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『誰がために君は泣く』

愛が、忠義を殺した。信念が、主君を討った。 燃える本能寺に隠された、もう一つの「裏切り」。 運命を仕組んだのは、憎しみか、あるいは——深愛か。 日本史上最大の謎に挑む、歴史恋愛ミステリー。

あらすじ

天正十年五月、天下統一を目前にした織田信長の権勢は、安土城の天主のごとく天を衝いていた。だが、その絶対的な光の裏で、闇は深く、そして熱を帯びていた。

信長の正室・濃姫は、夫の魂が抱くあまりに巨大な「夢」と、その夢に飲み込まれ自滅へと向かう「孤独」を誰よりも深く理解していた。父・斎藤道三の「蝮」の血を受け継ぐ彼女は、この乱世の終焉を静かに予期し、信長の夢を未来へ継ぐため、密かに恐るべき計略を巡らせる。彼女の密書を預かった異郷の忍びは、京と備中を往復する羽柴秀吉の不穏な動きを目撃し、やがてその計略の深淵を覗き込むことになる。

一方、織田家筆頭宿老・明智光秀は、主君・信長の苛烈な変貌に苦悩していた。安土での屈辱、愛娘・玉子の未来を座興にされる脅威、そして自らが築いた秩序の破壊。忠義と信念、そして父としての愛の狭間で引き裂かれる彼は、やがて「正義」の名の下に、主君への刃を研ぎ始める。

信長の小姓・森蘭丸は、主君の孤独に寄り添い、その魂の純粋さを誰よりも知っていた。彼にとって信長は世界の全てであり、迫り来る不穏な気配の中で、彼はただ主君の盾となることだけを願う。そして、信長に仕える異邦の武士・弥助は、この国の複雑な人間関係から自由な「証人」として、燃え盛る本能寺で、孤独な王の最期を見届けることになる。

天正十年六月二日、京都・本能寺。 五つの魂が交錯する時、歴史は炎に包まれる。光秀が刀を抜いたのは、誰のためか。濃姫が密書に託した真意とは何か。蘭丸が流した涙の意味、弥助が見た王の最期の眼差し。 これは、憎しみではなく、それぞれの「愛」と「義」を貫くために起こされた、日本史上最も切ない謀反の物語。そして、一人の女が仕掛けた、時を超えた壮大な「恋愛ミステリー」である。

登場人物紹介

  • 濃姫(のうひめ)【仕組む女 / 守る女】
    • 織田信長の正室。夫の夢を深く愛し、理解するがゆえに、その自滅を予期する。父・斎藤道三の「蝮」の血と、未来を見通す鋭い知性を持つ真の戦略家。信長という存在ではなく、その「夢」を継承させるため、光秀と秀吉、二人の男を手玉に取り、本能寺の変の裏で暗躍する。彼女の行動の真意は、最後まで謎に包まれる。
  • 明智光秀(あけち みつひで)【憂う男 / 悲劇の父】
    • 織田家臣団随一の知性と教養を持つ宿老。当初は信長の革新的な理想に心酔していたが、主君の苛烈な言動と、愛娘・玉子への脅威に絶望する。愛する家族と、己が信じる秩序を守るため、忠義を捨てて「謀反」という名の正義を貫こうとする、生真面目さが故に悲劇へと堕ちる男。
  • 森蘭丸(もり らんまる)【殉じる少年 / 孤独な従者】
    • 信長の小姓。その美貌と聡明さで信長の絶対的な寵愛を受ける。人々が恐れる「魔王」の裏に潜む、純粋な魂と孤独を誰よりも深く理解し、崇拝に近い感情を抱いている。彼にとって信長は世界のすべてであり、主君に迫る不穏な気配を敏感に感じ取り、最期までその身を挺して戦う。その忠誠心は、愛にも似た情熱を秘めている。
  • 織田信長(おだ のぶなが)【孤独な王 / 夢見る破壊者】
    • 天下統一を目前にした絶対君主。旧来の常識と権威を破壊し、新しい世を創るという、純粋で巨大な夢を持つ。苛烈で非情な行動の裏で、誰にも理解されないという深い孤独を抱えている。濃姫に安らぎを求め、蘭丸に絶対の信頼を寄せるが、その「夢」のあまりの大きさが、最も近い者たちの心をすり減らせていく。
  • 弥助(やすけ)【異邦の目 / 最後の証人】
    • 信長に仕えるアフリカ人武士。故郷を遠く離れ、この国の複雑な因習や義理から自由な「異邦人」としての視点を持つ。信長の人間的な魅力と、家臣たちの心の内を、言葉の壁を越えた本能で感じ取る。本能寺では最後まで信長と共に戦い、その最期を見届ける唯一の「証人」となる。濃姫の計略にも無自覚に巻き込まれる。

