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『東京、1963年の遠吠え』

あらすじ

昭和38年、高度経済成長期の東京。下町で時計店を営む山村浩介は、愛息サトルの無邪気な笑顔に囲まれた穏やかな日々を送っていた。しかし、その日常は一本の電話によって、脆くも崩れ去る。サトルが誘拐されたのだ。犯人の声に混じる微かな「奇妙なノイズ」を唯一聞き取った浩介は、その音の正体に独自に迫り始める。

一方、警視庁のベテラン刑事、黒木鉄二は、異例の「報道協定」を敷き、犯人逮捕に執念を燃やす。しかし、狡猾な犯人は警察の裏をかき、捜査は混迷を極める。事件から一年後、警察は世論の圧力から、犯人の声を公開する「公開捜査」に踏み切る。その声は、社会の片隅で絶望に喘ぐ一人の男、小林健へと繋がっていく。

逮捕された小林は犯行を自供するも、彼の供述には不自然な「空白」があった。黒木は小林の「失われた記憶」の謎を追い、山村は彼にしか聞こえない「ノイズ」の秘密を解き明かそうとする。二つの謎が交錯する中で、事件の裏に隠された、もう一つの真実が浮かび上がってくる。

これは、昭和という時代の光と影の中で起こった悲劇と、誰もが抱えうる「絶望」を巡る物語。声なき声が響き渡る時、真の遠吠えが聞こえる。人間の感情と倫理の揺らぎの中で、彼らは何を見出し、どう生きるべきか。息を呑む謎解きと、心揺さぶる人間ドラマが今、始まる。

登場人物紹介

  • 山村 浩介(やまむら こうすけ) 下町で時計店を営む職人。緻密で冷静だが、家族への深い愛情を秘めている。息子の誘拐事件で、犯人の声に混じる「奇妙なノイズ」を唯一聞き取り、その音の正体を追い続ける。
  • 黒木 鉄二(くろき てつじ) 警視庁特命捜査班「八咫烏」の主任刑事。長年の経験と直感を頼りに、犯人逮捕に執念を燃やすベテラン。事件の真実に迫る中で、容疑者の「失われた記憶」の謎に直面する。
  • 小林 健(こばやし けん) 事件の容疑者として浮上する時計修理工。多額の借金を抱え、社会の片隅で深く絶望している。彼の供述には不自然な空白があり、その心の闇には誰も知らない秘密が隠されている。東北出身
  • サトル 山村浩介の愛息。4歳。無邪気で活発な少年。彼の誘拐事件が、物語の悲劇の始まりとなる。
  • 野良犬(名前なし) 下町の路地裏に住み着いている一匹の老いた犬。孤独な小林健と奇妙な縁で繋がる、声なき目撃者。その存在が、事件に隠された真実を暗示する。

第一章 錆びた音色の夜

昭和三十八年春、東京。

夕焼けが、下町の古い瓦屋根や錆びたトタン塀に赤々と伸びていた。山村時計店の奥、油と真鍮の匂いが染み付いた静かな工房で、山村浩介は眼鏡の奥の目を凝らし、ピンセットで懐中時計の微細な歯車を挟んでいた。カチカチ、カチカチ。壁の柱時計が規則正しく時を刻む。その音だけが、この変化の激しい時代にあって、浩介にとって唯一変わらぬ安らぎの砦だった。

「パパ、今日はお月様、見えるかな?」

浩介は顔を上げた。四歳の愛息サトルが、店の入り口でこちらを見上げている。大きな瞳がきらきらと輝いている。手に持った虫かごが揺れる音がした。いつもの公園に行くのだろう。

「ああ、見えるさ。きっと丸くて、大きな月だぞ。バッタ捕まえたら、すぐに帰ってこいよ」

浩介が優しく頷くと、サトルは「やった!」と甲高い声を上げ、小さな体を揺らして駆けて行った。その背中には、未来への希望だけが詰まっているように見えた。浩介の心には、何の陰りもなかった。この穏やかな時間が、永遠に続くものだと信じていた。

時計のゼンマイを巻き、工具を丁寧に片付ける。ふと、店の外が騒がしくなった。最初は近所の子供たちの遊び声かと思ったが、どこか切羽詰まった、ヒステリックな声に変わっていく。胸騒ぎがした。

