あらすじ
一人の女性社員が「適応障害」の末に自ら命を絶った。それは、現代社会が生んだありふれた“静かな悲劇”のはずだった。
友人の死の真相を追う週刊誌記者・神崎は、やがてその裏に潜む巨大な悪意に気づく。善意の仮面を被った天才カウンセラー。市場を影で操る投資ファンド。そして、次々と沈黙させられる証人たち。これは事故か、自殺か、それとも“見えない殺人”か。
散りばめられた暗号、信頼できない協力者、そして幾重にも仕掛けられた罠。全ての謎が解けた時、あなたはこの盤面が根底から反転する驚愕の真実に言葉を失う。ラスト、この物語の本当の勝者が明らかになる。
この「静寂」に潜む「ノイズ」が、あなたには聞こえるか。
登場人物紹介
神崎 和真(かんざき かずま) – 25歳 週刊誌『週刊フロンティア』の記者。本作の主人公。大学時代の友人・沙織の死に疑問を抱き、真相究明に乗り出す。強い正義感と、彼女を救えなかった罪悪感を原動力に、巨大な陰謀の渦中へと飛び込んでいく。
奥村 沙織(おくむら さおり) – 25歳 IT企業「ネクストイノベーション」の元社員。物語の被害者。適応障害で休職中に、自宅マンションから転落死する。彼女が遺したデジタルな痕跡(SNS、音楽、読書履歴)が、事件を解く複雑な暗号となる、物語の「最初の観測者」。
宮田 淳一(みやた じゅんいち) – 52歳 カウンセリングルーム「リーフ・マインド」を営む、著名な臨床心理士。沙織の主治医であり、神崎に協力的な姿勢を見せる。聖職者のような穏やかな物腰の裏に、底知れない冷徹な顔を隠し持つ。
柏木 拓海(かしわぎ たくみ) – 28歳 沙織や神崎の大学の先輩で、ネクストイノベーション社の元エース社員。現在は退職している。沙織が絶大な信頼を寄せていた人物であり、事件の鍵を握る最重要人物だが、彼の真意は深い霧に包まれている。
安西 恵(あんざい めぐみ) – 26歳 沙織の同僚で、唯一の親友とされていた女性。沙織の死に涙し、神崎の調査に協力的に見えるが、その内面には深い闇と劣等感を抱えている。
伊集院 亘(いじゅういん わたる) – 45歳 「ネクストイノベーション」のカリスマ経営者。メディアの寵児だが、利益のためなら手段を選ばない傲慢な一面を持つ。物語の序盤で、神崎の前に立ちはだかる「分かりやすい敵」。
序章:The End of the Experiment
2025年8月10日(土)22:03 JST 東京都港区南青山
カウンセリングルーム「リーフ・マインド」の静寂は、完璧だった。
防音仕様の壁に吸収され、車の走行音も、遠くで鳴り響くサイレンの音も届かない。床から天井まである一枚ガラスの向こうには、数時間前の夕立に洗われた東京の夜景が、無数の光の粒子となって広がっていた。六本木ヒルズの頂点が、湿った夜気の中でゆっくりと赤く点滅している。まるで、巨大な生命体の心臓の鼓動のように。
宮田淳一(52)は、イタリア「カッシーナ」社製の黒い革張りの椅子に深く身を沈め、タブレット端末の冷たい光に顔を照らされていた。空気には、ラベンダーとサンダルウッドをブレンドしたアロマオイルの香りが、計算され尽くした濃度で漂っている。彼の指先が、一つの動画ファイルをタップする。『Okumura_Saori_Session_Final.mp4』。
画面に、奥村沙織(25)の顔が映し出された。少しやつれてはいるが、その目の奥には、諦めとは違う、硬質な光が宿っていた。彼女の声は、タブレットのスピーカーから明瞭に、しかし感情を抑えたトーンで響き始める。
「先生は、チェスのプレイヤーみたいですね。いつも盤面全体を見ている。白の駒と黒の駒がどう思っているかなんて、考えないでしょう?」
画面の中の宮田が、穏やかに問い返す。「どうしてそう思うんだい?」
「だって」と沙織は自嘲気味に笑った。「私のこの“苦しみ”でさえ、先生にとってはただのデータに見えるから。社会というシステムのエラーを検出するための…サンプルの一つ、みたいな」
宮田は無表情で動画を停止した。指を滑らせ、ファイルを選択する。『Okumura_Saori_Session_All.zip』。彼はそれをゴミ箱のアイコンまでドラッグし、『完全に削除』の確認ボタンを躊躇なくタップした。デジタルな記録は、何の痕跡も残さず霧散する。
次に、彼は壁に埋め込まれたドイツ製の業務用シュレッダーの電源を入れた。重低音のモーター音が、完璧な静寂を切り裂く。分厚い紙のカルテの束を手に取り、一枚、また一枚と、ゆっくりと投入口に差し込んでいく。
君は優秀な観測者だったよ、奥村くん。
彼の心に、誰にも届かないモノローグが響く。
だが、観測者は時に、観測対象に影響を与えすぎてしまう。君というノイズは、私の数式をより複雑で、美しいものにしてくれた。…礼を言うべきかな。
最後のページが細断され、モーター音が止むと、部屋には再び完璧な静寂が戻った。彼が腕のスマートウォッチに目を落とすと、その有機ELディスプレイが鮮やかに時刻を告げる。22:15。株価アプリのウィジェットに、小さな赤い数字が表示されている。『NXT.T リアルタイム株価:-1.2%』。
宮田の口元に初めて、満足とも嘲笑ともつかない、微かな笑みが浮かんだ。
第一部:ノイズの発生
第1章:残響
2025年8月11日(日)14:17 JST 東京都千代田区神保町
週刊フロンティア編集部の空気は、日曜日の午後特有の気だるさに満ちていた。カフェインと電子タバコの匂いが染みついたオフィスで、神崎和真(25)は、半分眠った頭で定例のネタ会議に参加していた。彼のデスクの上には、エナジードリンクの空き缶が墓標のように林立している。
社会部のデスクが、警察発表のFAXの束をめくりながら、抑揚のない声で読み上げる。
「…昨日10日、19時頃、世田谷区桜新町のマンション『グレースコート桜新町』敷地内で、同マンション703号室の住人、オクムラ・サオリ、25歳、会社員が倒れているのを通行人が発見。頭部を強打しており、搬送先の病院で死亡確認。部屋から遺書のようなメモが発見されたこと、女性が適応障害で休職中だったことから、警視庁は高所から飛び降り自殺したものと見て捜査…」
オクムラサオリ…?
