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『僕が遺したアルゴリズム』

あらすじ

天才エンジニア・藤井亮介は、自身が心血を注いだAIシステム『天秤』の完成と同時に、燃え尽きていた。熱狂と喧騒に包まれたはずの、ローンチ前1ヶ月の記憶は、なぜか綺麗に抜け落ちている。

休職し、色のない世界を生きる彼のもとに、同僚たちは次々と「英雄譚」を語りに来るが、藤井にその記憶はない。時を同じくして、SNSでは「#天秤の闇」という不穏な噂が囁かれ始める。

自分の中にいる「知らない自分」の正体を追う藤井がたどり着いたのは、自らが遺した謎のファイル――遺書.md。

そこに記されていた、あまりにも残酷な真実とは。これは、失われた自分自身を探し出す、静かで、しかし壮絶な魂のミステリー。


登場人物紹介

藤井 亮介(ふじい りょうすけ) 本作の主人公。大手IT企業「ネクサス・イノベーション」の若きシステムアーキテクト。天才的な技術力でAIシステム『天秤』を開発するが、バーンアウトで休職。プロジェクト終盤の記憶を失っており、自分の中にいる「もう一人の自分」の謎を追うことになる。

安田 誠(やすだ まこと) 藤井と同期入社のプロジェクトマネージャー。現実主義者で皮肉屋だが、藤井の才能に誰よりも嫉妬と畏敬の念を抱いている。物語の鍵を握る、藤井の「共犯者」。

黒田 一英(くろだ かずひで) プロジェクトの責任者である部長。会社の利益と論理を絶対視し、藤井の前に立ちはだかる。かつては理想に燃える技術者だったが、ある挫折を機に現実主義者へと変貌した過去を持つ。

羽鳥 沙耶(はとり さや) 品質保証(QA)部門のエンジニア。強い倫理観を持ち、『天秤』が抱える危険性に早くから気づいていた数少ない人物。藤井に、失われた記憶を解くための重要な手がかりをもたらす。


序章:色のない世界

息を吸うのも、吐き出すのも、億劫だった。

まるで水深の深い場所にいるかのように、僕の身体には常に鈍い抵抗がかかっていた。まぶたを持ち上げるのにも、ベッドから半身を起こすのにも、いちいち錆びついた歯車を回すような意志の力が必要だった。僕の時間は、粘度の高い液体の中をゆっくりと沈んでいく気泡のように、ただ目的もなく過ぎていた。

カーテンを閉め切ったワンルームの部屋は、昼夜を問わず同じ明るさを保っている。いや、明るさというよりは、光の不在と呼ぶべきだろう。すべてのものがその固有の色を失い、輪郭は曖昧に溶けていた。かつては気に入って選んだはずの、木目のはっきりしたフローリングも、壁にかけた抽象画も、今はただの濃淡の異なる染みにしか見えない。世界から色が消えてしまったのか。あるいは、色を感じる機能が、僕の側で回復不可能なほどに壊れてしまったのか。

半年。休職してから、それだけの時間が経ったらしい。産業医は「焦らないことが一番の薬です」と、壊れたレコードのように繰り返した。その言葉に従順なふりをして頷きながら、僕は、自分が焦るための気力さえとうに失っていることに気づいていた。

原因は分かっている。 次世代AI与信判断システム――『天秤』。 僕が心血を注ぎ、そして僕の心を、魂ごと食い尽くしたプロジェクトの名前だ。

思い出すのは、ローンチ当日の、乾いた拍手と、誰かの手で無理やり持たされたシャンパングラスの空虚な光。そして、その後の数日間、まるで死んだように眠り続けたこと。そこから先の記憶は、ひどく曖昧だ。

特に、プロジェクトが狂乱的な最終局面を迎えた、ローンチ直前の1ヶ月間。あの30日間の記憶は、まるで検閲官の手で乱暴に切り取られたフィルムのように、すっぽりと抜け落ちていた。自分が何を話し、どう動いていたのか。誰を励まし、誰を傷つけたのか。何も思い出せない。思い出そうとすると、頭蓋の内側で高圧電流のようなノイズが走り、思考が強制的にシャットダウンされる。

