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『いざさらば』

彼は、日本人以上に日本を愛し、日本人以上に絶望した。

その「違和感」は、呪いか、才能か。 近代化の光が落とす影の中で、一人の異邦人が挑んだ、魂の闘いの記録。

あらすじ

明治という時代の熱に浮かされる、帝都・東京。 西洋の知識と技術を渇望する最高学府、帝国大学に、その男はいた。名を、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)。日本人以上に日本の「心」を愛し、近代化の中で失われゆく怪談や伝承にこそ真実が宿ると説く、異邦人の教授である。

彼の「魂の講義」は学生たちを熱狂させたが、それは「富国強兵」を急ぐ国家の方針とは相容れない危険な思想でもあった。「情緒は、国家の発展を阻害する」――。ドイツ仕込みの合理主義を掲げる若きエリート教授・上野の台頭により、八雲は次第に「異物」として組織から追い詰められていく。

彼が守ろうとしたものは、時代遅れの感傷だったのか。それとも、この国が未来永劫、失ってはいけない魂の根源だったのか。 近代日本の「正しさ」とは何か。一人の異邦人の孤独な闘いを通して、現代にも通じる「組織と個人」の葛藤を描く、ヒューマンミステリー。

登場人物紹介

  • 小泉 八雲(こいずみ やくも) 本作の主人公。帝国大学の英文学教授。西洋の合理性と、日本の精神世界の両方を深く理解するがゆえに、そのどちらにも完全には属せない「永遠の異邦人」。その鋭敏すぎる感性で物事の本質を見抜くが、それがゆえに社会との摩擦に苦しみ続ける。
  • 小泉 セツ(こいずみ せつ) 八雲の妻。没落士族の娘。日本の古い物語や伝統をその身に宿す、しなやかで強靭な女性。八雲にとって、創作の「源泉」であり、彼が唯一心を許せる「聖域」でもある。
  • 上野 亮介(うえの りょうすけ) 八雲の同僚となる、若きエリート哲学者。国家の発展のためには、非合理な情緒は徹底的に排除すべきだと信じている。八雲の文学を「美しい毒」と断じ、彼と対立する、本作におけるもう一人の主人公。
  • 梶原 冬馬(かじわら とうま) 八雲を敬愛する帝国大学の学生。八雲の語る「心」の世界に魅了されながらも、官僚として立身出世するためには、上野の説く「理性」を学ばねばならないという現実に引き裂かれる。時代の矛盾をその一身に体現する存在。

第一話:神々の国の教授

明治三十五年、秋。 帝都・東京、本郷。赤門をくぐった先にある帝国大学の空気は、すでに冬の匂いを纏い始めていた。夕暮れの光が法文科大学校舎の窓を黄金色に染め、講義室の窓枠が、まるで一枚の額縁のように、空に散る銀杏の葉を切り取っている。

第五講義室の空気は、張り詰めていた。百名ほどの学生たちが、壇上の一人の男の言葉に、息を殺して耳を傾けている。古びた木とチョークの粉の匂い、そして学生たちの熱気が、灯り始めたガス灯の光の中で混じり合っていた。

壇上の男――小泉八雲は、詩集を顔に寄せるようにして、その隻眼で文字を追っている。彼の英語は、アイルランド訛りの、歌うような節回しを持っていた。決して流暢ではない。しかし、その一語一語には、聞く者の魂を直接揺さぶる、不思議な力が宿っていた。

「……Listen. “Her lips were sweet as honey close plucked from the hive”…彼女の唇は、巣から蜜を採るように、甘かった。クリスティーナ・ロセッティはそう書きました。なんと美しい表現でしょう。しかし、これは単なる恋の詩ではない。これは、魂の取引の詩なのです」

学生の一人、梶原冬馬は、八雲の言葉を一字一句聞き漏らすまいと、必死にペンを走らせていた。彼が書き留めているのは、単なる翻訳ではない。言葉の裏に潜む、八雲自身の「心」の動きだった。

「詩人は続けます。ゴブリンの果実は、一度口にすれば、二度と他の果物を味わえなくしてしまう、と。これは、西洋だけの話ではない」

八雲は、そこでふっと顔を上げた。彼の視線は、遠い故郷を懐かしむように、窓の外の黄昏に向けられている。

「私の妻が、故郷の出雲で聞いた話を思い出します。夜道で美しい女が旅人に声をかけ、決して開けてはならぬ、と言うて、一つの箱を渡す。もし開ければ、その者は瞬く間に老人になってしまう……。さて、諸君」

八雲は、学生たちを見渡す。

「ゴブリンの果実と、玉手箱。誘惑に負け、禁忌を破れば、二度と元には戻れない。形は違えど、そこに流れる人間の心の真実は、全く同じだとは思いませんか」

講義室に、ほう、と感嘆のため息が漏れた。西洋の詩と、日本の古い伝承が、八雲の口を通して、一つの物語として結びつけられた瞬間だった。冬馬は、ペンを握りしめたまま、感動に打ち震えていた。この講義は、知識ではない。体験だ。八雲という人間を通して、自分たちは、世界の魂の深淵を覗き込んでいるのだ。

