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『潮煙の城』

絶望か、計算か。父の死は、血塗られた「遺策」だった。


あらすじ

慶長五年、関ヶ原。天下分け目の戦いが徳川の勝利に終わった頃、伊勢鳥羽では東軍についた九鬼守隆が、西軍についた父・嘉隆の城を攻め落としていた。戦後、父の助命に奔走する守隆のもとに届いたのは、「絶望のあまり自刃した」という非情な報せだった。

しかし、父が死に場所に選んだという答志島で、守隆はその死に様が単なる絶望ではありえないことを直感する。父は何を想い、何を伝えたかったのか。真相を探る守隆が辿り着いたのは、辞世の句などではない。それは、旧時代の栄光と負債、そして自らの命さえも駒として組み込んだ、あまりに冷徹な血塗られた**「遺策」**であった。

海の王者の死は、本当に悲劇だったのか。それとも、一族を未来へ繋ぐために全てを計算し尽くした、最後の計画だったのか。息子が父の真意を悟る時、戦国の世を生き抜いた男の、哀しくも壮絶な覚悟が潮煙の向こうに浮かび上がる。


登場人物紹介

  • 九鬼守隆(くき もりたか) 本作の主人公。偉大な父への敬愛と、旧弊な海の掟との間で葛藤する現実主義者。中央で育ち、徳川家康とも誼を通じるなど、新しい時代の価値観を持つ。父の死の謎を追う中で、一人の息子としての情と、一族を率いる当主としての非情な決断力との間で苦悩し、成長していく。
  • 九鬼嘉隆(くき よしたか) 物語の鍵を握る人物。織田信長、豊臣秀吉に仕え、「海賊大名」として名を馳せた稀代のカリスマ。しかし晩年、時代の変化により旧来の「戦」に依存した経営モデルが行き詰まり、巨大化した組織の存続に苦悩する。一族の未来のため、自らの死を最後の切り札とする非情な「遺策」を遺す。
  • 島本弥平太(しまもと やへいた) ※創作人物 嘉隆の代から仕える古参の船大将。海の掟と豊臣家への恩義を絶対視する、旧時代の象徴。守隆の「徳川寄り」の姿勢に強く反発し、ことあるごとに対立する。守隆が乗り越えるべき、父の時代の「負の遺産」を体現する存在。
  • 堀内氏善(ほりうち うじよし) 熊野の水軍を率いた武将。嘉隆と共に西軍に与し、戦後に改易された「敗者」。全てを失った者として、守隆に西軍参加の裏にあった経済的な動機や、嘉隆が抱えていた焦燥を語る、重要な証言者

序章 ひとつの死、ふたつの謎

慶長五年、十月。

鳥羽の海は、分厚い雲に光を吸われ、鉛を溶かしたように重く沈んでいた。

城の石垣に叩きつける潮風は、秋の骨身に染みる冷たさと、いくさの後に必ず残る、血と鉄と、そして人の脂が焼ける、いまだ消えぬ生臭い匂いを孕んでいる。

九鬼守隆は、父が築いた鳥羽城の天守で、ただ一人、その風を受けていた。肌を刺す風が、着物の合わせ目から入り込み、数日前の戦で昂ったままの熱を無慈悲に奪っていく。

東軍が勝ち、西軍が敗れた。

その理(ことわり)に従い、東軍に与した自分が、西軍についた父の城に弓を引いた。鉄砲隊を指揮し、城壁の一部を破壊し、降伏勧告の使者を送った。戦さの習い。それだけのことだ。冷徹に下した判断であり、そこに間違いはなかったはずだ。

だが、守隆の胸に勝者の高ぶりはひとかけらもなかった。あるのは、腹の底にわだかまり続ける、まるで冷えた鉛を呑み込んだかのような、鈍い痛みだけだった。

父、九鬼嘉隆。

志摩の波濤から裸一貫で身を起こし、織田信長、豊臣秀吉という二人の天下人の懐に巧みに入り込み、「海賊大名」の名を轟かせた男。その偉大な父と、刃を交えることになるとは。

守隆は、徳川家康からの父の助命を取り付けるべく、矢継ぎ早に手を打っていた。信頼の置ける家臣を大坂へ送り、懇意にしている本多正信にも書状を出した。父も、己の処遇を静かに待っているはずだ。歴戦の将である父は、決して軽々しい動きなどせぬ。全ては計算の上、そう信じていた。

