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『アベイラブルルームの探偵』

「誰にも会わずに、事件を解く。その『なぜ?』が、僕自身を解き放つ。」

【あらすじ】
現代社会を象徴する、孤独な場所「アベイラブルルーム」に閉じ込められた若き天才、上原拓哉。人との接触を避けながらも、彼は卓越した分析力で難事件を解き明かす。唯一の“窓口”は、協力者の結城美緒

AIの暴走、仮想世界の闇、20年前の絵画に隠された嘘――次々現れる謎。拓哉は、かつての同僚たち、葉山、城戸、五十嵐と連携する。彼らはそれぞれ「箱庭」に囚われた類稀な才能を持つが、顔を合わせることなくデジタルな「共鳴」で繋がり、真実を追い詰める。

やがて、彼らの前に立ちはだかるのは、社会全体を「情報」と「心理」で支配しようとする巨大な陰謀。見えない支配者との最終決戦の先に、拓哉と仲間たちが見出す「自由」と「繋がり」とは何か? 現代の閉塞感と孤独の果てに、希望の光を灯す知的サスペンス。

【登場人物】

  • 上原 拓哉:人との関わりが苦手な天才。アベイラブルルームで独自の探偵稼業を営む。
  • 結城 美緒:拓哉と外界を繋ぐ唯一の協力者。行動力と情報収集力に長ける。

第1章:箱庭の始まりと歪んだ「自由」の転落

孤絶と呼びかけ

都心の高層ビルが立ち並ぶビジネス街。その中に、上原拓哉が「アベイラブルルーム」と呼ぶ場所があった。窓のない、いや、最初から窓など必要とされていないかのような無機質な空間。蛍光灯の青白い光が天井から降り注ぎ、常に同じトーンで空調の低い音が響いている。部屋の隅には監視カメラが据え付けられ、その赤いランプがまるで誰かの冷たい眼差しのように拓哉を見下ろしていた。

午前9時。出社時刻だ。

拓哉は、支給されたノートPCを広げ、起動音を聞く。今日の「業務」は、昨日の「報告書」を微修正すること。中身のない、ただの進捗報告。自主退職を促すための、無意味な作業。この数カ月、彼の仕事はそれだけだった。

「不登校児か、俺は」

自嘲気味に呟く。小学校に行かなくなったあの日々が、今、形を変えて現実に存在していた。あの頃は、肝炎という病が彼を社会から隔絶させた。身体的な隔離は、結果として、彼を他者との関係構築において致命的に不器用にした。「人間関係のなぜ?」──なぜ、人はあんなにも複雑な感情をぶつけ合うのか、なぜ、当たり前のように群れをなすのか。彼の脳裏には常にこの問いが付きまとい、その答えを見つけられないまま、彼は大人になった。そして今、外資系コンサルティングファームの非情な論理が、彼をこの「箱庭」に幽閉している。

彼のデスクの向かいには、同じように無為な時間を過ごす二人の同僚がいた。彼らもまた、「アベイラブル」なのだ。ここには「アップオアアウト」という言葉の最終形がある。パフォーマンスが基準に満たないと判断された者が集められ、新たな仕事を与えられることもなく、ただ会社の退職を促される場所。彼らは互いの目を合わせず、透明な壁がそこにあるかのように振る舞う。会話などしない。時に聞こえるのは、深い溜息か、キーボードを叩く苛立ちの音ばかりだ。彼らは互いの目を合わせず、透明な壁がそこにあるかのように振る舞う。拓哉にとって、人と接しないことは苦痛ではなかった。むしろ、余計な神経を使わずに済む分、思考に集中できた。だからこそ、このアベイラブルルームは、彼にとって皮肉にも「思考の密室」となった。