序章 安土、夢と亀裂

天正十年五月、安土城の天主は、雲海に浮かぶ巨船のようであった。

地上を支配する全ての権威と富を呑み込み、なお飽足らず、天そのものに乗り出そうとするかのごとき傲岸な威容を誇っている。

饗応の宴が始まる前夜、城主・織田信長は妻・濃姫だけを、最上階の「八角の間」に招いた。

そこは、彼の夢そのものを描いた部屋であった。狩野永徳が描いた極彩色の釈迦の一生、仙人たちの物語が、蝋燭の炎に照らされて壁や天井で妖しく蠢いている。

常人ならば、そのあまりの絢爛さに眩暈を覚えるだろう。だが、濃姫は静かだった。

「帰蝶、見よ。日の本は、これしきの大きさに過ぎぬ」

信長が指し示したのは、南蛮渡来の地球儀であった。彼の節くれだった指が、小さな島国を愛しむようになぞる。

その瞳は、目の前の妻ではなく、遥か遠い海と、その先にある名も知らぬ大陸を見ていた。

濃姫は、そんな信長の横顔に、天下人ではなく、まだ見ぬ地図に心を躍らせる一人の少年の面影を見ていた。

そして、知っていた。この男の魂は、あまりに巨大で純粋であるがゆえに、この小さな島国に収まりきらず、いつか自らの熱でその身を灼き尽くすであろうことを。

「殿の夢は、あまりに大きゅうございます。この国の誰にも、その果ては見えりますまい」

「そなた以外にはな」

信長が、ふと濃姫に視線を戻す。その一瞬だけ、彼は孤独な王ではなく、ただ一人の女を拠り所とする、ただの男の顔をしていた。

その瞳に宿る、深い寂寥。濃姫は、その寂しさを埋めるように、そっと信長の指に自分の指を重ねた。

二人の間に、言葉はなかった。ただ、二十年以上を共に過ごした夫婦だけが交わせる、深い静寂と、哀しいほどの理解が、そこにあった。

そのわずか数日後。

同じ男が、徳川家康を前にした絢爛豪華な宴の席で、明智光秀を「腐った魚で客をもてなすか」と満座の中で罵倒し、その娘・玉子の首を「次の肴にする」とまで言い放つのを、濃姫は氷のような無表情で見つめていた。

(…早すぎる)

心の中で呟く。あの八角の間で見た夢見る少年は、あまりに性急に、自滅への坂を転がり落ちようとしていた。

光秀の顔から血の気が引いていくのが、遠目にも分かった。あの男は、誇り高い。そして、脆い。この屈辱と恐怖は、必ずやあの男の心を蝕み、毒へと変わるだろう。

(殿、あなた様は、ご自身をお守りになる術を知らない)

