今夜、終わらない晩餐会がはじまるー
あらすじ
岸壁に聳えるゴシック様式の洋館「山狼館」。 その主である旧家・林原家の先代当主が遺した、謎めいた遺言状を公開するため、数名の関係者が館に集められた。
折からの嵐が唯一の橋を奪い、館は外界から隔絶された「陸の孤島」と化す。電話も通じぬまま、不安な一夜を過ごすことになった招待客たち。
だが、彼らはまだ知らない。 地下深くで、永い封印が破られたことを。 そして、この集いが、館の主が用意した血塗られた晩餐会の始まりだったということを。
招待客たちを待つのは、莫大な財産か、それとも無慈悲な死か。 この館の条件はただ一つ、朝まで生き残ること。
登場人物紹介
- 斎藤 一(さいとう はじめ) 元刑事の経歴を持つ、冷静沈着な警備員。遺言執行の警備責任者として館に招かれた。その鋭い観察眼で、いち早く館の異常を察知する。
- 美月 理奈(みづき りな) 建築史を研究する大学院生。山狼館の特異な建築様式に惹かれ、調査のため特別に招待された。豊富な知識で、館に隠された謎に挑む。
- 高林 俊介(たかばやし しゅんすけ) 旧家・高林家の次期当主と目される青年実業家。自信家でエリート意識が強い。一族の財産と名誉を相続することを、何よりも優先している。
- 館の「主」 館の闇に潜む、正体不明の存在。招待客たちを獲物として狙う、古き捕食者。
序幕:招かれざる客
雨は、もはや線を越えていた。 フロントガラスに叩きつける飛沫は、まるで無数の礫のようで、ワイパーが悲鳴のような音を立てて往復するたび、視界はほんの僅かな時間だけ世界を映し出し、すぐにまた歪んだ水の膜に閉ざされる。
「……ひどい天気ね」
助手席で、美月理奈は独りごちた。彼女の視線の先、断崖の頂きに、それは聳えていた。 山狼館。 黒々と濡れたシルエットが、荒れ狂う空の雷光に一瞬だけ照らし出される。天を突く尖塔、闇を睨む無数の窓。それはまるで、嵐の到来を歓迎しているかのようだった。 建築史を学ぶ者として、この和洋折衷の極致ともいえる明治期の洋館に足を踏み入れることは、長年の夢だった。だが、この圧倒的な威圧感はなんだろう。まるで館そのものが、一つの巨大な生き物として、自分たちを見下ろしているような。
車が重厚な鉄門の前で止まる。すぐに、ずぶ濡れのレインコートを着た男が駆け寄ってきた。 「お待ちしておりました。美月理奈様ですね。私は本日、警備を担当します斎藤と申します」 ドアを開けてくれた男――斎藤一は、年の頃四十代半ばだろうか。柔和な物腰とは裏腹に、その目は一瞬で美月の全身を検分するような、鋭さを持っていた。元刑事だと、資料にはあったか。
館の中は、外の荒天が嘘のような静寂に包まれていた。高い天井から吊るされたシャンデリアが、磨き上げられた床や壁の彫刻を鈍く照らし出している。 「皆様、お揃いのようですな」 ホールに響いた声に、美月は振り返った。階段の上から、細身のスーツを着こなした青年が、品定めするような視線で彼女を見下ろしている。高林俊介。この館の、そして莫大な財産の後継者と目される男。 「わざわざ嵐の中をご足労いただき、感謝します。まあ、遺言状の公開など、すぐに終わるただの儀式ですが」 彼の言葉には、隠しきれない傲慢さが滲んでいた。
やがて、招待客は図書室へと通された。壁一面を埋め尽くす書架と、暖炉の頼りない炎。弁護士が咳払いを一つして、古びた封筒から遺言状を取り出す。 「……では、故・林原孝蔵様の遺言を、これより公開いたします」 緊張が、空気を張り詰めさせる。高林が、わずかに口の端を吊り上げた。 だが、弁護士が読み上げた言葉は、誰の予想をも裏切るものだった。財産分与の話ではない。まるで物語の一節のような、謎めいた詩。
「――狼は己の縄張りを欲す。 咎人は血の涙を流し、 聖釘は罰を与える。 真の相続人たる者、この館に眠る我が一族の真実を見出し、その証を手にすべし――」
「……馬鹿馬鹿しい。祖父も、とうとう耄碌したか」 高林が、嘲るように吐き捨てた。 だが、斎藤は警戒に満ちた目で部屋の隅々を見渡し、美月は「血の涙」という一節に、自らの曽祖母が遺した日記の言葉が重なり、背筋に冷たいものが走るのを感じていた。
その時だった。
館全体を揺るがすような、凄まじい轟音が響き渡った。雷鳴ではない。もっと地の底から響くような、破壊の音。 窓の外にいた警備員の一人が、血相を変えて駆け込んでくる。 「大変です! 橋が……館に続く唯一の橋が、土砂崩れで……!」
ザァッ、というノイズと共に、館内の全ての照明が、一斉に消えた。 シャンデリアの光も、暖炉の炎も、まるで巨大な何者かに息を吹きかけられたかのように、同時に生命を失う。 完全な、闇。 雨音だけが、耳に痛い。