その、矢先であった。

階下から響く、ただ事ではない、板を踏み鳴らすような慌ただしい足音。

障子の向こうに複数の人の気配が満ち、空気が震えるのが分かった。

「申し上げます!」

息を切らせた近習の声が、天守の静寂をガラスのように砕いた。

「答志島より、急報にございます!」

守隆の胸が、どくん、と臓腑を直接掴まれたかのように、嫌な音を立てて跳ねた。耳の奥で、低い耳鳴りが始まる。父は、城を明け渡したのち、答志島に渡っていた。

「……申せ」

絞り出した声は、我ながらひどく嗄(か)れていた。喉が乾ききって、舌が上顎に張り付くようだ。

近習は、畳に額をこすりつけんばかりに平伏した。その肩が、小刻みに震えている。

「本日、昼四つ……」

近習の声が、奇妙に震え、途切れる。

「父上が……」

「……御自刃なされました」

時が、止まった。

風の音も、絶え間ない潮騒も、城下に残る人の声も、すべてが遠のいていく。世界から音が消え、ただ、近習の言葉だけが、頭蓋の内側で何度も何度もこだまする。

守隆は、声を発することができなかった。体が、己のものでないかのように動かない。

ただ、目の前の男が続ける言葉を、まるで他人事のように待っていた。

「……伝え聞くところによりますれば、この守隆様も徳川様より処断される、との偽りの報せを耳にされ……」

「……未来を、絶望された、と……」

絶望。

守隆は、その言葉を舌の上で転がした。無味乾燥なその響きが、妙に現実感を欠いていた。

あの父が? この俺の身を案じて? 偽りの報せを信じ、絶望のあまり自ら命を絶っただと?

ありえぬ。

守隆の脳裏に、幼い頃から見てきた父の姿が、鮮明に焼き付いている。嵐の海で、巨大な安宅船のマストがへし折れんばかりにしなった時も、父は船首に立ち、荒れ狂う波頭を睨みつけ、笑っていた。信長の前で、数で十倍する毛利水軍を鉄甲船で打ち破ると豪語した時も、その目に恐れは微塵もなかった。

あの父は、いついかなる時も、現実だけを見ていた。決して感傷に流されず、利と害を誰よりも冷徹に計算する男だった。そんな男が、不確かな報せひとつで、自らの命を捨てるものか。

違う。これは、父の死に様ではない。

「……亡くなられた場所は」

守隆は、ようやくそれだけを尋ねた。

「は。答志島の、和具にございまする」

近習は顔を伏せたまま答える。

「……父上の、最後の言葉は」

「『鳥羽の城が、よう見える』……そう、一言だけ……」

その言葉に、周囲に控えていた他の者たちが、押し殺したように嗚咽を漏らした。故郷の城を望みながら、息子の身を案じ、果てていった悲劇の将。誰もが、そう信じて疑わなかった。

