歴史の最終稿が記される部屋で、なぜ友は死んだのか? 三大国の嘘の裏に、世界を揺るがす真実が眠る。
あらすじ
1945年2月、クリミア半島ヤルタ。 世界の未来を決定づけるため、ローズヴェルト、チャーチル、スターリンの三大巨頭が歴史的な会談に臨む。若きアメリカ人通訳官ジュリアン・アシュフォードは、戦争のない世界を築くという崇高な理想を胸に、その「歴史が生まれる瞬間」に立ち会っていた。
しかし、その理想は会談開始直後に打ち砕かれる。道中で友情を育んだ英国人の地図作成官が、密室で不可解な「自殺」を遂げたのだ。
誰もが口を閉ざし、ソビエトの秘密警察が敷いた鉄のカーテンの下で、公式発表という「嘘」がまかり通る。友の死に納得できないジュリアンは、孤独な調査を開始するが、それは自ら巨大な権力の渦に飛び込むことに等しかった。
友が遺した僅かな手がかり。囁かれる謎の言葉「クリムゾン・プロトコル」。果たして友は何を知ってしまい、消されたのか。言葉だけを武器に、理想だけを胸に、一人の通訳官は、世界史の巨大な欺瞞に立ち向かう。
登場人物紹介
ジュリアン・アシュフォード
本作の主人公である、アメリカ国務省の若き通訳官。天才的な語学力と、戦争のない世界を信じる純粋な理想を持つ。友人の死をきっかけに、国家間の冷徹な諜報戦の渦中へと巻き込まれていく。
エレノア・ヴァンス
英国秘密情報部(MI6)のエージェントとされる、知的で謎めいた女性。チャーチルの側近として代表団に参加している。ジュリアンの前に現れ、時に協力し、時に彼を利用するかのような素振りを見せる。その真の目的は謎に包まれている。
イヴァン・モロゾフ
ソビエト秘密警察(NKVD)の少佐。会談の「保安」を名目に、宮殿のすべてを掌握する影の支配者。丁寧な物腰とは裏腹に、邪魔者を躊躇なく排除する冷酷な顔を持つ。ジュリアンの行動を常に見透かし、心理的な圧力をかけてくる。
トーマス・フィンチ
英国代表団の地図作成官。穏やかで誠実な初老の男性。ジュリアンと友情を育むが、会談の序盤で謎の死を遂げる。彼の死の真相を追うことが、物語全体の鍵となる。
序章:偽りの理想郷
C-47輸送機の轟音は、物理的な塊となって胸を圧迫し続けた。断熱材の乏しい機体の壁一枚を隔てた外は、マイナス40度の無慈悲な世界が広がっている。薄いアルミ板が悲鳴のような軋みを上げるたび、我々が乗っているのは翼の生えた棺桶に過ぎないという事実を思い出させられた。
私は、ジュリアン・アシュフォード。アメリカ国務省に所属する通訳官。二世代前、祖父がロシアのポグロムから逃れていなければ、私は今ごろ、この凍てついた大地で生まれ、そして死んでいたかもしれない。歴史の皮肉とは、こういうものだろうか。
手元のブリキのマグカップでは、ぬるくて金属の味しかしない液体が揺れていた。コーヒーと呼ぶにはあまりにやる気のない代物だったが、それでも身体の芯に微かな熱を灯してくれた。
「ジュリアン君、眠れそうにないかね」
隣の席から、穏やかな声がかけられた。トーマス・フィンチ。英国代表団に所属する、初老の地図作成官だ。マルタからの長い飛行中、我々は自然と身の上を語り合い、歳の差を超えた友情のようなものを育んでいた。彼の言葉には、長いキャリアに裏打ちされた静かな自信と、それでいて失われることのない誠実さがあった。
「ええ、フィンチさん。興奮しているのか、それとも怯えているのか…自分でもよく分かりません」
「両方だろうさ。それでいい」フィンチは分厚い指で眼鏡の位置を直しながら、窓の外の暗闇に目をやった。「我々は今、歴史の分娩室に向かっている。そこは血と羊水にまみれた、お世辞にも綺麗な場所じゃない。だが、新しい生命が生まれるんだ」
「新しい生命…」
「そうとも。戦争のない世界だ」彼は私に向き直った。「特に君のような若者にとっては、だ。君の仕事は、単語を置き換えることじゃない。新しい世界の設計図を、三人の建築家の間で正確に伝えることだ。重要な仕事だよ」
私はその言葉に勇気づけられ、深く頷いた。フィンチは自身の膝の上の革鞄を、慈しむように撫でた。中には、これから塗り替えられる世界の、古い地図が入っているはずだった。