その音の響きが、神崎の脳内で反響した。まさか。日本に何人いるんだ、その名前。だけど、世田谷区…桜新町…あいつ、たしか…。
彼は反射的にスマートフォンを手に取り、メッセージアプリを開く。トーク履歴の上位に、彼女の名前がある。大学のゼミ旅行で、屈託なく笑う彼女のアイコン写真。その笑顔が、デスクの乾いた声と重なる。全身の血の気が引いていくのが分かった。耳鳴りが始まる。
「…勤務先は、今をときめくIT企業のネクストイノベーション。まあ、キラキラ企業の闇ってやつだな。よくある話だ。次いこうか」
「待ってください!」
神崎の声が、会議室に響いた。全員の視線が彼に集まる。
「その被害者…俺の、友人です」
その日の夜、神崎は沙織の部屋の前に立っていた。遺族に必死に頼み込み、彼女のノートPCだけを借り受けることができたのだ。自分のアパートに戻り、データ復旧業者に連絡を取る。深夜、業者の送ってきた復元データのリストの中に、彼は一つのファイルを見つけた。送信ボックスにも、ゴミ箱にもない、断片化されたメールの下書き。
『件名:本当に、これが正しいことなんですか?』 『本文:宮田先生。先生は、私の味方じゃないのかもしれない。彼に見せられた“会社の不正”は、もっと大きな何かのための、ただのパーツのように思える。もし私に何かあったら…』
文章はそこで途切れていた。
神崎は、自分のメッセージアプリの履歴をもう一度開く。沙織との最後のやり取りが、電子の墓碑銘のようにそこにあった。
沙織(3日前): 『神崎、久しぶり。ちょっと相談したいことがあるんだ。会社のことで』 神崎(3日前): 『おう、どうした?今ちょっと立て込んでるから、来週あたりでもいいか?』 沙織(3日前): 『…そっか。うん、分かった』
その「うん、分かった」という短い返信に込められていたはずの、絶望の重さ。それに今更ながら気づいた彼は、壁に強く拳を叩きつけた。鈍い痛みが、彼の後悔を現実のものとして引き戻した。これは、ただの自殺じゃない。彼女は、何かを伝えようとしていた。そして、自分は、それを取りこぼしたのだ。
第2章:偽りのコンパッション
2025年8月12日(月)15:02 JST 東京都港区南青山
骨董通り沿いに立つ、ガラスとコンクリートで構成されたモダンなオフィスビル。その7階に、「リーフ・マインド」はあった。
神崎和真は、場違いなスニーカーで、吸音性の高い厚い絨毯の上を歩いていた。数日着替えていないヨレたTシャツが、肌に張り付いて不快だ。彼のいる世界のザラついた現実感は、この空間では異物でしかなかった。微かなアロマと、壁の裏から聞こえる水の流れるようなヒーリングミュージック。全てが完璧にコントロールされた、静謐な箱庭。
「よくお越しくださいました、神崎さん」
診察室の扉が開き、宮田淳一が姿を現した。彼の服装は、ノーネクタイのスタンドカラーシャツ。一分の隙もなく整えられている。憔悴した、と表現するにはあまりにも理知的な表情で、彼は神崎を中に招き入れた。
「奥村さんのご友人だと伺いました。この度は、誠に…お悔やみ申し上げます」
宮田に勧められ、神崎は革張りのソファに深く身を沈めた。目の前に、湯気の立つハーブティーのカップが、音もなく置かれる。カモミールの優しい香りが、彼のささくれだった神経を逆撫でするように感じられた。
「先生、単刀直入に伺います。沙織は、なぜ死んだんでしょうか。警察は自殺だと言っていますが、俺にはどうしてもそうは思えない」
神崎の言葉に、宮田は悲痛な面持ちで目を伏せた。
「…彼女は非常に聡明で、感受性が強すぎた。システムの“バグ”に、誰よりも早く気づいてしまうんです。そして、それを全て自分の責任だと感じてしまう」
「バグ、ですか」
「ええ。ネクストイノベーションという、急成長したシステムの。彼女は、会社の倫理観の欠如…特に『Project SAKURA』にまつわる何かに、深く傷ついていた。私にもっと力があれば…」
彼はそこで言葉を切り、トム・フォードの眼鏡を外して、わざとらしく目頭を押さえた。その計算された仕草に、神崎は気づかない。彼は、友人の苦悩を理解する唯一の手がかりに、必死に食らいついていた。
その時、神崎の視線が、宮田の背後の壁に飾られた一枚の絵に吸い寄せられた。白と黒の線が、まるで電子回路のように複雑に絡み合い、その中心に、血の一滴のような赤い点が打たれている。強烈な既視感。そうだ、これは。
