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『硝子の絞首台』

その紐は、少女を殺すために『設計』された。——15年前の嘘を守るために。

あらすじ

国内シェアトップを誇る建材メーカー「東都サッシ」の主力製品であるロール網戸。その操作用ループ紐で、6歳の少女が首を吊って死亡する事故が発生した。 会社側は「安全クリップを使用しなかった保護者の過失」と主張し、冷徹な法廷闘争を展開する。その先頭に立つのは、経営企画部のエース・高島礼二。彼は元戦略コンサルタントとしての論理を武器に、企業の責任を回避し、事実上の勝訴を勝ち取る。

しかし、勝利の直後、高島は社内の技術データに奇妙な矛盾を見つける。「なぜ5年前、わざわざコストをかけて、安全な一本紐を危険なループ紐に変更したのか?」。 その背後には、15年前に隠蔽された「防火設備認定の不正(ガラスの強度偽装)」があった。不正の発覚を防ぐための辻褄合わせが、巡り巡って少女の首を絞める「必然の凶器」を生み出していたのだ。

法では裁けない巨大企業の「事なかれ主義」に対し、高島は広報担当者としての立場を捨て、一人の人間として、そして冷徹な「市場の処刑人」として、最後の戦いを挑む。

登場人物紹介

  • 高島 礼二(42):主人公
    • 東都サッシ 経営企画部 部長代理 兼 危機管理広報チームリーダー。
    • 外資系コンサル出身。「感情で企業を殺してはならない」という信念を持つ合理主義者だが、家庭では娘との距離感に悩む父親でもある。今回の事故被害者と自身の娘を重ね合わせ、論理と良心の乖離に苦悩する。
  • 郷田 剛(58):最大の敵
    • 専務取締役(技術・品質保証統括)。
    • 「会社存続こそが正義」と信じる、組織の論理の化身。「予見可能性」や「実質的安全性」という言葉を巧みに操り、不正を「解釈の最適化」と言い切る怪物。
  • 雨宮 沙織(35):被害者の母
    • 「自分が目を離したせいだ」と自責の念に押し潰されそうになりながらも、メーカーのあまりに冷淡な対応に「人間としての欠落」を感じ、真実を求める。
  • 老川 茂(68):キーマン
    • 元・東都サッシ 品質管理課長(定年退職)。
    • 15年前の不正に手を染め、5年前の隠蔽工作(紐の変更)を現場で指揮した男。罪悪感から、不正の証拠となる「裏設計図」を隠し持っている。

序章 冷たい勝利

無数のフラッシュが、白い弾丸のように網膜を灼いた。 焚かれた光の熱量に反して、高島礼二の思考は氷点下まで冷え切っていた。目の前に並ぶマイクの放列。彼を睨みつける記者の瞳。その背後に透けて見える、数万のSNSによる罵詈雑言。 すべて想定内だ。

「――つまり、御社はあくまで、製品に欠陥はなかったという主張を崩さないわけですか?」

全国紙の社会部記者が、苛立ちを隠さずに問うた。マイクを握る手が震えているのは、怒りからか、それとも義憤に酔っているからか。 高島は手元の資料に視線を落とすことなく、マイクに向かった。声のトーンは、フラットに。感情というノイズを極限まで削ぎ落とす。それが、この場における彼の「機能」だった。

「司法の判断が示された通りです。当該製品『ロール網戸・エアリス』には、誤使用防止のための安全クリップが同梱されており、取扱説明書には赤字で『幼児の手の届かない位置に結束すること』と明記されておりました」 「六歳の子供が亡くなっているんですよ! 親が目を離した一瞬の隙に、あの紐が首に絡まった。クリップなんて、忙しい生活の中では形骸化する。メーカーとして、そこまでの想像力はなかったのかと聞いているんです!」

記者の声が荒らげられると、会場の空気が一気に張り詰めた。隣に座る専務の郷田が、微かに身じろぎするのが気配でわかる。郷田が口を開けば、余計な感情論で炎上する。 高島は間髪入れずに言葉を継いだ。

「想像力の欠如ではありません。責任分界点の問題です」

会場がざわめく。高島は淡々と続けた。

「あらゆる工業製品は、正しく使用されなければ凶器になり得ます。包丁然り、自動車然りです。メーカーの義務は、リスクをゼロにすることではなく、リスクを制御するための手段と情報を提供することにあります。我々はその義務を果たしました。その『手段』を行使しなかった不作為の責任まで我々が負うことになれば、ものづくりという産業そのものが成立しなくなります」

完璧なロジックだった。 PL法(製造物責任法)の判例を徹底的に分析し、弁護団と練り上げた「正論の壁」。記者は何か言い返そうと口をパクパクさせたが、感情的な反発以上の言葉が出てこない。論理の迷路に閉じ込められたのだ。