しかし、その熱狂の中で、講義室の後方、影の中に、冷徹な理性の島が一つ、浮かんでいた。 留学から帰国したばかりの若き哲学者、上野亮介。彼は、学生たちのように恍惚とした表情を浮かべることなく、ただ淡々と、手元のノートにペンを走らせている。その眼鏡の奥の瞳は、八雲の言葉の「情緒」ではなく、その「構造」を分析しているようだった。

やがて、講義の終わりを告げる鐘が鳴る。 学生たちの熱のこもった拍手の中、八雲は静かに一礼した。冬馬は、この感動を、そして浮かんだ疑問を、直接師にぶつけたいと、壇上へと向かおうとした。

その時だった。 彼の前に、すっと影が差した。上野だった。彼は、冬馬の脇を通り過ぎざま、壇上の八雲を一瞥し、そして、冬馬にだけ聞こえるような、静かな声で言った。

「感動かね、梶原君」 「は、はい、上野先生。先生も…」 「ああ」と上野は頷いた。しかし、その目に感動の色はなかった。

「八雲先生の講義は、実に美しい物語だ。一つの芸術と言ってもいい」

そこで、彼は言葉を切り、冬馬の目を真っ直ぐに見据えた。

「だがね、梶原君。物語で、国は戦えないのだよ」

上野はそれだけ言うと、会釈もせず、冬-馬の横を通り過ぎて、夕闇に沈む廊下へと消えていった。 残された冬馬は、その言葉の意味を測りかねて、ただ呆然と立ち尽くす。壇上では、八雲が静かに書物を鞄に収めている。その穏やかな横顔と、先ほどの上野の冷徹な言葉との間に、冬馬は、これから始まる、何か巨大で、抗いがたい対立の、最初の予震を感じていた。

第二話:影の輪郭

帝国大学法文科大学の教授会室は、沈黙が支配する場所だった。高い天井、重厚なマホガニーの長机、壁に並ぶ歴代学部長の肖像画。窓から差し込む陽光がなければ、まるで棺の中のようだと、小泉八雲は時折思う。

議題は、上野亮介が提出した「英文学教育課程の近代化に関する建議書」へと移っていた。

上野は、落ち着き払った様子で立ち上がった。その身のこなしには、澱みも、ためらいもない。 「諸先生方。まず、明確にしておきたいのは、私は八雲先生のこれまでのご功績と、その芸術的な講義を、心から尊敬する者であるということです」

丁寧な前置きだった。しかし、その言葉が、これから振り下ろされる刃の、儀礼的な鞘払いに過ぎないことを、八雲は知っていた。

「しかしながら」と上野は続けた。「我らが帝国大学の使命は、単なる文学鑑賞家の育成ではありません。欧米列強と肩を並べ、国家を導く人材を鍛え上げる、知の鍛錬所であります。そのためには、情緒的な解釈に頼る旧来の文学教育から脱却し、ドイツの大学に範をとった、厳密で科学的な『比較文献学』をカリキュラムの根幹に据えるべきだと、私は考えます」

建議書が、教授たちに配られる。そこには、文法の構造分析、語源の系統的分類、歴史的背景の徹底的な考証といった、冷徹なまでに客観的な教育プログラムが、緻密に記されていた。古い教授たちは困惑したように眉をひそめ、若手の何人かは、上野の近代的な思想に感銘を受けたように、強く頷いている。

八雲は、静かに口を開いた。 「上野先生。あなたの言う『科学』とは、蝶をピンで留め、その翅の構造を調べることのように聞こえます。それは、蝶の構造についての知識は与えるでしょう。しかし、その蝶が、かつて野を舞っていた時の生命の輝きを、学生たちに教えることはできますかな」

「生命の輝き、ですか」上野は、かすかに笑った。「それは、詩人が語るべき言葉です。教育者が語るべきは、客観的な事実と、論理です。我々は、学生たちに感傷ではなく、世界と戦うための武器を与えねばならない」

議論は、平行線を辿った。しかし、学部長が「建議については、追って検討委員会を設置する」と宣言した時、勝敗は、すでに見えていた。八雲の文学は、組織の論理という俎上に、正式に乗せられたのだ。

重苦しい会議室を出た八雲の脳裏に、全く別の光景が、陽炎のように立ち上った。

あれは、明治二十三年。 彼が、神々の国――出雲の松江に、初めて降り立った日だった。 東京の喧騒とは違う、宍道湖から吹く、湿り気を帯びた風。黒い瓦屋根が連なる城下町の、静かなたたずまい。彼は、まるで物語の中の世界に迷い込んだような、不思議な安らぎを感じていた。

そして、その場所で、彼はセツと出会った。 士族の娘としての誇りを静かに湛えた、その佇まい。多くの言葉を交わさずとも、彼女が、自分がずっと探し求めていた、古き良き日本の「心」そのものを宿していることを、八雲は直感的に理解した。この国で生きていくのではない。この女性と共に、この国で生きていきたいのだと、そう思った。

……記憶の扉が、ゆっくりと閉じる。 八雲は、本郷の自宅の書斎で、我に返った。窓の外では、近代化の喧騒が渦巻いている。松江のあの静けさは、もはや遠い夢のようだ。

そっと、障子が開く。妻のセツが、無言で、文机の横に筆と硯を整えていた。彼女は、教授会での出来事を何も聞かない。しかし、その佇まいは、夫の心の嵐を、全て理解しているようだった。