守隆の胸にも、一瞬、熱いものがこみ上げた。だが、次の瞬間、その熱は氷のような冷たい疑念に変わった。父は、そんな分かりやすい男ではない。

「……船を出せ」

守隆は、立ち上がった。その声は、もう震えていなかった。

「答志島へ渡る」

答志島の和具は、入り江に家々が身を寄せ合うように密集する、古くからの漁師町だった。潮の香と魚のはらわたの匂いが、湿った空気に溶け込んでいる。

嘉隆が自刃を遂げたという場所は、集落を見下ろす小高い丘の上にあった。松林を抜ける風の音が、まるで誰かのすすり泣きのように聞こえる。

守隆は、家臣たちの案内で、その場所に立った。

松の木の根元に、どす黒く変色した土があった。まだ生々しい血の跡だ。ここで父は、腹を掻き切り、その六十一年の生涯を終えたのだ。

「……ここから、城が見えるのだな」

守隆は、誰にともなく呟いた。

「は。嘉隆様は、この方角をじっと見つめられ……」

家臣の一人が、鳥羽の方角を指差す。

守隆は、その方角に目を向けた。

木々の梢が、潮風にざわめいている。その向こうに、鳥羽の海が広がっているはずだ。城も、見えるはずだった。

……だが。

守隆は、目を凝らした。風に煽られ、涙が滲む。それでも、じっと目を凝らした。

何度、見ても。

そこからは、丘の麓の木々と、その先に広がる海の一部が見えるだけだった。

父が築き、自分が攻め落とした鳥羽の城は、島の別の峰に遮られ、その石垣ひとかけらも見えなかった。

守隆の背筋を、冷たい汗が滝のように伝った。

「見えぬではないか」

その声は、怒りとも、戦慄ともつかぬ響きを帯びていた。

家臣たちは、息を呑む。彼らの顔には、ただ困惑の色が浮かんでいる。

見えない。ここから、城は、見えない。

では、父の最後の言葉は何だったのだ。なぜ、家臣たちは「城が見える」と嘘をついたのか。いや、彼らは嘘をついてはいない。そう信じ込まされたのだ。父が、そう仕向けたのだ。

感傷ではない。絶望でもない。

父の死は、悲劇などではない。これは、何かの「事件」だ。

父の死には、何か別の、明確な意図があった。この場所を選んだことにも、意味がある。あの人のことだ。きっと、全てを計算し尽くしている。

守隆は、血の跡が残る地面を睨みつけた。

これは、父が自分に遺した、最初の謎だ。

そして、必ず解き明かさねばならぬ、最後の命令だ。

絶望か、計算か。

父の死は、血塗られた「遺策」だった。

守隆は、冷え切った指先を、肉に食い込むほど強く握りしめた。

鳥羽の海から吹き付ける潮煙が、まるでこれから始まる長い闘いの幕のように、島のすべてを、そして守隆の心を白く、冷たく包み込んでいた。


第一章 負債の目録

城内の空気は、まだ守隆に馴染まなかった。

石垣に染みついた潮の匂い。廊下を渡る風が運ぶ、自分のものではない記憶。この城を建てた父の気配が、いまだ柱の一本一本にまで染みついているかのようだ。

評定の間には、父・嘉隆の時代から仕える者たちが顔を揃えていた。

海の戦いに明け暮れてきた、武骨な男たち。日に焼け、潮風に刻まれた顔、顔、顔。その視線が、上座に座る守隆に、まるで無数の槍の穂先のように突き刺さる。ある者はあからさまな不満をたたえ、ある者は探るような目を向ける。部屋に漂うのは、汗と、鎧の革や鉄の匂い、そして男たちの発する、言葉にならない疑念の匂いだった。

守隆は、その全てを静かに受け止めていた。

議題は、城下の治安維持と、今回の戦での論功行賞について。

形ばかりの議論が、上滑りしていく。誰もが、本心を探り合っている。

口火を切ったのは、古参の船大将、島本弥平太(しまもとやへいた)だった。

岩のような体躯に、日に焼けた深い皺。その声は、嵐の海の轟きに似ていた。

「若様」

呼び方は丁寧だが、その響きには棘がある。

「いや、殿、と申すべきか」

弥平太は、わざとらしく言い直した。その目の奥に、守隆を子供扱いする色がちらついている。

「此度の戦、まこと、見事な采配にございました。この弥平太、感服つかまつった」

言葉とは裏腹に、その目には何の敬意も宿っていない。

「……だが、腑に落ちぬ」

評定の間の空気が、一瞬で張り詰めた。それまでざわついていた鎧の擦れる音さえ、ぴたりと止む。

「我らは、太閤殿下より大恩を受けた身。それを……徳川に与し、大御屋形様(おおおやかたさま)の城に弓を引くとは。いかなる理屈をつけようと、人の道に悖(もと)る行いではござりませぬか」

守隆は、弥平太を真っ直ぐに見据えた。

「弥平太。戦は終わった。これよりは、九鬼家が徳川の治世でいかに生き抜くかを考えねばならぬ」

「生き抜く、ですと?」

弥平太は、鼻で笑った。

「大御屋形様は、そのために腹を切られたのではない! 我らも、潔く後を追うのが、武士の情けというものではござらんか!」

「死んで、何が残る」

守隆の声は、静かだった。だが、その静けさが、弥平太の激情を逆なでする。

「家を残す。民を安んじる。それこそが、当主の務めだ」

「……若様は、変わられた。伏見の暮らしが、海の男の魂を忘れさせたか」

弥平太は、苦々しげに吐き捨てた。

「海の掟は、義理と人情。利や害で動くは、堺の商人のやり方でござる」

その言葉に、他の古参衆の何人かが、強く頷いた。彼らが父・嘉隆に抱くのは、主君への忠誠心というより、絶対的な棟梁への信仰に近い。そして、徳川についた守隆は、その信仰を裏切った者にしか見えないのだ。