彼はノートPCで「報告書」のファイルを立ち上げ、カーソルを動かすふりをする。その裏で、彼はオンラインのプラットフォームを開く。そこに連載しているミステリー小説の執筆こそが、彼にとって唯一の「仕事」であり、彼自身が「生きていること」を実感する手段だった。社内システムの抜け穴を突き、監視の目を掻い潜りながら、彼は物語を紡ぎ続けている。これが発覚すれば即刻解雇。そのスリルが、彼の研ぎ澄まされた頭脳にわずかな興奮をもたらした。彼の小説の主人公は、いつも「なぜ?」を問い続ける、彼自身の分身のような探偵だった。

数日前から、世間を騒がせているニュースがあった。都心の超高層ビルから、若きIT企業のカリスマCEO、一条蓮が転落死したというものだ。テレビのワイドショーは連日この話題で持ちきりだった。彼が経営する「フロンティアリンクス」は、自由な発想と社員の創造性を謳う革新的な企業として知られ、一条自身もメディアに引っ張りだこの顔だった。警察は「事故か自殺の可能性が高い」と発表し、捜査は早々に打ち切りの方向へと傾きつつあるようだった。

だが、拓哉は違和感を覚えた。

彼のPC画面に小さく表示されたニュース記事。そこには一条蓮の華やかな笑顔と、転落現場のビルの写真が並んでいた。彼はマウスのカーソルを動かし、何度も記事を読み返す。そして、公開されている現場の状況、一条のプロフィール、そして彼が高所恐怖症だったという情報が、拓哉の「問題解決の回路」の中で、まるで歯車のように噛み合わない感覚を覚えた。

「なぜ、彼は死んだのか?なぜ、誰もその違和感を追求しない?」

彼の「人間関係のなぜ?」が、この事件にも向けられていた。社会の表面的な情報だけでは見えてこない、そこに潜む深い「なぜ」を解き明かしたい衝動に駆られた。彼は画面の片隅に小さく表示されたニュース記事を眺めながら、オンライン小説のプロットを練り始める。彼の指がキーボードの上を滑り出した時、新しい通知が画面に表示された。

それは、彼のオンライン小説のコメント欄に寄せられた、一通のメッセージだった。

差出人の名前は「結城美緒」。

「上原様の小説、いつも拝読しております。その論理構築力と洞察力に、ただならぬものを感じています。実は、先日の一条蓮氏の転落死について、お話ししたいことがありまして。警察は自殺で片付けようとしていますが、私はどうにも納得がいきません。もしよろしければ、上原様の『問題解決の回路』で、この事件の真実を解き明かしていただけないでしょうか?」

メッセージには、美緒の連絡先が添えられていた。拓哉は、一瞬、返信をためらった。こんな状況で外部と接触するリスク。それに、ジャーナリスト。彼が最も苦手とする、複雑な人間関係の最前線にいる人間だ。だが、彼の思考はすでに、美緒のメッセージに潜む違和感を捉えていた。なぜ、彼女は自分に目をつけたのか?なぜ、そこまで一条蓮の事件に固執するのか?

「……面白い」

拓哉は、いつしか心の中で呟いていた。彼はクライアント企業の重役の接待はおろか、電話連絡すらできない。会議では前日からカンペを準備し暗記しなければ発言できないほど、対面の人間関係は壊滅的だ。だが、このテキストだけのやり取りなら、そして、目の前の謎解きそのものに没頭できるのなら、話は別だ。

彼は、自分の置かれた状況と一条蓮の事件を重ね合わせていた。カリスマと呼ばれた一条が築き上げた「自由」を謳う企業と、拓哉が今いる「アップオアアウト」の論理が支配するアベイラブルルーム。形は違えど、そこには同じような「閉じた」世界と、その中で窒息しそうな人々の存在が透けて見えた。

美緒からの依頼は、この「箱庭」からの、そして自己の存在意義を失いかけていた「空白」からの、一縷の光のように感じられた。

拓哉は、即座に美緒に返信を打った。

拓哉: 「当方、特定の場所から動くことはできません。私が指示を出し、あなたが手足となってくれるのであれば。情報収集は、全て暗号化されたツールを使用します。それと、対面でのやり取りはできません。この条件でよければ、ご連絡ください」