静寂の中、誰かが息を呑んだ。 そして、どこか遠く――地下の深い、深い場所から、錠が砕けるような、硬質な音が、一つだけ響いた。
こうして、ヴァンパイアの晩餐会が、始まった。
第一章:饗宴の始まり
完全な闇と、耳を塞ぎたくなるほどの豪雨の音。それが、世界の全てになった。 誰かが短く悲鳴をあげ、別の誰かが喘ぐように息を呑む。パニックという獣が、暗闇の中で牙を剥く寸前だった。
「全員、落ち着いてください!」
その獣を制したのは、斎藤の声だった。元刑事のそれには、極限状況に慣れた者だけが持つ、不思議なほどの冷静さがあった。 「動かないでください。まず状況を確認します。お怪我をされた方は?」 しん、と静まり返る。誰もが自分の身体の無事を確かめているようだった。やがて、数名が震える声で「大丈夫だ」と答える。 「スマートフォンか、ライターをお持ちの方は?」 斎藤の問いかけに、数秒の間があった。皆、ポケットやバッグを探っているのだ。やがて、カチッ、という小さな音と共に、高林の顔が揺れる炎に照らし出された。金のライターだった。続いて、美月もスマートフォンのライトを点ける。いくつかの光源が生まれ、図書室の巨大な本棚が、亡霊のように闇から浮かび上がった。
「人数を確認します。……一、二、三……」 斎藤がライトで一人一人を照らし、数を数えていく。 「……六。……七。……一人足りない」 その言葉に、空気が凍りついた。 「弁護士の、広田先生がいない」 親族の一人が、かすれた声で言った。 「そういえば、停電の直前、ブレーカーの場所を確かめると……」 その言葉は、最後まで続かなかった。全員の脳裏に、あの地下から響いた硬質な音が蘇っていたからだ。
「……私が見てきます」 斎藤は、自分のスマートフォンを構えながら言った。 「危険です! 一人では!」 美月が思わず制止する。 「だから、です。ここに固まっていてください。この扉は私が戻るまで、絶対に開けないように」 彼はそう言うと、有無を言わせぬ力強さで、図書室の重い扉を内側から施錠した。闇に閉ざされた生存者たちにできたのは、斎藤のライトが遠ざかっていくのを、なすすべもなく見守ることだけだった。
館は、死んだように静まり返っていた。斎藤は、足音を殺しながら、スマートフォンの僅かな光を頼りに廊下を進む。壁に並ぶ歴代当主たちの肖像画が、闇の中でこちらを嘲笑っているように見えた。雨音に混じって、何か、獣が喉を濡らすような、不快な音が聞こえる気がする。 地下へ続く扉は、半開きになっていた。そこから、錆と黴の匂いに混じって、微かに鉄の匂いが漂ってくる。斎藤は覚悟を決め、軋む扉を押し開けた。 階段の下、石造りの床に、誰かが倒れている。 「広田先生!」 駆け寄ろうとした斎藤の足が、その場で縫い付けられたように止まった。 広田弁護士は、仰向けに倒れていた。その顔は、極度の恐怖に歪んでいる。そして、喉元。そこには、まるで杭でも打ち込まれたかのような、二つの深い穴が、闇に向かってぽっかりと口を開けていた。おびただしい量の血が流れたはずなのに、不思議なことに、死体の周囲にはほとんど血溜まりができていなかった。まるで、中身だけを全て、吸い出されてしまったかのように。 斎藤は、数々の凄惨な事件現場を経験してきた。だが、目の前の光景は、彼の理解を、人間の世界の理を、遥かに超えていた。これは、人間の仕業ではない。
「……全員、ホールに集まれ!急げ!」 斎藤は、図書室の扉を叩きながら叫んだ。彼の鬼気迫る声に、生存者たちは何事かと扉を開ける。斎藤は説明もそこそこに、彼らを一階のグランドホールへと誘導した。 「ここを拠点にする! 扉を塞ぐぞ!」 斎藤は、近くにあった豪奢なサイドボードに手をかけた。 「ま、待て! 何をする気だ!」 高林が、金切り声をあげた。 「見てわからないのか! バリケードを作るんだよ! あれが館の中に入ってきている!」 「あれ、とは何だ! 大げさな! これはイタリアから取り寄せた19世紀の家具なんだぞ!」 「人が死んだんだ!」 斎藤の怒号が、高い天井に響き渡った。高林は一瞬怯むが、それでもなお、自分の財産が傷つけられることへの嫌悪感を露わにした。 「だから何だ。警察でもない君に、何の権利があって指図する」 「そんなことを言っている場合か!」 美月が高林に食って掛かる。生存者たちの意見は二つに割れた。斎C藤の言う通り、身を守るべきだという者。高林の言う通り、事を荒立てるべきではないという者。 恐怖は、すでに彼らの結束を蝕み始めていた。