父・斎藤道三の「蝮」の血が、濃姫の内で疼いた。このままでは、夫は自らの苛烈さによって、最も信頼すべき家臣に討たれる。

この男を生かす道はない。だが、この男が命を賭して見た「夢」は、ここで終わらせてはならない。

その夜、濃姫は信頼篤い美濃の忍び、「軒猿」の頭領を密かに呼び寄せた。

差し出したのは、蝋で固く封じられた一通の密書。その重みが、一つの時代の運命を宿しているかのように、ずしりと指先に感じられた。

「これを、何があろうと、備中高松城の羽柴様のもとへ届けよ。ただし」

濃姫は、燃え盛る燭台の炎に照らされた、美しい顔で言い放った。

「届けるのは、私が“合図”を送った後。それまでは、決して誰の目にも触れさせてはならぬ。そなたの命に代えても、守り抜け」

密書に何が書かれているのか。なぜ、今ではないのか。

濃姫の真意は、深い闇に閉ざされた。ただ、一つの歯車が、歴史の裏側で静かに回り始めたことだけは、確かであった。

第一部 決断

安土の絢爛たる虚飾を後にした明智光秀の目に映る近江路は、どこまでも色褪せて見えた。

琵琶湖の湖面を渡る初夏の風ですら、あの男、織田信長の嘲笑を含んでいるかのように感じられる。

居城である坂本城の門をくぐり、ようやく光秀は人の世に戻った心地がした。

隅々まで掃き清められた石畳、淀みなく動く家臣たちの姿。己が築き上げた秩序と静謐が、そこにはあった。

奥へ入ると、廊下の向こうから小走りに寄ってくる可憐な影があった。

「父上、お戻りなさいませ」

娘の玉子であった。邪気のない笑顔は、毒気に満ちた安土での数日間を洗い流すには、あまりに清らか過ぎた。

「…玉子か」

光秀は、娘の頭にそっと手を置いた。この小さな掌、このか細い肩。信長は、この娘の未来を、座興の肴にすると言い放ったのだ。

(守らねばならぬ)

もはや、それは義務や忠義といった武士の理屈ではなかった。ただ、父親としての、根源的な衝動であった。

書院で一人、瞑目していた光秀の元へ、京から早馬が立った。もたらされたのは、四国方面軍に関する上意の書状である。

一読し、光秀は筆を執るかのように、静かに書状を置いた。

「…これまでか」

独りごちた声は、乾いていた。

書状には、土佐の長宗我部元親を討伐し、信長の三男・信孝を四国の国主とすることが、決定事項として記されていた。

光秀が長年をかけ、重臣の斎藤利三を通じて築き上げてきた長宗我部との和睦路線は、信長の一存で、一片の紙屑と化した。

利三の面目は潰れ、何より、己の存在価値そのものが、主君によって否定された。

光秀の脳裏に、数年前の記憶が灼きつくように蘇った。

まだ信長が、光秀の知略と教養に全幅の信頼を寄せていた頃である。

『日向守。四国の儀、そちに任せる。そちの才で、長宗我部を我らが腕の内に入れよ』

あの時の、熱の籠った声。同じ男の口から発せられた言葉とは、到底思えなかった。

信長は、変わった。いや、元よりあの男の内には、全てを破壊し尽くす「第六天の魔王」が潜んでいたのだ。

俺は、その魔王に、人の世の秩序という衣を着せる役目に過ぎなかった。だが、もはやその衣は、魔王の巨大な身体には合わぬらしい。

ならば、魔王を野に放つ前に、人の手で葬り去るしかない。

それが、天に通じる義であると、光秀は信じた。

天正十年六月一日。

光秀は、丹波亀山城から兵を出すと、京に近い愛宕山に登った。

山中の威徳院西坊で、光秀は連歌の会を催した。里村紹巴ら当代一流の連歌師を前に、光秀が発句を詠む。

「時は今 天が下しる 五月かな」

一座に、緊張が走った。

「時(とき)」は、光秀の祖とされる土岐氏を指す。そして「天が下しる」は、天下を治める、と解せる。

光秀の顔は、能面のように静かだった。だが、その奥で、燃え盛る炎が見えた。もはや、迷いはない。

己が血の宿命、家臣への責務、そして父としての愛。その全てが、この句に籠められている。

光秀は、傍らに控える明智左馬助と斎藤利三に、無言で視線を送った。

二人は、深々と頷いた。

言葉は、不要であった。

この夜、本能寺に宿る織田信長は、己に仕える最も有能な男が、その首に刃を突き立てる覚悟を決めたことなど、知る由もなかった。

京の夜は、深く、静かに更けていく。

破滅の足音を隠しながら。

第二部 前夜

京の夜は、湿り気を帯びた闇に沈んでいた。

濃姫は、妙覚寺に近い自らの屋敷で、一つの報せを待っていた。闇に溶けるように現れた男は、軒猿と呼ばれる美濃の忍びであった。

父・斎藤道三が放った忍びの末裔であり、濃姫が今も密かに使いこなす耳目である。

「申し上げます。備中の羽柴様、毛利方との談合、あまりに手際が良すぎるとの噂。まるで、万事が筋書き通りに進んでおるかのようにも見え申す」

濃姫は、静かに頷いた。

(猿め…)