「地図はただの紙じゃない、と私は思っている」と、彼は言った。「人々の暮らしそのものだ。一本の線が、家族を引き裂き、畑を分断し、歴史を書き換える。だからこそ、地図を作る人間は、神に対してよりも、紙の上の人間に対して誠実でなければならんのだ」
彼の言葉が、私の胸に深く突き刺さった。それは、かつて祖父が語ってくれた、一本の国境線によって全てを奪われた人々の物語と、不思議なほど重なって聞こえた。
数時間後、機体は高度を下げ始めた。窓から差し込む夜明けの光が、初めてクリミア半島の姿を我々の眼前に晒し出す。そこに広がっていたのは、灰色の絶望だった。骸骨のように突き出た建物の残骸。黒い染みのように大地に刻まれた無数のクレーター。まるで巨人が癇癪を起こして地上を何度も殴りつけたかのような、暴力の痕跡。ここには色がなかった。生命がなかった。
凍てつく滑走路に降り立つと、完璧な軍服に身を包んだソビエト兵が一糸乱れぬ動きで我々を整列させた。彼らの顔には、感情というものが一切存在しなかった。我々は戦勝国の賓客として招かれたはずだったが、その扱いはまるで、これから収容所に送られる捕虜のようでもあった。
リヴァディア宮殿までの道中も、窓の外の風景は変わらなかった。しかし、宮殿の敷地に足を踏み入れた瞬間、世界は一変した。ナチスによって破壊されたはずの建物は、応急処置ながらも見事なまでに修復され、皇帝の時代の栄華を取り戻しているように見えた。それは、髑髏の上から急いで塗りたくられた、厚化粧のような虚飾だった。
通された自室は、無駄なほどに広く、豪奢な調度品が並んでいた。だが、ペンキの匂いの奥に、どうしても消しきれない黴と腐敗の匂いが微かに鼻をついた。窓の外には、銃を構えた兵士が彫像のように立っている。ここは宮殿ではない。美しく飾り立てられた、檻だ。
最初の会談が始まったのは、その日の午後だった。
巨大な円卓。その三方に、世界の運命をその肩に背負った男たちが座っている。私の席は、ローズヴェルト大統領の斜め後ろだった。彼の言葉を、スターリンとチャーチルのためのロシア語と英語に翻訳する。それが私の役目だ。
大統領の顔色は、紙のように白かった。時折言葉に詰まり、その度に彼の背後に立つ側近が心配そうに身を乗り出す。チャーチルは、苛立ちを隠そうともせず、葉巻の煙を燻らせながら、挑戦的な視線をスターリンに投げつけていた。
そして、ヨシフ・スターリン。ソビエト連邦の支配者。彼は、ほとんど動かなかった。ただ、時折その分厚い唇の端に、氷のような微かな笑みを浮かべるだけだ。その鷹のような目が、大統領の健康状態と、チャーチルの焦りを、値踏みするように観察しているのを、私は見逃さなかった。
言葉と言葉が、火花を散らす。ポーランドの国境線。ドイツの分割統治。議題は、数千万の人々の未来を左右するものばかりだった。私は、ただ機械のように、その言葉たちを右から左へと受け流す。思考を挟むな。感情を交えるな。私はただの導管だ。そう自分に言い聞かせなければ、その場の重圧に押し潰されてしまいそうだった。
長い初日の会談が終わり、重苦しい夕食会を終えて自室に戻ったとき、私は心身ともに擦り切れていた。フィンチの言葉を思い出していた。「歴史の分娩室」。まさにその通りだった。だが、ここで生まれようとしているのは、本当に希望に満ちた赤子なのだろうか。
廊下で、偶然フィンチとすれ違った。彼は青ざめた顔で、何かから逃げるように早足で歩いていた。 「フィンチさん、どうかしましたか」 声をかけると、彼はビクリと肩を震わせ、幽霊でも見るような目で私を見た。 「…ああ、ジュリアン君か。いや、何でもない。少し考え事をしていただけだ」 彼の目は、明らかに何かに怯えていた。彼は私の肩を掴むと、絞り出すような声で言った。 「ジュリアン君、ここでは、壁も、インク壺も、君の影さえもが聞いている。決して、忘れるな」 それだけ言うと、彼は自分の部屋へと足早に消えていった。
その夜、私はなかなか寝付けなかった。フィンチの奇妙な様子が頭から離れない。壁の向こうから、誰かの息遣いが聞こえるような気さえした。宮殿の全てのものが、私を見張り、私の思考を盗み聞きしようとしている。そんな妄想に囚われながら、私はいつしか浅い眠りに落ちていった。
