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『静かなる退職』第1話-青井悟の抵抗-

あらすじ

大手自動車部品メーカー「東和精密」で、定時退社を徹底する男青井悟。周囲から「静かなる退職者」と軽蔑される彼が、次世代システムに潜む重大な欠陥を告発しようとした矢先、忽然と姿を消す。

彼のデスクに残されたのは、謎の暗号と一枚の写真。彼の行動を軽蔑していた若手エースの星野は、手がかりを追ううち、会社の不正に気づいた「静かなる退職者」たちの存在を知る。

やがて明らかになるのは、人命に関わる欠陥を隠蔽する会社の闇、そして青井が仕掛けた、静かで壮大な反逆だった。

これは、働くことの理想と現実、そして一人の男のささやかな抵抗が、巨大な組織を変えていくスリリングなミステリー


登場人物紹介

  • 青井 悟(あおい さとる):主人公。「東和精密」のエンジニア。過去のトラウマから「静かなる退職」を実践するが、裏で会社の不正を暴くための密やかな計画を進めている。
  • 星野 結衣(ほしの ゆい):製品開発部の若手エース。仕事に情熱を燃やす真面目な性格。青井を軽蔑していたが、彼の失踪をきっかけに、会社の闇と向き合うことになる。
  • 高橋 陽一(たかはし よういち):製品開発部の部長。難病の娘のために、不正に加担せざるを得ない苦悩を抱えている。
  • 影山 隆司(かげやま りゅうじ):青井と同期入社の優秀なエンジニア。青井へのライバル心から、彼の行動を嘲笑する。
  • 花村 美咲(はなむら みさき):経理部の社員。青井と同じ「静かなる退職者」で、不正の証拠を彼に提供していた協力者。

第一章:定時退社の男

愛知県郊外にある大手自動車部品メーカー、東和精密。午後五時二十五分。オフィスは、無数のキーボードを叩く音と、パソコンの冷却ファンが発する低い唸り声に満ちていた。壁に掛けられたデジタル時計の無機質な光が、社員たちの疲労と諦観が混じった顔を青白く照らしていた。誰もが、次世代の自動ブレーキシステム「プロテクター」の納期に追われ、張り詰めた空気が漂っている。

その中で、一人だけ時間の流れから切り離されたかのように、静かに動く男がいた。 システム開発部の青井悟。三十二歳。くたびれたネイビーのジャケットを羽織り、眼鏡の奥の瞳は、ディスプレイではなく、机の上の書類の山を無感情に見つめている。彼の動きは無駄がなく、慎重だ。まるで精密機器のオペレーターのように、マウスを置き、キーボードをカバーで覆い、机の上の資料を定位置に戻していく。その作業は、誰もが忙しく手を動かすこの空間で、異質なほどの静寂を放っていた。五時二十九分。彼は一切の躊躇なく、静かに立ち上がった。

彼の対角線上に座る若手エンジニア、星野結衣は、その一挙手一投足を冷たい視線で追っていた。彼女の机は、無数の設計図とプログラミングコード、そして数えきれないほどの付箋と飲みかけの缶コーヒーで混沌としている。しかし、その混沌は彼女の仕事への情熱の表れだった。星野は、青井のような人間がなぜこの会社にいるのか理解できなかった。彼のような無気力な人間が、自分たちの足を引っ張っているとさえ思っていた。

定時を告げるチャイムが、オフィスの静寂を切り裂くように鳴り響く。 午後五時三十分。

青井が席を立った瞬間、星野は声を荒げた。「青井さん!今週は納期が厳しいってわかってるでしょう!」 青井は、振り返ることなく、静かに答えた。「私の担当分は、すべて終わっています」 「担当分だけじゃないでしょう!チームで動いてるんですよ!みんな徹夜で頑張ってるんです!」 「チームの目標を達成するための残業は、私の労働契約には含まれていません」 青井は、まるで壁に話しかけるかのように淡々と言い放つと、まっすぐにオフィスの重いドアを開け、夕暮れの空へと消えていった。星野は、彼の去った席を睨みつけ、拳を強く握りしめた。

それが、彼の姿を東和精密の社員が最後に見た瞬間だった。


第二章:消えた男と残された謎

翌朝、東和精密のオフィスは、まるで嵐が通り過ぎた後のように騒然としていた。フロアに響くのは、高橋部長の怒鳴り声と、社員たちのひそひそと囁く声。海外の大手自動車メーカーから、次世代自動ブレーキシステム「プロテクター」のテストデータに重大な欠陥があるという匿名の情報が、東和精密の経営陣に直接メールで届いたのだ。

星野は、昨夜の残業でほとんど寝ていない頭で、その緊迫した空気を肌で感じていた。高橋部長は青い顔でフロアを歩き回り、社員たちは恐怖と不信に満ちた目で互いを見つめ合っている。

社内ネットワークのアクセスログが調べられ、深夜に開発サーバーへ不正にアクセスした人物が特定された。その名前は、青井悟。彼の裏切りを確信した同僚たちの視線は、昨日まで彼が座っていた、がらんとした机に注がれる。「青井が、私たちのデータを盗んだんだ」「やっぱり、そういうことだったんだ」彼の「静かなる退職」という働き方は、今や、会社への裏切りの準備期間だったと断罪された

星野は、彼のデスクへと向かった。引き出しの奥に、小さく折りたたまれたメモ用紙と、ひび割れたスマートフォンの画面が写った写真を見つけた。写真は、誰かの手元で画面が割れたスマホの画面を接写したものだ。画面には、意味不明な英数字の羅列が映り込んでいる。