送信ボタンを押す。彼の指先が、わずかに震えていた。それは恐怖か、それとも久しぶりに味わう、知的な興奮だったのか。

美緒からの返信は、拓哉が想像していたよりも早かった。

美緒: 「承知いたしました。全てお任せします。詳細なツールと方法について、追ってご連絡します」

彼女の簡潔な返信は、迷いのない意志と、確かな覚悟を感じさせた。拓哉は、監視カメラの冷たい視線を気にすることなく、深呼吸をした。アベイラブルルームの青白い光が、今は少しだけ、希望の光に見えた。

歪んだ「自由」の影

結城美緒からの連絡は、まさに電光石火だった。数時間後、拓哉のノートPCに、彼女からの招待メッセージが届いた。それは、軍事レベルの暗号化が施された、最新のセキュリティメッセンジャーアプリへのリンクだった。拓哉はそれをインストールし、指示通りに匿名性の高いアカウントを作成する。監視カメラの赤いランプが、いつもよりも強く彼を見つめているような気がした。

(監視カメラは社内ネットワークに接続されたPCの挙動しか追えない。私用アプリのインストールは履歴に残るが、その先の通信内容までは追跡できないはず。完璧ではないが、今のところはこれでいくしかない)

拓哉は内心で呟いた。彼の頭の中では、社内システムの脆弱性を突く「問題解決の回路」がすでに稼働していた。このギリギリの状況そのものが、彼の思考を研ぎ澄ませる燃料となっていた。

アプリが開くと、美緒からの最初のメッセージが届いた。

美緒: 「拓哉さん、ありがとうございます。連絡手段の確保、助かります。では、早速ですが、一条蓮氏の事件について、私が掴んでいる情報と、あなたにお願いしたいことをお伝えします。」

美緒: 「一条蓮は、表向きは『自由な発想』を重んじるカリスマ経営者でした。ですが、関係者の話では、内実は強烈な支配欲を持つ人物で、社員のアイデアを横取りしたり、気に入らない社員を精神的に追い詰め、『自主退職』に誘導するようなやり口を多用していました。まるで外資系コンサルティングファームの『アップオアアウト』の論理を、彼個人が極端に体現したかのようでした。」

拓哉は、美緒のメッセージに眉をひそめた。それは、彼が今いる「アベイラブルルーム」と酷似している。場所は違えど、企業という枠組みの中で、個人の自由が奪われ、存在意義を揺さぶられる空間。彼の「人間関係のなぜ?」が、目の前の事件の背後に横たわる企業の闇と共鳴し始めた。

美緒: 「一条氏が転落したのは、彼が経営する『フロンティアリンクス』のオフィスが入る高層ビルの最上階です。警察は事故か自殺と発表していますが、私は現場を見て、どうにも違和感を覚えました。特に、事件直前に一条氏と社内で最後に接触したとされる人物が、彼のビジネスパートナーである神崎翠(かんざき みどり)氏だということです。」

美緒は立て続けに情報を送り始めた。スマホで撮影した複数の写真と短い動画。それは、一条が転落した窓の周辺、散乱した遺留品、そしてビルの外観を映したものだった。

美緒: 「現場の窓は、普段は施錠されていて、特殊な鍵でしか開かないそうです。一条氏が高所恐怖症だったことは有名で、彼が自ら窓に近づくとは考えにくい。それに、この動画を見てください。転落直前のビルの外壁を映したものですが、一瞬、何か影のようなものが映り込んでいるように見えませんか?」

拓哉は、美緒が送ってきた生のデータを取り込んだ。彼の目はPC画面に釘付けになった。美緒が指摘した動画の、ごく短い、一瞬の「影」。彼の脳は、瞬時にその部分に集中した。

拓哉: 「なるほど、これでは警察も自殺と判断するだろうな。だが、美緒さん、この動画の、一条氏が転落した瞬間のフレームを、さらに拡大して送ってほしい。特に、彼が窓から落ちる直前の、ビルの外壁のこの部分だ。わずかな『揺らぎ』があるように見える」

