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『偽造された内定』

経歴詐称は、私たちが「何者か」になるための、唯一のソリューションだった。


あらすじ

世界最高峰の外資系戦略コンサルティングファーム『G&B Associates』。その採用プロセスは、日本の知性の頂点を決める戦場だ。東京大学経済学部の**水島 周(みずしま しゅう)**は、完璧なロジックと揺るぎない自信で、その熾烈な選考を勝ち進んでいた。彼にとって、この戦いは努力が正しく評価される、公正(フェア)なゲームのはずだった。

しかし、最終選考に、ありえない候補者が残っていた。地方国立大出身の宮下 陽介(みやした ようすけ)。凡庸な経歴とは裏腹に、彼はグループディスカッションやケース面接で、まるで未来を予見したかのような天才的洞察力を見せ、周囲を圧倒していく。

彼は何者なのか。隠された天才か、それとも──。

周は、陽介のその不自然なほどの完璧さに、巧妙に仕組まれた「嘘」の匂いを嗅ぎつける。そして彼の疑念は、もう一人の天才、慶應義塾大学の**高遠 玲奈(たかとお れいな)**の存在へと繋がっていく。彼女の怜悧な瞳は、このゲームの真実を知っているかのようだった。

一つの「内定」という名のパスポートを巡り、若き知性たちのプライドと人生が交錯する。周が暴こうとしている真実は、単なる学生の不正行為なのか。それとも、彼が信じてきた「公正な世界」そのものを覆す、より大きなシステムの歪みなのか。

全ての嘘と真実が暴かれる「最終面接」の時が、刻一刻と迫っていた。

登場人物紹介

  • 水島 周(みずしま しゅう)
    • 所属: 東京大学経済学部。
    • 人物: 努力と論理こそが正義だと信じる、完璧なエリート候補生。宮下の存在という「解けない謎」に直面し、採用試験というゲームの裏で、危険な真実の探求に乗り出す。
  • 高遠 玲奈(たかとお れいな)
    • 所属: 慶應義塾大学SFC。
    • 人物: 天才的な分析能力と、他者を見透かすような冷めた目を持つ、謎めいた戦略家。宮下の快進撃の裏で、何らかの役割を担っているようだが、その真意は誰も知らない。
  • 宮下 陽介(みやした ようすけ)
    • 所属: 地方国立大学工学部。
    • 人物: 輝かしい実績はないが、突如として頭角を現したダークホース。その驚異的なパフォーマンスは、周囲に希望と、そして大きな疑念を抱かせる。その才能は本物か、偽物か。
  • 霧島 巧(きりしま たくみ)
    • 所属: G&B Associates 人事部門マネージャー。
    • 人物: 学生たちの能力と嘘を冷静に見抜く、採用プロセスの絶対的なゲートキーパー。その穏やかな笑みの裏で、学生たちの資質を冷徹に値踏みしている。

第一章:ケース面接という名の国境

「学歴フィルター」。 それは、我々の住む世界の、目に見えない国境検問所だ。パスポート、すなわち大学名が基準に満たなければ、その先に広がる豊かな大地を、僕らは見る事さえ許されない。

世界最高峰の戦略コンサルティングファーム『G&B Associates』の最終選考会(ジョブ)初日。ガラス張りの高層ビルの一室に集められた学生たちは、皆、その検問所を正規のルートで通過してきた「選ばれた国民」だった。もちろん、僕、**水島 周(みずしま しゅう)**もその一人だ。

「では、最初のグループディスカッションを始めます」

人事部の若きマネージャー、**霧島 巧(きりしま たくみ)**が、冷ややかに光るタブレットを片手に、議題を告げた。 「議題は、『国内のフィットネスジム市場における、クライアントの売上を3年で2倍にするための戦略』。思考時間は20分、発表は5分。それでは、どうぞ」

それは、コンサルティングファームの選考で使い古された、典型的な「ケース面接」の課題だった。隣に座る他の東大生や慶應生たちが、一斉にペンを走らせ、ホワイトボードにフレームワークを書き殴っていく。誰もが自信に満ち溢れ、自分がこのゲームの勝者であると信じて疑っていない。僕も同じだ。この戦いは、地頭と努力という、公正な武器だけで行われる。そう信じていた。

異変に気づいたのは、ディスカッション開始から5分が経った頃だった。

僕たちのグループには、一人だけ、この場の空気に馴染まない男がいた。宮下 陽介(みやした ようすけ)。地方国立大出身。彼の存在は、このエリートだけの空間において、明らかにノイズだった。彼は、議論が白熱する中でほとんど発言せず、ただ焦燥に満ちた顔で、ノートの隅に意味のない図形を描いているだけだった。

(やはり、ここまでか…) 僕がそう判断した、その時だ。

宮下の耳に、極小のワイヤレスイヤホンが隠されているのに、誰が気づいただろうか。彼は、議論の流れが完全に停滞した一瞬の隙を突き、かすかに頷くと、まるでスイッチが入ったかのように顔を上げた。

