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『毒禊』-Where the Truth Drops You.-

その会社では、月に一度、「毒」が「禊がれる」。


あらすじ

急成長中のITベンチャー「DROP」。『心理的安全性』と『フラットな組織』を掲げ、IPO(株式公開)を目前に控える、誰もが羨む理想の職場。

前職の旧態依然とした空気に疲れ果て「DROP」に転職した**柏木 悟(かしわぎ さとる)**は、その異様なまでの一体感と、匿名の社内ツール「毒出し」に、微かな違和感を覚えていた。

やがて彼は、前任者が不審な形で「休職」した事実に直面し、会社の根幹を揺るがす**「粉飾決算」**という巨大な「毒」の存在に気づいてしまう。

「DROP」の結束力の正体――それは、組織の秘密(=毒)に近づいた者を「新たな毒」と認定し、全社員参加の「善意を装った排斥行為」によって社会的に抹殺する、恐るべき現代の禊の儀式**『毒禊』**だった。

Slackでの無視、会議からの隔離、そして人事による「君のための」詰問。自らが新たな「生贄」であることを悟った柏木は、この狂気のオフィスから生きて脱出できるのか。


登場人物紹介

柏木 悟(かしわぎ さとる) 主人公。30代半ば。中途採用で「DROP」に入社したマーケター。前職の大企業に失望し、「DROP」の透明性の高い社風に理想を見出すが、次第にその裏にある「システム」に気づいていく。

神原 蓮(かんばら れん) 「DROP」創業者兼CEO。30代。カリスマ経営者。「ミッション」「バリュー」「心理的安全性」といった言葉を巧みに操る。IPO(上場)による成功を「大義」と信じ、そのための「粉飾(毒)」も「排斥(禊)」も、組織を守るための「合理的な経営判断」として冷徹に実行する。

雨宮 玲奈(あめみya れいな) 人事(CHRO:最高人事責任者)。「DROP」の社風を体現する、穏やかで共感力の高い女性。しかし、その実態は『毒禊』の執行人。ターゲットとの「1on1」を繰り返し、「君の存在がチームの『毒』になっている」と善意の仮面で告げ、自主退職へと追い込む。

村田 健吾(むらた けんご) CFO(最高財務責任者)。40代。VC(投資家)からのプレッシャーとIPO審査を乗り切るため、「粉飾」という「毒」を作り出した張本人。常に数字に追われ、憔悴している。「毒」に気づく者を嗅ぎつけ、雨宮に「処理」を依頼する。

佐伯(さえき) 柏木の前任者。物語開始時点では「休職中」とされている。「粉飾」の証拠を掴みかけたため、最初の『毒禊』のターゲットとなり、すでに「処理」されている。柏木は彼が残した「毒の痕跡」を追うことになる。

第一章 禊(パージ)

転職するというのは、ぬるま湯から飛び出して、熱湯に足先をつけるような行為だ。 少なくとも柏木 悟(かしわぎ さとる)にとって、三十代半ばのそれは、そういう覚悟を伴うものだった。

前の会社が嫌で嫌でたまらなかったわけじゃない。ただ、澱(よど)んでいた。 会議室の隅に溜まった埃(ほこり)みたいに、誰もが「まあ、こんなものだ」と諦めている空気が。

だから、採用通知をくれた「DROP」の二十階にあるエントランスをくぐった瞬間、 柏木は、自分が浴びた空気の違いに眩暈(めまい)すら覚えた。

ガラス張りの壁面。観葉植物の深い緑。 フリーアドレスのデスクで、MacBookを叩く若い社員たちの背中は、一様に「未来」を向いているように見えた。

前の会社で誰もが愛読していた、部長の顔色を読むための「社内政治新聞」は、ここにはない。 すべてが透明で、合理的だった。

「柏木さんですね! お待ちしてました!」 声のした方を見ると、小柄な女性が人懐っこい笑顔で立っていた。

人事(CHRO)の、雨宮 玲奈(あめみや れいな)。 面接の時とは違う、ラフなコットンのワンピース姿だ。

「今日からよろしくお願いします。あ、喉乾いてませんか? そこのカフェ、全部フリーなので。私はいつもソイラテ」

彼女に案内されながら、柏木は圧倒されていた。 これが、今をときめくスタートアップ。これが、IPO確実と言われる「DROP」。

Slackの通知音が、小鳥のさえずりみたいに軽やかに、オフィスのあちこちで響いている。 その日の午後、柏木はオリエンテーションのため、小さな会議室にいた。目の前には雨宮がいる。

「DROPで一番大事にしていること。柏木さん、何だと思いますか?」 「え……ミッション、とか……」

「もちろんそれも大事です。でも、もっと根本的なこと」 雨宮は、まるで大切な秘密を打ち明けるみたいに、声のトーンを少し落とした。

「『心理的安全性』です」 聞いたことはある。前の会社でも、一度だけ研修でその単語が出た。

けれど、それは「パワハラをしない」という程度の、消極的な意味でしかなかった。 「DROPでは、全員が『本音』で話すことを推奨しています。

どんな立場でも、どんな意見でも、否定されない。それが、私たちの強さなんです」 雨宮の目は、本気だった。彼女は心から、この会社の理念を信じている。

その純粋さが、柏木には少しだけ、眩しすぎた。 「だから、私たちは月に一度、『毒出し』をしています」

「……毒、出し?」 聞き慣れない単語に、柏木は素直に訊き返した。

「はい」と雨宮は頷き、手元のタブレットを操作する。 画面に映し出されたのは、カラフルなワードクラウドだった。

「社内匿名の専用ツールがあるんです。 そこに、『今、組織にとって毒になっている』と思うことを、全員が入力します。人間関係の不満でも、非効率なルールでも、何でも」 「……匿名、ですか」