拓哉は、画面に映る特定の箇所を指し示し、指示を送った。美緒はすぐに「了解」と返信し、その場で動画を拡大し、高解像度化した画像を送信してきた。

そこに映し出されたのは、一条が落下する直前、彼の腕を掴もうとしていたらしき、別の「手」の影だった。それは、ビルの外壁に設置された小さな突起物にも見えたが、その形状は明らかに人間の手、それも、細く、しなやかな女性の手に近い形に見えた。

拓哉: 「やはり、他殺か」

拓哉の唇の端が、わずかに吊り上がった。彼は次に、神崎翠に関するテキストデータと音声ファイルを展開する。美緒からの情報に加え、インターネットで公開されている彼女の経歴、過去のインタビュー記事、SNSでの発言、さらには一条蓮との共同プロジェクトに関するプレスリリースなど、あらゆる情報を検索し、データベースに組み込んでいく。

拓哉: 「美緒さん。神崎翠という人物について、もう少し掘り下げてほしい。一条の右腕と呼ばれた人物だが、なぜ、彼女が事件直前に一条と接触していたのか?彼女の社内での評判、特に一条との関係性について、何か具体的なエピソードは?」

美緒: 「分かりました。社内の評判ですが、翠さんは一条さんの『分身』と呼ばれていました。常に一条さんの隣にいて、彼のアイデアを完璧に形にする人だと。でも、一部の元社員からは、一条さんが翠さんのアイデアを横取りしたり、彼女の功績を自分のものにすることが多かった、とも聞いています。彼女はいつも一条さんの陰に隠れているような印象だった、と」

拓哉: 「なるほど。『分身』でありながら、『陰に隠れる』か。矛盾しているように聞こえるが、それが彼女と一条の関係性を象徴しているのかもしれない。次に、美緒さんが送ってくれた神崎翠さんの音声データ、これに含まれる微細なノイズを抽出した。AI音声分析にかけてみたんだが、窓が開く時の軋む音と、ある種のワイヤーが**『引き絞られるような、微かな摩擦音』**に酷似している部分がある」

拓哉は、問題の音声部分を美緒に再生して聞かせた。

拓哉: 「この摩擦音について、何か心当たりはありませんか?フロンティアリンクスのビルで、ワイヤーを使うような設備は?」

アベイラブルルームの静寂の中で、キーボードを叩く音だけが響く。拓哉は、自分が「報告書」を作成しているかのように見せかけながら、目の前の「箱庭」で、一条蓮の死という巨大なパズルを解き明かし始めていた。彼の「人間関係のなぜ?」が、神崎翠という人物の言動と、一条蓮という支配者の間の複雑な力関係を、論理的なパズルとして解読しようと突き動かしていた。彼は、データの中に隠された「言葉の違和感」や「行動の矛盾」を見つけ出すことに、彼の全てを集中させた。

パズルのピースが揃う時

アベイラブルルームの静寂の中、拓哉は美緒からの返信を待っていた。彼の脳内では、すでに得られた情報が高速で処理され、複数の仮説が生成と破棄を繰り返していた。美緒からの次のメッセージは、彼の思考を決定的な方向へと導くものだった。

美緒: 「拓哉さん、ワイヤーを使う設備についてですが、やはりあのビルには特殊なメンテナンスゴンドラがあります。ビル全体がガラス張りなので、定期的な清掃に欠かせないそうです。そして、一条蓮氏がそのゴンドラのシステムに妙な執着を見せていたという情報、複数の元社員から得られました。彼は『自分の安全装置』と呼んでいたそうです」

拓哉の瞳に、鋭い光が宿った。 「そうか……『安全装置』。それが彼の盲点だった」

拓哉: 「美緒さん、続けてもう一つ、非常に重要な情報を確認してほしい。フロンティアリンクスが最近、大手IT企業への買収交渉を進めていたという話は聞きましたか?もし事実なら、その契約に、神崎翠氏に関する何か特殊な条件があったかどうか、調べてみてほしい」

