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『涯の美学』-夏目漱石と森鴎外との邂逅-

歴史が記さなかった一夜の対話。日本近代が抱えた苦悩のすべてが、そこにあった。


あらすじ

文学資料館の学芸員・貴島遥は、乃木大将殉死に関する企画展を担当する中で、ある知的な疑問に突き当たっていた。なぜ、この一つの死に対し、森鷗外は滅びの「美」を描き、夏目漱石は近代の「病」を描いたのか。まるで、一つの事件への二つの応答のように。

その問いが頭から離れない中、彼女は鷗外の旧蔵書の中から、彼の筆跡で書かれた一枚のメモを発見する。

『病の虎、天に嘯かんとす。我、傍観を是とすのみ』

それは、遥の問題意識が引き寄せた必然の発見だった。公にはほとんど交流がなかったとされる二人の巨星が、その水面下で深く交感していたことを示す、あり得ない記録。遥は、歴史の空白を埋める「一度きりの密会」の真実を求めて、孤独な探索を開始する。

対極の道を歩んだ二人は、なぜ会う必要があったのか。断片的な記録と作品に遺された魂の痕跡を繋ぎ合わせる遥の旅は、やがて百年の時を超え、二人が己の死を前にして交わした静かな対話の真実に辿り着く。

近代日本の知性が到達した、最も孤独で、最も美しい場所(涯)とはどこだったのか。これは、失われた言葉を探す、現代の私たち自身の物語である。

登場人物紹介

  • 貴島 遥(きじま はるか) 現代パートの主人公。文学資料館の学芸員。かつて漱石研究で挫折した過去を持つが、企画展をきっかけに再び二人の文豪の魂の軌跡を追い始める。その探求は、やがて自分自身の生き方を見つめ直す旅となる。
  • 夏目 漱石 過去パートの核心人物。近代的な自我(エゴ)の苦しみを一身に背負い、持病の胃痛に苛まれながら、自己を超越した「則天去私」の境地を追い求める孤高の作家。権威を嫌い、「私」の道を貫いた在野の巨人。
  • 森 鷗外 もう一人の核心人物。陸軍軍医総監という国家の中枢に身を置きながら、創作活動を続けた知性の体現者。社会や立場という変えられぬ現実を受け入れ、その中で品格を保つ「諦念」を貫いた「公」の巨人。

序章

その匂いは、死んだ時間の匂いだと、貴島遥(きじま はるか)は思うことがあった。

文学資料館の地下書庫。 空調が絶えず低い唸りを上げているというのに、空気はどこか淀んでいる。黴(かび)と、古い紙の酸化する匂い。彼女の席は、その書庫の一番奥、冷気が最も強く吹き付ける場所にあった。

製本に使われた古い糊(のり)。酸化し、黄ばんだ紙。インクの微かな痕跡。 それらすべてが混じり合い、時間の亡霊のように遥の肺を満たした。 彼女は、スチール製の書架に並ぶ背表紙を、指先でなぞる。 『鷗外全集』 『漱石全集』 整然と並ぶ文字の羅列は、墓碑銘のようだ、と不意に思う。完成され、解釈され、評価の定まった、動かない言葉たちの墓標。

学芸員としての彼女の仕事は、その墓守のようなものだった。 博士課程で一度は光を夢見た研究者の道。それが、指導教官との決定的な見解の相違――事実上、権威への反逆と見なされた結果――によって閉ざされてから、もう三年になる。 ここは、彼女にとっての流刑地。罰として与えられた、静かすぎる職場だった。

今、彼女は企画展の準備に追われている。 『明治の終焉――乃木大将殉死とその衝撃』 遥が自ら企画し、上司の許可を得た、ささやかな抵抗の証。 だが、調査を進めるほどに、遥の中には一つの澱(おり)のような、解き明かせない疑問が溜まっていた。

乃木希典の死。 その衝撃に対し、二人の巨星は、あまりにも対照的な応答を示した。

森鷗外は、事件からわずか五日で『興津弥五右衛門の遺書』を書き上げた。 滅びゆく武士道精神への、冷徹なまでの鎮魂歌。 彼は、その死を歴史の必然として、美しい滅びとして記録した。そこには感情の揺らぎがほとんど見えない。

一方、夏目漱石は、その死の衝撃を自らの内面で長く、苦しみながら発酵させ、『こゝろ』という作品の中で「明治の精神に殉死した」先生を描いた。 それは、新しい時代に取り残された人間の、どうしようもない孤独とエゴイズムの病理だった。

なぜ、これほどまでに応答が違うのか。 まるで、一つの同じ問いに、全く別の方向から答えるかのように。 二人は互いの作品を読んだはずだ。 その時、何を思ったのか。 歴史は、その点について、あまりにも雄弁に沈黙している。