守隆は、それ以上、何も言わなかった。言葉を尽くしても、今は無駄だ。彼らの抵抗の根は、単なる感傷や忠義心だけではない。もっと深く、暗い場所に根を張っている。己の存在意義そのものが、新しい時代に否定されることへの、本能的な恐怖だ。

評定を終えた後、守隆は一人、勘定方を呼びつけた。

父の代から、九鬼家の財政を預かる、気の弱い小男だ。

「全ての帳簿を、ここに」

守隆の短い命令に、勘定方は一瞬、ためらった。その目に、何かを隠そうとする魚のような怯えが浮かぶ。

「……若様。それは……」

「よい。全てだ。九鬼家の、収入と支出の全てを、この目で確かめる」

やがて、運ばれてきた数巻の大福帳。和紙の手触りが、ひやりと指先に冷たい。墨の匂いが、部屋の空気を重くする。

守隆は、蝋燭の灯りを頼りに、一つ一つ、頁を繰っていく。

まず、収入の部。

知行五万六千石。それとは別に、伊勢湾から熊野灘に至るまでの海上支配権。湊に出入りする船からの上納金、漁師たちからの税。その金の流れのほとんどに、「太閤殿下御朱印状」という裏付けがあった。豊臣の名によって保証された、富。つまり、徳川の世では、その根拠の全てが失われる。

守隆の背筋が、冷たくなった。

そして、支出の部。

家臣たちへの禄高、城の維持費、兵糧の購入費。

数字を追う守隆の目が、ある一点で、ぴたりと止まった。

桁が、違う。

他の項目とは、明らかに桁が違う支出が、そこにあった。

「……鉄甲船維持費」

絞り出した声に、勘定方がびくりと肩を震わせる。

信長に仕え、毛利水軍を打ち破った、九鬼家の栄光の象徴。父が心血を注いで作り上げた、無敵の海上要塞。正式には大安宅船(おおあたけぶね)と呼ばれるそれは、もはや伝説の船だった。

その維持費は、九鬼家の全支出の、実に三割近くを占めていた。

船体の腐食を防ぐための船底の清掃と修繕費、防水のための桐油や塗料。そして、動かさずとも湊に繋いでおくだけで、常に必要となる数百人の水主(かこ)への給金。

息が詰まった。これは、もはや資産ではなかった。

九鬼家の血を、静かに、しかし確実に吸い続ける、巨大な化け物だ。

守隆は、帳簿を閉じた。ぱたん、という乾いた音が、静かな部屋に響く。

分かった。弥平太たちが、あれほどまでに変化を恐れる理由が。

彼らは、父が作り上げた「戦の時代」の成功体験にしがみついているのだ。鉄甲船を擁し、海の戦で武功を立て、恩賞を得る。そのビジネスモデルが、もはや成り立たないという現実から、目を背けている。いや、気づいていないのかもしれない。

だが、父は。

あの冷徹な計算高い父が、これに気づいていなかったはずがない。

九鬼水軍という組織は、外から見るよりも遥かに脆い砂上の楼閣だった。

関ヶ原の戦が始まるずっと前から、この組織は、すでに経営破綻寸前だったのだ。

父の苦悩は、そこから始まっていたのだ。西軍につくか、東軍につくか。そんな選択の、遥か手前から。

守隆は、蝋燭の炎の向こうに、誰にも理解されず、ただ一人で帳簿を睨みつけていたであろう、父の孤独な背中が見えるような気がした。


第二章 敗者の証言

帳簿を閉じてから数日、守隆は考え続けていた。

父が抱えていたであろう、経営者としての孤独。誰にも打ち明けられぬまま、ゆっくりと組織が沈んでいくのを、ただ見ているしかなかった焦り。

島本弥平太ら古参の者たちに、この話はできぬ。彼らは、帳簿の数字よりも、過去の武勇伝と恩義を信じる男たちだ。

内側からでは、何も見えぬ。

ならば、外から。父と同じ立場にいた男ならば、何かを知っているやもしれぬ。

守隆は、信頼できる数名の配下だけを連れ、密かに鳥羽の湊を立った。小早を自ら操り、夜陰に紛れて熊野灘を南下する。目指すは、紀伊水道に面した、寂れた漁村。そこには、戦に敗れ、全てを失った男が隠れ住んでいるはずだった。