八雲は、大学から届いた、検討委員会の設置を告げる、冷たいインクで書かれた公式通知に目を落とす。そして、静かに筆と硯を整える、妻の横顔を見る。

守るべき「聖域」と、それを侵食しようとする「影」。 戦いの輪郭は、今や、あまりにも鮮明になっていた。

第三話:国体という怪物

梶原冬馬は、上野亮介の講義室の空気に、一種の畏怖を感じていた。 八雲の講義室が、古い書斎のように、思索の匂いで満たされているとすれば、上野のそれは、外科手術室のように、冷徹な知性で満ち満ちていた。学生たちの目も違う。彼らは、八雲の講義の時のように夢見るような表情ではなく、獲物を狙う鷹のように、鋭く、野心的だった。

「――諸君、国体とは何か」

壇上の上野の声は、迷いも揺らぎもない、金属質な響きを持っていた。

「国体とは、我らが国家という、一つの生命体の謂である。我々個人は、その生命体を構成する細胞に過ぎない。細胞の一つ一つが、好き勝手な感情や都合で動けば、生命体はやがて病に冒され、死に至る。国家の発展のため、時に一部の細胞が犠牲となるのは、悲劇ではない。生物学的な必然である」

その論理は、完璧だった。冬馬は、背筋が粟立つのを感じた。これが、近代国家の指導者となるための思考法なのか。八雲の説く、一人一人の「心」の尊さ。それは、この強大な論理の前では、なんと無力で、感傷的に響くことか。冬馬は、上野の言葉を必死にノートに書き留めながら、八雲への微かな背徳感と、抗いがたい魅力を同時に感じていた。

その夜。 西大久保の自宅で、八雲は書斎を苛立たしげに歩き回っていた。

「彼は、悪人ではないのだよ、セツ。彼の言葉は、寸分の隙もなく正しい。しかし、それは命の通わぬ、死んだ正しさだ。美しい歯車だけで作られた、魂の宿らぬ機械なのだ」

妻のセツは、夫の言葉を静かに聞きながら、繕い物を続けていた。やがて、彼女はふと顔を上げ、言った。

「あなた様。祖母から聞いた、古いお話を思い出しました」

セツの声は、書斎の張り詰めた空気を、ふわりと和らげる。

「夜道を歩いていると、向こうから、美しい女が泣きながらやってくる。心配して『どうなさいました』と顔を覗き込むと、その女はすっと顔を上げる。しかし、その顔には、目も、鼻も、口も、何一つない。ただ、つるりとした卵のようであったそうです……」

のっぺらぼう。 その言葉を聞いた瞬間、八雲は、ぴたりと足を止めた。彼の隻眼が、驚きに見開かれる。

「……のっぺらぼう」

彼は、呟いた。 「そうか。まさしく、それだ。彼が何者なのか、ようやく分かった」

八雲は、セツの方に向き直った。その顔には、安堵と、そして新たな恐怖が入り混じっていた。 「あの男は、日本人でも、西洋人でもない。彼は、近代国家という、新しい神に仕える、顔のない神官なのだ。彼の正しさは、彼自身の顔ではない。鏡のように、国家の野心を、ただ反射しているに過ぎないのだ……」

その頃、冬馬は、上野の講義の興奮も冷めやらぬまま、大学の廊下を歩いていた。前方で、上野が数人の官僚らしき男たちと、にこやかに、しかし自信に満ちた様子で語らっている。その姿は、冬馬の目に、未来の日本の指導者の姿そのものとして映った。

八雲先生の「心」の世界は、美しい。しかし、この国で生きていくためには、上野先生の「力」が必要だ。 冬馬は、無意識のうちに、その輪へと一歩、足を踏み出していた。八雲の教えから、また一歩、遠ざかるように。

彼の心に生まれた小さな亀裂は、もはや誰にも止められないほど、静かに、そして深く広がろうとしていた。

第四話:魂を忘れる歌

夜が更け、西大久保の家が静寂に包まれる頃、八雲の闘いは始まる。書斎の孤独の中で、彼は上野亮介という男の姿をした「正しさ」と、そして自分自身の内なる「異邦人」と対峙していた。

その夜も、彼はペンを持てずにいた。頭の中を、上野の冷徹な言葉と、梶原冬馬の揺れる瞳が、亡霊のように行き交う。

その時だった。 遠くから、風に乗って、学生たちの歌声が聞こえてきた。学生寮の懇親会だろうか。若々しい、しかしどこか物悲しい旋律。

――蛍の光、窓の雪……

八雲は、その旋律を知っていた。それは、彼の生まれ育った西洋で、友との旧交を温める、素朴で心安い歌、『Auld Lang Syne』。しかし、ここで歌われる言葉は違う。『書読む月日、重ねつつ』『ひとつに尽くせ、国のため』。

彼は、その歌の中に、この国の新しい支配者の顔を見た。 友情という、人間にとって最も純粋な感情ですら、「勉学」と「国家への奉仕」という目的のためにすり替えてしまう、巧みな仕掛け。個人の心を、国家という大きな歯車に従属させるための、美しい催眠術。 八雲は、耳を塞ぎたくなった。それは、あののっぺららぼうが、懐かしい故郷の歌を口ずさんでいるような、冒涜的な心地の悪さだった。

