その引き金を引くのは、市場(あなた)だ。
あらすじ
東京のビジネス街で、一台の自動販売機が突如爆発した。警視庁がテロ事件として捜査に乗り出す中、元証券アナリストで現在は警察のコンサルタントを務める黒木仁は、この爆発が単なる無差別テロではないことに気づく。爆発時刻と、株式市場のあるデータが「秒単位」で完全に一致していたのだ。
これは、市場の動きに連動して自動で起爆する、前代未聞の経済テロだった。
ほどなくして、犯人「ノイズ」から犯行声明がネット上に公開される。「この市場は、虚構だ」。ノイズは次々とターゲットを宣告し、その株価の動きと連動した爆破を予告する。株価が暴落すれば、街中の日常が爆弾と化す。
市場は恐怖と欲望が渦巻く大混乱に陥り、日本経済そのものが人質に取られてしまう。黒木は、ノイズの仕掛けた壮大な「ゲーム」のルールを解き明かし、その暴走を止めることができるのか。デジタル世界の数字と現実世界の爆破が連動する、壮絶な知能戦の幕が上がる。
登場人物紹介
- 黒木 仁(くろき じん) 主人公。警視庁のコンサルタント。かつて大手証券会社で辣腕を振るった元アナリストだが、とある事件をきっかけに市場を去った過去を持つ。数字の裏に隠された人間の心理を読むことに長けており、独自の視点から事件の真相に迫る。
- 遠藤 沙織(えんどう さおり) 警視庁捜査一課の刑事。現場主義で、データばかりを追いかける黒木の捜査手法に最初は反発するが、次第にその能力を認め、複雑な事件の捜査において重要なバディとなる。
- ノイズ 正体不明のテロリスト。金融工学とプログラミングに関する高度な知識を持ち、株式市場の動きと連動する爆破テロを仕掛ける。その目的は金銭か、あるいは別の何かか、一切が謎に包まれている。
序章:最初の暴落 (The First Crash)
その日の東京・丸の内は、ありふれた平日の顔をしていた。
ガラス張りの超高層ビル群が、まだ夏の気配をわずかに残す初秋の空を鋭角に切り取っている。石畳の上を、磨かれた革靴とハイヒールの踵が、未来の利益と過去の損失を同時に急かすような、小気味よいリズムを刻んでいた。誰もが、自分の見ている数字だけが現実だと信じ、疑っていなかった。
午後2時46分11秒。すべてが止まり、そして始まった。
金属が無理やり引き裂かれるような甲高い悲鳴。次いで、腹の底を突き上げるような轟音。 三菱第一号館美術館前の広場に設置されていた一台の自動販売機が、内部から破裂した。正確には、破裂するという言葉が生ぬるいほど、醜くねじれながら、その鉄の体を四方八方へと撒き散らした。
真っ赤なロゴが描かれた側面パネルは巨大な刃物と化して宙を舞い、観光客のソフトクリームを弾き飛ばす。分厚いアクリル板は粉々になり、きらきらと陽光を反射しながら、悪意の結晶のように降り注いだ。
悲鳴は、衝撃波がビル風に弄ばれて戻ってくるよりも、ずっと遅れて聞こえた。 日常と非日常の境界線は、一瞬にして融解し、アスファルトの上にべっとりと広がっていく赤黒い染みが、その新たな現実を冷徹に証明していた。
現場に到着した黒木仁(くろきじん)が目にしたのは、そんな冒涜的なまでの静寂が支配し始めた後の光景だった。鼻をつくのは、硝煙の匂いと、微かに甘い清涼飲料水の匂い、そして、鉄が焼ける匂い。そのすべてが混じり合って、黒木の記憶の奥底にある何かを不快に刺激した。
(ストップ安……いや、これは上場廃止か)
規制線の内側で右往左往する制服警官たちを、黒木はかつて慣れ親しんだ市場のフロアで狼狽するトレーダーたちのように見ていた。飛び散った残骸は、紙くず同然になった株券。阿鼻叫喚の地獄絵図。そうだ、この匂いはよく知っている。何百億、何千億という価値が一瞬で蒸発し、人の人生がただの「損失」という名の数字に変わる瞬間の匂いだ。