「はい。匿名だからこそ、『本音』が出ますよね? そして、月末の『禊ミーティング』で、この『毒』をどう解消するか、全員で話し合うんです」

すごい。柏木は素直に感心した。 前の会社なら、匿名のアンケートといえば、犯人捜しのための告げ口ツールでしかなかった。

「心理的安全性が高いから、ちゃんと毒も出せる。 そして、みんなでそれを『禊』する。DROPが成長し続けている秘密は、そこにあるんです」

雨宮は、にこりと笑った。完璧な笑顔だった。 オリエンテーションが終わり、柏木は自席(といってもフリーアドレスだが、一応の「島」はある)に戻った。

マーケティング部のリーダーに軽く挨拶を済ませ、PCを開く。 前任者からの引き継ぎ資料は、すべてクラウドに上がっているという話だった。

(前任者の……佐伯さん、だっけか) 面接の時、ちらりと名前が出た。優秀な人だったが、体調を崩して休職中。そう聞いている。

「柏木さん、前任の佐伯さんのロッカー、空っぽにしちゃって大丈夫なんで」 リーダーが、コーヒー片手に声をかけてきた。

「あ、はい。……佐伯さん、休職って聞きましたけど……」 「ああ、うん。まあ、ね」

リーダーは、なぜか一瞬、目を泳がせた。 「……色々、溜め込んじゃうタイプだったから。……あ、そうだ。

Slackのチャンネル、招待しときますね! 『#prj_xxx』はもう入ってる?」 「いえ、まだです」

「オッケー。すぐ送ります。じゃ、よろしく!」 嵐のように去っていく。

(溜め込むタイプ……) 柏木は、指定されたクラウドのフォルダを開いた。佐伯が残したファイル群。

企画書_A 企画書_B 月次レポート_2025_01
 月次レポート_2025_02 売上管理_fix_final
 売上管理_fix_final_本当.xlsx

最後のファイル名に、柏木の指が止まった。 (……本当?)

fix(修正)やfinal(最終)まではいい。前の会社でも散々見た。 だが、本当とはどういう意味だ。

まるで、それ以外が「嘘」だとでも言うような。 ダブルクリックする。小さなポップアップウィンドウが、無機質に開いた。

『パスワードを入力してください』 柏木は小さく舌打ちした。まあ、そうだろう。

なんだろう、この感じ。胸の奥が、冷たい水に浸されたような。 「心理的安全性」と「本音」。雨宮の言葉が、頭の中で乾いた音を立てて反響する。

本音を隠すための、パスワード。 柏木は好奇心とも不安ともつかない衝動に駆られ、社内ツールで佐伯のGoogleカレンダーを検索した。

休職中の人間の予定など見るものではない、という倫理観は、本当.xlsxというファイル名への違和感に負けた。 佐伯のカレンダーは、三ヶ月前から空白だった。だが、その直前の一週間が、異様だった。

『雨宮様 1on1』
『雨宮様 1on1』
『雨宮様 1on1』
『雨宮様 1on1』
『雨宮様 1on1』

月曜日から金曜日まで、毎日。 これが、あの人懐っこい笑顔の雨宮との「1on1」?

これが、「溜め込んじゃうタイプ」の人への「ケア」? 違う。

これは、面談じゃない。柏木は、別の言葉を知っていた。 これは、尋問だ。


第二章 毒の在処(ありか)

その日の夕方、柏木は給湯室でコーヒーを淹れながら、 ガラス張りの大会議室「TRANSPARENCY(透明性)」をぼんやりと眺めていた。

中にいるのは、CEOの神原 蓮(かんばら れん)と、CFOの村田。 そして、見慣れない男が二人。

高価だが、このオフィスの雰囲気にはまるでそぐわない、窮屈そうなダークスーツを着ている。 (VCの人たちか)