歌声は、彼の心の奥底に眠る、古い記憶の扉をこじ開けた。 それは、日本の穏やかな風景ではない。両親に捨てられ、アイルランドの寒々とした叔母の家で過ごした孤独な幼少期。アメリカへ渡り、貧困と差別に喘いだ新聞記者時代。彼は、ずっと世界の「異邦人」だった。彼が日本に、そしてセツに見出したのは、その冷え切った魂を温めてくれる、初めての「故郷」だったはずなのだ。

その故郷が、今また、自分を拒絶しようとしている。

「違う…!」

八雲は、衝動的に机に向かった。このまま、沈黙していてはならない。言葉で戦わねばならない。彼は、硯に水を差し、墨を磨る。その目は、獲物を追う鷹のように鋭かった。

彼は書いた。一晩中、憑かれたように書き続けた。 それは、上野への反論文などではなかった。この国の未来を担う若者たちと、その教育者たちに向けた、魂の叫びだった。

『……国家の強さとは、軍艦の数や、工場の煙突の数だけで測られるものではない。道端の草花に美しさを見出し、見知らぬ他者を思いやり、そして、目には見えぬものへの畏怖を知る、その「心」の深さこそが、真の国力ではないのか。文学とは、その心を育む、最後の砦なのだ……』

翌日、八雲は、完成したばかりの数枚の原稿を携え、学部長の元を訪れた。検討委員会で、自分の真意を伝えるための資料として読んでほしい、と。学部長は、当たり障りのない言葉でそれを受け取った。

数日後。 彼の元に、大学からの封書が届いた。学部長からの返事かと、期待を込めて封を切る。 しかし、中に入っていたのは、学部長秘書からの、一枚の事務的な書状だった。

『拝啓、小泉先生。 先日のご提出物、拝見いたしました。 なお、カリキュラム検討委員会への公式な意見書は、添付の書式要領に則り、来る三十日までに、所定の様式にてご提出くださいますよう、お願い申し上げます。 敬具』

八雲は、その紙片を手に、立ち尽くした。 魂の叫びは、読まれさえしなかった。彼の言葉は、内容ではなく、「書式」という名の、分厚く、冷たい壁に、ただ跳ね返されたのだ。

彼は、自分が戦っている相手の正体を、この時、はっきりと理解した。 それは、議論や対話が通じる人間ではない。ただ、決められた規則を、感情なく遂行するだけの、巨大で、顔のない「システム」そのものだった。

第五話:聖域の守り人

カリキュラム検討委員会の開催を数日後に控えた、ある日の午後だった。 西大久保の家の玄関を、大学事務局の男が、何の予告もなく訪れた。学部長の代理として、八雲の思想について「非公式な聞き取り」をしたい、という名目だった。

応接間に通された男――田中と名乗った――は、怜悧な目をしていた。上野とは違う、自らの頭で思想を組み立てる力はないが、組織の「正しさ」を遂行することに一切の疑いを持たない、官僚特有の冷たさがあった。

「先生。大学としましても、あなたのこれまでの功績には敬意を表しております。しかし、あなたの講義が、学生たちに非科学的な迷信や、国家の発展に寄与しない感傷を植え付けている、という懸念の声があるのも事実です」

田中は、抑揚のない声で、詰問を始めた。その言葉の端々には、八雲の文学そのものへの、隠すことのない侮蔑が滲んでいた。

「……文学とは、」八雲は、怒りを抑え、冷静に答えようとした。「目に見えぬものへの想像力を育むものです。その想像力こそが、他者の痛みを理解する、真の知性の根源となる…」

「その『想像力』とやらは、軍艦を建造したり、工場を建てたりするのに、何の役に立つので?」

その、あまりに無神経な問いに、八雲の中で、何かが激しく燃え上がった。彼の顔は紅潮し、拳が、膝の上で硬く握りしめられる。この男に、何を語っても無駄だ。この男は、魂というものを、生涯理解することはないだろう。八雲が、怒りの言葉を叫ぼうと、口を開きかけた、その時だった。

す、と、静かに障子が開いた。 妻のセツが、盆に冷たい麦茶を乗せて、入ってきたのだ。その一連の動きは、水が流れるように自然で、部屋の張り詰めていた空気を、不思議なほどに和らげた。

「あなた様。お客様も、お喉が渇いていらっしゃいましょう」

セツは、二人の前にお茶を置くと、そのまま下がろうとはせず、八雲の隣に、静かに正座した。 そして、田中の方を見て、穏やかに微笑んだ。

「まあ、あなた様。難しいお話ばかりでは、お客様もお疲れになりましょう。私の故郷の、出雲の国に伝わる、面白いお話でも、いかがでございますか」

田中は、その唐突な申し出に、戸惑いの表情を浮かべる。

「昔、都から来た、たいそう頭の切れるお役人様がおりました。そのお方は、出雲の古い言い伝えを『非合理的だ』と笑い、村人が大切にしている森の社の狐を、追い出してしまわれたそうでございます」

