注目の記事 PICK UP!

『疾走する凶器』

これは欠陥品(ミス)か、殺人か。


「交通事故による死傷者ゼロを目指す」 国内最大手タイヤメーカー「ヒノマルタイヤ」は、その崇高な理念を掲げ、自動車業界の安全技術をリードする存在だった。

品質保証部に勤める高村誠は、社内で「ミスター・パーフェクト」と揶揄されるほど、その理念を信奉する男。数年前に原因不明の事故で姉一家を亡くした彼は、悲劇を繰り返させないという揺るぎない信念を持っていた。

2025年、夏。彼の元に一通の内部告発メールが届く。それは、会社の未来を担う大ヒットタイヤ「VICTORY LANE」開発チームのリーダーによる、若手研究員へのパワハラを告発するものだった。

しかし、その調査は、会社がひた隠す巨大な闇への入り口に過ぎなかった。消えない傷を負った研究員、沈黙を続ける同僚、そして自らの罪を「未来への投資」と嘯く冷徹な経営陣。

姉の死の真相と、会社の欺瞞が一本の線で繋がった時、高村の戦いは社会正義から個人的な復讐へと変貌を遂げる。会社が隠蔽し続ける製品は、安全を謳った「希望の星」か、それともアスファルトを疾走する「時限爆弾」か。

一人の男の正義は、破滅へと暴走する巨大組織を止めることができるのか。手に汗握るノンストップ・クライムサスペンス。

登場人物紹介

  • 高村 誠(たかむら まこと) ヒノマルタイヤ品質保証部課長。38歳。「ミスター・パーフェクト」と呼ばれるほど仕事に厳格。伝説的なエンジニアだった父を持ち、原因不明の事故で亡くした姉の存在が、彼の揺るぎない正義感の根源となっている。
  • 安西 貴之(あんざい たかゆき) ヒノマルタイヤ常務取締役。58歳。 charismaticで頭脳明晰な一方、会社の利益のためなら手段を選ばない冷徹な現実主義者。高村の父のかつての部下であり、物語の巨大な「影」として立ちはだかる。
  • 三上 健太(みかみ けんた) 「VICTORY LANE」開発チームの若手研究員。28歳。パワハラの被害者。正義感と恐怖心の間で精神的に追い詰められているが、物語の真相を握る鍵となる。
  • 木戸 俊郎(きど としろう) 品質保証部部長。55歳。高村の直属の上司。定年を間近に控え、面倒事を極端に嫌う事なかれ主義者。組織の論理を体現する「沈黙する傍観者」。
  • 沖田 裕二(おきた ゆうじ) 「VICTORY LANE」開発チームのリーダー。45歳。パワハラの告発対象者。ヒット商品を生み出したカリスマだが、その傲慢さが事件の引き金となる。

第一章 亀裂

1

ゴムの焼ける匂いが、音を喰っていた。 千葉県湾岸部に位置するヒノマルタイヤの研究開発施設、その地下三階に設けられた無響室は、外界のあらゆる音を拒絶する空間だ。分厚い防音壁に囲まれ、床以外の五面はガラスウールの吸音楔が無数に突き出している。ここで聞こえるのは、己の心臓の鼓動と、今まさに行われているテストの被験者が発する音だけだ。

室温四十五度、湿度八十五パーセント。真夏の過酷な環境を再現した空間の中央で、巨大なドラムが唸りを上げて回転している。時速百二十キロ。そのドラムに押し付けられているのは、一本のタイヤ。ヒノマルタイヤの命運を担う最新エコタイヤ「VICTORY LANE」である。

「――規定時間まで、あと三分」

マジックミラーの向こう側、コントロールルームで高村誠は呟いた。モニターには、タイヤの表面温度、空気圧、そしてドラムとの摩擦係数を示す数値が、目まぐるしく更新されていく。彼の隣では、若い研究員が固唾を飲んで画面を凝視している。

「異常ありません、高村課長。トレッド表面温度も許容範囲内です」 「油断するな。悪魔は最後の数秒に宿る」

高村の低い声に、研究員はびくりと背筋を伸ばした。 三十八歳にして品質保証部の課長を務める高村は、社内で「ミスター・パーフェクト」あるいは「品質の番犬」と呼ばれている。その厳格さは、時に開発部の人間から煙たがられることもあったが、彼が承認印を押さない限り、ヒノマルタイヤの製品は一本たりとも世に出ることはない。

――ピ、ピ、ピ……。 無機質な電子音がテストの終了を告げた。轟音を立てていたドラムがゆっくりと回転を止め、室内は再び完全な沈黙に支配される。 「……よし。データ保存。サンプルを冷却室へ」 高村の指示に、研究員は安堵の息を漏らした。だが、高村の視線はモニターの一点に縫い付けられたままだった。テスト終了直前、ほんの一瞬だけ、トレッドの内部温度を示すグラフに、針の先ほどのスパイクノイズが記録されていた。誤差の範囲、あるいはセンサーの誤作動。誰もがそう判断するであろう、取るに足らない異常。

「……もう一度だ」 「え?」 「同じロットの別サンプルで、同じテストをもう一度やる。今すぐにだ」

高村はモニターから目を離さずに言った。彼の横顔に、研究員は反論の言葉を飲み込んだ。 完璧な製品のためには、一パーセントの妥協も、〇・一パーセントの疑念も許さない。それが高村誠という男であり、彼がヒノマルタイヤの理念そのものだと信じて疑わない「正義」の形だった。

2

二〇二五年八月二十五日、月曜日。 アスファルトを陽炎が揺らす猛暑日だった。品質保証部に戻った高村のデスクの上では、一人の女性と幼い子供たちが笑っている。数年前に原因不明の事故で亡くなった、姉一家の写真だ。高村がヒノマルタイヤに入社し、品質という仕事に執着する理由は、この一枚の写真に集約されていた。

――足元から支える、交通事故ゼロの未来。

オフィスの壁に掲げられたスローガンが、空調の風に小さく揺れている。 その時だった。高村のPCのメーラーが、静かに新着を知らせた。差出人は『名無しの従業員』。件名は『コンプライアンス委員会様:内部告発』。

高村は眉をひそめ、メールを開いた。そこには、簡潔だが切迫感に満ちた文章が綴られていた。

件名:内部告見 コンプライアンス委員会 御中
VICTORY LANE開発部リーダー、沖田裕二氏による、同チーム所属・三上健太研究員への度重なるパワーハラスメント、および精神的な圧迫についての調査を要求します。 三上氏は現在、過度のストレスにより休職寸前に追い込まれています。 これは単なる個人の問題ではありません。彼の担当業務は、製品の安全性に関わる重要なテストでした。 これ以上の沈黙は、取り返しのつかない事態を招く恐れがあります。 迅速かつ公正な調査を、心よりお願いいたします。