「黒木さん、こちらです」
うんざりしたような声で彼を呼んだのは、警視庁捜査一課の遠藤沙織(えんどうさおり)刑事だった。短く切り揃えた髪を鬱陶しそうにかきあげ、その視線は黒木の足元――イタリア製の、一点の曇りもない革靴を一瞥してから、爆心地へと向けられる。
「ひどいな」黒木は、感情を排した声で呟いた。 「ええ、最悪です。死者2名、重軽傷者8名。今のところは」遠藤は事務的に報告する。「爆弾の成分は解析中ですが、まだ何も。テロ、でしょうか」
「……時刻は?」 「正確な時間は、午後2時46分11秒。近くのビルの防犯カメラからです」
遠藤の言葉を聞きながら、黒木は爆心地から数メートル離れた場所で、ひしゃげた飲料缶の残骸に目を留めた。サンライズ・ドリンクス社の新製品、『覚醒ブラック』。彼の現役アナリスト時代、その会社も分析対象の一つだった。クソ株だったな、と場違いな感想が頭をよぎる。
彼は懐からスマートフォンを取り出すと、遠藤が訝しげな視線を向けるのも構わず、慣れた手つきで金融情報アプリを立ち上げた。指が神経質に、しかし正確に画面をタップしていく。膨大な数字の羅列が、滝のようにスクロールされていく。
「黒木さん? 何か気になることでも? 現場に残された物証の方が重要だと思いますが」 「ノイズが多すぎる……」 「ノイズ?」
黒木は遠藤の問いには答えず、指の動きをさらに速めた。彼の目は、現場の血痕や飛散物にはない。彼が見ているのは、この物理的な惨状と寸分違わぬ時刻に、デジタル世界で起きたもう一つの「事件」だった。
検索、フィルター、ソート。彼の指が、ある一点で止まる。
画面に表示されていたのは、一社の株価チャート。数年前に倒産し、今はもう取引されていない技術ベンチャー企業『ミヤマ・テック』のものだ。上場廃止後、形式的に残っていたその株の価値が、本日、整理ポストを経て法的に「無価値=0円」になった。その最終処理がシステムに記録された時刻。
午後2時46分11秒。
背筋を冷たいものが走った。偶然か? 市場に偶然などない。あるのは、膨大な変数と、人間の欲望が生み出す必然だけだ。
「遠藤刑事」 黒木の声は、自分でも驚くほど乾いていた。 「この事件の犯人は、無差別テロリストじゃない」
「……どういう意味です?」 「これは、儀式だ。ある企業の『死』を弔うための……いや」
黒木はスマートフォンの画面を遠藤に向けた。そこに表示された、価値がゼロになったことを示す無慈悲なチャートを指さす。
「これは弔いじゃない。清算だ。市場のルールに則って行われた、完璧な決算報告……。犯行声明ですよ、これこそが」
遠藤は、訳が分からないという顔でチャートと黒木の顔を交互に見比べた。 その頃、都内某所の薄暗い部屋で、一人の男がモニターに映し出された丸の内の惨状を無表情に見ていた。カタカタ、とキーボードを叩く音が響く。
『これは始まりのゴングだ』
ネットの巨大掲板に、その一行が投下される。 そして男は、次のターゲット企業のロゴを画面に映し出し、静かに呟いた。
「さあ、次の取引を始めよう」
第1章 市場という名の共犯者
翌朝、警視庁に設置された合同捜査本部は、飲み干された缶コーヒーの匂いと、寝不足の男たちの熱気、そして行き詰まった捜査の苛立ちで満ちていた。壁一面に貼られた丸の内周辺の地図と現場写真の前で、ベテラン刑事たちが「土地勘のある怨恨説」「いや、これは海外組織の…」と、使い古された推理をぶつけ合っている。彼らにとって、これは依然として「爆弾テロ事件」の範疇を出なかった。