ドタドタと、店の引き戸が乱暴に開く音。紀子だった。その顔は、血の気が引いて真っ青になっている。

「浩介さん! サトルが…公園にいないの!」

紀子の声が、凍てつくナイフのように浩介の胸を貫いた。油で汚れた手が、がたがたと震える。慌てて飛び出した公園は、夕暮れの光の中で、不気味なほど静まり返っていた。遊び声は消え、風がブランコをゆっくりと揺らす音が、やけに大きく響いた。滑り台のそばに、サトルがいつも被っていた野球帽だけが、ポツンと落ちていた。


その頃、同じ下町の埃っぽい路地裏、古びた二階建てのアパートの一室で、小林健は、郵便受けに押し込まれた借金の催促状を握りしめ、手が震えていた。紙の端が、彼の指の震えでクシャリと音を立てる。時計修理の腕は確かだったが、安物の時計が量産され、修理に出す客はめっきり減った。未来への光はどこにも見えない。

窓の外では、夕焼けがオレンジ色に空を染めている。小林は、その路地裏の隅で、痩せこけた一匹の野良犬が、ゴミ箱を漁っているのを見た。肋骨が浮き出た哀れな姿だ。野良犬と目が合う。まるで自分を見ているかのように、その犬の瞳は諦めと疲労を宿していた。

「……おめぇさんも、行き場がねぇのかい……」

小林は呟き、乾いた笑いを漏らした。かつては夢も希望もあった。だが、度重なる失敗と裏切り、そして家族との決定的な確執――兄からの冷たい見捨てられ方は、彼の心を深く、深く蝕んでいた。

「おめぇなんかのために、もう貸す金はねぇ。家族だろうと関係ねぇんだよ」

兄の冷たい声が、遠い過去の出来事のように、しかし鮮明に脳裏に響く。彼は東京の片隅で、社会からこぼれ落ち、誰も助けてくれないという根源的な孤独の中にいた。この街の光と影の狭間で、彼の絶望は静かに膨らんでいた。


夜。家族で囲むはずの食卓に、サトルの笑顔はない。不安と恐怖が、山村家を支配していた。数時間が経過し、時計の針が午後十時を指した頃、電話のベルがけたたましく鳴り響いた。その音は、張り詰めた室内に、鉛玉が転がるように響いた。

浩介が受話器を取る手が震える。耳に当てた瞬間、微かな電子音のノイズが聞こえた。

「……もしもし……」

電話の向こうから聞こえるのは、ノイズと混じり合った、低く抑えられた男の声だった。声は途切れ途切れで、感情が読み取れない。しかし、そこには故郷を思わせる、どこか重く、平坦なイントネーションが微かに混じっているように浩介には感じられた。

「……お宅の息子さんを……預かってるんだ……」

心臓が跳ね上がった。浩介は息を呑む。隣で紀子が顔を覆い、小さく嗚咽を漏らしている。

「……五十万円、用意しとげ……上野駅前の、住友銀行脇の電話ボックスに、現金持って来い……」

男の声は、そこで再び途切れた。まるで、息を潜めているかのように、沈黙が訪れる。浩介は必死に呼びかけた。

「サトルは、サトルは無事なんですか!? どこにいるんですか!」

「……警察へは、連絡すんなよ……」

まるで浩介の問いを無視するように、男は冷たく言い放ち、ぷつりと電話は切れた。受話器から聞こえるのは、ツー、ツーという無機質な音だけ。そして、浩介の耳には、あの微かな、しかし奇妙な「ノイズ」が、脳裏にまとわりつくように残った。それはまるで、砂を擦るような、あるいは古い機械が軋むような、しかし耳に残る規則的な音だった。

「紀子……」

浩介は受話器を置く手も震え、真っ青な顔で妻を見た。彼らを襲う悲劇の始まりを告げる、不気味な前兆。この音こそが、事件の核心へと繋がる、唯一の道標であることを、浩介はまだ知らない。

第二章 「声」の罠、そして遠吠え

昭和三十八年春、事件発生直後。

警視庁に設置された特命捜査班「八咫烏」。薄暗い捜査本部には、煙草の煙が充満し、コーヒーの苦い匂いが漂っていた。刑事たちの張り詰めた空気が、分厚い壁のようだった。主任刑事の黒木鉄二は、ホワイトボードに貼られた広域地図を睨みながら、低い声で指示を飛ばした。その声には、長年の経験からくる重みが宿っている。