二日目の朝が、全ての始まりだった。 トーマス・フィンチが、自室で死体となって発見された。公式発表は、「過労による心労からの自殺」だった。 私は、その陳腐な嘘を、到底信じることなどできなかった。
第一章:影との対話
フィンチの部屋は、宮殿の西棟にあった。訃報が囁きとなって代表団の間に広がる頃には、その廊下はすでにNKVDの兵士によって固められ、近づくことさえ許されなかった。分厚いオークの扉の前で、イヴァン・モロゾフ少佐が数人の部下に淡々と指示を与えているのが遠目に見えた。その姿は、悲劇的な事件を処理する男というよりは、予定通りの工場閉鎖を監督する支配人のように、無感情で、手際が良すぎた。
公式発表は、その日の昼食前に、ソビエト側からの簡単な声明という形で伝えられた。英国代表団の一員、トーマス・フィンチ氏が、長旅と激務による心労から、自ら命を絶った。深い哀悼の意を表する、と。 その言葉が食堂のシャンデリアに吸い込まれていく間、誰もがフォークとナイフの音を立てるのをやめた。だが、その沈黙は哀悼のそれとは程遠い、恐怖と自己保身の色を帯びていた。人々は視線を交わすことさえ避け、自分の皿の上にある、不釣り合いなほど豪華な食事に目を落としていた。嘘は、こうして全員の沈黙という共犯関係のもと、真実として塗り固められていくのだ。
私は、フィンチが自殺などするはずがないという確信を、誰かに伝えたくてたまらなかった。昼食後、英国代表団の若い秘書官を見つけ、声をかけた。彼はマルタからの機内で、フィンチと熱心にチェスを指していた男だった。 「フィンチさんの件ですが…」 私がそう切り出した途端、秘書官の顔から血の気が引いた。彼は神経質に周囲を見回すと、私の耳元で囁いた。 「聞かなかったことにする。君も、もうその話は誰にもするな。頼むから」 彼は懇願するような目を私に向けると、人波の中へと逃げるように消えていった。壁だけではない。ここでは、人間そのものが盗聴器の役割を果たすのだ。誰もが、自分の身を守るために、隣人の口を塞ごうとする。
その日の午後の会談は、まるで何事もなかったかのように進んだ。議題はドイツの戦後処理。国が四つに引き裂かれようとしている。フィンチが憂いていた、地図の上の非情な線引きが、まさに目の前で行われていた。私は通訳をこなしながら、頭の中では全く別のことを考えていた。フィンチの部屋で見つけた、あの不自然な安物のペン。あれは誰のものだ? フィンチは最期に、何を伝えようとしていたのか?
思考の海に沈んでいた私を、現実へと引き戻したのは、会談の終わりを告げる声だった。代表団が席を立つ中、スターリンの通訳官が私のそばへやってきた。 「アシュフォードさん。モロゾフ少佐が、少しお話を、と」 断るという選択肢は、存在しなかった。
通されたのは、宮殿の地下にある、だだっ広い事務室だった。華美な装飾は一切なく、コンクリートの壁と床が、部屋の温度を実際よりさらに数度低く感じさせた。モロゾフは、鉄の机を挟んだ向かい側で、安物のタバコをふかしていた。紫煙が、裸電球の光をぼんやりと滲ませる。 「君の通訳は素晴らしい、アシュフォード君」モロゾフは、意外なほど穏やかな口調で言った。「言葉の表面だけでなく、その裏にあるニュアンスまで正確に捉えている。君のような人間は貴重だ」 「…お褒めにいただき光栄です」 「だが」と彼は続けた。「優秀すぎる人間は、時に、知るべきでないことまで知ってしまう」 モロゾフは灰皿にタバコを押し付けると、机の引き出しから一枚の書類を取り出した。それは、私の祖父がアメリカへの移民を申請した際の、古い記録の写しだった。 「君の祖父母は…確か、キエフ近郊の小さなシュテートル出身だったな。賢明な判断だった。あのまま残っていれば、君という優秀な人材がこの世に生まれることもなかっただろう」 全身の血が凍りつくのを感じた。これは単なる脅しではなかった。お前という人間の全てを、我々は把握しているという、絶対的な力の誇示だった。 「フィンチ君のことは残念だった」モロゾフは、まるで天気の話題でも口にするかのように言った。「彼は少々、繊細すぎたようだ。歴史という巨大な車輪の軋む音に、耐えられなかったのだろう。君は、そうであってくれるな」 彼は立ち上がると、私の肩に手を置いた。その手は、氷のように冷たく、そして重かった。 「歴史に深入りするな、ジュリアン・アシュフォード君。歴史は、君が思うよりずっと、血と泥に汚れている」