投資家、ベンチャーキャピタル。 DROPに巨額の資金を投下している、「神様」のような存在だ。

神原は、いつも全社員の前で見せる、リラックスしたTシャツ姿とは違った。 糊のきいたシャツを着て、緊張した面持ちで座っている。

柏木には声までは聞こえない。 だが、スーツの男たちの一人が、テーブルを指で強く叩いているのが見えた。

神原が何かを早口で説明している。 CFOの村田は、幽霊のように真っ白な顔で、手元の資料を見つめているだけだ。

スーツの男が、立ち上がった。何か、決定的な言葉を吐き捨てたように見えた。 『ARR(年間経常収益)』『チャーンレート(解約率)』『上場審査』。

唇の動きと状況から、柏木が推測できる単語はそのくらいだった。 男たちは、神原と村田には目もくれず、会議室を出て行った。

その冷え切った目は、通路にいた柏木を、まるで置物か何かのように通り過ぎていった。 柏木は、息を詰めた。

ガラスの向こう、神原は立ち上がったまま、動かない。 その横顔は、柏木が知っているカリスマ経営者のものではなかった。

追い詰められ、何かに怯えている男の顔だった。 数日後、全社員が参加する「全社会議(タウンホール)」が開かれた。

IPOに向けた進捗が共有され、空気はいつものように楽観的で、熱気に満ちている。 最後にQ&Aの時間になった。

「はい、じゃあ経理の青木くん」 神原が、快活な声で指名した。

青木、と呼ばれた若い男性社員が、緊張した面持ちで立ち上がる。 柏木は、彼が経理部の若手だと思い出した。

「あ、あの、いつもありがとうございます。 一点、純粋な興味で教えていただきたいのですが」

青木は、前置きを丁寧に述べた。 「今期のP/L(損益計算書)は、営業利益が非常に好調です。

ですが、その一方でC/F(キャッシュフロー)が、その…… 売上規模に対して、異常に低いように見えます。

これは、何か戦略的な投資が、P/Lに反映されていない形である、ということでしょうか?」 しん、と空気が凍った。

前の会社なら、「新人が何を言っているんだ」と、上司が咳払いで黙らせる場面だ。 だが、ここは「DROP」。心理的安全性が守られた場所。

柏木の心臓が、ドクン、と嫌な音を立てた。 違う。空気が凍ったんじゃない。

全員が、息を止めたんだ。 全員の視線が、神原にではない、質問をした青木に、まるで探るように集まっている。

「……素晴らしい質問だ。青木くん」 静寂を破ったのは、神原の、完璧な笑顔だった。

「それこそが、僕らがDROPで求めている『透明性』へのコミットメントだ。ありがとう」 神原は、立て板に水で説明を始めた。

「ご指摘の通り、キャッシュが薄く見えるのは、 アライアンス先との大型契約におけるレベニューシェアの支払いサイトが一時的に前倒しになっている影響と、

来期に向けた戦略的な開発投資を、キャッシュベースで先行させているからだ。 P/L上のインパクトは来期以降になる。何も心配はいらない。むしろ、成長している証拠だ」

完璧な回答。理路整然としている。 「なるほど、ありがとうございます!」

青木は、納得したように深く頭を下げ、着席した。 会議は拍手で終わった。

だが、その日の午後。 柏木は、Slackのパブリックチャンネル「#general_jp」を見ていて、背筋が凍るのを感じた。

青木 健太 先ほどの全社会議での神原さんのご説明、ありがとうございました! 勉強になりました。 僕が疑問に思ったのは、このレポートのキャッシュ部分です。 もしよろしければ、詳細を教えていただけると助かります。[Datadog_Report_Q3_CF.pdf]

青木が、善意と向学心から、投稿したのだろう。 「DROP」の文化では、こういう投稿には、即座に誰かのリアクション(絵文字)がつくはずだった。

:thumbsup: (いいね)
:raised_hands: (ありがとう)
:rocket: (最高!)
:eyes: (見てます)

青木の投稿には、何もつかなかった。 一時間経っても、二時間経っても。

まるで、その投稿だけが、システムのバグか何かで、誰の目にも映っていないかのように。 十人、二十人、五十人がオンラインであるはずなのに。

柏木は、自分のマウスカーソルが「リアクションする」のボタンの上で、小刻みに震えているのを感じた。 (押せよ。いいね、くらい)

(ただの、PDFの確認だろ?) (押したら、どうなる?)

柏木は、押せなかった。 押せば、自分も「そちら側」の人間だと、見られる気がした。

どの「そちら側」なのかは、わからない。 ただ、神原の完璧な笑顔と、雨宮の「毒出し」という言葉が、頭の中で混ざり合う。

青木は、気づいてしまったのではないか。 売上管理_fix_final_本当.xlsx に隠された、「毒」の匂いに。

そして、柏木は気づいた。 青木のスケジュールに、明日、明後日、明明後日と、『雨宮様 1on1』という予定が、びっしりと埋められていくのを。

ああ、始まったんだ。 次の、「禊ぎ」が。


第三章 本当(うそ)

Slackの通知音が、柏木の耳にはもう、小鳥のさえずりには聞こえなくなっていた。 それは、獲物の位置を知らせる、カチカチという冷たいシグナル音に変わっていた。

青木健太の投稿は、あの全社会議の日から、ずっとそこにあった。 誰のリアクションもつかないまま、タイムラインの底へと沈んでいく。

まるで、最初から存在しなかったみたいに。 柏木は、あのパスワード付きのファイル、売上管理_fix_final_本当.xlsx に取り憑かれていた。

(パスワード……) 佐伯という男を、柏木は知らない。

だが、リーダーは言った。「溜め込んじゃうタイプだった」と。 雨宮は言った。「心理的安全性が大事だ」と。

溜め込んじゃう人間が、最後の最後に「本当」を託す言葉。 柏木は、前の会社のロッカーの奥に貼り付けていた、自分の座右の銘を思い出していた。

『清濁併呑(せいだくへいどん)』 清いものも濁ったものも、両方飲み込め。それが社会人だ。

(違う) ここは「DROP」だ。「禊」する会社だ。

雨宮がオリエンテーションで繰り返した言葉。 psychological_safety 弾かれる。

mission 弾かれる。
DROP_value 弾かれる。

(やめろ。俺は何をやってるんだ) これは不正アクセスだ。見つかれば、それこそ自分が「毒」になる。

だが、柏木の指は止まらなかった。 青木のカレンダーが、雨宮との「1on1」で黒く塗りつぶされていく。

そのスケジュールが、まるで柏木を急かすようだった。 (佐伯さんは、何を溜め込んでいた?)