最後の文章が、高村の胸に棘のように刺さった。 『製品の安全性に関わる重要なテスト』。

高村は、フロアの向かいにある開発部のエース、沖田の姿を目で追った。チームを率いて談笑するその姿は、自信に満ち溢れている。 その時、内線が鳴った。ディスプレイには、直属の上司である木戸部長の名前が表示されていた。

「高村か。いま、メールを見た。……分かっているな?」 電話口から聞こえてきたのは、面倒事を隠そうともしない、うんざりした声だった。 「正式な調査を開始します」 高村は即答した。 電話の向こうで、木戸が大きなため息をつくのが分かった。 「高村、波風を立てるなよ。沖田は社長のお気に入りだ。それに、VICTORY LANEはうちのドル箱だぞ。慎重にやれ。いいな、くれぐれも慎重にだ」 「部長。告発には『製品の安全性』と書かれています。慎重さと、事なかれ主義は違います」 高村は、自らを諌めるような上司の言葉を遮り、静かだが 強固な口調で言った。 電話は、一方的に切られた。

高村はもう一度、メールの文面に目を落とした。そして、デスクの上の姉の写真を見た。 『取り返しのつかない事態』。 その言葉が、数年前のあの日の記憶と重なり、彼の心臓を冷たく握りつぶした。 彼は受話器を取り、内線で人事部を呼び出した。 「品質保証部の高村だ。VICTORY LANE開発チームの三上健太くんについて、少し聞きたい」 番犬が、微かな血の匂いを嗅ぎつけていた。 まだ、その先に広がる闇の深さを、知る由もなかった。

3

翌日の火曜日、高村は沖田裕二を第一会議室に呼び出した。 ガラス張りの壁が並ぶ廊下を、沖田はまるで我が物顔で歩いてきた。イタリア製の高級スーツに身を包み、人好きのする笑みを浮かべている。彼が通り過ぎるたびに、若い女性社員たちが憧れの吐息を漏らすのが分かった。カリスマ。その言葉が、これほど似合う男を高村は他に知らなかった。

「高村課長、わざわざお呼び立ていただき恐縮です。一体どういったご用件で?」

椅子に腰かけるなり、沖田はテーブルの上で優雅に指を組んだ。その態度は、尋問される側ではなく、むしろ相手を品定めする側のものだった。 「匿名の告発がありました。沖田さん、あなたによる三上健太くんへのパワーハラスメントを訴える内容です」 高村は、感情を排した声で単刀直入に切り出した。 沖田は一瞬だけ眉を上げたが、すぐに困ったような笑みを浮かべた。 「ああ、三上くんのことですか。なるほど……。彼の耳に入るといけないので言葉を選びますが、彼は少々、繊細なところがありましてね。期待が大きい分、私の指導にも熱が入りすぎてしまったのかもしれない。もし彼がそう感じたのなら、私の不徳の致すところです」 完璧な回答だった。非は認めつつも、その原因を相手の感受性と、自らの「熱意」にすり替えている。 「告発には、彼の担当業務が『製品の安全性に関わる重要なテスト』だったと書かれています。具体的には、『長期耐久テスト』について、あなたと三上くんの間で何か意見の相違はありましたか?」

高村が核心に触れた瞬間だった。 沖田の目から、それまでの人懐こい光がすっと消えた。ほんの一瞬、爬虫類を思わせる冷たい光が宿り、すぐにまた元の笑顔に戻る。だが、品質の異常を見抜くプロである高村が、その変化を見逃すはずはなかった。

「意見の相違、ですか。いいえ、全く。彼は私の指示通り、完璧にデータをまとめてくれましたよ。ただ、納期が非常にタイトなプロジェクトでしたからね。プレッシャーを感じていたのでしょう。残念です。彼は非常に優秀なエンジニアだった」

沖田は、まるで故人を偲ぶかのように、芝居がかった仕草で天を仰いだ。

その後、高村は開発チームの他のメンバー三人からも個別に話を聞いたが、結果は同じだった。彼らはまるで示し合わせたかのように、同じ言葉を繰り返した。 「沖田さんは情熱的なリーダーです」 「三上は少し考えすぎる癖があった」 「チームの雰囲気は最高でしたよ」 まるで、事前に用意された台本を読んでいるかのようだった。忠誠心にしては、あまりに人間味がない。

4

その日の夕方、高村は調査結果をまとめた報告書を前に、深く考え込んでいた。 パワハラの事実は、おそらくあったのだろう。だが、沖田やチームメンバーの反応は、それを隠すためのものにしては過剰防衛にすぎる。彼らは、まるでパワハラという小さな罪を認めることで、その奥にある何か、もっと巨大な罪から目を逸らさせようとしているように見えた。

『製品の安全性に関わる重要なテスト』。 告発メールのこの一文が、高村の頭の中で警報のように鳴り響いていた。

高村は人事ファイルを開き、休職中の三上健太の連絡先を調べた。会社の規則では、休職中の社員への直接連絡は推奨されていない。だが、この奇妙な違和感の正体を突き止めるには、本人に会うしかない。

高村は自分のスマートフォンを手に取った。ためらいは一瞬だった。姉の笑顔が脳裏をよぎる。 『取り返しのつかない事態』。 それを防げる可能性があるのなら、社内規則の一つや二つ、破ってでも前に進むべきだ。 彼は、画面に表示された番号をタップした。

呼び出し音が、やけに長く感じられた。十回ほど鳴った後、諦めて電話を切ろうとした瞬間、不意に応答があった。 「……もしもし」 電話の向こうから聞こえてきたのは、ひどく怯え、疲れ切った若い男の声だった。 「三上健太くんだね。私は、品質保証部の高村という者だ」 高村が名乗った途端、相手が息を飲むのが分かった。 「……なんの、ご用件でしょうか」 「君のことで、少し話が聞きたい。告発があった件だ。君の部署の……」 「嫌だ!」 高村の言葉を遮り、電話の向こうで三上が叫んだ。 「俺はもう、なにも話したくない!会社とは関わりたくないんだ!頼むから、もうそっとしておいてくれ!」 その声は、恐怖に引きつっていた。まるで、何か目に見えないものに追われているかのようだ。 「三上くん、待ってくれ。私は君の味方だ。一体、何に怯えている?」 「あんたには関係ない!来るな!俺に近づくな!」 ガチャン、と乱暴に電話が切られた。