部屋を出た私は、幽霊のような足取りで廊下を歩いた。恐怖と無力感で、吐き気さえした。フィンチの正義を追い求めることは、この鋼鉄の獣の顎に、自ら頭を差し出すことに等しい。
その日の夕刻、代表団には短い散策の時間が許された。もちろん、武装した兵士の監視付きだ。私は凍った噴水の縁に一人座り込み、降りしきる雪に目をやっていた。もう、全てを諦めるしかないのか。 「美しい雪景色ですわね。まるで、全ての汚いものを覆い隠してくれるみたい」 不意に、隣から凛とした声がした。振り返ると、英国代表団のエレノア・ヴァンスが、吐く息を白くさせながら立っていた。チャーチルの側近の一人として紹介された、知的で、どこか人を寄せ付けない雰囲気を持つ女性だ。 彼女は、私の隣に腰を下ろすと、前を向いたまま言った。 「トーマスは、自殺なんかじゃないわ」 その声は、囁き声だったが、絶対的な確信に満ちていた。 「彼は殺された。あなたも、そう思っているでしょう?」 私は驚いて彼女を見た。彼女の横顔は、まるで能面のように無表情だった。 「なぜ、それを私に…」 「あなたは、トーマスが最後に話した人間の一人だから。そして、NKVDに呼び出されても、まだここにいる。あなたには、利用価値がある」彼女は初めて、私の方に鋭い視線を向けた。「彼は、『クリムゾン・プロトコル』に近づきすぎた」 「クリムゾン・プロトコル…?」 「今はそれ以上は話せない。でも、トーマスはあなたに何かを残したはず。彼は、自分が危険なことに気づいていた。用心深い人だったから」彼女は立ち上がると、コートのポケットからマッチを取り出し、火をつけた。そして、意味ありげに言った。「マルタからの機内で、彼があなたに贈った、あの古い地図帳。ただの贈り物かしら?」 エレノア・ヴァンスはそれだけ言うと、兵士たちの注意を引かないよう、静かにその場を去っていった。
私は一人、凍てつく庭園に残された。クリムゾン・プロトコル。フィンチが私に託した、地図帳。 自室に戻った私は、鍵をかけると、スーツケースの奥から、フィンチにもらった地図帳を引っ張り出した。何の変哲もない、革張りの古い本だ。だが、エレノアの言葉が本当なら、この中に、友人の死の真相と、歴史を揺るがす秘密が眠っていることになる。 それはもはや、単なる贈り物ではなかった。 友人が遺した、危険な遺言状だった。
第二章:鋼鉄の迷宮
その夜、私は自室の扉に椅子を立てかけ、ささやかなバリケードを築いた。気休めに過ぎないことは分かっていたが、そうせずにはいられなかった。暖炉の消えかけた炎だけが、部屋の中で唯一の友人のように揺らめいている。
私は革張りの地図帳を机の上に広げた。フィンチからの、危険な遺言状だ。一見したところ、何一つ変わった点はない。丁寧に描かれた国境線、細かな等高線、インクの匂い。だが、エレノアは言った。「彼はあなたに何かを残したはずだ」。フィンチの言葉も蘇る。「壁も、インク壺も、君の影さえもが聞いている」。
ならば、手がかりは誰の目にも明らかな形では存在しないはずだ。私は机の上のランプを地図に近づけ、ほとんど紙面に顔を擦り付けるようにして、ページを一枚一枚、めくっていった。探すのは、異常。僅かなインクの滲み、紙の質感の違和感、製本された糸のほつれ。
一時間ほど経っただろうか。何も見つけられない焦りが、モロゾフに植え付けられた恐怖を増幅させる。諦めかけたその時、指先に、ほんの僅かな突起を感じた。 それは、ポーランド東部を示す地図の上だった。目を凝らすと、ある都市の名前の横に、髪の毛ほどの細い針で刺したような、微小な点があった。偶然できた傷か? 私は他のページも確認した。すると、どうだ。東ヨーロッパを示す地図にだけ、同じような針の穴が、複数存在した。