その日、遥は寄贈された蔵書の整理をしていた。 ある地方の旧家から、まとめて引き取られたものだという。埃をかぶった段ボール箱の一つに、その本はあった。

手に取ったのは、ドイツ語で書かれた古い医学書だった。 『Diagnostik der inneren Krankheiten』。内科診断学。 黒い革の装丁は硬化し、ひび割れている。ゴシック体の、威圧的な活字。 鷗外が軍医として、その知識の血肉とした本の一冊なのだろう。

パラパラと、硬化したページをめくっていく。 指先に伝わる、死んだ時間の感触。 慎重に。 その眠りを、起こさないように。

その時、指先に微かな、だが明らかな異物の感触があった。 本の喉の奥。ページの綴じ目に、一枚の紙片が挟まっている。 経年劣化で琥珀色(こはくいろ)に変色した、葉書ほどの大きさの和紙。

遥は、息を詰めた。 心臓が、冷たい地下書庫の空気の中で、不釣り合いなほど熱く脈打つのを感じる。 ピンセットを使い、慎重に、震える指を抑えながら、それを取り出した。

そこには、万年筆で書かれたであろう、流麗だが、どこか硬質な筆跡があった。 インクは褐色に褪せているが、その知性は百年を経てもなお、鮮烈だった。 鷗外のそれに、間違いなかった。

『病(やまい)の虎、天に嘯(うそぶ)かんとす』

――虎?

遥の眉が、わずかに動く。 思考が、凍てついた回路を無理やりこじ開けるかのように回転を始める。

『我、傍観を是とすのみ』

短い文章だった。 日付も、署名もない。 ただ、隅に『寒月』とだけ記されている。

遥は、その紙片をデスクライトにかざした。 薄い和紙の繊維が透けて見える。

病の虎。 持病の胃潰瘍を抱え、その激痛に生涯苦しみ続けた作家。 修善寺の大患で、死の淵を覗いた男。 その強烈すぎる自我と格闘し、苦悶の末に「則天去私」――天に則り私を去る、という境地を追い求めた男。

天に、嘯かんとす。

まさか。

遥の心臓が、大きく脈打った。 それは期待というよりも、畏れに近い感情だった。 開けてはならない、歴史の函(はこ)に触れてしまったかのような。

病の虎とは、夏目漱石のことではないか。 彼の追い求めた理想を、鷗外は「天に嘯く」と表現したのではないか。 そして、その苦闘を、ただ「傍観する」と。

それは、単なる無関心ではない。 「是とする」という言葉には、静かだが、極めて能動的な意志が感じられる。 認めているのだ。 理解しているのだ。 その上で、自分は自分の場所に立つ、という強靭な宣言。

遥は、背筋に冷たいものが走るのを感じた。

公の記録では、ほとんど交わることのなかった二つの知性。 在野を貫いた漱石と、国家の中枢にいた鷗外。 その水面下で、こんなにも深く、互いの魂を覗き込み合うような瞬間があったというのか。

もし、このメモが本物なら。 もし、二人がどこかで――

遥は、紙片をそっと元のページに戻した。 医学書の、冷たく重い表紙を閉じる。

書庫の静寂が、今までとは違う意味を持って、彼女の身体に圧し掛かってきた。 これは、死んだ時間の匂いなどではない。 百年の沈黙を経て、今まさに蘇ろうとしている、生きた時間の息遣いそのものだ。

遥は、自分の内側で、止まっていた何かが静かに動き出すのを感じていた。 それは、学芸員としての知的好奇心ではなかった。 研究者として挫折した、あの日の苦い記憶でもない。

もっと根源的な、何か。 失われた言葉を探し出せ、と命じる、魂の声のようなものだった。

彼女は立ち上がり、書庫の扉に向かう。 一歩、また一歩と。 その足取りは、もう墓守のものではなかった。


第一部:探索

権威の壁

翌朝、遥は資料館の館長室のドアを叩かなかった。 彼女が真っ先に向かったのは、母校の大学研究室だった。

乃木大将の企画展で世話になった、笹島教授を訪ねるためだ。

笹島は、この分野の揺るぎない権威だった。 遥が大学院生だった頃の、指導教官でもある。 彼の書斎は、床から天井まで本で埋め尽くされ、古い紙と、彼が愛用する上質なパイプ煙草の香りがした。 書庫の澱んだ匂いとは違う、生きた知性が発する匂い。 かつて、遥が心から憧れた匂いだった。

「――それで、鷗外のメモ、かね」

笹島は、遥が差し出したメモのレプリカを、老眼鏡越しに一瞥しただけだった。 まるで、出来の悪い学生が提出した、単位目当てのレポートを読むかのように。 その視線が、遥の肌をチリチリと焼いた。

