秋になると金木犀の香りが、やたらと懐かしく香るのはなぜだろうー
あらすじ
秋。東京・根津。 根津神社の例大祭で賑わう喧騒の中、甘い金木犀の香りが風に乗って路地裏まで届いている。
人生の終わりを胸に、ただ黙々と焼きそばを焼き続ける屋台の男、田村耕平。 客足の減った古い食堂で、廃業を考えている女主人、市川良子。 その食堂で働きながらも、進路に悩み、今日店を辞めようとしている高校生、高橋樹。 祭りの人混みで息子の手を引き、苛立ちを隠せない母親、望月沙耶。
彼らは互いを知らない。 だが、磨き上げられた鉄板、小皿に飾られた散った金木犀の花、丁寧に拭かれたテーブル、そして届けられた感謝の言葉。 すれ違う人々の「些細な行動」が、目に見えないバトンとなって連鎖していく。
巡り巡った温もりが、最後にたどり着いた場所とは——。 これは、無自覚なバトンが繋いだ、ある秋祭りの一日の小さな奇跡の物語。
登場人物紹介
- 田村 耕平(たむら こうへい) 祭りの日、神社で屋台を出す男。ある決意を胸に、人生最後と決めた仕事として焼きそばを焼いている。彼が持ち込んだ磨き上げられた厚い鉄板は、長年の職人気質を物語っている。
- 市川 良子(いちかわ よしこ) 根津の路地裏で、親から継いだ古い食堂「いちかわ」を一人で切り盛りする40代の女主人。常連客の高齢化と自身の将来に悩み、店を畳むことを考えている。
- 高橋 樹(たかはし いつき) 食堂「いちかわ」で働くアルバイトの男子高校生。真面目だが、自分の将来に確信が持てず、今日の祭りが終わったら店を辞めようと決めている。
- 望月 沙耶(もちづき さや) 息子のミナトを連れて祭りに来た30代の主婦。人混みと、言うことを聞かない息子への苛立ちで、心の余裕を失っている。
- 望月 ミナト(もちづき みなと) 沙耶の息子である小学生。祭りの雰囲気に興奮し、母親のイライラに気づいていない。
第一章 喧騒と水底
秋が、その終わりを告げようとしていた。
東京、根津。 古い寺の梵鐘が鳴るでもなく、ただ、空気がその色を深めることで、季節の移ろいを知らせている。 神社の深い杜からは、風が渡るたび、甘く、それでいて胸を締め付けるような香りが、古い商店街の路地裏まで流れ込んでくる。
金木犀だ。
もう、盛りは過ぎていた。 その短い生の祝祭を終え、燃え尽きた残り火のようなオレンジ色の小さな花々が、石畳の隅や、排水溝の縁を、儚く染めている。 それはまるで、季節が流した、美しい涙の跡だった。
根津神社の例大祭。 不忍通りへと続く参道は、昼をとうに過ぎたというのに、人の波と屋台の熱気で、白昼夢のように沸騰している。 遠い太鼓の音。子どもたちの甲高い、熱に浮かされたような歓声。 砂糖が焦げる甘い匂いと、ソースの香ばしさが混じり合い、空気に分厚い層をなしていた。
その喧騒の、まさに渦中にいながら、 田村耕平はただ一人、 まるで水底にいるかのように、 静かに、別の時間を生きていた。
「いらっしゃい」
声には、とうに張りが失われている。 鉄板から立ち昇る湯気が、彼の無感情な瞳を、一瞬、隠した。
今日が、人生最後の日。 そう決めてから、世界のすべてに、薄く、汚れた膜が張られたようだった。 音が遠い。 色が、褪せている。
それでも、長年体に染み付いた習慣というものは、恐ろしい。
彼がこの日のために持ち込んだ、業務用の分厚い鉄板。 それは昨夜、安宿の冷たい畳の上で、 まるで儀式のように、油紙を使って丁寧に磨き上げられた。 今、午後の鈍い光を吸い込んで、 黒ぐろとした、告解室の格子のような光を放っている。 それは彼の、たった一つの、矜持の残骸だった。
ジュ、とキャベツが焼ける音が、 やけに生々しく、鼓膜を打った。
*
その喧騒が、 まるで厚い壁に隔てられたかのように、 遠い残響としてしか届かない場所があった。