それらは、特定の都市や町の近くに、まるで不吉な星座のように打たれていた。ワルシャワ、クラクフ、ルブリン…。私は震える手で、それらの場所をメモに書き出す。だが、これだけでは意味が分からない。ただの印だ。
さらに地図帳を調べていくと、巻末にある地名の索引ページで、第二の手がかりを発見した。いくつかのページの余白に、鉛筆で書かれては消され、また書かれたような、判読不能なほど薄い数字の羅列が残っていた。フィンチの几帳面な性格を考えれば、こんな乱雑なメモはあり得ない。これは意図的に、ほとんど痕跡が残らないように書かれたものだ。
私は針の穴があった都市の索引ページを調べ、そこに残された数字を拾い上げていった。それはやがて、長い、無意味な数列となった。「14-2-8, 5-1-11, 22-4-1…」
暗号だ。フィンチは私に、解読すべき謎を遺したのだ。だが、肝心の鍵がない。この数字が何を指し示しているのか、皆目見当もつかなかった。私は無力感に苛まれながら、その夜をほとんど眠らずに明かした。
翌日の会談は、朝から不穏な空気に満ちていた。議題は、ポーランドの臨時政府について。ロンドンにある亡命政府を正統と主張するチャーチルと、ソ連が後押しするルブリン委員会を既成事実化しようとするスターリンが、火花を散らしていた。
私は両者の激しい言葉を翻訳しながらも、頭の中は昨夜の数字でいっぱいだった。そんな時だった。議論が軍事的な側面…すなわち、ポーランド国内における赤軍の展開状況へと移った。スターリンの後ろに控えていた軍服の男…チェルニャホフスキーという名の将軍が、地図を指しながら説明を始めた。
彼のロシア語は、モスクワ訛りの標準語とは少し違っていた。そして、ある鉄道の分岐点について説明した際、彼はこう言った。「…この『ヴーズロヴァーヤ』を確保することが、兵站における最初の要となります」
ヴーズロヴァーヤ。それは、「分岐点」や「結節点」を意味する言葉だが、将軍が使ったその発音とイントネーションは、ウクライナ西部の、ごく限られた地域でしか使われない隠語のような響きを持っていた。なぜ、モスクワで教育を受けたエリート軍人が、こんな田舎めいた言葉を使う?
その瞬間、私の脳内で、何かが閃いた。彼は自分の言葉で話しているのではない。現場から送られてきた報告書を、そのまま引用しているのだ。そして、その報告書が書かれた場所は、将軍が使った言葉が示す通り、ウクライナ西部の、あの地域に違いない。
それは、フィンチの地図に最初の針の穴があった場所…ルブリンのすぐ南だった。
フィンチの暗号と、ソ連軍の機密計画が、一本の線で繋がった。だが、まだ鍵が足りない。数字を、意味のある言葉に変換するための鍵が。フィンチなら、何を使う? 我々二人だけに通じる、何か…。
私は必死に記憶を遡った。マルタからの機内での、他愛のない会話。そうだ、フィンチは言っていた。自身のことを、テニスンの詩『ユリシーズ』になぞらえて。「われはわが経験の一部なり(I am a part of all that I have met)」。老いてもなお、未知の世界を追い求める冒険家の詩。
まさか。
その日の会談が終わると、私は監視の目を盗んで、宮殿の図書室へと向かった。埃っぽい、忘れ去られた空間。幸い、NKVDの兵士も、こんな場所にまで監視を置いてはいなかった。私は祈るような気持ちで、洋書の棚を探した。そして、見つけた。アルフレッド・テニスン詩集。
自室に戻った私は、再び扉に鍵をかけ、震える手でページをめくった。フィンチが残した最初の数字は、「14-2-8」。14ページ、2行目、8番目の単語。 私は、その言葉を拾い上げ、メモに書き出した。次の数字、そのまた次の数字と、パズルのピースを嵌めていくように、言葉を紡いでいった。
やがて、そこに浮かび上がってきたのは、意味不明な文字列だった。文章ではない。だが、そのアルファベットと数字の組み合わせを見て、私は息を呑んだ。 緯度と経度だ。
私は地図帳のポーランド全図を広げ、コンパスと定規を使って、解読した座標が示す地点に、鉛筆で印をつけていった。一つ、また一つと、黒い点が増えていく。 それらは、都市でも、村でも、鉄道の駅でもなかった。印がつけられていくのは、名もなき森の奥深く、街道から外れた湿地帯、国境近くの荒れ地。