会見は一時間で終了した。 東都サッシ本社、大会議室の重い扉が閉まる。その瞬間、張り詰めていた空気が弛緩した。

「見事だったよ、高島くん」

郷田専務が、脂ぎった額の汗をハンカチで拭いながら、にんまりと笑った。 「君の言う通りだ。『可哀想だ』という感情と、『法的責任』は別問題だ。そこをあやふやにしていたら、会社なんてすぐ潰れる」 「……株価への影響は限定的でしょう。夜のニュースも、判決内容を淡々と報じるはずです」 「ああ、助かった。これで工場のラインを止めずに済む。君を経営企画に引き抜いて正解だったよ。やっぱり、外の空気を吸ってきた人間は切れ味が違うな」

郷田は高島の肩をバシバシと叩き、上機嫌で役員室へと去っていった。 高島は一人、廊下に残された。 勝ったのだ。会社を守り、社員を守り、そして自身のキャリアを守った。あの記者の言う「想像力」などという曖昧な言葉に屈せず、数字と論理で城を守り抜いた。

それなのに、なぜだろう。 ワイシャツの第一ボタンが、妙に首を締め付けているような息苦しさを感じるのは。

深夜、帰宅すると家の中は静まり返っていた。 リビングの照明を落としたまま、高島はキッチンの換気扇の下でタバコに火をつけた。紫煙がゆっくりと吸い込まれていく。 ふと、視線を感じて振り向く。 リビングのドアの隙間から、パジャマ姿の娘がこちらを見ていた。

「……琴(こと)? どうした、起きてたのか」

娘は何も言わずに目を擦り、とてとてと歩いてくると、無言で高島の足にしがみついた。体温がスーツの生地越しに伝わってくる。 六歳。 今日、高島が「親の過失だ」と切り捨てたあの被害者の少女と、同じ年齢だ。

高島はタバコを揉み消し、しゃがみ込んで娘の頭を撫でようとした。その時、窓辺に視線が走った。 自宅のリビングにある、掃き出し窓。そこには、自社製品ではないが、他社製のロールスクリーンが設置されている。 その操作用の紐が、長く、床近くまで垂れ下がっていた。 輪っか状になった、ループコード。

月明かりに照らされたその紐が、一瞬、娘の細い首に巻き付いている幻影が見えた。

「っ……!」

高島は短く息を呑み、反射的に娘を抱き寄せた。心臓が早鐘を打つ。 ——責任分界点。 昼間、自分が口にした無機質な単語が、呪いのように頭の中でリフレインする。 俺は、何を言っていたんだ? あの紐は、ただの紐じゃない。あれは、子供の背丈に合わせて、ちょうど首が入る高さにぶら下がっている「輪」だ。 それを「親が管理しろ」と言うのは正しい。論理的には正しい。 だが、もし今日、妻が熱を出して寝込んでいて、琴が一人で遊んでいて、椅子の上でバランスを崩して、あの輪の中に——。

腕の中の娘の重み。温かさ。脈打つ首筋の脆さ。 それが、資料の中の「被害者A」という記号と重なり合った瞬間、高島の強固な論理の城壁に、ピシリと亀裂が入った。

まだ彼は知らない。 その亀裂の奥底に、十五年前から隠され続けてきた、黒く巨大な「悪意」が眠っていることを。 そして、その悪意を作ったのが、他ならぬ彼が守ろうとした会社自身であることを。

第1章 ブラックボックス

裁判での「完全勝利」から三週間が経過していた。 世間の関心は移ろいやすく、SNSでの東都サッシへのバッシングは潮が引くように消え失せていた。本社ビルのロビーを行き交う社員たちの顔にも、日常の安堵が戻っている。 だが、高島礼二のデスクの上には、まだ燻り続ける火種が残されていた。

「控訴審の準備書面、相手側の弁護士から妙な質問が来てるんです」

電話の主は法務部の担当者だった。受話器越しの声は気怠げで、単なる事務的な確認作業といったトーンだ。 「妙な質問?」 「ええ。『事故を起こした製品の製造ロットによって、操作紐の仕様が異なるのはなぜか』という一点です。原告側は、古いロットでは一本紐だったのに、なぜ新しいロットではループ紐に変更されたのか、その経緯を開示しろと言ってきています」 高島は眉間の皺を揉んだ。 「そんなことは第一審でも説明したはずだ。操作性の向上、ユニバーサルデザインの観点からの変更だと」 「そうなんですがね。向こうは『安全な一本紐を、わざわざ危険なループ紐に変えた合理的理由がない』と食い下がってきている。念のため、当時の仕様変更に関する稟議書を確認しておいてもらえますか? 次回の反論に使いますので」

電話を切った高島は、深いため息をついた。 終わったはずの案件が、ゾンビのように足首を掴んでくる。 彼はPCに向かい、社内の技術情報管理システム「P-NET」にログインした。検索窓に当該製品の型番を打ち込む。 画面に羅列される膨大な図面データと変更履歴。 高島はマウスを操作し、事故発生の五年前、二〇一九年のタイムスタンプを探り当てた。