「この絵…沙織も、好きだったみたいです。SNSのアイコンにしてました」
宮田は、神崎の視線を追い、ゆっくりと頷いた。その表情には、計算された驚きが浮かんでいる。
「ああ、そうでしたか…。これは、現代アート作家KITOの『Observer’s Paradox(観測者のパラドックス)』という作品です。観測行為そのものが、結果に影響を与えてしまうという量子力学のパラドックスを表現したものでしてね。…彼女は、自分が何かを“観測”してしまったことで、運命が変わってしまったと感じていたのかもしれません」
その言葉は、まるで予言のように神崎の心に響いた。沙織が遺したメールの下書き、『先生はチェスのプレイヤーみたいだ』という一文が脳内で蘇る。そうだ、彼女は何かの観測者になってしまったのだ。
「先生、彼女が遺したメモに、一つだけ奇妙な点がありました」神崎はスマートフォンのメモを開き、宮田に見せる。「『探す』という字が、旧字体の『探索』になっていたんです」
宮田は、画面を覗き込み、思慮深げに顎に手をやった。数秒の沈黙の後、彼はまるで今気づいたかのように、静かに口を開いた。
「…なるほど。『Project SAKURA』ですか。彼女はそのプロジェクトの中核にいましたからね。“サク”ラと、“サク”…考えすぎかもしれませんが」
その言葉は、暗闇の中に差し込んだ一筋の光だった。神崎は、自分が進むべき道を見つけたと確信した。彼は宮田に深く頭を下げ、クリニックを後にする。
神崎の姿が完全に見えなくなった後、宮田は静かにハーブティーのカップを片付けた。彼の表情からは、先程までの悲痛な感情は跡形もなく消え去り、冷徹なまでの静寂が戻っていた。彼は壁の絵画『Observer’s Paradox』を見上げる。
その中心にある赤い点は、まるでチェス盤の上で、次の動きを待つ駒のように見えた。
第3章:沈黙したシグナル
2025年8月14日(水)11:10 JST 東京都千代田区神保町
編集部の窓の外では、アスファルトを焼く真夏の太陽がぎらついていた。コンクリートの照り返しで、風景全体が陽炎のように歪んでいる。神崎和真は、生ぬるい空調が吹き出す自席で、ノートPCの画面に映るネクストイノベーション社の組織図と格闘していた。
宮田医師から得た『Project SAKURA』というキーワード。それを突破口に、神崎は会社の内部資料や過去のプレスリリースを漁り、プロジェクトメンバーのリストアップを進めていた。奥村沙織の名前。そして、そのすぐ下に、もう一人、見覚えのある名前があった。
柏木拓海(かしわぎたくみ)。
沙織と同じゼミの先輩で、面倒見が良く、聡明な人だった。沙織がネクストイノベーション社を志望したのも、彼の影響が大きかったはずだ。しかし、リストには彼の名前の横に「一身上の都合により退職」と、半年前の日付が記されていた。
神崎は、大学の卒業名簿から彼の連絡先を探し出し、意を決して電話をかけた。数コール続いた後、やや警戒心の滲む声が応えた。
「…もしもし」 「柏木さん、ご無沙汰してます。大学で一緒だった、神崎です。奥村沙織の…」 「…ああ、神崎くんか」
柏木の声のトーンが、わずかに変わった。緊張が走る。
「沙織の件、ニュースで見た。それで、俺に電話してきたってことは、君も気づいてるんだろ。あれが、ただの自殺じゃないってことに」 「はい。それで、柏木さんにお話を伺えないかと。あなたは、なぜ会社を辞めたんですか? 『Project SAKURA』で何が…」 「待て」柏木は、神崎の言葉を鋭く遮った。「電話じゃ話せない。この話は、誰がどこで聞いているか分からない」 「どういうことですか?」 「君が考えているより、根は深い。会社の不正なんて、ただの入り口だ。沙織は、その奥にある扉を開けてしまったんだ」
その声には、紛れもない恐怖が滲んでいた。神崎は息を呑む。
「明日、会って話そう。直接。場所は追って連絡する。それと、一つ忠告しておく。カウンセラーの宮田という男には、気をつけろ。あの男は…」
その時、電話の向こうで、何か硬いものが床に落ちるような音がした。柏木の、息を呑む気配。
「…すまない、また後で。とにかく、明日だ」
一方的に通話は切れた。神崎は、スマートフォンの画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。宮田に気をつけろ? あの、沙織の唯一の理解者だったはずの男に?