胸の奥に、何か巨大で冷たい塊が沈んでいる。 記憶の欠落は、その塊の正体を見えなくするための、僕自身の防衛本能なのかもしれない。

その日も、意味もなくスマートフォンの冷たいガラスの上を指で滑らせていた。SNSのタイムラインを、意味も理解せず、ただ指の運動としてスクロールする。友人たちの楽しげな投稿も、世間を騒がせるニュースも、僕の心を少しも揺らさなかった。すべてが、対岸の火事ですらなかった。存在しない世界の出来事のようだった。

なぜだろう。 その時、僕の指は、まるで僕のものではないかのように、自分の意志を持って動き始めた。検索窓に、呪いのようにこびりついた言葉を打ち込んでいた。

『天秤』

打ってから、乾いた自嘲が漏れた。忘れたいのか、知りたいのか。自分でも分からない。 検索結果のトップには、ネクサス・イノベーションの華々しいプレスリリースが表示される。『天秤』が、いかに公正で、革新的なシステムであるかを謳う美辞麗句。その一つ一つが、今はもう意味を剥奪された、外国語の羅列にしか見えなかった。

その時だった。 検索候補のサジェストに、見慣れない言葉が浮かび上がっているのに気づいた。

【#天秤の闇】

闇? 何かのアンチキャンペーンだろうか。革新的なサービスには、いつだって批判がつきまとう。僕は指で触れようとして、やめた。これ以上、心をすり減らすものを見たくはなかった。

だが、一度見てしまった言葉は、網膜に焼き付いて消えなかった。 それはまるで、暗い部屋の壁に空いた、小さな針の穴のようだった。覗いてはいけないと分かっているのに、そこから漏れてくる微かな光から、もう目が離せない。

僕は、何かに導かれるように、そのハッシュタグをタップした。

表示されたのは、無数の、個人の呟きだった。

「理由も分からず、住宅ローンを拒否された。『天秤』のスコアが低いとだけ言われた。これまで一度も延滞なんてないのに」

「起業資金の融資を申し込んだら、門前払い。俺の人生の何が、AIに否定されたんだ」

「#天秤の闇 これって、特定の地域に住んでるだけでスコアが下がるようになってないか? 明らかな差別だろ」

一つ、また一つと、悲痛な叫びが画面を流れていく。 それは、僕の知らない、無数の人々の人生の記録だった。 彼らの言葉は、これまでのどんな情報とも違っていた。ノイズだらけのはずの世界から、その文字だけが、鋭い意味を持って僕の目に突き刺さってきた。

胸の奥に沈んでいた、冷たい塊が、ぎしり、と音を立てて軋んだ。 それは、ただの重りではなかった。 心臓を鷲掴みにし、その脈動を抑えつけていた、巨大な手だったのかもしれない。

僕が失った1ヶ月の記憶。 その空白の中で、一体何があったのか。

これは、僕の知らない僕が世界に遺した、物語の始まりだった。

第一章:知らない僕の足跡

「#天秤の闇」――その言葉を見つけてから数日、僕の世界は何も変わらないようでいて、確実に何かが変質していた。これまでただの背景だった部屋の染みが、意味ありげな模様に見える。窓の外から聞こえるサイレンの音が、僕の作ったシステムが生み出した、新たな犠牲者の叫び声ではないかと錯覚する。胸の奥の冷たい塊は、その輪郭を保ったまま、わずかに熱を帯び始めていた。それは心地よい温かさなどではなく、鈍い痛みを伴う、熱病の予兆だった。

そんな時、静寂を破って、唐突にインターホンが鳴った。

現実が、僕の部屋のドアをノックしている。僕は無視を決め込もうとしたが、訪問者は諦めずに二度、三度と呼び出しボタンを押した。重い体をひきずってドアを開けると、そこには見覚えのある顔があった。