羽柴秀吉。あの男の、底なしの人懐こい笑顔の裏にある野心の色を、濃姫は見誤ったことがない。

夫・信長は、その猿の才を愛し、異例の速さで引き立てた。だが、猿は飼い主が弱れば、その喉笛に牙を剥くことも厭わぬ獣だ。

(日向守が動くも、猿が動くも、最早ことの本質は変わらぬ)

織田の天下は、信長という一個の傑物がその双肩に担っているに過ぎない。その男が倒れれば、全ては砂上の楼閣。

ならば、次なる天下の器を見定め、織田の血脈、せめてはその夢だけでも継がせるのが、己の最後の役目。濃姫の心は、氷のように冴え渡っていた。

その頃、本能寺の信長は、酒杯を片手に上機嫌であった。

側には、森蘭丸と弥助が控えている。

「蘭丸、弥助。この日の本を鎮めたら、わしは海へ出る。巨大な鉄の船を造り、明国を、天竺を、その先の南蛮とて見てみたいわ」

夢を語る横顔は、もはや魔王ではなく、未知の世界に焦がれる童子(わらべ)のようであった。

弥助は、その無防備な姿に、遠い故郷の族長を重ねていた。この御方は、あまりに多くのものを背負いすぎた。

不意に、信長が蘭丸に視線を向けた。

「蘭丸よ。もし、わしが明日死んだら、お前はどうする」

蘭丸は、一瞬たりともためらわなかった。

「どこまでもお供つかまつります。火の中、水の中なりとも」

純粋な、一点の曇りもない忠誠心であった。信長は「そうか」とだけ呟くと、満足げに笑った。

だが、その瞳の奥には、誰にも見せぬ寂寥の色が浮かんでいた。弥助には、それが分かった。

「殿、今宵はあまりに手勢が少なく、警備も手薄にございます。近くに逗留しております兵を、幾らかでもお召しになっては…」

蘭丸が、懸念を口にした。

信長は、それを一笑に付した。

「案ずるな。すぐそこに、我が随一の将、日向守がおるわ。光秀がいれば、京に潜む鼠一匹とて動けぬ」

その、絶対の信頼。

だがそれは、もはや過去の幻影でしかないことを、信長は知らなかった。

同じ頃、丹波亀山城を出た明智の軍勢一万三千は、闇に紛れて京へと向かっていた。

表向きの触れ込みは「上洛し、帝に閲兵いただいた後、備中の羽柴殿の援軍に向かう」というものである。

だが、隊列にいる一人の足軽、彦四郎には、この進軍がどうにも解せなかった。備中へ向かうには、道が違う。

そして何より、斎藤利三を始めとする重臣たちの顔から、笑みが一切消えている。まるで、葬列のようだ。

「おい、一体どこへ行くんだ」

隣の男に小声で問うが、返ってくるのは押し殺したような沈黙だけだった。

ただ、ひたすらに歩く。初夏の夜気が、汗で濡れた肌に冷たかった。

やがて、軍勢は桂川の西岸にたどり着いた。川を渡れば、京の町は目と鼻の先だ。

全軍に、停止の号令がかかる。

闇の中、騎馬武者が駆け回り、伝令を告げ始めた。

彦四郎の耳にも、それは届いた。

「これより川を渡り、京へ入る! 敵は…」

ごくり、と喉が鳴る。

伝令の武者は、まるで己に言い聞せるかのように、絞り出すような声で叫んだ。

「敵は、本能寺にあり!」

彦四郎は、己の耳を疑った。

一瞬の静寂の後、一万三千の軍勢が、地鳴りのような咆哮で応えた。

天正十年六月二日、夜明けまで、あとわずか。

歴史が、音を立てて動き始めた。

第三部 炎上

「敵は、本能寺にあり!」

その声は、もはや人の声ではなかった。一万三千の兵の腹の底から絞り出された、地鳴りのような咆哮であった。

足軽の彦四郎は、恐怖と興奮で体が芯から震えるのを感じながら、隣の男に押し流されるようにして桂川の浅瀬へ飛び込んだ。

(なぜだ、なぜ日向守様が…)

