あらすじ
湾岸テレビのエースプロデューサーが起こしたスキャンダルは、巨大メディア帝国を根底から揺るがした。初動対応の失敗で社会的信用は失墜。株主からの外圧もあり、元特捜部検事の弁護士・剣崎亮二を長とする第三者委員会が設置される。
剣崎にとって、この調査は単なる仕事ではなかった。検事時代、湾岸テレビの偏向報道によってあと一歩で追い詰めた巨悪を取り逃がした苦い過去があったのだ。これは、メディアという権力への復讐だった。
調査を進める剣崎の元に、一人の内部協力者が現れる。コンプライアンス室の若手社員・三上は、正義感と会社への愛情、そして裏切りが発覚することへの恐怖の間で激しく葛藤しながら、剣崎に社内の機密情報を提供する。
絶対君主として君臨する相談役・海道の牙城に迫る二人。しかし、彼らが暴き出した「真実」の先には、誰も予想しなかった皮肉な結末が待っていた。
登場人物紹介
- 剣崎 亮二(けんざき りょうじ) 主人公。元東京地検特捜部の弁護士。冷静沈着だが、胸の内にはメディアによって正義を妨害された過去の怒りを秘めている。今回の調査を、その復讐を果たす最後の機会と捉えている。
- 三上 隼人(みかみ はやと) 湾岸テレビ・コンプライアンス室所属の若手社員。強い正義感を持ち、最初に社内で警告レポートを上げた人物。会社を愛するが故に、その腐敗を許せず、危険を冒して剣崎に協力する「内部協力者」。
- 湊 浩一郎(みなと こういちろう) 湾岸テレビ社長。相談役・海道の傀儡であり、自らの意思決定能力を失っている。
- 海道 猛(かいどう たける) 湾岸テレビ相談役。「絶対君主」。彼の判断が会社の全てを決定する。組織の利益のためなら、個人の正義や社会の倫理を平然と踏みにじる。
序章:復讐の始まり
2025年9月1日 月曜日 午前
テレビの向こう側で、一人の男が死刑宣告を受けていた。 もちろん、比喩だ。湾岸テレビ社長、湊浩一郎の顔から血の気が引いていく様を、剣崎亮二は自身の弁護士事務所のモニターで冷ややかに見つめていた。フラッシュの白い閃光が、湊の脂汗を浮かべた額を無慈悲に照らし出す。
『ですから、会社として組織的な関与があったという事実はございません!』
湊の裏返った声が、スピーカーから響く。それは悲鳴に近かった。湾岸テレビのエースプロデューサー・陣内巧が起こしたとされる女性スキャンダル。その脇役として、湊は主役以上に世間の非難という名のスポットライトを浴びていた。問題は、その場に陣内だけでなく、他の局員も同席していたという事実だ。
『では社長、なぜ即座に事実関係を公表しなかったのですか!』 『私的な場でのことと認識しておりまして……』 『危機管理能力の欠如ではありませんか!』
質問という名の礫が、湊を容赦なく打ち据える。剣崎は、無言でリモコンの電源ボタンを押した。途端に静寂が訪れる。窓の外、世田谷の閑静な住宅街の向こうに広がる空は、まるで何事もなかったかのように青く澄んでいた。
「茶番だ」
誰に言うでもなく、剣崎は呟いた。湊という男個人の資質の問題ではない。あれは、巨大な組織が機能不全に陥った末期の症状だ。そして、その組織――湾岸テレビは、剣崎にとって忘れようのない宿敵だった。
脳裏に、七年前の光景が蘇る。 東京地検特捜部の検事として、大物政治家・永田の汚職事件を追っていた。物証を固め、金の流れも掴んだ。永田本人を逮捕するまで、あと一歩。その矢先だった。湾岸テレビの夜のニュース番組が、こちらの極秘捜査情報を大々的にリークしたのだ。情報源は不明。『特捜部の勇み足か』というご丁寧なコメンテーターの解説付きで。
結果、永田には証拠隠滅の時間を与え、世論は検察の暴走を非難した。捜査は行き詰まり、事実上、剣崎の敗北に終わった。テレビというメディアが持つ、善悪さえ軽々と捻じ曲げる強大な力を、彼は骨の髄まで味わった。