「藤井さん! ご無沙汰してます!」 プロジェクトで僕のチームにいた、若手エンジニアの佐伯だった。その屈託のない笑顔は、僕の薄暗い部屋には眩しすぎた。彼の手には、有名店のロゴが入ったケーキの箱が握られている。

「近くまで来たんで、お見舞いに、と。体調、いかがですか?」 「……ああ。まあ、なんとか」 曖昧に頷く僕を、佐伯は心底心配そうな目で見つめた。 「本当に、あの節はありがとうございました。藤井さんがいなかったら、このプロジェクトは間違いなくローンチできてませんでした」 「……そうか」 記憶がないのだから、気の利いた返事もできない。僕の無気力な相槌を、彼は謙遜と受け取ったようだった。 「特に、ローンチの三日前です! サーバーの負荷テストで、データベースの応答が急に停止した時、みんなパニックだったじゃないですか。でも、藤井さんだけが冷静にログを睨んで……たった数行のコード修正で、ボトルネックを解消してしまった。あれはもう、魔法でしたよ」

佐伯が語る英雄譚を、僕はまるで他人の物語を聞くように聞いていた。データベース。ボトルネック。そんな言葉さえ、ひどく遠い国の響きに聞こえる。僕が、そんなことをしたのか? 記憶の霧の中を探っても、そこには何もなかった。ただ、高圧電流のノイズが走るだけだ。

「みんな、藤井さんのこと、本当に尊敬してます。だから、早く戻ってきてください」 純粋な好意の言葉が、鉛のように僕の体に沈み込む。感謝されればされるほど、僕と、彼が語る「藤井亮介」との間の溝は、絶望的に広がっていく。僕は一体、誰なんだ?

佐伯が帰った後、僕は彼が置いていったケーキの箱を、開けることもできずにただ眺めていた。その日の夕方、再びインターホンが鳴った。今度は、何の躊躇もなくドアを開けた。

そこに立っていたのは、同期の安田だった。プロジェクトマネージャーとして、僕とは常にライバル関係にあった男だ。手ぶらで、ぶっきらぼうな表情のまま、彼は僕の部屋を値踏みするように見回した。

「……ひどい有様だな」 「何の用だ」 「同情しに来たんじゃない。確かめに来ただけだ」 安田は僕の目をまっすぐに見据えた。彼の瞳には、佐伯のような尊敬の色はない。そこにあるのは、剥き出しの好奇心と、かすかな苛立ち、そして僕にも理解できない、複雑な感情の光だった。

「お前、あの時まるで何かに取り憑かれているようだったぞ」 「……あの時、とはいつだ」 「ぼけるな。お前が壊れる前の、あの1ヶ月だ」 安田の言葉が、胸の奥の塊に突き刺さる。 「全てを壊す前に、自分から壊れた。俺にはそう見えたぞ」

彼はそれだけ言うと、「じゃあな」と踵を返した。嵐のように現れ、嵐のように去っていく。だが、彼の言葉は、僕の中に無視できない疑問の種を植え付けていった。安田は何かを知っている。僕が失った記憶の中で、彼は何を見ていたんだ?

部屋に一人、立ち尽くしていると、ポケットの中でスマートフォンが震えた。画面に表示されたのは、一通のメール通知。差出人の名前に、僕は息を呑んだ。

羽鳥 沙耶

品質保証(QA)部門の、あの羽鳥からだった。プロジェクトの倫理審査を担当し、AIの判断の不透明性に、最後まで疑問を呈していた女性だ。

僕は震える指でメールを開いた。

件名:ご体調について

藤井さん

ご体調はいかがですか。突然のご連絡失礼いたします。 藤井さんが休職される直前に、私宛に送ってくださったメール、まだ持っています。 もし、何かのお役に立てるならと思い、ご連絡いたしました。 ご無理だけはなさらないでください。