美緒からの「分かりました。至急調べてみます」という返信の直後、拓哉は神崎翠の過去のSNS投稿やインタビュー記事をさらに深く掘り下げた。一条との共同プロジェクト「サイレンス」の発表動画を繰り返し再生する。華やかに成果を語る一条の隣で、翠は控えめに微笑んでいるが、その目はどこか遠くを見つめ、指先はわずかに震えているようだった。

数時間後、美緒からのメッセージが届いた。

美緒: 「拓哉さん!衝撃的な情報です。フロンティアリンクスは近いうちに大手IT企業『サイバーアーク』に買収される予定でした。契約は間近だったと。そして、その買収契約には、ある重要な条件があったそうです。現経営陣、特に中心人物である神崎翠氏が、買収後も残留し、新事業の中核を担うという条項が盛り込まれていた、と」

その情報に、拓哉の思考が一気に繋がった。画面の向こうで美緒が息を呑むのが、拓哉には文字を通して伝わってくるようだった。

拓哉: 「……そういうことか。神崎翠が一条蓮を殺した動機は、これで完璧に説明できる」

美緒: 「え……?どういうことです?買収で彼女のキャリアが保証されるなら、殺す理由がないように思えますが……」

拓哉: 「いいえ、逆です。一条は、自身の利益のために翠を利用しようとした。彼女の才能を最後の最後まで吸い尽くし、自分は巨額の富を得て『自由』になる。しかし、翠は買収後の新体制でも、再び一条の意向に縛られる可能性があった。彼女にとって、それは永遠に続く精神的な『追い出し部屋』を意味したんです」

拓哉: 「彼女は、買収そのものを阻止するために殺したのではない。彼女は、一条がいなくなることで、ようやく手に入るはずだった『真の自由』を、最後の最後に奪われそうになったから、殺したんだ。これは、単なる復讐ではありません。追い詰められた人間が、最後の最後に自らの『自由』を守るために下した、絶望的な、そして悲劇的な選択だ」

アベイラブルルームの青白い光が、拓哉の顔を照らす。彼は、自分自身の「人間関係のなぜ?」に、一つの答えを見出したような気がした。人間関係の不器用さが、感情に囚われず、論理的に、そして時に本能的に、他者の苦しみと「自由への渇望」を理解することを可能にしたのだ。

拓哉: 「そして、トリックも分かった。一条が高所恐怖症であるにもかかわらず、なぜ窓から転落したのか。彼が絶対的に信頼していた『安全装置』。それが、彼の命を奪う凶器となった」

美緒: 「まさか……ゴンドラが?」

拓哉: 「その通りです。美緒さんが送ってくれた、あの音声データにあった『ワイヤーが引き絞られるような摩擦音』。あれはゴンドラのワイヤーが動く音と、それに連動して使われた、別の極細ワイヤーが滑る音だった」

拓哉: 「神崎翠は、一条蓮の『フロンティアリンクス』ビル管理システムへの絶対的な信頼を利用した。彼女は、一条が唯一信頼していたはずの、自身が開発に関わったビル外壁のメンテナンスゴンドラのリモート操作システムに、事前に細工を施していた」

拓哉: 「事件直前、一条は『買収後の新事業』について翠と議論していたはずです。その中で、一条は翠を精神的に追い詰め、買収後も『自分の意思に従う』ことを強要しようとした。そのタイミングで、翠は一条を高層階の窓際へと誘導する。おそらく、『新しいゴンドラのシステムについて確認してほしい』などの名目を使ったのでしょう。一条が高所恐怖症のため窓に近づくことを躊躇しても、自身の開発した『安全装置』の確認なら、近づく理由になる」