デスクの電話が鳴る。ディスプレイには、旧知の大手法律事務所のパートナーの名前が表示されていた。予感はあった。
「……剣崎です」 『先生、例の湾岸テレビの件です。第三者委員会を立ち上げることになりまして、委員長として先生のお名前が挙がっております』
やはりか。株主からの外圧と世論に追い詰められた湾岸テレビが、クリーンなイメージを演出するために自分を使おうとしている。その魂胆は透けて見えていた。断る理由はいくらでもあった。面倒なだけで、得るものなど何もない。
だが、剣崎の口から出た言葉は、彼自身が予想していたものとは違っていた。
「……お受けします」
電話の向こうで、相手が安堵の息を漏らすのが分かった。 剣崎は受話器を置き、再び窓の外に目をやった。七年前、自分が追い詰めたはずの永田は、今も国会議員としてテレビの画面の中でふんぞり返っている。あの日のニュースを報じた湾岸テレビのロゴが、その隅に映っていた。
これは単なる仕事ではない。 あの時、メディアという名の権力に葬られた真実を、今度は自分が掘り起こす。 これは、復讐だ。
剣崎亮二の長い戦いが、静かに幕を開けた。
第一部:沈黙の壁
2025年9月10日 水曜日 午後
東京湾岸エリアにそびえ立つ湾岸テレビ本社ビルは、鈍色の空を突き刺す巨大なオブジェのようだった。剣崎が足を踏み入れたエントランスホールは、吹き抜けの開放的な空間とは裏腹に、澱んだ空気が漂っているように感じられた。道行く社員たちは皆、一様に俯き、その表情からはかつての業界王者の誇りなど微塵も感じられない。
通されたのは、20階にある第一会議室。第三者委員会の初会合と、経営陣からのヒアリングのためだ。分厚いカーペットが足音を吸い込み、異様なほど静かだった。
「この度は、委員長の大役をお引き受けいただき、誠にありがとうございます」
深々と頭を下げたのは、社長の任を解かれ、特命担当役員という名の閑職に追いやられた湊浩一郎だった。彼の後ろには、法務担当役員をはじめとする数名の執行役員が、まるで罪人のように固い表情で並んでいる。
「早速ですが、例のプロデューサー・陣内氏の懲戒委員会に関する議事録と、関連する役員会議の議事録を全てご提出いただきたい」
剣崎は挨拶もそこそこに、単刀直入に切り出した。湊の顔が一瞬、こわばる。
「……はい。ですが、議事録は現在、最終確認の段階にありまして、少々お時間をいただきたく……」 「では、陣内氏の直属の上司だった制作局長のヒアリングを明日にでも」 「あいにくですが、彼は先日から体調を崩しておりまして……」
剣崎の眉がわずかに動いた。予想通りの反応だ。これは単なる怠慢や非協力ではない。組織ぐるみで時間を稼ぎ、その間に証拠を精査し、都合の悪い部分を隠蔽しようという明確な意志の表れだ。彼らは剣崎を、適当な報告書を書いてくれるお飾りの委員長だと舐めている。
「よろしい。では、まず社内に残っている全ての電子記録、サーバー、メール、チャット履歴の保全を要求します。当委員会で調査権限を持つフォレンジック専門チームを明日にも入れますので、ご準備を」
その言葉に、役員たちの顔色が変わった。「電子記録の保全」――それは特捜検察が強制捜査に入る際の手口と同じだった。法務担当役員が慌てて口を挟む。
「け、剣崎先生、それは社員のプライバシーに関わる問題も……」 「調査を妨害すると見なせば、その事実を報告書に明記するまでです。そうなれば、株主や世論がどう判断するか。お分かりですね?」
剣崎の静かな、しかし有無を言わせぬ口調に、役員たちは押し黙った。彼らは理解しただろう。目の前の男が、会社の用意したシナリオ通りに動く人間ではないことを。
初日の調査を終え、重い足取りで事務所に戻ったのは、夜の8時を回っていた。今日の抵抗は、これから始まる戦いの序章に過ぎない。敵は巨大で、手強い。