高水の耳に、ツーツーという無機質な音が突き刺さる。 ただのパワハラではない。これは、異常だ。 三上は、会社そのものに、あるいは会社の中にいる何者かに、生命の危険すら感じるほどの恐怖を抱いている。 沖田の冷たい目、チームメンバーの不自然な証言、そして三上の怯えきった声。 バラバラだったパズルのピースが、高村の中で一つの形を成し始めていた。

彼らが隠しているのは、社内秩序を乱すスキャンダルなどではない。 もっと根源的で、ヒノマルタイヤという会社の存在意義そのものを揺るがしかねない、巨大な「罪」だ。

高村は席を立った。 こうしてはいられない。三上に直接会って、話を聞く。 時計は午後七時を回っていた。外は、真夏の蒸し暑い闇に包まれている。 その闇と同じ色の、濃密な悪意が、今この会社のどこかに渦巻いている。 高村は、自らの意志で、その渦の中心へと足を踏み入れようとしていた。

第二章 闇への車輪

1

火曜日の夜だというのに、首都高速湾岸線は西へ向かう車で数珠繋ぎになっていた。高村は愛車のハンドルを握りながら、先ほどの三上との通話を反芻していた。 あの怯え方は、尋常ではない。まるで、電話も盗聴されているとでも言うような、言葉を選びながら恐怖を押し殺す声。

(一体、何をした? 三上健太という男は、そして会社は……)

高村の脳裏に、沖田の冷たい目と、開発チームの能面のような表情が浮かぶ。彼らは一枚岩だ。だがそれは、忠誠心という名のセメントで固められた、歪な一枚岩だった。

湾岸線が鶴見つばさ橋に差し掛かる。無数のケーブルが織りなす優美なハープのような橋が、闇の中に白く浮かび上がっていた。眼下に広がる京浜工業地帯のプラント群が、まるで巨大生物の臓器のように不気味な光を明滅させている。この国の産業を支える光景。ヒノマルタイヤも、あの光の一つだ。

その、光の連鎖の先頭を走っていた一台の黒いミニバンが、不意に、何の脈絡もなく、メトロノームのように左右に揺れ始めた。 「……!」 高村はアクセルから足を離し、車間距離を取る。居眠りか、あるいは急な体調不良か。ミニバンの蛇行は次第に大きくなり、隣の車線を走っていたトラックが、警告するように長く重いクラクションを鳴らした。

次の瞬間、高村は目を疑った。 ミニバンの左後輪から、黒い獣の舌のようなものが、べろり、と剥がれたのだ。それはアスファルトを一度、二度と鞭打ち、遠心力に任せて凶器と化し、夜空を舞った。

「危ない!」 高村が叫んだのと、その黒い帯――タイヤのトレッド部分――が、彼の車のフロントガラスに猛烈な勢いで叩きつけられたのは、ほぼ同時だった。 バガンッ、という凄まじい衝撃音。視界に蜘蛛の巣状のヒビが広がる。 しかし、高村の目は、フロントガラスの惨状ではなく、前方のミニバンに釘付けになっていた。

コントロールを失ったミニバンは、火花を散らしながら左側のガードレールに車体をこすりつけ、甲高い金属音を夜の闇に響かせる。タイヤのゴムが焼け焦げる、むせ返るような匂い。後続車が次々と急ブレーキを踏み、あちこちでタイヤの軋む音が連鎖する。 ミニバンは三百メートルほどガードレールに車体を削られた後、火花を散らす巨大な鉄塊と化して、ようやく追越車線上で停止した。

高村は、鍛え抜かれた反射神経でハザードランプを点灯させ、巧みに車を路肩に寄せた。アドレナリンが全身を駆け巡っている。多くのドライバーが、関わり合いになるのを恐れて事故現場を猛スピードで通り過ぎていく。だが、高村は車を降りた。

蒸し暑い潮風が、汗ばんだ肌にまとわりつく。遠くで、ミニバンの中から子供の泣き叫ぶ声が聞こえた。 高村は、自らのフロントガラスを叩きつけたトレッドの残骸が、道路の中央付近に落ちているのを見つけた。彼は左右を確認し、素早くそれを拾い上げる。ずしりと重い。その断面は、まるで地層のように無残な層を晒していた。

彼はポケットからスマートフォンを取り出し、ライトでそのゴム塊を照らした。 トレッドパターンは、見慣れたものだった。ヒノマルタイヤが誇る、最新の非対称パターン。燃費性能とウェットグリップ性能を、かつてない次元で両立させたはずの、あの。

高村は指でゴムの表面をなぞり、サイドウォールとの境界部分に残された刻印を探した。 ライトの光が、いくつかの文字を闇の中から浮かび上がらせる。

『VICTORY LANE』

高村は息を止めた。 全身の血が、急速に凍りついていくような感覚。 噂ではない。改ざんされたデータでもない。これは、現実だ。 会社の謳う「希望の星」は、今、目の前で家族を乗せたミニバンを破壊し、アスファルトの上で無様に引き裂かれた姿を晒している。

遠くから、甲高いサイレンの音が近づいてくる。 高村は、ゴムの凶器を、まるでそれが千鈞の重さを持つかのように強く握りしめた。 三上の怯えた声が、耳元で蘇る。

『取り返しのつかない事態』。

それは、もう始まっているのだ。 高村は、闇に包まれた高速道路の路肩で、自らが身を置く巨大組織の、底知れぬ罪の深さを初めて垣間見ていた。

2

けたたましいサイレンが、悪夢のように反響していた。 高村は、到着した警察官に目撃者として冷静に状況を説明した。ミニバンの運転手と家族は、幸いにも軽傷で済んだらしい。彼は事情聴取の中で、フロントガラスの破損については触れたが、その原因となったゴム片を拾ったことは、意識的に伏せた。これは警察が処理すべき「事故」ではない。自分が暴くべき「事件」なのだと、本能が告げていた。

解放されたのは、一時間後のことだった。高村はヒビの入ったフロントガラスのまま、再び車を走らせた。行き先は変わらない。横浜市郊外にある三上健太のアパートだ。 カーナビが示す目的地が近づくにつれ、高村の怒りは、氷のように冷たい決意へと変わっていった。ダッシュボードに置いたビニール袋の中で、トレッドの残骸が不気味な存在感を放っている。あれが、姉の、そして義兄と幼い甥の命を奪ったものと同じだとしたら。