(雨宮さんに、何を「尋問」されていた?) 雨宮が多用する言葉。「本音」「毒出し」「禊」。

もし、佐伯が皮肉屋だったら。 もし、この会社に絶望していたとしたら。

柏木は、キーボードを叩いた。 dokudashi 弾かれる。

まさか。 misogi エンターキーを押す。

『パスワードが一致しました』 柏木の全身から、汗が噴き出した。

ファイルが開く。 それは、柏木が知っている「売上管理表」とは似ても似つかない、おぞましい代物だった。

複数のシートが隠されている。「正規」「調整」「最終(VC提出用)」。 「正規」シートの売上は、青木が指摘した通り、キャッシュフローと連動している、低い数字。

「最終(VC提出用)」シートの売上は、神原が全社会議で語った通りの、高い数字。 その差額は、「調整」シートで生み出されていた。

検収日の偽装。 柏木の目が、ある一行に釘付けになった。決算月である三月末。

クライアント名「XXソリューションズ」。金額、三千万円。 納品予定日は、四月十五日。

それなのに、検収日は、三月三十一日。 そして、添付されたPDFファイルへのハイパーリンク。

クリックする。 そこには、XXソリューションズ社の角印が押された、「検収書」がスキャンされていた。

日付は、三月三十一日。 (偽造だ……)

いや、もっと悪い。これは、クライアントと「結託」している証拠だ。 架空循環取引。

売上上位に、聞いたこともないコンサル会社が三社。 同じフォルダにあった「発注一覧」と突き合わせる。

「DROP」がその三社に「コンサルティング」を発注し、 その三社が「DROP」に「システムライセンス料」を支払っている。

金額は、ほぼ同額。日付も、ほぼ同日。 金が、ぐるぐると回っているだけだ。売上と費用を両建てし、実態のない「成長」を偽装している。

資産計上の魔術。 「開発費」のシート。

エンジニアチームが「今月はバグ修正(=費用)ばかりだった」とSlackで愚痴っていたはずの月。 経理データ上は、巨額の「資産(=新規ソフトウェア開発)」が計上されている。

赤字になるはずの「費用」を、「資産」という名の貯金箱に隠している。 柏木は、ファイルを閉じた。息ができなかった。

青木健太は、正しかった。 彼は、この巨大な「毒」の、尻尾の先に触れてしまったのだ。

だから、「禊」が始まった。 その日から、青木の「存在」は、オフィスから急速に消えていった。

Slackでの「スルー」は、もはや日常だった。 柏木が恐ろしかったのは、オンライン会議だ。

マーケティング部と経理部が参加する定例会議。 柏木も、そして青木も、参加者リストには名前があった。

だが、Zoomの画面に、青木のウィンドウが開くことはなかった。 誰も、そのことに触れない。

「あれ、青木くんは?」 誰も、言わない。

まるで、最初から招待されていなかったかのように、会議は進む。 柏木は、会議の途中で、Slackのチャンネルリストを震える指でスクロールした。

#mktg_keiri_定例 (これだ) だが、ふと、リーダーのPC画面が視界の端に入った。

彼が開いているチャンネルは、 #mktg_keiri_定例_v2 だった。 (_v2……?)

柏木は、そのチャンネルの存在を知らない。もちろん、招待もされていない。 そこでは、きっと、青木がいない前提で、全ての会話が進んでいるのだ。

(ひどい) (まるで、小学生のいじめじゃないか)

だが、柏木は何も言えなかった。 自分もまた、_v2 に招待されていないことに、わずかな安堵を覚えている自分に気づいてしまったからだ。

そして、月末。 「禊ミーティング」の日が来た。

会議室に、例のワードクラウドが映し出される。 「今月の『毒』は、これです」

雨宮が、いつもの穏やかな声で言った。 ワードクラウドの中央に、ひときわ大きく、二つの単語が浮かび上がっていた。

『ネガティブ発言』
『チームの不協和音』

柏木は、息を呑んだ。 これは、「毒出し」という名の、匿名のリンチだ。

「全社会議の場で、根拠のない憶測やネガティブな発言をすることは、 チーム全体の『心理的安全性』を著しく脅かす『毒』である、という意見が多数寄せられました」

雨宮は、淡々と読み上げる。 「組織の透明性を疑うような発言は、それ自体が組織への『ハラスメント』である、と。

……DROPは、こういう『毒』を決して許容しません」 誰も、青木の名前は口にしなかった。

だが、会議室にいる全員が、誰のことを指しているのか、正確に理解していた。 そして、全員が、「自分はそうではない」と安堵していた。

翌週の月曜日。 青木健太は、会社に来なかった。

彼のSlackアカウントは、朝九時ぴったりに「停止中」のステータスに変わった。 彼が座っていたはずのデスク(フリーアドレスだが、人は大体同じ場所に座る)は、綺麗に片付いていた。

誰も、彼の話をしない。 まるで、青木健太という社員など、最初から存在しなかったかのように。

柏木は、昼休み、カフェスペースで雨宮を見かけた。 彼女は、新しく入ったインターンの学生に、あのオリエンテーションの時とまったく同じ、完璧な笑顔で話しかけていた。

「DROPで一番大事にしてること、何だか知ってる?」 オフィスには、嘘のように「いつもの活気」が戻っていた。

Slackの通知音が、軽やかに響いている。 ああ、「禊」されたんだ。

柏木は、冷え切ったコーヒーを、一気に飲み干した。 「毒」は、消えた。

いや、違う。 「毒」に気づいた人間が、消されただけだ。

そして、柏木は気づいていた。 売上管理_fix_final_本当.xlsx を開いた、自分のPCのアクセスログが、CFOの村田に監視されている可能性に。

(次は、俺だ) 「毒」を呑み込んでしまった自覚が、冷たい鉄の塊になって、柏木の胃の底に沈んでいった。


第四章 毒(わたし)