混乱する思考の中、確かなことが一つだけあった。明日、柏木に会えば、全てが分かる。彼は、巨大な謎の核心に、ようやく触れることができるのだ。
2025年8月15日(木)08:32 JST JR山手線 車内
翌朝。うだるような熱気が、満員電車の車内に淀んでいた。神崎は、吊り革を握りしめながら、柏木から指定された待ち合わせ場所である新宿駅へと向かっていた。昨夜、柏木から『明朝9時、新宿駅南口のカフェで』という短いメッセージが届いて以来、期待と緊張でほとんど眠れていない。
人々がうつむき加減でスマートフォンの画面をなぞる、見慣れた朝の風景。その中で、車両のドア上部に設置された液晶モニターの画面が、突然切り替わった。
『【速報】JR品川駅で人身事故 男性がホームから転落し重体』
赤いテロップが、無感情に事実を告げる。またか、と周囲の乗客が小さくため息をつく。神崎も、取材対象としてではなく、ありふれた都市のトラブルとしてそのニュースを眺めていた。だが、次の瞬間、彼の思考は完全に停止した。
『…警察によりますと、重体となっているのは都内在住の会社員、柏木拓海さん(28)とのことで…』
柏木拓海。
その名前が、車内アナウンスの雑音を突き抜け、鼓膜に突き刺さる。神崎は、息の仕方さえ忘れたかのように、モニターを見つめた。
『…警視庁は、男性がスマートフォンの画面を見ながら歩いていて、誤ってホームから転落した可能性が高いと見て、当時の状況を詳しく調べています』
事故? ふざけるな。
昨日の電話。あの、恐怖に満ちた声。「誰がどこで聞いているか分からない」。そして、「宮田には気をつけろ」という、言いかけた警告。
これは、事故などではない。沈黙させるための、明確な殺意を持った一撃だ。
電車が駅に到着し、ドアが開く。人々が、まるで何事もなかったかのように降りていく。その日常の風景の中で、神崎は一人、立ち尽くしていた。彼の唯一の手がかりは、沈黙させられた。そして、自分もまた「観測者」として、見えない敵に認識されたのだと、全身の肌で理解した。
第二部:迷宮の周波数
第4章:マルチ・レイヤーの暗号
2025年8月16日(金)23:15 JST 東京都世田谷区 神崎のアパート
柏木が品川駅のホームから転落して、28時間が経過していた。
神崎のアパートの部屋は、情報という名の残骸で埋め尽くされていた。床にはネクストイノベーション社の組織図や財務諸表のコピーが散らばり、テーブルの上にはエナジードリンクの空き缶と、冷え切ったコンビニ弁当の容器が要塞を築いている。唯一の光源であるノートPCのモニターが、隈の刻まれた神崎の顔を青白く照らし出していた。
手がかりは、ない。
柏木という唯一の内部情報源は、病院の集中治療室で沈黙したままだ。警察は早々に事故として処理し、メディアも後追いはしない。神崎は完全に孤立していた。見えない敵は、彼の動きを完全に読んでいた。恐怖が、じわりと背筋を這い上がってくる。部屋のカーテンの隙間から、誰かに覗かれているような妄想に駆られ、彼は何度も立ち上がって窓の外を確認した。
もうやめるべきなのか? 友人の死の真相を追うことは、自分の命を危険に晒すだけの、無謀な感傷ではないのか?
自問自答が、波のように寄せては返す。その時、彼の視線が、PCのモニターの隅に開いたままになっていたウィンドウに吸い寄せられた。それは、沙織のSNSアカウントのページだった。彼女の死後、何も更新されていない、時間が止まった場所。
神崎は、まるで何かに憑かれたように、彼女のデジタルな遺品をもう一度、徹底的に洗い直し始めた。投稿された写真、他愛のないつぶやき、タグ付けされた友人たち。そのすべてを、虱潰しに見ていく。
そして、彼は奇妙な事実に気づいた。
彼女が亡くなる直前の一ヶ月間。あれほどSNSを活発に利用していた彼女が、「いいね」した投稿は、たったの三つしかなかった。
2025年8月18日(日)04:50 JST 同所
徹夜は三日目に突入していた。神崎の思考は、カフェインと極度の疲労で、危険なほどクリアになっていた。彼は、ホワイトボードに三つの情報を書き出していた。
- 【SNS】「いいね」した投稿: 現代アート作家・KITOの個展『Unseen Structure(見えざる構造)』の情報。そのメインビジュアルは、宮田のクリニックに飾られていた、あの『Observer’s Paradox』だった。
- 【電子書籍】購入履歴: ショーペンハウアーの哲学書『意志と表象としての世界』。彼女は生前、「最近、世界の成り立ちについて考えてる」とSNSに投稿していた。
- 【音楽】クラウド上のプレイリスト: 彼女が最後に作成したプレイリスト。タイトルは『For K.T.』。柏木拓海へのメッセージだ。その中に一曲だけ、ほとんど無名のインディーズ・ジャズピアニスト「SAKU」の『Asphalt Nocturne』という曲が含まれていた。
これらは、ただの偶然か? 適応障害に苦しむ中で、彼女の興味が内省的なアートや哲学に向かっただけなのか?
いや、違う。
神崎は、大学時代の沙織を思い出していた。彼女は、面倒なことを楽しむ人間だった。簡単なレポートでも、わざわざ誰も引用しないような文献を探してきては、教授を唸らせていた。彼女なら、やる。直接的な言葉で残せないメッセージを、バラバラのデジタルなパンくずとして、誰かが拾ってくれることを信じて遺す。その「誰か」とは、柏木であり、そして、自分であるはずだ。
神崎は、ホワイトボードの前を歩き回りながら、ブツブツと呟いた。 「見えざる構造…世界は私の表象…そして、SAKU…」
彼は立ち止まり、マジックペンを手に取った。 「SAKU…S・A・K・U…アナグラムか?」