「……すみません、一つよろしいでしょうか」

それまでとは別人のように、彼の声は冷静で、自信に満ちていた。 「議論が少し発散しているように思います。一度、課題を『新規顧客獲得』と『既存顧客の単価向上』に因数分解し、それぞれのドライバーを特定しませんか。例えば、新規顧客は、未開拓のシニア層と、オンラインフィットネスへの移行を狙う若年層にセグメントできます。後者の単価向上については…」

彼の口から紡がれる言葉は、完璧だった。まるで、教科書の模範解答を読み上げるように、淀みなく、論理的に、そして美しく構成されていた。他の学生たちは、彼の突然の覚醒に気圧され、ただ頷くことしかできない。

だが、僕だけは、その完璧さに強烈な違和感を覚えていた。

彼の分析は、部分的に天才的だった。だが、その根幹をなす市場規模の推定(フェルミ推定)や、基本的なマーケティング用語の定義が、驚くほど曖昧だったのだ。それはまるで、美しい宮殿が、砂上の土台の上に建っているような、危ういアンバランスさだった。

僕の視線は、自然と、部屋の対角線上に座るもう一人の学生へと向かった。 高遠 玲奈(たかとお れいな)。慶應義塾大学の、怜悧な美貌を持つ女。彼女は、議論には参加せず、ただ静かに、宮下のことだけを観察していた。その目は、心配する共犯者のそれではない。自らが設計したプログラムが、正常に作動しているかを確認する、冷徹な開発者の目だった。

宮下の完璧な回答が終わった瞬間、玲奈は誰にも気づかれないほど微かに、口元を緩めた。

──繋がった。

僕の頭の中で、バラバラだったパズルのピースが、一つの仮説を形作った。 宮下陽介は、操り人形だ。そして、その背後には、高遠玲奈という名の、天才的な人形師がいる。

これは、公正なゲームなどではなかった。 僕が信じてきたこの戦場で、たった今、前代未聞の**不正行為(クライム)**が、静かに実行されたのだ。

霧島のタブレットに、僕たちのグループの評価が入力される。『宮下陽介:A+』。その文字が、僕の信じてきた世界に、最初の亀裂を入れた。

僕の孤独な捜査が、静かに幕を開けた。

第二章:偽造されたパスポート

「ジョブ」と呼ばれる数日間のインターン形式の選考は、思考力だけでなく、精神力をも削り取る消耗戦だった。僕たちは、G&Bが実際に抱えるクライアントの経営課題を与えられ、チームで24時間、解決策を練り続けることを要求された。

眠れない夜、アドレナリンとカフェインだけで思考を繋ぎ止める中で、僕は水面下で調査を続けていた。仮説はできている。あとは、それを裏付ける客観的な証拠(ファクト)が必要だ。

G&Bは、このジョブの参加者向けに、自己紹介と経歴をまとめたプロフィールブックをオンラインの共有フォルダで公開していた。もちろん、すべては筒抜けだ。互いの経歴を探り合い、値踏みし合うための、残酷な見本市。僕は、そのフォルダの中から宮下陽介のファイルをダウンロードした。

彼の経歴書(レジュメ)は、一見すると完璧だった。地方国立大というハンデを補って余りある、輝かしい実績の数々。その中でも特に目を引くのが、大学三年時に一年間休学して参加したという、シンガポールのスタートアップ企業での長期インターンシップ経験だった。

『Synapse Analytics Pte. Ltd. – Data Analyst Intern』

専門用語で埋め尽くされた業務内容。CEOからの熱烈な推薦状。それは、彼のケース面接での異様なほどの切れ味を、かろうじて正当化している唯一の根拠だった。

だが、僕はその会社名に、微かな既視感を覚えていた。玲奈が、初日の自己紹介で、自身の研究テーマとして挙げていた領域と酷似している。偶然か?

僕は、その会社のウェブサイトに飛んだ。洗練されているが、どこか内容の薄い、テンプレートのようなサイトだ。僕はコンサルタントのように、仮説を立て、それを検証するための行動に移した。この会社は、いつ設立されたのか。僕は、サイトのドメイン情報を検索できる、WHOIS検索のサイトを開いた。

キーボードを叩き、表示された検索結果に、僕は息を呑んだ。

【 Registered On: 2025-07-15 】

登録日、七月十五日。 僕が今、この画面を見ている日から、わずか一ヶ月半前。

ありえない。 宮下のインターンシップ期間は、去年の九月から今年の六月までのはずだ。終了したはずのインターンシップ先の会社のドメインが、その後に登録されている?