根津の路地裏に、 時が止まったかのようにひっそりと佇む、 食堂「いちかわ」。
女主人の市川良子は、 磨き上げたカウンターの内側で、 客のいないテーブル席を、 ぼんやりと眺めていた。
店の入り口に下がる、藍色の暖簾。 その染め抜かれた「いちかわ」の文字も、 心なしか色褪せ、疲れているように見える。
(今月も、赤字か……)
親から継いだ、この店。 四十を過ぎ、女一人で切り盛りする体は、 もう、軋みを上げ始めていた。 壁の染み。 わずかに傾いだ調味料棚。 馴染みだった近所の老人たちも、 一人、また一人と、 その杖の音を、この路地に響かせることがなくなった。
(もう、潮時かもしれない)
祭りの浮かれた熱気は、 この店の、すり減った木の床までは、 どうしても届かない。
「店長」
背後からの、硬い声。 良子は、びくりと肩を揺らした。 アルバイトの高校生、高橋樹が、 何かを決意したような、 痛々しいほどの緊張を湛えた顔で、 洗い場の前に立っていた。
「……なに、樹くん」
「あの、今日、祭りが終わったら…… お話が、あります」
その表情で、 その、喉に何かを詰まらせたような声色で、 良子はすべてを察した。
(この子も、いなくなる)
最後の砦が、 音を立てて崩れていく。
「そう」
短く、 そう答えるのが、精一杯だった。 樹は、 自分の未来という、 あまりに曖昧で、 それでいて重すぎる霧の中で立ち尽くし、 今日のバイトが終わったら辞めようと、 重い決意を胸に秘めていた。
*
一方、 祭りの人波の中心で、 望月沙耶は、 一本の、細く張り詰めた糸のようになっていた。
「ミナト、手を離さないで! そっちはダメだって、言ってるでしょ!」
五歳になる息子の手は、 熱気と興奮で、 汗ばんで、べたつく。
四方八方から押し寄せる、 見知らぬ人々の、 肩、背中、腕。 焼けた砂糖と、 ソースと、 人々の汗の匂い。 けたたましい、 意味のない呼び込みの声。
そのすべてが、 沙耶の、 すり減った神経を、 やすりのように、 じりじりと削っていた。
「ママ、あれ! りんご飴!」 「さっきカステラ食べたでしょ! もう、わがまま言わないの!」
きつく叱りつけると、 ミナトは唇を尖らせて黙り込んだ。 その、 潤んだ瞳に、 一瞬、怯えの色が浮かぶ。 その顔を見て、 また、 鋭い罪悪感が、 沙耶の胸を刺した。
今日は、 二人で、 楽しむはずだったのに。
第二章 黒光りの鉄板
どん、と、 重く湿った空気が、 胃のあたりに溜まる。 良子は、 息苦しさから逃れるように、 声を絞り出した。
「ちょっと、気分転換してくる。 樹くん、店番お願い」 「あ、はい……」
古びた、 滑りの悪い引き戸を開ける。 祭りの熱を帯びた、 生ぬるい外気が、 肌にまとわりついた。 遠い太鼓の音が、 耳の底で、 不規則に響いている。
喧騒から、 ただ、 逃げたかった。 神社の脇道へ、 無意識に足が向く。 それでも熱気は、 袋小路の猫のように、 路地に淀んでいた。
ふと、 一軒の屋台が目に入った。
行列ができているわけではない。 その脇を、 人々は楽しげに、 あるいは無関心に、 通り過ぎていく。 ただ、 焼きそばを焼く男が一人、 まるで、 世界にたった一人きりであるかのように、 黙々と手を動かしている。
田村耕平だった。
良子は、 理由もなく、 その場に、 足を縫い付けられた。
(あの鉄板……)
目を奪われた。 魂を、 掴まれた。
一日限りの、 仮設の屋台のものとは思えなかった。 何年も、 いや、 何十年も使い込まれ、 油が、 持ち主の魂と共に、 隅々まで染み込んだ、 分厚い鉄板。
それは、 午後の、 死にゆく光を、 鏡のように、 黒く、 深く、 反射していた。
耕平の表情は、 暗く、 疲れ切っていた。 瞳には、 何の光も宿っていない。