セツの声は、静かだが、不思議な力を持っていた。田中も、八雲も、いつの間にか、その物語に引き込まれていた。

「その後、そのお役人様は、帰り道で立派な屋敷を見つけ、豪華なもてなしを受けました。しかし、翌朝、目を覚ますと、そこは屋敷などではなく、泥沼の中で、お役人様は、体中に木の葉をくっつけて、ただ一人、寝ていたそうでございます」

セツは、そこで、ふふ、と小さく笑った。

「出雲の国では、道理の通らぬおこないをするお方は、悪い狐に化かされる、と申しますので」

田中は、言葉を失った。 その顔は、みるみるうちに赤くなっていった。自分を「道理の通らぬ愚かな役人」だと、この女は、静かな笑みの裏で、痛烈に揶揄しているのだ。しかし、それは、あまりに非論理的な「物語」による攻撃で、彼には、反論のしようがなかった。

「……失礼する!大学には、君の今の言葉も、報告させてもらう!」

田中は、捨て台詞を残して、逃げるように去っていった。

嵐が去った後の静寂の中、八雲は、隣に座る妻の顔を、改めて見つめた。 その顔は、いつものように穏やかだった。しかし、八雲には、彼女が、自分とは全く違う方法で、しかし、同じ魂をもって、共に戦ってくれたのだということが、痛いほどに分かった。 彼女は、ただ守られるだけの「聖域」ではない。古き日本の知恵と物語を武器に、共に戦う「同志」だったのだ。

八雲は、そっと、セツの手に、自らの手を重ねた。 数日後に迫った教授会という戦場に、もはや、一人で赴くような孤独感はなかった。

第六話:鉄の裁定、墨の決議

審議の結果は、秋の冷たい雨と共に、ある日、唐突にやってきた。 それは、議論の余地を一切与えない、紙の上の最終宣告だった。

西大久保の自宅書斎で、八雲は大学総長の名で書かれたその書状を読んでいた。妻のセツが、心配そうにその背中を見守っている。 そこには、彼の功績を称える美辞麗句が、時候の挨拶のように丁寧に綴られていた。しかし、その丁寧さとは裏腹に、核心部分は、まるで他人事のように、冷たい官僚的な言葉で記されていた。

『……つきましては、来年度の予算再編、並びに、国家の品格を陶冶する教育方針の改定に伴い、遺憾ながら、貴殿との契約を更新しないことを決定いたしました……』

八雲は、読み終えた書状を、静かに机の上に置いた。 怒りも、驚きもない。ただ、予期していたものが、ついに来た、という、深い疲労感だけが、彼の全身を支配していた。

「……彼らは、とうとう幽霊を殺したよ、セツ」

八雲は、窓の外の雨を見ながら、呟いた。 「これで、この国は、合理的で、強い国になるのだろう」 その声に、皮肉の色はなかった。ただ、どうしようもなく、悲しかった。

その知らせが、本郷のキャンパスを駆け巡るのに、半日とかからなかった。 「八雲先生が、辞めさせられるらしい」 噂は、はじめは囁き声だったが、すぐに怒りの声へと変わり、学生たちの間に、野火のように広がっていった。

その怒りの渦の中心で、梶原冬馬は、図書館の書架の陰で、一人、唇を噛み締めていた。 彼の机の上には、上野亮介が推薦したドイツ哲学の書物が開かれている。国家のために、個人の感傷を克服せよ、と説く、あの冷徹な論理。冬馬は、その「正しさ」を受け入れようと、必死に自分に言い聞かせていた。

しかし、彼の耳に届くのは、八雲の解雇を嘆き、怒る、学友たちの声だった。 脳裏に、八雲の、あの魂の講義が蘇る。他者の痛みを、我がことのように感じられる心こそが、真の教養だと、彼は言った。

その教えを受けた自分が、今、どうだ。 師が、組織の非情な論理によって追放されようとしている時に、自分は、保身のために、その非情な論理を学ぼうとしている。上野の言う「強さ」とは、この卑劣さのことだったのか。

冬馬の内で、何かが、ぷつりと音を立てて切れた。 彼は、読んでいた書物を乱暴に閉じると、図書館を飛び出した。 何をすべきか、分からない。しかし、このまま、何もせずに、魂が殺されるのを黙って見ていることだけは、できなかった。

その夜。 学生寮の一室は、若い熱気でむせ返っていた。 「どうすればいいんだ」「大学に乗り込むか」「無駄だ、どうせ聞き入れやしない」 怒りと無力感が、酒の匂いと混じり合っている。

その混沌とした空気の中心に、冬馬が立った。その顔から、昼間の迷いは消え、決意の光が宿っていた。 「……書こう。我々の言葉で、我々の意志を」

彼は、仲間から借り受けた大きな和紙を床に広げ、墨を磨った。 研ぎ澄まされた静寂が、部屋を支配する。 冬馬は、震える手で、筆を握った。そして、一度、深く息を吸い込むと、魂を叩きつけるように、最初の文字を書きつけた。

『八雲先生留任嘆願決議文』

一文字、また一文字と、怒りと、悲しみと、そして師への敬愛が、黒々とした墨となって、紙に刻まれていく。

その深夜。 冬馬と数人の仲間は、完成したばかりの決議文を手に、闇に沈む本郷のキャンパスに忍び込んだ。目指すは、法文科大学校舎の中央掲示板。 冬馬は、槌を握りしめると、決議文の四隅を、掲示板に、力強く釘で打ち付けた。