斎藤は、議論の無意味さを悟り、一人で巨大なソファを動かし始めた。その姿に、数名がためらいながらも手を貸す。やがて、ホールの全ての扉は、アンティークの家具や分厚い絨毯で、無様に、しかし頑丈に塞がれた。
外は、依然として嵐が吹き荒れている。 バリケードの内側で、生存者たちは互いに距離をとり、疑心暗鬼に満ちた目で牽制しあっていた。 斎藤は、塞がれた扉の向こうの闇を見つめる。 そして、確信していた。本当の恐怖は、まだ始まったばかりだ、と。 獲物を追い詰める時間と静寂を、館の主は、きっと何よりも好むのだから。
第二章:偽りの砦
グランドホールは、文明の残骸で作られた砦だった。 イタリア製のソファは無様にひっくり返され、ペルシャ絨毯は無造作に丸められて扉の隙間に詰め込まれている。生存者たちは、その中央で暖炉の頼りない炎に身を寄せ合い、息を潜めていた。 嵐の音と、薪のはぜる音。それ以外には、何も聞こえない。 時間が、ただゆっくりと流れていく。一時間、二時間……。闇に閉ざされた館では、もはや時間の感覚さえ曖昧だった。扉の向こうから、あの怪物が襲ってくる気配はない。
「……見たまえ。何も起こらんではないか」 沈黙を破ったのは、高林だった。彼はうんざりしたようにため息をつき、バリケードと化した家具を軽蔑の目で見つめた。 「君のせいで、私の祖父が愛した調度品はめちゃくちゃだ。ただの野犬か何かに怯えて、愚かしい」 「広田先生の遺体を忘れたのか」 斎藤が、低い声で応じる。彼は壁際に立ち、片時も警戒を解いていなかった。 「事故だったのかもしれん。あの暗闇だ、足でも滑らせたんだろう。君は元刑事だそうだが、少し過剰反応が過ぎるな」 高林の言葉に、数名が同調するように頷いた。恐怖が長引くと、人はそれを否定したくなる。異常な状況を、無理やり日常の理屈で解釈しようとする。あるいは、斎藤というリーダーへの反感が、恐怖を上回りはじめていた。
美月は、そんな彼らの口論を聞き流していた。彼女は暖炉の前に座り込み、先代当主の遺言状をスマートフォンのライトで照らしていた。 『――咎人は血の涙を流し、聖釘は罰を与える――』 まるで、これから起こることを予見していたかのような言葉。彼女はふと、暖炉の上に飾られた巨大な紋章に目をやった。高林家の紋章。だが、その意匠のどこかに、狼の牙のような鋭い装飾が隠されていることに、今更ながら気づいた。この館の秘密は、全て目の前にあるのに、ただ気づいていないだけなのではないか。
その時だった。
カリ、……カリカリ……。
微かな音に、斎藤が鋭く顔を上げた。 「……何の音だ?」 嵐の音ではない。もっと近く、もっと乾いた音。 「気のせいだろう。古い館はきしむものだ」 高林が鼻で笑う。 だが、音は続いた。今度はもっとはっきりと。床下からだ。何かが、木を引っ掻いている。 「……静かに」 斎藤が全員を手で制した。生存者たちも、ようやく異常に気づき、息を殺して耳を澄ます。
カリ……カリカリ……ミシッ……。
音は、ホールのちょうど中央、彼らが囲む暖炉のすぐ手前の床下から聞こえてくる。それは、ネズミのような小動物の立てる音では断じてなかった。もっと大きく、もっと執拗な、悪意に満ちた音。 「……おい、まさか……」 誰かが恐怖に喘ぐ。 彼らが必死に塞いだのは、壁にある扉だけだった。誰も、床下の脅威など考えてはいなかった。
次の瞬間、轟音と共に、ホールの床板が内側から爆ぜるように砕け散った。 木片と埃が舞い上がる中、ぽっかりと開いた穴から、白く、枯れ枝のような手が突き出る。続いて、もう一本の手が床の縁を掴み、ゆっくりと、ぬるりと、漆黒の闇の中から「それ」が姿を現した。 痩せこけた体に、ぼろぼろになった古い礼服。だが、その顔には目はなく、ただ暗い窪みがあるだけだった。鼻もない。あるのは、裂け目のような口と、そこから覗く、針のように鋭い牙。 それは、彼らが塞いだ扉の向こうにいると思っていた怪物。彼らが砦の内側で安堵していた、その間ずっと、真下で好機を窺っていた捕食者。
「――逃げろォォッ!!」
斎藤の絶叫が号令だった。 パニックが爆発し、人々は我先にと、自ら築いたバリケードに殺到する。だが、それはもはや砦ではなく、脱出を阻む障害物でしかなかった。 「どけ!」「押すな!」 怒号と悲鳴が入り乱れる。 ヴァンパイアは、音もなく美月の背後に回り込んでいた。死の匂いに、美月の全身が凍りつく。振り向けない。 だが、その細い腕が美月の肩に触れる寸前、横から飛び込んできた斎藤の体当たりが、彼女を突き飛ばした。 「走れ!」 斎藤は、近くにあった銀の燭台を掴み、ヴァンパイアの頭部めがけて振り下ろす。甲高い金属音と共に、燭台はあらぬ方向に弾き飛ばされた。ヴァンパイアは、まるで意に介していない。