羽鳥 沙耶

僕が、羽鳥にメールを? 記憶にない。だが、これは幻覚ではない。佐伯の証言。安田の言葉。そして、この羽鳥からのメール。

僕が失った1ヶ月。 そこにいた「もう一人の僕」は、確かに存在し、何かをしようとしていた。

胸の奥の塊が、再び軋んだ。だが、今度は痛みを伴わない。それは、錆びついた機械が、長い眠りから目覚めようとする音に似ていた。

僕は部屋の隅で埃をかぶっていたノートPCに、ゆっくりと手を伸ばす。 冷たい天板に指先が触れる。

「……教えろよ」 声が、かすれて出た。

「お前は、誰なんだ」

僕は、PCの電源ボタンを、強く押し込んだ。

第二章:外なる壁と内なる敵

ノートPCは、数分の起動時間を経て、見慣れた会社のロゴとデスクトップ画面を表示した。半年ぶりに見るその光景は、まるで異世界の窓のようだった。僕は震える指でマウスを操作し、社内ネットワークに接続するためのVPNクライアントを起動した。僕が失った記憶は、この壁の向こう側にある。

IDとパスワードを打ち込み、エンターキーを押す。 接続中のアイコンが数秒間点滅し――やがて、無慈悲な赤い文字列に変わった。

認証に失敗しました。

そんなはずはない。パスワードは合っている。もう一度、今度は慎重に打ち込む。結果は同じだった。試しに社内チャットツールやメールソフトを起動してみるが、どれもサーバーへの接続を拒否された。

血の気が引いていくのが分かった。 休職中の社員のアカウントを一時的に凍結するのは、セキュリティポリシーとして当然の対応かもしれない。だが、このタイミングはあまりにも良すぎた。まるで、僕が目覚めるのを待ち構えていたかのように、全ての扉が閉ざされている。

見られている。 そう直感した。僕の行動は、誰かに監視されている。会社の壁は、僕が思っているよりもずっと高く、そして厚いのかもしれない。

手詰まりだった。僕一人では、この壁を越えることはできない。 脳裏に、ぶっきらぼうな同期の顔が浮かんだ。安田誠。彼しかいない。僕はスマートフォンを掴み、彼の番号を呼び出した。

「……何の用だ」 数回のコールの後、電話口から聞こえてきたのは、予想通り不機嫌な声だった。 「安田。頼みがある」 僕は単刀直入に切り出した。会社のサーバーログにアクセスしたい。お前の権限で、手伝ってくれないか、と。 電話の向こうで、安田が呆れたように息を呑むのが分かった。 「……お前、正気か?不正アクセスだぞ。俺のキャリアを捨てるつもりはない」 「これは不正じゃない。真実を知るためだ」 「その真実とやらで、俺の人生に傷がついてたまるか。自分のケツは自分で拭け」 彼の言うことは、完璧に正論だった。正論すぎて、ぐうの音も出ない。僕が黙り込むと、安田は少しだけ声のトーンを落とした。 「……だがな、藤井」 彼は、何かをためらうように言葉を切った。 「おかしなエラーログが、日に日に増えているのも事実だ。『天秤』の運用チームが、原因不明のパフォーマンス低下に頭を抱えてる。まるで、システムが内側から悲鳴を上げているみたいにな」 それだけ言うと、安田は一方的に電話を切った。

一人になった部屋で、僕は再び無力感に襲われた。 壁は、あまりにも高い。僕は、その壁の麓で立ち尽くすことしかできない。 PCの画面を睨んでいるうちに、意識が混濁してきた。モニターの光が滲み、歪んでいく。そして――思い出したくもない記憶の断片が、奔流となって僕に襲いかかった。

鳴りやまない電話。飛び交う怒号。モニターに滝のように流れるエラーコード。心臓が破裂しそうなほどの動悸。大丈夫だ、俺に任せろ、そう叫んでいる自分の声。違う、何かが根本的に間違っている、そう訴えるもう一人の自分の声。

「――っ、ぅあ……!」 喉から、不成器な声が漏れた。呼吸ができない。過呼吸だ。僕は椅子から転げ落ち、カーペットに蹲った。これが、僕が失った記憶の正体なのか。こんな地獄を、僕は30日間も生きていたというのか。