カーン。カーン。 冷たい夜気の中に、槌音だけが響き渡る。 それは、非情な裁定に対する、若者たちの、ささやかで、しかし断固とした、反撃の狼煙だった。

第七話:嵐の中の連帯

翌朝、本郷のキャンパスは、異様な熱気に包まれていた。 中央掲示板に張り出された、墨痕鮮やかな決議文。その前に、黒山の人だかりができていた。学生たちは、その一字一句を、あるいは畏怖し、あるいは興奮した面持ちで読み上げている。

「八雲先生の講義は、帝国大学の誇りである!」 「我々は、魂を軽んじる官僚的決定に、断固として抗議する!」

その輪の中心に、梶原冬馬はいた。もはや、書斎に籠る、内気な書生ではない。仲間たちの信頼を一身に受けた、若きリーダーの顔つきに変わっていた。 運動は、燎原の火のように広がった。学生たちは一部の講義をボイコットし、中庭で集会を開き、大学当局に嘆願書の受理を求めて連日詰めかけた。

その動きを、リベラルな論調で知られる新聞『萬朝報(よろずちょうほう)』が嗅ぎつけた。若い記者が、目を輝かせながら冬馬に取材する。 数日後、『帝大に自由の鐘は鳴るか?』という扇情的な見出しと共に、八雲の解任問題は、ついに学内から社会へと解き放たれた。

その記事が載った新聞を、西大-久保の自宅で、八雲は静かに読んでいた。 妻のセツが、心配そうにその顔を覗き込む。 「……あの子たちが」 八雲の声は、誇らしさと、そして深い痛みで震えていた。 「実に、良い生徒たちだ。あまりにも、良すぎる。……私のような、過去の亡霊のために、彼らは、自らの未来を投げ打とうとしている……」 彼は、自分が巻き起こした嵐の中心で、無力感に苛まれていた。

大学当局は、沈黙という名の壁で応じた。学生たちの嘆願書は受け取られず、面会の要求も無視された。嵐が、過ぎ去るのを待っているのだ。

そんな膠着状態の中、冬馬の元に、一通の書状が届く。 差出人は、上野亮介。 「研究室にて、君を待つ」と、ただ一言、記されていた。

上野の研究室は、彼の思考そのもののように、整然としていた。壁一面に、ドイツ語の哲学書が、一分の隙もなく並んでいる。 「座りたまえ、梶原君」 上野の口調は、意外なほど穏やかだった。 「君の行動力、そして仲間を率いる情熱。見事なものだ。私は、敵ながら感心している」 「……何が、ご目的ですか」 冬馬は、警戒を解かなかった。

「現実を教えに来たのだよ」 上野は、紅茶を一口すすると、言った。 「君たちのやっていることは、美しい。だが、無意味だ。八雲先生の件は、すでに文部省のレベルで決定された国策だ。君たちが束になってかかったところで、覆ることはない。傷つくのは、君たちの将来だけだ」

上野は、立ち上がると、冬馬の肩に、そっと手を置いた。 「君のその情-熱は、こんな無駄な騒乱で費やすべきではない。もっと大きな、国家という舞台でこそ、輝くべきものだ。……この運動を、君の手で収めなさい。そうすれば、私が内務省のしかるべき部署に、君を推薦しよう。君の未来は、保証される」

それは、悪魔の囁きだった。 しかし、その囁きは、冬馬がかつて心のどこかで望んでいた、輝かしい未来そのものでもあった。 冬馬の心が、激しく揺れる。八雲への忠誠か、自らの野心か。

上野は、その葛藤を見透かしたように、最後の問いを、静かに、しかし残酷に投げかけた。

「君は、感傷的な過去の幻影を守るために死ぬか。それとも、非情な未来を支配するために、私と共に生きるか。選びなさい、梶原君」

研究室の窓から差し込む西日が、選択を迫られた冬馬の顔を、まるで舞台の役者のように、赤く照らし出していた。

第八話:偽りの凱旋

上野亮介の研究室に、重い沈黙が落ちていた。 未来への切符と、魂の忠誠。その二つを天秤にかけられ、梶原冬馬は、唇を噛み締めていた。 やがて、彼は顔を上げ、目の前の男を、まっすぐに見据えた。

「上野先生。そのお申し出、身に余る光栄です」 冬馬は、深く、頭を下げた。 「ですが、私に未来を支配する資格があるのだとすれば、それは、守るべき幻影を守り抜いた後でなければなりません。たとえ、それが無意味なことであったとしても」

彼は、それだけ言うと、踵を返した。扉を開け、迷いなく廊下へと歩き去っていく。 残された上野は、冬馬の消えた扉をしばらく見つめていたが、やがて、ふっと、誰にも聞こえないような声で呟いた。 「……愚かな。だが、美しい」

その数日後。 帝都の中心、番町に位置する、ある元老の私邸。 その茶室で、帝国大学の総長は、針の筵に座らされていた。目の前には、この国を陰で動かしている老人が、静かに茶を点てている。