その空気の中で、黒木仁だけが異物のように浮いていた。彼は会議用の長テーブルの隅を陣取り、ノートパソコンの画面に映し出された複数のチャートと数字の羅列を、獲物を狙う獣のように見つめ続けている。
「……黒木さん。そこに、眠らないデータアナリストの銅像でも建てるつもりですか」
缶コーヒーを片手に、遠藤沙織が呆れたように話しかけてきた。目の下には、昨日より濃くなった隈が浮かんでいる。
「昨日の黒木さんの『決算報告』説、上には全く相手にされませんでしたよ。『株価と爆発が同じ時刻? ただの偶然だろ』と一蹴されました。今はとにかく、物証が第一です。そんな高級スーツ、汚れますよ。我々が這いずり回った現場のホコリでね」
「汚れには慣れています」黒木は画面から目を離さずに応じた。「種類が違うだけだ」
その時だった。捜査員の一人が「おい、これ見ろ!」と叫んだ。本部の空気が一瞬で張り詰める。巨大なモニターに、ネットの巨大掲示板『チャンネルネクスト』のスレッドが映し出された。
【緊急速報】東京爆破テロ、犯行声明か【ノイズ】
スレッドの最新の書き込み。投稿IDは、昨夜の犯行声明と同じものだった。
『ゴングは鳴った。諸君は、市場という名のリングに上がったプレイヤーだ。 次の取引を始めよう。 銘柄は【25XX – サンライズ・ドリンクス】。 トリガーは【前日終値比マイナス10%】。 ルールは簡単。株価がこのトリガーに触れた瞬間、首都圏に存在する同社の自動販売機すべてが、”清算”される。 さあ、売るか、買うか。選ぶのは君たちだ』
――ノイズ
捜査本部が騒然となる。 「サンライズ・ドリンクスだと!?」 「首都圏の自販機すべて……正気か!」 「すぐに各所に通達! サンライズ社の自販機をすべて使用禁止にしろ!」
怒号が飛び交う中、黒木だけが血の気が引いた顔でモニターを凝視していた。遠藤が彼の異変に気づく。 「黒木さん……?」 「……ダメだ」黒木の声が低く響いた。「自販機を止めても意味がない。これは、そういう次元の話じゃない」
「どういう意味です? 爆弾さえ見つければ……」 「爆弾は自販機の中にはないんです、遠藤刑事」 黒木はゆっくりと立ち上がり、にわかに色めき立つ捜査員たちを見渡して言った。 「本当の爆弾は、今この瞬間、この国にいるすべての投資家の頭の中に仕掛けられた」
刑事たちが、怪訝な顔で黒木を見る。 「ノイズの目的は、自販機を爆破することじゃない。市場を爆破することだ。考えてみてください。サンライズ・ドリンクスの株を持っている人間が、この声明を見たらどうしますか?」
「……売る、でしょうね。怖くて」 「ええ。では、株を持っていない人間は? 暴落した後に買い戻せば儲かる、と考える強欲な人間もいれば、テロリストを利してたまるか、と買う正義感の強い人間もいる。だが、人間の本性はどちらに向かうか……」
黒木は壁の時計を見た。午前8時59分。東京証券取引所、取引開始まであと1分。
「犯人は、引き金を我々全員に握らせた。首都圏数千万人の命運を、モニターの前の名もなき投資家たちの『恐怖』と『欲望』に委ねたんです。これから始まるのは、歴史上最も残酷な多数決ですよ」
午前9時。取引開始を告げる鐘の音が、黒木の耳には、試合開始のゴングのように鳴り響いた。 捜査本部のモニターが、東証のリアルタイム株価ボードに切り替わる。
【25XX – サンライズ・ドリンクス】 前日終値、3,450円。 トリガーとなる価格は、3,105円。
寄り付きから、凄まじい量の「売り気配」が表示される。パニック売りだ。 株価は一瞬にして3,300円台まで下落。買い支えようとする動きもあるが、恐怖に駆られた売り注文の濁流は止まらない。
3,250円。 3,200円。 3,150円。