もう、やめだ。 何も知らずに、このまま色のない世界で朽ち果てていく方が、ずっとましだ。 僕はPCを乱暴に閉じ、ベッドに逃げ込んだ。再び、あの粘度の高い液体の中へ。光の届かない、深い深い場所へ――。

第三章:共犯者の覚悟

それから何日が経ったのか、分からない。 再び僕を現実世界に引き戻したのは、執拗なインターホンの音だった。ドアを開けると、厳しい表情の安田が立っていた。

「……まだ生きてたか」 彼は許可もなく部屋に上がり込み、廃人のようにベッドに横たわる僕を見て、忌々しげに舌打ちした。 「このまま朽ち果てるつもりか、天才アーキテクト先生」 皮肉のこもった言葉に、僕は反応する気力もなかった。安田はテーブルの上に、小さなUSBメモリを放り投げた。乾いたプラスチックの音が、やけに大きく響いた。

「……なんだ、これは」 「お守りだ。ありがたく受け取れ」 安田は僕から目をそらし、窓の外を見ながら言った。 「……腹を括った。お前一人のせいにして、高みの見物を続けるのは性に合わん。俺も、あのシステムを世に出した共犯者だ」 彼の横顔は、僕の知らない、真剣な光を帯びていた。 「それに、あのままじゃ、俺のキャリアにも傷がつく。システムが完全に沈む前に、原因を突き止める。これは、俺のためでもあるんだ」

USBメモリ。そこには、安田が密かに確保した、開発サーバーへの裏口(バックドア)が仕込まれていた。彼は、自分の未来を賭けて、僕の前に戻ってきたのだ。

僕の体の中で、錆びついて止まっていた何かが、再び音を立てて動き始めた。

その夜、僕たちは初めて「共犯者」として、藤井の部屋でPCの前に並んで座った。安田が確保した膨大なログデータを、二人で解析していく。それは、乾いた砂漠の中から、一本の針を探すような作業だった。

数時間が経った頃だった。 僕のスマートフォンが、静寂を破って震えた。画面に表示された名前に、僕も安田も息を呑んだ。

黒田 一英

僕たちの上司であり、プロジェクトの最高責任者。 藤井が逡巡していると、隣の安田が「……出ろ」と静かに言った。その声には、覚悟を決めた男の、揺るぎない響きがあった。

僕は、通話ボタンを、ゆっくりと押した。

第四章:心の原点(ハロー・ワールド)

「……藤井か。体調はどうだ」 電話の向こうから聞こえてきた黒田部長の声は、疲労の色を隠せない、平坦な響きだった。彼の声を聞くのは、休職して以来初めてだった。 「ご心配なく。それより、何かご用件でしょうか」 僕は、隣に座る安田と視線を交わしながら、努めて冷静に返した。 「いや……。少し、な。お前の同期の安田が、最近サーバーログに妙なアクセスをしていると聞いてな。何か、知らないか」 静かな恫喝だった。僕たちの動きは、完全に把握されている。黒田は、僕たちが真実に近づいていることを知り、釘を刺しに来たのだ。 「さあ。何のことでしょう」 「そうか。……藤井、君のためだ。もう何もしないでくれ。いいな」 一方的に、通話は切れた。だが、その言葉は僕の心に火をつけた。なぜ、黒田は僕を止める? 彼は、一体何を隠している?

安田の顔は青ざめていたが、その目には怒りの光が宿っていた。 「……上等じゃねえか。これで、後ろを振り返る理由はなくなったな」

僕たちは、再びログの解析に戻った。黒田からの圧力が、逆に僕たちの集中力を研ぎ澄ませていく。そして、数時間にわたる格闘の末、ついに僕たちは一つの不審な記録に行き着いた。

記憶のない期間の僕が、品質保証部の羽鳥沙耶宛に、何度も暗号化されたメールを送っていたのだ。そのすべてが、黒田によってシステム上から「記録削除」として処理されている。だが、削除ログのタイムスタンプの横に、僕の知らない短いメモが残されていた。

Genesis. Look at Genesis.