「『病の虎、天に嘯かんとす』…か。面白いことを考えるもんだ、君は」

その口調には、賞賛の色合いなど微塵もなかった。 含まれているのは、憐れみと、教師が教え子に向ける、わずかだが明確な侮蔑。

「笹島先生。これは単なる私の想像ではありません。時期、状況、そして何より鷗外と漱石が抱えていた思想的背景を考えれば――」

「飛躍だよ、貴島君」

笹島は、遥の言葉を遮った。 その声は、静かだが、有無を言わせぬ響きを持っていた。彼が学会で論敵を沈黙させるときと、同じ響きだった。

「君の悪い癖だ。昔からそうだった。事実と事実の間にある、僅かな隙間を、君は自分の想像で埋めようとする。それは研究者のやることじゃない。小説家の仕事だ」

小説家。 その言葉が、遥の胸の古い傷口に、熱い鉄を押し当てたように突き刺さる。 三年前、笹島が彼女の博士論文を「独創的ではあるが、実証性に欠ける」として退けた時と、全く同じ言葉だった。 あの時も、彼女は定説を覆す可能性のある、小さな書簡を発見したのだ。

「しかし、先生。このメモは、あまりにも…」

「こじつけだと言っているんだ」

笹島は、レプリカをテーブルに押し返した。その仕草には、これ以上時間を無駄にするなという苛立ちが滲んでいた。

「いいかね。鷗外が漱石を『虎』と評した記録など、どこにもない。二人が私的に会ったという確たる証拠も、もちろんない。あるのは、君のその、過剰なロマンチシズムだけだ。そんなもので歴史の空白が埋まるなら、我々研究者など必要ないだろう」

彼は、新しい煙草に火をつけた。 甘く、しかし重たい紫煙が、二人の間に緩やかな、越えがたい壁を作る。

「企画展の準備で疲れているんだろう。少し、頭を冷やしたまえ」

それは、宣告だった。 これ以上、この話をするな、という。 そして、二度と私の前に、このような「妄想」を持ってくるな、という冷たい警告だった。

遥は、唇を噛んだ。 悔しさよりも、深い孤独が彼女を襲う。 この巨大な知性の壁の前では、自分の発見など、取るに足らない妄想に過ぎないのか。

書斎を出た時の、廊下の冷たさを、遥は生涯忘れないだろうと思った。 憧れは、今や完全に失望へと変わっていた。

そして、失望は、やがて静かな、冷たい決意へと姿を変える。

――いいえ、先生。これは、妄想などではない。

心の内で、遥は呟いた。

――あなた方が見ようとしない、あるいは見えないだけだ。事実と事実の隙間にこそ潜む、人間の魂の真実を。

私は、それを探し出す。 たとえ、この学会で、たった一人になったとしても。

地下の同志

資料館に戻った遥を待っていたのは、いつもの皮肉めいた声だった。

「教授様に、またお説教でも食らってきたんですか。随分とどんよりした顔色だ」

声の主は、地下書庫の主、須藤だった。 古文書担当のアーキビスト。 無精髭に、よれたネルシャツ。一見すると、ただのやる気のない中年男にしか見えない。 だが、その知識は、データベースを嘲笑うかのように、底なしだった。

遥は、彼だけには、ことの経緯を正直に話した。 笹島に一蹴されたことも、それでも諦めきれない自分の思いも。 彼のテリトリーである薄暗い書庫の片隅で、段ボール箱を椅子代わりにして、ぽつりぽつりと語った。

須藤は、黙って話を聞いていた。 その目は、古い和綴じ本に向けられたままだったが、その耳が確かに遥の言葉を拾っているのを、彼女は知っていた。

そして、遥が話し終えると、おもろにお「ふぅん」と鼻を鳴らし、立ち上がった。 埃っぽい書庫の奥へと、猫背で消えていく。

しばらくして、彼が手に持ってきたのは、分厚いバインダーだった。 寄贈図書の管理台帳。紙で管理されている、資料館で最も原始的で、最も信頼できる記録。

「あんたが気にしてるのは、そのメモが本物かどうかってことでしょう」 須藤は、黄ばんだページを無造作にめくりながら言った。 「なら、まず調べるべきは、それが挟まっていた『本』そのものの来歴(プロヴナンス)だ。権威の先生方は、そういう地道な作業がお嫌いらしいが」

彼は、指で一つの項目を指し示した。 例のドイツ語の医学書。 寄贈者は、信州の旧家。かつては医者をやっていた家系らしい。

「この家の先代が、鷗外の弟子だった軍医と懇意にしていた、という記録があります」 須藤は、こともなげに言った。 「本はおそらく、鷗外から弟子へ、そしてその弟子からこの家の先代へと渡った。メモは、その過程でずっと、誰にも気づかれずに眠っていたんでしょう。いわば、百年のタイムカプセルだ」