だが、 その手だけが。 コテを握る、 その手だけが、 まるで、 独立した生き物のように、 生きていた。
キャベツを投入するタイミング。 ソースを回しかける、 その手首の、 流れるような角度。
そのどれにも、 一切の、 淀みがない。 それは、 すべてを諦めた者の動きではなかった。
死んだ目をしながら、 その手だけが、 最後の祈りを捧げるかのように、 完璧な仕事を続けている。 自分の仕事に、 最後の、 最後の最後まで、 誠実であろうとする、 ある種の、 狂気じみた職人の横顔だった。
「……まだ、やれるじゃない」
誰に言うでもなく、 良子の唇から、 乾いた声がこぼれた。
あの男が、 あの鉄板で、 あんな顔をして、 まだ焼きそばを焼いている。
ならば自分も、 あの古びたカウンターの内側で、 もう少しだけ。 もう少しだけ、 みっともなく、 粘ってみても、 いいのではないか。
胸の奥、 冷え切った灰の中に、 小さな、 だが確かな火が、 ぽつ、と灯った気がした。
くるりと、 踵を返す。 風向きが変わり、 金木犀の、 甘く、 切ないほどの香りが、 ふわりと、 良子の鼻を強く、 かすめていった。
第三章 小皿に浮かぶ秋
店に戻ると、 シン、と静まりかえった空気が、 祭りの熱を帯びた肌を、 優しく冷ました。
秋風が、 ちょうど、 路地を吹き抜けたらしい。 神社の木から、 最後の命を振り絞るようにして、 金木犀の花が、 店の入り口に、 小さなオレンジ色の嵐のように、 舞い込んでいた。
灰色の、 コンクリートの土間。 その上に、 無数の、 無数の、 オレンジ色の点。
いつもなら、 ほうきと、 欠けたちりとりで、 無造作に、 無感情に、 かき集めて、 捨てるだけ。
だが、 今日の良子は、 違った。
彼女は、 その場に、 そっと、 屈み込んだ。
その、 小さな、 はかない花の絨毯を、 まるで、 大切な何かを扱うかのように、 愛おしむように、 指で、 そっと、 撫でた。
まだ、 散り際の、 鮮やかな色を留めている、 形の崩れていない数輪を、 そっと、 手のひらに集める。
洗い場で、 一番小さな、 醤油の小皿を、 もう一度、 丁寧に、 洗う。 清水を張り、 拾ってきた金木犀の花を、 そっと、 浮かべた。
レジ横の、 誰も気づかないような、 薄暗い隅。 そこに、 ちっぽけな、 束の間の、 秋が生まれた。
「……店長?」
樹が、 決意を固めた声で、 辞意を告げるために、 再び、 口を開きかけた、 その時だった。
樹の視線は、 その、 醤油皿に浮かぶ、 小さな、 小さなオレンジ色に、 釘付けになった。
(どうして)
こんなに、 客が減って、 経営も、 火の車のはずなのに。 たぶん、 店を畳むことだって、 考えているはずなのに。
(どうして、この人は)
こんな、 誰の得にもならないような、 儲けにも、 何にもならないような、 小さな季節の欠片を、 美しいと思う心を、 まだ、 失っていないんだ。
「辞めます」
その、 四文字が、 鉛のように、 重く、 重くなって、 喉の奥に、 ゴトリと、 音を立てて沈んでいく。
辞めるのは、 簡単だ。 逃げ出すのは、 いつだってできる。 自分の未来だけを考えるのは、 簡単だ。
でも、 この人が、 今、 守ろうとしている、 この店の、 この、 あまりにも、 小さく、 はかない、 価値を。 それを、 自分が見捨ててしまって、 いいのだろうか。
「……樹くん、どうしたの?」
「いえ」
樹は、 言いかけた言葉を、 汗ばんだ手のひらと共に、 強く、 強く、 握りしめた。
「テーブル、拭き直します」 「さっき、拭いたけど……」 「汚れ、残ってたんで」
樹はそれだけ言うと、 新しい布巾を掴み、 固く、 固く、 絞った。