「報道協定だ。分かっているな? 一切、情報を漏らすな。特に、被害者家族の動向には細心の注意を払え」

若手刑事たちが固唾を飲んで頷く。黒木は、三年前の別の誘拐事件の苦い教訓を胸に刻んでいた。マスコミの過熱報道が、捜査を混乱させ、被害者の命を危険に晒したのだ。被害者の安全確保のため、そして世論の無用な動揺を防ぐため、彼はすべてを犠牲にする覚悟だった。

犯人からの電話は続いた。身代金の受け渡し場所を二転三転させ、警察の裏をかく。その手口は狡猾で、プロの犯行を思わせた。黒木は山村家に、犯人との会話を可能な限り引き延ばすよう指示した。

「山村さん、いいですか。犯人が何を言っても、サトルちゃんの安全を最優先に考えてください。焦らず、落ち着いて」

「わ、分かってます。でも…サトルは…」

浩介の声は震え、途切れがちだった。黒木は苦い顔で受話器を耳に当て、山村と犯人の会話を傍受した。犯人の声は、まるで感情のない機械のようだった。**だが、その声の端々に、東京ではあまり聞かない、平坦で独特なイントネーションが微かに混じっているのを黒木は聞き取った。**その会話は全て録音された。黒木は何度もその声を再生する。特徴的な訛り、そして声質。これが犯人逮捕の最大の鍵になると確信していた。彼は耳をそばだて、声紋分析の専門家を呼んだ。

「これは、ノイズがひどいな。特に後半は、ほとんど雑音です」専門家は首を傾げた。「声紋は分析できますが、背景音は特定できませんね。回線が悪いのか、あるいは何か意図的にノイズが混入されているのか……」

「訛りはどうだ?」黒木が尋ねた。

「ええ、確かに、東北地方、特に北関東から東北にかけての地域で聞かれる特有のイントネーションが確認できます。語尾が少し重く、平坦に聞こえる癖がありますね。東京で完全に標準語を話す人間とは、やはり少し違う。しかし、これだけで断定はできません」

だが、犯人は狡猾だった。指定された身代金受け渡し場所に、警察が網を張っていることを察知したのか、姿を現さない。そして、四月七日の電話を最後に、犯人からの連絡は途絶えた。サトルの行方は杳として知れない。

「クソッ…! まるで、透明な壁に阻まれているようだ!」

黒木は捜査本部のホワイトボードを拳で叩いた。手掛かりは、あの声だけ。だが、声紋分析も聞き込みも、決定打にはならない。捜査は混迷を極めていた。黒木の胸中には、解決への焦燥と、犯人への静かな怒りが募っていく。


山村浩介は、自宅の工房で、警察の音響専門家が「単なる雑音」と切り捨てた「ノイズ」の存在に焦燥感を募らせていた。彼は時計職人として、微細な音に人一倍敏感な聴覚を持っていた。指先の感覚で、数ミクロンの誤差を見分けることができる耳だ。夜な夜な、工房の古い蓄音機に繋いだヘッドホンを耳に当て、録音テープを繰り返し再生し続けた。

ザザザ……という砂嵐のようなノイズの合間に、微かに、しかし確かに聞こえる規則的な音。それはまるで、遠い場所で古い機械が軋むような音と、それに重なる、かすかな遠吠えの残響のようだった。警察の最新鋭の機器は、ノイズをフィルターにかけることばかりに特化している。しかし、山村の古い蓄音機と彼の耳は、その「雑音」の中に隠された意味を捉えようとしていた。

「何なんだ、この音は……サトル、お前はどこにいるんだ……」

浩介の心は、絶望の淵に沈みかけていた。眠れない夜が続き、体重は落ち、顔色は土気色になっていた。紀子が心配そうに隣で彼の背をさする。しかし、彼はその音の正体を探ることに、全てを賭けていた。