遥は、息をのんだ。 須藤は、笹島が数時間かけてもやらなかったであろう――あるいは、意図的に無視したであろう――調査を、わずか数分でやってのけたのだ。

「…なぜ、そこまでしてくれるんですか」

遥の問いに、須藤は面倒くさそうに頭を掻いた。

「別に。権威ってやつが、気に食わないだけですよ」 彼は、吐き捨てるように言った。 「笹島教授みたいなのが『ない』と決めたものの中にこそ、面白いもんは眠ってる。俺も、昔それで学会を干されたクチなんでね。ただ、それだけです」

そのぶっきらぼうな言葉が、今の遥には何よりもありがたかった。 孤独な戦いではなかった。 少なくとも、この薄暗い地下書庫には、一人だけ、同じ方向を見てくれる人間がいる。

「須藤さん」 遥は、顔を上げた。 その目には、もう笹島に向けられたような迷いの色はない。

「手伝ってください。私、あの二人が会った場所を、必ず突き止めます」

須藤は、一瞬だけ遥の目をじっと見つめ、そして、ふいと視線を逸らした。

「…好きにすればいい。どうせ、暇ですから。……で、次はどうする?」

その口元に、ごくわずかな、まるで錆びた蝶番がきしむような笑みが浮かんでいるのを、遥は見逃さなかった。

交差する座標

遥の探索は、そこから本格的に始まった。 それは、ジグソーパズルのピースを、暗闇の中で手探りで探すような作業だった。

博士号辞退事件。 木曜会への一度きりの訪問。 公の記録に残された数少ない接点を、彼女はマイクロフィルムの眩しい光の中で、目が痛くなるほど何度も読み返し、その裏に隠された心理を読み解こうとした。

敬意と、距離。 互いの才能を認め合いながらも、決して交わることのない二つの軌道。 国家と個人。公と私。 あまりにも鮮やかな対比。

だが、それだけでは足りなかった。 彼らが、わざわざ人目を忍んでまで私的に会うほどの「動機」には、まだ届かない。

遥は、仮説に立ち返った。 乃木大将の殉死。 これこそが、引き金だったのではないか。 あの事件の衝撃が、二人の間にあったはずの分厚い壁に、小さな亀裂を入れたのではないか。

彼女は、調査の範囲を広げた。二人の日常、その家族。 森茉莉の随筆、夏目鏡子の回想録。 癇癪持ちで、良き家庭人とは言えなかった漱石。 娘を溺愛し、近代的な家庭を築こうとした鷗外。 その対照的な人間性が、作品にどう影響したのか。

知れば知るほど、二人の輪郭は生々しい人間として浮かび上がる。 だが、肝心の接点だけが、深い霧の向こうに隠されたままだった。

調査が行き詰まりを見せ始めた、ある日の午後。 いつものように地下書庫で古い雑誌のページを、指先が黒くなるのも構わずにめくっていた遥の隣で、須藤が独り言のように呟いた。

「…そういえば、森茉莉のエッセイに、こんな一節がありましたね」

遥は、埃っぽいインクの匂いから顔を上げた。

「『父には、ごく稀に、誰にも行き先を告げずに、お忍びで出かけることがあった。それは決まって、東京の西の方にある、静かな禅寺だった』とか、そんな感じの。まあ、ただの記憶違いでしょうけど」

西の方の、禅寺。

その言葉が、遥の頭の中で、張り詰めていた糸を弾く、一つの閃光となった。 彼女は、数日前に読んでいた、ある書簡集の一節を、電光石火の速さで思い出していた。 漱石が、京都にいる知人に送ったものだ。

『近頃、胃の具合も悪しく、修善寺ほどではないが鬱々としている。しばし俗世を離れ、療養でもしようかと考えている。幸い、友人の勧める静かな寺が、この近くにあって…』

まさか。 そんな偶然が。

遥は、椅子を蹴立てるように立ち上がり、書庫の地図保管庫へと走った。 その勢いに、須藤も驚いたように後を追う。

広げたのは、明治末期から大正初期にかけての、東京府の古い地図だった。 紙は黄ばみ、折り目は擦り切れている。その匂いが、遥の鼻腔をくすぐった。

広げた地図の上で、二人の指が、それぞれの記憶の断片を繋ぎ合わせようと彷徨う。 鷗外の住まい、千駄木の観潮楼。 漱石の住まい、早稲田の漱石山房。 そして、森茉莉が書いた「西の方」。漱石が記した「この近く」。