生存者たちは、もつれるようにして、かろうじて開けた扉から廊下へと転がり出た。 斎藤は、最後の一人が脱出したのを確認し、自らも後退する。扉の隙間から見えた最後の光景は、誰にも目もくれず、ただゆっくりと床の穴からその巨体を現す、館の主の姿だった。
砦は、内側から崩壊した。 闇の中へと散り散りになった生存者たちを、静かな足音が追い始める。 本当の狩りが、今、始まった。
第三章:死者の書斎
闇の中を、ただ走った。 背後で響いた親族の一人の短い悲鳴が、まだ耳の奥にこびりついている。美月は、もつれる足を必死に動かし、息も絶え絶えに知らない廊下を駆けていた。どこへ向かっているのかもわからない。ただ、あの白皙の怪物から、一秒でも遠くへ。
「こっちだ!」
不意に、強い力で腕を引かれ、近くの部屋へと引きずり込まれた。埃と、古い布の匂い。リネン室か何からしい。息を殺して闇に目を凝らすと、そこにいたのは斎藤だった。彼は扉に背を預け、廊下の気配に全神経を集中させている。 「……斎藤さん……」 「静かに。まだ近くにいる」 斎藤の言葉に、美月は口を手で覆った。遠く、別の階から、何か重いものを引きずるような音が聞こえる。ゆっくりと、それは遠ざかっていった。 「……行った、か」 斎藤は、こわばっていた肩の力を、わずかに抜いた。 「このまま逃げ回るのは下策だ。奴は、この館を知り尽くしている。我々はただの袋の鼠だ」 「じゃあ、どうすれば……」 「情報が必要だ。あんた、あの遺言状を熱心に見ていたな。何か気づいたことは?」 斎藤の問いに、美月ははっとした。恐怖で、遺言のことなど頭から消し飛んでいた。彼女は震える指でスマートフォンのライトをつけ、記憶をたどるように詩を反芻する。 「『狼は己の縄張りを欲す』……『咎人は血の涙を流し』……。まるで、私たちに何かを解かせようとしているみたい……」 「答えがあるとしたら、どこだ?」 「……書斎、いえ、図書室です。先代当主が、最も長く過ごした場所……。あそこなら、何か記録が」 二人の間に、緊張をはらんだ合意が生まれた。隠れ続けることは、緩やかな死を意味する。ならば、答えを探して動くしかない。
図書室への道は、悪夢そのものだった。 スマートフォンの僅かな光だけを頼りに、闇に沈んだ廊下を進む。壁の肖像画の目が、こちらを追っているように見える。時折、ぎしりと床板が鳴る音に、二人は心臓が止まる思いで身を隠した。 ヴァンパイアの気配は、今は感じられない。だが、それが逆に不気味だった。まるで、巨大な蜘蛛の巣に迷い込んだ蝶のように、自分たちが弄ばれているのではないかという恐怖が、じわじわと精神を蝕んでいく。
命からがらたどり着いた図書室は、奇跡的に荒らされていなかった。 「手分けして探そう。先代当主が隠しそうな場所を」 美月は頷き、斎藤は警戒を続けながら、彼女に謎解きを託した。美月は、遺言の詩と、自身の建築史の知識を総動員する。 「『狼』は、高林家の紋章……。『血の涙』は、伝承にある聖母像……でも、それだけじゃないはず……」 彼女は、まるで何かに導かれるように、書架の一角へと向かった。そこには、ヨーロッパの民間伝承に関する本が並んでいる。なぜ、日本の旧家の書斎に、これほど多くの洋書が? 一冊の本を手に取ると、それは吸血鬼に関する研究書だった。ページをめくると、ある一文に線が引かれている。 『――主を裏切った眷属は、流れることのない血の涙を呪いとしてその身に受け、同族を狩る運命を背負う――』 意味がわからない。だが、その本の隣、一冊だけ逆さに差し込まれた本があることに、美月は気づいた。それは、この館の建築記録だった。 彼女がその本を引き抜いた瞬間、背後の書架が、重い音を立てて内側へと沈み込んだ。
隠し扉の奥にあったのは、書斎などという生易しいものではなかった。そこは、近代的な機材が並ぶ、さながら研究室だった。壁には館の詳細な設計図、そして、代々の当主のものと思われる肖像画が並んでいる。だが、始祖である景明の肖像画だけは、無残に引き裂かれていた。 部屋の中央、巨大なデスクの上に、一冊の分厚い革張りの日記が置かれていた。 「……先代当主の……」 二人は、吸い寄せられるようにその日記を開いた。そこに綴られていたのは、一族が隠し続けた、血塗られた歴史のすべてだった。
『――我が祖、林原景明は、呪いにより不老不死の鬼と化した。我ら子孫は、その力を恐れ、またその永遠性を妬み、彼を裏切った。欧州の古き儀式に倣い、我らは始祖をこの館の地下深くに封印したのだ――』
日記は、景明がなぜヴァンパイアとなったのか、子孫たちがいかにして彼を裏切ったのかを克明に記していた。そして、最後のページには、震えるような文字で、こう記されていた。