青木が「禊」されてからの一週間、オフィスは不気味なほど「正常」だった。 誰も青木の話をしない。誰も、空いた席(フリーアドレスのはずなのに、そこだけぽっかりと穴が空いている)に目を向けない。

柏木は、自分が二重生活者になったような気分だった。 昼間は、活気あるスタートアップ「DROP」の優秀なマーケター、柏木 悟。 Slackで威勢のいいスタンプを飛ばし、会議で「バリュー」に沿った発言をする。

夜は、本当.xlsxという「毒」を抱え、佐伯と青木の運命をなぞる、臆病な共犯者。 (逃げなければ)

だが、どうやって? 内部告発? 誰に? 警察か? メディアか?

柏木は、佐伯が残した「偽造検収書」のPDFデータを、自宅のPCから、そっと個人のUSBメモリにコピーした。 深夜二時。冷たい汗が背中を伝う。

会社(DROP)のPCは使えない。村田(CFO)がログを監視しているに決まっている。 (これさえあれば)

これが「毒」の現物だ。 これがあれば、あの「禊」の儀式がいかに欺瞞(ぎまん)に満ちているか、証明できる。

だが、同時に思う。 これを外に出した瞬間、自分は「DROP」という共同体から完全に切り離される。

「会社を裏切った『毒』」として。 佐伯や青木のように、社会的に「処理」される。

(でも、やるしかない) 青木の、全社会議での純粋な目が忘れられない。

「心理的安全性」という言葉を、あんなふうに信じている人間が、なぜ消されなければならない。 柏木は、USBメモリをジーンズの小さなポケットに押し込んだ。

それはまるで、小さな爆弾みたいに重かった。 翌日。金曜日の夜だった。

柏木は、できるだけ普段通りを装った。定時を少し過ぎた、十九時。 「お疲れ様でした」

誰にともなく声をかけ、PCを閉じた。カバンを持ち、ゲートに向かう。 心臓が、耳のすぐそばで鳴っている。

(大丈夫だ。何もバレていない)
(俺はただ、退社するだけだ)

(来週の月曜、弁護士のところへ行く) セキュリティゲートに、社員証をかざそうとした、その瞬間。

ピロン。 オフィス中に、聞き慣れたSlackの通知音。

だが、それは、柏木が知っている中で最も重い音だった。 @everyone 全社員への、強制通知。

柏木は、オフィスの全員が、一斉に自分のPCに視線を落とすのを感じた。 柏木も、ポケットの中で震えるスマートフォンを取り出した。

神原 蓮 @everyone 皆さん、金曜の夜にお疲れ様です。急な連絡ですみません。 本日の「禊ミーティング」ですが、緊急アジェンダが入りました。 柏木 悟さん(@Kashiwagi Satoru)より、全社に「共有すべき大切なお話」があるそうです。 今から全員、大会議室「TRANSPARENCY」に集合してください。

全身の血が、足元から引いていく。
(……なんだ?)

(俺から、話?)
(俺は、何も、言っていない)

オフィスにいた三十人ほどの社員たちが、一斉に柏木を見た。 その目に宿っているのは、好奇心ではない。

ああ、そうか。 知っている。この目を、俺は知っている。

「禊ミーティング」のワードクラウドで、『ネガティブ発言』という文字を見ていた時の、あの目だ。 「毒」を見る目だ。

「柏木さん、行きましょう」 背後から、穏やかな声がした。

雨宮 玲奈だった。いつもの、完璧な笑顔で。 「みんな、待ってますよ」

彼女の手が、優しく柏木の背中に触れる。 その手が、氷のように冷たかった。


最終章 毒禊(どくみそぎ)

大会議室「TRANSPARENCY」。 ガラス張りのその部屋は、今や、柏木を晒(さら)すための「水槽」だった。

社員たちが、ぐるりと柏木を囲むように座っている。誰も、私語を交わさない。 柏木は、中央に置かれた椅子に、まるで被告人のように座らされていた。

正面には、神原 蓮。 その両脇を、CFOの村田と、人事の雨宮が固めている。

三人が、「DROP」の「善意」そのものみたいな顔で、柏木を見つめている。 「さて」

神原が、口火を切った。その声は、全社会議の時と同じ、カリスマ的な響きを持っていた。 「柏木さん。今日は、君が持っている『違和感』を、みんなの前で『本音』で話してくれると聞いて、この場を設けました。そうだよね、雨宮さん」

「はい」と雨宮が頷く。 「柏木さん、最近、色々と思い詰めているようだったので。一人で『毒』を抱え込んじゃう前に、みんなで『禊』したほうがいいと思ったんです」

(……なんだ、これは)
(俺は、何も、相談していない)

(こいつら、俺を……!) 「柏木さん」

神原が、心底心配そうな顔で、柏木を覗き込む。 「君が、会社の『ミッション』に背き、チームの『心理的安全性』を著しく脅かす『毒』となっている、という報告が、匿名ツール(毒出し)に多数上がっている」

「そんな……」 「君が、休職中の佐伯くんのファイルに、不正にアクセスしていたことも、ログで確認済みだ。村田くん?」

「はい」村田が、幽霊のような顔で頷く。 「柏木さんのPCからです。売上管理_fix_final_本当.xlsx ……佐伯が勝手に作った、悪意のあるファイルです。会社とは一切関係ない」

(嘘だ!) 柏木は叫びたかった。お前が指示したんだろう、と。

「柏木さん」神原が、諭すように言った。 「君は、佐伯が残した『毒』に、感染してしまったんだ」

「ちがう……」
「違わない」

神原の声が、初めて低くなった。 「君は、その『毒』を、外部に持ち出そうとした。

今朝、君が自宅のPCから、社内サーバーにアクセスし、機密データをダウンロードしたログも、取れている」 柏木は、息を呑んだ。

(自宅のPCまで……?) (監視されて、いた……?)