熊野の水軍を率いた男。父と共に西軍に与した、堀内氏善(ほりうちうじよし)。

潮の香と、干物の匂い、そして魚のはらわたが腐る酸っぱい臭いが立ち込める、小さな庵だった。絶え間なく聞こえる単調な波の音が、敗者の侘しさを際立たせている。

氏善は、まるで年老いた漁師のように、静かに網を繕っていた。かつて数千の水軍を率いた将の面影はない。その指は節くれ立ち、顔には諦めと無気力が深く刻まれている。

守隆の姿を認めると、彼はゆっくりと手を止め、ただ一礼した。その目には、驚きも、恨みもなかった。あるのは、全てを失った者だけが持つ、凪いだ諦念の色だった。

「……鳥羽の若様が、このようなむさ苦しい場所に、何の御用で」

声は、ひどく乾いていた。

「負け戦の将に、聞きたいことなど、ござるまい」

守隆は、氏善の正面に腰を下ろした。

「氏善殿。なぜ、我らは西軍についた」

単刀入な問いだった。

氏善は、初めて、その目に微かな光を宿した。まるで、灰の中から熾火を掻き出すかのように。

「……義理、とでもお答えすれば、ご満足かな」

「義理だけでは、兵は動かせぬ。腹を空かせた水主(かこ)は食わせられぬ。それは、海の将である貴殿が一番ご存知のはず」

守隆の言葉に、氏善の口元が、ほんの少しだけ歪んだ。自嘲の笑みに見えた。

「……なるほど。嘉隆殿の御子息は、物の道理が分かっておられる」

氏善は、繕いかけの網を脇に置いた。

「守隆殿。我ら水軍は、いわば海の獣。陸(おか)の理屈では生きられぬ」

「……」

「我らの力の源泉は、何か。それは、海を好きにできるという、ただ一点に尽きる。太閤殿下は、それを我らに許された。だからこそ、我らは殿下に従った」

守隆は、黙って次の言葉を待つ。

「だが、徳川の世になれば、どうなる」

氏善は、守隆の目を真っ直ぐに見た。

「全ては、江戸の差配次第。我らは、ただの湊の番人に成り下がる。海の自由は失われ、我らの牙は抜かれる。それは、死ぬことと同じでござる」

「……西軍は、我らの支配権を保証すると?」

「そうだ」

氏善は、はっきりと頷いた。

「石田治部少(いしだじぶのしょう)は、約束した。西軍が勝てば、これまで通りの、いや、これまで以上の海の自由を九鬼と堀内に保証する、と。それは、我らにとって、抗いがたい誘いであった」