血の気が引いていく。 これは、ただの経歴詐称ではない。彼らは、この不正のために、架空の会社を一つ、この世に「創造」したのだ。ウェブサイトも、LinkedInのプロフィールも、何もかも。

これが、高遠玲奈の計画の全貌。 これが、宮下陽介が手に入れた「偽造パスポート」の正体。

僕は、静かにブラウザを閉じた。 隣のチームでは、玲奈が、まるで何事もなかったかのように、美しい笑顔でメンバーに指示を出している。彼女は、犯罪者であると同時に、あまりにも優秀なコンサルタントだった。課題を定義し、仮説を立て、それを証明するために必要なリソース(架空の会社)を創り出す。その思考プロセスは、皮肉にも、このG&Bが求めるコンサルタントの資質そのものだった。

もう、疑いの余地はない。 このゲームは、最初からイカサマだった。

そして僕は、ディーラーの不正を見抜いてしまった、ただ一人のプレイヤーだ。 このカードを、どのタイミングで、誰に突きつけるのか。 僕の選択が、このゲームに参加する全員の未来を決定づけてしまう。

重い真実を抱えながら、僕はチームの元へと戻った。ホワイトボードに書かれた「売上向上戦略」の文字が、ひどく色褪せて見えた。 僕が本当に解くべき問題は、もう、そこにはなかった。

第三章:取引という名の脅迫

ジョブ最終日。僕たちは、疲労が滲む頭で最後のプレゼンテーションを終えた。あとは、運命の審判、すなわちパートナーによる最終面接を残すのみ。多くの学生は、安堵と不安が入り混じった表情で解放感を味わっていた。だが、僕だけは、これから起こるであろう嵐の前の、不気味な静けさを感じていた。

その日の午後、全プログラムが終了した直後。 高遠玲奈と宮下陽介のスマートフォンが、ほぼ同時に静かに震えたのを、僕は見逃さなかった。二人は、一瞬だけ視線を交わすと、誰にも気づかれないように、別々のルートでエレベーターホールへと向かった。

僕もまた、彼らの後を追った。

二人が吸い込まれていったのは、僕たちが普段使うフロアとは違う、役員専用のフロアだった。重厚なカーペットが足音を吸い込む、静まり返った廊下。その一番奥にある、ガラス張りの小さな会議室に、彼らはいた。そして、その中央には、採用マネージャーの霧島巧が、穏やかな笑みを浮かべて座っていた。

僕は、遠く離れた廊下の角から、その光景を息を殺して見つめた。音声は聞こえない。だが、ガラス越しに見える三者の表情と力関係の変化が、雄弁にその場の空気を物語っていた。

最初は、霧島が和やかに話を進めているようだった。玲奈も陽介も、緊張しながらも、まだ学生の顔を保っていた。 だが、霧島が彼のタブレットを操作し、その画面を二人に見せた瞬間、空気が凍りついた。

陽介の顔から、急速に血の気が引いていくのが分かった。玲奈は、表情こそ変えないものの、その肩が微かに強張ったのを、僕は見逃さなかった。 霧島が見せたのは、おそらく僕が掴んだのと同じ、「偽造」の証拠だろう。いや、G&Bという国家の情報網を使えば、僕が手に入れたものより、さらに決定的で、動かしようのない事実を突きつけているに違いない。

(終わった……) 僕は思った。これで、すべてが明るみに出る。

だが、僕の予測は、甘すぎた。 霧島の表情に、不正を断罪する正義の番人の顔はなかった。それどころか、彼はどこか楽しんでいるようにさえ見えた。まるで、希少な獲物を前にした、狡猾なハンターのように。

彼は、玲奈と陽介を罰しようとしているのではない。 値踏みしているのだ。

この状況で、彼らがどんな反応を示すのか。絶望するか、嘘で塗り固めるか、それとも。 霧島は、彼らの「規格外の才能」を、今まさに、最終面接しているのだ。

やがて、霧島が何かを告げた。長い、長い沈黙。 陽介は、絶望に打ちひしがれたように、深く頭を垂れた。しかし、玲奈は違った。彼女は、ゆっくりと顔を上げると、霧島の目を、まっすぐに見つめ返した。その瞳には、恐怖も、諦めもない。そこにあるのは、自分と同じ、あるいはそれ以上の知性を持つ敵と対峙した、冷徹な戦略家の色だった。

彼女は、静かに、そして小さく頷いた。 それは、降伏ではない。取引の成立を意味する、サインだった。

会議室から出てきた二人の顔は、別人のように変わっていた。陽介は、未来を奪われた亡霊のように青ざめ、玲奈は、危険な戦場に赴くことを決意した兵士のように、冷たく研ぎ澄まされていた。

僕は、すべてを理解した。 霧島は、彼らの「偽造パスポート」を破り捨てなかった。それを取り上げ、代わりに、決して抜け出すことのできない「首輪」へと変えたのだ。 彼らの亡命は、失敗した。そして、彼らはこのG&Bという国家の、誰にも知られてはならない秘密の任務を遂行する、「エージェント」にさせられたのだ。

僕が暴こうとしていたのは、学生による、あまりに切実な不正事件だったはずだ。 だが、今や、その様相は全く違うものへと変貌していた。これは、G&Bという巨大な組織の、暗部にまで繋がる、底なしの陰謀の入り口なのかもしれない。