デスクに腰を下ろしたその時、見慣れない非通知の番号からスマートフォンが震えた。普段なら無視する電話だ。だが、なぜかその時の剣崎は、無意識に緑色の通話ボタンをスワイプしていた。
「……もしもし」 『……弁護士の、剣崎先生でしょうか』
ノイズの混じった、若い男の声だった。ひどく緊張しているのが声の震えから伝わってくる。背後で人の気配を警戒しているのか、ひそひそと囁くようだ。
「そうだが」 『……わたくし、湾岸テレビの者です。お話したいことがあります。会社の、未来のために』
剣崎は受話器を握りしめた。組織の壁が厚ければ厚いほど、内部から亀裂は生まれる。検事時代の経験が、そう告げていた。
「名前は」 『……今は、言えません。でも、あなたに渡さなければならないものがあります。信じて、いただけますか』
声は懇願していた。それは、巨大な組織の中で、たった一人で正義と恐怖の狭間に立つ者の声だった。
「今夜10時、事務所近くの駒沢公園、西口のベンチだ。一人で来い」
剣崎はそれだけを告げて、電話を切った。 まだ姿も見えない協力者。彼がもたらすものが希望なのか、あるいは巧妙な罠なのか。 確かなことは一つだけ。 巨大な沈黙のピラミッドが、今、わずかに軋む音を立て始めた。
第二部:二つの正義
2025年9月10日 水曜日 午後9時55分
夜の駒沢公園は、都心とは思えないほどの静寂と闇に包まれていた。時折、ランナーの足音と息遣いが暗闇を通り過ぎていくだけだ。剣崎は指定された西口のベンチに座り、缶コーヒーの冷たい感触を指先で弄んでいた。罠である可能性は低い。だが、油断は禁物だった。
約束の午後10時きっかりに、一人の青年が姿を現した。年は20代後半だろうか。着古したスウェットにパーカーのフードを目深にかぶり、きょろきょろと執拗に周囲を警戒している。その挙動不審な様子は、かえって彼が裏社会の人間などではない、ごく普通の会社員であることを示していた。
青年は剣崎の姿を認めると、一度立ち止まって逡巡した後、意を決したように早足で近づいてきた。そして、剣崎から一つ間隔を空けたベンチの端に、浅く腰を下ろした。
「……剣崎先生ですね」 「君が電話の主か」
青年はこくりと頷いた。フードの影からのぞく目は、不安と決意という相反する光が混じり合って揺れている。
「湾岸テレビ・コンプライアンス室の、三上隼人といいます」 「コンプライアンス室だと?」
剣崎は意外な部署名に、わずかに眉を動かした。組織の番犬であるはずの部署の人間が、なぜこんな真似を。
「俺を信用すると、君は会社を裏切ることになる。それでもいいのか」
剣崎の問いに、三上は唇を固く結んだ。 「僕は、会社を裏切りたいんじゃありません。会社を、愛しているんです。だから、今のまま腐っていくのを見過ごすわけにはいかないんです」
その声は、震えてはいたが、芯には強い意志が宿っていた。三上は震える手でカバンの中から一つのUSBメモリを取り出し、テーブルの上に置いた。
「これは……」 「陣内プロデューサーの件で、僕が半年前、個人的に調査して作成した内部報告書のデータです。彼の経費使用における不正の疑いと、タレントとの不適切な関係がもたらす経営リスクについて、警告したものです」
剣崎の目が鋭くなった。これこそが、彼が探していた「初動」の証拠だった。 「この報告書は、正式に上申したのか」
三上は力なく首を振った。 「直属の上司に提出しましたが、数日後、『この件は預かる。他言無用だ』とだけ言われ、揉み消されました。おそらく、さらにその上……僕らでは窺い知れないレベルの力で」
その言葉だけで十分だった。剣崎が追い求めるべき「聖域」の存在が、はっきりと輪郭を帯びてくる。
「危険な橋を渡ったな、三上君」 「僕だけじゃありません。このままじゃ、湾岸テレビは本当に終わってしまう。そう思っている社員は、僕以外にも……たくさんいるんです」