「これは、会社に対する、明確な『背信行為』だ。 DROPの『バリュー』に反する、最も重い『毒』だ。……何か、弁明はあるか?」

囲まれた。 社員たちの視線が、針のように柏木に突き刺さる。

(弁明?)
(何を言えと?)

(あのファイルは「本当」で、お前らが「嘘」なんだと?) それを言った瞬間、青木と同じ運命が待っている。

いや、青木よりもっとひどい。 「機密情報を盗んだ犯罪者」として、社会的に「処理」される。

ジーンズのポケットの中のUSBメモリが、皮膚を焼くように熱い。 (終わった……)

柏木が、全てを諦め、うつむいた、その時。 佐伯が残した、もう一つの「毒」が、頭をよぎった。

本当.xlsx のパスワードは、misogi だった。 だが、柏木は、あの夜、もう一つのファイルを見つけていた。

佐伯の個人的なクラウドストレージの、深い階層。 経費精算_temp という、何の変哲もないフォルダ。

その中にあった、一つのPDF。 銀座クラブ_XXXX_202412.pdf

日付は、去年のクリスマス。 金額は、八十万円。

承認者は、CFO・村田。 そして、参加者欄に書かれていたのは。

『神原 蓮 様、他一名(交際費)』 (なんだ、これ。交際費で八十万?)

その時、柏木は気づいた。同じフォルダにある、別のPDF。 『XXXX不動産_敷金礼金_202412.pdf』

港区の、高級タワーマンション。 金額は、三百万円。

宛名は、『神原 蓮 様』。 だが、それは、「DROP」の経費として、「広告宣伝費」の名目で処理されていた。

「……神原さん」 柏木は、顔を上げた。声が、震えていた。

「一つ、質問があります」 「なんだい」神原は、まだ余裕の表情を崩していない。

「銀座のクラブの、八十万円の『交際費』って……」 神原の目が、初めて見開かれた。

「……IPO審査を控えているのに、ずいぶん派手に『交際』するんですね」 村田が、カタン、と椅子を鳴らした。

「それと、港区のタワーマンションの家賃……いえ、『広告宣伝費』でしたか。 あれも、会社の『ミッション』のためですか?」

空気が、変わった。 今度は、社員たちの視線が、神原に集まっている。

「……柏木くん、何を」 神原の声が、うわずっている。

「『粉飾』は」と柏木は続けた。 「『粉飾』は、会社を……IPOを守るための『毒』だったかもしれない。みんなで呑む『毒』だったのかもしれない」

柏木は、立ち上がった。 「でも、あなたの『横領』は違う!」

「……!」 「それは、会社(DROP)の毒じゃない! あなた個人の『毒』だ!」

柏木は、神原を指差した。 「本当に『禊ぐ』べきは、俺じゃない!」

「俺たちを騙して、会社の金を私物化していた、あなただ!」 静寂。

最初に動いたのは、雨宮だった。 彼女は、うつむいていた顔をゆっくりと上げ、その完璧な笑顔を、今度は、隣にいる神原に向けた。

「……神原さん」 その声は、柏木が「1on1」で聞いた時よりも、さらに一度低い、冷徹な響きを持っていた。

「それは、本当ですか?」 「あ、いや、雨宮くん、これは……」

「私たちは、神原さんの『ミッション』を信じて、 IPOのために、必死で……『禊』も手伝ってきたのに」

雨宮は、立ち上がった。 そして、柏木ではない、集まった全社員に向かって、深く、深く頭を下げた。

「皆さん。本当に、申し訳ありませんでした」 「わ、私たちが、『毒』に感染していたようです」

「ですが、本当の『毒』の在処(ありか)が、今、わかりました」 彼女は、顔を上げた。その目には、涙すら浮かんでいる。

「私たちは、今日、本当の『禊ぎ』を行います!」 ああ、と柏木は思った。

(こいつだ……) (こいつが、本当の……)

CFOの村田も、素早く立ち上がっていた。 「神原! お前だったのか! 俺は、俺は騙されていた!」

「なっ……村田! お前も共犯だろうが!」 「共犯?」雨宮が、心底軽蔑したような目で、神原を見下ろした。

「粉飾は、あなたの指示です。私たちは、あなたの『ミッション』を信じただけ。 でも、横領は違う」

「そうです」村田が続く。 「私たちは、この『毒』を排斥します」

集団心理は、熱に浮かされたように反転した。 「ひどい」「信じてたのに」「神原さんが毒だったんだ」

「禊ぎ」が、始まった。 今度の生贄は、昨日までの「王」だった、神原 蓮。

社員たちの目は、もはや柏木を見てはいなかった。 柏木は、その輪から、そっと一歩、後ずさった。

そして、もう一歩。 誰も、彼を気にも留めない。

彼らは、新たな「毒」を「禊」する儀式に夢中だった。 柏木は、大会議室「TRANSPARENCY」を、静かに出た。

ジーンズのポケットの中のUSBメモリが、まだ、熱かった。 彼は、セキュリティゲートに向かった。

今度こそ、誰も彼を止めなかった。 ゲートをくぐり、エレベーターホールに出る。

オフィスの中から、雨宮の、泣きながらも力強い声が、かすかに聞こえてきた。 「私たちは、生まれ変わります! この『毒』を禊して!」

柏木は、下りボタンを押した。 (禊、か)