『設計変更通知書(ECN)No.2019-084』 件名:ロール網戸・操作コード仕様変更の件 起案部署:技術開発本部 承認者:郷田剛

画面上のデジタル文書には、確かにそう記録されていた。 変更内容は「シングルコード(一本紐)」から「ループコード(輪っか紐)」への切り替え。 変更理由は「操作荷重の軽減および操作性の向上」。 ここまでは想定通りだ。法廷で主張したロジックと矛盾はない。 だが、高島の指が止まったのは、その下に小さく記された「コスト試算」の項目を見た瞬間だった。

部品単価差額:+150円/台

高島の目が、コンサルタント特有の冷徹な光を帯びた。 プラス百五十円。 製造業において、量産品の原価が百円上がるというのは一大事だ。月産一万台として、月に百五十万円、年間で一千八百万円の利益が消える計算になる。 通常、メーカーが原価アップを容認するのは、「売価を上げて回収できる場合」か「致命的なクレームを解消する場合」の二つに一つだ。 高島は、二〇一九年以前の「お客様相談室」のログを別ウィンドウで検索した。

『操作が重い』『紐が引きにくい』 検索結果:0件。

ヒットしない。 変更前の「一本紐」に対するクレームは皆無だった。つまり、顧客は現状の製品に満足していたのだ。 それなのに、なぜ? なぜ東都サッシは、顧客から求められてもいない「改善」のために、年間二千万円近い利益をドブに捨て、おまけに「子供の首が吊れるリスク」まで抱え込んだのか? ROI(投資対効果)が完全に破綻している。 合理性の欠如。それはビジネスにおいて、嘘の臭いがする場所だ。

「……何かが、おかしい」

高島はモニターに顔を近づけ、添付されている「技術検証データ」のPDFを開いた。 仕様変更を正当化するためには、技術的な裏付けデータが必須だ。「変更前は操作荷重が重すぎたが、変更後はこれだけ軽くなった」という数値の比較グラフがあるはずだ。 ファイルが開く。 しかし、そこに表示されたのは、奇妙なほどスカスカな報告書だった。

『検証結果:良好』 『操作性:問題なし』

具体的な数値データがない。 比較グラフもない。 ただ、定性的な「OK」というハンコが押されているだけだ。 そして、本来なら詳細なデータが記載されるはずの備考欄が、不自然なほど大きく空白になっている。いや、よく見ると、デジタル上で黒く塗りつぶされたような痕跡さえ感じられた。

ブラックボックス。 この仕様変更は、合理的な経営判断ではない。 何か別の「動かせない事情」があり、結論ありきで強引に通されたものだ。 百五十円のコスト増を飲んででも、リスクのあるループ紐に変えなければならない「何か」があった。

「操作荷重の軽減……」

高島は呟き、思考を加速させる。 ループ紐(動滑車)を使うメリットは、重いものを半分の力で持ち上げられることだ。 逆に言えば、持ち上げる対象が「軽く」ていいなら、わざわざループ紐にする必要はない。 もし、当時の技術部が「ループ紐に変えざるを得なかった」のだとしたら。 それは「網戸そのものが、想定以上に重くなってしまった」からではないか?

だが、カタログスペック上の重量は、変更前後で変わっていない。 書類上は、同じ重さのままだ。 書類上は。

高島の背筋を、冷たい汗が伝った。 彼は今、パンドラの箱の蓋に手を掛けているのかもしれない。 会社の守護神として振る舞った自分が、会社の土台を腐らせているシロアリを見つけてしまったのかもしれない。

彼は受話器を取り、内線番号を押した。 相手は、かつて工場監査の際に面識があった、定年退職間近の資材課の男ではない。 もっと深く、当時の「現場」の空気を知っている人間が必要だ。 社員名簿を検索する。 当時の設計変更通知書に、担当者として名前が記載されていた男。 『老川茂』。 現在のステータスは――「退職」。

高島は受話器を置き、ジャケットを掴んで立ち上がった。 法務部には「調査中」とだけ伝えればいい。 真実は、社内のデータベースにはない。 消された文字の向こう側にある。

第2章 因果の鎖(ミッシングリンク)

神奈川県川崎市、臨海部の工業地帯に近い古い団地。 錆びついた鉄階段を四階まで上り、高島は息を整えてからインターホンを押した。チャイムの音は安っぽく、ドアの向こうの静寂に吸い込まれていく。 しばらくして、ドアガードチェーンが掛かったまま、扉が数センチだけ開いた。 隙間から、落ち窪んだ眼窩と、白髪混じりの無精髭が見える。

「……どなたですか」 「東都サッシ、経営企画部の高島です。老川茂さんですね」

男の目が、警戒心から恐怖へと揺らいだのが分かった。 老川は、五年前まで技術開発部に在籍していた。今は定年退職し、独り身で暮らしていると人事データにはあった。だが、目の前の男は六十八歳という年齢以上に老け込み、病的なほど痩せ細っていた。