三上はそれだけを言うと、立ち上がった。「どうか、お願いします」と深く頭を下げ、再び周囲を警戒しながら、暗闇の中へと駆け去っていった。
剣崎は、ベンチに残されたUSBメモリを静かに拾い上げた。ひんやりとした金属の感触。それは、巨大な組織の分厚い壁に穿たれた、最初の亀裂だった。
事務所に戻った剣崎は、細心の注意を払ってデータを自身のPCにコピーした。ファイルを開くと、そこには陣内プロデューサーの度を越した経費濫用を示す詳細なデータと、今回のスキャンダルを予見するような的確なリスク分析が、理路整然と記されていた。
そして、報告書の最後の一文に、剣崎は目を留めた。
『本件を放置すれば、単なるコンプライアンス違反に留まらず、当社の報道機関としての社会的信用を根底から揺るがす事態に発展する可能性を否定できない』
半年前。この若き社員は、全てを正確に予見していたのだ。そして組織は、この魂の叫びを握り潰した。
剣崎はUSBメモリを強く握りしめた。復讐ではない。もはや、これは救出だ。沈みゆく船の中で、声なき声を上げる者たちを救い出すための。
彼の胸に、検事時代とは質の違う、静かで、しかしどこまでも熱い闘志の炎が灯った。
2025年9月18日 木曜日 午前10時
湾岸テレビ本社の会議室は、まるで法廷のような緊張感に包まれていた。剣崎はテーブルの中央に座り、その向かいには制作局の担当役員と、コンプライアンス室長が青ざめた顔で座っている。
「先日ご提出いただいた資料ですが、不可解な点がありまして」
剣崎は手元のタブレットを操作し、プロジェクターに一枚のグラフを映し出した。それは、エースプロデューサー・陣内巧の過去一年間の経費使用状況を示したものだった。棒グラフのいくつかが、不自然に突出している。
「特にこの部分。深夜に、銀座の高級クラブで数十万円単位の経費が、何度も『会議費』として計上されています。一体、誰とどんな会議をすれば、こんな金額になるのですか」
役員は額の汗を拭いながら答える。 「……番組の重要な出演者や、スポンサーの方々との接待であったと、本人からは聞いております」 「なるほど。では、その接待相手のリストと、陣内プロデューサーが提出した業務報告書をご開示いただけますか」
その言葉に、役員は明らかに狼狽した。そんなものが存在しないことは、火を見るより明らかだった。剣崎は間髪入れずに、次の証拠をスクリーンに映し出す。それは、三上から受け取ったUSBメモリに入っていた、半年前の内部報告書の表紙だった。
「コンプライアンス室は、半年も前にこの事実を把握し、リスクを指摘していた。そうですね?室長」
名指しされた室長は、観念したように俯いた。 「……その、レポートの存在は承知しております」 「承知していて、なぜ放置したのです。あなた方の仕事は、こういう事態を防ぐことではないのですか」 「私の一存では……。上層部の判断が……」
剣崎は知っていた。この男をこれ以上詰めても、トカゲの尻尾切りで終わるだけだ。彼の狙いは、この男の口から「上層部」という言葉を引き出すことだった。矢は、放たれた。あとは、標的が誰なのかを正確に特定するだけだ。
ヒアリングを終えた剣崎は、エレベーターホールで人知れずため息をついた。城の外壁は崩し始めたが、本丸はまだ遥か遠い。
同日 午後3時
三上隼人は、自分のデスクで耳を疑った。人事部の内線電話が、淡々と彼に告げた辞令。それは、地方の系列局である沖縄湾岸テレビへの出向命令だった。役職は、アーカイブ映像の整理担当。どう考えても、入社5年目の社員に対する左遷人事だった。
「……なぜ、僕がですか」 『会社の方針だ。栄転だよ、三上君。沖縄はいいところだぞ』
電話の向こうで人事は感情のこもらない声で言う。辞令は来週月曜付。事実上の島流しだった。