「毒」を食らった「毒」は、さらに強力な「毒」となって、あの共同体を支配し続けるのだろう。 雨宮と村田が、「神原」という最大の生贄を差し出すことで、IPO(上場)という目的を達成するために。

そして、「粉飾」という、本当の「毒」は、巧妙に隠蔽されたまま。 エレベーターのドアが開く。

柏木は、冷たい箱の中に足を踏み入れた。 ドアが閉まる。

地上に降りたら、まず、何をしようか。 あのUSBメモリを、どうしようか。

柏木は、まだ、答えを持っていなかった。

第五章 地下の水

エレベーターが地下一階に到着し、ドアが開く。 柏木は、全身を覆う冷たい空気に、ようやく息を吹き返した。

ビルの地下は、薄暗い駐車場と、テナント用の搬入口が広がっている。 DROPのオフィスの「透明性」とは無縁な、コンクリートと鉄の匂いが充満していた。

柏木は、誰かに追われているわけではないのに、足早に駐車場を横切った。 (俺は、生き残ったのか?)

あの「TRANSPARENCY」の会議室で、自分が神原を指弾した瞬間、雨宮と村田の視線が神原に移った。 それは、彼らにとって柏木という小さな「毒」よりも、神原という巨大な「毒」を排除する方が、IPOという目標達成に都合が良かったからに過ぎない。

柏木は、彼らの「禊」の連鎖に、意図せず巻き込まれ、そして、利用されたのだ。 自分が英雄でも、正義の告発者でもないことは、痛いほど理解していた。

ただの、運の良い共犯者だ。 エレベーターを降りた瞬間、柏木はスマートフォンを取り出し、Slackアプリを強制終了した。

通知をオフにするのではない。アプリを削除するのだ。 ポケットのUSBメモリを、ぎゅっと握りしめる。

これが、彼の「命綱」であり、彼が呑み込んだ「毒」の最後の証拠だった。 (本当に、告発するのか?)

彼は足を止め、暗い駐車場の柱の陰に寄りかかった。 もし告発すれば、DROPは終わりだ。IPOは頓挫し、数千人の社員が路頭に迷うだろう。

そして、彼自身も、秘密保持契約違反、業務上横領(佐伯のファイルをダウンロードした行為)で訴えられ、 社会的なキャリアの全てを失うだろう。

それは、佐伯や青木が受けた「処理」とは違う。 もっと、公然とした、冷徹な制裁だ。

「清濁併呑……」 前の会社で、部長の顔色を伺いながら呟いた、自己欺瞞の言葉。

ここで「清」を選べば、社会的に「濁」に沈む。 ここで「濁」を選べば、良心の呵責という名の「毒」に、一生苛まれ続ける。

柏木の頭の中に、青木の純粋な瞳と、佐伯の残した「本当」のファイル名が、交互に浮かび上がった。 そして、雨宮の、泣きながら神原を指弾する、完璧に演出された「禊ぎ」の表情。

(あの女は、すべてを知っていた) 佐伯の「毒」も、青木の「純粋さ」も、神原の「横領」も。

彼女は、全てを「禊」という大義名分のもと、組織の成長のために利用した。 彼女にとって、「心理的安全性」は、社員から「毒」を引き出し、排除するための、最も残酷なツールだったのだ。

