。 俺が神の視点から見下ろしていた、あの小さな箱庭。あの舞台。 そのさらに外側で、この老人が、たった一人、静かに俺を見つめていたのだ。 俺が筋書きを書いていると思っていた。だが、違った。 俺自身が、彼の描いた、復讐劇の滑稽な主人公だったのだ。

俺は、何も言えなかった。 ただ、フラッシュの光が、断罪の光のように、俺の顔を白く照らし続けていた。 万雷の拍手は、まだ鳴り止まない。 それは、俺の人生の最高傑作、『屋根裏の劇作家』の、残酷なカーテンコールだった。

(了)

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