あらすじ
東京で働く佐々木は、故郷の同級生・山際からの連絡をきっかけに、数年ぶりに帰省する。「クラスのマドンナが会いたがっている」という誘いに心を躍らせる佐々木だったが、真夜中の母校の体育館で再会した山際には、どこか不穏な影が感じられた。
やがて佐々木は、山際が人間を「標本」としてコレクションしている可能性に気づき、極度の緊張状態に陥る。しかし、マドンナが体育館に向かっているという連絡を受け、その不安は一転、安堵へと変わる。佐々木が安堵しきったその時、彼は予期せぬ運命に直面する。
登場人物紹介
- 佐々木:東京でシステム開発の仕事をしている。都会の生活に疲れ、故郷に心の安らぎを求めている。
- 山際:佐々木の同級生。故郷に留まり、人生に劣等感を抱いている。その無表情さから「ジェイソン」と呼ばれていた。
- マドンナ:佐々木と山際の同級生。佐々木にとって、再会の希望の象徴。
序章:過去からの呼び声
東京の雑踏から逃れるように、佐々木は数年ぶりに故郷の駅に降り立った。システム開発の仕事は、画面の向こうの数字とコードだけを相手にする日々で、自分の心までが次第に機械になっていくような気がしていた。携帯を握りしめ、連絡を待つ。同級生の山際から届いたメールには、「クラスのマドンナがお前に会いたがっている」という、ありきたりで、しかし抗いがたい誘い文句が記されていた。あの頃のマドンナの姿が脳裏に蘇り、もはや衝動的に承諾のメールを返していた。
久々の故郷は東京の人ごみに慣れた佐々木には薄気味悪く感じられた。駅から待ち合わせの母校、フェンスをよじ登り、体育館へと向かう。
真夜中の母校の体育館は、月明かりすら届かない暗闇の中に、冷たく佇んでいた。重いドアを開けると、カビと埃が混じり合った、古くて冷たい空気が肌を刺す。天井からぶら下がる蛍光灯の微かな光だけが、その広大な空間を不気味に照らし出し、佐々木の心をざわつかせた。床を歩くたびに、古いバスケットボールのゴールが軋むような音がした。懐かしさよりも、どこか不吉な予感が彼の胸を締め付ける。
「来たな、佐々木」
体育館の奥から、山際の声が響く。声の主を探すと、使われなくなった机の前に座り、静かにこちらを見ていた。佐々木と同じ大学を出た彼は故郷に残り、母校の理科の教師となった。
山際がシャッフルしたトランプを配り始める。
「大富豪でもやるか」
しかし、佐々木にはゲームに集中する気になれなかった。山際の言葉の端々には、東京での成功をどこか嘲笑うような棘があった。
「なあ、佐々木。東京、楽しいか?」
それは、佐々木が幸せであることを期待する言葉ではなかった。佐々木が疲れ果て、故郷に救いを求めることを望んでいるような、歪んだ問いかけだった。山際は、佐々木の表情をじっと見つめ、ゆっくりとトランプを重ねる。
「お前は都会に出て大富豪になったが、俺はずっと貧民だ。いいじゃねえか、ゲームの中だけでも、勝たせてくれよ」。その言葉に、佐々木の胸にちくりと痛みが走った。それは単なる劣等感からくる皮肉ではなく、もっと深く、佐々木の心の傷をえぐるような鋭さを持っていた。
やがて、二人はゲームの手を止め、思い出話に花を咲かせる。
「なあ、覚えてるか?真夜中のプールに、一番高い飛び込み台から飛び込んだこと」
佐々木は、疲れた心を故郷の思い出で満たしたかった。あの時、飛び込んだプールは冷たかったが、確かに生きていた。心の底から生を実感できる瞬間だった。
「……俺は飛び込めなかったんだ。無茶する勇気も、東京に出る勇気も」
山際は、そう言って寂しげに笑った。彼のあだ名「ジェイソン」は、中学の時に、その無表情さと冷たさからつけられたものだ。感情を持たず、ただ淡々と、人々の心を「バラバラ」にしていくような彼の性質を、皆が恐れていた。その無関心な冷たさが、今、不意に、ぞっとするほど現実味を帯びて感じられた。
そのようなある種の残酷さは彼の理科の教師という職能には存分に活かされたような気がする。
「包丁、さっき研いだばっかりだからな」
背中で彼の声がした。彼は、卓球台の上で、夜食のカップラーメンをつくっていた。カップラーメンに入れるための豚肉を切っているところだった。
「なんでまな板や包丁があるんだよ」
「ああ、夜勤の夜食用で私物を持ち込んでんだよ」
「夜勤があるなんて教師も大変な職業だな」
妙に思い入りながら、佐々木がカップラーメンを持って体操マットに腰を下ろした。
「破けて綿出てるマットだけは触るなよ。あれは、もう完成しているからな」
山際のあまりの真剣な表情に一瞬ドキリとする。
「これじゃ、まるで実家だな」
「夜中の体育館は俺の箱庭だから」
第一章:違和感の標本