事態は、僕の手には負えない、危険な領域へと突入しようとしていた。 そして僕は、この腐敗した国家の不正を、このまま見過ごすことのできない性分だった。

第四章:最初の任務

「ジョブ」選考の結果が発表された時、フロアは静かな興奮と残酷なため息に包まれた。最終のパートナー面接へと進む者のリストに、水島周と高遠玲奈、そして──宮下陽介の名前が、並んで張り出されていたからだ。

東大生たちが何人か落とされ、代わりに地方国立大の無名学生が生き残った。その事実は、この公正であるはずのゲームに、目に見えない変数が働いていることを、参加者たちに朧げに気づかせ始めていた。だが、その変数が「実力」以外の何かであると気づいているのは、僕、水島周ただ一人だった。

玲奈と陽介は、もはや「内定確実」と言ってよかった。彼らは「偽造パスポート」を使い、検問所を突破したのだ。だが、そのパスポートの裏には、悪魔の契約印が押されていることを、僕は知っていた。

その日の夜。玲奈のスマートフォンに、一度だけ表示されると自動で消去される、暗号化されたメッセージが届いた。差出人は、霧島巧。

『最初のタスクだ』

内容は、簡潔かつ冷酷だった。 『競合ファームであるマッキンゼーの内定を保持し、そちらに傾いている候補者Aがいる。彼の身辺を調査し、G&Bに引き込むための「交渉材料(レバレッジ)」を48時間以内に報告しろ』

それは、もはや採用活動の範疇を超えていた。個人のプライバシーを暴き、弱みを握り、脅迫まがいの交渉で無理矢理こちらに引き込む。スパイ行為そのものだった。

玲奈は、人気のない大学の研究室で、そのメッセージを陽介に見せた。陽介の顔が、恐怖と嫌悪で歪む。 「……こんなことまで、やるのかよ」 「…………」 「これは、違うだろ! 僕たちがやろうとしていたのは、不公平なシステムに、ほんの少しだけ抗うことだったはずだ! 誰かを傷つけることじゃない!」 「甘えないで」

玲奈の声は、氷のように冷たかった。 「私たちはもう、候補者じゃない。彼の『アセット(資産)』よ。亡命は失敗した。ここは、敵国の捕虜収容所なの。生き延びたければ、言われた通りの任務をこなすしかない」 彼女は、自分のノートパソコンを開いた。画面には、ターゲットである学生Aの顔写真と、SNSのアカウント情報が並んでいる。 「やることは一つ。彼の過去を、徹底的に洗い出す」

陽介は、罪悪感に苛まれながらも、拒否できなかった。人質に取られた自分の未来が、彼を共犯の椅子に縛り付けていた。

玲奈のハッキングと情報収集能力は、常軌を逸していた。SNSの友人関係、過去の投稿、写真に写り込んだ微かな情報、大学の非公式フォーラムへの書き込み。それらの膨大なデジタル・フットプリントを繋ぎ合わせ、彼女はターゲットの人物像を再構築していく。

そして、二日後。彼女は「交渉材料」を見つけ出した。 ターゲットの学生Aが、大学の卒業論文で、海外の論文から複数の重大な盗用を行っている、という事実だった。それは、彼の輝かしい経歴を、根底から破壊しかねない爆弾だった。

「これを、霧島に報告するのか……?」陽介は、青ざめた顔で尋ねた。 「ええ」玲奈は、静かに頷いた。「任務だから」

彼女は、調査結果をまとめたレポートを、霧島へと送信した。送信完了の文字を見届けた後、彼女は、一つのフォルダを自分のPCの奥深くに作成した。フォルダ名は、『Kirishima』。 そして、その中に、今しがた送信したレポートのコピーを、静かに保存した。

霧島がやっていることは、非倫理的であると同時に、会社のコンプライアンスにも明確に違反する、違法な行為だ。 玲奈は、ただ従順な駒になるつもりはなかった。この敵国の収容所の中で、彼女は静かに、敵の罪の証拠を収集し始めたのだ。いつか、この首輪を引きちぎり、真の「亡命」を果たすために。

彼女の反逆は、より深く、より危険な、第二章へと突入していた。 そして僕は、そんな彼らの絶望的な戦いを、すぐ側で目撃している、唯一の観測者だった。僕自身の戦いが、もうすぐそこまで迫っていることも知らずに。

第五章:探偵の接近

時間は残酷なほど平穏に過ぎていく。 僕、水島周は、G&Bが用意した最終選考のプログラムを、完璧に近い成績でこなしていた。周囲の学生たちも、そしてG&Bの社員たちも、僕が「内定」という名のパスポートを手に入れることを、誰も疑っていなかった。僕自身でさえ、時々、あの夜に掴んだはずの真実が、疲労の見せた悪夢だったのではないかと錯覚するほどだった。

だが、悪夢は、終わってはいなかった。

玲奈と陽介は、僕の目の前で、巧みな操り人形とその人形師を演じ続けていた。陽介は自信をつけたふりをし、玲奈は彼と距離を置くふりをする。だが、僕は知っていた。彼らの間に交わされる一瞬の視線に、ただの共犯者ではない、もっと暗く、支配的な関係性が渦巻いていることを。

僕の疑問は、もはや「彼らは不正を働いたのか」ではなかった。 「一体、誰が彼らを生かしているのか」。

G&Bほどの企業が、偽造された経歴を見抜けないはずがない。それにもかかわらず、彼らは最終候補者としてここにいる。つまり、誰かが意図的に、彼らの「罪」を見逃しているのだ。目的は?