KASU…ASUKU…USAKU…
「違う、もっと直接的だ。沙織は、そういう捻り方をする。SAKURA…いや、それじゃ『索』と同じだ。もっと…」
その時、彼の脳内で、バラバラだったノイズが、一つの周波数に収束していくような感覚があった。
「観測者…表象としての世界…構造…」
彼は、これらの情報が、それぞれ独立したヒントなのではないと直感した。これらは、一つの目的地を指し示す、**多層的な暗号(マルチ・レイヤー・コード)**なのだ。
彼は、疲れ切った頭を必死に回転させる。 『見えざる構造』を持つ、『意志と表象としての世界』を操る、そして『SAKU』という音を持つ何か…。
神崎は、検索窓にキーワードを打ち込んだ。
『投資ファンド “見えざる手”』 『兜町 SAKU』 『ショーペンハウアー 経済』
そして、指が止まる。ある一つの記事に、全てのピースが吸い寄せられるように嵌まった。 それは、数年前に経済誌が特集した、海外のヘッジファンドに関する記事だった。
『市場を支配する静かなる哲学者たち ― ヘルメス・キャピタルの正体』
その記事には、こう書かれていた。 「彼らは、ショーペンハウアーの認識論を投資哲学に応用し、市場そのものを自らの『表象』として再構築しようと試みる。彼らの日本における拠点は、兜町の一角に存在する…」
神崎は、息を呑んだ。沙織が指し示したもの。それは、ネクストイノベーションという一企業の不正などではなかった。
市場を、世界を、裏側から操る、巨大なプレイヤーの存在そのものだった。
第5章:ヘルメスの囁き
2025年8月19日(月)13:30 JST 東京都千代田区神保町
週刊フロンティア編集部の経済班が陣取る一角は、神崎のいる社会部の雑然とした雰囲気とは異なり、複数のモニターに映し出された株価チャートの緑と赤の光が絶えず明滅する、冷たい緊張感に満ちていた。
神崎は、経済班のエースで「兜町のハイエナ」の異名を持つベテラン記者、長谷部(はせべ)の前に立っていた。
「ヘルメス・キャピタル? 神崎、お前、寝ぼけてるのか」
長谷部は、分厚い眼鏡の奥の鋭い目で神崎を一瞥し、鼻で笑った。「それは金融の世界の神様みたいなもんだ。都市伝説だよ。お前の友人の死と、そんな大物が関係あるわけないだろう。陰謀論は大概にしろ」
「ですが、証拠が…」
神崎は、徹夜でまとめた資料をデスクに広げた。沙織が残した暗号、ネクストイノベーション社の不自然な株価の動き、そして柏木の事故との時系列的な一致。
最初は退屈そうに資料を眺めていた長谷部の目の色が、次第に変わっていく。彼は、ネクストイノベーション社の空売りのログデータと、柏木の事故発生時刻を指し示した。
「…おかしいな。この空売り、柏木くんが事故に遭う僅か数分前から、異常なボリュームで仕掛けられている。まるで、事故が起きることを事前に知っていたかのような動きだ」
長谷部は、ハイエナが獲物を見つけた時のように、獰猛な光を瞳に宿した。「面白い。その話、詳しく聞かせろ」
神崎の孤独な戦いに、初めてプロフェッショナルの協力者が現れた瞬間だった。
2025年8月20日(火)20:00 JST 東京都中央区日本橋兜町
古びたビルと、最新のガラス張りのタワーが混在する街、兜町。神崎は、沙織の暗号が示したジャズバー「Nocturne」の前に立っていた。重厚な木製の扉を開けると、サックスの咽ぶような音色と、ウイスキーの香りが彼を迎えた。
カウンターに座り、バーテンダーに話しかける。 「少しお伺いしたいんですが。SAKUというピアニストが、ここでライブを…」
年配のバーテンダーは、グラスを磨きながら静かに答えた。「ああ、サクちゃんね。才能はあったが、もうずいぶん前に辞めちまったよ。…そういや、あんたみたいに、彼女のことを聞きに来た女性がいたな。一ヶ月ほど前だったか。とても綺麗な人だったが、何かにひどく怯えているような目をしていた」
沙織だ。彼女もここに来ていたのだ。
「彼女、何か変わったことは?」 「いや、特に…。ただ、熱心にサクちゃんのことを聞いて、一枚だけ、古いライブのポスターを譲ってくれと言って、持って帰ったな。ショーペンハウアーの言葉が引用されてる、ちょっと変わったデザインのやつだ」
全てが繋がっていく。沙織は、神崎と同じルートを辿り、同じ答えにたどり着いていたのだ。そして、そのために消された。
2025年8月21日(水)深夜 週刊フロンティア編集部
神崎と長谷部は、二人きりの編集部で、膨大なデータと向き合っていた。長谷部が持つ情報網と、神崎が持つ事件のピースが組み合わさり、驚くべき構図が浮かび上がってきた。
「見ろ、神崎」長谷部がモニターを指さす。「ヘルメス・キャピタルは、半年前からネクストイノベーション社の株を少しずつ買い集めている。そして、三ヶ月前から、宮田というカウンセラーが代表を務めるコンサル会社に、多額の顧問料を支払っている」
「宮田が…ヘルメスと…」
「ああ。そして、柏木くんが退職し、沙織さんが休職に入ったタイミングで、空売りを仕掛けて株価を下げ、安値になったところを買い増している。これは、教科書通りの乗っ取りの手口だ。宮田が内部情報をヘルメスに流し、ヘルメスが市場を操作する。沙織さんと柏木くんは、この計画に気づいたか、あるいは駒として使われ、用済みになって消された…」
長谷部は、興奮を隠せない様子で続けた。「とんでもないスクープだぞ、これは。一企業の不正じゃない。海外の巨大ファンドと、人の心を操るカウンセラーが組んだ、悪魔のスキームだ」
ついに、敵の正体を掴んだ。神崎の心は、恐怖と同時に、ジャーナリストとしての強い高揚感に満たされていた。