二つの線が、交差する可能性のある、一点。 当時の鉄道網(甲武鉄道)を使えば、両方の家から、人目を避けて日帰りで訪れることが可能な場所。

「…ここかもしれない」

遥の指が、国分寺の近くにある、小さな寺の名を指し示した。 その名は、ごくありふれたものだった。観光地でも、有名な寺でもない。 だが、その瞬間、遥の目には、そこだけがまるで光を放っているかのように見えた。

霧が、晴れようとしていた。 百年の沈黙を破り、二人の巨星が交わした失われた言葉が、すぐそこまで聞こえてくるような気がした。

遥は、須藤と顔を見合わせた。 言葉は、なかった。 ただ、熱を帯びた確信だけが、二人の間の濃密な沈黙を満たしていた。


第二部:対話

寒月の邂逅

遥の意識は、百年の時間を遡行していく。 古地図の上の一点から、冷たい木の床の感触へ。 資料館の乾いた空気から、冬の寺を満たす、湿り気を帯びた静寂へ。

そこは、時の流れから完全に取り残されたような、小さな禅寺の一室だった。 大正の初め。寒月、とメモにあったように、空気は凍てついている。

磨き込まれた黒い床柱が、障子越しに差し込む弱い、青白い月光を、鈍く反射している。 部屋に満ちているのは、古木と、遠くで焚かれているであろう白檀(びゃくだん)の線香の匂い。 そして、火鉢の炭が時折はぜる、小さな、しかし鋭い音だけが、生きているものの気配を伝えていた。

こぉん、と乾いた音が、腹の底に響く。 庭の鹿威し(ししおどし)が、満ちては零れる時の重さを、正確に、無慈悲に刻んでいた。

火鉢を挟み、二人の男が座っている。

一人は、痩身の男。 和装から覗く首筋は病的に細く、頬はこけている。その顔色は、悪い土の色をしていた。 時折、言葉を発する前に、無意識に手が動き、胃のあたりをそっと庇う。その仕草には、長年連れ添った痛みへの、諦めと苛立ちが混じっていた。 その双眸だけが、病んだ肉体とは裏腹に、痛々しいほど鋭い光を宿していた。 夏目漱石。

もう一人は、対照的だった。 同じく和装に身を包んでいるが、その背筋は、まるで鋼の物差しでも入っているかのように、少しも崩れない。 畳に触れる足袋(たび)の白さだけが、暗闇の中で際立っている。 膝の上に置かれた手は、微動だにしない。 全ての感情を、その分厚い理性の鎧の下に押し込めているかのように、その表情は能面のように静謐だった。 森鷗外。

部屋には、長い沈黙が流れていた。 それは、気まずい沈黙ではない。 互いの存在の重さを、言葉を介さずに測りあっているかのような、濃密な時間。 この国の知性の頂点に立つ二人が、その重圧と孤独を、ただ無言のうちに共有しているかのようだった。

先に口を開いたのは、漱石だった。 その声は、少し掠れていた。胃酸が喉を焼いているのかもしれない。

「乃木大将の死を、貴殿は美しい、と書かれた」

問いかけではなかった。 静かな事実の確認。

「……私には、あれが、どうしても美しいとは思えなかった」

鷗外は、答えなかった。 ただ、鉄箸を手に取り、火鉢の灰を静かにならす。その指先に、迷いも、感情の揺らぎもない。 灰をならす音だけが、しゃり、しゃりと小さく響く。

漱石は、言葉を続ける。 それは、鷗外に言うでもない、自らの内腑(ないふ)に溜まった澱を吐き出すような、独り言のようだった。

「新しい時代から、取り残された男の、醜い孤立。私には、そうとしか見えなかった。……いや、見たくなかったのかもしれん。あの死の中に、自分自身の姿を、見てしまったが故に」

鷗外が、初めて顔を上げた。 その目は、軍医が患者の患部を診る時のように、冷静に、無感情に、漱石を見据えている。

「自己を、重ねられたか」

「重ねずには、いられなかった」 漱石は、自嘲するように、乾いた咳を一つした。 「このどうしようもない自我(エゴ)という病を、持て余しているという点において。私は、私という存在から、一刻も早く自由になりたいと願いながら、誰よりもその私に縛り付けられている」

彼は、また胃のあたりを庇った。 その仕草に、彼の言葉が単なる観念ではない、肉体的な痛みを伴った真実であることが示されていた。

「貴殿が羨ましい。あの誹謗中傷の嵐の中にあって、貴殿は少しも乱れなかった。私なら、疾うに筆を折り、血の一升も吐いていただろう。あの冷静さは、どこから来る」

鷗外の脳裏に、数年前の、あの忌まわしい事件が蘇る。文壇からの理不尽な攻撃。 だが、彼の表情は変わらない。

「あれは、公人としての務め。私情を挟む余地はありませぬ」 静かに、彼は答えた。 「それに、感情で応じれば、相手と同じ土俵に降りることになる。私は、私の立つべき場所から、動くわけにはいかない」