「会社の人間に、話すことなんて何もないよ」 「五年前の、ロール網戸の仕様変更について伺いたいんです。なぜ、一本紐をループ紐に変えたのか。その理由だけでいい」

老川の手が震え、ドアを閉めようとする。高島は革靴の爪先をドアの隙間にねじ込んだ。強引な手口だが、ここで逃がすわけにはいかない。

「老川さん。先日、女の子が亡くなった事故はご存知ですね。私はその対策責任者です。会社は『親の責任』として処理しました。……ですが、私は納得していない」 高島は、ドア越しに老川の目を見据えた。 「百五十円です。会社は一台あたり百五十円のコスト増を飲んでまで、あの紐を変えた。あなたが稟議を通したんですね? 合理的な理由があるなら教えてください。でなければ、私はこの百五十円の意味を、別の場所で探らなければならなくなる」

沈黙が流れた。 遠くで工場のサイレンが鳴っている。 やがて、老川は観念したようにチェーンを外し、ドアを開け放った。

「……入んな。散らかってるが」

六畳一間の室内は、湿布薬と古い紙の匂いがした。 万年床の脇に置かれたちゃぶ台には、飲みかけの急須と、大量の薬袋が散乱している。 老川は高島に座布団も勧めず、窓の方を向いて座り込んだ。その背中は、何かに怯えるように丸まっている。

「俺は、もう長くねえんだ。肺をやられててな」 老川は自嘲気味に笑った。「罰が当たったんだと思ってるよ」 「罰?」 「あの女の子が死んだニュースを見た時、俺は思ったよ。ああ、ついに殺したか、ってな」

高島は息を呑んだ。「ついに」という言葉の重み。それは、事故が予見されていたことを意味する。

「教えてください。なぜ、ループ紐に変えたんですか」 「……変えたかったわけじゃねえ。変えるしかなかったんだ」

老川は震える手でタバコを弄ぼうとして、諦めたように放り出した。

「網戸がな、重すぎたんだよ」 「重すぎた? 仕様書では重量は変わっていません」 「書類上はな。だが、実物は違う」

老川は虚ろな目で天井を見上げた。そこには、高島も知らない十五年前の亡霊が映っているようだった。

「話は十五年前に遡る。当時、うちは防火設備の認定試験で苦戦していた。ガラスを厚くすれば燃えないが、重くなる。重くなるとサッシの枠が歪むし、コストも跳ね上がる。営業からは『もっと安く、軽く作れ』と突き上げられてた」 「まさか……」 「ああ、そのまさかだ。俺たちは試験用の窓だけ、軽いガラスに難燃剤を塗って提出した。いわゆる『替え玉受験』だ。試験は通った。俺たちは英雄扱いされたよ。軽くて安い、夢の防火サッシだってな」

高島は手帳を握りしめた。防火偽装。業界を揺るがす犯罪だ。だが、それがなぜ今の事故に繋がる?

「だが、嘘はいつかバレる。五年前に他社の偽装が発覚して、国交省の監査が入るって噂が流れた。上層部はパニックになったよ。市場に出回ってる製品を抜き打ち検査されたら、一発でアウトだ」 「それで?」 「郷田専務が指示したんだ。『サイレント修正しろ』とな。これから出荷する製品だけでも、こっそり『正規の重いガラス』に戻せ、と。そうすれば、もし検査されても『バラつきの範囲内』と言い逃れできる」

高島の脳内で、パズルのピースが音を立てて嵌まっていく。 不正を隠すために、製品を「本物(重い仕様)」に戻した。 だが、そこには致命的な物理法則の壁があったはずだ。

「……でも、ガラスを重くしたら、今までの『一本紐』じゃ持ち上がりませんよね?」 「その通りだ」老川の声が悲痛に歪んだ。「子供や年寄りの力じゃ、ビクともしない重さになっちまった。これじゃクレームの嵐だ。『仕様変更したのか?』と勘ぐられる。……だから、俺たちは『滑車』を使うしかなかった」

滑車。 動滑車の原理を使えば、半分の力で倍の重さを持ち上げられる。 だが、そのためには紐を天井の滑車に通し、手元に戻してくる必要がある。 必然的に、紐は「輪(ループ)」になる。

「まさか……」高島は絶句した。「ループ紐にしたのは、操作性を良くするためじゃない。不正隠蔽で重くなった網戸を、無理やり動かすためだったのか……?」 「ああ。技術部の連中は反対したよ。『ループ紐は子供の首が吊れるから危険だ』ってな。でも、郷田専務は言ったんだ。『クリップを付けとけばいい。PL法の免責事項はクリアできる。それより、不正がバレて会社が潰れる方が怖いだろう』って」

老川は咳き込み、目尻に浮かんだ涙を拭った。 「俺たちは、会社の嘘を守るために、わざわざ子供が死ぬかもしれない紐を選んだんだ。……それが、あの百五十円の正体だよ」

高島は言葉を失った。 怒りを通り越し、吐き気がした。 不運な事故ではなかった。 怠慢ですらなかった。 それは、企業の保身というどす黒い目的のために、冷徹な計算の上で設置された「処刑台」だったのだ。