数字が落ちるたび、捜査本部の誰かが息を呑む音が聞こえる。 それは、まるで爆弾のカウントダウンだった。 遠藤は、自分の拳が白くなるほど強く握りしめられていることに気づいた。 目の前で起きていることが、どうしても現実だとは思えなかった。 これは、ただの数字だ。経済の指標だ。それがなぜ、今、数百万人の命を脅かす凶器になっているのか。
黒木は、ただ静かに、落ちていくナイフのようなチャートを見ていた。 「彼は天才だ……」 その呟きは、誰にも聞こえなかった。 「市場の最も根源的なエネルギー……人間の『恐怖』そのものを起爆装置にしやがった……」
トリガー価格、3,105円まで、あとわずか。 東京という都市は、その日、匿名の投資家たちによる集団自殺の淵に立たされていた。
第2章 虚構の買い支え
午前9時3分。
サンライズ・ドリンクスの株価は、3,115円。トリガー価格まで、あと10円。それは、崖の縁から指二本分ほどの距離だった。
捜査本部の誰もが、息をすることを忘れていた。モニターに映る赤い数字の点滅が、まるで時を刻む爆弾のタイマーのように見える。首都圏のどこかで、名もなき誰かが自動販売機の前を通り過ぎるその瞬間、日常が粉々に砕け散る。その光景が、刑事たちの脳裏に焼き付いていた。
その瞬間、市場の空気が変わった。
それまで画面を埋め尽くしていた「売り」の赤い数字の奔流に、突如として巨大な「買い」の青い壁が出現したのだ。
桁が違う。個人投資家や、並の機関投資家が出せる注文量ではなかった。まるで、巨大なダムの水門が開き、売りの濁流を逆流させるかのような、圧倒的な買いの圧力。 数百万株単位の注文が、一瞬にして恐怖の売りを飲み干していく。
株価の下落が、まるで物理法則に逆らうかのように、ぴたりと止まった。いや、じりじりと、しかし確実に押し戻されていく。
3,110円。3,130円。3,180円……。
「……PKOか」
黒木が、吐き捨てるように言った。その声には、安堵とは程遠い、深い侮蔑の色が滲んでいた。
「PKO?」遠藤が聞き返す。 「Price Keeping Operation。価格維持操作ですよ」黒木は冷ややかに続けた。「政府……おそらく日銀か、我々の年金を運用しているGPIFが、公的資金を使って市場に介入したんです。国民の虎の子の金で株を買い支え、人為的に株価を維持している」
安堵のため息をついていた刑事たちが、その言葉に顔を上げた。 「なんだって? そんなことが許されるのか」現場叩き上げの老刑事が唸る。 「許されるも何も、やるしかないでしょう」黒木の視線は、青い数字が輝くボードに固定されたままだ。「爆弾を爆発させるわけにはいかない。だが、これは最悪のシナリオだ。ノイズは、まんまと日本政府そのものを自分のゲームに参加させた。我々の税金と年金を人質にして、自分の要求を通すための巨大な防波堤を、敵であるはずの我々に築かせたんです」
黒木の言葉の通り、株価はなんとか3,200円台を維持したまま、不自然な膠着状態に陥った。 ひとまず、今日の爆発は避けられたのかもしれない。だが、捜査本部に漂う空気は、勝利とはほど遠い、屈辱的な敗北感に満ちていた。犯人の掌の上で、国家が踊らされている。
「……調べたいことがあります」
沈黙を破ったのは黒木だった。彼はノートパソコンを閉じると、初めて刑事たちの方へ向き直った。 「最初の爆発現場の鑑識結果は? 爆弾の正体はわかったんですか」
数時間後、黒木と遠藤は警視庁の科学捜査研究所(科捜研)にいた。空調の音だけが響く無機質な白い部屋は、捜査本部の熱気とは別世界のようだ。 白衣の研究員が、試験管に入った無色透明の液体を見せながら、早口で説明する。