やはりか。守隆の読み通りだった。父の西軍参加は、感傷や忠義ではない。旧来のビジネスモデルを守るための、必死の経営判断だったのだ。

「父も、その言葉を信じたと」

「信じた、というより……」

氏善は、言葉を切った。

「……賭けた、のであろうな」

「賭け……」

「そうだ。我らが生き残るための、最後の賭けだ。そして……見事に負けた」

氏善は、そう言って、また乾いた笑みを浮かべた。その顔には、一片の後悔も見えなかった。ただ、冷徹な事実だけがそこにあった。

守隆は、立ち上がりかけた。聞きたかったことは、もう聞いた。

だが、去り際に、氏善がぽつりと呟いた。

「……嘉隆殿は、さすがのお方だった」

守隆は、足を止めた。

「……どういう意味だ」

「あの人は、賭けに勝つことしか考えておらぬ我らとは、違った」

氏善は、遠い目をして、庵の向こうに広がる灰色の海を見つめた。

「嘉隆殿は、賭けに負けた時のことも、考えておられたはずだ」

守隆の心臓が、大きく脈打った。

「……負けた時の、こと……?」

「ああ」

氏善は、守隆の方へ向き直った。その凪いでいたはずの目に、憐れみとも、畏敬ともつかぬ、複雑な光が宿っていた。

「あの人は、賭けに負けた時の……」

「……『清算』の仕方も、な」


第三章 血染めの遺策

鳥羽の城へ戻った守隆の頭には、堀内氏善の最後の言葉が、まるで呪いのように、繰り返し響いていた。

『清算』。

その乾いた言葉が、父の死の謎を解く、唯一の鍵のように思えた。

父は、何に帳尻を合わせようとしたのか。何を、その命で支払おうとしたのか。

守隆は、父の遺品が納められた部屋へ、再び足を向けた。

部屋の空気は埃っぽく、革具と、塗り物の漆、そして錆びた鉄の匂いが混じり合って、父という人間の生きた証を濃厚に放っていた。

最初に見た時は、悲しみと混乱で、何も見えていなかった。だが、今は違う。自分が探しているのは、感傷的な辞世の句などではない。もっと冷たく、もっと硬い、何かだ。

部屋には、父が使い込んだであろう武具が、静かに置かれていた。南蛮渡りの兜。金梨子地の鞘に収められた、豪壮な太刀。その全てに、戦場でついたであろう無数の傷が刻まれている。

守隆は、それらには目もくれず、隅に置かれていた一つの簡素な文箱を手に取った。

中には、数通の書状と共に、一巻の覚書が収められていた。前回は、ただの走り書きと見過ごしたものだ。

守隆は、震える指で、その紐を解いた。

蝋燭の灯りの下、ゆっくりと広げていく。

そこに記されていたのは、文学的な遺言などではなかった。

びっしりと書き連ねられていたのは、数字、数字、数字。そして、人の名。

まるで、商家の主人が記した大福帳のようだった。

まず、冒頭。『保有船一覧』。

そこには、九鬼水軍が有する全ての船の名が記されていた。鉄甲船、安宅船、関船、小早。そして、それぞれの名の横に、二列の数字が添えられている。『年間維持費』。『平時収益見込』。

守隆は、息を呑んだ。

栄光の象徴である鉄甲船の欄。『年間維持費』は、莫大な数字が記されている。対して、『平時収益見込』の欄は、無慈悲なまでに『零』とあった。いや、注釈として『警護以外の用途には不向き、むしろ損耗多し』とまで書かれている。

逆に、小型の関船や小早は、維持費は低いものの、交易や輸送での収益が見込めると記されている。

これは、父が遺した、九鬼水軍の冷徹な資産査定書だった。

続いて、頁をめくる。現れたのは、『家臣団所見』。

島本弥平太の名がある。その横には、『忠義に厚いが、旧弊に囚われる。戦働きには長けるも、治世には不向き』と、身も蓋もない評価が記されていた。

他の家臣たちについても、誰が算術に明るいか、誰が交渉事に向いているか、誰が新しい時代に対応できるか、淡々と、しかし的確に分析されている。これは、次期当主へ向けた、人事評価ファイルそのものだ。

そして、守隆は、最後の頁に辿り着いた。

そこだけが、少し乱れた、切迫した筆跡で書かれていた。

題名は、『九鬼家存続之策』。

そこに書かれていたのは、徳川の世が来た後の、政治情勢の冷徹な分析だった。九鬼家が生き残るための、最大の障害は何か。それは、当主である九鬼嘉隆自身が、西軍に与したという、拭い去れぬ「罪」。この政治的な「負債」を、いかにして清算するか。