少女の首を絞めたのは、紐ではない。 十五年前に始まり、五年前につじつまを合わせ、そして先日、高島自身が記者会見で塗り固めた「嘘の連鎖」そのものだった。

「……証拠は」高島は搾り出すように言った。「その指示があったことを証明するものは、残っていますか」

老川は無言で立ち上がり、押し入れの奥から古びた茶封筒を取り出した。 「墓場まで持っていくはずだったがな。……あんた、あの記者会見で『責任分界点』って言っただろう」 老川は封筒を高島に突きつけた。 「俺たちの責任は、どこで切れるんだろうな。会社を辞めれば切れるのか? ……俺には、あの女の子の泣き声が、まだ聞こえるんだよ」

高島は封筒を受け取った。 中には、黒塗りされていないオリジナルの稟議書と、郷田のハンコが押された「特例措置指示書」のコピーが入っていた。 その紙の薄さが、高島には鉛のように重く感じられた。

「……必ず、償わせます」

誰に対する言葉だったのか、自分でも分からなかった。 高島は団地を後にした。 夕闇が迫る空の下、巨大な東都サッシの本社ビルが、墓標のようにそびえ立っていた。 戦う相手は、あそこにいる。 法も、倫理も通用しない怪物が。

第3章 怪物の城塞

翌朝、高島は役員フロアの重厚な絨毯を踏みしめていた。 手には、老川から託された茶封筒。 心臓の鼓動が早いが、思考は冷徹だ。これは交渉ではない。勧告だ。 専務室のドアをノックする。 「入れ」 郷田の野太い声がした。

部屋に入ると、郷田は窓の外の景色を眺めていた。眼下に広がる首都高の渋滞と、その先にひしめく高層ビル群。彼が守ろうとしている「産業」の景色だ。 「どうした、高島くん。朝から怖い顔をして」 郷田は革張りの回転椅子を回し、こちらに向き直った。 高島は無言で茶封筒をデスクの上に置いた。中から、黄ばんだ稟議書と、郷田の私印が押された指示書のコピーが滑り出る。 郷田の視線が書類に落ちる。眉一つ動かさない。 「……老川か」 「否定なさらないんですね」 高島はデスクに両手をつき、身を乗り出した。 「一五年前の防火試験不正。そして五年前、それを隠蔽するために行われた、強引な仕様変更。あの子の首を絞めたループ紐は、利便性のためじゃない。御社が……いや、我々がついた『嘘』の重さを支えるために、必然的に設置されたものだった」 郷田はゆっくりと書類を手に取り、パラパラとめくった。まるで懐かしいアルバムでも見るような手つきだ。 「それで?」 「それで、ではありません! これは未必の故意による殺人です。即刻、全製品のリコールと、事実の公表を求めます。それが、メーカーとして取れる最後の責任です」

郷田は鼻で笑った。 「殺人? 言葉が過ぎるな、高島くん。我々は誰も殺していない」 「この期に及んで……!」 「いいか、冷静になれ。君の得意なロジックで考えろ」 郷田は書類をデスクに放り投げた。 「確かに、ガラスは重くした。紐も変えた。だが、その紐には『安全クリップ』を付けた。クリップを使えば、首は吊れない。違うか?」 「それは詭弁だ! そもそも紐を変える必要がなかったんだ。不正さえなければ!」 「動機が何であれ、製品としての『安全性』は担保されている。クリップさえ使えばな。事故の原因は、あくまで『ユーザーがクリップを使わなかったこと』だ。我々がガラスを重くしたことと、子供が首を突っ込んだことの間に、法的な因果関係はない」

高島は言葉に詰まった。 恐ろしいことに、法的には郷田の言う通りなのだ。 PL法において問われるのは「製品の欠陥」であり、「設計変更の動機(不純さ)」ではない。 郷田は立ち上がり、高島の目の前まで歩み寄った。圧倒的な威圧感。 「それにな、高島くん。君は『不正』と言うが、あれは『解釈の最適化』だ」 「最適化……?」 「国の定める防火基準は、四〇年前の古臭いルールのままだ。二〇分間、火炎に晒す? 実際の火災でそんな熱量が加わることは稀だ。我々の製品は、実質的な安全性は十分に満たしている。国の硬直した基準に合わせていたら、日本の住宅価格は二倍になるぞ。我々は、国民のために安くて良いものを提供するために、あえて泥を被って調整したんだ」

狂っている。 だが、本気だ。この男は、自分を悪党だとは思っていない。国という理不尽なシステムから、産業と社員を守る英雄だと思っている。 それが「事なかれ主義」の正体。 思考停止ではなく、独自の「俺様ルール」による過剰な自己正当化。

「リコールなどすれば、会社は潰れる。関連企業含めて五万人が路頭に迷う。たった一人の子供の事故――それも親の不注意による事故のために、五万人の人生を犠牲にするのが、君の言う正義か?」 郷田の問いかけは、企業の論理としては正解だった。 高島は、奥歯が砕けるほど噛み締めた。 「……五万人を人質に取れば、何をやっても許されると?」 「許されるさ。社会とはそういうものだ」 郷田は高島の肩に手を置いた。 「この書類は預かっておく。君も賢い人間だ。自分のキャリアと、娘さんの将来を考えろ。……下がっていいぞ」