三上のアパートは、ありふれた三階建ての賃貸マンションだった。高村は二階の一番奥、二百五号室のドアの前に立ち、インターフォンを鳴らした。応答はない。もう一度、今度はドアを直接ノックする。 「三上くん、いるんだろう。品質保証部の高村だ。話がある」 ドアの向こうで、何かが動く気配がした。高村は、ドアスコープに自分の顔を近づける。 「開けてくれ。これは君が、そして俺が、目を逸らしてはいけない問題だ」 「……帰ってください」 ドアの内側から、くぐもった声が聞こえた。 「俺は、なにも知りません……」 「そうか」 高村は静かに答えると、ビニール袋からあのゴム塊を取り出した。そして、それをドアスコープのレンズに押し付けた。ライトで照らされた「VICTORY LANE」のロゴが、魚眼レンズの向こうで歪んで見えるはずだ。

「――一時間前、首都高で、これがお前の言う『なにも知らないこと』のせいで、家族を殺しかけた。これを見ても、まだ関係ないと言い張るつもりか?」

ドアの向こうで、息を呑む音。数秒の沈黙の後、カチャリ、と鍵の開く音がした。

3

部屋の空気は、澱んでいた。 遮光カーテンが閉め切られ、床にはコンビニ弁当の容器やペットボトルが散乱している。真夏の夜だというのに、エアコンもつけられていない。その中で、三上健太はまるで亡霊のように痩せこけた姿で立っていた。

「……何の、真似ですか」 かろうじて絞り出した声が、震えている。 高村は部屋に足を踏み入れると、無言でゴムの塊をローテーブルの上に置いた。それは、部屋の惨状の中で、異様な存在感を放つオブジェのようだった。 「電話で言ったな。『俺に近づくな』と。俺じゃない。君が本当に恐れているのは、一体何だ?」 「……」 三上は答えず、ただテーブルの上のゴム塊を憎悪と恐怖の入り混じった目で見つめている。 「沖田か? それとも、もっと上の人間か? 何をさせられた? 言ってくれなければ、俺も動きようがない」 高村が問い詰めても、三上は唇を固く結んだままだった。恐怖が、彼の理性を完全に麻痺させている。 高村は、攻め方を変えることにした。彼はゆっくりと息を吐き、自らの、決して癒えることのない傷を晒す覚悟を決めた。

「……七年前、俺の姉が死んだ」

三上の肩が、ぴくりと震えた。 「夫と、まだ五歳だった息子と一緒に、家族旅行の帰りだった。中央道で、車がコントロールを失って、ガードレールを突き破って……三人とも、即死だった」 高村の声は、感情を押し殺したせいで、乾いた石のように響いた。 「警察の判断は、運転していた義兄のハンドル操作ミス。だが、俺はずっと納得がいかなかった。彼は、誰よりも運転が慎重な男だったからだ。現場には、今ここにあるような、不自然なタイヤの破片が散らばっていた……」

高村は、三上の目をまっすぐに見た。 「もし、あの事故の原因が、ただの不運ではなく、誰かが利益のために仕組んだ『人災』だったとしたら。俺は、その誰かを絶対に許すわけにはいかない。君が今、口を閉ざすことで、また新しい犠牲者が生まれるかもしれないんだぞ」

三上の顔が、絶望に歪んだ。彼の瞳から、堪えきれなかった涙が次々と溢れ出し、頬を伝っていく。ついに、彼の心のダムが決壊した。 「……俺は……俺は……!」 嗚咽と共に、堰を切ったように言葉が溢れ出した。 「安西常務の指示だったんです……! 海外から入れた、規格外の再生ゴム……コストを三割削減するために、それを混ぜるようにと……! 沖田さんは、それに逆らえなかった……!」 三上は、自らの罪を告白するように、すべてを語り始めた。 高すぎる目標、タイトすぎるスケジュール。欠陥に気づき、テストの中止を訴えた彼を、沖田が怒鳴りつけ、データを改ざんするよう脅迫したこと。そして、その不正の証拠となる、改ざん前のオリジナルデータが、今も社内の古いバックアップサーバーに、誰にも気づかれずに眠っていることまで。

「……『ゴースト・アーカイブ』と呼ばれているサーバーです……。誰も、もう存在すら知らないはずの……」

すべてを吐き出し、三上は床に崩れ落ちて泣きじゃくった。 高村は、彼の肩にそっと手を置いた。その手は、怒りで微かに震えていた。 もはや、疑いの余地はなかった。 会社は、長年にわたって「走る凶器」を世に送り出し続けてきたのだ。姉を殺したのも、おそらく。 テーブルの上のゴム塊が、静かに告発していた。これは単なる欠陥品ではない。悪意を持って生み出された、殺人の道具なのだと。

高村の胸の中で、個人的な悲しみと、品質保証部としての使命感、そして裏切られた者としての激しい怒りが、一つの巨大な炎となって燃え上がった。 次なる目標は、ただ一つ。 「ゴースト・アーカイブ」に眠る、動かぬ証拠を手に入れること。

高村は、泣き崩れる若いエンジニアに静かに告げた。 「君の勇気を、俺は絶対に無駄にはしない」

4

水曜日、午前九時。 ヒノマルタイヤ本社のオフィスは、いつもと変わらない朝を迎えていた。キーボードを叩くリズミカルな音、コピー機が紙を吐き出す音、遠くで響く談笑の声。 だが、高村誠にとって、その日常の風景は昨日までとは全く違って見えていた。壁に貼られた「ゼロ・アクシデント」のスローガンは白々しい嘘に、同僚たちの笑顔は欺瞞に満ちた仮面に映った。

自席に着いた高村は、まず社内システムのファイルサーバー検索ツールを立ち上げた。検索窓に、三上が漏らしたサーバー名、『GHOST_ARCHIVE』と打ち込む。 Enterキーを押す。数秒の検索時間を示すインジケータが回った後、画面に冷たいメッセージがポップアップした。

アクセス権限がありません。管理者に問い合わせてください。

予想通りの結果だった。だが、これでいい。高村のこの行動は、闇の中に潜む蛇の尻尾を踏みつけるための、意図的な一歩だった。彼のアクセスログは、必ずシステム管理部で記録される。そして、その情報は即座にしかるべき人間の耳に入るはずだ。