全ての点を打ち終えた時、私は椅子に深く身を沈めた。目の前の地図に広がっていたのは、ポーランドの未来の姿だった。それは、フィンチが夢見た自由な国家の設計図などではなかった。 ソビエトによる占領後、抵抗する人々を収容し、尋問し、そして処刑するための、秘密警察の拠点と収容所を示す、絶望の地図だった。 フィンチはこれを発見し、告発しようとして、殺されたのだ。 そして今、その血塗られた地図は、私の手の中にある。
終章:沈黙の署名
絶望の地図を目の前に、私はどれくらいの時間、身動きもせずに座っていただろうか。暖炉の火はとっくに消え、部屋の隅々まで、クリミアの凍てつく夜気が満ちていた。この紙切れ一枚が、今や世界で最も危険な物になってしまった。これを持っているという事実だけで、私はモロゾフの部下によって、物音一つ立てずに「処理」されるだろう。
恐怖が、背筋を氷の指でゆっくりと撫で上げていく。私は慌てて地図とメモを丸めると、部屋の中を狼狽しながら見回した。どこに隠す? スーツケースの中は真っ先に調べられる。ベッドの下も、クローゼットの奥も、素人が考える隠し場所は全て無意味だ。
ふと、暖炉の奥、煤に汚れたレンガの一つが、僅かにずれていることに気がついた。私は暖炉の中に身をかがめ、爪が剥がれるのも構わずにそのレンガをこじ開けた。中は空洞になっていた。私はそこに、友人の命と引き換えに手に入れた絶望の地図を押し込み、レンガを元に戻した。これで完璧とは言えない。だが、今はこうするしかなかった。
翌日の私は、歩く亡霊のようだった。会談での通訳をこなしながらも、その内容はほとんど頭に入ってこない。ただ、モロゾフが時折、私に投げかける値踏みするような視線だけが、肌に突き刺さるように感じられた。
エレノア・ヴァンスに接触する機会が訪れたのは、その夜、ソビエト側が催した演奏会でのことだった。チャイコフスキーの荘厳なメロディが、代表団たちの欺瞞と疲労を一時的に包み込んでいる。人々がグラスを片手に談笑する喧騒の中、私はエレノアのそばを通り過ぎる一瞬に、誰にも聞こえない声で囁いた。 「図書室のプーシキンは、お気に召しましたか」 それは、昨夜私が一人で考えた、即席の合言葉だった。彼女は一瞬、驚いたように私を見たが、すぐに冷静さを取り戻し、小さく頷いた。
三十分後、私は演奏会場を抜け出し、宮殿の西棟にある図書室へと向かった。埃と古い紙の匂いが満ちた静寂の中で待っていると、やがて音もなくエレノアが現れた。 「見つけたのね」彼女の声は、期待と緊張で微かに震えていた。 私は無言で、昼間のうちに記憶から書き起こした座標のリストを彼女に渡した。彼女は小さなペンライトの光でそれに目を走らせると、息を呑んだ。そして、ある一つの座標を、震える指でなぞった。それは、ワルシャワのすぐ郊外を示す点だった。 「私の妹が…」彼女の声は、か細い糸のようだった。「ワルシャワ大学の学生だった。レジスタンス活動に加わって…半年前から、連絡が取れない」 彼女は初めて、プロのスパイの仮面を剥ぎ取り、苦悩に満ちた一人の姉の顔を見せた。 「ソ連側は、これを『保安施設』と呼ぶでしょうね。私に言わせれば、これから建設される屠殺場よ」 エレノアの瞳に、氷のような怒りの炎が宿っていた。その時、我々の間にあった疑念や打算は消え、共通の目的を持つ、ただ二人の人間としての絆が生まれた。 「フィンチは、この座標だけじゃなく、物証そのものを探していたはず」と彼女は言った。「署名入りの、言い逃れのできない密約書…『クリムゾン・プロトコル』そのものを。フィンチのメモによれば、それはこの宮殿のどこか…おそらく、帝政時代からの記録が眠る、地下の古文書保管庫にあるはずよ」
我々が行動を起こしたのは、さらにその翌日の深夜だった。ほとんどの代表団員が眠りに就き、宮殿が静寂に包まれるのを待った。エレノアがどこからか調達してきた簡素な地図を頼りに、我々は使用人用の階段を降り、宮殿の地下迷宮へと足を踏み入れた。 そこは、忘れ去られた時間の墓場だった。カビと湿気の匂いが立ち込め、皇帝時代の古い記録を収めた棚が、巨大な墓石のように延々と続いている。天井のパイプからは、時折、水滴が滴り落ち、不気味な反響音を立てた。 「急いで。警備の交代まで、時間はあまりないわ」 我々は手分けをして、フィンチが残したメモが示唆する、特定の年代の公文書の束を探し始めた。それは、干し草の山から一本の針を探すような、絶望的な作業だった。