客のいない、 静かなテーブルを、 一つ一つ、 まるで、 鏡を磨き上げるかのように、 いつもより、 ずっと丁寧に、 力を込めて、 拭き始めた。 木の、 古い木目が、 わずかに艶を取り戻していく。
第四章 戻ってきた時間
ガラガラガラッ。
その、 張り詰めた静寂は、 店の引き戸が、 壊れんばかりの勢いで開け放たれる、 乱暴な音によって、 破られた。
「すみません!」
息を切らした沙耶が、 血相を変えて、 店に飛び込んできた。
「ここにさっき、 親子連れ、 来ませんでしたか!?」
「え、あ、はい……」 良子が、 戸惑いの声を上げる。 沙耶の、 甲高く、 ヒステリックな声が、 静かな店内に、 突き刺さるように響き渡った。
「スマホ、 スマホが無いんです! 多分、 このお店に……!」
彼女の後ろで、 ミナトが、 不安と恐怖に、 顔をくしゃくしゃにして、 泣きじゃくっている。
樹は、 はっとした。
「あ……!」
彼が、 今まさに、 心を込めて、 丁寧に拭き上げた、 一番奥の、 テーブル。
その端の、 埃を払ったばかりの、 メニュー立ての、 その影に。 古い木の色に、 不釣り合いな、 ピンク色のスマホケースが、 隠れるように、 置かれていた。
もし、 いつものように、 辞めることばかり考えて、 上の空で、 雑な拭き掃除をしていたら。
きっと、 今頃は、 気づかずに、 洗い場に立っていただろう。
「これ、じゃ、ないですか?」
「あ……! あった……!」
沙耶は、 樹の手から、 ひったくるようにスマホを受け取ると、 その場に、 糸が切れたように、 へなへなと、 崩れ落ちそうになった。
手が、 小刻みに、 震えている。
電源ボタンを押す。 待ち受け画面に映し出された、 ミナトの、 屈託のない、 夏の日の笑顔。
「よかった……」
人混みでの、 極度の緊張。 紛失の、 血の気が引くような焦燥。 息子への、 抑えきれない苛立ち。
その、 張り詰めていたすべてのものが、 安堵の、 熱い涙に変わって、 ぼろぼろと、 とめどなく、 溢れ出した。
「よかった…… 今日の写真、 全部、 この中に……」
沙耶は、 濡れた顔を上げた。 目の前には、 汗をかき、 困ったように、 きょとんとして立っている、 ただの、 アルバイトの高校生。
だが、 その、 何も企んでいない、 真っ直ぐな目が、 今は、 救い主のように、 見えた。
「ありがとう……!」 「いえ、俺は、 そこに、 あったのを……」 「本当に、 ありがとう……!」
心の、 底の底からの、 感謝だった。 スマホが、 モノが見つかっただけではない。
失ったと思った、 二度と戻らないと思った、 「今日の思い出」が。 自分が、 怒りで台無しにしてしまったはずの「今日」が。 この、 名前も知らない若者の、 誠実な、 ただ、 そこにあった誠実な仕事によって、 確かに、 手元に、 戻ってきたのだ。
あんなに、 イライラしていた自分が、 恥ずかしくて、 情けなかった。
心の余裕を取り戻した沙耶は、 泣き顔のまま固まっている、 息子のミナトに、 目を向けた。
第五章 涙の音
祭りの喧騒に、 再び、 足を踏み入れる。 不思議と、 もう、 音は耳障りではなかった。 人混みも、 ソースの匂いも、 なぜか少し、 優しく、 世界が、 もう一度、 色を取り戻したかのように、 感じられた。
沙耶は、 ミナトの前で、 そっと、 しゃがみ込んだ。
良子が、 神社の金木犀の花を拾った時と、 同じように。
「ミナト」
目線を、 まっすぐに、 合わせる。
「ごめんね、 さっきは、 怒鳴ってばっかりで」
ミナトは、 きょとんとして、 母親の、 涙で濡れた顔を、 見上げた。
そこには、 さっきまでの、 眉間にシワを寄せた、 鬼のような顔は、 もう、 なかった。 泣き腫らしてはいるけれど、 いつもの、 優しい、 大好きなママの顔が、 あった。