その答えの輪郭が見え始めたのは、最終プレゼンテーションを二日後に控えた、候補者と若手社員との懇親会でのことだった。

立食形式のそのパーティーは、学生たちの最後の自己アピールの場であり、社員にとっては未来の後輩を品定めする場でもあった。僕は、その喧騒の中心で、グラスを片手に静かに観察を続けていた。そして、見つけたのだ。システムを操る、ゴーストの姿を。

玲奈が、一人で窓の外を眺めていた。その背後に、霧島巧が、まるで音もなく現れた。 「素晴らしい活躍だね、高遠さん」 霧島は、周囲に聞こえるような声で、当たり障りのない賛辞を送った。 「いえ、皆様のおかげです」 玲奈もまた、完璧な優等生の笑みで応える。

だが、僕は見逃さなかった。二人がすれ違う、その一瞬。霧島が、手に持っていたカクテルグラスの縁で、玲奈の持つグラスの縁を、コツリと、ごくわずかに合わせたのを。それは、祝福の乾杯ではない。もっと冷たく、事務的な合図。まるで、チェスの駒を動かす前の、指先の確認作業のようだった。そして、彼の口が、ほとんど動かずに、一言だけ何かを囁いたのを。

その瞬間、玲奈の完璧な笑みが、ほんのわずかに凍りついた。

間違いない。黒幕は、霧島巧だ。 彼は、玲奈と陽介の罪を知った上で、彼らを支配し、何かをさせている。

パーティーが終わった後、僕は自室のPCで、霧島巧という男について徹底的に調べ上げた。G&Bの社内報、過去のインタビュー記事、ビジネスSNSのプロフィール。浮かび上がってきたのは、一人の天才の姿だった。

彼は、コンサルタントとして数々の伝説的なプロジェクトを成功させ、史上最年少でプリンシパルへと昇進したスタープレイヤーだった。だが、二年前に突如として現場を去り、自ら希望して人事部へと異動していた。その理由は、「会社の未来は、採用で決まる。最高の才能を見つけることこそ、最もレバレッジの効く仕事だ」という、彼のインタビュー記事の一文に集約されていた。

彼は、ただの採用担当者ではない。 結果のためなら手段を厭わない、冷徹なリアリスト。才能の本質を見抜くことに、異常なまでの執着を持つ、ハゲタカのような男。

そんな彼にとって、玲奈が設計した「偽造計画」は、断罪すべき不正行為ではなかったのだろう。それは、既存のルールを破壊し、目的を達成するという、コンサルタントとして最も重要な才能の、鮮烈な証明に見えたに違いない。 だから彼は、その才能を罰する代わりに、自らの支配下に置くことを選んだのだ。

僕は、すべてを理解した。 僕が戦うべき相手は、不正を犯した学生ではない。その不正すらも利用し、自らのゲームの駒へと変えてしまう、この巨大なシステムそのものを体現した、霧島巧という男なのだ。

それは、一学生が挑むには、あまりにも巨大で、危険な敵だった。 この真実にこれ以上踏み込めば、僕の内定も、キャリアも、すべてが吹き飛ぶだろう。見て見ぬふりをすれば、僕は約束された未来を手にできる。

選択肢は、二つ。 システムの国民として安全な道を歩むか。 それとも、たった一人で、この腐敗した国家に反旗を翻すか。

僕の人生の、本当のケース面でのお題が、今、目の前に突きつけられていた。

第六章:亀裂と反撃の狼煙

最終プレゼンテーションを翌日に控えた夜、G&Bのビルはまだ煌々と明かりが灯っていた。僕たち候補者は、最後の追い込みのために、小さな会議室(ブレイクアウトルーム)に缶詰めになっていた。その空気は、期待よりも、むしろ消耗戦の終わりに特有の、乾いた緊張に満ちていた。

特に、宮下陽介の消耗は、誰の目にも明らかだった。 彼の顔には隈が刻まれ、もはや「自信に満ちたダークホース」の仮面を保つ余裕さえ失っているようだった。彼は、僕が掴んだ真実など知る由もない他の学生たちからも、「どうしたんだ、らしくないぞ」と心配されていた。