彼らは、勝利を確信しかけていた。
だが、その時、神崎の私用のスマートフォンが震えた。登録していない番号からの着信。深夜にかかってくる、こんな電話に出る義理はない。無視しようとしたが、執拗に鳴り続ける。
仕方なく通話ボタンを押すと、ノイズ混じりの、機械で加工されたような声が耳に流れ込んできた。
『神崎和真さんですね』
「…誰だ」
『あなたの部屋のカーテンの色は、ネイビーブルーですね。もう少し、遮光性の高いものに変えることをお勧めしますよ。ジャーナリストという職業は、夜、ぐっすり眠ることも仕事のうちですから』
神崎は、血の気が引くのを感じた。声の主は、今、彼のアパートを見ている。あるいは、部屋の中にいる。
『あなたの追っているゲームは、あなたが思うよりも、ずっと多くのプレイヤーが参加しています。次の駒は、あなたかもしれない』
通話は、一方的に切れた。神崎は、自分のアパートの方向を見つめたまま、凍りついていた。
敵は、もう彼のすぐそばまで迫っていた。
第6章:観測者の視線
2025年8月22日(木)23:48 JST 東京都世田谷区 神崎のアパート
(前略:神崎が自宅に戻り、PCが破壊されているのを発見する場面)
…奴らの勝利宣言だった。これ以上嗅ぎ回るな、と。
どれくらい、そうしていただろうか。破壊されたPCを前に茫然自失としていた神崎の視線が、部屋の隅に置かれた段ボール箱に吸い寄せられた。警察から返却された、沙織の遺品の一部だった。彼は、まるで何かに導かれるように、その箱に歩み寄った。
何か、物理的な手がかりが残っているかもしれない。
彼は箱を開け、中身を床に広げた。大学時代の教科書、使い古されたマグカップ、そして、数冊の文庫本。その中に、彼女が読んでいたショーペンハウアーの『意志と表象としての世界』の実物があった。
彼は、その本を手に取った。パラパラとめくっていくと、あるページで指が止まる。第1巻、第17節。そのページの隅に、カップの底でついたような、微かな輪ジミがあった。彼は、その染みに鼻を近づける。間違いない。カモミールの、あの優しい香りだ。宮田のクリニックで出されたハーブティーと、同じ香り。
「沙織は…このページを、宮田を疑いながら読んでいたんだ…!」
確信が、絶望の霧を切り裂く。彼は、ホコリを被っていた古いタブレット端末を引っ張り出し、震える手で電源を入れた。
(中略:神崎がクラウドストレージ『SAKURA Cloud』にたどり着く場面)
ログイン画面に、IDを打ち込む。ピアニストの名と曲名から、『SAKU_nocturne』。 パスワードは? ショーペンハウアーの哲学書と、プレイリスト。物理的な証拠が、彼の思考を加速させる。
WAV1_17 ― 『意志と表象としての世界』第1巻、第17節。沙織が警告を遺したページ。 そして、柏木へのプレイリストの3曲目。彼女が柏木との思い出の曲だと語っていた、再生時間4分15秒の曲。415。
パスワード:WAV1_17_415
祈るような気持ちで、エンターキーを押す。 画面が切り替わり、一つのフォルダが表示された。フォルダ名は、『Paradox』。 神崎は、震える指でそれをタップした。中にあったのは、一枚の、PDF化された登記簿謄本の写し。
『ヘルメス・キャピタル日本法人 設立時役員一覧』 その中に、彼の目を釘付けにする名前があった。
顧問:宮田淳一
血の気が引いた。全身の体温が、急速に奪われていく。 協力者だと思っていた羅針盤。友人の苦悩を理解する唯一の存在だと信じていた男。その羅針盤が指し示していたのは、狂気の震源そのものだったのだ。
神崎は、がらんとした部屋の中で、一人静かに戦慄していた。彼の本当の敵は、今、初めてその輪郭を現した。
第三部:静寂の支配者
第7章:駒の告白
2025年8月23日(金)13:00 JST 警視庁 留置施設面会室
アクリル板の向こう側に座る安西恵は、神崎が知る彼女の面影を失っていた。化粧の落ちた顔は青白く、生気のない瞳が虚空を見つめている。神崎は、最後のピースを埋めるために、ここに来ていた。
「どうして、沙織を…」
彼の問いに、安西は反応しない。神崎は、テーブルの上に一枚の書類のコピーを滑らせた。宮田とヘルメス・キャピタルの繋がりを示す登記簿だ。
「宮田は、あんたを利用していただけだ。あんたがスパイとして情報を集め、用済みになれば切り捨てるつもりだった。今も、あんたに全ての罪をなすりつけて、逃げ切るつもりでいる」
安西の肩が、微かに震えた。神崎は追撃する。
「あんたの父親の自己破産。その負債を肩代わりしたのは、『ヘルメス』傘下の金融会社だ。違うか? 宮田は、その弱みにつけ込んで、あんたを駒にした」
その言葉が、引き金になった。安西は、初めて顔を上げ、その瞳で神崎を睨みつけた。その目には、涙と、憎悪と、そしてどうしようもない絶望が渦巻いていた。
「駒…?違う!」彼女の声は、ヒステリックに裏返っていた。「沙織はいつも正しかった!光の中にいた!その正しさが、泥の中にいる私を、毎日毎日殺していたの! 私だって辛いのに、苦しいのに、彼女はいつも『正しいこと』をしようとする! それが、どれだけ私を惨めにさせていたか、あの子には分かりっこない!」
堰を切ったように、彼女は感情を吐露し始めた。
「宮田先生だけだった。そんな私を、弱い私を、初めて『君はそのままでいい』って肯定してくれたのは! 私の苦しみを、分かってくれたのは!」「だから、沙織が先生を疑い始めた時、私には許せなかった。私のたった一つの光を、彼女が消そうとしているように見えた! だから、私は…光を守りたかっただけ…」