第三章 街の光と影

昭和三十九年春。

東京はオリンピック開催を控え、新しいビルが次々と建ち、街全体が希望に満ちた光に包まれ始めていた。銀座のショーウィンドウには真新しい家電製品が並び、人々は未来の豊かさを信じていた。しかし、サトルちゃんの事件は徐々に人々の記憶から薄れ、多くの市民にとっては「もう終わったこと」になりつつあった。

一方、その光の届かない場所で、小林健の絶望は深まっていた。借金は膨れ上がり、彼の周りから人々は離れていった。

「おめぇなんかのために、もう貸す金はねぇ。家族だろうと関係ねぇんだよ」

電話口の兄の声は、氷のように冷たかった。兄の声は、小林が故郷を離れて東京に出てきてから、さらに冷たくなったように感じていた。それは、小林に残された最後の絆を断ち切るものだった。父の死後、彼を支えてくれると信じていた兄の言葉は、彼の心を深く抉った。幼い頃から感じていた、親からの期待と現実の間の溝。彼が何をしても満たされなかった空白。彼は東京の片隅で、社会からこぼれ落ち、誰も助けてくれないという根源的な孤独の中にいた。仕事もなく、生きる意味を見失っていた小林は、夜な夜なアパートの窓から空を見上げた。聞こえるのは、自分と同じように誰にも届かない、野良犬の寂しい遠吠えだけだった。

小林は、この野良犬に、特別な感情を抱いていた。路地裏の隅で、彼はよくその犬に、手持ちのパンの切れ端を分け与えた。犬は無言でそれを受け取り、彼の足元に擦り寄った。その毛並みはゴワゴワしていたが、温かかった。

「おめぇさんも、一人なのかい」

それは、小林にとって、唯一の「繋がり」だった。誰も自分を理解しない。誰も自分を救ってはくれない。そんな中で、この犬だけが、彼の傍にいた。彼の心は、限りなく透明に近い絶望で満たされていた。

捜査に行き詰まる八咫烏。世間からの警察への批判は日に日に高まり、マスコミは「迷宮入りか」と書き立てる。黒木は、焦燥と苦渋の決断を迫られていた。

「主任、本当にこれを…?」

若手刑事の問いに、黒木は力なく頷いた。

「他に手はない。国民の力を借りるしかない」

警視庁は、ついに犯人の「声」をテレビやラジオで公開する「公開捜査」に踏み切った。前代未聞の試みだった。日本中に、あの無機質な声が繰り返し放送された。

第四章 遠吠えの共鳴

昭和四十年七月。 「あの声に似た男を知っています!」

公開捜査によって寄せられた膨大な情報の中に、黒木の目を引くものがあった。都内の時計修理店で働く小林健。声紋が酷似しているという。情報提供者は、小林が酔っぱらうと、決まって故郷の訛りが出ることを指摘していた。小林は多額の借金に加えて、かつて彼の人生を大きく狂わせた幼少期の親からの虐待の記憶と、成人してからの家族(特に兄)からの見捨てられ方という深いトラウマを抱えていた。彼の自己肯定感は徹底的に破壊され、社会の底辺へと転落していく中で、もはや人間としての尊厳すら見失っていた。

黒木は、過去に一度捜査線上に浮上しながらもアリバイが確認されたはずの小林を、再度徹底的に洗い直すよう命じた。

「あの男は、何かを隠している」

黒木の刑事の勘が告げていた。小林は逮捕され、警視庁の取調室に連行された。

黒木は、椅子に座る小林をじっと見つめた。小林は憔悴しきった顔で黙秘を続けている。その目は、虚ろに宙を彷徨っている。

「小林。なぜサトルちゃんを誘拐した? 金のためか?」

問いに、小林は虚ろな目を向けるだけだ。黒木は構わない。彼は何時間も、何十時間にも及ぶ尋問と、小林のわずかな表情の変化を見逃さずに観察した。彼の目に、過去の事件で幾度となく見てきた**「絶望」**の色が映っていた。それは、深く、底なしの暗闇の色だった。

「小林さん、何に絶望していたんです?