案の定、十分と経たずに内線が鳴った。上司の木戸部長からだった。 「高村! すぐに私の部屋へ来い!」 普段の事なかれ主義が嘘のような、切羽詰まった声だった。

部長室のドアを開けると、木戸は額に汗を浮かべ、神経質そうに貧乏ゆすりをしていた。 「お前、何をしようとしてるんだ……? ゴースト・アーカイブだと? なぜ、そんな古いサーバーを……」 「調査のためです」 「何の調査だ! 沖田の件は、彼を子会社に出向させることで決着がついたはずだ!」 「部長。あれはパワハラなどという生易しいものではありません。もっと根深い、我々の会社の根幹に関わる問題です」 高村の静かだが力強い言葉に、木戸は怯えたように視線を泳がせた。 「……やめろ、高村。お前は何かを勘違いしている。いいか、世の中にはな、知らなくていいこと、触れてはいけないことがあるんだ。お前には家族もいるんだろう。俺の言うことを聞け。これは、お前の手には負えん」 木戸は、明らかに何かを知っていた。だが、真実を語る勇気よりも、組織に逆らう恐怖が勝っている。高村は、この男を説得するのは無駄だと悟った。

オフィスに戻ると、空気が変わっていることに気づいた。それまで彼と普通に会話をしていた同僚たちが、あからさまに視線を逸らし、避けるように席を立つ。木戸からの緘口令が、既に部内に行き渡っているのだ。 孤立が、始まっていた。

その日の午後、高村は役員フロアへ向かうエレベーターの前で、最も会いたくない人物と鉢合わせになった。 「やあ、高村くん」 柔らかな物腰で声をかけてきたのは、安西貴之常務だった。 「いつも熱心にご苦労様。君のお父さんが生きていたら、きっと君のような息子を誇りに思っただろうな」 安西は、高村の亡き父の元部下だった。父が誰よりも信頼し、目をかけていた男。 「……恐れ入ります」 高村は、胸の奥に湧き上がる黒い感情を押し殺し、頭を下げた。 「少し、耳の痛い話を聞いてね。君が、古いサーバーの記録を漁っているとか」 エレベーターが到着し、二人は乗り込んだ。密室の中で、安西の穏やかだった声のトーンが、刃物のように冷たくなった。 「君の正義感は、お父さん譲りの美徳だ。だが、時に正義は、それ自体が凶器になることもある。誰も幸せにしない真実、というものも存在するのだよ」 「真実が人を不幸にするのだとしたら、それは真実が偽りと共存しているからです」 高村は、真っ直ぐに安西の目を見返して言った。安西は一瞬、目を細めたが、すぐにまた人の良い笑みを浮かべた。 「……賢い男だと思っていたがな。高村くん、私は君の将来を案じている。お父さんへの恩義もあるからね。忠告しておくよ。この会社という船には、決して開けてはならない『パンドラの箱』が積まれている。それをこじ開けようとすれば、君自身が船もろとも海の底に沈むことになる」

チン、とエレベーターが目的の階に到着する音がした。 「私の忠告、よく考えてくれたまえ」 安西はそう言い残し、悠然とエレベーターを降りていった。

残された高村の背筋を、冷たい汗が伝った。 これは、忠告などではない。明確な脅迫だ。 安西は、全てを知っている。そして、真実に近づこうとする者は、手段を選ばず排除するだろう。 自分の身に、本当の危険が迫っていることを、高村は実感していた。だが、同時に彼の心の中では、父の名を軽々しく口にした安西への、そして父の信念を裏切った男への怒りが、静かに燃え盛っていた。 もはや、引き返す道はなかった。

5

その日は、まるで抜け殻のように働いた。 同僚たちの視線は壁となり、上司である木戸は一度も高村と目を合わせようとしなかった。オフィスという閉鎖された空間の中で、高村は社会的に抹殺されたも同然だった。 安西の言った「船もろとも海の底に沈む」という言葉が、不気味に頭の中で反響する。

退勤時刻を過ぎ、オフィスに残る人間もまばらになった頃、高村は重い足取りで席を立った。疲労が鉛のように全身にまとわりついている。だが、彼の瞳の奥では、怒りと決意の炎が消えることなく燃え続けていた。

社員用の立体駐車場は、夜八時を過ぎると人影も少なくなり、不気味なほど静まり返っていた。コンクリートの壁に反響する自分の足音だけが、やけに大きく聞こえる。 高村は、四階のフロアに停めてある自分の車に向かった。太い柱が作り出す死角の多さが、今はひどく気になった。誰かに見られているような、言いようのない悪寒が背筋を走る。 (考えすぎか……) 安西の脅迫で、神経が過敏になっているのだろう。

高村は愛車のドアを開け、運転席に滑り込んだ。すぐにドアをロックし、大きく息を吐く。鋼鉄のボディに守られたこの空間だけが、唯一の安全地帯のように思えた。 彼はエンジンを始動させ、ゆっくりと出口へと向かう螺旋状のスロープを下り始めた。

三階へ下りるカーブを曲がる際、ブレーキペダルに軽く足を乗せた。 その時、微かな違和感を覚えた。ペダルの踏みごたえが、いつもより柔らかい。まるで、厚いスポンジを踏んでいるかのようだ。 (……エアでも噛んだか?) 週末にディーラーで見てもらおう。そう考え、彼は二階へと続くスロープで、再びアクセルを緩やかに踏み込んだ。

スロープの傾斜がきつくなり、車の速度が自然と増していく。 次のカーブが迫る。高村は、先ほどよりも強くブレーキペダルを踏み込んだ。

その瞬間、高村の全身の血が凍った。 ペダルが、何の抵抗もなく、床まで沈み込んだのだ。まるで、その先に繋がっているべき機械が、ごっそりと消え失せてしまったかのように。 車は、全く減速しない。

「――っ!」 高村の思考が、コンマ数秒で臨界点まで加速する。 安西の顔が脳裏をよぎる。これは、事故ではない。警告だ。 車は、重力に引かれるまま、死へのスロープを滑り落ちていく。目の前には、コンクリートの無慈悲な壁が迫っていた。 高村は、怒声にも似た叫び声を上げながら、サイドブレーキを渾身の力で引き上げた。 キイイイイッ、という金属が擦れる耳障りな音が鳴り響き、後輪がロックされる。車体が激しく横滑りし、タイヤが悲鳴を上げた。だが、完全に速度を殺しきることはできない。

衝撃は、腹の底を殴りつけられるような、鈍い痛みと共にやってきた。 ガッシャアアン! フロント部分が壁にめり込み、凄まじい金属音と破砕音を立てる。その直後、白い粉塵と共にエアバッグが炸裂し、高村の上半身を強かに打ち付けた。視界が真っ白に染まり、火薬のような匂いが鼻腔を突く。

……どれくらいの時間が経ったのか。 高村は、エアバッグにもたれかかったまま、ぜいぜいと荒い呼吸を繰り返していた。額から、生温かいものが頬を伝っていく。 静寂が戻った駐車場に、自らの車のラジエーターから液体が滴り落ちる音だけが、ポツ、ポツ、と響いている。