拓哉: 「そして、一条が窓に近づき、ゴンドラシステムを確認しようとしたその瞬間、翠は遠隔でゴンドラを急降下させるプログラムを起動した。ゴンドラの急降下によって生じる急激な風圧と、視覚的な恐怖が、高所恐怖症の一条のパニックを誘発した。彼はバランスを崩し、その瞬間に、事前に窓枠に隠された極細のワイヤーが、美緒さんが捉えた『手』の影のように、一条の服のどこかに引っ掛けられ、外へと引きずり込んだ

美緒: 「ワイヤーが……!そして、転落と同時に回収されたと?」

拓哉: 「その可能性が高い。だから、警察は見落とした。転落軌道が『助走がつけられたような放物線』を描いたのは、ゴンドラの急降下による風圧と、ワイヤーによる引きずり込みが複合的に作用した結果だったのでしょう」

美緒は息を呑んだ。「そんな……!全てが繋がりました……!警察は、一条氏が自ら飛び降りたとしか考えていませんでした。彼の高所恐怖症は知っていても、まさかそれを逆手に取ったトリックだとは……」

拓哉: 「ええ。だからこそ、翠は、一条が最も警戒心を解く『自分の安全』という概念を利用した。それが、警察が気付けなかった最大の盲点だった。美緒さん、あとはこのトリックを裏付ける最後の証拠が必要です」

拓哉の指示は明確だった。

自由を掴む転落

拓哉の指示は明確だった。

拓哉: 「美緒さん。私が説明したトリックを裏付ける最後のピースを探してほしい。まず、事件現場の窓枠周辺を徹底的に調べてください。特に、肉眼では見えないような、ごく微細な擦過痕(さっかこん)や、繊維片が残されていないか。もしワイヤーが使われたなら、必ず何か痕跡が残っているはずだ。それから、フロンティアリンクスのビル管理システムにアクセスして、事件発生時刻前後のメンテナンスゴンドラの詳細な操作ログを、もし入手可能なら手に入れてほしい。一条氏が『安全装置』と呼んでいたなら、そのログには何か異常が記録されている可能性がある」

美緒からの返信は、迅速だった。彼女は現場周辺のビルを回り、警備員の目を掻い潜りながら、目立たないようにスマホのカメラで高解像度写真を撮影していく。そして、フロンティアリンクスのビルで清掃業務を請け負う下請け業者に接触し、ゴンドラに関する内部情報を探った。ジャーナリストとしての美緒の経験と行動力が、拓哉の指示を現実の証拠へと変えていく。

数時間後、美緒から興奮した様子のメッセージが届いた。

美緒: 「拓哉さん!やりました!現場の窓枠の、本当に目立たない場所に、ごく細い線状の擦過痕を見つけました!これは肉眼ではまず気づきません。そして、ゴンドラの整備担当者から、内部の資料をなんとか入手できました。事件時刻にゴンドラが異常な速度で急降下を始めた記録が残っています。さらに、その直後に一瞬だけ、通常ではありえない負荷がワイヤーにかかったようなログも!これは……!」

拓哉: 「その通りです、美緒さん。ワイヤーが一条の体を捉え、引きずり込んだ瞬間の負荷だ。そして、おそらくそのワイヤーは、非常に強度が高く、それでいて細く、目立たない素材でできていた。それに、一条の衣服にも、そのワイヤーの素材による微細な繊維片が付着している可能性が高い。警察がそこまで調べれば、必ず見つけることができる」

拓哉の脳裏に、事件の完全な構図が浮かび上がった。神崎翠は、一条が最も信頼し、自らの安全を守るものと信じていたシステムを、逆手に取ったのだ。それは、一条の支配欲と高所恐怖症という二つの弱点を巧みに突いた、周到な殺人計画だった。

拓哉: 「美緒さん、これで全てのパズルが揃いました。私が作成した解析ファイルを送ります。ここには、これまで私が分析した全てのデータ、監視カメラ映像の解析結果、音声データの周波数分析、物理演算による落下軌道シミュレーション、ビル管理システムの詳細、そしてそれらを繋ぎ合わせた論理的な**『根拠の樹形図』**がまとめられています。これを警察に提出してください。あなたのジャーナリストとしての使命感と、私の『問題解決の回路』が導き出した真実が、一条蓮事件の闇を暴くはずです」