高島は茶封筒をひったくり、部屋を出た。 これ以上、ここにいては自分が壊れる。 彼はその足で、顧問弁護士の事務所ではなく、大学時代の友人が勤める検察庁へと向かった。 社内が腐っているなら、法に裁いてもらうしかない。

だが、数時間後。 高島は日比谷公園のベンチで、呆然と空を見上げていた。 検事である友人の言葉が、冷たい雨のように心に降り注ぐ。

『気持ちは分かるが、立件は無理だ』 『なぜだ。証拠はあるんだぞ』 『因果関係の立証が難しすぎる。ガラスを重くしたことと、死亡事故の直接的なリンクを、刑事裁判で証明するのは不可能に近い。それに、業務上過失致死傷罪は個人の責任を問うものだ。誰を逮捕する? 郷田か? 彼は「現場が勝手にやった」と言うだろう。稟議書にハンコがあっても、「技術的な詳細は分からなかった」と言い逃れされればそれまでだ』 『じゃあ、会社は無傷で済むのか?』 『せいぜい、建築基準法違反で行政指導。認定取り消しと、是正命令でおしまいだ。罰金なんて微々たるものだよ。……悔しいが、今の日本の法律じゃ、その「城塞」は崩せない』

高島はベンチに拳を叩きつけた。 痛みで手が痺れる。 無力だ。 一五年前の不正も、五年前の隠蔽も、そして今の開き直りも。 すべてが、分厚いシステムと「事なかれ主義」の壁に守られている。 郷田は知っているのだ。自分が法に守られていることを。だからあんなに傲慢でいられる。

「……ふざけるな」

高島はスマホを取り出し、娘の写真を待ち受け画面で見た。 あの日、娘の首に巻き付いているように見えた幻影。 あれは幻ではない。 このまま郷田たちを野放しにすれば、次の犠牲者が必ず出る。それが自分の娘でない保証など、どこにもない。

法が裁かないなら。 国が裁かないなら。

高島の瞳に、かつて「企業再生請負人」と呼ばれた頃の、冷たく鋭い光が戻った。 相手が最も恐れるものは何か。 警察ではない。裁判所でもない。 それは「カネ」だ。 市場からの評価。株価。資金調達。 彼らが信仰する「経済合理性」という神そのものを使って、神殿ごと焼き払うしかない。

「郷田専務。あなたは一つだけ、見落としている」

高島は立ち上がった。 一週間後、東京国際フォーラムで、海外の機関投資家を集めた大規模なIRカンファレンスが開かれる。 郷田が、次期社長の座を確実にするための晴れ舞台。 そこで語られるはずの「輝かしい未来」のシナリオを、地獄への招待状に書き換えてやる。

高島は歩き出した。 広報部長としての仮面を捨て、一人の「復讐者」として。 戦いの場所は、法廷から市場(マーケット)へと移った。

第4章 反撃のシナリオ

高島は、誰もいない深夜のオフィスで、青白く発光するモニターと対峙していた。 画面に展開されているのは、広報用のプレゼン資料ではない。複雑な関数が組まれた、巨大なExcelの財務モデリングシートだ。 彼の指がキーボードを叩くたび、セルの中の数字が桁を増やしていく。

「……甘いな。こんなものじゃない」

独り言が漏れる。 高島は、コンサルタント時代に培ったスキルを総動員し、東都サッシがひた隠しにしている「負債」の総額を算出していた。 これまで郷田たちが隠蔽してきたのは、「過去の不祥事」ではない。「未来の倒産リスク」だ。 高島は三つの変数を入力した。

変数A:リコール対象となる製品数。 一五年前から製造された防火サッシ、および五年前から出荷された欠陥網戸。その数、累計約三百万セット。

変数B:改修コスト。 単なる部品交換では済まない。壁を壊してサッシ枠ごと取り替える工事が必要になる。一箇所あたり最低十万円。総額三千億円。

変数C:賠償損害。 これが致命的だ。現在建設中のタワーマンション、オフィスビル。それらの工期が遅延することによる違約金。デベロッパーからの損害賠償請求。

Enterキーを叩く。 弾き出された推計損害総額は、五千四百億円。 東都サッシの連結純資産は三千二百億円だ。 つまり、この事実が公表された瞬間、東都サッシは債務超過に陥る。 会社は「生きている」のではない。単に、自分が死んでいることに気づいていないゾンビなのだ。

「……これで、殺せる」

高島は冷たいコーヒーを飲み干した。 法は、経営判断のミスを簡単には裁かない。だが、市場は違う。 投資家たちは「悪」を許すことはあっても、「損」は絶対に許さない。 この「債務超過シミュレーション」を見せつけられれば、彼らはパニックを起こして株を売り浴びせる。株価は暴落し、銀行団は融資を引き上げる。 郷田が守ろうとした城は、兵糧攻めで内側から自壊する。

高島はExcelのチャートをコピーし、明日のIRカンファレンスで使用するPowerPointファイルの、とあるスライドに貼り付けた。 表紙のタイトルはそのまま。 『中期経営計画2025 ~持続可能な成長に向けて~』 だが、その中身は、企業の死刑宣告書だ。