「奇妙な点ばかりです。爆薬の反応……ニトロやC4といった従来の成分は一切検出されませんでした。爆発というより、極めて急激な化学反応による体積膨張、としか言いようがありません」 「現場の残骸から、特殊な二種類の化合物の痕跡を検出しましたが、通常ではこれらが反応して爆発するなど考えられません。外部からよほど特殊なエネルギーを与えない限りは……」
研究員がその化合物の分子構造式をモニターに映し出す。遠藤には、それがただの記号の羅列にしか見えない。 だが、黒木はその図形を、かつて見た記憶のあるロゴマークのように見つめていた。彼の脳内で、忘れかけていた古い情報が、目の前のデータと急速に結びついていく。
「……自己冷却技術」 「え?」
「大昔に見たことがある……。ある技術系のニュースサイトの記事だ。確か……」
黒木は再びスマートフォンを取り出し、異常な速度で検索を始めた。彼の指は、まるで高速で取引注文を出すトレーダーのように画面上を滑る。キーワードは「自己冷却」「飲料」「化学反応」「特許」。そして、彼は探し当てた。
数年前に閉鎖されたニュースサイトの、ウェブの深海に眠っていたキャッシュ。 タイトルは、『夢の技術か、悪魔の技術か。ベンチャー企業ミヤマ・テックの挑戦』。
そこには、缶に封入した特殊な化合物に外部から刺激を与えることで、飲料を瞬間的に冷却させるという、画期的な技術が紹介されていた。そして、その記事の最後は、こう締め括られていた。
『……しかし、その将来性とは裏腹に、一部専門家からは化合物の安定性に対する懸念の声も上がっている。万が一、想定外のエネルギーが与えられた場合、冷却反応ではなく、暴走的な熱反応を引き起こす危険性を完全に否定できるのか。大手飲料メーカー、サンライズ・ドリンクス社との提携が噂される中、同社の判断が注目される……』
「この記事が出た直後だ」黒木は画面を見つめたまま言った。「サンライズ社は提携を破棄。ミヤマ・テックの株は暴落し、倒産した。そして、この会社の創業者で、この技術の発明者は……」
黒木が指で画面をスクロールさせ、創業者プロフィールを表示させる。 そこに映っていたのは、少しはにかんだような、しかし自らの技術に絶対の自信を宿した瞳で笑う、一人の男性技術者の顔写真だった。
遠藤は、すべてが繋がっていく感覚に息をのんだ。 爆弾は、無作為に選ばれた凶器ではなかった。 それは、犯人の人生そのものだったのだ。奪われた夢、汚された技術、そして、その絶望の産物。
「ノイズ、か……」黒木が呟いた。その声には、初めて人間的な感情が混じっていた。 「市場は、彼の人生を意味のない雑音(ノイズ)に変えてしまった。だから彼は、その雑音で市場を破壊しようとしている。復讐ですよ、遠藤刑事。これは、あまりにも個人的で、静かで、そして壮絶な復讐です」
捜査の焦点が、初めて定まった瞬間だった。 彼らが追うべきは、顔のないテロリストではない。 ミヤマ・テックという名の墓標の下に眠る、一人の男の悲劇だった。
第3章 復讐のアルゴリズム
戸籍謄本や過去の新聞記事といった、紙の資料が並べられた会議室は、まるで古い書庫のような、インクと紙の乾いた匂いがした。 デジタル世界の住人である犯人の過去を追うには、皮肉にも、こうして埃をかぶったアナログな記録の海に深く潜るしかなかった。刑事たちが手分けをして、倒産したミヤマ・テックの登記簿、元従業員の名簿、そして創業者である深山海斗の個人情報をかき集めていた。
数時間後、遠藤が、一枚の死亡届のコピーを震える指で指し示した。 声に出すのを躊躇うように、彼女は一度唇を湿らせた。
「……見つけました」
そこに記されていたのは、あまりにも無慈悲な事実だった。 ミヤマ・テック創業者、深山海斗。その長女、深山沙希(さき)。 死因、急性心不全。享年、6歳。 会社が倒産してから、わずか半年後のことだった。