電話を切った三上の背筋を、冷たい汗が伝う。剣崎に情報を渡したことが、会社にバレたのだ。確信があった。この数日、すれ違う同僚たちの視線は明らかに自分を避けていた。昼食に誘っても、皆、理由をつけて断った。彼は、組織という巨大な村の中で、村八分にされていたのだ。
恐怖が、じわじわと全身を蝕んでいく。自分は正義のために行動したはずだ。なのに、なぜこんな目に。会社を愛している?馬鹿な。会社は、自分という異物を排除しようとしているだけではないか。
三上は、誰にも見られないよう、スマートフォンのメッセージアプリを開いた。宛先は、先日交換したばかりの剣崎の番号。
『出向命令が出ました。沖縄です。もう、限界かもしれません』
震える指で送信ボタンを押した後、三上はトイレの個室に駆け込み、鍵をかけた。狭い空間で、彼は一人、声を殺して嗚咽した。正義の代償は、あまりにも大きかった。
狭い個室の中で、三上は膝を抱えた。会社を良くしたい。ただそれだけだったはずなのに、自分は会社から「不要な人間」という烙印を押されたのだ。後悔が黒い染みのように心を蝕んでいく。いっそ全てを投げ出して、沖縄に逃げてしまおうか。そうすれば、この息苦しいプレッシャーから解放されるかもしれない。
その考えが頭をよぎった時、ポケットの中でスマートフォンが震えた。ディスプレイに表示された「剣崎亮二」という名前に、心臓が跳ねる。先ほど、衝動的に送ってしまったメッセージへの返信だろうか。三上は震える指で、応答ボタンをスワイプした。
「……もしもし」 『剣崎だ。メッセージを見た』
電話の向こうから聞こえてきたのは、慰めや同情の言葉ではなかった。不思議なほど落ち着いた、しかし有無を言わせぬ力強さがそこにあった。
『情けないなどと思うな。それは、君の行動が彼らの急所を突いている証拠だ。恐怖の表れだよ』
剣崎は、まるで全てを見通しているかのように語りかける。
『いいか、三上君。彼らは君を孤立させ、諦めさせようとしている。沖縄へ行って、全てを忘れろと。それも一つの選択だ。君を責める者は誰もいない。君はもう十分に戦った』
一度、言葉が途切れる。その沈黙が、三上に選択を委ねているのが分かった。逃げる自由も、ここにはあるのだと。だが、続く言葉に三上は息を呑んだ。
『だが、もし君にまだ戦う意志が残っているなら……最後まで俺と付き合ってほしい。君のその痛みと勇気を、俺は決して無駄にはしない。君が未来を失うような結末には、絶対にさせないと約束する』
それは、単なる励ましではなかった。一人の人間の人生を背負うという、鋼のような覚悟が込められた誓いだった。三上の目から、涙が止めどなく溢れた。しかし、それは先ほどまでの絶望の涙とは違う。孤独な戦場で、初めて信頼できる援軍を得た安堵の涙だった。
「……僕も、行きます。最後まで。お願いします、先生」
絞り出した声は、まだ震えていたが、そこには確かな光が灯っていた。
「分かった」
短い返事と共に、電話は切れた。三上は涙を拭うと、ゆっくりと個室から出た。鏡に映った自分の顔はまだ酷いものだったが、瞳の奥の光は消えていなかった。
第三部:聖域の崩壊
2025年10月2日 木曜日
その日を境に、剣崎の調査は新たなフェーズに突入した。三上からの内部情報と、彼がもたらした「最初の亀裂」を突破口に、剣崎のフォレンジックチームはついに湾岸テレビのサーバーの最深部――これまで誰も触れることのできなかった「聖域」へと到達していた。
そこは、相談役・海道猛の通信記録が眠る電子の密室だった。
剣崎は、湾岸テレビ本社の一室で、チームからの報告を待っていた。数時間に及ぶ解析の末、専門家の一人がついに顔を上げた。
「……見つけました。海道氏と湊前社長、そして秘書室との間の、暗号化されたチャットのログです」
モニターに、生々しいやり取りが復元されていく。そこには、三上が提出した警告レポートを、海道が明確に「対応不要」と指示した記録が残されていた。それだけではない。スキャンダルが報道された直後、海道が湊前社長に対し、いかにして会見を乗り切り、事実を矮小化するかを具体的に指示する、おぞましいまでの隠蔽工作の記録が、タイムスタンプ付きで克明に残されていたのだ。