考える暇はなかった。主君の命令は、天の声だ。ただ、従う。それが、この乱世を生きる術であった。

京の町へなだれ込んだ軍勢は、眠る民家を揺り起こし、一条の巨大な黒い蛇となって、本能寺へと殺到した。

本能寺の静寂を最初に引き裂いたのは、一発の鉄砲の音だった。

森蘭丸は、その乾いた音で畳から跳ね起きていた。喧嘩や小競り合いの音ではない。組織された軍勢が放つ、殺意の音だ。

「殿、お起きくださいませ! 敵襲にございます!」

闇の中、蘭丸は主君・信長の寝所へ駆け込むと、流れるような所作で信長の鎧を取り出した。

その間にも、寺の四方から鬨の声が上がり、矢が雨のように降り注ぐ音が聞こえる。

「蘭丸!」

そこに、巨躯の影が飛び込んできた。弥助である。その手には、信長から下賜された大太刀が握られていた。

「数が多い。囲まれている」

弥助の言葉は、短かった。だが、それで十分だった。

本堂の入り口で、蘭丸は薙刀を振るった。まだ元服して間もない華奢な体躯のどこに、これほどの力が潜んでいたのか。

敵兵の喉を、胴を、的確に切り裂いていく。その姿は、主君を守るためだけに舞う、美しくも鬼気迫る修羅であった。

弥助は、その隣で大太刀を獣のように振り回した。彼の戦い方は、日本の兵法とは全く異質であった。

理屈ではない。ただ、目の前の敵を叩き潰す。その圧倒的な膂力と異様な姿に、明智の兵は怯んだ。

「誰の仕業か」

具足を着終えた信長の声は、不思議なほどに静かであった。

「はっ…」蘭丸が、敵兵の槍を弾きながら叫んだ。「桔梗の紋! 明智が者と見え申し候!」

その名を聞いた瞬間、信長の顔から全ての表情が消えた。

怒りでも、驚きでもない。

まるで、ずっと解けなかった最後の問いが、すとんと腑に落ちたかのような、冷徹な納得の表情であった。

「…是非に及ばず」

呟きは、誰の耳にも届かなかっただろう。

信長は、自ら弓を手に取ると、障子の向こうに見える敵兵の眉間を、寸分違わず射抜いた。

(日向守…貴様か)

もはや、理由は問わぬ。あの真面目すぎる男が、己が全てを賭けて謀反を起こしたのだ。ならば、相応の理由があったのだろう。

ならば、こちらも、己の全てを賭けて応えるのみ。

それが、天下人としての、最後の礼儀であった。

だが、衆寡敵せず。寺の堀は乗り越えられ、兵は蟻のように湧いてくる。

信長は肩に矢を受け、弥助は腕を斬られた。

「これまでか…」

信長は、奥の間へ退くと、燃え盛る炎を背にした。

炎の中で、信長の脳裏をよぎったのは、天下の版図ではない。数日前、八角の間で二人きりで眺めた地球儀と、その隣で静かに微笑んでいた、妻・帰蝶の顔であった。

(そなただけか。わしの夢の果てを見てくれていたのは…)