彼女は、アクリル板に額を打ち付け、嗚咽を漏らし始めた。神崎は、それ以上何も言えなかった。彼の目の前にいるのは、冷酷な殺人犯ではなかった。歪んだ救済を求め、自らもシステムの被害者となった、あまりにも脆い一人の人間に過ぎなかった。
第8章:チェックメイト
2025年8月23日(金)20:00 JST 東京都港区南青山
カウンセリングルーム「リーフ・マインド」の空気に、変化はなかった。ラベンダーとサンダルウッドの香りが漂い、壁の裏からは水のせせらぎのようなヒーリングミュージックが聞こえる。完璧にコントロールされた、静謐な空間。
だが、そこに足を踏み入れた神崎和真は、十日前の彼とは別人だった。友人の死に打ちひしがれた無力な若者ではない。絶望の淵で真実を掴み、覚悟を決めたジャーナリストの顔つきをしていた。
「お待ちしていましたよ、神崎くん」
診察室の奥から現れた宮田淳一は、まるで旧知の友を迎えるように、穏やかに微笑んだ。彼には、神崎が全てを知ってここに来たことが分かっている。むしろ、この対決の瞬間を待ちわびていたかのようだった。
「最後のカウンセリングを、お願いできますか」
神崎の言葉に、宮田は満足げに頷き、いつものようにハーブティーを二つ用意した。二人は、窓の外に広がる東京の夜景を背に、ソファに向かい合って座る。
「さて、どこから話そうか」宮田が切り出した。「君が解き明かした、私のささやかな実験について」
「実験、ですか」神崎の声は、怒りを抑え、氷のように冷たかった。「沙織の死は、あんたにとっては実験の結果報告書の一つに過ぎなかった、と」
「言葉の綾だよ。私はただ、観測していただけだ。現代社会というシステムが生み出す、人間の心の歪みをね」
神崎は、テーブルの上に小さなICレコーダーを置いた。スイッチを入れると、小さな赤いランプが灯る。
「では、観測結果を教えていただきましょうか、宮田先生。あなたが、投資ファンド『ヘルメス・キャピタル』と組み、ネクストイノベーション社の乗っ取りを計画したこと。あなたが、安西恵の弱みにつけ込んでスパイとして利用し、会社の不正情報を集めさせたこと。そして、あなたの計画に気づき始めた沙織を、精神的に追い詰め、安西を使って間接的に殺害したこと。この“観測結果”について、どう思われますか」
神崎は、集めた証拠を一つ一つ、冷静に突きつけていく。宮田は、感心したように何度か頷きながら、静かに聞いていた。やがて、彼はカップを置き、初めて本心からの笑みを浮かべた。それは、自らの作品の出来栄えを誇る、芸術家のような笑みだった。
「素晴らしい。実に見事だ、神崎くん。君という変数もまた、私の予測を超えて素晴らしい働きをしてくれた」
彼は、自らの計画を否定しなかった。むしろ、その芸術性を誇るかのように語り始めた。かつて自分を追放した伊集院への復讐。そして、IT技術で人の心を管理しようとする現代社会への警鐘という、彼なりの“大義”。
「伊集院くんのような傲慢な経営者に、人の心を扱う資格はない。だから、私がそれを正そうとした。沙織くんの正義感も、安西くんの劣等感も、伊集院くんの傲慢も、そして君のジャーナリズムという名の感傷も、全ては私の数式を検証するための、美しいパラメータだったのだよ」
その言葉に、神崎は奥歯を強く噛みしめた。 「人の心を、パラメータだと…?」
「そうだ。だが、私の計画にも一つだけ、計算外のノイズがあった」宮田は、どこか楽しそうに続けた。「柏木くんの転落事故だ。あれは私の指示ではない。私の知らないプレイヤーが、私の盤面を荒らしに来た。少々、やりすぎだとは思ったがね」
彼は、柏木の事件だけは自分の仕業ではないと嘯き、自らの計画の不完全さを認めない。その完璧な自己愛に、神崎は最後のカードを切った。
「あんたの計画には、もう一つノイズがある」 神崎は、宮田の目を真っ直ぐに見据えて言った。 「柏木を突き飛ばした男の顔が、駅の防犯カメラに映っていた。あんたの工作員じゃない。その男は、柏木を『守って』いた。突き飛ばしたように見せかけて、迫ってくる電車から彼を庇い、自分へのダメージが最小限になるように突き飛ばした。まるで、訓練されたプロの動きでね。あんたの知らないプレイヤーは、あんたの敵じゃなかった。柏木の、守護者だったんですよ」
それは、神崎の完全なブラフだった。そんな事実はどこにもない。だが、その言葉は、初めて宮田の冷静な仮面を打ち破った。彼の瞳に、観測者が見せるはずのない、明らかな動揺の色が浮かぶ。自分の知らない駒が、自分の知らないルールで動いていた。その可能性が、彼の完璧な世界に亀裂を入れたのだ。
動揺を隠すように、宮田は笑みを浮かべて取引を持ちかけた。「…面白いじゃないか。ならば、私と組まないか、神崎くん。そのノイズの正体も、共に解き明かそうじゃないか。君のペンと、私の頭脳があれば、この腐った社会の本当の“浄化”ができる」
神崎は、静かに立ち上がった。ICレコーダーのスイッチを切り、ジャケットの内ポケットにしまう。
「あんたは、人の心を救うふりをして、絶望で弄んだだけだ。あんたのいるべき場所は、ここじゃない。あんたがサンプルとして見下していた、法の檻の中だ」
彼は、宮田に背を向け、診察室の扉に手をかけた。
「チェックメイトですよ、先生」
部屋を出ていく神崎の背中を、宮田は初めて、憎悪とも焦燥ともつかない、人間的な表情で見つめていた。
第9章:静寂のノイズ
2025年8月30日(金)09:00 JST 東京都千代田区神保町
その日、週刊フロンティア編集部は、祝祭的な熱気に包まれていた。コンビニや駅の売店から、刷り上がったばかりの最新号が次々と消えていく。