高村は、朦朧とする意識の中で、ドアをこじ開けて外に出た。 破壊された車のフロント下部。そこから、黒い液体が小さな水たまりを作っている。ブレーキフルードだ。そして、切断されたブレーキホースの断面が、まるで嘲笑うかのように、鈍い光を放っていた。それは、事故で断裂したものではない。明らかに、鋭利な刃物で切断された跡だった。

全身から、急速に汗が噴き出す。それは、事故のショックによるものではない。 純粋な、そして原始的な恐怖によるものだった。 奴らは、本気だ。 会社のシステムを使って社会的に抹殺するだけではない。物理的に、命を奪うことすら躊躇しない。

高村は、崩れ落ちそうになる膝を叱咤し、 wrecked carの 옆에 서서, 주차장의 어둠을 노려보았다. 경찰에 말해도、証拠不十分で事故として処理されるだろう。 もう、誰も頼れない。信じられるのは、自分自身だけだ。 そして、妻子の顔が浮かんだ。週末の、あのドライブ旅行。もし、この細工が、あの日の朝に行われていたら……。

恐怖が、怒りを塗りつぶし、そして、鋼鉄のような決意へと変わっていく。 もう、ためらっている時間はない。 奴らが次に狙うのは、自分か、それとも――。

高村はスマートフォンを取り出し、震える指で三上の番号を呼び出した。 「俺だ、高村だ。……ああ、無事だ。だが、やられた。君の言った通りだ」 彼は、自分の置かれた状況を、簡潔に、そして力強く伝えた。 「こうなれば、もう迷いはない。俺は、奴らを絶対に許さない」

第三章 反撃の火種

1

レッカー車の赤い回転灯が、コンクリートの壁に不気味な光の模様を描いては消えていく。高村は警察に「居眠りによる自損事故」として届けを出し、すべてが終わるのを物陰から見届けていた。レッカー業者も、警察官も、ブレーキホースの断面に隠された悪意には気づかない。

会社には戻れない。自宅も、おそらく安全ではないだろう。 高村はタクシーを拾うと、自宅とは逆方向の、都心にあるビジネスホテルへと向かった。チェックインを済ませ、無機質な部屋に入ると、彼はまず妻に電話をかけた。

「俺だ。……落ち着いて聞いてほしい」 彼は、声が震えるのを必死で堪えた。 「会社のトラブルに巻き込まれた。大したことじゃないんだが、少し厄介でな。明日、予定している君の実家への帰省、中止にしてくれないか」 「え、どうして急に? 子供たちも楽しみにしているのに」 訝る妻の声に、高村の胸は張り裂けそうになった。 「頼む。理由はいずれ話す。とにかく、絶対に車で遠出はしないでくれ。いいね? **絶対に、あの車には乗るな。**電車を使ってくれ。今すぐ、子供たちを連れて駅に向かってほしい」 ただならぬ様子の夫の声に、妻は何かを察したようだった。「わかったわ」と短く答え、電話は切れた。 高村は、壁に額を押し付け、安堵と、家族を危険に晒している自身への怒りで奥歯を強く噛みしめた。

2

ホテルのベッドに腰を下ろし、高村はこれからの手を考えていた。 「ゴースト・アーカイブ」に眠るデータ。それが、安西を社会的に抹殺できる唯一の武器だ。だが、自分のアクセス権はもうないだろう。オフィスに足を踏み入れた瞬間に、どんな罠が待ち受けているかもわからない。 完全に、手詰まりだった。

その時だった。ポケットに入れていたスマートフォンが、非通知設定で着信を告げた。高村は警戒しながら、通話ボタンを押した。 「……もしもし」 「……高村か」 聞こえてきたのは、予想もしない人物の声だった。上司の、木戸部長だ。声はひどくかすれ、雑音に混じってほとんど聞き取れない。 「き、木戸部長……? なぜ……」 「お前の車の事故報告を見た。……ブレーキホースだと」 木戸の声には、罪悪感と恐怖が滲んでいた。彼は、これがただの事故ではないと気づいたのだ。 「高村、俺はもうすぐ定年だ。家族もいる。だから、お前のようには戦えない。……だがな、お前の親父さんには、若い頃に世話になったんだ。一度だけ、飯の奢りじゃ返せないほどの、大きな恩がある」 高-村は息を飲んだ。 「……何が言いたいんですか」 「明日、午前十時から、安西常務は監査法人とのオフサイトミーティングだ。本社から、主だった役員とITセキュリティの責任者も連れて行く。つまり、その時間は、本社のサーバーへの監視が一年で最も手薄になる」 木戸は、一気にそこまで言うと、ぜいぜいと息を切らした。 「俺がしてやれるのは、ここまでだ。……もう二度と電話してくるな。これは、墓場まで持っていく、俺のたった一度の裏切りだ」 電話は、一方的に切れた。

高村は、スマートフォンを握りしめたまま、しばらく動けなかった。 事なかれ主義の塊だと思っていた上司が、自らのクビを賭けて、最大のチャンスをくれた。組織の論理に染まりきった男の胸の奥にも、消せない恩義と、最後の良心が残っていたのだ。

3

高村の胸に、再び闘志の火が灯った。 彼は震える指で、三上健太の番号を呼び出した。電話の向こうで、三上はまだ恐怖に怯えていた。高村は、先ほどの事故のこと、そして木戸からの密告を、ありのままに伝えた。

「――三上くん、これが最後のチャンスだ。俺たちはもう、ただの被害者じゃない。奴らにとっては、消すべき邪魔者なんだ。このまま怯えていても、いずれ闇に葬られるだけだ」 高村は、語気を強めた。 「君にしかできない。君が、最後の砦なんだ。明日、午前十時。君の手で、真実のデータを抜き出してほしい」 電話の向こうで、三上の荒い息遣いが聞こえる。 「……で、でも、もし捕まったら……」 「君は、ただ俺に脅されてやったことにすればいい。すべての責任は俺が取る。君は、家族の元に帰るんだ。だが、このまま何もしなければ、君は一生、罪悪感と恐怖を抱えて生きていくことになる。どっちの人生がいい?」

長い、長い沈黙が流れた。 高村は、ただ静かに彼の決断を待った。 やがて、電話の向こうから、涙で濡れているが、しかし、それまでとは全く違う、芯の通った声が聞こえてきた。

「……わかりました。やります」 それは、恐怖を乗り越えた、一人の技術者の、誇りに満ちた声だった。 「午前十時ですね。必ず、やってみせます」

電話が切れた後、高村は窓の外を見た。 巨大都市東京の夜景が、煌びやかな光の海となって広がっている。あの光の一つ一つに、人々の生活があり、営みがある。 そして、その足元を、ヒノマルタイヤの製品が、今この瞬間も走り続けている。