『――封印は、もはや永くは保たぬだろう。奴の憎悪は、数世紀の時を経て、この館そのものを蝕んでいる。もし、奴が目覚めた時、これを手にする者がいるのなら、希望を捨ててはならない。景明を、あの悲劇の男を、永遠の苦しみから解放する唯一の手段が、この館には眠っている。妻を愛した男の、最も清らかな場所に隠された**【聖釘】**。それこそが、我ら一族の罪を浄化する、最後の鍵である――』
日記には、一枚の古びた手紙が挟まっていた。景明の妻が、封印される直前の夫に宛てた、悲痛な愛の言葉が綴られていた。 斎藤と美月は、言葉を失くして顔を見合わせた。 恐怖が、ほんの少しだけ後退する。そして、その代わりに、心の奥底で、一つの決意が形を結び始めていた。
「……探しましょう、斎藤さん」 美月が、震えながらも、強い意志を宿した瞳で言った。 「聖釘を。そして、終わらせる方法を」
ただ生き残るための逃走は、終わった。 ここから先は、この血塗られた歴史に終止符を打つための、反撃だった。
第四章:内なる敵
隠し書斎の重い扉を、斎藤はゆっくりと閉じた。 日記に記された血塗られた歴史と、そこにある僅かな希望。二人が得た情報の重みが、狭い空間の空気を張り詰めさせている。 「……他の皆と合流する。このことを伝えなければ」 斎藤の言葉に、美月は頷いた。今は一刻の猶予もない。 「高林さんは……信じてくれるでしょうか」 「信じさせる。これはもう、ただ逃げるだけの戦いじゃない」 斎藤の目には、元刑事の光が戻っていた。恐怖に支配されるだけの時間は終わったのだ。
二人が図書室に戻ると、残された生存者たちが不安げな顔で寄り集まっていた。高林が、その中心で苛立たしげに腕を組んでいる。 「戻ったか。コソコソと、何をしていた」 「見つけたんだ。生き残る方法が」 斎藤は、日記に書かれていた内容をかいつまんで説明した。始祖の存在、封印の儀式、そして希望の鍵である「聖釘」について。 生存者たちの間に、驚きと、そして微かな希望のどよめきが広がる。だが、それを嘲笑で打ち消したのは、やはり高林だった。 「馬鹿馬鹿しい! 狂人の日記を信じるというのか! それこそが怪物の罠だ。我々を誘い出すための、甘い作り話に決まっている!」 「だが、可能性があるなら賭けるべきだ!」 親族の一人が叫ぶ。 「危険すぎる! この館で一番安全なのは、朝日が昇るまで、この扉を固く閉ざして隠れていることだ!」 高林の断固とした言葉に、生存者たちの希望は再び恐怖に塗りつぶされそうになる。その時だった。
「……わかった」 高林は、ふっと表情を緩め、芝居がかったように両手を広げた。 「そこまで言うのなら、協力しよう。その『聖釘』とやらを探し出す。日記に手がかりはあったのだろう? 始祖が最も愛した場所、だったか」 あまりに急な心変わりに、斎藤は眉をひそめる。 「……ああ」 「ならば、心当たりがある。始祖は、ヨーロッパから取り寄せた極上のワインを何よりも愛していた。彼が最も長く過ごした場所は、地下のワインセラーだ。私が案内しよう」 高林の言葉は、自信に満ちていた。館の主人である彼の言葉には、抗いがたい説得力がある。 「待て」 斎藤が制止する。 「全員で動くのは危険すぎる。二手に分かれよう。高林さん、あんたは希望者を連れてセラーへ。私と美月さんは、別の可能性を探る」 「……ほう。私の判断を信用しないと?」 「万が一に備えるだけだ」 斎藤と高林の視線が、火花を散らすように交錯した。
こうして、生存者たちは二分された。高林に同調した親族の二人が彼に従い、残りの一人は斎藤たちと行動を共にすることを選んだ。 高林たちが、カンテラの頼りない光と共に地下へと続く階段を降りていくのを、斎藤は険しい目で見送った。
「斎藤さん、なぜ?」 「奴は嘘をついている」 斎藤は、美月の問いに短く答えた。 「あの状況で、協力的な態度に転じるのが早すぎる。奴は、我々をどこかへ誘導するつもりだ。……あんたの方は、何か気づいたことは?」 「はい……日記にあった、始祖の妻の手紙。彼女は、温室で育てた白い薔薇を、夫に贈るのが好きだったと……。もし、彼が最も愛した場所が、妻との思い出の場所だったとしたら……」 「温室か。セラーとは正反対の場所だな」 斎得の顔に、苦いものが浮かんだ。高林の悪意は、もはや疑いようもなかった。