私の、立つべき場所。

その言葉に、漱石は目を細めた。その光は、一層鋭くなった。

「…その場所から、全てを諦念(あきらめ)と共に、ただ傍観する、と。私のことも含めて」

「諦念、という言葉が不服かな」 鷗外は、初めてかすかに口元を緩めた。それは、笑みというより、筋肉の微かな痙攣に近かった。 「だが、他に言葉を知らん。変えられぬものは、受け入れるしかない。国家も、己の立場も、そして、いずれ訪れる死も。その与えられた枠の中で、己の務めを果たす。それ以上の何ができるというのか」

その声は、どこまでも冷徹だった。 だが、その奥に、深い悲しみが隠されていることを、漱石は見逃さなかった。 強者の哲学。 それは、巨大な組織の中で、個人の尊厳を保つための、唯一の戦術だったのだ。

「貴殿は、強い」 漱石は、呟いた。 「私には、その強さがない。だから、逃げるしかないのだ。この、私という名の地獄から」

「……則天去私、か」 鷗外が、静かに言った。 「天に則(のっと)り、私を去る。……美しい言葉だ。だが、あまりに危うい。それは、淵を覗き込む行為に他ならない」

「淵、か」

「そうだ。君は、天を目指すと言いながら、足元の淵ばかりを見ている。だから、地に足が付かぬ。君の苦しみはそこにある」 鷗外は、言葉を切った。 そして、こう続けた。

「私は、地を踏みしめるが故に、天を仰ぐことができぬ」

沈黙が、再び部屋を支配した。 こぉん、と鹿威しが鳴る。今度は、やけに大きく響いた。

二人は、互いを論破しようとはしなかった。 ただ、自分とは全く違う原理で生きる、たった一人の同格の精神を前にして、自らの立脚点(涯)の深さと、その絶対的な孤独を、確認しあっているだけだった。

やがて、鷗外がふと、火鉢から視線を上げ、障子に映る松の影に目をやった。 その表情は、ほんの少しだけ、仮面の下の素顔が覗くかのように和らいでいた。

「お子さん方は、お元気かな」

その、あまりに日常的な言葉に、漱石は虚を突かれたように瞬きをした。 そして、かすかに頷く。 彼の脳裏に、癇癪の後に気まずくなった、家の食卓の風景が浮かんでいた。

「…ええ、まあ。元気が良すぎて、こちらの胃が痛むくらいです」

その短い応答の中に、二人の文豪が、ただの父親に戻る瞬間があった。 互いの孤独を、その一言で、静かに労い合ったかのようだった。

月が、障子に映る松の影を、わずかに動かしていた。 歴史が記さなかった一夜は、静かに、深く更けていく。


第三部:継承

応答

意識が、浮上する。

百年の時を遡った精神が、冷え切った冬の禅寺から、空調の効いた現代の資料館へと、ゆっくりと帰還する。 遥は、自分が閲覧室の固い椅子に深く沈み込んでいることに、ようやく気づいた。 窓の外は、すでに人工の光が支配する、見慣れたビル街の夜景に変わっている。蛍光灯の白い光が、手元の資料に無機質な影を落としていた。 首筋が凝り固まり、鈍い痛みを訴えている。

頬に、冷たいものが伝っていた。 いつから流れていたのか。 それは、あの二人の文豪の孤独に触れたことへの哀れみか、あるいは、失われた言葉を見つけ出したことへの安堵か。 遥自身にも、その涙の理由は判然としなかった。

彼女は、心の中で再構築したばかりの、あの夜の対話を反芻していた。 あれは、勝敗を決する議論ではなかった。 互いの思想の正しさを、証明するためのものでもなかった。

ただ、確認していたのだ。 自らが立つ「涯」の深さを。 そして、その涯にたった一人で立っている、絶対的な孤独を。

強烈な自我と病という、内なる地獄の淵に立った漱石。 国家と立場という、外なる制約の淵に立った鷗外。

彼らは、互いという唯一無二の鏡を用いて、自らの輪郭を確かめ合っていたのだ。 その魂の儀式は、あまりにも静かで、痛切で、そして、孤高の美しさを放っていた。

その美しさに触れた瞬間、遥は悟った。

自分もまた、立っているのだ、と。 笹島教授という、揺るぎない権威の壁。 研究者として挫折し、燻り続ける過去の残滓。 その中で、いかにして自分の信じる真実を貫くのか。