僕は、その理由を知っていた。 数時間前、僕は見てしまったのだ。霧島が、陽介だけを人気のない喫煙室に呼び出し、何かを激しく詰問しているのを。陽介は、まるで死刑宣告を受けた罪人のように、顔を蒼白にして震えていた。霧島のゲームは、まだ終わっていなかった。彼は、最後の最後まで、手に入れた駒を使い潰すつもりなのだ。

その夜。僕は、高遠玲奈が一人、PCの画面を睨みつけている会議室の前を、偶然通りかかった。中から、押し殺したような声が聞こえてくる。陽介の声だ。

「もう、無理だ……」 ドアの隙間から見えたのは、今にも泣き出しそうな顔で、玲奈に懇願する陽介の姿だった。 「頼む、玲奈。もう、やめよう。全部話して、謝ろう。こんなのは、間違ってる。僕らがやろうとしていたのは、こんなことじゃなかったはずだ!」 彼の声は、罪悪感と恐怖で、悲鳴のように裏返っていた。

玲奈は、画面から目を離さなかった。彼女の指は、猛烈なスピードでキーボードを叩いている。 「今さら何を言っているの」 その声は、感情を完全に排した、プログラムの自動音声のようだった。 「ここで全てを話せば、あなたはどうなる? G&Bどころか、この業界のブラックリストに載って、あなたの人生は終わる。あなたを信じてる、病気のお母さんと妹さんはどうなるの?」 「だがっ……!」 「黙って」玲奈は、初めて強い口調で陽介を制した。「あなたが今すべきことは、泣き言を言うことじゃない。明日、最後のプレゼンを、完璧に演じきること。それが、あなたが生き残るための、唯一の道よ」

彼女の言葉は、正論だった。だが、それはあまりにも冷酷で、陽介の心を救うものではなかった。彼は、その場に崩れ落ちるように、椅子に座り込んだ。

僕は、静かにその場を離れた。 玲奈は、陽介を救おうとしているのではない。彼女は、壊れかけた駒を修理し、最後の最後まで使い切ろうとしているのだ。彼女もまた、この狂ったゲームの、孤独なプレイヤーだった。

自室に戻り、僕はPCを開いた。最後のプレゼンの準備をしなければならない。 その時、受信トレイに、一通の新着メールが届いた。 差出人は、『Anonymous』。件名はない。

怪訝に思いながらも、僕はそのメールを開いた。 本文には、ただ一行、こう書かれていただけだった。

『追うべき幽霊を、間違えている』

そして、その下には、一つのURLが添付されていた。それは、外部の匿名ファイル転送サービスのリンクだった。 罠か? ウイルスか? 一瞬、躊躇した。だが、僕の探偵としての本能が、クリックを促した。

ダウンロードされたファイルは、一つ。暗号化された、音声ファイルだった。 パスワードが要求される。僕は、直感的に、ある文字列を打ち込んだ。それは、最初のケース面接のお題、『フィットネスジムの売上向上戦略』という言葉のアナグラムだった。

パスワードは、認証された。 ファイルが開く。PCのスピーカーから、息を殺したような、かすかな音声が流れ始めた。

それは、盗聴された、二人の男の会話だった。 一人は、霧島巧。もう一人は、僕の知らない声。だが、会話の内容に、僕は全身の血が凍りつくのを感じた。

『──例の候補者Aの件だが、うまくやれそうだ。彼が過去に書いた論文の盗用疑惑を、それとなく最終面接の場でリークする。これで、パートナーたちの心証は一気に傾くだろう。君が推す候補者のための、大きな援護射撃になるはずだ』

これは……。 霧島が、玲奈と陽介に命じていた「裏仕事」の、その報告音声。 彼は、学生たちを脅してスパイ行為をさせ、他の候補者を蹴落とし、自らが推薦する学生を不正に合格させようとしている。

これはもはや、学生の不正事件などではない。 G&Bという巨大企業の、採用プロセスそのものを根幹から揺るがす、組織的な犯罪だ。

高遠玲奈。 彼女は、僕にこの証拠を託したのだ。自らの罪も暴かれかねない、危険な賭け。彼女は、僕という敵の「正義」に、すべてを賭けたのだ。

僕は、静かに音声ファイルを保存した。 もう、迷いはなかった。 僕が本当に戦うべき相手は、目の前にいる。

明日の最終プレゼンが、僕にとっての、たった一度の告発の舞台となる。 この腐敗した国家に、たった一人で、反旗を翻す。 その覚悟が、ようやく固まった。

第七章:三重スパイゲーム

高遠玲奈が投じた石は、水面下で静かに、しかし確実な波紋を広げていた。 僕、水島周は、彼女から託された音声データという切り札を懐に忍ばせ、プレイヤーとして静かにゲームへと復帰した。もはや僕の目的は、単に内定を勝ち取ることではない。この腐敗したゲームの盤上そのものを、ひっくり返すことだ。