柏木は、再び歩き出した。駐車場の出口から、冷たい夜風が吹き込んでいる。 「……呑み込めない」

柏木は、もう、清濁両方を呑み込むことはできない。 このUSBメモリのデータは、あまりにも重すぎた。

彼は、歩きながら、弁護士の知人から聞いた、匿名の内部告発窓口を検索した。 彼が「濁」を選んだのは、社会的な成功ではなく、自分の良心を守るためだった。

それは、彼の人生で、初めての「本音」だった。

第六章 澱(よどみ)の行方

翌朝、土曜日。柏木は、いつものフリーアドレスの席ではなく、自宅の机で目覚めた。 体調不良を理由に、そのまま会社を休むつもりだった。

午前十時。自宅の固定電話が鳴った。 表示されているのは、見慣れない携帯番号だ。

柏木は一瞬ためらったが、意を決して出た。 「……はい、柏木です」

「おはようございます、柏木さん」 電話口の声は、昨夜、泣きながら神原を「禊いだ」はずの、雨宮 玲奈だった。

その声は、驚くほど冷静で、穏やかだった。 「土曜日にすみません。少し、お話がしたくて」

「何の、話ですか。俺は、体調が優れないので、週明けまで……」 「昨夜の件です」雨宮は、柏木の言葉を遮った。

「あなた、昨夜、神原さんの『個人の毒』を、私たちに開示しましたね。 おかげで、DROPは最悪の事態……IPOの直前での社長逮捕、という危機を回避できました」

「……」 「柏木さん、あなたは、DROPの真の『禊』に、貢献してくださった」

柏木は、吐き気がした。 「俺は、俺の身を守るためにやった」

「ええ、知っています。それが『本音』です」 雨宮は、むしろ嬉しそうだった。

「だから、あなたには、DROPの『バリュー』に沿った、最高の評価を与えます」 「……どういう意味だ」

「新しいCOO(最高執行責任者)に、就任していただきたいんです」 柏木は、耳を疑った。

「神原さんの後任は、CFOの村田がCEOに昇格しますが、 彼は財務・法務畑。組織を牽制し、文化を統率する強いリーダーが必要です」

「柏木さん。あなたは、『毒』の在処を知っている」 雨宮の声が、甘く、そして、確信に満ちて響いた。

「佐伯の『毒』を暴き、青木の『毒』を傍観し、神原の『毒』を排斥した。 あなたは、私たちDROPの『禊』の連鎖、そのものを知っているんです」

「だから、あなたこそ、この組織の『澱』を管理できる唯一の人間だ」 「……断る」柏木は、強い口調で言った。

「俺は、あの会社にいたくない。俺は、あのデータを持って……」 「告発ですか?」雨宮は、クスリと笑った。

「柏木さん、もう遅いですよ。あなたは、昨夜、あの会議室で、 神原さんを『横領犯』として指弾し、DROPの『粉飾』を擁護した」

「あなたは、『粉飾』を呑み込み、神原を切り捨てて、DROPの清廉性を守るという、 私たちと同じ『濁』を選んだんです」

彼女の言葉は、まるで洗脳のように、柏木の脳髄に染み込んでくる。 そう、彼は、神原の横領を暴いたとき、粉飾そのものを擁護したも同然だ。

「それに」雨宮の声が、さらに冷たくなった。 「あなたのPCのアクセスログ、自宅からのサーバーアクセス、USBへのダウンロード。

もしあなたが告発すれば、私たちは即座にあなたを機密情報窃盗で訴えます。 佐伯が残した『本当』ファイルは、会社が『悪意のあるファイル』と宣言すれば終わりです」

「あなたは、佐伯と青木の運命を、自ら選び直すことになりますよ」 沈黙。柏木は、自分の喉がカラカラに乾いているのを感じた。

「COOになってください、柏木さん」 雨宮の声は、再び優しくなった。

「あなたの『毒』は、私たちを強くします。私たちは、この世界で最も『透明』な会社になる。 なぜなら、あなたという『毒』を知っている人間が、組織のトップで、常に私たちを監視しているからです」

「さあ、柏木さん。どちらを選びますか? 社会的な死か、あるいは、組織の中枢で、この『澱』を管理する、新しい『毒』の王になるか」

柏木は、机の上のUSBメモリを見た。それは、もう熱くなかった。 ただの、冷たいプラスチックの塊だ。

彼は、電話を切った。 そして、その日の午後、柏木は再びあの二十階のエントランスをくぐった。

彼は、COOとして、DROPの「禊」の最前線に立つことになった。 彼自身が、最も強力で、最も隠された「毒」として。

最終章の終焉

数ヶ月後。 DROPは、見事に東証マザーズに上場を果たした。

上場セレモニー。COOとして神原の隣(現在は村田CEO)に立つ柏木は、 テレビカメラに向かって、誇らしげに語った。

「私たちの成長の秘密は、徹底した『心理的安全性』と『透明性』です。 私たちは、常に『本音』で話し合い、組織の『毒』を出し、それを『禊』することで、進化を続けています」

彼の言葉は、会場の歓声にかき消された。 柏木の脳裏には、佐伯、青木、そして神原の顔が、走馬灯のように巡った。

彼らは、全員、「禊」という名の儀式で、この成長の祭壇に捧げられた生贄だ。

(俺は、生きている) (しかし、俺は、俺自身が最大の「毒」となった)

柏木は、上場後の最初の「禊ミーティング」で、 CEOの村田とCHROの雨宮と共に、最上段の席に座った。

ワードクラウドには、もう『ネガティブ発言』という毒はなかった。 新しい毒は、『非効率な業務プロセス』『部門間の連携不足』といった、無害なものに置き換わっていた。

雨宮が、にこやかに言った。 「COOの柏木さん。今月の『毒出し』について、何かコメントはありますか?」

柏木は、口元に、雨宮そっくりの、完璧な笑顔を浮かべた。 「ええ。私たちの組織は、完璧に『禊』されています」

「しかし、皆さんが、組織の『淀み』に気づかなくなることが、最も怖い『毒』です」 「だから、私は、この組織の隅々にまで、目を光らせます」

「そして、いつか、このDROPという器が、本当に『透明』で、 『澱』のない、清らかな水で満たされる日まで……」

柏木は、会議室のガラス張りの壁面を見た。 向こうのオフィスで、新しいMacBookを叩く社員たちの背中は、一様に「未来」を向いているように見えた。

だが、彼は知っている。 この「透明性」の裏側には、彼自身という、最も濃密な「澱」が、今も、そしてこれからも、深く沈殿し続けていることを。

彼は、その「毒」を呑み込み続ける。 DROPが成長を続ける限り、彼は、この澱みの支配者であり続ける。

柏木のCOOとしての仕事は、組織が本当に「毒」に侵される前に、 偽りの「禊」を繰り返すこと。

そして、最も重要なこと。 決して、自分自身の「毒」を、誰にも見せてはいけない。

彼は、笑った。 それは、かつての自分には理解できなかった、冷徹な「社長の顔色を読むための社内政治新聞」の、最終ページに書かれた、不気味な勝利の笑みだった。

(了)

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