二人は、残った一人と共に、館の西棟にある温室へと向かった。道中、寝室が並ぶ廊下を通りかかった時だった。一つの部屋の扉が、わずかに開いている。その隙間から、銀色の何かが光を反射した。 「……十字架?」 それは、壁に掛けられた銀の十字架だった。その部屋だけ、不思議と空気が澄んでいるように感じる。 斎藤が、懐にあった鉄のパイプを、そっと扉の隙間から差し入れた。 その瞬間。 闇の奥から、影が猛スピードで飛び出してきた。だが、影――ヴァンパイアは、扉の敷居を越える寸前で、まるで見えない壁にぶつかったかのように、甲高い叫び声をあげて後ずさった。銀の十字架が放つ、聖なる気配を嫌っているのだ。 「……日記の通りだ」 美月が息を呑む。日記にあった弱点は、真実だった。 ほんの僅かな、しかし確かな希望。
その希望を打ち砕くように。 館の地下深くから、男たちの、断末魔の絶叫が響き渡った。 高林に付いていった、親族たちの声だった。 絶叫はすぐに途切れ、代わりに、満足げな捕食者の咆哮が、床を震わせながら響き渡る。 斎藤と美月は、顔を見合わせた。高林の裏切りは、確定した。彼は仲間を、怪物の餌として差し出したのだ。
そして、目の前の廊下の闇の奥。 地下での食事を終えたヴァンパイアが、新たな獲物を求めて、ゆっくりと姿を現した。その口元は、おびただしい量の血で、濡れていた。 絶叫が響いた地下への階段は、背後にある。 希望の鍵があるはずの温室は、ヴァンパイアが立つ、その先だ。 進むも地獄、退くも地獄。二つの敵に、彼らの逃げ場は完全にくい止められていた。
第五章:夜明けまでの競争
廊下の闇から現れたヴァンパイアは、しかし、すぐに飛びかかってはこなかった。 まるで、己の縄張りに迷い込んだ獲物を吟味するように、ゆっくりと、しかし確実に距離を詰めてくる。その窪んだ眼窩が、絶望に染まる生存者たちの顔を一人ずつ捉えているかのようだった。背後の地下階段からは絶叫が、そして目の前には絶対的な死が迫る。逃げ場は、ない。 同行していた最後の一人が、恐怖に耐えきれず叫び声をあげて反対方向へと駆け出した。それは、あまりに愚かな選択だった。ヴァンパイアは一瞬でその進行方向に回り込み、影が伸びたかと思うと、男の体は糸の切れた人形のように崩れ落ちた。 次は、我々の番だ。
「……斎藤さん、日記に……!」 恐怖に震えながらも、美月は必死に記憶の糸をたぐり寄せていた。 「19世紀の伝承……苦手なものが! 清められた物品と、そして……!」 「そして、何だ!」 「流れる水です!」 美月の叫びに、斎藤の視線が鋭く横を向いた。廊下の壁、その腰の高さあたりを、館の暖房用だろうか、一本の太い温水パイプが走っている。今はもう冷え切っているが、中にはまだ水が残っているはずだ。 斎藤は、これまで携えていた鉄パイプを両手で握りしめた。 「……あんた、走れるな」 「え?」 「俺が合図をしたら、温室に向かって全力で走れ。絶対に、振り返るな」 言うが早いか、斎藤はヴァンパイアに向かって駆けだした。それは自殺行為にしか見えなかった。ヴァンパイアが、斎藤を獲物と定めて迎え撃つように腕を広げる。 だが、斎藤はその寸前で床を滑り、ヴァンパイアの脇をすり抜けると、その背後にある温水パイプめがけて、渾身の力で鉄パイプを叩きつけた!
ガァン!という轟音と共に、古いパイプがひしゃげ、裂け目からおびただしい量の水が噴き出した。水はカーテンのように斎藤とヴァンパイアの間を遮る。 「ギャアアアッ!」 ヴァンパイアは、まるで強酸を浴びたかのように叫び、飛び散る水飛沫から身をよじって後退した。その肌が、水に触れた箇所から煙のように気化している。流れる水は、奴にとってまさに毒なのだ。 「今だ、行け!」 斎藤の叫びに、美月は我に返って走り出した。斎藤もすぐに後を追い、二人は水の壁の向こうで苦しむ怪物を背に、西棟の廊下を駆けた。
息も絶え絶えにたどり着いた温室は、まるで忘れられた世界のようだった。 ガラス張りの天井や壁は嵐で激しく揺れ、雷光が差すたびに、無秩序に生い茂った植物の影が、巨大な怪物のようになって踊る。中央には、苔むした聖母像が静かに佇んでいた。 「……ここだわ。始祖が最も愛した場所……」 二人は、日記の記述を頼りに、聖母像の足元を必死に探し始めた。だが、土と枯れ葉をいくら掻き分けても、それらしき物は見つからない。 「くそ、どこにも……!」 斎藤が焦りに拳を地面に叩きつけた、その時だった。 「……待って」 美月が、何かを見つめていた。聖母像に絡みつくように枯れた、薔薇の蔓。その棘が、月光に濡れて鈍い金属光を放っている。あまりに大きく、あまりに鋭利な、自然のものとは思えない棘。 「『聖釘(せいてい)』……もしかして、釘そのものじゃないのかも……」 彼女はおそるおそる蔓に手を伸ばし、一番大きな棘を折った。ずしりと重い。それは、銀で鋳造された、茨の棘の形をした一本の杭だった。 「……聖なる、茨……!」 これこそが、日記に記された最後の希望。