Genesis――創世記。 それは、このプロジェクトが発足した当初、僕がたった一人で書き上げた、システムの理想を語る設計思想書(ポエム)のファイル名だった。当時は、理想ばかりを語る僕を、安田たちは「ポエマー」と揶揄していた。

「……創世記だと? あんなもん、まだ残ってたのか」 安田が呆れたように言う。僕は急いで古いファイルサーバーの奥底を探り、埃をかぶったそのドキュメントを開いた。そこには、若き日の僕の情熱と理想が、青臭い言葉で綴られていた。システムの目的は、効率化ではない。人の可能性を信じ、それを後押しすることだ、と。

そして、その最後の一文に、僕の目は釘付けになった。

「我々は、もう一度、生まれたての目で世界に挨拶するのだ」

その瞬間、忘却の彼方に沈んでいた、遠い記憶の扉が、ゆっくりと軋みながら開いた。 ――古い、ベージュ色のパソコン。隣に座る、父親の大きな背中。彼の指に導かれ、僕の小さな指が、初めてキーボードに触れる。モニターに、自分の手で打ち込んだ、二つの単語が緑色に光った。

Hello, World!

世界が、無限の可能性を持って輝いて見えた、あの日の感動。僕の、全ての原点。

「……もう一度……」 僕は、羽鳥から転送されていたメールを開いた。そこには、一見意味不明な文字列が記されている。

HLL_WRLD_AGN

僕は、何かに憑かれたように、隠しファイルのパスワード入力画面に、震える指で打ち込んだ。

HELLO_WORLD_AGAIN

エンターキーを押す。 画面が切り替わり、一つのファイルが表示された。

第五章:『遺書』の真実

パスワードで開かれたファイル。 その名前に、僕の心臓は凍りついた。

遺書.md

「遺書…?」 声が、かすれて出た。全身から、急速に血の気が引いていく。 「嘘だろ。誰のだ。誰の遺書だって言うんだ…?」 隣の安田も、言葉を失って画面を凝視している。

僕は、恐る恐るファイルを開いた。 そこに記されていたのは、僕の知らない僕が遺した、最後の告発だった。

『天秤』のアルゴリズムが、意図的に特定の地域や年収、家族構成といった社会的属性を持つ人々を、統計的に説明のつかないレベルで排除しているという、動かぬ証拠。回収率という名の利益を最大化するため、経営陣の暗黙の指示のもと、AIの判断プロセスに仕込まれた「汚れたブラックボックス」の設計図。

そして、ファイルの最後に、短いメッセージが記されていた。

「これを世に出せば、全てが終わる。チームも、会社も、僕らの未来も。だが、このままでは人間の尊厳が終わる。これを読んでいる未来の僕へ。お前が、選べ」

全てを、思い出した。 僕は、この非人道的なシステムの存在に気づき、ローンチを阻止しようと一人で戦っていたのだ。黒田に訴え、経営陣に直談判し、そして、無視された。僕の情熱は、巨大な組織の論理の前に、踏み潰された。

このファイルは、僕の理想が、情熱が、そしてエンジニアとしての僕自身が「死んだ」ことを証明する、紛れもない遺書だった。

涙が、溢れて止まらなかった。 それは、悔しさの涙ではなかった。失ったと思っていた自分に、半年ぶりに再会できた、安堵の涙だった。彼は、死んでなどいなかった。僕が再び立ち上がる時を信じて、この遺書を遺してくれていたのだ。

自分の作ったシステムが、SNSの向こう側で、名も知らぬ人々を傷つけている。その事実が、今度は確かな怒りとなって、僕の心を燃やした。

僕は、隣で拳を握りしめている安田の顔を見た。 「安田。手伝ってくれ」 「……言われなくても」 彼の目にも、僕と同じ色の炎が宿っていた。

「もう一人の俺ができなかったことを、俺たちがやるんだ」

僕と安田は、羽鳥に連絡を取った。彼女もまた、この不正に気づきながら、声を上げられずにいた一人だった。電話口の彼女の声は、震えていたが、その中には確かな覚悟があった。

その夜、僕たちは三人の「共犯者」として、水面下で結集した。 目的は、ただ一つ。 『遺書』に記された絶望を、希望に変えるための「代替アルゴリズム」を、この手で作り上げること。