その答えは、血が滲むような、あまりに非情な一文で締めくくられていた。

『……罪の根源たる嘉隆が身を処するを以て、徳川への最大の忠誠とす。これにより、守隆への家督相続に一切の瑕疵を残さず、むしろ御家の安泰を盤石にするものなり』

ひゅっ、と喉が鳴った。

文面は、守隆の手から滑り落ちた。

これは、遺書などではない。

父が、己の命を「駒」として、いや、「決済手段」として組み込んだ、壮大かつ冷徹な事業承継計画書だ。

血塗られた「遺策」。

その血とは、父自身の血だったのだ。

あまりの計算高さに、守隆は激しい悪寒に襲われた。それは、悲しみという感情ではなかった。巨大で、完璧で、そして恐ろしいものの前にひれ伏すような、畏敬の念だった。

父は、絶望などしていなかった。最後の最後まで、海の王者として、九鬼家の未来を計算し尽くしていたのだ。

その非情なまでの愛情の形を理解した時、守隆の肩に、これまで感じたことのないほどの重圧が、ずしりとのしかかってきた。


終章 潮煙の城

全ての謎が、解けた。

守隆は、鳥羽城の天守で、父が遺した血染めの『遺策』を手にしていた。もはや、それはただの紙片ではなかった。父・嘉隆の、命の重さそのものだった。

窓の外では、灰色の雲の下で、海が荒れていた。潮煙が霧のように立ち上り、城の石垣を濡らしている。

あの人は、絶望などしていなかった。それどころか、関ヶ原で西軍が敗れたという報せを聞いた時、己の死に場所と、その死に様を、完璧に計算したのだ。

なぜ、城の見えぬ場所で、「城がよう見える」と言ったのか。それは、感傷などではない。この俺に、「なぜだ?」と問いを立てさせるため。その死の裏に、何かがあるのだと気づかせるための、最初の仕掛けだったのだ。

なぜ、助命を待たずに、性急に死んだのか。それは、徳川家康に恩を着せぬため。父の命が、家康の温情によって救われた、などという形にしてはならなかった。九鬼家が徳川の世で生きるためには、自らの罪は、自らで清算する。その非情なまでのけじめこそが、新しい当主である守隆の立場を、何よりも強くするという計算。

父上……。

守隆の胸に、息子としての熱いものが、今更のように込み上げてくる。あまりに、非情な。そして、あまりに、深い愛情ではないか。

だが、感傷に浸ることは、父が最も望まぬことだろう。この『遺策』は、父が遺した最後の命令書だ。そして、その実行を託されたのは、この俺なのだ。

守隆は、激しく葛藤した。

父の描いた未来図の正しさを、頭では理解している。だが、心が、それを実行することをためらっていた。それは、あまりに多くのものを、切り捨てる計画だったからだ。父が築き上げた栄光も、海の男たちの誇りも。

守隆は、立ち上がった。天守から、荒れる海を見つめる。潮煙が、まるで父の無念の魂のように、空へと昇っていく。

「……父上」

俺は、あなたの息子だ。そして、今は、九鬼家の当主だ。

あなたの覚悟、しかと、受け継いだ。

守隆の目に、もう迷いはなかった。

評定の間は、凍てつくような緊張に満ちていた。

守隆は、上座から、居並ぶ家臣たちをゆっくりと見渡す。誰もが、固唾を飲んで、新しい当主の言葉を待っていた。

特に、島本弥平太は、その岩のような顔をさらに強張らせ、守隆を睨みつけている。

守隆は、静かに口を開いた。

「皆に、伝えることがある」

その声は、若さに似合わぬほど、低く、重く響いた。

「これより、九鬼家の家政を、大きく改める」

ざわ、と家臣たちの間にかすかな動揺が走る。

「まず、手始めに……」

守隆は、言葉を切り、弥平太の目を、真っ直ぐに見据えた。これから自分が口にする言葉が、この老将の心を、どれほど深く傷つけるか、分かっていた。それは、父の時代、海の男たちの誇り、その全てを否定する言葉だったからだ。