百年前の二人が遺した問いは、今、そっくりそのまま、自分自身に突きつけられている。

――君は、君の立つその場所で、何を支えに生きるのか。

その問いは、もはや遠い歴史の彼方からのものではなかった。 それは、今、この瞬間の、遥自身の魂を揺さぶる問いだった。 閲覧室の淀んだ空気の中で、彼女は深く息を吸った。 死んだ時間の匂いではない。あの二人が呼吸した、凍てつく夜の匂いが、確かに胸を満たした。

「応答、しなければ」

声に出さず、遥は呟いた。 それは、学術的な反論ではない。 笹島教授を論破するためでも、名誉を回復するためでもない。

彼らが命を削って遺した、その孤独な問いへの、継承者としての「応答」だ。 魂を受け継ぐ者としての、果たさねばならない責務だった。

遥は、静かに立ち上がった。 心は、決まっていた。 その足取りは、もう地下書庫の墓守のものではなかった。 自らの「涯」を見据え、そこに向かって歩き出す、一人の人間のものへと変わっていた。

境界線上の告白

数日後、日本近代文学会主催のシンポジウムが開かれた。 会場となった大学の大講義室は、権威ある学会特有の、緊張と期待の入り混じった熱気で満たされていた。古い講堂の、埃っぽい椅子の匂いと、配布された資料の新しいインクの匂いが混じり合っている。

その日の最終登壇者として、笹島教授が壇上に立った。 演題は、『文献学的手法から見る鷗外研究の現在地』。 そのタイトルを聞いただけで、遥には彼の意図が痛いほどわかった。

これは、自分に対する、公の場での「死刑宣告」だ。

「……近年、一部で」 笹島の、よく通る声がマイクを通して響き渡る。 「鷗外と漱石の間に、記録にない個人的な交流があったのではないか、という、いささかロマンに過ぎる説が囁かれているようです」

会場のあちこちから、事情を知る者たちの、含みを持った笑い声が漏れた。 それは、権威が異端を嘲笑う時の、冷たく、不快な響きを持っていた。

遥は、客席の後方、出口に一番近い壁にもたれかかりながら、その光景をただ黙って見つめていた。 かつてあれほど憧れた知性の権化が、今は、自らの地位を守るために言葉を弄する、小さな存在に見えた。 屈辱は、なかった。ただ、深い静かな諦念が、彼女の心を支配していた。鷗外の諦念とは似ても似つかぬ、冷めた諦念が。

「根拠とされるのは、一枚の真贋も定かでないメモ書き。あまりに飛躍した、物語的な解釈。学問とは、そのようなものではありません」

笹島は、壇上のスクリーンに次々と資料を映し出す。 メモに使われた和紙の成分分析。明治期のインクの化学的特徴。鷗外の他の筆跡との精密な比較。 彼の論理は、完璧だった。非の打ち所がなかった。 揺るぎない物証(エビデンス)至上主義の前には、いかなる状況証拠も、魂の推論も、無力だった。

「我々は、事実のみに語らせるべきなのです。そこに、個人の感傷や想像を差し挟む余地など、断じてない」

笹島が、そう締めくくり、会場が形式的な、あるいは義務的な拍手に包まれようとした、その瞬間だった。

「異議があります」

凛とした声が、講義室の空気を切り裂いた。 すべての視線が、ざわめきと共に、声の主――壁際に立つ遥へと、一斉に注がれる。

笹島が、壇上から、苦々しげに、そして驚きを隠せない表情で遥を睨みつけた。 「貴島君、君に発言の許可は与えていない。ここは君の妄想を披露する場ではないぞ」

「いいえ、笹島先生」 遥は、その視線を真っ直ぐに受け止め、ゆっくりと一歩、前に出た。 心臓が、肋骨を叩き割るのではないかと思うほど激しく鼓動している。だが、不思議と恐怖はなかった。足は、床に根を張ったかのように、微動だにしなかった。

「私は、あなたにではなく、ここにいるすべての方々に、そして何より、鷗外と漱石その人に、問いかけたいのです」

会場が、水を打ったように静まり返る。

「先生のおっしゃる通り、このメモが、物的な証拠として不完全なのは事実です。ですが」

遥は、集まった聴衆の顔を一人一人見回しながら、言葉を続けた。 それは、準備された原稿ではない。今、この瞬間に、彼女の内側から溢れ出てきた、生の叫びだった。

「私たちは、一体何を研究しているのでしょうか。紙ですか。インクの染みですか。そうではないはずです。私たちは、その言葉を綴った人間の、魂の軌跡を追っているのではないのですか」

その問いは、笹島だけでなく、その場にいた研究者全員の胸に突き刺さった。

「漱石が、その身を苛む病と自我にどれほど苦しんだか。鷗外が、国家という巨大な責務の中で、いかにして精神の品格を保とうとしたか。彼らの全作品、全生涯が、それを血を流しながら物語っている。その二人が、互いの孤独を理解し、一度だけでも、その魂を交感させたいと願ったとしても、何ら不思議はないはずです」