「……大学が、騒がしいそうじゃな」 元老は、世間話のように言った。 「ラフカディオ・ハーンとかいう、異人の先生のことで。……わしも、彼の『知られぬ日本の面影』は、楽しく読ませてもらった。あれほど、我らの心の機微を解する異邦人も、おるまい」

総長は、冷や汗を拭う。 「は、はあ。学内には、様々な意見がございまして……」

「そうか」と元老は、茶碗を差し出しながら、言った。 「ただ、思うだけじゃ。一人の学者の処遇ごときで、帝国の未来を担う若者たちの心を、いたずらに掻き乱すのは、あまり感心んな。……それほどまでに、この国は、度量を失くしてしまったのかのう」

その言葉に、それ以上の詰問はなかった。 しかし、総長には、それが絶対的な命令として聞こえた。彼は、茶の味も分からぬまま、その場を辞した。

その二日後。 大学の掲示板に、一枚の公示が張り出された。

『小泉八雲教授との契約について、大学は再交渉を行い、この度、改めて次年度の教壇に立つことを要請し、受諾されました』

その紙を見た学生たちから、地鳴りのような歓声が上がった。 「勝ったぞ!」 「俺たちの声が、届いたんだ!」 誰からともなく、冬馬が担ぎ上げられる。彼は、仲間たちの手で宙に舞いながら、青い空を見上げた。自分たちは、巨大な組織を、そして時代を、動かしたのだ。その純粋な達成感が、彼の胸を満たしていた。

その日の夕方。 西大久保の八雲の家に、大学からの使者が、正式な契約書を持って訪れた。 セツが、喜びを隠しきれない様子で、その書状を八雲に手渡す。

「あなた様! やりましたね……! あの子たちが……!」 八雲は、その書状を受け取り、静かに目を通した。そこには、以前よりも遥かに良い条件が、丁寧な言葉で記されていた。 学生たちの勝利だ。梶原君の、勝利だ。

しかし。 八雲の顔に、喜びの色は、なかった。 学生たちの勝利を誇る気持ちも、大学を見返したという達成感も、すべてが、すうっと、潮が引くように消えていく。 そして、その後に残ったのは、これまで感じたことのないほど、深く、そして重い、絶望にも似た虚しさだった。

彼は、書状から顔を上げ、窓の外の、騒がしい帝都の空を見つめた。

「あなた様……?」 セツが、不安そうに夫の顔を覗き込む。 「どうなさいました。これは、朗報では……?」

八雲は、答えなかった。 ただ、その隻眼に、これまでセツが見たこともないほど、深く、静かな悲しみの色が、水底の石のように、じっと沈んでいた。

第九話:いざさらば

大学からの再契約の書状が届いてから、数日が過ぎた。 学生たちは勝利に沸き、新聞は「学生の声、大学を動かす」と書き立てている。しかし、八雲は、その書状に返事を書けぬまま、書斎で沈思の日々を送っていた。

その夜、セツが彼の背中に、そっと羽織をかけた。 「あなた様。まだ、迷っておいででございますか」 「……迷っている、のではないのかもしれん」と八雲は、遠くを見つめながら言った。「ただ、言葉を探しているのだ。この、心の空虚さを、的確に表す言葉を」

彼は、妻に向き直った。 「セツ。もし、君を一度『不要だ』と追い出した男が、周りの人間に責められたからといって、『やはり君が必要だ』と連れ戻しに来たら、君はその男を、信じることができるかね」 「……いいえ」セツは、静かに首を横に振った。「その方の心は、変わっておりませぬから。変わったのは、周りの風向きだけでございます」

「そう、その通りだ」八雲は、深く頷いた。「大学は、私の文学を理解したわけではない。ただ、世論という風を恐れただけだ。私が戻れば、彼らは何事もなかったかのように、また同じ仮面を被るだろう。その偽りの舞台で、私は、一体何を教えればいいのだ……」 彼の決意は、もう固まっていた。卒業式は、その決意を、彼自身の魂に刻みつけるための、儀式となるはずだった。

数日後、帝国大学の卒業式。 来賓として招かれた八雲は、壇上から、梶原冬馬たちの晴れやかな顔を見守っていた。やがて、卒業生全員が起立し、別れの歌が講堂に響き渡る。 歌は、「仰げば尊し」。

仰げば尊し 我が師の恩 ……今こそ別れめ いざさらば

学生たちは、自分たちを勝利に導き、そして再び教壇に立ってくれると信じる八雲に向かって、万感の想いを込めて歌っていた。その、あまりに純粋で、美しい歌声を聴きながら、八雲の心は、感謝と、そしてどうしようもない悲しみに引き裂かれていた。 この歌は、師への「恩」を歌う、美しい「忠誠」の歌だ。しかし、その「忠誠」のシステムこそが、自分を「異物」として排除しようとしたものではなかったか。学生たちは、心からの敬愛を、自分を殺したシステムが用意した、最も美しい言葉で、自分に捧げている。

いざさらば さらば さらば

その言葉が講堂に響き渡った瞬間、八雲の心は、完全に決まった。 そうだ、別れよう。今こそ、別れるのだ。 君たちが、私に別れを告げているように。私もまた、君たちと、そして君たちを育んだ、この美しくも残酷なシステムに、別れを告げねばならない。