僕たちの、本当の戦いが始まった。

終章:僕たちが遺すアルゴリズム

ネクサス・イノベーション本社、最上階。空気がやけに薄く感じる役員会議室に、僕は立っていた。隣には、僕と同じように覚悟を決めた顔の安田がいる。僕のノートPCは会議室の巨大なスクリーンに接続され、その背後には、オンラインで参加している羽鳥の緊張した面持ちが映し出されていた。

テーブルの向こう側には、黒田部長をはじめとする役員たちが、怪訝な表情で僕たちを見つめている。彼らにとって、これは規定外の、異常事態だ。

「……藤井君。一体、何の真似だね」 社長が、重々しく口を開いた。

僕は、静かに息を吸い込んだ。胸の奥にあった冷たい塊は、もうどこにもない。そこにあるのは、静かで、しかし決して消えることのない、確固たる意志の炎だけだ。

「本日は、皆様にご報告したいことがあります」

僕は手元のマウスをクリックした。スクリーンに、一つのファイル名が大写しになる。

遺書.md

役員たちが、息を呑むのが分かった。黒田は、顔から血の気を失い、唇を固く結んでいる。

「これは、半年前の僕が遺した、絶望的な**『遺書』**です。我が社のシステム『天秤』が、その根幹に、決して許されない非人道的な欠陥を抱えているという、その証拠です」

僕は、ファイルの内容をスクリーンに表示した。「アルゴリズム的差別」の動かぬ証拠。汚れたブラックボックスの設計図。そして、SNSで今も増え続けている「#天秤の闇」の悲痛な叫び。会議室は、水を打ったように静まり返った。それは、罪の意識からくる沈黙だった。

「過去の僕が遺したのは、この告発という名の『遺書』でした。それは、僕自身の情熱と、この会社の倫理が、一度死んだことの証明です」

僕は、そこで言葉を切った。役員たちの顔に、安堵と軽蔑の色が浮かぶのが見えた。やはり、これは単なる内部告発か、と。スキャンダルをどう揉み消すか、という思考が彼らの頭を支配しかけている。

その瞬間、隣に立つ安田が、力強くキーボードを叩いた。 スクリーンが、切り替わる。

そこに映し出されたのは、複雑なアルゴリズムが動的に可視化された、美しいインターフェイスだった。入力された個人情報に対し、AIがどのような根拠でスコアを算出したのか、その判断プロセスが、誰にでも分かる言葉で、一つ一つ丁寧に表示されていく。

「そして」 今度は、安田が力強く言った。 「現在の僕たちが未来へ遺したいのは、この希望という名の『アルゴリズム』です」

それは、僕たちが三日間、不眠不休で作り上げたプロトタイプだった。もう一人の僕が遺したアイデアの断片を、安田が現実的なプロジェクトへと再設計し、羽鳥が倫理的な観点から徹底的に検証した、僕たちのチームの結晶。それは、差別構造を回避するだけでなく、AIの判断プロセスを透明化し、ユーザー自身がその結果に納得できる「説明責任」を果たす、全く新しい『天秤』の姿だった。

「どちらを選ぶのかは、皆様にお任せします」 僕がそう告げると、黒田がゆっくりと顔を上げた。彼の目には、かつての僕と同じ、理想に燃える技術者の光が、微かに蘇っているように見えた。

物語は、会社の最終的な決定が下される前に、終わる。 僕たちが勝利したのか、敗北したのか。それは、まだ誰にも分からない。

しかし、役員会議室を後にした僕と安田、そしてオンラインで涙を浮かべていた羽鳥の表情は、晴れやかだった。結果がどうであれ、僕たちは戦い続ける。失われた自分を取り戻し、守るべき未来を見つけたのだから。

自室に戻った僕のノートPCの画面に、まっさらなドキュメントファイルが静かに開かれている。

ファイル名はまだない。 ただ、一行目の先頭で、カーソルが鼓動のように、静かに点滅を繰り返していた。

(了)

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