剣崎は、その画面を静かに見つめていた。これで、王手だ。 彼は内線電話を取り、湊前社長と海道相談役、双方の弁護士に連絡を入れた。
「第三者委員会として、最終ヒアリングを行います。お二人揃って、ご出席いただきたい」
最後の戦いの火蓋が、切って落とされた。
2025年10月10日 金曜日 午後2時
湾岸テレビ20階、第一会議室。窓の外には鉛色の雲が広がり、まるでこれから始まる重苦しい儀式を予感させているようだった。
巨大なマホガニーのテーブルを挟み、剣崎をはじめとする第三者委員会のメンバーが一方に座る。その対面に、やつれた表情の湊前社長、そしてその隣に、この巨大メディア企業の「王」として半世紀近く君臨してきた相談役・海道猛が、微動だにせず腰掛けていた。歳の頃は80に近いだろうか。しかし、その背筋は驚くほど伸び、鷲のような眼光は少しも衰えていない。まるで、ここは法廷ではなく、自らが主宰する最後の謁見の間だとでも言うかのように。
「――以上が、我々が認定した事実関係です」
剣崎は、調査の概要を淡々と述べ終えた。会議室は水を打ったように静まり返っている。
「海道相談役にお尋ねします。半年前、コンプライアンス室から提出された陣内プロデューサーに関するリスク報告書を、あなたは明確に『対応不要』と指示しておられます。なぜですか」
問いかけられた海道は、初めてゆっくりと口を開いた。その声は、老いてはいるが、部屋の空気を支配するような奇妙な迫力があった。
「剣崎先生。この会社は巨大な船だ。航海の途中、デッキで船員が一人転ぶたびに、いちいち舵を止めていては目的地には着けん。私の仕事は、会社の針路を定め、利益という港に導くことだ。一担当者の杞憂に、いちいち構ってはおれんよ」
それは、絶対的な権力者だけが持つ、傲慢ともいえる論理だった。剣崎は、感情を一切排した声で応じる。
「なるほど。では、もう少し具体的な『ご指示』について、ご見解を伺いましょうか」
剣崎が手元のPCを操作すると、彼の背後にある大型モニターに、暗号化が解かれたチャットのログが鮮明に映し出された。湊前社長が息を呑む。
そこには、海道の秘書室から湊の端末へ送られた、短い一文が赤枠で囲まれていた。
『本件、対応は不要。静観されたし。海道』
「これは、あなたの明確な『ご指示』ですね。杞憂では済まされないリスクを認識した上で、意図的に隠蔽を命じた。違いますか」
海道の表情から、初めて余裕が消えた。だが、彼はまだ屈しない。
「だから、何だというのかね。危機管理というのは、時に何もしないことが最善の場合もある。君のような部外者に、我々の世界の機微が分かるとは思えんが」
「部外者、ですか」 剣崎は、最後の切り札を切った。モニターの画面が切り替わる。今度は、スキャンダル発覚直後の、海道と湊の生々しいやり取りだった。
『湊、会見では「私的」な場を強調しろ』 『会社としての監督責任は認めるな。個人の問題に矮小化させろ』 『マスコミには、後でいくらでも貸しは作れる』
それは、報道機関のトップにあるまじき、卑劣なまでの情報操作の指示だった。もはや、言い逃れの余地はない。
海道は、モニターに映し出された自らの言葉を、まるで亡霊でも見るかのような目で見つめていた。やがて、彼は憎々しげに剣崎を睨みつけた。
「それで、満足かね、先生。この私を、会社の歴史を、一介の弁護士が断罪して。だが覚えておくがいい。この国では、正義だけでは飯は食えん。人々が求めるのは、小難しい真実などではない。面白おかしい虚構(テレビ)なのだよ」
それは、海道猛という男の、最後の抵抗であり、哲学だった。