だが、安堵は一瞬で打ち砕かれた。 温室の入り口、ガラスの割れた扉の向こうに、一つの人影が立っていた。 「……高林さん……!」 そこにいたのは、血飛沫を浴び、しかし無傷の高林だった。彼は、満足げな笑みを浮かべていた。 「やはり、ここにあったか。祖父の遺言は、君のような知識のある人間がいなければ解けんようになっていたとはな」 「仲間を……見殺しにしたのね!」 「彼らは必要で、崇高な犠牲だ。おかげで、私はこうして時間を稼げた」 高林は、一冊の小さな革表紙の本を掲げて見せた。 「日記には『何』を使うかしか書かれていなかった。だが、我が家に代々伝わるこの記録には、その『使い方』が記されている。――始祖を滅ぼすのではなく、その力を奪い、使役する方法がな」 彼の目は、もはや恐怖ではなく、狂信的な野望に爛々と輝いていた。 「その聖釘を渡せ。さすれば、君たちは私の新しい世界の、最初の民にしてやろう」
ゴウッ、と風が吹き荒れる。 温室の屋根ガラスが、ついに嵐の力に耐えきれず、大きな音を立てて砕け散った。 冷たい雨が、三人の対峙する温室に降り注ぎ始める。 武器を手にした斎藤と美月。 儀式の方法を知る高林。 そして、水の障害を乗り越え、怒りに満ちた主が、すぐそこまで迫ってきていた。 夜明けまでの、最後の競争が始まろうとしていた。
終幕:ヴァンパイアの晩餐会
「その聖釘を渡せ」 高林の声は、嵐の轟音の中でも、不気味なほどはっきりと響いた。彼の目は、もはや恐怖には染まっていなかった。あるのは、己の欲望だけを映し出す、乾いた狂気の色だ。 「断る」 斎藤は、美月を背後に庇いながら、銀の茨――聖釘を握りしめた。 「愚かな。その玩具が、呪文もなしに役に立つとでも? ただのピンブローチだ」 高林が嘲笑う。彼が持つ革表紙の本こそが、この盤面を支配する王の駒だというように。 「君たちでは宝の持ち腐れだ。さあ、渡せ。さすれば――」
高林の言葉は、ガラスが砕け散る絶叫によって遮られた。 温室の壁の一面が、内側から爆発したかのように粉々になる。そこに立っていたのは、全身から血の蒸気を立ち上らせる、館の主――林原景明だった。その窪んだ眼窩は、三人の獲物を同時に捉えている。 「……っ!」 対峙の均衡は、絶対的な暴力によって崩壊した。 ヴァンパイアが、一直線に斎藤たちへと駆ける。だが、その動きを読んでいたかのように、高林が素早く身を翻した。彼は斎藤たちには目もくれず、温室の隅にある、古い鉄製の螺旋階段へと走る。 「ハハハ! 食い合え、亡霊ども!」 彼は、この混乱に乗じて一人だけ逃げるつもりだった。始祖と招待客が共倒れになった後、悠々とこの館の全てを相続するために。 だが、彼が見落としていたものが一つだけあった。この館そのものが、すでに嵐によって死にかけていたという事実を。 高林が螺旋階段に足をかけた瞬間、彼の体重を支えきれず、腐食した鉄の根元が、嫌な音を立てて断裂した。 「……あ?」 一瞬、何が起きたのかわからないという顔で、高林は宙に浮いた。そして、自らが招いた混沌の渦の中へと、短い悲鳴と共に落下していく。ガラスの破片と、ねじ曲がった鉄骨が、彼の体を無慈悲に貫いた。 彼が最後まで手放さなかった革表紙の本だけが、カラン、と乾いた音を立てて、美月の足元へと転がった。
「斎藤さん!」 「拾え! 俺が時間を稼ぐ!」 斎藤は、聖釘を美月に投げ渡し、近くにあった鉄の支柱を引き抜いてヴァンパイアへと対峙する。美月は震える手で本を拾い、乱雑にページをめくった。古い日本語で書かれた儀式の呪文を、必死に目で追う。 ヴァンパイアの動きは、先ほどまでとは比べ物にならないほど速く、そして重い。斎藤は、刑事時代に培った体術で猛攻を捌くが、その一撃は人間の骨を容易く砕くほどの威力を持っていた。掠めた爪が腕を裂き、鮮血が飛び散る。 (……まずい。このままでは!) 脳裏に、守れずに死なせてしまった相棒の顔が蘇る。あの時と同じだ。圧倒的な暴力の前に、自分の無力さを突きつけられる。
「……見つけました!」 美月の声が響く。 「儀式には、聖釘を祭壇に戻す必要があります! でも、それだけじゃだめ……奴の心が、人のものに還った一瞬でなければ!」 人の心。この怪物に、そんなものがまだ残っているというのか。 絶望が斎藤の心をよぎった、その時だった。美月が、懐から一枚の古びた手紙を取り出し、嵐の音に負けじと、その言葉を叫び始めた。
「――愛しいあなたへ。もし、あなたが人の心を失い、ただの鬼と成り果ててしまったとしても、私はあなたを愛しています。どうか、子供たちを許して。彼らは、ただ、あなたを恐れてしまっただけなのですから――」