「この記事を見てください」 今度は、黒木が別の資料、分厚いファイルに綴じられた週刊誌のバックナンバーを広げた。そのページは、彼の指紋で黒ずんでいる。 そこには、ミヤマ・テックの倒産劇を「強欲なベンチャーの自滅」と、面白おかしく書き立てた記事があった。例の「危険な技術」というデマを拡散し、深山海斗を社会的に抹殺したハゲタカファンド『ヴァルチャー・キャピタル』の代表が、勝利者として高級そうな葉巻をくゆらせ、インタビューに答えている。 「この記事が出た二日後です。娘さんが亡くなったのは」
さらに資料を追うと、追い打ちをかけるような事実が浮かび上がった。 娘の死から三ヶ月後、深山の妻もまた、自ら命を絶っていた。アパートの部屋で、娘の小さなぬいぐるみを抱きしめたままだったという。
捜査本部に、鉛のように重い沈黙が落ちた。 遠藤は唇を強く噛みしめ、やり場のない怒りに眉をひそめた。これまで追っていたのは、冷酷なテロリストのはずだった。だが、今目の前にあるのは、市場という名の暴力によって、未来も、夢も、愛する家族も、すべてを奪い尽くされた一人の男の、血の滲むような人生の記録だった。
「……復讐、か」誰かが呟いた。「だが、なぜ市場全体を? なぜ無関係な人々を巻き込む……」
その問いに、黒木だけが答えを持っていた。 彼は会議室の隅で、再びノートパソコンの画面に没頭していた。だが、その目はもはや過去の記録を追ってはいない。今の、リアルタイムで動いている市場の数字を、鬼気迫る表情で見つめていた。 彼は、ノイズ……深山海斗の思考を追体験していた。 サンライズ・ドリンクスへの攻撃。政府によるPKO。市場の混乱。これらはすべて、何かのための布石だとしたら? 彼の本当の狙いは、もっと深く、もっと狡猾な場所にあるはずだ。
黒木は、ヴァルチャー・キャピタルの現在の市場ポジションを分析した。 彼らは、ノイズが作り出したこの混乱に乗じ、莫大な利益を得ようと大きく動いていた。特に、日経平均全体が下落することに賭ける、巨大な「空売り」を仕掛けている。ノイズの次の手は、市場全体を暴落させる大規模テロだと、誰もが考えているからだ。ヴァルチャー・キャピタルも、当然そう読んでいた。
「……違う」黒木は、思わず声に出していた。「みんな、奴の手口を読み間違えている」
「黒木さん?」 「ノイズの最終目的は、市場の暴落じゃない。むしろ、その逆だ……!」
黒木は立ち上がり、ホワイトボードに乱暴にペンを走らせた。数字と矢印が、彼の思考のスピードを映し出すかのように踊る。 「ノイズは、ヴァルチャー・キャピタルが巨大な空売りを仕掛けるのを、待っていたんだ。彼らを破滅させるための罠を仕掛けて。彼は次に、市場全体をターゲットにした、最大級の爆破予告をするでしょう。そうなれば、ヴァルチャーは勝利を確信し、さらに空売りのポジションを積み増すはずだ」
黒木はペンを置き、唖然とする捜査員たちに向き直った。 「そして、その直後……ノイズは、自らがテロを全面停止するという『サプライズ情報』を流す。そうなれば市場はどうなりますか? パニックは収まり、株価は一気に買い戻され、爆発的に高騰する。空売りをしていたヴァルチャー・キャピタルは、一瞬にして天文学的な損失を被り、破綻する。これこそが、彼の組んだ『復讐のアルゴリズム』。ショート・スクイズですよ。市場を最も知り尽くした彼だからこそ組める、完璧な復讐劇だ」
刑事たちは、そのあまりにも壮大で、知的な復讐計画に言葉を失った。 ノイズは、爆弾という物理的な凶器と、市場操作という金融的な凶器を組み合わせ、自分からすべてを奪った強欲な捕食者を狩るための、完璧な罠を仕掛けていたのだ。