最終プレゼンテーションに向けた準備は、そのまま三者間の心理戦の舞台となった。

僕は、僕たちのチームが担当するプレゼンのテーマに、意図的に一つの要素を付け加えた。「クライアント企業の倫理規定(コンプライアンス)の強化と、それによるブランドイメージの向上」。それは、表向きには何の問題もない、真っ当な提案だ。だが、その言葉の刃が、霧島巧という男に深く突き刺さることを、僕は知っていた。

案の定、各チームの進捗を確認しに来た霧島は、僕たちのホワイトボードに書かれたその一文を見て、ほんのわずかに眉をひそめた。彼の視線が、僕と、そして部屋の反対側にいる玲奈の上を、探るように滑っていく。彼は気づき始めたのだ。自分が設計したはずのゲームに、予期せぬ変数が生まれ、コントロールが効かなくなりつつあることを。

一方の玲奈は、完璧な二重スパイを演じきっていた。 彼女は、精神的に限界を迎えつつある陽介を巧みにコントロールし、プレゼンの担当パートを完璧に覚え込ませていた。それは、励ましというより、むしろ壊れかけた機械に油を差すような、精密で無機質な作業に見えた。 そして、彼女は僕を観察していた。僕が彼女のリークした情報をどう使うのか、僕が本当に、彼女が賭けるに値する「正義の駒」なのかを、見極めようとしていた。

僕たちの視線が、一度だけ、交錯した。 敵意も、友情もない。ただ、同じ巨大な敵を前にした、孤独な共犯者同士の、静かな意思疎通。それだけで、十分だった。

プレゼンテーション前夜。 全ての準備が終わった後、霧島が玲奈だけを呼び出したのを、僕は確認した。これが、おそらく最後の指令になるだろう。僕は、玲奈が戻ってくるのを、自室で待った。

深夜、玲奈から僕のスマートフォンに、一通だけメッセージが届いた。 添付されていたのは、一つの音声ファイル。そして、本文にはこう書かれていた。

『これが、最後のカード。どう使うかは、あなたが決めて』

僕は、その音声ファイルを再生した。 聞こえてきたのは、霧島の冷静な声だった。

『──明日のプレゼン後の質疑応答で、君が最初の質問者になれ。そして、水島周にこう尋ねるんだ。「水島さんのロジックは完璧ですが、その根拠となっているデータは、彼が以前インターンをしていた企業の、非公開情報に酷似していませんか」と』

心臓が、氷水で満たされたように冷たくなった。 霧島は、僕が過去のインターンで扱ったNDA(秘密保持契約)ギリギリのデータを、今回のプレゼンの参考にしていることに気づいていたのだ。それは、不正ではない。だが、パートナーたちの前でそう指摘されれば、「情報管理の甘い、危険な学生」という致命的なレッテルを貼られることになる。僕の内定は、その瞬間に消えるだろう。

霧島は、僕という脅威を排除するために、玲奈を暗殺者として使おうとしているのだ。 そして、玲那に、僕を殺すか、それとも霧島に殺されるかの、最後の踏み絵を迫っていた。

高遠玲奈は、その究極の選択を、僕に委ねた。 彼女が僕に渡したのは、霧島の脅迫の証拠であると同時に、僕のキャリアを社会的に抹殺できる「凶器」そのものだった。

僕は、静かにPCを閉じた。 もう、迷路の出口は一つしかない。

明日の最終プレゼンテーション。 それは、僕たちの未来を賭けた、最後の戦場だ。 ステージの幕が上がる。誰かの未来が、そこで必ず破壊される。 問題はただ一つ。

──それは、一体、誰の未来か。

第八章:偽造された内定

最終プレゼンテーションの朝が来た。 G&B Associatesの最上階、東京の街を睥睨する役員会議室が、僕たちの最後の戦場だった。窓の外に広がる現実の街並みは、まるで作り物の背景のように、そこだけが世界の全てであるかのような錯覚を覚えさせる。

パートナーと呼ばれる、この国のビジネス界の頂点に立つ者たちが、審査員として僕たちの前に座っている。そして、その部屋の隅には、霧島巧が、自らが設計した舞台の結末を見届ける支配人のように、静かに佇んでいた。

プレゼンテーションは、滞りなく進んだ。 高遠玲奈と宮下陽介のチームが、先に発表を終えた。陽介は、憑き物が落ちたかのような、不思議な落ち着きで自らのパートを演じきった。玲奈のロジックは、いつも通り完璧で、パートナーたちを唸らせていた。

そして、僕の番が来た。 僕は、チームの代表として、練習通りにプレゼンを遂行した。ただし、最後のスライド、「コンプライアンス遵守によるリスクマネジメント」の部分だけには、僕自身の魂を込めた。

全ての発表が終わり、質疑応答の時間が設けられた。 霧島が、司会として穏やかに口を開く。 「それでは、各チームの発表に対し、候補者の皆さんから質問を受け付けたいと思います。まずは、高遠さん、いかがですか」

その声が、決戦のゴングだった。 霧島の視線が、玲奈へと突き刺さる。立て、そして水島周を撃て、という無言の指令。 玲奈は、ゆっくりと立ち上がった。会議室の全ての視線が、彼女一人に集まる。僕も、息を止めて彼女を見つめた。僕の未来も、彼女の未来も、全てが彼女の次の言葉にかかっている。