その、 本当の笑顔を見た、 瞬間。 ミナトの中で、 ずっと、 押さえつけられていた、 不安や、 我慢や、 悲しさが、 一気に、 ぱあっと、 弾けるような、 純粋な喜びに、 変わった。
「ママ!」
「お詫びに、 ミナトが一番食べたいもの、 なんでも買ってあげる。 何がいい?」
母親の、 優しく、 少し震えた声。 もう、 何も迷うことはなかった。 ミナトは、 母親のその言葉を、 背中に翼のように受けて、 人混みを、 かき分け、 まっすぐに、 あそこへ、 走った。
りんご飴じゃない。 わたあめでもない。
さっきからずっと、 鼻をくすぐり、 ミナトを誘っていた、 あの、 香ばしい匂いの元へ。
「おじちゃん!」
耕平は、 ぼんやりと、 冷え始めた鉄板を、 眺めていた。 陽が、 神社の杜の向こうに、 傾き始めている。 参道の、 無数の提灯に、 ぽつ、 ぽつ、と、 裸電球の、 頼りない灯りが、 入り始めた。
(そろそろ、片付けるか) (そして、全部、終わりにしよう)
そう、 思っていた、 まさに、 その時だった。
「おじちゃん、 焼きそば、 ひとつちょうだい!」
息を、 弾ませた、 小さな客が、 カウンターに、 小さな手をかけて、 彼を、 見上げていた。 後ろで、 母親が、 「こら、ミナト、危ないでしょ」 と、 柔らかく、 笑っている。
耕平は、 今日、 焼いた何百人前目かの、 そして、 人生最後だと決めていた焼きそばを、 体に染み付いた、 流れるような手際で、 パックに詰めた。
ソースが、 鉄板の余熱で焦げる、 香ばしい匂い。 それは、 彼自身の、 人生の匂い、 そのものだった。
ミナトは、 それを受け取ると、 待ってましたとばかりに、 その場で、 勢いよく、 割り箸を割った。
熱い麺を、 ふう、 ふう、と、 小さな口で、 懸命に冷ます。
そして、 大きく、 大きく、 頬張った。
最高の気分だった。
ママは、 優しくなって、 失くしたスマホも、 見つかって、 今、 世界で一番、 食べたかった焼きそばを、 食べている。
ミナトは、 幸福に、 満ち満ちた、 満面の笑みで、 耕平を、 見上げた。
「おじちゃん」
「これ、 今まで食べた焼きそばで、 一番おいしい!」
耕平の、 世界が、 止まった。
遠くで、 まるで、 どこか、 別の国で鳴っているかのように聞こえていた太鼓の音が、 急に、 すぐ側で、 鳴っているかのように、 鮮やかに、 鼓膜を、 揺らした。
何の打算もない、 何の遠慮もない、 何の嘘もない、 ただ、 純粋な、 魂の、 底からの、 言葉だった。
その声は、 耕平の世界を、 分厚く、 冷たく覆っていた、 ガラスの膜を、 いとも簡単に、 鋭く、 突き破った。
ツン、と、 鼻の奥が、 痛くなる。
金木犀の、 甘い香りが、 ソースの匂いを、 追い越して、 脳を、 直接、 揺さぶった。
耕平は、 コテを、 握りしめたまま、 動けなかった。
暗く、 乾き切っていたはずの、 その目から、 熱い、 何かが、 一筋、 こめかみを伝い、 無精髭の生えた頬を、 流れた。
それは、 まだ、 わずかに熱を保っていた鉄板の上に、 ぽたり、 と落ちた。
ジュッ。
と、 小さな、 小さな音がした。 湯気と一緒に、 塩辛い雫が、 一瞬で、 蒸発していく。
(……明日も)
(明日も、 焼いてみるか)
もう一度だけ。 この、 黒光りする、 相棒と。
耕平は、 しゃがれた、 かすかな声で、 小さく、 呟いた。
「……ありがとよ」
夕暮れの、 空気に、 金木M犀の、 最後の香りが、 まだ、 確かに、 漂っていた。
(了)



































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