それが、絶対者の最期の、人間らしい感傷であった。

「蘭丸」

「はっ」

「わしの首は、誰にも渡すな。ここに火を放て。介錯は無用ぞ」

蘭丸は、涙でぐしゃぐしゃになった顔で、深々と頷いた。それが、己の最後の役目であった。

信長は、蘭丸に背を向けると、弥助を見た。そして、己が腰に差していた黒い鞘の刀を抜き、弥助の足元へ投げた。

「生きよ」

ただ、それだけを告げると、燃え盛る炎の中へと姿を消した。

外では、明智光秀が、馬上から燃え上がる本能寺を、能面のような顔で見つめていた。

ごう、と音を立てて本堂の屋根が焼け落ちる。

勝った。

天下に君臨した魔王は、今、己の手で葬られたのだ。

だが、光秀の胸にこみ上げてきたのは、歓喜ではなかった。ただ、骨の髄まで凍えるような、途方もない虚無感だけであった。

遠く、妙覚寺の屋敷で、濃姫は東の空が赤く染まっているのを見ていた。

彼女は、泣かなかった。

ただ、夜明けの光が、その赤い空を白く塗りつぶしていくのを、瞬きもせずに見つめていた。

天正十年六月二日。

この日、一つの時代が、灰燼に帰した。

そして、新たな時代の扉が、血の匂いと共に、静かに開かれようとしていた。

終章 涙の行方

明智光秀の天下は、わずか十日余りで終わった。

京を制圧し、朝廷から後ろ盾を得たかに見えたが、織田家の宿老たちは誰一人として光秀に与しなかった。

誰もが、この性急な謀反の裏にある歪みと、光秀という男の器量を見抜いていたのだ。

そして、恐るべき速さで、羽柴秀吉が備中から戻ってきた。

「猿めが…!」

報せを聞いた時、光秀は己の計算違いを初めて悟った。秀吉の中国大返しは、神業などではない。

周到に準備された、恐るべき深謀遠慮の結果であった。光秀が信長という巨木を伐り倒すのを待ち、その果実を喰らうため、あの男はずっと牙を研いでいたのだ。

山崎の合戦は、戦というより、一方的な蹂躙であった。

「天王山を制する者が天下を制す」というが、光秀には天も、地も、そして人の心すらも味方しなかった。

兵は逃げ散り、光秀は数騎の供回りと共に、居城である坂本を目指し、暗い竹林が続く小栗栖の地を駆けていた。

「御無念にございます…」

家臣の声が、雨音のように遠くに聞こえる。

無念。果たしてそうか。光秀の胸にあったのは、もはや悔しさではなかった。ただ、深い疲労だけだ。

(玉子…)

脳裏に浮かんだ娘の顔が、不意に、信長のそれに変わった。なぜか、安土で見た、孤独な童子のような横顔であった。

(俺は、あの男を殺してまで、一体、何を守りたかったのだ…)

その問いに答えが出る前に、竹藪の暗がりから突き出された一本の竹槍が、光秀の背中を深々と貫いていた。

熱いものが、腹の底から込み上げてくる。

馬上からずり落ちた光秀の目に最後に映ったのは、どこまでも暗く、救いのない、泥に汚れた笹の葉であった。

その数日後。京の片隅に潜む濃姫の元を、一人の男が訪れた。

戸口に立ったのは、傷だらけの弥助であった。あの地獄を、この男は生き延びたのだ。

弥助は、言葉を発することなく、濃姫の前に進み出ると、恭しく一本の刀を差し出した。

信長が、最期に彼に投げ与えた、黒い鞘の刀であった。

「…殿は」

濃姫が、かすれた声で問うた。

「『生きよ』と」

弥助は、それだけを告げた。そして、深々と頭を下げると、再び闇の中へと消えていった。二度と、彼が歴史の表舞台に現れることはなかった。

濃姫は、その刀を手に取った。

金銀の飾りも、華麗な拵えもない、ただ敵を斬るためだけに作られた、無骨な鉄の刀。天下人が持つには、あまりに素朴な一振り。

だが、濃姫には分かった。

豪華絢爛な安土城でも、煌びやかな茶器でもない。この一振りの刀こそが、織田信長という男の魂の、ありのままの姿なのだと。

時は流れ、天下は羽柴秀吉、そして徳川家康へと移っていく。

濃姫は、歴史の表舞台から完全に姿を消した。ある者は美濃で静かに暮らしたといい、ある者は安土城の焼け跡で信長の菩提を弔い続けたと伝わる。

確かなことは、誰にも分からない。

ただ、確かなことがあるとすれば。

ある尼寺の片隅で、一人の尼僧が、毎朝、一本の古い刀を手入れしていたという。

彼女は、誰とも言葉を交わさず、ただ静かに、その刀身に映る己の顔を見つめていた。

そして、ある日の夜明け。

彼女は、その刀を胸に抱き、声を殺して、ただ一人、泣いた。

それは、夫を殺した女の涙か。夫の夢を守った、妻の涙か。

あるいは、愛する男を犠牲にしてまで天下の行く末を案じた、母のような涙か。

その涙の理由は、彼女だけが知っていた。

さらに歳月は流れた。

かつて本能寺が燃え盛った地は、京の町衆の往来で賑わっていた。

一人の旅の僧が、その跡地の一角で、一輪の野生の花を見つける。

それは、明智家の家紋と同じ、紫の桔梗であった。

僧は、静かにその場で手を合わせた。

誰がために、君は泣くのか。

天下のためか、己のためか。

愛する者のためか、あるいは、守るべき義のためか。

その答えは、風の中に消えた。

ただ、それぞれの場所で流された幾筋もの涙だけが、本能寺の変の、唯一の「真実」であったのかもしれない。

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