だが、その計画には一つの欠陥があった。 市場が暴騰すれば、ヴァルチャーは破滅する。だが、その前に流されるであろう「最後の爆破予告」は、現実だ。もし、彼の筋書き通りに物事が進まなければ、予告通り、日本中で爆発が起きる。
「どうすれば……」遠藤が絞り出すように言った。「奴を逮捕しても、アルゴリズムは止まらないかもしれない……」
「警察として出来ることは、犯人を追うことだけです」 黒木は静かに言った。その目には、刑事たちの知らない、かつて市場のプレイヤーだった頃の光が宿っていた。 「ですが、このゲームを終わらせる方法が、一つだけある」
それは、警察のコンサルタントとしてではなく、一人の元アナリストとして、市場のルールを破って盤面に介入すること。 ノイズのアルゴリズムに、彼が予測できない唯一のノイズ……「嘘」を投げ込むこと。
黒木は、自らが再び市場の罪人となる覚悟を決めた。 愛する家族を奪われた男の、あまりにも悲しい復讐を止めるために。
最終章:虚構の果てに (After the Fiction)
その日、日本という国そのものが、巨大な人質となった。
ノイズによる最後にして最大の犯行予告が、全メディアをジャックしていた。 「本日午後2時の取引終了時点で、日経平均株価が前日比マイナス1000円を下回っていた場合、全国に設置された連動型爆破装置をすべて作動させる」
それは、もはや一企業の株価を弄ぶゲームではなかった。 日本経済の心臓部、そのものへの宣戦布告だった。
東京証券取引所は、阿鼻叫喚の地獄と化した。 恐怖に駆られた売り注文が殺到し、株価を示すボードは血のような赤一色に染まる。 日経平均は、滝のように垂直に落下していく。 マイナス800円。 マイナス900円。
六本木ヒルズの最上階。ヴァルチャー・キャпитаルのトレーディングルームでは、シャンパンの栓が抜かれるのを今や遅しと待っていたことだろう。ノイズが仕掛けたこのパニックに乗じて仕込んだ巨大な空売りが、今、天文学的な利益を生み出そうとしていた。
警視庁の合同捜査本部で、黒木は一人、その光景を静かに見ていた。 遠藤が彼の隣に来て、声を潜める。 「深山のアジト、特定できました。湾岸地区の古い倉庫です。いつでも突入できます」
「……まだです」黒木は首を横に振った。「まだ突入してはいけない。奴を刺激すれば、アルゴリズムが予定を早める可能性がある。チェスの盤面からキングを直接どかすような真似はできない」 「しかし、このままでは! あと30分もありません!」
「俺が、止めます」
黒木は席を立ち、誰にも見られないよう部屋の隅へ移動すると、スマートフォンを取り出した。 アドレス帳から、たった一つだけ残してあった古い番号を呼び出す。彼が市場から追放されるきっかけを作った、情報屋のジャーナリスト。その男に情報を渡すことは、自ら汚泥の中に戻ることを意味した。
(結局、俺も同じか……。市場を動かすのは、いつだってインサイダーか、嘘つきだ)
自嘲が浮かぶ。だが、モニターに映る赤い数字が、彼の迷いを振り払った。あれはただの数字ではない。無数の人々の恐怖と、そして、深山海斗の家族の命の値段だ。
「……俺だ。一つ、リークしたい情報がある。あんたのところのスクープだ。ただし、絶対に情報源は明かさないと誓え」
数分後。市場に、一本のニュース速報が流れた。 すべてのトレーダーの端末に、赤いアラートが灯る。
『【速報】テロリスト”ノイズ”のシステム、第三者によるハイジャックの可能性浮上。某国系ファンド、市場介入準備か』
それは、黒木仁が放った、たった一つの「嘘」だった。