ファイルをUSBメモリに保存し、ポケットに入れる。 その時、スマホが震えた。妻からのメッセージだ。 『琴が、パパに会いたいって泣いてたよ。明日は早く帰れる?』 高島は画面を見つめ、短く返信した。 『ああ。明日は、早く帰る。これからはずっと、そばにいるよ』

明日のプレゼンを行えば、自分は懲戒解雇どころか、背任行為で訴えられるかもしれない。この業界で生きていくことは二度とできないだろう。 だが、不思議と恐怖はなかった。 娘の首に幻の紐が巻き付く悪夢を見るよりは、職を失う方が遥かにマシだ。 高島はジャケットを羽織り、静まり返ったオフィスを見渡した。 ここに来て三年。死に物狂いで働いた場所。 だが、未練はない。 彼は電気を消し、闇に沈む「城塞」を後にした。

翌日。東京国際フォーラム、ホールB。 五百席ある会場は満席だった。 海外の機関投資家、アナリスト、経済メディアの記者たち。通訳レシーバーを耳に当てた彼らの視線は、ステージ中央に立つ郷田専務に注がれている。

「……以上の通り、我が社のガバナンス体制は盤石であり、先の訴訟による影響も軽微であります。来期は過去最高益を見込んでおり……」

郷田の声は自信に満ちていた。 スポットライトを浴びる彼は、まさに成功者の顔をしている。彼にとって、少女の死も、隠蔽工作も、すべては決算書の数字を整えるための「雑音」に過ぎないのだ。 舞台袖で待機する高島は、掌の汗を拭った。 心臓が早鐘を打つ。 ポケットの中のUSBメモリが熱を帯びているように感じる。

「では、具体的な成長戦略について、経営企画部の高島より説明させます」

郷田がにこやかに手を差し伸べた。 会場から拍手が起こる。 高島は深く息を吸い込み、ステージへと歩み出した。 眩いライト。無数の視線。 演台に立ち、マイクの角度を調整する。 郷田とすれ違いざま、小声で囁かれた。 「頼むぞ、エース。これで株価は安泰だ」

高島は無言で頷き、PCにUSBメモリを差し込んだ。 スクリーンに、見慣れたコーポレートロゴと、美しい青空をバックにした表紙スライドが映し出される。 会場の空気が弛緩する。退屈な数字の話が始まると思ったのだろう。

「……皆様、本日はお集まりいただき、ありがとうございます」

高島の声がスピーカーを通して響き渡る。 彼は会場を見渡した。最前列には、大手ファンドのマネージャーたちが座っている。彼らの指先一つで、巨額のマネーが動く。 高島はクリッカー(スライド送り)を握りしめた。

「当初、私はここで、我が社の輝かしい未来について語る予定でした。しかし、その前に」

高島は言葉を切り、郷田の方を一瞥した。郷田が怪訝そうな顔をする。 高島は客席に向き直り、はっきりと言った。

「皆様に、どうしてもお見せしなければならない『負債』があります。バランスシートには載っていない、しかし、確実にこの会社を殺すことになる負債です」

会場がざわめく。 高島は親指に力を込め、クリッカーのボタンを押した。 スライドが切り替わる。 そこに映し出されたのは、美しい成長グラフではない。 真っ赤な帯グラフが右肩下がりに地下深くへと突き刺さる、衝撃的な「倒産シミュレーション」だった。

タイトルは――『隠蔽コストによる債務超過の予測』。

「なっ……!?」 郷田が椅子から飛び上がる音が聞こえた。 だが、もう遅い。 賽は投げられた。 高島は、マイクに向かって吠えるように語り始めた。

「ご覧ください。これが、我々が十五年間隠し続け、そして今も隠している『嘘』の値段です!」

終章 断罪のプレゼンテーション

「止めろ! マイクを切れ! 電源を落とせ!」 郷田の怒号がホールに響き渡る。舞台袖からスタッフが慌てて走り出てくるのが見えた。 だが、高島は動じない。あと三分。このスライドを説明し切るまでの三分間が、東都サッシという巨大企業の寿命だ。

「この赤色のグラフは、十五年前の『防火偽装』によって出荷された不正製品のリコール費用。そして青色は、五年前の『隠蔽工作』によって市場にばら撒かれた、欠陥網戸の改修費用です」

高島は早口だが、明瞭な滑舌で畳み掛ける。 会場の投資家たちが、手元のタブレット端末を操作し始める。ざわめきが怒号へと変わっていく。

「我々は五年前、不正の発覚を恐れ、こっそりと製品仕様を『重いガラス』に戻しました。その副作用として、操作紐を危険な『ループコード』に変更せざるを得なかった。一台あたり百五十円のコスト増です。なぜ、そんな不合理な決定をしたのか?」 高島は客席の最前列、蒼白な顔で立ち尽くす郷田を指差した。 「三百億円のリコール費用を隠すためです。三百億円をケチるために、我々は百五十円の紐を買い、その紐で六歳の少女の首を絞めたのです!」