黒木が、あえて標準語の中に、微かな共感を込めた、しかし威圧的な低い声で問いかけた瞬間、小林の体が微かに震えた。彼の頭の中に、あの日の光景が断片的に蘇る。雨が降っていた。夕暮れの薄暗い中、小さな温かい手が、そっと彼の指先に触れた感触。そして、路地裏の隅で自分をじっと見つめていた、あの野良犬の眼差し。しかし、その記憶は、ある一点で突然途切れた。まるで古びた映写機のフィルムが焼き切れたかのように、それ以降の記憶がすっぽりと抜け落ちていたのだ。

「……思い出せねぇんだ……何があったのか、本当に……」

小林の声は、擦れて途切れがちだった。サトルを殺害した経緯や、遺体を遺棄した状況に関する記憶が、まるで霧の中にあるかのように曖昧なのだ。黒木は、この**「失われた記憶」**こそが、事件の真の動機を隠しているのではないかと直感する。

「小林さん。あなたは、あの時、一人じゃなかったはずです。誰かに…いや、何かによって、あなたは突き動かされたんだ

黒木は、小林の心に潜む、より深い闇に迫ろうとした。

その頃、山村浩介は、自宅のテレビから流れる、逮捕された小林の記者会見の映像を食い入るように見ていた。小林の声を聞く。そして、山村にしか聞こえない、あの**「奇妙なノイズ」が、確かにそこにも存在している**ことを確認した。砂が擦れるような、微かな機械音。その音は、山村の耳には、はっきりと聞こえた。

「この男の自白は……何かが足りない」

山村の執念が、新たな謎を呼び起こした。彼は警察に電話し、そのノイズの件を再度伝えたが、相手はまともに取り合おうとしない。「山村さん、心労で幻聴でも聞こえているんじゃないですか」と、冷たくあしらわれた。山村は、自分の耳だけが頼りだと悟った。

第五章 二つの声、一つの真実

昭和四十年夏。

黒木は、犯罪心理学の専門家、大野教授を警視庁に招いた。彼の持つ専門知識が、小林健の「失われた記憶」の鍵になると信じていた。

「大野先生、彼が供述を拒否しているわけではないんです。まるで、その部分だけ、彼の中から消え去ったかのように…」

大野教授は、冷静に語った。「なるほど、興味深いですね、黒木さん。極度の精神的ストレスや、耐え難い罪悪感は、脳が特定の記憶を防御的に遮断する、いわゆる解離性健忘を引き起こすことがあります」

黒木は、小林が金銭困窮だけではない、より根深い絶望に苛まれていたことを確信した。彼は、小林の過去をさらに深く掘り下げた。故郷での彼の生い立ち、東京に出てきてからの人間関係、そして、彼がどれほど社会から孤立していたか。


一方、山村浩介は、あの「奇妙なノイズ」の正体を突き止めていた。彼の持つ、時計職人ならではの微細な音を聞き分ける聴覚と、古い音響技術への知識が、警察の最新機器でも捉えきれなかった「雑音」の正体を暴いたのだ。山村は録音テープのノイズ部分を切り取り、自身の工房で古い周波数分析機にかけた。彼は徹夜で作業を続けた。目が疲労で霞む。

「これだ……」

彼が突き止めたノイズは、**廃墟と化した古い工場のモーターの「軋むような機械音」と、微かに響く野良犬の「遠吠え」**が混じり合ったものだった。特定の周波数を持つその音は、都会の喧騒の中では聞き流されがちだが、山村の耳には明瞭に聞こえた。

山村は工房の壁に貼られた下町の地図を広げ、ノイズの音源となる工場の場所を特定した。そこは、小林がかつて短期間、日雇いの仕事で働いていた「旧・東亜機械工業」の工場だった。地図には載っていないが、その裏手には、荒れ果てた小さな空き地があることを、彼はかつて散歩中に偶然見つけていた。

「この音は…あの場所だ…!」

山村は、妻の紀子の制止を振り切り、一人でその場所へと向かう。彼の胸には、犯人への怒りだけでなく、息子への途方もない愛情と、真実を知りたいという純粋な願いがあった。廃工場裏の空き地。錆びたドラム缶が転がり、草木が生い茂るその場所で、山村は土に残された微かな痕跡、そして、所々に落ちた犬の毛を見つけた。