市場は、その嘘に喰らいついた。 ノイズの仕掛けたパニックによる暴落。それを狙うヴァルチャー・キャピタル。さらにその裏をかいて、漁夫の利を得ようとする第三の存在。 疑心暗鬼が、恐怖とは質の違う新たなノイズを生み出す。 売り一辺倒だった流れが、明らかに乱れた。
ヴァルチャー・キャピタルは、想定外のライバルの出現に狼狽し、利益確定のために買い戻しを始めた。底値で買おうとする投機家たちもそれに追随する。 下落は止まり、プラスでもマイナスでもない、激しい乱高下が始まった。 日経平均は、トリガーとなるマイナス1000円のラインを挟んで、痙攣するように上下する。
「……突入してください」
黒木は、スマートフォンの通話を切った遠藤に告げた。「今です」
古い倉庫街の一角。遠藤率いるSITの突入班が、ターゲットの部屋のドアを爆破した。 閃光と煙の中、隊員たちが突入する。 そこにいたのは、深山海斗、ただ一人。 彼は武装もせず、逃げるそぶりも見せず、ただ静かに、壁一面に設置されたモニターを見ていた。 そこには、乱高下する株価チャートが映し出されている。 彼の完璧だったはずの「復讐のアルゴリズム」が、正体不明のノイズによって破壊されていく様を、彼は呆然と見つめていた。
「深山海斗! 確保!」
隊員たちに取り押さえられながらも、深山の目はモニターから離れなかった。彼の計算には、こんな変数は存在しなかった。
市場が取引終了を告げる、午後2時の鐘が鳴った。 その瞬間の日経平均株価、前日比マイナス998円。 トリガーは、引かれなかった。
逮捕から数日後。 取調室で、深山は初めて黒木と顔を合わせた。 「……あんたか」深山は静かに言った。「俺の計算を狂わせたノイズは」
「かつて、あなたと同じ場所にいた人間です」黒木は答えた。 「なぜ、邪魔をした。俺は、正そうとしただけだ。虚構が現実を支配する、この狂った世界を……」
「あなたの正義は、あなたの家族が受けたのと同じ痛みを、他の誰かに与えるだけだ」 「では、君の守ったこの市場は、これから誰かを救うのか?」
その問いに、黒木は答えられなかった。
「……俺はただ、証明したかった。この世界がいかに脆い虚構の上に成り立っているかを。そして、その虚構が、俺の娘の命よりも優先されるという事実を」
深山の声に、憎悪はなかった。そこにあるのは、あまりにも深く、そして静かな悲しみだけだった。 黒木は、返す言葉を持たなかった。彼には、深山の言葉を否定することが、どうしてもできなかったからだ。
さらに数ヶ月後。 黒木は、警視庁のコン-サルタント職を自ら辞した。 市場を不正に操作した彼の行為は、公にはならなかったが、彼の正義は、法の下の正義ではなかったからだ。
彼は、スーツを脱ぎ、ごく普通の男として街を歩いていた。 駅前の自動販売機で、一本の缶コーヒーを買う。あの事件の後、すべて交換された新しい機械だ。 ごとり、と音を立てて出てきた、ありふれた缶。 彼はそれを手に取り、空を見上げた。
彼はすべてを失った。アナリストとしてのキャリアも、警察との繋がりも。 だが、彼の心には、市場の数字だけを追いかけていた頃には決してなかった、確かな重みを持つ「何か」が残っていた。 虚構の世界で、ただ一つの現実を守るために戦ったという、静かな感触。
市場は、明日もまた、何事もなかったかのように開かれるだろう。 そこでは、新たな欲望と恐怖が渦巻き、誰かの人生を弄ぶのかもしれない。 世界は変わらない。だが、その虚構を見つめる自分の目だけは、もう二度と、昨日と同じではありえない。
黒木は、そう確信しながら、缶コーヒーのタブを静かに引き上げた。



































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