剣崎は静かに立ち上がった。 「海道さん、あなたは王国を築いたのかもしれない。だが、その王国は、三上君のような若者の誠実さを踏みつけ、自浄作用を失った砂上の楼閣だった。そして、どんな王国も、自らの行いの結末からは逃れられない」
剣崎は、海道の目から視線を外し、宣告するように言った。
「ヒアリングは、以上です。我々の見解は、全て報告書に記載します」
その言葉を合図に、他の委員たちも静かに席を立つ。会議室には、海道と湊、そして彼らの弁護士だけが取り残された。 自らの言葉という、決して消すことのできないデジタル・タトゥーを背後のスクリーンに映したまま、王はただ、黙って座っていた。
終章:テレビを殺したのは誰か
2026年1月20日 火曜日
あの嵐のような最終ヒアリングから、三ヶ月以上の時が流れた。剣崎の法律事務所には、すっかり日常の穏やかな時間が戻っていた。
湾岸テレビの最終報告書は、剣崎の手によって一切の妥協なく書き上げられ、公表された。メディアは「巨大企業を断罪した画期的な報告書」と称賛し、テレビのコメンテーターたちは、手のひらを返したように旧経営陣の責任を糾弾した。世論という名の巨大な波が、一つの結論へと収斂していく様を、剣崎は冷めた目で見ていた。
そして今日、その波は最後の結果を打ち上げた。 昼のニュースが、アナウンサーの冷静な声で告げていた。
『湾岸テレビは本日、臨時取締役会を開き、先の不祥事の経営責任を明確にするため、湊浩一郎前社長、及び海道猛元相談役ら旧経営陣に対し、総額五十億円の損害賠償請求訴訟を提起することを正式に決定しました』
五十億円。 剣崎が暴き出した聖域の罪に、社会がつけた値段だった。それは海道が築き上げた王国の、墓標の値段でもあった。
その日の夕方、一本のメッセージが剣崎のスマートフォンに届いた。送り主は、三上隼人だった。
『先生、お久しぶりです。報道で見ました。僕たちの戦いは、終わったんですね。僕は、今月いっぱいで会社を辞めることにしました。先生には、感謝しかありません。本当に、ありがとうございました』
短い文面だったが、そこには彼の安堵と、一抹の寂しさが滲んでいた。剣崎は、『君の未来に幸あることを祈る』とだけ返信した。彼が会社を去るという決断を、剣崎は尊重すべきだと感じていた。彼が愛した会社は、もはやどこにもないのだから。
その夜、剣崎は自宅のリビングで、一人ウイスキーグラスを傾けていた。暖炉の炎が、静かに揺れている。ふと、彼はリモコンを手に取り、習慣でテレビの電源を入れた。
画面に映し出されたのは、湾岸テレビのゴールデンタイムのバラエティ番組だった。派手なテロップが画面を埋め尽くし、耳障りな効果音が鳴り響く。ひな壇に並んだタレントたちが、内輪のネタで馬鹿笑いをしている。それは、海道の時代に一世を風靡した、そして今も何も変わらない、扇情的で中身のない虚構の塊だった。
番組の隅に設けられたワイプ画面に、新社長の顔が映った。海道の側近として立ち回り、今回の騒動でうまく責任を回避した、あの専務だった。彼は満面の笑みで語っている。
「ええ、視聴者の皆様の信頼を取り戻すべく、社員一同、全力で……」
剣崎は、グラスに残っていたウイスキーを一気に飲み干した。 旧経営陣は去った。責任は追及され、巨額の賠償が命じられた。だが、画面の中で繰り広げられている光景は、以前と何一つ変わっていない。視聴率という魔物に支配され、安易なコンテンツに魂を売り渡す、組織の醜い体質そのものだ。
自分は、一体何と戦っていたのだろう。 海道猛という一人の老人か。それとも、彼という怪物を作り出した、テレビというシステムそのものか。
剣崎はリモコンを手に取り、テレビの電源を静かに切った。 部屋に、暖炉の薪がぱちりと爆ぜる音だけが響く。
画面が消えた暗闇の向こう側で、本当の敵が、今も嘲笑っているような気がした。



































この記事へのコメントはありません。