会場から悲鳴に近い声が上がった。 それは少女の死を悼む声ではない。「自分たちの投資した金が、不正隠蔽の道具に使われていた」ことへの激怒だ。 スクリーン上の株価チャートが、リアルタイムで急落を始めた。アルゴリズム取引が「売り」に反応し、ナイアガラの滝のように数値が崩れ落ちていく。

「電源を切れと言ってるんだ!」 郷田が演台に駆け上がり、高島に掴みかかろうとする。 高島は身をかわし、最後のスライドを表示させた。 そこに映し出されたのは、法的責任論ではない。 『提言:即時の全経営陣退陣と、第三者委員会による全データ開示』 その下に、赤字で大きく書かれている。 『さもなくば、上場廃止は免れない』

「郷田専務」 高島はマイクを外し、至近距離で郷田を見下ろした。 「法律はあなたを裁けなかった。国もあなたを守ろうとした。だが、マーケットは違います。彼らは『嘘つき』と『損』を最も嫌う。……聞こえますか、あの音が」

会場中から響く、携帯電話の着信音と、怒号の嵐。 「説明しろ!」「騙したのか!」「売りだ、全部売れ!」 それは、資本主義という名の処刑執行のファンファーレだった。

「き、貴様……会社を、潰す気か……!」 郷田が胸を抑えて膝をつく。 高島は冷たく言い放った。 「潰れるのではありません。本来あるべき姿に戻るだけです。膿を出し切り、焼け野原から出直すしか、この会社が生き残る道はない」

警備員が駆けつけ、高島を取り押さえた。 高島は抵抗しなかった。 連行されながら、彼は振り返る。 ステージの中央で、郷田が投資家たちに囲まれ、吊し上げられている。その姿は、自らが張り巡らせた欺瞞の糸に絡め取られ、身動きが取れなくなった哀れな獲物のようだった。

硝子の城が、音を立てて砕け散った。

一ヶ月後。

季節は初冬へと移ろっていた。 高島は、黒いスーツに身を包み、神奈川県内のとある住宅街を歩いていた。 あの日、東都サッシの株価はストップ安となり、時価総額の半分が吹き飛んだ。 銀行団は融資継続の条件として、郷田を含む全役員の解任と、民事再生法の適用申請を突きつけた。 会社は事実上の解体。これから長い時間をかけて、補償と再生の道を歩むことになるだろう。

高島自身も、当然ながら懲戒解雇となった。 さらに、会社への背任行為で損害賠償を請求される可能性もある。業界内での再就職は絶望的だ。 だが、不思議と足取りは軽かった。 肩に乗っていた鉛のような「嘘」が消えたからだ。

ある一軒家の前で足を止める。 表札には『雨宮』の文字。 高島は門の前で一礼し、インターホンを押した。 やがて、喪服姿の女性が出てきた。雨宮沙織だ。 彼女の顔には、まだ深い悲しみの色が刻まれているが、一ヶ月前の裁判の頃のような、張り詰めた殺気は消えていた。

「……東都サッシの、高島です。いや、元社員の」

沙織は無言で高島を見つめた。 門を開ける気配はない。当然だ。彼が「親の責任だ」と法廷で言い放った事実は消えない。 高島は、門の外のアスファルトに膝をつき、深く頭を下げた。

「申し訳ありませんでした」

言葉にすれば陳腐になる。どんなに謝罪しても、失われた命は戻らない。 それでも、これだけは伝えなければならなかった。

「娘さんの死は、不注意などではありませんでした。あれは、我々が作り出した構造的な欠陥でした。……真実を公表するのが遅くなり、本当に、申し訳ありません」

冷たい風が吹き抜ける。 長い沈黙の後、沙織の静かな声が落ちてきた。

「……ニュース、見ました」

高島は顔を上げた。

「あのプレゼンテーションで、会社がどうなるか、あなたも分かっていたはずですよね」 「はい」 「馬鹿な人」

沙織は小さく息を吐いた。それは、溜息のようでもあり、微かな安堵のようでもあった。

「許すことは、一生できません。あなたが法廷で言った言葉も、会社の対応も」 「……はい」 「でも、あの子が『自分のせいで死んだんじゃない』と分かったことだけは……救いでした。それだけは、感謝します」

沙織は一度だけ軽く頭を下げると、背を向けて家の中へと戻っていった。 扉が閉まる音がする。 拒絶ではない、区切りの音。

高島は立ち上がり、膝の埃を払った。 空を見上げると、雲の切れ間から薄日が差し込んでいる。 ポケットの中でスマホが震えた。 妻からだ。 『琴が、パパと公園に行きたいって。今日は早い?』

高島は微笑み、返信を打った。 『ああ、今から帰る』

彼は歩き出した。 エリート街道からは転落した。社会的地位も失った。 だが、これから向かう先には、守るべき本当の「未来」が待っている。 二度と、その首に理不尽な紐がかからないように、見守り続けるための人生が。

(完)

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