式の後、冬馬が興奮した面持ちで、八雲の元へ駆け寄ってきた。 八雲は、その純粋な報告を、微笑みながら書斎に招き入れた。そして、心の底からの感謝を告げた。 「梶原君。君たちの勇気と友情は、私の生涯の宝物だ」

しかし、彼は、静かに筆をとり、一枚の便箋に向かった。 「もし私が今、この申し出を受け入れて大学に戻れば、それは、魂を軽んじる組織が、圧力の前で仮面を被ることを、私が許したことになる。君たちの純粋な勝利を、大人の政治的な取引で、私自身が汚すことになるのだ」 冬馬は、言葉を失った。

八雲は、書き終えた「辞退届」を封筒に入れ、冬馬に差し出した。 そして、書棚から、自著の一冊を抜き取ると、扉ページに何かを書き込み、冬馬に手渡した。 「誰も勝たなかった。私も、そして君たちも。我々は皆、何か大切なものを、この国から失ってしまったのだ」 八雲は、冬馬の肩に、そっと手を置いた。 「……だからこそ、君は、君の戦場で戦いなさい。私のようにならずに、もっと賢く、もっと強く」

冬馬は、二通の手紙を胸に、八雲の家を辞した。 彼は、ようやく、この戦いの本当の意味を理解した。そして、自らがこれから歩むべき、長く、険しい道の始まりを、予感していた。

第十話:魂の記録者たち

明治三十七年、初夏。 西大-久保の家の縁側を、若葉を揺らす風が通り抜けていく。書斎の主である小泉八雲は、机に向かい、ただ、じっと耳を澄ませていた。 その視線の先には、妻のセツが、いつものように静かに座っている。彼女は、夫のために、記憶の蔵から、また一つ、古い物語を丁寧に紡ぎ出していた。

「……その芳一という琵琶法師は、耳だけを残して、体中にお経を書きつけました。しかし、怨霊たちは、その耳を見つけて、ちぎってしまったそうでございます……」

セツの声が、生きた言霊となって、書斎の空気を満たす。 八雲は、その言霊を一言一句聞き漏らすまいと、全身を耳にして、聴き入っていた。 傍らの机には、数日前にアメリカの出版社から届いたばかりの、一冊の本が置かれている。深い緑色の表紙に、金色の文字で『KWAIDAN』と記されていた。 大学という制度は彼を拒絶したが、彼の言葉は、すでに海を越え、世界へと旅立っていた。

やがて、セツが物語を語り終える。心地よい沈黙。 八雲は、ゆっくりとペンを取った。 もう、彼の心に迷いはない。戦う必要など、なかったのだ。 ただ、自分だけが見える世界の解像度を信じ、自分にしか聞こえない、かそけき魂の声を、この手で、書き留める。 それこそが、異邦人として生まれた彼に許された、唯一の戦い方であり、至上の喜びだった。 ペンが、紙の上を滑り始める。彼は、魂の記録者として、ただ、物語を紡いでいた。

十年以上の歳月が流れた――。

内務省の長い廊下を、梶原冬馬は早足に歩いていた。四十歳を越えた彼の顔には、若き日の純粋な面影はなく、エリート官僚としての自信と、深い疲労が刻まれている。 執務室の扉を開けるなり、彼は、決裁を待つ部下に、短く言い放った。 「――その陳情は、前例がない。却下だ」 部下は、何か言いたげな顔をしたが、梶原の有無を言わせぬ空気に、黙って頭を下げ、部屋を出ていった。

一人きりになった執務室で、梶原は、太い溜息をついた。 窓の外には、大正の帝都の、活気と喧騒が広がっている。 彼は、ゆっくりと鍵のかかった書棚に近づくと、その奥から、一冊の古い本を取り出した。 八雲から贈られた、サイン入りの本だった。 彼は、その頁を開くでもなく、ただ、ざらりとした表紙の感触を、指先で確かめる。 脳裏に蘇るのは、あの日の師の言葉。 『君は、君の戦場で、心を殺さずに戦いなさい』

――先生。今日の私は、心を殺してはいませんでしたか。 あの陳情には、前例はなくとも、救うべき民の、小さな声があったのではないか。

答えの出ない問いを胸に、彼は、静かに本を書棚の奥へと戻した。 窓の外の喧騒が、まるで自分を責めているかのように、やけに大きく聞こえた。

さらに時は流れ、昭和の軍靴の音が、帝都に響き始めた頃――。

夜更け。 国家主義の重鎮として、今や誰もがその名を畏れる存在となった上野亮介は、一人、書斎で読書に耽っていた。 彼が手にしているのは、ドイツ語の哲学書ではない。それは、世界的な文学として、今や日本の誰もが知る存在となった、八雲の『怪談』の豪華本だった。

彼は、その中の一節――約束を破った男が、愛する妻の亡霊に永遠に苛まれる物語――を、読んでいた。 そして、ふと、その完璧なまでに合理的な表情を、一瞬だけ、崩した。 その目に浮かんだのが、自らが築き上げた「戦う国」への誇りだったのか、それとも、手に入れられなかった「夢見る国」への悔恨だったのか。

それを、知る者は誰もいない。 ただ、書斎の窓を叩く雨音だけが、八雲が書き留めた、数多の魂の声のように、静かに響いていた。

(了)

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