添付ファイルは、拓哉がアベイラブルルームで何日もかけて構築した、緻密な論理の結晶だった。彼のデスクの上には、まるで事件現場の証拠品のように、膨大なデータがデジタル表示されていた。

美緒: 「拓哉さん、本当にありがとうございました!あなたの洞察力と分析力がなければ、この事件は永遠に闇に葬られるところでした。感謝してもしきれません。必ず、この真実を明るみにします!」

美緒のメッセージからは、彼女の強い決意と、拓哉への揺るぎない信頼が伝わってきた。

数日後、ニュース速報が流れた。

『速報:IT企業CEO一条蓮転落死事件、殺人事件として捜査再開。警察は自殺の可能性を否定し、一条氏のビジネスパートナーである神崎翠を逮捕。』

警察は、精密な現場検証の結果、一条の衣服から極めて微細な合成繊維片と、ビルの窓枠にごく僅かな擦過痕を発見したと発表。さらに、フロンティアリンクスのビル管理システムを解析したところ、事件発生時刻にメンテナンスゴンドラが不自然な動作をしていた記録があり、遠隔操作による操作ログの異常を確認したという。美緒が提供した拓哉の解析ファイルが、捜査の突破口となったことは明らかだった。

アベイラブルルームの片隅で、拓哉は静かにそのニュースを見ていた。彼の推理が、現実を動かした。彼が「箱庭」の中で紡いだ物語が、現実の事件の真実を暴いたのだ。彼の心の中に、これまで感じたことのない、温かい感情が広がった。それは、達成感か、あるいは「誰かの役に立てた」という、ささやかな喜びだったのかもしれない。

その日の夕方、美緒からのメッセージが届いた。

美緒: 「拓哉さん、本当にありがとうございました。あなたの『回路』は、人間には見えない真実を照らす光です。もしよろしければ、一度、お会いできませんか?」

拓哉は、美緒のメッセージに返信しなかった。対面での人間関係は、やはり彼にとって大きな壁だった。幼少期の病による隔離が彼にもたらした「人間関係のなぜ?」は、まだ完全に消え去ったわけではない。しかし、彼の心は以前とは違っていた。美緒との「非対面」での連携を通じて、彼は新しい形の「繋がり」を見出したのだ。それは、言葉の裏の感情を読み取る必要のない、純粋な論理と信頼に基づく関係性だった。彼にとって、これは初めての「成功した人間関係構築の経験」だった。

数週間後、拓哉は「アベイラブルルーム」を去った。会社からの屈辱的な「追い出し」ではなかった。彼は、自ら退職を選んだのだ。彼の心には、もはや「恥ずかしくて、消え入りたいような感情」はなかった。

自宅に戻った拓哉は、オンライン小説の最終章を執筆した。タイトルは『アベイラブルルームの探偵』。物語の中で、主人公は閉鎖された空間から真実を解き明かし、そして、自分自身の「人間関係のなぜ?」に一つの答えを見つける。それは、感情を読み取ることが苦手な彼だからこそ、論理と事実の矛盾に気づき、他者の「自由への渇望」を理解できたという、皮肉な、しかし確かな真実だった。

小説の最終ページには、彼自身の言葉が綴られていた。

「私は、アベイラブルルームという『箱庭』の中で、真の『自由』を見出した。それは、他者との『繋がり』の中にこそ存在する、見えない、しかし確かな自由だった。そして、私は今、自分が生きていることと近しいような感覚を、確かに感じている」

彼の小説は、瞬く間に読者の間で話題となり、多くの共感を呼んだ。顔の見えない読者からのコメントが、彼の心を温める。彼は、もう「何者かになりたい」という焦燥感に駆られることはなかった。彼は、この「箱庭」で得た経験と、研ぎ澄まされた「問題解決の回路」を携え、これからの人生でさらに多くの「物語」を紡いでいくことを示唆してシリーズは幕を閉じる。

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