それは、日記に挟まれていた、景明の妻が遺した最後の手紙だった。 その言葉は、まるで言霊のように、怪物の動きを縛った。 ヴァンパイアの動きが、ぴたりと止まる。その顔が、ゆっくりと美月の方を向く。窪んだ眼窩の奥で、数百年ぶりに、人間だった頃の悲しみが揺らめいた。 「……あ……あぁ……」 それは、獣の咆哮ではなかった。愛する者の名を呼ぼうとする、男の、慟哭だった。
「……今だ!」 斎藤は、最後の力を振り絞って、動きの止まったヴァンパイアにタックルを敢行した。もはや、逃げるという選択肢も、躊躇もなかった。守るべき者のために、自らの体を盾にする。それこそが、彼が過去の自分と決別するための、唯一の答えだった。 彼は、ヴァンパイアを温室の中央、聖母像の台座へと組み伏せる。 「美月! やれェェッ!」 「斎藤さん!」 美月は、涙で滲む視界の中、斎藤の覚悟に応えた。彼女は台座に駆け寄り、そこに空いた小さな穴へと、銀色の茨――聖釘を、力の限り突き立てた。
その瞬間、世界から音が消えた。 聖釘が打ち込まれた台座から、まばゆいほどの白い光が溢れ出す。床には、見たこともない紋様が光の線となって走り、温室全体が巨大な儀式場と化した。 そして。 砕け散った天井の向こう、厚い雲の切れ間から、一本の、清らかな光が差し込んだ。 夜明けだった。
封印の光と、聖なる朝日。二つの浄化の力に貫かれ、ヴァンパイアは、長い、長い溜息のような声を漏らした。それは、苦痛の叫びでありながら、どこか安堵したような響きを持っていた。 斎藤を見下ろすその顔は、一瞬だけ、誇り高き男爵「林原景明」のそれに還っていた。 そして、朝日の中で、その体はゆっくりと、きらきらと輝く塵となって、風に溶けていった。
嵐は、過ぎ去っていた。 斎藤は、傷だらけの体で、その場に崩れ落ちた。美月が、彼のそばに駆け寄る。 静寂が戻った館に、朝日が、優しく降り注いでいた。 血塗られた晩餐会は終わり、二人の生存者は、瓦礫の中で、世界の新しい始まりを告げる光を、ただ静かに見つめていた。
エピローグ
夜は、終わった。
嵐が嘘のように過ぎ去り、雲の切れ間から差し込む朝日は、世界を洗い流したかのように清らかだった。 破壊された温室の中、斎藤と美月は、ただ黙ってその光を浴びていた。舞い上がるガラスの破片と埃が、朝日に照らされてきらきらと輝いている。それは、惨劇の痕跡でありながら、どこか非現実的なまでに美しかった。
「斎藤さん……腕、を」 美月は、自らのシャツの裾を破くと、斎藤がヴァンパイアに切り裂かれた腕に、拙い手つきで巻き付けた。斎藤は、されるがままになっていた。アドレナリンが切れ、全身を鉛のような疲労感が支配している。 「……ああ。大したことはない。あんたこそ、怪我は」 「……生きて、います」 美月のその一言に、この夜の全てが凝縮されていた。 彼女の傍らには、あの革表紙の日記と、始祖の妻が遺した手紙が、静かに置かれている。それはもはや謎を解くための道具ではなく、ただの、哀しい歴史の記録となっていた。美月は、会ったこともない曽祖母が、この館で何を感じ、何を見ていたのかに、想いを馳せた。
どれくらい、そうしていただろうか。 不意に、斎藤が顔を上げた。 「……何の音だ?」 耳を澄ますと、遠くから、空気を震わせる低い音が聞こえてくる。それは嵐の音ではない。規則的で、機械的な音。 音は、徐々に大きくなってくる。 プロペラの回転音だ。 「……ヘリコプター……」
二人は、顔を見合わせた。驚きも、喜びもなかった。ただ、あまりに遠い世界から響いてくるようなその音を、呆然と聞いていた。 救助だ。 警察か、消防か。いずれにせよ、日常が、彼らを迎えに来たのだ。
やがて、ヘリコプターが館の上空でホバリングするのが見えた。 斎藤は、ゆっくりと立ち上がると、美月に手を差し伸べた。美月は、その手を強く握り返す。 二人は、互いを支え合うようにして、瓦礫と化した温室から、朝日が降り注ぐ館の外へと、一歩、また一歩と歩き出した。
一度だけ、美月は振り返った。 朝日に照らされた山狼館は、昨夜までの獰猛な威圧感が嘘のように、ただ静かで、巨大な墓標のように佇んでいた。 数世紀にわたる憎悪と悲しみの連鎖。その呪いが解かれた館は、どこか安らかな表情を浮かべているようにさえ見えた。
だが、斎藤は振り返らなかった。 彼の脳裏には、守りきれなかった相棒の顔ではなく、今、隣を歩く美月の、必死に前を向こうとする横顔が映っていた。 それで、十分だった。
二人はもう、二度と館を振り返らなかった。 夜の晩-餐会は、終わったのだ。



































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