遥の言葉は、もはや学術的な反論ではなかった。 文学を愛する一人の人間としての、誠実な告白だった。

「物的な証拠だけを追い求め、その奥にある人間の痛み、苦悩、そして美しさに想像を巡らせることを放棄するなら、それこそが、学問の死です」

遥は、静かに頭を下げた。

「ご清聴、ありがとうございました」

拍手は、なかった。 ただ、会場を満たす、重く、問いかけるような沈黙だけが、そこにあった。 それは賛同でも批判でもない、問いかけが確かに届いた瞬間に生まれる、圧倒的な「空白」だった。

壇上で凍り付いたように立ち尽くす笹島の表情が、その空白の重さを、何よりも雄弁に物語っていた。 彼の揺るぎない権威の足元が、今、確かに音を立てて軋んだのを、遥は確かに感じていた。

涯より

翌週、遥は文学資料館に辞表を提出した。 秋の冷たい雨が、窓ガラスを叩いていた。

館長は「君ほどの才能を」と引き留めたが、彼女の決意は固かった。 最後に荷物をまとめに寄った地下書庫で、須藤がいつものように、埃っぽい書棚の整理をしていた。

「……行くんですか」 背中を向けたまま、彼が言った。

「ええ」

「笹島のジジイに、一発かましたそうですね。見事なもんだ。あの後、奴の機嫌が最悪で、こっちはいい迷惑だ」

「そんなつもりじゃ…」

「分かってますよ」 須藤は、初めて手を止め、遥の方を振り返った。 その無精髭の奥の目が、珍しく真剣な色を帯びていた。

「あんたらしいな、と思っただけです。達者で。……まあ、何か困ったら、ここに来ればいい。どうせ俺は、ここの墓守から動くつもりはないんでね」

「…須藤さんも。色々、本当にありがとうございました」

それが、二人の最後の会話だった。 不器用だが、彼なりの最大の激励が、遥の背中を静かに押した。

資料館を出ると、雨は上がっていた。 洗い流されたアスファルトが、鈍い光を放っている。 遥は、もう振り返らなかった。彼女の心は、驚くほど軽かった。

秋が深まり、空気がガラスのように研ぎ澄まされてきた、ある晴れた日。 遥は、中央線の列車に揺られていた。 都会の喧騒が次第に遠のき、車窓の景色が、武蔵野の面影を残す雑木林へと変わっていく。

あの日、古地図の上で見つけた、あの禅寺の門を、彼女は今、くぐろうとしていた。 門を一つ越えるたびに、空気が変わっていくのが分かった。 俗世の匂いが消え、清浄な、だが厳しい静寂が彼女を包み込む。 砂利を踏みしめる自分の足音だけが、やけに大きく響いた。

百年前、あの二人が感じたかもしれない、世間との「境界」を、遥もまた感じていた。

本堂の縁側に、彼女は静かに腰を下ろした。 目の前には、完璧に掃き清められた砂紋が、午後の低い陽光を浴びて、美しい陰影を描いていた。 その向こうには、色づき始めた紅葉が、空の青を背景に燃えるように輝いていた。

肌を撫でる風が、冷たい。 だが、その冷たさが、遥の五感を鋭く研ぎ澄ませていく。

こぉん、と乾いた音が、静寂の底から響いてきた。 鹿威しだ。 あの夜、二人が聞いたであろう、時そのものの音。

遥は、リュックからノートパソコンを取り出した。 冷たい縁側の上にそれを置き、ゆっくりと画面を開く。 その行為が、これまでの人生のどの瞬間よりも、重い意味を持っているように感じられた。

カーソルが、真っ白なページの冒頭で、静かに点滅している。 生まれるべき言葉を、ただひたすらに待っている。

遥は、目を閉じた。 漱石の、胃を庇う苦悶の姿を思う。 鷗外の、背筋を伸ばしたまま動かない、孤独な姿を思う。

彼らが遺した問いを、今、自分は引き受けようとしている。 その覚悟の重さに、身が震えるようだった。

やがて、遥は目を開いた。 その瞳には、もう迷いはない。 自らの「涯」は、今、この場所にある。

彼女の指が、キーボードの上に置かれた。 彼女の人生を賭けた「応答」が、今、始まる。

打ち込まれた、最初の文字。 それは、これから紡がれる物語のタイトルであると同時に、彼女自身がこれからの人生を歩むための、確かな「座標」だった。

『涯の美学』

その瞬間、風が吹き抜け、真っ赤に染まった紅葉の葉が、一葉、はらりと舞い落ちた。 それは、まるで祝福のように、彼女のキーボードの上に、静かにその色を添えた。

(了)

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