「この犬は……まさか、あの小林という男が世話をしていた野良犬か……?」

彼は、以前、小林が路地裏で野良犬に餌をやっている姿を偶然見たことを思い出した。あの犬が、もしかしたらこの場所で、事件の一部始終を目撃していたのかもしれない。

第六章 真実の遠吠え

昭和四十年夏、警視庁取調室

黒木は、小林の前に一枚の写真と、一枚の紙を置いた。写真は、山村浩介が発見した廃工場の裏手の空き地だった。紙には、大野教授が分析した、彼の精神状態に関するレポートが書かれている。

「小林さん。あなたは、あの時、一人じゃなかったはずです」

黒木は静かに語りかけた。感情を込めず、しかし、言葉の一つ一つに重みを乗せて。彼の言葉の端々には、小林が故郷で聞いただろう、しかし東京でも違和感のない、かすかな温かみと厳しさが混じっていた。

「あなたを理解してくれる、いや、あなたと同じように社会から見放された存在が、そこにいたはずです」

小林の瞳が、僅かに揺れた。彼の脳裏に、あの廃工場の片隅で、彼と静かに向き合っていた、痩せこけた野良犬の姿が鮮明に蘇る。あの犬は、彼の孤独と絶望を共有する、唯一の、そして最後の存在だった。あの夜も、彼はその野良犬に、最後のパンを分け与えていたのだ。その犬は、彼がサトルを連れてきた時も、ただ黙って彼らを見ていた。

「小林さん、あなたは、金が欲しかっただけじゃない。あなたは、誰かに気づいてほしかったんだ。この絶望から、助けてほしかったんだ!」

黒木の言葉が、小林の心の奥底に響く。小林は、俯いていた顔をゆっくりと上げた。その目には、大粒の涙が溢れていた。

「……そ、そうです……僕は……」 「あの子は……あの子は、僕に、何も要求しなかったんです……何も、言わずに……」 「僕には、もう、何も……何一つ残っていなかったんです**……**」

彼の声は、嗚咽に途切れ、かすかに東北の抑揚を残しつつも、言葉にならない呻きに近かった。その叫びは、廃工場から聞こえたあの遠吠えのように、黒木の心にも響いた。

その瞬間、山村浩介が取調室のガラス越しに、小林の姿を見つめていた。息子の命を奪った犯人。しかし、その顔に浮かぶ、自分と同じ種類の絶望の影を見て、山村は複雑な感情に襲われる。憎悪と、ほんのわずかな理解。そして、この悲劇が、社会の歪みと個人の苦しみが極限に達した結果であったことを痛感した。彼は、怒りに震えながらも、同時に、深い孤独を抱えた小林の魂に、一瞬だけ、触れたような気がした。

第七章 遠吠えの残響

事件は完全に解決した。小林健は逮捕され、法によって裁かれることになる。黒木鉄二は、正義を追求した達成感と共に、しかし、人間の心の闇の深さに改めて向き合うことになった。彼は法を執行する者として小林を罰したが、彼の抱えた絶望に対する複雑な感情は消えなかった。法が裁けるのは行為であり、その根源にある痛ましい絶望までは裁けないのだと、黒木は静かに自問する。彼の心には、決して割り切れない問いが残った。

山村浩介は、愛する息子の死の真実に直面し、深い悲しみと共に、犯人が抱えていた絶望の深さを知る。彼は小林の行為を断じて許せない。その憎悪が消えることはない。しかし、小林健が、自分と同じ人間であり、社会の光に照らされず、自らの手で人生の全てを破壊してしまった「もう一人の犠牲者」でもあったことを理解する。それは、法が裁けない、より普遍的な問いを彼の心に残した。

時代は、東京オリンピックを迎えようと、さらに加速していく。古いものは次々に壊され、新しいビルが建ち、街の景色は目まぐるしく変わっていく。山村時計店も、いつかこの街から姿を消すのかもしれない。

しかし、あの事件が残した「残響」は、人々の心に深く刻まれている。そして、夜な夜な下町の路地裏をさまよう、一匹の野良犬。その背中は、どこか寂しげで、しかし力強い。誰にも属さず、ただ生き抜くその姿は、社会の光の届かない場所で、誰にも聞かれず鳴り響く**「東京、1963年の遠吠え」**のように、普遍的な絶望の存在を象徴していた。その遠吠えは、過去の悲劇を語り継ぎ、そして未来を生きる人々に、静かに問いかけ続けている。

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