どれほどの時間が経っただろうか。エレノアが、低い声を上げた。 「…あった」 彼女が指差した棚の奥、古い地籍図の革製ファイルの中に、明らかに異質な、現代の紙を使った薄いバインダーが挟み込まれていた。表紙には、ロシア語で「особая папка(特別ファイル)」とだけ記されている。 私が震える手でそれを開くと、中にはタイプライターで打たれた数枚の文書と、末尾には三人の男の署名があった。ローズヴェルト、チャーチル、そしてスターリン。ソ連の対日参戦と、その見返りとしての領土。そして、東ヨーロッパにおけるソ連の「絶対的な保安上の優越権」を認める、という一文。フィンチが命を賭して暴こうとした、歴史の裏取引の、動かぬ証拠だった。
我々が勝利を確信した、その時だった。 パチン、という乾いた音と共に、保管庫の奥で一つの裸電球が灯った。その薄明かりの中に、椅子に腰かけ、静かにこちらを見つめる人影があった。 イヴァン・モロゾフだった。 「見つかったかね、歴史の真実とやらは」 彼の声は、まるで旧友に語りかけるように穏やかだった。彼の背後には、兵士の姿は一人も見えない。そのことが、かえって不気味だった。 「君の理想主義は、美しいとは思うよ、アシュフォード君。だが、美しいものは、病んだ体を治すことはできない」 彼はゆっくりと立ち上がると、我々に向かって歩み始めた。 「我々は今、歴史という名の患者に、大掛かりな外科手術を行っている。ヨーロッパという体から、ファシズムと帝国主義という癌細胞を、根こそぎ切除しているのだ。手術には血も膿も伴う。だが、誰かがやらねばならん」 彼の目は、狂信者のそれだった。恐ろしく、そして純粋な光を宿していた。 「君の祖先は、理想が彼らを救ってくれるのを待った。だが、理想は何もしてくれなかった。そうだろ? 結局、人間を救うのは、理想ではなく、力なのだ」 モロゾフは、我々の数歩手前で立ち止まった。彼の目は、私が持つプロトコルにではなく、私の魂の奥底に向けられていた。 「さあ、アシュフォード君。それを私に渡しなさい」 彼の声は、命令ではなかった。諭すようでもあった。 「私が君に銃を向けているから、ではない。君自身の理性が、私の言っていることこそが正しいと、理解し始めているからだ」
モロゾフの言葉は、毒のようにゆっくりと私の精神に浸透してきた。彼の言う通りだった。私の理想は、この血塗られた現実の前では、あまりに無力で、子供じみた感傷に過ぎないのかもしれない。フィンチの正義。それは、数百万の命が失われる未来を招くための、引き金になってしまうのか。私の指が、プロトコルを握りしめる力を失いかけた、その時だった。
「理想を語る男は、いつだって女の現実的な仕事の邪魔をするものね」
エレノアが、静かに、しかし刃物のように鋭い声で言った。彼女はモロゾフから視線を外さぬまま、私にだけ聞こえるように囁いた。「目を閉じて」と。 次の瞬間、彼女はコートの懐から取り出した小さな円筒を、床に叩きつけた。 閃光。 鼓膜を突き破るような轟音。 閉じた瞼の裏まで焼き付くような純白の光が、地下保管庫の全てを飲み込んだ。モロゾフの短い呻き声が聞こえる。エレノアは私の腕を掴むと、暗闇の中を猛然と走り出した。 「こっちよ!」 迷路のような地下通路を、我々は夢中で走った。背後からは、ロシア語の怒声と、ブーツの音が迫ってくる。我々は物置と思われる小部屋に転がり込むと、息を殺して分厚い鉄の扉の陰に隠れた。兵士たちの足音が、我々のすぐそばを通り過ぎ、遠ざかっていく。