明日、午前十時。 すべては、一人の若いエンジニアの、勇気ある行動に懸かっていた。 高村にできることは、もう何もない。ただ、信じて待つことだけだった。 それは、彼のこれまでの完璧主義な人生において、最も不確かで、最も長い時間に感じられた。

4

「箱崎だと!? 正気か、お客さん!」 タクシーの運転手が、バックミラー越しに悲鳴を上げた。彼の顔は恐怖と混乱で引きつっている。 箱崎ロータリー。複数の路線が複雑に絡み合い、合流と分岐を繰り返す首都高の心臓部。ベテランドライバーですら、「魔窟」と呼んで忌み嫌う場所だ。一度迷い込めば、意図した出口にたどり着くのは至難の業。

「だからいいんです! 奴らも、この迷路では無茶はできないはずだ!」 高村は叫び返した。彼の頭の中では、高速で地図が描かれていた。勝算は低い。だが、このまま直線で追いかけられるよりは万倍マシだ。

タクシーは、江戸橋ジャンクションから箱崎ロータリーへと吸い込まれていく。直後、黒いセダンも、獲物を見失うまいとする鮫のように突入してきた。 雨脚が、さらに強くなる。ワイパーは、もはや視界を確保する役目を果たしていない。窓の外を流れるのは、滲んだテールランプの赤い光と、ビルボードの青い光が混じり合った、混沌の奔流だけだった。

「右! 次、すぐ左の車線へ!」 高村は、ナビゲーターのように矢継ぎ早に指示を出す。運転手は、半ばパニックになりながらも、その声にだけ従ってハンドルを切った。 黒いセダンは、タクシーの動きに翻弄されながらも、優れた馬力と性能で食らいついてくる。何度も車体をぶつけようと試みるが、狭く、先の読めないカーブがそれを阻んでいた。

ロータリーの中心部、箱崎PAの横を通り抜ける。右へ行けば深川線、左へ行けば向島線。一瞬の判断ミスが、命取りになる。 「真っ直ぐ! そのまま向島線へ!」 高村が叫んだ。タクシーは、車体をきしませながら、左車線へと滑り込む。 セダンも、即座にそれに追従した。直線に入り、再び車間が詰まる。万事休すか。 高村が息を飲んだ、その時だった。

前方に、赤いランプを点滅させた、大型のトレーラーが見えた。左車線を、ゆっくりと走行している。 高村の脳裏に、七年前の、姉の事故現場の光景が稲妻のように閃いた。 (……これだ!)

「運転手さん、あのトレーラーを抜け! 抜けたら、すぐにハザードを焚いて急減速しろ!」 「なっ、そんなことをしたら……!」 「いいからやるんだ! 俺を信じろ!」 高村の、鬼気迫る声に押され、運転手はアクセルを床まで踏み込んだ。タクシーはエンジンを唸らせ、トレーラーの右側を猛然と追い抜く。 そして、高村の指示通り、ハザードを点滅させながら急ブレーキを踏んだ。 雨に濡れた路面で、タイヤが絶叫する。

後方から追ってきた黒いセダンは、トレーラーという巨大な壁に視界を遮られ、タクシーの急減速に気づくのがコンマ数秒遅れた。 セダンの運転手は、慌ててハンドルを右に切った。タクシーとの追突は免れたが、その先には、向島線へと続く本線と、浜町出口へと分岐する、短いランプウェイがあった。 セダンは、もはや車線を戻すことができず、そのまま浜町出口へと続くランプウェイに吸い込まれていった。

「今だ! 行け!」 高村が叫ぶ。 タクシーの運転手は、再びアクセルを踏み込んだ。 バックミラーの中で、黒いセダンが、為す術もなく出口の先へと消えていくのが見えた。

5

タクシーは、次の駒形出口で首都高を降りた。 高村は、指定した金額の倍の紙幣を運転手に渡し、釣りはいらないと告げた。 「運転手さん、あんたはプロだ。……今夜のことは、忘れてくれ」 運転手は、まだ震えが止まらない様子で、何も言わずに頷いた。

高村は、浅草の繁華街の喧騒の中でタクシーを降りた。雨は、小降りになっている。 彼は、人ごみに紛れ、何度も後ろを振り返りながら、裏路地へと入っていった。 追手はもういない。 彼は、この死のゲームの最初のラウンドを、生き延びたのだ。

懐で、最後の切り札であるUSBメモリの、硬い感触を確かめる。 ジャーナリストの長谷川は、もう一方のデータを確保しているはずだ。保険は、かけた。 だが、高村の戦いは、まだ終わっていない。 社会の裁きだけでは、足りない。 父の誇りを踏みにじり、姉の命を奪い、そして今、自らの命まで奪おうとした男。 安西貴之という悪魔を、自らの手で断罪するまでは。

高村は、スマートフォンの電源を一度切り、そして再び入れた。 履歴の中から、一つの番号を呼び出す。それは、ヒノマルタイヤ本社の、役員フロアへと繋がる内線番号だった。

「……安西常務をお願いしたい。品質保証部の、高村と伝えてください」

最後の会議の席を設えるのは、他の誰でもない。自分自身だ。 受話器の向こうで、安西の秘書が、訝しげな声を上げるのが聞こえた。 高村は、雨に濡れたネオンが反射するアスファルトを見つめながら、静かに、その時を待っていた。

はい、承知いたしました。 物語は最終章、最後の対決へと向かいます。プロットのクライマックスである「最後の会議」、そして物語の結びとなる「エピローグ」までを執筆します。


第五章 最後の会議

1

翌日、金曜日、午前十時。 ヒノマルタイヤ本社の最上階、役員会議室。床から天井まで続くガラス窓の向こうには、まるで箱庭のように東京の摩天楼が広がっている。昨夜の雨が嘘のように、空は抜けるような青さだった。

巨大なマホガニーのテーブルには、会社の命運を握る十数人の役員が着席している。その上座で、安西貴之は絶対的な支配者のように、静かに微笑んでいた。 彼の視線の先、テーブルの末席に、高村誠は独り座っていた。昨夜、電話で安西に「すべての証拠を公にする前に、役員全員の前であなたと話がしたい」と要求した結果、この異例の場が設けられたのだ。