「これ、何……?」

星野は、その手がかりを手に取り、無意識のうちに彼の席に座っていた。普段なら彼の無気力なオーラが染み付いたこの場所には近づかない。だが、今は彼の残した謎が、彼女の心を強く揺さぶっていた。彼は本当に会社を裏切ったのか? それとも、この謎めいた手がかりは、別の何かを意味しているのか? 彼の**「静かなる退職」の裏には、彼女が知る由もない真実が隠されているのかもしれない**。星野は、彼の行動を軽蔑していた自分自身に戸惑いながらも、彼の残した謎を解き明かすため、一人で捜査を始めることを決意する


第三章:静かなる反逆者たち

青井のデスクから見つかったメモは、一見無意味な数字とアルファベットの羅列だった。星野は、それが社内SNSの特定の匿名掲示板を指していることに気づく。掲示板には「東和精密の影」というスレッドがあり、テストデータの改ざん、コスト削減による品質低下、そしてそれらに加担した人物の動向がひっそりと記録されていた。

星野は、青井がその掲示板で連絡を取っていた「花」というハンドルネームの人物が、経理部の花村美咲であることを突き止める。彼女もまた、青井と同じ**「静かなる退職者」**だった。花村は、星野と同じように仕事に熱心なふりをしながら、不正な金の流れを追っていた。

星野が花村を問い詰めると、彼女は観念したように語り始めた。 「青井さんが言ってたの。情熱を持って働く社員が一番危険だって。会社に利用されるだけだから」 「そんな……! 私は、自分の仕事に誇りを持ってる!」 「私もそうでした。でも、不正な経理処理に気づいて、一人で上司に報告したら、部署内で孤立したんです。正義感なんて、会社の前では無力だと知った。私たちが失うものは、会社よりもずっと大きい。だから、青井さんと繋がった。彼は、私たちのような、正義感を持て余した者たちを静かに繋いでいたんです」

花村は、開発部のテスト費用が裏金として不正に流用されている証拠を、青井に提供していたことを明かした。星野は、自分一人では決して知りえなかった会社の闇を知り、青井の行動が、個人の怠惰ではなく、組織の不正に立ち向かうための壮大な計画の一部であることを悟り始める。彼女の仕事への情熱が、少しずつ、会社の裏切りへの疑念に変わっていくのだった。


第四章:部長の罪と同期の裏切り

青井が残したメモと花村からの情報を手掛かりに、星野は高橋部長の行動を追っていた。深夜の喫茶店で高橋と密会していた男が去った後、星野は声をかけた。「部長、この不正、どこまでご存知なんですか?」 部長室で星野に向き合った高橋の顔は、疲労と絶望で歪んでいた。 「私は、娘を……」 高橋は、難病を抱える娘の治療費のために、上層部からの圧力に屈し、テストデータの改ざんに加担していたことを涙ながらに告白した。 「青井は、警告してくれたんだ。テストデータを改ざんすれば、いつか必ず人が死ぬって。だが、私は家族のために沈黙を選んだ。許してくれ……」

青井が最後に接触した人物が同期の影山隆司だったことを突き止めた星野は、彼のデスクへ向かった。影山は、いつも自信に満ちた表情で仕事をしていたが、この時ばかりは、その顔に焦りの色が見て取れた。「青井が、不正を暴こうとしていたんだな」星野がそう問い詰めると、影山は一瞬、顔色を変えた。「知るか。あいつが勝手にやったことだ」 「あなたの不正も、全部わかってる!」 星野の言葉に、影山は激しく動揺した。 「お前も、いずれこうなる。青井と同じだ。会社に潰されるぞ!」 彼もまた、かつては青井と同じように不正を告発しようとしたが、会社の圧力に屈して不正に加担する側へと転落した過去を持っていたのだ。青井への嫉妬やライバル心は、自らの弱さと向き合いたくないという劣等感からくるものだった。影山は、星野の追及から逃れるように、席を立ち、オフィスを後にした。


第五章:抵抗の果て

星野は、影山の追跡をかわしながら、青井の自宅へと向かっていた。豊川市内の古い団地の一室。彼の部屋は、物が少なく、まるでホテルの一室のように整理されていた。しかし、星野の目に留まったのは、部屋の隅にある古い本棚だ。青井が残したメモの最後の行が、「静かなる場所の、最後の本」という暗号だったことを思い出す。

星野は本棚の最後の本を手に取った。本の背表紙には何も書かれていない。しかし、本棚と壁の間には、わずかな隙間があった。そこを調べると、壁紙が不自然に浮いている。星野は、震える手でその壁紙を剥がした。そこには、小さなUSBメモリが隠されていた。

そのデータは暗号化されており、パスワードが必要だった。花村から連絡が入り、青井がコミュニティのメンバーに託していたパスワードのヒントが明かされる。パスワードは、青井の心を深く傷つけた前職での不正事件の製品名だった。それは、青井がこの「静かなる退職」を決意した日と重なる、忘れることのできない日付だった。

パスワードを解読した星野は、USBメモリのデータを警察とマスコミに提出。東和精密の不正は公になり、欠陥のある製品を出荷したことが明るみに出た。会社は信用を失い、影山は逮捕され、高橋も会社を辞任する。

失踪したと思われていた青井は、他の「静かなる退職者」たちの協力を得て、内部告発の準備を進めていたことが明らかになる。彼の行動は、決して無気力なものではなかった。彼らは、静かな抵抗者として、不正の証拠を時間をかけて集め、そして一斉に会社に立ち向かったのだ。

そして、星野は青井が残した「情熱は、使い道を間違えれば武器になる」というメッセージを胸に、東和精密の再生を担う新たなリーダーとして立ち上がることを決意する。彼女は、もはや「会社に利用される情熱」ではなく、「会社を正しい方向へ導く情熱」を持って、未来へと歩み始める。静かなる退職は、決して無気力な行為ではなく、静かなる抵抗だったのだ。

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