見出しは、黒と赤の煽情的なフォントで、こう躍っていた。 『聖職者の仮面を被った怪物か ― 天才カウンセラーと海外ファンドが仕掛けた「適応障害殺人」の全貌!』
神崎和真が、命を削って書き上げた記事だった。
テレビのワイドショーは、一日中この話題で持ちきりだった。ネクストイノベーション社の株価はストップ安まで売り込まれ、伊集院亘社長は辞任を発表。そして昼過ぎ、宮田淳一が、自身のクリニックで殺人教唆および金融商品取引法違反の容疑で逮捕される映像が、速報として全国に流れた。
「やったな、神崎!」
「兜町のハイエナ」こと長谷部が、神崎の肩を力強く叩いた。「お前の執念の勝利だ。こんなデカいスクープ、俺も久しぶりだよ」
編集部のあちこちから、称賛と祝福の声が飛ぶ。だが、その喧騒の中心にいながら、神崎の心は不思議なほど静かだった。達成感がないわけではない。だがそれ以上に、友人の死をインクに変えて売り捌いたような、言いようのない虚しさが胸に広がっていた。彼はただ、窓の外の、真夏の日差しに煙る都会の風景を眺めていた。
2025年12月12日(木)14:00 JST 東京都港区 ホテル会見場
事件から約四ヶ月。世間の関心が薄れ始めた頃、一通のプレスリリースが報道各社に届いた。経営破綻したネクストイノベーション社の主要資産を、新たに設立されたデータ分析企業「ソラリス・インサイト」が吸収合併するという内容だった。
神崎は、その設立記者会見の会場の後方に、腕を組んで立っていた。
壇上に、スポットライトを浴びて一人の男がゆっくりと現れる。最新式の電動車椅子に乗った、その人物の顔を見て、神崎は息を呑んだ。
柏木拓海。
数ヶ月のリハビリを経て、彼の顔にはかつての精悍さが戻っていた。しかし、その穏やかな笑みには、以前の彼にはなかった、全てを見透かすような底知れない深さが加わっている。
マイクの前に立った柏木は、よどみない声で語り始めた。 「私たちは、テクノロジーの力で、人の心に潜む『ノイズ』を取り除き、より健全で、より合理的な社会の実現を目指します。故・奥村沙織君のような悲劇を二度と繰り返さないために」
会場は、その若きカリスマの登場に、期待に満ちた拍手で包まれた。
だが、神崎だけが、その言葉の裏に隠された真実に気づき、戦慄していた。柏木の口にした「ノイズ」という言葉。それは、宮田が神崎に語った言葉と、不気味なほどに共鳴していた。
神崎は悟った。自分は、巨大な物語の真相にたどり着いたのではなかった。
さらに大きな物語の、序章を書き上げたに過ぎなかったのだと。
終章:そして、戦いは続く
2026年8月24日(月)16:00 JST 「ソラリス・インサイト」CEO執務室
一年後。夏の気配が再び街に戻ってきた頃、神崎は柏木と対面していた。近未来的なCEO執務室は、白を基調としたミニマルな空間で、窓の外には再開発された東京の新しい街並みが広がっている。
「君の記事には感謝しているよ、神崎くん」
柏木は、車椅子の上から、穏やかな、しかし絶対的な強者の視線で神崎を見つめていた。
「君が宮田先生という“ノイズ”を除去してくれたおかげで、僕の計画は、よりクリーンな形で実現することができた」
彼は、悪びれることもなく全てを認めた。沙織から相談を受け、宮田の計画も、安西の背景も、全てを知っていたこと。彼女に「今は動くな」と忠告していたのは、彼自身が、会社の腐敗を一掃し、自らの手で再生させる計画を水面下で進めていたからだということ。
「じゃあ、品川駅の事故は…」
「ああ」と柏木は頷いた。「僕が雇った、リスク管理のプロフェッショナルだよ。宮田先生の差し金に気づいた僕が、先手を打ったんだ。最も安全に、僕を表舞台から一時退避させるための、計算された『事故』さ。君というジャーナリストの正義感は、僕のチェス盤の上で、クイーンのように最も効果的に動いてくれた駒だった」
神崎は、言葉を失った。正義も、復讐も、友人の死でさえも、全てがこの男の描いた未来図の礎となっていた。
彼は、無力感と共に席を立った。この男の前では、どんな言葉も意味をなさない。だが、最後にこれだけは言わなければならなかった。
「あんたがやろうとしていることは、結局、宮田と同じだ。人の心を『管理』できるなんていう傲慢な発想そのものが、沙織を殺したんだ」
柏木の穏やかな笑みが、一瞬だけ消えた。
「彼女の苦しみは、システムのバグでも、除去すべきノイズでもない」神崎は続けた。「不器用で、矛盾していて、それでも必死に正しくあろうとした…人間が、人間として生きていた証だ。あんたは、その証さえも、自分のビジネスの美しい理念にすり替えただけだ。反吐が出る」
神崎は、柏木に背を向け、部屋を出た。
編集部に戻ると、夕暮れの西日が差し込むオフィスは、がらんとしていた。彼は自分のデスクに座り、窓の外を眺める。やりきれない思いが、胸を締め付ける。
その時、デスクの内線電話が、けたたましく鳴った。彼は、しばらくの間、鳴り続けるその音を聞いていた。もう、何も聞きたくなかった。
だが、呼び出し音は止まない。まるで、世界のどこかで、誰かが必死に助けを求めているかのように。
神崎は、大きく一つ、息を吸い込んだ。天を仰ぎ、そして、ゆっくりと受話器を取る。
その声は、自分でも驚くほど、静かで、落ち着いていた。
「はい、神崎です。お話を聞かせてください」
彼の戦いに、終わりはない。勝利のためではない。ただ、声なき者の発する、静寂の中のノイズを拾い上げ、世界に発信し続けるために。それが、彼が自らに課した、永遠の贖罪だった。
(了)



































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