「――では、これより臨時役員会を始める」 安西が、朗々と響く声で言った。 「議題は、品質保証部、高村誠課長による、我が社の根幹に関わるという『提言』についてだ。高村くん、皆、忙しい身だ。手短に頼むよ」 その口調には、勝者の余裕と、敗者への侮蔑が滲んでいた。おそらく彼は、高村が持つデータのコピーは一つだけだと考え、昨夜の追跡でそれを奪えなかったまでも、この会議室で完全に無力化できると踏んでいるのだろう。

高村は静かに立ち上がった。彼の顔に、恐怖や焦りの色はなかった。 「私がここに来たのは、提言のためではありません。告発のためです」 彼は懐からUSBメモリを取り出すと、テーブルの中央にあるプロジェクター用の接続ポートに、ゆっくりと差し込んだ。 「安西常務、あなたが主導した、製品『VICTORY LANE』における、悪質な性能偽装とデータ改ざん。そして、それに伴うリコール隠しについての、動かぬ証拠がここにあります」

役員たちの間に、緊張したどよめきが広がる。 安西は、その様子を面白そうに眺めていた。彼は、隣に控えていたITセキュリティの責任者に、目線だけで合図を送った。

高村がファイルを開こうとクリックした瞬間、スクリーンに表示されたのは、無慈悲なエラーメッセージだった。

ファイルは破損しているか、読み取れない形式です。

「……!」 高村は、目を見開いた。そんなはずはない。 もう一度クリックするが、結果は同じだった。 安西が、くっ、と喉の奥で笑う声が聞こえた。 「どうしたのかね、高村くん。肝心の証拠とやらが、ただのガラクタだったとは。我々の貴重な時間を、こんな茶番で無駄にするとは……感心しないな」 安西は、勝利を確信した目で高村を見下した。 「諸君、もういいだろう。警備員、彼をここから連れ出したまえ」

役員たちの間に、安堵と、高村への嘲笑の空気が広がる。 万事休す。 高村は、唇を固く噛みしめた。

だが、彼の表情は、絶望ではなかった。 彼は静かに自分の腕時計に目を落とし、そして、顔を上げた。その瞳には、氷のような、静かな光が宿っていた。

「……時間ですね、安西さん」 「何?」 その、言葉と同時だった。

ブブッ、ブブブッ――。 静まり返っていた会議室のテーブルの上で、一台、また一台と、役員たちのスマートフォンが一斉に震え始めたのだ。 何事かと、彼らが自分のスマートフォンの画面を見る。 そして、その顔から、血の気が引いていく。

スクリーンに表示されていたのは、大手週刊誌のウェブサイトが放った、速報ニュースの通知だった。

【速報】タイヤ最大手ヒノマル、悪質な性能偽装か。内部告発者が語る「走る凶器」の実態

会議室の壁に設置された大型モニターが、それまで表示していた会社の株価をリアルタイムで更新する。緑色だった数字が、鮮血のような赤色に変わり、滝のように垂直に下落を始めた。

役員たちは、スマートフォンの画面と、安西の顔を、信じられないという目で見比べている。記事には、三上の顔を隠したインタビュー動画、そして、改ざんされる前の、あの生々しいテストデータが、専門家の解説付きで掲載されていた。 高村がUSBでやろうとしたことの、完全な上位互換。ジャーナリスト長谷川が、約束の時間通り、社会という法廷に、すべての証拠を提出したのだ。

「……貴様……!」 安西の顔から、初めて余裕という名の仮面が剥がれ落ちた。その顔は、怒りと屈辱で醜く歪んでいる。 高村は、もはや敗北者となった男に、静かに歩み寄った。

「私の父は、かつてあなたに言ったそうです。『品質とは、会社の魂そのものだ』と。あなたは、その魂を、自らの保身のために売り払った」 高村は、懐からもう一つのUSBメモリを取り出し、テーブルの上に置いた。 「これは、あなたの罪を証明するデータです。そして、七年前に私の姉一家が死んだ事故の、再調査を求める請願書も入っている」

安西は、がくりと椅子に崩れ落ちた。 高村は、もはや彼に一瞥もくれることなく、呆然とする役員たちに背を向け、会議室を後にした。 窓の外の空は、どこまでも青く澄み渡っていた。

エピローグ:償いの轍

それから、三ヶ月後。

ヒノマルタイヤの起こした戦後最大級の企業スキャンダルは、連日メディアを賑わせた。株価は暴落し、創業以来初めての赤字へと転落。安西をはじめとした旧経営陣は全員逮捕され、会社は大規模なリストラと、海外企業傘下での経営再建を余儀なくされた。 史上最大規模のリコールが開始され、街中の至る所で、ヒノマルタイヤのロゴが消えていった。

告発者となった三上健太は、司法取引に応じ、執行猶予付きの判決を受けた。彼は、家族と共に故郷の小さな町へと帰り、地元の機械工場で、一人のエンジニアとして静かに再出発を果たした。

品質保証部部長だった木戸俊郎は、事件の発覚後、ひっそりと会社を依願退職した。退職金は、大幅に減額されたという。

そして、高村誠は――。

初冬の冷たい風が吹く、郊外の霊園。 高村は、妻と幼い息子と共に、姉一家の墓前に静かに手を合わせていた。墓石は、新しい花で彩られている。 彼は、事件の後にヒノマルタイヤを辞めた。いくつかの企業から好条件での誘いがあったが、すべて断り、今は、交通遺児を支援する小さなNPO法人で働いている。

「……パパ、いこうよ」 息子の小さな手が、高村のコートの袖を引いた。 「ああ、そうだな」 高村は立ち上がり、息子の頭を優しく撫でた。

彼が得たのは、輝かしい勝利ではなかった。会社は崩壊し、多くの人が職を失った。彼の正義は、多くの人の人生を狂わせたかもしれない。その重い事実は、これからも彼の両肩に乗り続けるだろう。 だが、彼の心は、不思議なほど穏やかだった。 長年彼を縛り付けていた、姉の死の真相という名の呪縛は、解かれたのだ。

家族三人、寄り添いながら、霊園の坂道をゆっくりと下っていく。 彼らが歩んだ後には、落ち葉の上に、三人の轍が、どこまでも続いていた。それは、決して消えることのない、償いの轍だった。

高村は、空を見上げた。 冬の空は、あの日のように、どこまでも高く、そして澄み渡っていた。

– 完 –

関連記事

  1. 『沈黙のサンクチュアリ』

  2. 『硝子の絞首台』

  3. 『偽造された内定』

  4. 『ヴァンパイアの晩餐会』

  5. 『僕が遺したアルゴリズム』

  6. 『アーキテクツ・アリバイ ―評論家の退却―』

  7. 『毒禊』-Where the Truth Drops You.-

  8. 『ONE』

  9. 『怪獣のいない教室』

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

PAGE TOP