山際がマドンナを迎えに行くと言って、体育館を出ていく。佐々木は一人、言いようのない不安に襲われる。体育館は完全に静まり返り、自分の足音だけが虚しく響く。まるでこの広い空間に閉じ込められたかのような錯覚に陥った。
卓球台、跳び箱、体操マット…。
床を歩き回っていると、足元のカバンでつまずいた。中から飛び出した一冊のノートを、好奇心に抗えず開いてしまう。
そこに記されていたのは、山際の筆跡で、動物の名前が克明に記されていた。両生類、カエル、哺乳類、ハツカネズミ、モルモット……理科教師らしい。しかし、ページをめくると、そのリストは奇妙なものへと変貌していく。
爬虫類、ヘビ、トカゲ、鳥類、カラス、ニワトリ、哺乳類、ウサギ、ブタ、ヒト…。
佐々木の全身から血の気が引いた。これは、単なる解剖日記ではない。そこには、命の尊厳を完全に無視した、冷たい事実が並んでいた。
脳裏に、山際との会話がフラッシュバックする。
「包丁、さっき研いだばっかりだからな」
「破けて綿出てるマットだけは触るなよ。あれは、もう完成しているからな」
「夜中の体育館は俺の箱庭だから」
すべての言葉が、佐々木を追い詰める凶器へと変わっていく。山際が人間を**「標本」**としてコレクションしているのだ。そして、その次の獲物が、自分自身だという確信が、佐々木の呼吸を奪った。
「完璧じゃねえかよ!」
誰もいない体育館で、佐々木は叫んだ。それは、恐怖と同時に、すべてを理解してしまったことへの絶望からくる悲鳴だった。
第二章:失われた安堵
その時、携帯が鳴った。山際からだ。
佐々木は震える手で応答する。
「どうした、佐々木。……彼女と連絡がついたぞ」
山際の言葉に、佐々木は息をのんだ。彼女は生きている。電話口の山際の声は、いつも通り穏やかで優しい。マドンナは一人でタクシーに乗り、体育館に向かっているという。
「なんでそんなに焦ってるんだよ」
山際は、昔から佐々木とマドンナの関係をからかうのが好きだった。その悪癖が、今、佐々木にとっては、この上ない安堵へと変わる。それは、恐怖に支配されていた心が、一気に解放される瞬間だった。
「心配すんなよ、佐々木。お前の彼女は俺が守る。……じゃあな」
電話を切った瞬間、佐々木の緊張の糸は完全に切れた。安堵のあまり、全身から力が抜けていく。恐怖に怯えていた自分が馬鹿らしく思えた。
「ははは!なんだよ、こわかったー!」
すべては、長距離移動の疲労と、故郷の体育館が醸し出す雰囲気が生んだ妄想だったのだ。俺はミステリー作家にでもなれるんじゃないか、と自嘲気味に笑い、マットの上に転がった。全身をマットに預け、久しぶりに心の底からリラックスした。
その時、足音もなく、山際が体育館に戻ってきた。
「ごめんな」
頭上から聞こえる、優しい声。
佐々木は、最後の力を振り絞って顔を上げる。山際の手には、何も持っていない。ただ、その表情は、ひどく穏やかだった。それは、かつて彼が「ジェイソン」と呼ばれた時の、無表情な冷たさとは違う、満ち足りた表情だった。
その瞬間、佐々木の意識は途絶えた。
床に転がった携帯が、無情な光を放っていた。
終章:永遠の標本
翌朝、体育館の机の上には、新しい**「標本」**が飾られていた。顔には黒いペンキが塗られ、その周りには、赤い木の実が丁寧に配置されている。それは、まるで不気味な美術作品のようだった。ペンキの乾いた匂いが、血の匂いをかき消すように漂っていた。そして、その隣には、一冊のノートが開かれた状態で置かれていた。
「ヒト」という文字の横には、克明な筆跡で**『佐々木明』**と記されている。
山際は、床に横たわる佐々木を見つめた。既に冷たくなったその身体は、マットの裂け目から漏れ出た綿の上に横たわっている。ポケットには、佐々木の古い携帯電話が入れられていた。
山際は、佐々木の携帯電話の画面を指でなぞる。
そこには、佐々木の彼女からの「今どこにいるの?」という着信履歴が、無数に残されている。そして、新たな不在着信が表示される。
「マドンナ」
表示された電話番号は、佐々木の携帯電話に登録されていないものだった。
着信履歴の下には、一本のメールが残されていた。件名:ごめんなさい本文:こんなはずじゃなかったの。東京で素敵な人と出会ってしまったの。
山際は、その「標本」をじっと見つめながら、満足そうに微笑んだ。
彼は、マドンナを操り、佐々木を故郷に呼び寄せた。そして、佐々木が持つ「マドンナとの再会」という希望が、砕け散る瞬間の絶望を、彼のコレクションに加えたのだ。佐々木が安堵し、希望に満ちた心で死んでいくこと。それが、彼にとっての最も完璧な標本だった。
「完璧だ」
彼はそう呟き、新たな**「採集」**の旅に出る。
誰にも気づかれることなく。
まるで最初から、いなかったかのように。



































この記事へのコメントはありません。