「……鉄甲船を、解体する」

時が、止まった。誰もが、己の耳を疑った。

最初に我に返ったのは、弥平太だった。

「……若様」

その声は、怒りを通り越し、哀願するような響きを帯びていた。

「今、何と……。鉄甲船は、大御屋形様の魂そのものにございますぞ! それを、解体なされると……?」

「そうだ」

守隆の答えは、短く、揺るぎなかった。

「あれは、戦の時代の遺物。平時の世では、家の財を食い潰すだけの、ただの重荷だ」

「重荷だと!?」

弥平太は、わなわなと震えながら、立ち上がった。

「あれがあるからこそ、我ら九鬼水軍は、日の本一の水軍たり得たのではござらんか! その誇りを、殿は、お捨てになるのか!」

「そうだ」

守隆は、再び、同じ言葉を繰り返した。

「その誇りが、我らを滅ぼす」

弥平太の目から、涙が、一筋、流れ落ちた。それは、怒りの涙ではなかった。己の信じてきた世界が、音を立てて崩れ落ちていくのを見た、男の、悲しみの涙だった。

守隆は、その姿から、目を逸らさなかった。この痛みも、悲しみも、全て自分が引き受けねばならぬ。それこそが、父の『遺策』を継ぐ者の、覚悟だった。

「異論は、認めぬ」

守隆は、静かに、しかし、有無を言わさぬ声で言った。

「これは、九鬼家が、新しい時代を生き抜くための、最初の決断だ」

評定の間に、重い沈黙が落ちた。もう、誰も、何も言えなかった。新しい当主の、非情なまでの決意の前に、古い時代の男たちは、ただ、うなだれるしかなかった。

その日の夕刻。嵐が過ぎ去ったかのように、海は凪いでいた。

守隆は、再び、天守にいた。

父の『遺策』は、懐に固く収められている。

水平線の向こうが、茜色に染まり始めている。

鳥羽の海に、夕靄のように、白い潮煙が、静かに立ち上っていた。

それは、消えゆく時代の、最後の吐息のようにも見えた。

そして、新しい時代の、産声のようにも見えた。


数年の歳月が、流れた。

鳥羽の海は、変わらずにそこにあった。

だが、海を行き交う船の姿は、様変わりしていた。かつて湾内を埋め尽くした、物々しい戦船(いくさぶね)の姿はない。代わりに、大きな帆を張り、各地の産物を満載した商船が、ゆっくりと湊へ入ってくる。湊には新しい蔵が立ち並び、人々の活気ある声が響いている。

九鬼守隆は、城の一角に設けた見張り櫓から、その光景を眺めていた。その横顔に、かつて父の死の謎を追っていた頃の、若武者の硬さはない。歳月が、彼を藩主の顔つきに変えていた。

「……殿」

背後から、しわぶれた声がかかる。

守隆が振り返ると、そこにいたのは、漁師たちに混じって網の修繕をしていた、島本弥平太だった。

あの評定の日以来、弥平太は全ての役職を辞した。守隆も、それを止めなかった。だが、弥平太は鳥羽を去らなかった。ただの老いた海の男として、この地に残り続けていた。

「見事な湊に、なられましたな」

弥平太は、守隆の隣に立ち、同じように海を見つめた。その声には、もう何の棘もなかった。

「おぬしが、海の男たちの仕事口を差配してくれたおかげだ」

守隆は、静かに答えた。

鉄甲船を解体し、水軍を解体した後、守隆が最初に取り組んだのは、戦う術しか知らぬ海の男たちに、新しい仕事を与えることだった。漁業を奨励し、海運を興し、湊を商いの中心地として育てた。その裏には、弥平太のような古参たちが、若い漁師たちに海の知識を教え、船の動かし方を伝え続けるという、見えざる協力があった。

「……若様」

弥平太は、ぽつりと、昔の呼び方で言った。

「わしは、今でも、大御屋形様のやり方が好きでござる。……じゃが」

言葉を切り、弥平太は深く、深く頭を下げた。

「……この平和な海もまた、悪うはござらん。若様のやり方が、正しかったのでございましょう」

守隆は、何も言わなかった。ただ、弥平太の肩を、一度だけ、ぽんと叩いた。それで、十分だった。

弥平太が去った後、守隆は再び、一人になった。

懐の奥には、父が遺した『遺策』が、今も静かに収められている。時折、これを取り出しては、父と対話する。

父上。

あなたの血塗られた「遺策」がもたらしたものは、この凪いだ海です。

この、民の笑い声が聞こえる湊です。

あなたが捨て去った「誇り」と引き換えに、俺は、このささやかな平和を手に入れた。

この選択が、本当に正しかったのか。

その答えは、まだ出ない。

おそらく、生涯、出ぬのだろう。

だが、俺は、この道を歩み続ける。

あなたが、その命を懸けて、俺に託した道だからだ。

水平線の彼方から、白い潮煙が、静かに立ち上っていた。

それは、もう、戦の記憶を呼び覚ますものではなかった。

ただ、明日も、明後日も、変わることなく続いていくであろう、海の、静かな息吹だった。

守隆は、その潮煙の向こうに、父の姿を探すのを、もうやめていた。

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