長い、長い沈黙。 彼女は、霧島を一瞥し、次に僕の目をまっすぐに見つめた。そして、彼女は口を開いた。

「……Aチームの発表について、一点質問があります。マーケティング費用のROI算出についてですが……」

彼女が口にしたのは、僕とは全く無関係の、当たり障りのない質問だった。 その瞬間、霧島の表情が、初めてわずかに歪んだのを、僕だけが見ていた。 高遠玲奈は、暗殺者になることを拒否したのだ。自らの破滅を覚悟の上で、最後の引き金を引かなかった。

ありがとう、高遠さん。 あとは、僕の仕事だ。

「よろしいかな」 玲奈の質問への回答が終わった直後、筆頭パートナーが、僕に向かって問いかけた。 「水島くん。君のプレゼンにあった『コンプライアンスの重要性』だが、実に興味深い。もう少し、君の考えを聞かせてもらえないかね」

それは、天が与えた好機だった。 「はい。お答えします」 僕は、立ち上がると、パートナーたち、そして部屋の隅に立つ霧島を、はっきりと見据えた。

「コーポレート・コンプライアンスの欠如が、企業にどれほどの損害を与えるか。それは、皆様が一番ご存知のはずです。そして、そのリスクは、今、この部屋の中にも、明確な形で存在しています」

僕は、自分のPCを役員用の巨大なスクリーンに接続した。 そこに映し出したのは、玲奈や陽介の不正の証拠ではない。 僕が彼女から受け取った、あの音声ファイルだった。

再生ボタンを押す。 会議室に、霧島巧の冷静な声が響き渡った。

『──例の候補者Aの件だが、うまくやれそうだ。彼が過去に書いた論文の盗用疑惑を、それとなく最終面接の場でリークする……』

パートナーたちの顔色が変わる。霧島の顔からは、血の気が引いていた。 「これは……」 「これが、G&Bの採用活動の実態です」 僕は、静かに、しかし力強く告発した。「人事部の霧島氏は、自らの権力を使い、特定の候補者を脅迫し、スパイ行為を強要していました。目的は、他の候補者を蹴落とし、自らが評価する学生を不正に合格させるためです。これは、学生の不正行為などというレベルの話ではありません。企業の根幹を揺るがす、組織的な犯罪です」

僕が全てを語り終えた時、沈黙を破ったのは、宮下陽介だった。 「……すべて、本当です」 彼は、立ち上がり、涙ながらに全てを告白した。自分たちが経歴を偽造したこと。それを霧島に脅迫されたこと。そして、玲奈が最後まで、自分を守ろうとしてくれていたこと。

全てが終わった。 役員会議室は、静かな混乱に包まれていた。霧島は、パートナーたちに囲まれ、顔面蒼白のまま立ち尽くしている。

僕と、玲奈と、陽介は、誰に言われるでもなく、静かに部屋を出た。 もう、ここに僕たちの居場所はない。 エレベーターホールで、僕たちは初めて、三人で並んで立った。もう、ライバルでも、共犯者でも、探偵でもない。 ただ、巨大な国家に反旗を翻し、全てを失った、三人の若者だった。 エレベーターの扉が閉まる。僕たちの未来がどうなるのか、誰にも分からなかった。


終章:新しい座標

半年後。 G&Bの事件は、結局、公にはならなかった。霧島は懲戒解雇され、その年の採用は全て白紙撤回。僕たちは、誓約書にサインをさせられ、社会へと放り出された。

僕は、小さな戦略ブティックのインターンとして、がむしゃらに働いていた。玲奈は、海外の大学院に進む準備をしていると、風の噂で聞いた。陽介は、実家に戻り、地元のIT企業で働きながら、母親の看病をしているらしい。

僕たちは、もう二度と会うことはないだろう。

ある雪の降る夜、クライアントへの提案資料を作っていた僕の元に、一通のプライベートメッセージが届いた。玲奈からだった。

『元気? あなたに、あの時のお礼を言えていなかったと思って』 『君こそ。君のカードがなければ、何もできなかった』 『私たちは、間違っていたのかな』 『分からない。でも、あの選択をしたことに、後悔はない』 『同じく』

短いメッセージの交換。それで、十分だった。

僕たちは、エリートコースという名の、決められた座標の上を歩くことはできなかった。 だが、代わりに、何もない広大なマップの上で、自分だけのコンパスを手にすることができた。 どこへ向かうのか、そこに何があるのかは、まだ分からない。

だが、僕たちは、自分の足で、自分の意志で、次の座標を探している。 偽造されたパスポートでは決して辿り着けない、本当の未来を目指して。

僕は、PCの電源を落とし、窓の外を見た。 雪に覆われた東京の街が、静かに光っていた。 僕の亡命は、まだ始まったばかりだ。

(了)

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