嵐が過ぎ去った後の、絶対的な静寂。我々は、古いワインの樽が並ぶ、忘れられた貯蔵庫にいた。エレノアはペンライトを灯すと、私が握りしめていたバインダーをひったくるように受け取った。 「よくやったわ、ジュリアン」 彼女は荒い息を整えながら、文書を検め始めた。その時、彼女の指が、バインダーの厚紙の裏表紙に、僅かな違和感を見つけた。彼女はナイフの先で器用にそれを切り開くと、中から折り畳まれた、もう一枚の薄い紙を取り出した。 それは、フィンチの筆跡で書かれたメモだった。 「…なんだ、これは」 メモに目を通したエレノアの声が、驚愕に震えていた。彼女はライトでそれを私に向けた。そこには、ソ連の対日参戦の要求が、ローズヴェルト大統領に提示される数週間も前から、米国内のある高官を通じてソ連側にリークされていたことを示す、決定的な証拠が記されていた。フィンチは、その内通者の名前まで突き止めていたのだ。 フィンチが告発しようとしていたのは、ソ連の野望だけではなかった。自らの陣営…連合国の心臓部に巣食う、裏切りそのものだったのだ。
我々がその事実に愕然としていると、貯蔵庫の唯一の扉が、ゆっくりと開いた。 モロゾフが、一人でそこに立っていた。彼の目尻には、閃光による火傷の痕が赤く残っている。だが、その表情は、怒りではなく、奇妙な静けさを湛えていた。 「見つけてしまったかね。最後の、最も汚れた秘密を」 彼は、銃を抜こうとはしなかった。 「さて、アシュフォード君。君は今、歴史の分岐点に立っている」と彼は言った。「そのメモを、君がアメリカ政府に渡したとしよう。どうなる? 連合国は内側から崩壊する。互いへの不信感で、協力関係は麻痺するだろう。そうなれば、日本との戦争は、あと一年、いや二年、もっと長引くかもしれん。その間に、あと何百万の若者が死ぬ?」 彼の言葉は、もはや私を論破しようとするものではなかった。ただ、冷徹な事実を、一つ一つ並べていくだけだった。 「あるいは」と彼は続けた。「君はそれを、沈黙という名の金庫にしまうこともできる。友人の正義を、歴史の闇に葬り去る代わりに、戦争を終わらせ、数百万の命を救う。どちらが、より大きな『善』かね?」 モロゾフは、私の目を見つめた。 「君は通訳官だ。言葉を、未来へと翻訳するのが君の仕事だろう。さあ、この瞬間を、君はどう翻訳する? 『破滅的な真実』と訳すか、それとも、『代償を伴う平和』と訳すか。答えるのは、君自身だ」
究極の選択だった。友の顔が、私の脳裏をよぎる。地図に引かれる一本の線に、人々の暮らしがあると語った、誠実な男の顔が。だが、その向こう側に、これから死んでいくであろう、顔も知らぬ数百万の兵士たちの姿が、揺らめいて見えた。
私は、エレノアからフィンチのメモを、静かに受け取った。彼女は何も言わなかった。ただ、その目に、諦めと、そして微かな同情の色が浮かんでいた。 私は、ゆっくりと、貯蔵庫の隅にある古い石炭ストーブへと歩み寄った。そして、震える手で、その小さな鉄の扉を開けた。 フィンチの魂の叫びが記された紙を、私は、燃え残りの灰の上へと、そっと置いた。 モロゾフが、かすかに頷いたように見えた。それは、勝利の頷きではなかった。同じ罪を背負うことになる共犯者に向けた、静かな会釈のようだった。 私は、扉を閉じた。
最終日。ヤルタ会談の共同声明が、華々しく発表された。恒久的な平和、解放された民族の自由。三巨頭が握手を交わし、カメラのフラッシュが焚かれる。私はその光景を、部屋の隅から、何の感情もなく眺めていた。歴史的な茶番劇の、最後の幕が下りたのだ。
クリミアを去る輸送機の窓から、雪に覆われたリヴァディア宮殿が遠ざかっていくのが見えた。行きと同じ景色。だが、私の目に映る世界は、全く違う色をしていた。 手元には、会談の公式声明文がある。私は通訳官として、そこに書かれた言葉の全てを理解できる。だが、今なら分かる。本当に重要なのは、そこに書かれなかった言葉だ。翻訳されることのなかった、沈黙の叫びだ。 私は、真実を、沈黙へと翻訳することを選んだ。 友を裏切り、歴史の嘘に加担した。 ヤルタの宮殿は、物理的な密室ではなかった。それは、私の心の中に、これから一生涯、残り続けるだろう。 私はもう、かつての私ではない。 鋼鉄の密室の、壁の一部になってしまったのだから。



































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